東京裁判 冒頭陳述 第二部満州及び満州国に関する事項

2022年06月06日 | 歴史を尋ねる

 「第二部門は1931年以来満州に於いて犯したと主張する犯罪を反証する。これは起訴状に於いては訴因第二及び付属書A、訴因第十八、二十七に関係する。・・・被告の反証せんとする証拠物は極めて多数である」として清瀬は陳述を始める。先ず、リットン報告書を引用し「本紛争に包含される諸問題は、往々称せられる如き簡単なものではない。問題は極度に複雑なり。一切の事実及びその史的背景に関する徹底した知識のある者のみ、事態に関する確定的意見を表示し得る資格がある」と軽々な判断をすべきでないと清瀬は主張する。
 特殊権益「満州国に於ける特殊事態を証するため、日本が当年満州に持っていた権益なるもの並びにその正当性もまた証明されるべきである。日本は何ゆえに満州に特殊の権益を取得したか。なにゆえに日本人は満州に出ていったか。日本は土地が狭く人口が多かった。海外移民が可能であった時にはそれで一部解決されたが、1908年頃、紳士協定で事実上アメリカへの移民を中止した。当時小村寿太郎外務大臣は、わが民族が濫りに遠隔の外国領地に散布することを避け、なるべく満州方面に集中し、結合一致の力によって経営を行うことを必要とするに至った、政府はこれらの諸点を考慮して、カナダ及び合衆国の移民に関しては渡航制限を実施する、と表明した」 1917年11月ランシング国務長官と石井全権との間に協定が出来た。その一部に「合衆国政府及び日本政府は領土の接近する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認する。従って合衆国政府は日本が支那に於いて特殊の利益を有することを承認する。日本国の所領に接近する地方に於いて特にしかり」という文字が載っている。この約束はその後取り消されたが、それまでの間に日本は満州で多くのことをなしていた、と。
 清瀬は日露戦争によるロシアから引き継いだ権益という説明は省略して、日本の人口問題から満州問題にアプローチしている。ならば、満州で生活している日本人の直面した問題をもう少し具体的に説明した方が良かったのではないか。著書に掲載される冒頭陳述の全文には特段見当たらない。或いは証拠書類で提示したのかもしれない。

 ではどういう状況であったか、清瀬を離れて、草柳大蔵著「実録満鉄調査部」で見てみたい。
 清朝は故郷の満州が韓民族の農耕で占領されるのを恐れ、漢民族の移住を禁止する「封禁の令」を布いた。その後、帝政ロシアがシベリア鉄道を敷設し始めた時、北満の人口は百万人足らずだった。1908年(明治41)日本が満鉄を経営し始めて、1929年(昭和4)に至るまで、人口は30倍の三千四百万人に達している。その内訳は、日本人と朝鮮人を併せて2%、満州蒙古人で15%、中国人は83%だった。この裏には、昭和2年までに一億六千万円の社会資本投資を行い、耕地面積を5百万ヘクタール(うち満鉄が3百50万ヘクタール)拡大したという実績がある。すなわち、かっては人煙稀な荒蕪地に、都市が生まれ、三千万人もの人が集まったのは、そこに家があり、土地があり、職業があったからではないかと、満州に住む日本人は考える。
 満鉄沿線の付属地は治外法権であり、商租権もあるのだが、抗日排貨の嵐は日に日に激しくなる。一旦、排貨の声が上がると、日本品の売れ行きはハタと止まり、やがて中国人の店先からも問屋の倉庫からも日本品は姿を消してしまう。日本の輸入商や小売商はネを上げ、店仕舞をする音がバタバタと聞こえはじめる。すると、いつの間にか、姿を消していた日本品が以前の三倍から五倍の値札をつけて現れる。この繰り返しで、排貨のたびに、日本品を扱う中国商人は肥え太り、日本人商店は閉店の張り紙を出すのである。
