冨士信夫著 「私の見た東京裁判」に依る。
1,裁判所設立経緯
ポツダム宣言第十項「吾等の俘虜を虐待せし者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる裁判を行うべし」。 ミズーリ号艦上での降伏文書調印からわずか9日後の9月11日、連合国総司令部は東條英機元首相以下39人の戦犯容疑者逮捕令を出した。12月26日米英ソ三国外相会議で、連合国軍最高司令官の権限が「日本降伏条項の履行、同国の占領および管理に関する一切の命令並びに補充的指令を発すべし」と、発表された。昭和21年1月19日、マッカーサー司令官は極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言書を発表するとともに、極東国際軍事裁判所条例を発布した。この条例が、東京裁判法廷が拠って立つ根本の法であった。
2,起訴状
4月29日天皇誕生日の日、国際検察団は裁判所に起訴状を提出すると共に巣鴨拘置所に拘禁中の被告に起訴状の写しを送り、正式に28人の被告が正式に起訴された。起訴状本文「本起訴状の言及せる期間に於いて日本の対内対外政策は犯罪的軍閥に依り支配せられ且つ指導せられたり。かかる政策は重大なる世界的紛争及び侵略戦争の原因たると共に平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり」との書き出しに始まる前文に続いて、三類五十五訴因に分かれている。
第一類 平和に対する罪
訴因1~5 戦争に関する共同謀議
訴因6~17 戦争の計画・準備
訴因18~26戦争の開始
訴因27~36戦争の遂行
第二類 殺人
訴因37・38宣戦布告前の不法なる攻撃による殺人の共同謀議
訴因39~43宣戦布告前の不法なる攻撃による殺害
訴因44 不法なる攻撃による俘虜及び一般人の殺害に関する共同謀議
訴因45~52不法なる攻撃による俘虜及び一般人の殺害
第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
訴因53 戦争法規慣例違反の計画・立案・実行に関する共同謀議
訴因54 違反行為の命令・授権・許可による戦争法規違反
訴因55 俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反
これら25訴因については全被告に責任が、その他の訴因についてはそれぞれの訴因に名前を挙げられた被告に責任があるとされている。訴因がどのように書かれているかの説明として、訴因第一「全被告は他の諸多の人々と共に1928年(昭和3年)1月1日から1945年9月2日に至るまでの期間において共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして・・・」 さらに各訴因の要点は別表第一に列挙している。
別表第一 訴因の要点
第一類 平和に対する共同謀議
A 戦争に関する共同謀議
1、1928年1月1日~1945年9月2日の間に於ける大東亜全域に対する全面的な戦争に関する共同謀議
2、満州事変に関する共同謀議
3、支那事変に関する共同謀議
4、大東亜戦争に関する共同謀議
5、日独伊三国同盟による連合国に対する戦争に関する共同謀議
B 戦争の計画準備 (以下略)
別表第二は被告と訴因との関係、別表第三は被告の担当弁護士の一覧で、日本人弁護士と米人弁護士を記載。
3、裁判所の管轄権を巡る法律論争
かねて弁護側が提出していた、裁判所の管轄権を巡る法律論争が展開された。
