幕末史の逆説:長州攘夷戦争と薩英戦争

2010年01月31日 | 歴史を尋ねる

 孝明天皇をバックに尊攘派公卿たちが言質を迫った攘夷実行日を将軍後見職慶喜が苦し紛れに5月10日といったその日、本当に始めてしまった藩があった。長州藩である。文久三年(1853)5月10日の深更、関門海峡を通過中のアメリカの蒸気商船ペンブロークに陸地の砲台で一発の号砲が鳴ったのを合図に、二隻の長州艦から砲撃が始まった。ペンブロークはびっくり仰天、商船のことだから応戦が出来ない。大あわてで海峡を離脱、夜陰にまみれてどうにか逃れた。続いて5月23日、今度はフランス報知艦キャンシャンが砲撃を受けた。キャンシャンは事の顛末を長崎寄港中のオランダ軍艦メデュサの艦長に伝え、警告した。しかし搭乗していた総領事は日本との友好関係にあることで動じなかった。ところが長州藩はゆうゆうと関門海峡に入ってくるオランダ艦にも砲撃、31発中の17発が命中。死者4名、重傷者5人を出してほうほうの体で海峡脱出。勝った勝ったと大はしゃぎする藩士に向かって、砲術家中島が外国の軍事力はこんなものでないとたしなめたのが災いし、その夜殺害された。攘夷決行は天意に適ったと孝明天皇からお褒めの言葉が下される。

 諸外国は黙っていない。長州藩に勅褒が下されたその日、アメリカ艦ワイオミングが報復のためたった一隻で関門海峡に突入、55発を撃ち尽くしてさっと引揚げ。長州海軍が大切にしていた軍艦2隻が撃沈、損失も多大だった。更にフランス艦隊2隻が下関を襲撃、猛烈な艦砲射撃で砲台は吹っ飛び、守備隊は戦意を喪失して後退。フランス隊は上陸して弾薬は海中に投じ、砲台は先頭不能。長州藩は主従一同色を失った。伝統的な戦法が何の役にも立たないという現実に直面した。長州藩は目を覚ました。藩を飛び出していた高杉晋作が亡命の罪を免ぜられ下関に呼び戻された。高杉晋作が即座に提案したのは「奇兵隊」だった。実際に攘夷戦争をやってみて初めて、攘夷の困難さが分かった。ただ大言壮語しているだけで勝てる相手ではない。軍備の全体を見直さなければならない。

  生麦事件は起こるべくして起こった『文明の衝突』だったと、野口武彦氏は「天誅と新撰組」の著書で言っている。文久二年(1862)徳川慶喜将軍後見職・松平春嶽政事総裁職を実現させたばかりの島津久光の行列が江戸から京に向っているとき、女性を交えた乗馬4人組が通り合わせ馬がもたついた瞬間、刀で切りつけられた。一名殺傷、生き残った三人も無傷は女性だけだった。これに対し英国は幕府に償金支払いを要求して横浜港に十二隻の軍艦で威嚇した。幕府は開戦の口実にするのではないかと危惧し、銀で44万ドルを払った。続いて英国軍艦は進路を薩摩に向けた。

 幕府と対照的に、加害者の薩摩藩は頑として犯人の引渡し、償金支払いも応じなかった。頑迷な薩摩藩に報復するため、旗艦戦艦ユーリアラスを先頭に、海岸と平行に進んで、右舷斉射で薩摩藩の砲台に砲撃を浴びせかける。古典的な軍艦対砲台の戦闘であった。祇園洲台場はたちまち使用不能になった。しかし当日は台風並みの波浪でユーリアラスの反転時に台場からの撃ちごろなって、ブリッジを直撃、艦長と副長を即死させる。イギリス艦隊は沖合いに引き上げ、破損修理のため再攻撃は見合わせられた。薩摩側の戦死者は5名、戦傷者は19名。イギリス側は戦死者19名、戦傷者50名。横浜に帰港したイギリス艦隊はすっかり意気消沈していた。ところが薩摩藩の内部にも違った空気が生まれていた。軍議の席で、イギリス海軍の実力を評価する意見が率直に述べられた。今の薩摩藩の実力では、イギリス艦を撃沈できないと痛感したのだった。黙って議論を聞いていた島津久光の口からイギリスとの和議を結ぶことが問われ、評議は一決した。ただし、講和の条件として軍艦購入斡旋を依頼し、賠償金は幕府から拝借を申し出て、ゆすり同然むしりとった。結果的に、要求に応じなかった依怙地さが、いちばん開明的な方向へと転換をうながすのだから歴史は分からない。