 この運動が激化し始めるのは1922年(大正11)の九か国条約以来である。それがハッキリしだすと、在満日本人の中間層は、政治を身近なものに感じ始めた。草柳はこの現象に注目したい、と。満州に於いて関東軍が独走し得たのは、在満日本人社会が始めから中間層社会の性質を帯び、彼等にとって不条理と思える日常経験が政治的社会を急成長させたのではないか。
 九か国条約第一条第一項に「行政的保全」という字が明記された。この政治用語は、1908年の日米協定の際、ルート米国務長官から協定文に入れるよう、強く要求された字句であった。小村外相は断固としてハネつけ、「アドミニストラチーフ・エンチチー(行政保全)の維持は満州における租借地はもちろん南満州鉄道付属地の行政権と抵触し、満州経営を根底から攪乱すべきのみならず、将来にむかって誤解を生ずる恐れがある。日本政府は到底同意することが出来ない」と高平全権に指示。ところが九か国条約でこの行政的保全をあっさり入れてしまった。しかもアメリカ側の全権は同じルートだった。従って、フランス全権の「支那とは何ぞや」と質問に答えてルートは「この条約の適用範囲は支那本部だ」と答え、わざわざ「満州」を除外した。これに対して中国全権が猛烈に反対、適用範囲を条文に書き込まないことでケリがついた。こうなると中国は、満州も領土の一部と考えるから、領土的及び行政的保全の尊重を日本に訴えてくる。具体的には、満鉄の回収、付属地の治外法権の否認、旅順・大連の租借地返還の声を挙げてくる。この時の日本全権は幣原喜重郎であった。ほとんど抵抗らしい抵抗を示さなかった。そして翌年「石井・ランシング協定」が廃棄となった。
 在満日本人の憤激や、思うべしである、と草柳。「全満日本人連合会」は幣原外交との絶縁を声明、自主的に満州問題を解決するとして「全満日本人自主同盟」と看板を塗り替えた。「満州事変は軍部の独走」とするのが現代史の定説になっているが、如何に軍部が独走しようとしても、軍部以外の社会が軍部の選択を心情的にせよ支持しなければ、独走の距離は短い筈である。日本人が一定の環境下では瞬間的に価値観を共有することは、「文明開化」から「日本株式会社」まで証明済みの事実であろう、と同時に、この心理の共有化作用は「満州事変は軍部の独走」から「高度成長は独占資本の志向」まで、その語り口は、常に単独犯をつくることによって、歴史の埋葬を続けてきたのである、と草柳は戦後の歴史観に切り込む。

 もう少し、草柳の論説に耳を傾けたい。 山本条太郎は満鉄に「経営」を残したが、副総裁の松岡洋右は「思想」を残した。松岡は、その後、満蒙問題については日本を代表するイデオローグに成長するが、彼の思想の要点はリットン卿との会談記録によく現れている、と。「満州を支那の領土と認めるとも、満州を支那本土と同一視すべきでない。満州における主権と本土に於ける主権とはその内容も同一でない。満州は清朝の下のクラウン・ランドもしくは王子の私領たるにすぎず。わずかに二十数年前、支那に併合されたといわれても、満州人はノーというかもしれない・・・」この論理を原点として、松岡は国の内外に向かって満蒙問題を説いていった。軍部でさえ松岡ドクトリンを全面的に採用した。 
 1927年(昭和2)7月、汪兆銘は武漢政府内の共産主義者を徹底的に弾圧、このため共産党員は武漢から脱出、ボロジンなどのソ連顧問団も中国から退去した。こうなると何応欽らの南京政府と汪兆銘らの武漢政府には対立点がなくなる。両政府の合体工作は急速に進んだが、武漢政府から蒋介石の下野という条件が出て、南京側もこれを呑んだ。機を見るに敏な蒋介石は張作霖の討伐真っ最中であったが、戦線を離脱、上海から長崎に上陸、田中・蒋会談を打診、田中は気軽に引き受けた。会談中に汪兆銘から「共産革命の兆しあり、至急帰国せよ」との秘密電報が届き、上海に上陸すると声明を発表、「われわれは、満州における日本の政治的、経済的利益の重要性を無視しない。