世界経済(貿易)の変化と日英米の対処

2015年12月05日 | 歴史を尋ねる
 昭和11年8月、アメリカ・ヨセミテ国立公園で第六回太平洋会議が開催された。今度のプログラムはアメリカのニュー・ディールが中心課題であった。ところがふたを開けてみると、どの問題の場合にも、結局日本が問題の中心になって、日本に対する空気はかってない程悪かった、と。うーむ、さしずめ現在に当てはめれば、台頭する中国の感じかな。同年2月、二・二六事件以降の軍部ファッショが露骨になったことが根本であった。高橋は両会議とも出席したが、大会参加を通じて、二つの事を深く考えさせられたと記している。第一は、欧米のモノの考え方は、欧米(白人)中心のものであること、第二に、日本人のモノの考え方は、日本の地位が著しく向上して、その一挙手一投足が世界に少なからぬ影響力を及ぼすに至ったにも拘わらず、昔の小国時代にのみ許される自己中心主義を依然続け、国際的影響を考慮することに少なからず掛けていたこと、この二つの歪みが絡み合って、日本の立場が国際場裡において非常に不利になっている。当時の世界的日貨排撃の裏に、そうした根本の問題が潜んでいることを痛感した、と。

 「昭和7,8年以降突如として、日本の経済動向が世界の形勢を積極的に動かし出してきた。これが、世界が最近日本問題を中心議題として日程に上げるに至った理由である。・・・日本人自らは、日本の力が世界に少なからず影響力を及ぼすように大きくなったことを未だ自覚せず、小国時代の我が儘な身勝手なやり方をしている。これが愈々問題を大きくしている。吾々は深く戒めて大国としての教養、襟度、抱負、責任を持たねばならない。」 対外関係だけでなく国内にも同じ性格のものが起った。昭和2年の金融恐慌と世界恐慌を通じて、三井・三菱・住友などの大財閥は、威力を発揮しずば抜けた存在になった。それにも拘わらず、群小業者を犠牲にして自己の利益の伸長をはかる自由経済を当然視していたことに対し、社会的非難が起った。大財閥がその地位を自覚し、大財閥らしい考え方に進化したのはこの頃からであった。では、政治家についてはどうか。国際的地位の急上昇に対する心構えについて、この自覚が起れていたエピソードを高橋は披歴している。
 次代の政友会総裁候補だった床次竹二郎が高橋を招いて、「日本丸という船をどこにつけたらよいか、目的地がはっきりしておった。地図がちゃんと備わっていた。ところが、現在は船をどこに着けるのか、目的地がまるっきり見当がつかなくなった。文字通り五里霧中で憂慮に耐えない。日本を何処に持って行けばよいか、その話を聞きたい。」 高橋の答えは次の通り。地図があったのは、日本がずっと後進国で、後について行けばよい時代だった。自分(高橋)は歴史を書こうと思って、その材料探しに農林省や商工省の文庫とか大蔵省の文庫とかを調べたことがあるが、各省とも、日本自身に属する参考書は極めて僅少で、大部分は外国の参考書がずらりと並んでいる状態であった。例えば農商務省には自身の統計そのものが、第一回から続いたものがない。欠けて補ってない。各省が委員会を開いているが、その資料が主管省に揃っていない、散逸している。日本政府は、自身の資料を揃えていない。僕らが何か新しい説を立てると、一体その原書は何ですかと聞く人がよくいた。何か新しい政策を実施しようとすると、容易に同意を得難いが、外国ではこうして実行していると説明すれば、すぐに通るという状態であった、と。明治、大正のある時期までは、先進国の先例を探せば間に合ったが、昭和の十年代に近くなると、日本に新しい問題は向こうにも新しい問題で、日本自身、その進路を自ら開拓していかなければならない新段階に到達した。にも拘らず、自覚も訓練も出来ていなかった。もっとも、その後においては日本も外国に学ぶものはないと云う風に、行き過ぎてうぬぼれた人も随分あるようになり、そのに無謀の大戦を起した禍根が培われた。結局、自分自身でものを考えるという訓練が出来ていなかった。そこに、後日、軍部に乗ぜられるに至った隙の根本があった、と。高橋の結論は、必ずそこに行きつく。うーむ。

 もう一つ、高橋の欧米視察旅行で得た考えを披露している。昭和8年第五回太平洋会議後、武藤山治の依頼でロンドンで開かれる綿業会議に側面から支援するため英国に向った。この機会に欧州各国を回り、再度米国に渡って、ルーズベルト大統領のニュー・ディールを、ニューヨーク、ワシントン中心に研究し、テキサスのヒューストンなど米国南部の各地を回っている。そして著書「世界資本主義の前途と日本」を出版した。
 「世界経済の動向は三つの大きな流れがある。①欧州経済の世界優位の転落と、世界的経済均衡の破綻、②日米経済を先頭とする非欧州諸国の台頭と、それに関連する国際経済上の摩擦、③資本主義的生産過剰に処する新規の施策とその影響。①と②とが始まって、一方には輸入割当制度の普及(次第にブロック経済体制に進展した)、一方には、満州問題以上に世界に耳目を集めている、日貨進出の白熱化であった。加えて、資本主義的生産過剰問題が浮上、米国ではニュー・ディールとドルの平価切下げ政策となって、世界経済に影響を及ぼしていた。」 
 当時日本では、世界経済のこうした変革を、世界恐慌を克服するための一時的対策と見なす見解が依然強く、オーソドックスな自由貿易原則や金本位制原則を固執して、対外・対内政策を論ずる風潮がなお一般的であった。高橋は欧米の視察から、これを世界経済の根本的変革とみて、対外、対内政策を新事態に即応させることを訴えるため、上記著書を出版したという。その時のエピソードを紹介している。ロンドン滞在中、英国元蔵相、現ミッドランド銀行総裁マケナンに取材した。高橋の質問に対するマケナンの回答は英国自身の不況対策であった。高橋は、英国の対策ではなく世界不況に対する対策であると再質問したら、「ポンドブロックの英国経済は世界経済の大部分の領域を支配している。従って、英国経済がよくなることは、世界経済がよくなることであって、英国の不況対策は同時に世界の不況対策である」と。英国が自国の利益を、世界の利益の名において常に主張する(例えば日貨排撃)習性の根底に触れたと記している。第一次大戦後、米国、日本などの急激な台頭で、英国の支配力が衰退しているにも拘らず、依然昔の考え方から脱却していない、そこに英国と世界の悲劇があることを発見した、と。
 一方、大戦後米国の世界経済支配力は俄かに強大となったが、アメリカ人はこれを充分理解、自覚せず、依然昔の西欧支配から独立することを眼目としたモンロー主義の殻に閉じこもった思想や行動を続けていた。これが世界恐慌を、ああまで激化拡大させた要因であった、と。それは、世界恐慌収拾の主役を、イギリスに代って、或いはイギリスと共同して、引受けることを、実力者となったアメリカは拒んでいたからと高橋。これはまた、第二次大戦後、世界のまとめ役を買って出たアメリカの思考と行動とを対比すると一層明確になると、記している(「私の実践経済学はいかにして生まれたか」)。

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