(1)裁判所の権限:(清瀬弁護人)本裁判所はポツダム宣言第十項を根拠として設置、かつ同宣言は降伏文書により日本側は確認受諾したものであるから、連合国も同条項に拘束される。従って同条項に規定されている以外の戦争犯罪人裁判は行い得ない。裁判所条例には平和、人道に対する罪なるものが規定されているが、ポツダム宣言にそのようなものは含まれていない。従って、連合国にも最高司令官にも、かかる規定を設ける権限はない。当時戦争犯罪人の意義は、戦争法規違反の罪を犯した者をいうのであって、戦争の計画・準備・開始・遂行を戦争犯罪であるとする考えは、ポツダム宣言発出当時、文明国間には存在しなかった。
(2)起訴の範囲:(清瀬弁護人)ポツダム宣言は1945年7月26日現在、日本と連合国間に在った戦争を終結させるための国際法上の宣言である。従って戦争犯罪の範囲も、大東亜戦争中の犯罪だけを含むべきであって、過去すでに終了した戦争の犯罪人まで起訴できるものとは、断じて考えられない。しかるに満州事変を取り上げ、張鼔峰・ノモンハン事件を取り上げている。ポツダム宣言発出当時、日本とタイ国間には戦争はなく、タイ国は連合国でなかった。
(キーナン検察官)被告側の動機は、ポツダム宣言に対する被告側の解釈により、裁判所の管轄範囲を制限するもので、日本の降伏はある条件に基づくものだと述べている。この主張に対して我々は、単に法律問題としては関心を持たないが、かかる誤った主張を全然反駁せずに終わることは、到底耐えられない。日本の降伏は無条件なもので、終戦時スイスを通じて連合国の送達された文書で、これを立証できる。ポツダム宣言および降伏文書には、最高司令官は降伏条件履行のため、適当と認める一切の行為を為し得る権能が定められており、裁判所条例は、降伏文書第五項に基づく最高司令官の命令の一つと解釈すべき。弁護側は、ポツダム宣言発出時考えられていた戦争犯罪は戦争法規違反だけであると主張しているが、1943年2月12日ルーズベルト大統領は「枢軸国首脳が彼らの犯罪の結果を免れようとする企画に対してカサブランカ宣言、すなわち無条件降伏あるのみ。我々は枢軸国の一般民衆に対して処罰を意図しないが、有罪な野蛮な指導者に対しては、処罰と報復を加えようとするものである」旨述べている。 それはポツダム宣言を読めば判然とする。侵略戦争を共謀し、計画し、開始し且つ遂行した犯罪人には厳重なる処罰が課せられ、それは一般犯罪人と同様である。
(カー検察官)降伏の瞬間より天皇および日本国家の権能は最高司令官に従属すべきとの降伏文書と俘虜の虐待する者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重な裁判を行うとのポツダム宣言第十項の文言を結び付け、ポツダム宣言にいう戦争犯罪とは、通例の戦争犯罪以外の犯罪も含まれると解釈すべき。
(清瀬弁護人)両検事は日本の降伏は無条件降伏といっているが、ポツダム宣言第五条には「吾等の条件は左の如し」といっている。条件付きの無条件降伏という事はない。同宣言第十三項に無条件降伏という言葉が出てくるが、これは日本政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言せよというのであって、日本政府、日本国民に無条件降伏を言ったものではない。戦犯という言葉の定義は、刑罰をもって処罰されるというのが世界共通の定義であるが、不戦条約の前文には、条約上の権利を失うとあるが、違反した国を処罰するという規定はない。両検察官とも文明擁護のために裁判をしなければならないというが、いわゆる文明の中には、条約の尊重、裁判の公正が含まれていないだろうか。トルーマン大統領は今年に一般教書で、世界の歴史が始まってから初めて戦争製造者を罰する裁判が行われつつある、と。
(裁判長)トルーマン大統領が云ったという事は、本件に何ら関係がない。討論は本件をもって終結する。