われわれはまた日露戦争中の日本の国民精神のおどろくべき発揚をも知っている。孫先生もこれを認めていたし、また、満州における日本の特殊的地位に考慮を払うことを保証していた。われわれが革命に成功した暁には、その矛先はインドに向くであろう。われわれは朝鮮を使嗾して、日本に反対せしめようとは思っていない」と。しかし、蒋がこれほどの声明を出した背景には、田中・蒋密約があった。そのポイントは日本が北京に盤踞する張作霖を奉天に追い返してくれれば、国民党軍は張に追い打ちをかけることをしない」と。田中にしてみれば、張作霖と奉天軍三十万を無傷のまま奉天に迎え入れ、この軍事力を背景に張政権を樹立し、しかる後中国から分離して、日本の勢力下に置くという政治図式が現実化する。一方、蒋介石の方は麾下四十万の大軍を擁するとはいえ、装備も錬度も士気も粗悪で、張作霖の奉天軍三十万と戦っても必勝は期し難い。そこで、この際は先ず中国統一を図っておこうという計画が働く。この両者の読みが政治的同意をつくった、と草柳大蔵は推理する。
 蒋介石は宋美齢と結婚して上海経済界の支持を取り付け、汪兆銘とのヨリを戻して国民革命軍総司令の地位に就く。北伐の合意を取り付け、張作霖の奉天軍を各所で破り、山東省に到達。当時日本人は済南に二千人、青島と山東沿線に一万七千人が居住、邦人の生命と財産が損なわれないよう出兵要請、田中首相と軍部は出兵に消極的だったが、東方会議主催の森恪に説き伏せられ、渋々出兵。総司令の蒋介石は治安維持の責に任ずるから日本軍の撤退を要求、しかし賀耀租の軍隊が市内の掠奪と暴行を始め、日本軍と衝突。「蒋介石軍が済南で日本人の商店から掠奪し、日本人を婦人まで虐殺した」とニュースが流れる。このニュースはそのまま大連の「満州青年議会」に飛び込んだ。議会は青島・済南並びに山東鉄道の占領を提議され、収拾がつかなくなりその場で解散、青年たちはいくつもの政党を結成、満蒙独立の動きであった。国民政府側にも大きな転換があった。後年、革命外交といわれるほどの積極外交を敢行した王正廷の登場だった。王正廷登場の引き金は田中内閣の第三次山東出兵だった。予備・後備の兵隊まで招集し、第三師団一万五千人を青島に上陸させた。これが中国民衆の憤激を買い、空気は険悪となった。すると田中は軍艦まで派遣した。先ずアメリカの対日観が変わった。それまで田中内閣の山東出兵は居留民保護のために列国を代表して発動したものと、好意的に解釈していた。しかし第三次出兵を見て、これは過剰介入であり、日本の軍事行動には歯止めがかからないのではないかとの危惧を抱くようになった。この機会を捉えて、国民政府はアメリカ通の王正廷を外交部長に据えた。彼の外交政策の中心は中国の立場を国際社会に訴えることであった。アメリカのバックアップを得て、山東出兵を国際連盟に提訴した。国際連盟にアイヒマンがいた。彼は終始一貫した嫌日家で、中国からの提訴をなにくれとなく取り次ぐばかりか、何度も中国に渡り、経済・交通・教育の各分野にも連盟からの援助を誘導していた。満州事変勃発当時、外交部長の宋子文は重光公使に「両国で委員会をつくり直接交渉で問題を解決しよう」と提案した。これを知るとライヒマンは宋子文と膝詰め交渉し、連盟に提訴させたのだった。

 1927年(昭和2)日本では田中義一内閣が発足した同年、中国では蒋介石による北伐の一旦停止後に張作霖が北京に軍政府を組織し大元帥に就任した。そうした経緯を経て、田中・蒋介石会談並びに密約が交わされた。しかし蒋介石が再び北伐を開始すると、日本政府は居留民保護のため山東出兵、済南日本人虐殺事件(5月4日)が起こった。
