徳川幕府は、慶長8年(1603)家康が将軍になって以来、慶応3年(1867)慶喜が職を辞するまで265年の間、直轄領400万石と貨幣鋳造権とをもって中央財政を賄い、諸侯に対する課税をしなかった。従って幕府の財政窮迫を救済する方法も限られ、年々の不足を貨幣の品位量目を低下する改鋳によって生ずる出目(でめ)をもってかすかに補う窮状に陥った。幕府の財政記録は、瓦解の際小栗上野介が幕府の名誉のためか、三日三晩に亙り勘定所の記録を焼却し去ったため、断片的なもの以外残っていない。東京府(維新後)が幕府から引継ぎ保存されるものは町奉行所の記録だけである。享保以来幕府はしばしば財政改革を行って収支の均衡に勤めたが、寛政5年ロシアが蝦夷を窺ってから国防が急を告げると、財政がいよいよ窮迫し、文化天保の頃に至っては、定式収入が定式支出を賄いきれず、御用金と称する強制公債等の臨時収入によってこれを補った。この幕府財政の破綻は、その末期に至っていよいよ激しく、薩長の力を待たないで、財政崩壊に進んで行った。
幕府陸軍総裁勝海舟の「解難録」によると、慶応2年には兵備に用いる金350万両を除いては、すでに富士見台の金庫も空で、かすかに幕府に好意あるフランスより借款によって危急を凌ごうとしたが、これも成功しなかった。さらに慶応4年1月の勝の「開城前記」には、幕府側も官軍側も財政的窮状を指摘し、その間の窮余の道を探している。さらにその2月の海舟日記では、幕府の資金不足で兵卒を養うことも難しきなった状況を記し、すでに財政的にすでに瓦解に瀕していたことが、昭和28年東京都が発行した都史紀要1で指摘されている。今の世で財政が逼迫すれば増税という選択肢が議論されるが、当時の文献に増税を検討する話は聞かない。