坂本竜馬事典

2010年01月30日 | 歴史を尋ねる

 岩倉具視が岩倉村に隠棲している時坂本竜馬が訪ねてきたと岩倉本にはよく書いてあるが、坂本竜馬事典には岩倉はほとんど触れられていない。しかし大政奉還等一定の役割を果たした竜馬を追っかけてみたい。加来耕三氏の「坂本竜馬事典」では、創られた竜馬伝説として明治以降の時代的背景からいろいろな竜馬像がつくられて来た、大正末期から昭和初めにかけて維新ブームが起こり、「船中八策」がクローズアップされ、更に平和革命論者に定義づけられたこともあったという。竜馬が北辰一刀流の達人にしたのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」であったが、修行したという具体的資料は一切発見されていないそうだ。江戸出府は2回であるがそれぞれ武役ではないか、ペリーの来航とハリスの江戸出府時であり、その間隙に初回は佐久間象山から西洋流砲術を学んだ可能性を云っている。個人の事情についてはこの時代でも記録が少ないようだ。

 坂本竜馬は武市半平太が組織した尊攘激派に属する土佐勤王党に加盟したが、吉田東洋暗殺事件直前に脱藩し、文久二年(1862)28歳のときに軍事奉行並勝海舟の門下生となった。そこで海軍操術を学び、当時の京都政局の激変する渦中から離れたこと、勝海舟・松平慶永・横井小楠・大久保忠寛(一翁)らと人間関係が作れたことは他の草莽志士と大いに違うところだった。幕府は安政二年(1855)海岸防備強化のため、オランダ士官を招いて長崎海軍伝習所を作り幕臣の他に八つの藩の藩士を伝習生とした。海軍の振興は軍艦の外国からの購入、操縦する高度な学術と技能の育成、要する膨大な費用が必要で、幕府と諸藩との協力なしでは出来ぬことであった。これを政治全般と結びつけて理論化したのが横井小楠であった。国は幕府・藩の割拠意識を脱して「日本国中共和一致」の体制を樹立すべきと説き、鎖国観念を批判し、開国貿易策を唱えた。越前藩主松平慶永の政治顧問となって、幕政にも反映させる機会を得た。小楠の思想は海舟に大きな影響を与え、諸藩を含めた「一大共有の海局」建設の構想となり、神戸海軍操練所の設置につながり、竜馬や脱藩藩士はゆうゆう志を養うことが出来た。海舟・小楠、そして将軍の側近であった開国論者の大久保忠寛らが目指したのは、幕府・諸藩を合体し、攘夷論者・開国論者をも包含して、国を纏める政治体制の樹立であり、それを実現するため、諸侯を議員とする公議会設置の忠寛のプランが用意された。竜馬はこれらの思想に共鳴した。

 小楠・海舟・忠寛の政治意見は少数意見であったが、8月18日の政変(宮廷から尊攘派公卿と長州藩勢力の一掃)後、将軍後見役一橋慶喜、京都守護職松平容保、越前松平慶永、土佐山田豊信、宇和島伊達宗城、薩摩島津久光が参与に任命され、朝議に加わったことは、朝廷・幕府・大藩の合体政権という構想が実現するかと思われた。しかし参与会議の難問は、相変わらず攘夷の朝旨であり、更に横浜鎖港問題処理で、この時点で政治の争点が、攘夷か開国かの対立から政治体制の改革の問題へと変わり始めたことであった。この動きをいち早くつかんだのは勝らのグループであり、他方攘夷派も攘夷のための富国強兵という考えが生まれつつあった。攘夷派・開国派を包み込んだ新体制構想は、現実性を欠くものではなかった。しかしこの政治意見に替わって倒幕派の意見が力を得てくるのは、文久三年(1863)6月の薩摩藩とイギリスの戦争、翌年8月の四国連合艦隊の長州攻撃事件を経験した後であり、やがて竜馬によって薩長連合へと生かされていった。

 参与の会議は対外策の意見の対立を調整することが出来ず、相次いで辞職、元治元年(1864)3月解体し、諸侯は帰藩してしまった。他方、忠寛は免職、小楠は熊本藩に召還、海舟も軍艦奉行を罷免された。海舟が失脚されると、竜馬ら浪士は薩摩藩に預けられた。薩摩藩は海軍力充実のため竜馬を利用したし、竜馬は薩摩藩から活動の保護と資金を引き出した。彼は脱藩の士の身軽さを生かして、同士中岡慎太郎と共に、第二次征長の戦に備えて薩長連合密約を成立させた(1866)。その翌年竜馬は後藤象二郎の尽力で脱藩の罪を許され、藩のもと海援隊長となり、中岡も陸援隊長となった。さきに薩長密約締結に尽力した竜馬は今度は後藤象二郎と組んで、武力行使を回避し上下議事所の設置によって大政奉還を実現する計画を進め、薩土盟約を結んだ。更に竜馬は長土盟約を締結させようと働きかけたが、長州藩の使者は山内容堂に謁見したまでで成果は得られなかった。慶応三年(1867)11月「船中八策」の改定増補版ともいえる「新政府綱領八策」を起草している。そのには□□□と伏字で盟主となる人を想定している箇所がある。この構想が誤解を与え、竜馬を死に追いやった原拠となったと加来耕三氏は見ているのだが。その月の15日、京都近江屋で刺客に襲われた。33歳であった。