 5月18日、関東軍司令官・村岡長太郎は極秘裏に動員令を発令、各地の兵を奉天に集結させた。その目的は山海関から満州に入るときの要衝、錦州に派兵する準備だった。そして日本政府は張作霖と国民政府の双方に、「戦乱が北京と天津地区に発展し、その禍が満州に及ぶ場合、帝国政府は治安維持のため、その措置をとることもある」とメモランダムを突きつけた。駐華公使芳沢謙吉はこの覚書を張作霖に手渡し、早く北京を引き揚げるよう説得、国民政府は直ぐに反発、中国内政に干渉し、国際公法上の領土主権の相互尊重に反する、この種の行為は絶対に承認できないと声明を出した。アメリカも黙っていなかった。国務長官ケロッグは満州の行政権は中国に属すると言明した。
こうした情勢を踏まえ田中首相は関東軍の錦州出勤を制止した。荒木大将は「こうなっては、あとはどうなっても知らんぞ」と叫び、関東軍参謀長・斉藤桓少将は日記に「私により政治を行う現首相の如きはむしろ更迭するを可とすべし」「腰のない外交はダメなり」と書いていた。そして6月4日午前5時、張作霖は皇姑屯で爆殺された。すべてを計画し実行したのは河本大作大佐であった。この時河本は張作霖を殺すだけでなく、関東軍に緊急集合を命じ、張作霖の護衛軍と一戦をまじえる計画を持っていたが、斉藤参謀長に阻止された。
 張学良は父の死を北京で知った。すぐに奉天に潜入して、父の筆跡をまねて、「張学良に余の代理を命じる 張作霖」の命令書をつくり、奉天軍を呼び戻した。蒋介石は7月3日北京に無血入城、満州を除く中国全土を統一した。張学良は直ちに「東三省から青年百人を南京の国民党に派遣し実習させたうえで、東三省党部の事務を開始させる、東三省の政府職員となった者の生命、財産はすべて保護してほしい」と蒋介石に申入れた。これに対し蒋介石は「心から国民党に服従し、中国が統一できるのであれば、ウリが熟しヘタが落ちるまで待った方が良い」と答えた。しかし張学良は7月24日易幟(えきし)を自ら発表した。側近は易幟派と日本協調派に分かれたが、日本政府の圧力が日増しに強まり、張側に反日感情が強まった、と中国側資料は語っている。

 張作霖の葬儀(8月4日)が終わった後、張学良が日本総領事館に返礼に来ると、田中首相から特使として葬儀に参列した林権助駐華公使は「不幸にして、もし東三省が日本の警告を蔑視し、ほしいままに青天白日旗を掲げるならば、日本は必ず断固たる決心を以て、自由行動をとるだろう。今は唯、貴総司令が毅然として、自らの決意に従って行動し、浮言に動かされることがないように望む。もし不逞分子が現れたならば、武力弾圧に訴えてもよい。日本は全力で援助したいと願っている」 張学良「林総領事の発言には黙っている訳にはいかない。私は中国人である。従って、私の考えも当然中国人本位である。私が国民政府との妥協を願うのは、中国の統一を完成し、文治合作を実行し、これによって東三省の一般の人民の熱望を実現したいからである」
 10月8日、蒋介石は張学良を国民政府委員に選んだ。一種の身分保障策であった。12月29日張学良は易幟を断行した。午前7時を期して、奉天・吉林・黒竜江省に青天白日旗が掲げられた。ことに奉天では青天白日旗が全市を埋め尽くした。張学良はすぐさま易幟祭典を行った。欧米列国の領事は招きに応じて参列した。張はこの祭典で、日本の大政奉還の故事を引き、「その国は中央に権力が集まったから発展した。いま政権を上げて返還し、真正の統一を図ろうと思う」と演説した。林領事は抗議に訪れ、懸案になっている鉄道利権の解決策を申し入れたが、張は「外交問題は中央政府の権限である」と取り合わなかった。また、易幟を境にして、中国人たちの排日・抗日の態度も、あからさまになってきた。奉天では城内を歩けぬこともあった。たちまち拉致され、物陰で身ぐるみ剥されて放り出されるという事態が続発する。