ふーむ、起訴の範囲、満州事変迄遡るという点については、検察側の弁論はない。そんなものなんだろう。
この後裁判所書記が、「アメリカ合衆国その他の連合国対被告人全体に関する申立及び追加申立、平沼・松岡・重光・東郷・梅津の申立、板垣・木村・武藤・佐藤の裁判権に関する却下申立は」と文書を朗読したのを受けて裁判長は「すべて却下されました。その理由は将来に宣言致します。これにて休廷」と裁判所の裁定を発表し、この日の公判は終わった。弁護側として、管轄権に関する動議が認められるとは思っておらず、却下される事を百も承知で提出した。弁護側が提出した動機は「この裁判は国際法に準拠した司法裁判なのか、それとも、勝者が敗者を力を以て裁こうとする、司法の仮面をかぶった政治裁判なのか」を問い、後世のため、東京裁判の真の姿を明かにしようと意図したためだった。
4、検察側の立証について
(1)キーナン首席検察官の冒頭陳述
本訴追が正義の執行であり、本裁判が文明及び人道の立場から行われるべきものであることを強調、本論に入り、前半では侵略戦争が犯罪である理由をもっぱら国際法及び刑法の見地から詳論し法的根拠として①アメリカおよびドイツの成文法並びに慣習法、②文明国における法の一般原則、③諸判決例及び各国法律学者の学説等を引用している。本論の後半では侵略戦争のための共同謀議、殺人、戦争法規違反、人道に対する罪について、検察側が依拠しようとする事件・事柄の概要に触れ、立証には確信を持っている旨を述べたあと、「国家自体は条約を破るものではなく、また公然たる侵略戦争を行うものではないという事を強調する必要がある。責任はまさに人間という機関に在る。すなわち、平和を維持するためにかかる条約及び協定を実施するためなり、又は破壊したりするためなりの権力を何らかの方法によって自発的に求め、かつ獲得した個人に在る。彼らはその権力を自発的に掌握したのであるから、一般普通の正義の命ずるところに従って、彼等自身、彼等の行為に対し個人的に処罰を受けねばならない」と。最後に東京湾の降伏手続きの際の連合国最高司令官の声明に厳格に準拠し行動すると言って冒頭陳述を結んだ。
(2)「日本の政治及び世論の戦争への編成替」に関する立証
要旨は次の通り。①日本は明治19年以降次第に学校での軍事教練を強化し、青年を戦争への熱情に駆り立てるべく、対敵憎悪の感情を注入した。②組織的宣伝により、満州を日本の生命線とし、さらに大東亜共栄圏の使命を説き、米英を日本の大敵なりと宣伝した。③検閲の強化、宣伝・情報・映画の統制、言論の抑圧を行い、以て侵略戦争の方向に国民を駆り立てた。④軍部大臣現役武官制を陸軍が逆用する事により、政治に対する軍の圧力を強めた。⑤さらに軍部は、過激な国家主義、愛国団体と結託し、暗殺の陰謀を続けた。⑥政治的計画としてあらゆる政党を解散させ、軍国主義的、極端な国家主義的団体でもある大政翼賛会を創設し、以て非人道的、違法な戦争を連合国に仕向ける最終的準備を完了させた。
①で注目すべき証言を行ったのは京都帝大法学部長瀧川幸辰証人:日本の学校制度における教育形式は、自由な思考、自由な思想を欠き、中国及び満州での日本の侵略的戦争行為に理由付けする事のみ没頭したもので、日本の将来の偉大と運命とは、侵略的戦争行為にある事を学生に教えるよう企てられ、学生の心に、他の民族国家に対する蔑視、憎悪を吹き込む効果を挙げて、学生達を、将来の侵略戦争に備えしめた、と。反対尋問にたった清瀬弁護士が、瀧川証人の帝大免職事情について質問したのち、将来の侵略戦争という言葉をどういう意味で使ったかと質問すると、「満州事変を含めて、それ以後のすべての戦争を自分は侵略戦争と考えている。当局が何と考えたかは、私の関知するところではない。事実は侵略戦争ということを示しているのだから、事実によって認めてもらうしかない」と日本人証人として初めて、満州事変、支那事変、大東亜戦争を日本の侵略戦争と断定する証言を行った。