玉松操と錦の御旗

2010年01月17日 | 歴史を尋ねる

 『詔す。源慶喜、累世の威を籍(か)り、闔(こう)族の強を恃(たの)み、みだりに忠良を害賊し、しばしば王命を棄絶し、ついに先帝の詔を矯めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おとしい)れて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆すべからん。朕、今、民の父母たり。この賊にして討たずんば、何をもってか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう)に報いんや。・・・汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、以って速やかに回天の偉勲を奏し、しこうして生霊を山嶽の安きに措くべし。此れ朕の願、敢えてあるいは懈(おこた)ることなかれ。』 慶応三年(1867)10月13日島津久光・忠義父子に下った倒幕の密勅のほぼ全文である。そしてこの激文は岩倉具視の謀臣玉松操の草案だといわれている。司馬遼太郎は彼を扱った「加茂の水」という短編を残している。

 慶応三年(1867)3月具視はやっと追放を解除された。ただし具視の場合、依然岩倉村に住み、月一回京への帰宅と一宿しか許されなかった。それも参内が許されたわけではなかった。それでも具視の周辺は俄かに忙しくなった。土佐の中岡慎太郎、坂本竜馬などが変名で来訪。岩倉は外様実力派大名の動きの変化に敏感に読み取ったのではないかと永井路子氏は推察する。岩倉は、「王政復古」著井上勲氏の説によると、桜田門外の変以前は、内憂外患の克服を幕府に期待し、公武合体論者として和宮降嫁にも積極的に動いた。しかし桜田門外の変で、幕府への期待を断った、朝廷みずから此れに当らなくてはならない、しかし「朝廷は寸兵を有せず、ただ、口舌を以って争うのみ。」 そのためには、幕府・諸侯を操作して、軍事発動を起こし、王政復古を図る必要があるとし、これを岩倉は調和駕馭の術を称した。中岡と坂本の仲介によって、岩倉の交わりは、西郷隆盛、大久保利通、広沢真臣、黒田清隆、品川弥二郎へと広がった。一方岩倉は、慶応三年正月、江州出身の志士三上兵部に「思う事は沢山あるが、足を奪われているから、人に会えない。密書を出すしかないが、不学で筆が進まず、意を尽せない。文才にある人がいればいいが」と云うと、三上は玉松操を連れ出した。玉松は才学と門地の良さはあるものの、好んで隠棲生活をしている。諸葛孔明のように遇されて岩倉との共同生活が始まった。以降、岩倉は京の公卿有志や薩摩藩邸に玉松が起草し岩倉が筆写する手紙をしきりに送った。

 秋に入って岩倉は、天下転覆の陰謀の相談を玉松にする、倒幕の密勅の文案の作成を依頼、玉松は薩長軍に錦旗の作成を提案、しかし岩倉は錦旗を見たことがない、それも作ればよいと玉松が云う、岩倉は玉松の謀案を取って連絡係の品川弥二郎に作成を依頼、下って長州萩城下の有職(ゆうそく)家を訪ね、錦旗2旒(りゅう)、紅白の軍旗20旒を作り上げた。一方、倒幕の密勅草案は中山忠能(明治天皇の義父)に届け、幼帝に叡覧(えいらん)の供された宣旨を今度は正親町実愛の屋敷に届けられ、10月14日薩摩代表大久保一蔵に下げ渡された。ところがこの日、将軍慶喜は二条城において大政返上の言明をしたため、中山忠能は暫く見合すべきとの沙汰書を下げ渡した。11月8日岩倉は正式に蟄居謹慎を解かれ、京に戻ることが許された。しかし玉松操は富貴の門は我が住まいに適さぬといって言い残して去った。

 王政復古宣言、慶喜処分案の天皇裁可を経て、明けて正月三日幕府勢は抗議・陳情という名目で京に上りはじめて、戦端が開かた。前哨戦の勝利が報ずる第一報が4日になってもたらされ、岩倉はすかさず会議の席上、「錦旗を薩長の軍に立てよ。」と怒号し、反対を押し切って嘉彰親王を征夷大将軍にすることに決定、参内した親王に天子みずから錦旗を授けた。