 松岡は著書「興亜の大業」の中で「満州事変前の日本には、思い出してもゾッとするような恐るべき敗北主義があった」と述懐している。以上のような日中外交の流れの中で、蒋介石に忠誠を誓い、易幟を断行した張学良は、中国の「国権回復」の満州版を積極果敢に実行し始めた。彼は先ず満州にあるロシアの東支鉄道の武力回収を試みたが、ソ連は国交を断絶、直ちに赤軍を送って張軍を破り、回収を失敗に終わらせた。次いで日本には、関東軍と衝突しないよう、合法的な攻勢を掛けることに腐心した。①満鉄を経済的に枯渇自滅させるための満鉄包囲鉄道計画。②日本人と朝鮮人を追い出すための政策、日本人事業並びに居住の禁止、朝鮮人の農業の圧迫。③満鉄付属地の経済封鎖。
 世界恐慌で満州経済も打撃を受けた。世界市場が縮小して、満州特産の大豆三品の価格が暴落、輸出が激減した。石炭の需要の落ち込んだ。大豆と石炭で運賃収入の90%を占める満鉄の営業成績は極度に悪化する。しかも張作霖・張学良二代にわたる鉄道包囲網の完成は、北満の大豆と東満の貨物を満鉄から吸収していく。運賃も半額だった。彼等は銀建てで満鉄は金建て、金銀の為替差で満鉄は窮地に陥った。また、張の対日攻撃は陰湿で執拗だった。暴力と非合法を使わず、様々なシステムを仕掛ける。中でも効果的だったのは「徴税攻勢」だった。満鉄付属地の境界に「税損局出張所」を設け、出入りする貨物には片っ端から課税した。しかも徴税吏は官吏ではなく請負制であったから、規準も曖昧だった。そのうち税損局員は日本人が経営する商店の中にも張り込むようになった。日本品の売買に伴う取引税というのを勝手に作り、税を徴収した。さらに日本人の経営する旅館のボーイやコックを扇動してストライキを打たせ、彼等が表を歩くと「非国民」という声を浴びせた」と「実録満鉄調査部」は記述する。ふーむ、これは明らかに中国共産党系の活動内容だ。張学良の裏に、中国共産党活動分子が巧みに入り込んだのだろう。事態は容易ならざる状況に追い込まれていたことを表している。当然、日本側からのリアクションを予想したであろう、と草柳。しかし浜口内閣の幣原外交はあまりに協調主義的であった。戦後、加瀬俊一が指摘する、「幣原外交が成功するには、世界平和が継続し、国際的自由が保証され、中国の政情が安定してその対日態度が公正であることが条件」であった、と。ところが、世界恐慌が起こり、ソ連が強国として台頭し、中国が革命外交を標榜して排日運動を展開する。幣原外交の前提は崩れ去っていた。
 しかし、この幣原外交はアメリカにとっては好ましいものだった。当時の国務長官スチムソンはその著書で「日本を我々が見守りつつあることを知らしめ、同時に正しい側にある幣原氏を助けるような方法を工作し国家主義者の扇動者として利用されないことである」と記述している。「満州事変を中国が連盟の席上に持ちだした。アメリカはオブザーバーであったので、国務省はこの事件について消極的な態度をとっていた。そこへ錦州まで出た日本の軍隊が呼び返されるという事態が起こった。これは外務大臣の幣原がやらしたことだ。荒馬のような陸軍を引き留めた幣原は実に不敵な男だ。私はそれを非常に頼もしく思い、日本に強圧的手段をとらず、幣原の国内的権威を失墜させぬよう努めた。ところが12月、幣原の辞職が発表された。これを聞いて私は憤然として、ようし、それなら積極的に日本を叩きつけてやれと、イギリスの外務大臣を国際電話に呼び出し、アメリカ政府は、日本の満州における行動を積極的に責めることに決した、と告げた」と。ふーむ、このスチムソンの態度はおかしくないか。ことの是非を知らず、単純に一方的に他を攻める。むしろ仲裁に入るなら分かるが、一方的に責めるとは。なぜか解せないスチムソンの言動である。そして錦州まで進撃した日本軍を引き返させたのは、金谷範三参謀総長の一存で決定したことであった。事実誤認も犯している。