軍部の政治的圧迫、暗殺事件等の具体的立証としては、幣原喜重郎・犬養健・若槻禮次郎・宇垣一成の各氏を含む七人が証人として出廷、組閣大命が下った宇垣大将は、陸軍大臣の時縮軍を断行し、三月事件を中止させた事等の理由により、軍部大臣現役武官制を逆用して、陸軍大臣の推薦を拒絶、組閣の大命を拝辞せざるを得なかった、と口述書で証言した。また、罪状認否を最後に出廷できず不帰の客となった松岡被告からは、その抱懐する信念をその口から聞きえず、失ったことは、本法廷での審理の上からも、将来の大東亜戦争をめぐる歴史研究の上からも、誠に惜しまれると、筆者の冨士信夫氏はいう。たしかに、日独伊三国の共同謀議という訴追に対する松岡の弁論を聞きたかった日本人は多いだろう。
(3)満州における軍事的侵略に関する立証
①1931年9月18日、柳條溝事件の発生は日本軍が軍事行動を開始するための一つの口実で、事件直後、朝鮮軍越境事件を含む日本軍の迅速な行動は、かねてよりの計画に基づくもの。②満州占領後溥儀を首領とする満州国を樹立したが、その実態は関東軍が操る傀儡政権に過ぎず、人事・行政の一切の権力を持っていた。③日本軍は侵略の手を熱河から内蒙古に進めたのみならず、万里の長城線より南方にまで兵力を進め、1933年塘沽停戦協定でその侵略を停止したが、日本はさらに将来の侵略を考慮して北支、内蒙に自治政権を樹立し、日本の軍事的・政治的・経済的統治権の拡張と強化に努めた、と冒頭陳述。
四人の証人が出廷したが、最も異色だったのは元陸軍少将田中隆吉証人だった。大東亜戦争を迎えた昭和17年9月、東条陸軍大臣と戦争指導上の事で意見が衝突、健康上の理由もあって現役を去った。終戦後「敗因を衝くーー軍閥専横の実相」という本を著して陸軍部内の暗闘を暴露した異色の人物と見られていたが、昭和22年にはさらに「日本軍閥暗闘史」も著した。サケット検察官の巧みな尋問に答えて田中証言は、1928年(昭和3)6月4日の張作霖爆殺事件から始まり、関東軍参謀河本大作大佐以下十数名の計画の基づいて決行されたもの、1931年(昭和6)9月18日に発生した柳条溝事件(満州事変)は、満州侵略の口実を作ろうとする日本陸軍の陰謀であり、その主要関係者は陸軍中央部では参謀本部第一部長建川少将、橋本中佐、長大尉、民間では大川周明、関東軍にあっては板垣大佐、石原中佐であったとして、これらの人々の事変勃発前後の行動について詳細に証言した。さらに満州国独立問題に移り、長大尉が関東軍の独立を唱えて中央政府を威嚇し、それまで満州国の独立にさほど賛成でなかった中央政府を急速に独立賛成に傾かしめたと述べ、南関東軍司令官、東条関東軍参謀長の満州国に対する支配権行使の状況を証言、その後、冀東防共自治政府、冀察政務委員会、内蒙古自治委員会等、満州事変発生後に北支及び内蒙古に誕生した自治政権に対する土肥原、南、東条、梅津等関東軍首脳部にあった各被告の権力行使や活動状況の事にまで及んだ。アメリカの検察官はFBI出身者がいた。司法取引が行われたのだろうと冨士氏。
事変発生当時奉天総領事館首席補佐として勤務していた森島守人が証言、田中義一内閣の対満積極政策、張作霖爆殺事件、昭和6年に入ってからの満州での緊張の高まり、柳条溝鉄道爆破発生時直後の事態収拾の話し合いでの板垣大佐、花谷少佐両参謀の威嚇的態度、その後の満州国の承認経緯について宣誓口述書で語った。さらに書証として事変勃発翌日の木戸日記、リットン報告書が朗読された。
(4)満州国建国事情に関する立証
