幕府の財政的窮迫

2010年09月28日 | 歴史を尋ねる

 徳川幕府は、慶長8年(1603)家康が将軍になって以来、慶応3年(1867)慶喜が職を辞するまで265年の間、直轄領400万石と貨幣鋳造権とをもって中央財政を賄い、諸侯に対する課税をしなかった。従って幕府の財政窮迫を救済する方法も限られ、年々の不足を貨幣の品位量目を低下する改鋳によって生ずる出目(でめ)をもってかすかに補う窮状に陥った。幕府の財政記録は、瓦解の際小栗上野介が幕府の名誉のためか、三日三晩に亙り勘定所の記録を焼却し去ったため、断片的なもの以外残っていない。東京府(維新後)が幕府から引継ぎ保存されるものは町奉行所の記録だけである。享保以来幕府はしばしば財政改革を行って収支の均衡に勤めたが、寛政5年ロシアが蝦夷を窺ってから国防が急を告げると、財政がいよいよ窮迫し、文化天保の頃に至っては、定式収入が定式支出を賄いきれず、御用金と称する強制公債等の臨時収入によってこれを補った。この幕府財政の破綻は、その末期に至っていよいよ激しく、薩長の力を待たないで、財政崩壊に進んで行った。

 幕府陸軍総裁勝海舟の「解難録」によると、慶応2年には兵備に用いる金350万両を除いては、すでに富士見台の金庫も空で、かすかに幕府に好意あるフランスより借款によって危急を凌ごうとしたが、これも成功しなかった。さらに慶応4年1月の勝の「開城前記」には、幕府側も官軍側も財政的窮状を指摘し、その間の窮余の道を探している。さらにその2月の海舟日記では、幕府の資金不足で兵卒を養うことも難しきなった状況を記し、すでに財政的にすでに瓦解に瀕していたことが、昭和28年東京都が発行した都史紀要1で指摘されている。今の世で財政が逼迫すれば増税という選択肢が議論されるが、当時の文献に増税を検討する話は聞かない。


武士と町人の逆転

2010年09月23日 | 歴史を尋ねる

 江戸時代の経済システムの特徴は、米本位経済と貨幣経済が同時に成り立っていた。これは江戸初期から幕末まで基本的には変わらなかったが、時代が進むにつれて、米本位経済から貨幣経済に比重が移っていった。表向きは武家が支配階層であったが、商業の成長の前に、武士と町人の力関係が逆転していたと、鈴木浩三氏は説く。武家階級の主な収入は、幕府、諸大名を問わず領地からの年貢米、これを換金して得た貨幣で領国や江戸での生活、家臣の給料、領地経営などの経費をすべて支払わなければならなかった。多くの大名や旗本の現米収入は大阪や地方市場で換銀され、幕府も旗本の役職手当と御家人層の給与は、浅草御蔵で現米支給されたものを蔵前の札差の手で現金化した。

 幕府成立から寛文期頃までは領主が農民の生計維持部分を除く米を年貢として吸い上げ、幕藩経済体制が確立したが、寛文期以降になると耕地面積拡大は限界に達し、労働集約的な農業や商品作物の作付けで面積あたりの収益性の向上など、量から質への転換が始まり、農民に可処分所得が残るようになった。前後して、自給自足的な農村にも、商品作物の生産を通じた貨幣経済が浸透していった。一方、天下普請や参勤交代といった大名財政に余裕を与えない仕組みもこの時代出来上がった。

 時代が下るにつれて、日本の農業生産力も増加し、江戸・大阪を中心とする都市の経済活動はますます増大、その過程で商人はさらに強大化した。貨幣経済が武家の経済を支配する度合いが強まった。寛政改革や天保改革では、札差からの借金に苦しむ旗本の救済のために借金棒引きや金利引き下げを強行した。幕府は、札差にたびたび金利その他の規制を加えているが、札差業が成り立たなければ元も子もなくなるから、徹底的な規制を実施することもなく幕末まで推移している。


商都大阪

2010年09月04日 | 歴史を尋ねる

 水運網の発達と天下統一のプロセスは重なり合っていた。琵琶湖や淀川水運を基盤として安土に本拠を置いた信長、瀬戸内水運を支配下に収めて大阪に本拠を置いた秀吉、江戸を本拠にして全国水運ネットワークを作った徳川。天下の広がりは水運網の範囲と一致している。藩が多くの産物を売るには、船で運ばねばならない。河村瑞賢が全国航路を開くとすぐに諸藩がそれを利用して大阪へと産物を送った。大阪は立地条件だけだ無く、商都としての条件も整っていた。日本海ルートの船は松前から乾鰊(ほしにしん)を運んできたが、これと乾鰯(ほしか)は新しく興った綿作や藍作に不可欠のものであった。綿作の中心は河内から瀬戸内海沿岸であり、これら付加価値の高い商品は、大阪に集結し、富を集中させた。

 北前船は有名だが、この物資の大集散地大阪から人口100万の大消費地江戸への物資輸送にも船が必要で、それが菱垣(ひがき)廻船・樽廻船であった。当時江戸の灯油の2/3は四日市からきた。酒・醤油などの液体の輸送には樽が使われた。樽と米俵は東アジアでは日本だけらしい。大阪は幕府の直轄地、大名がここに屋敷を持つことは禁じられていた。そこで町人の家を借りて、藩から武士が出張して来て藩の物資を売ることとなる。これが蔵屋敷、やがてその販売の実権は蔵屋敷の主人である蔵元の手に移った。彼らは売り上げを管理し、同時に融資を行う掛屋も経営した。藩は次第に彼らから借金をするようになり、二年先、三年先の物産まで担保に入っていた。

 これらの物産の取引所が会所(かいしょ)で、米・塩・灯油・綿は毎日のように取引が行われ、1730年ごろから信用取引も先物取引も行われるようになった。この取引所の代表的なものが大阪堂島の米会所であった。蔵元の米は入札に付される。入札したものには米切手という倉荷証券が渡され、これを倉庫にもっていくと現物が渡される仕組みだったが、彼らの多くはそれを会所に持っていって売り、また米が必要な場合、相場が下がったときを見計らって会所で米切手を買った。では、なぜ相場が上下するのか。当時の書物には天然自然の道理といっているが、人々が自分の利益を考えて行動すると、市場原理が働いて、相場が決まると記されている。ここにはすでに資本主義的発想の芽があるといってもいい。江戸中期の商家の番頭だった山片蟠桃(やまがたばんとう)は孟子を援用して市場経済を正当化し、この仕組みを全国に広げるとともに、幕府は市場に介入すべきでないと主張した。