 随分、草柳大蔵の著書からの引用が長くなり過ぎたが、改めて満州における日本人居留民の苦難を思い知らされた。いったい、あれだけの兵士を失って戦った日露戦争は何だったのか、小村寿太郎が紳士協定により日本移民を満州地区に送るとした当時は何だったのか、それがこの仕打ち。日本人ならば、当然起こる疑問だろう。冒頭陳述で清瀬は更に何を訴えたのか、本題に戻ることにしたい。
 未解決三百件「当時満州にあった政権は、日本との緊密なる提携の下でその勢力を維持していたが、1925年から全中国に国権回復運動が台頭した。満州における情勢も大いに変化した。1928年の張作霖の爆死、満州政権の易幟があった。次いで国民党支部の満州進出を見るに従って、日満の紛争は逐年増加した。1931年に於いて未解決の案件は三百件におよんだ。」  
 関東軍と張学良軍「日本は条約及び協定によって、関東州及び満州における権益保持のために関東軍を駐在する権利を持っていた。1936年の関東軍の兵力は、一万四百人に過ぎない。これは1905年のポーツマス条約の制限以下だった。これに対して張学良軍は正規軍二十六万八千、不正規軍がこのほか大きな部隊があった。関東軍は包囲されてわずか一万四百の小兵力に過ぎなかった。しかもその任務は南満州鉄路一千キロの保護と百二十万人に達する在留邦人の保護を任務としていた。一旦事が起これば、自衛の為に迅速に行動をとる必要に迫られていた」と。
 1931年9月18日夜 「検察団は1931年9月18日夜の鉄道爆破事件を日本側の策謀によるものと主張している。被告側においても実情を証明するために、証拠を提出する。いずれにしてもその夜、軍隊的衝突が発生しました。すでに発生した以上、関東軍においては軍自体の自衛と軍本来の任務のために中国軍を撃破しなければならない。この間の消息は当時関東軍の司令官だった故本庄大将の遺書によって証明が可能。わが中央においては事態の拡大を希望せず、なるべく速やかに解決しようとしたが、事件は希望に反して逐次拡大した。その真相並びに連盟理事会とアメリカ側との態度について、適切な証拠を提出する。またその真相は、すでに証言や書証によって検察側からも示されている。」
 自治運動より満州国政府の成立 「一方、関東軍が自衛の為に在満中国兵力と闘争している間、満州の民衆の間にいろいろな思想から自治運動が発生しました。これらの思想は保境安民の思想、共産主義に反対する思想、蒙古民族の中華民国よりの独立運動、張学良に対する各地政権並びに将領の不平不満、清朝の復辟希望等である。1932年2月に東北行政委員会が出来、3月1日には満州国政府の成立となった。かつて満州建国後においては、日本出身者も満州国人民の構成分子となることが許され、また満州国建設後には、満州国の官吏となって育成発展に直接参与したことは事実である。しかしそれは建国後のことである。現に1931年9月には、日本の外務大臣及び陸軍大臣は在満日本官憲に対して、新政権樹立に関与することを禁ずる旨の訓令を発している。換言すれば満州国政権の出現は、リットン報告の如何にかかわらず、満州居住民の自発的運動であって、証拠により証明する。満州における事態は、1933年5月には一段落となった。1935年、6年の間には中国側においても事実上の地位を承認せんとしていた。世界の外の各国も逐次満州国を承認しました。ことに1941年には、本法廷に代表検察官を送っているソビエト連邦は、満州国の領土的保全及び不可侵を尊重する契約をした。」

 満州事変に対する突っ込みがやや弱い冒頭陳述に思えるが、弁護側の立証戦略を考慮した陳述かもしれない。検察側は、田中隆吉証言・森島守人証言・溥儀証言を三本柱に、その周囲をリットン報告書と日本の各種外交文書を張り巡らしてがっちり固めた観があるから。従って続いて満州及び満州国に関する弁護側立証を見ることとしたい。

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