検察側は、その建国は全く関東軍の策謀によるものであって、表面独立国を装わしめたが事実は関東軍が一切の指導権を持っていた傀儡政権に過ぎなかったと主張し、具体的に裏付ける最も強力な証拠として、溥儀前満州国皇帝を証人として喚問した。二日半にわたる溥儀証人証言の要点は「事件発生後、天津駐屯軍司令官香椎中将の強制により旅順に行き半年滞在中、関東軍司令官本庄大将は板垣参謀を派遣して、東三省で張学良が人民を圧迫し、日本の既得権益に対しても悪影響を及ぼしているので、この軍閥を追い払い、東三省人民の幸福のために新政権を作り、私が満州人なので、私に新政権の領袖になるよう伝達させた。私はこの申出を拒絶したが、板垣は不満のようであった。その後、彼は鄭孝胥及び萬縄械に向かって、私を新政権の首領に擁立しょうとする事はすでに関東軍が決定した政策でもあるから、もしこれを拒絶する時は、断固たる処置に出る旨語った。そのため両人及び羅振玉は、私に板垣の申し出に応じるよう勧めた。私は、真意に於いては拒絶したい意思を持っていたが、日本側の武力圧迫と、これら顧問たちの勧告により、やむを得ずこれに屈服した。・・・・建国当初板垣は満州国の完全な独立と私の意志通りの施政が行われることを約束したのだが、事実は全くこれと違って、関東軍が一方的に押し付けたものであり、皇帝としての私は、何ら自由な手も口も持っていなかった。リットン卿との会見も、日本軍将校の監視下で行われ、命の危険があったので、種々の事情を告げられなかった。・・・」
弁護側の反対尋問に対する溥儀の証言は、終始一貫、日本の強制下全く自由意思がない傀儡皇帝に過ぎなかったとの主張で貫かれ、あるいは質問の論点を避け、忘れた、記憶がないと逃げる答弁に終始。裁判所に信憑性の疑念を懐かせるところがあったが、昭和6年9月以降日本の高官に、自分が復辟を受諾する意思を認めた書簡を出したことはないかとの質問、証人が否定するや、証人の家庭教師遠山猛雄が南陸軍大臣の許に持参したもので、後に昭和9年4月3日、満州国皇帝特使として来日中の鄭孝胥満州国国務総理が、溥儀皇帝の真筆に間違いないとその左下方に奥書した宣統帝御璽が押してある手紙を証人に示し証言を求めた。溥儀はしばらく見詰めていたが突然立ち上がり、中国語で絶叫した。翻訳すると「判事各位、これは全く偽造であります」と。その親書なるものを翻訳すると「今次の満州事変に対する中華民国政府の措置は、当を失している。友邦日本と戦いを開き、尊き人命を害した。余は甚だこれを憫む。ここに皇室の家庭教師である遠山猛雄を派遣し、余に代りて陸軍大臣南大将を訪問し、余の意のある処を伝達せしめる。我が朝は人民の苦しみを忍びぬ故に、政権を漢民族に譲ったのである。その後二十年も経過したのであるが、中華民国の政治は、進めば進むほど紊乱するに至った。これは実に我が朝の考え及ばざるところである。・・・」 児島襄氏によると、昭和39年北京で発行された溥儀著「我的前半生」のなかで、満州国執政就任についてもそれが自発的意思に基づくものであった事、南陸相宛親書も自筆である事なども認めている。ふーむ、歴史の真実を判定するのは、なかなか、困難な作業が伴う。
溥儀が法廷から姿を消した後、検察側は満州国建国に関する関東軍の策謀を立証するものとして、合計二十通の電報を提出した。これらの電報は昭和6年11,12月の間に天津、上海、奉天、牛荘、遼陽、北平の日本総領事館から外務省宛ての電報、及び陸軍大臣から関東軍司令官宛ての電報だったが、19通の外交電報はいずれも満州国独立に関連する関東軍の動きを報告する内容のもので、先の溥儀証言の一部を裏付けるようなものが多かった。①上海村井総領事より幣原外務大臣宛て:当地漢字新聞は日本側は東三省の独立を扇動し・・・目下極秘裏に種々の手段を用いて宣統帝を奉天に連れ出さんと画策中なるも、皇帝は依然拒絶せられつつある為日本側は脅迫手段に出で居る旨掲載せり。 ②天津桑島総領事より幣原外務大臣宛て:土肥原は館員に対し、満州の事態を現状まで漕ぎ着けたるは、一に出先の軍部の活動にして、今後に於ける収拾上是非共に帝の擁立を必要とする場合、現政府が之を阻止するが如き態度にいづるは奇怪千万にして、果たして然りとせば、或いは関東運は政府と離れて如何なる行動にいづるやも保ち難し。 先に触れた森島守人証言と併せ考える時、関東軍の圧力により不本意な行動をとらされた外務省関係者の間には、満州国の誕生は全く関東軍の策謀によるものであって、外務省も中央も強くこれに反対していたのであるから、今その真相が裁判によって明らかにされるのは当然、という考えがあったためこのような結果になったのであろうが、弁護側が国家弁護を根本方針として弁護を保持しながら弁護を進めることの難しさを、冨士信夫氏は嘆いている。
(5)中華民国ぼ他の部分における軍事的侵略に関する立証
冒頭陳述は、1932年1月29日に始まる第一次上海事変、1937年7月7日の盧溝橋事件を経て、1941年12月8日大東亜戦争当日の第三次上海侵攻、上海共同租界の接収及び満州以外の中国全土に及ぶ日本の軍事侵攻の実態を述べ、これらの軍事侵攻には全被告に責任がある事を強調した。同陳述中、今後提出する証拠の紹介より、検察側の意見、結論と見られるものが含まれていたため、この点について裁判長から厳しい指摘を受けた。この項の立証の主眼点は、昭和12年7月7日夜発生した盧溝橋事件であった。戦争拡大の立証として、当時の中国第二十九軍副軍長秦徳純上将と河北省宛平県知事王冷斎の両人を証人、当時北平駐在アメリカ大使館付陸軍武官補デビット・パレット大佐の宣誓口述書だった。 秦徳純証人の第一の口述書は事件発生前の1935年6月、北察哈爾で日本軍将校二名と下士官兵が中国軍によって一時抑留され、土肥原少将と秦徳純副軍長との間に、土肥原・秦徳純協定が締結されるに至った「北察哈爾事件」について述べたもの。 第二の口述書は盧溝橋事件に関するもので、事件発生直前の河北・察哈爾両省方面の政治情勢を述べるとともに、日本の侵略段階を、分化離間・経済独占・武力脅迫に分けて陳述し、当夜の事件発生の状況を次のように述べている。日本特務機関長松井の電話は、「陸軍一中隊が今しがた盧溝橋付近で夜間演習中、駐屯する中国部隊から射撃を受け、演習部隊は呼名点呼の結果、一名行方不明なので入城して検査すると言っているが、どうすればいいか」とのこと、徳潤は折り返し「日本軍隊が勝手にわが国の領土内で演習するということは、国際法に違反したことである。事前に通知もなく、許可も与えていないので、わが方は何ら責任を負うことはない。もし事実兵隊が失踪しているならば、地方警察と一緒に代わって捜索してやれ」と外交委員会を通じて伝達した。その後の日本側とのやり取り、両軍の戦闘開始の模様から、7月28日の日支全面交戦に至るまでの経過も述べ、その全部の責任は日本側に在るとし、当時の華北駐屯軍司令官香月清司陸軍中将以下数名の名前を挙げた。
この秦徳純証人に対し弁護側は8人の弁護士が立って反対尋問を行ったが、秦証人の証言は、自分に不利になると論点を避け、不必要に長い陳述を行い、あくまで全部の責任は日本側に在ると答弁する。ブルックス弁護人は、中国側の排日・悔日行為、中国共産党の活動が日支関係を悪化させた大きな原因であって、この事が満州事変、支那事変発生の遠因であるとの反対尋問を進めようとしたが検察側から宣誓口述書の範囲外であると異議申し立てにより、ほとんど却下された。
検察側提出の三十通の証拠書類の中で、その後の経過から見て、日支関係に決定的な影響をもたらす結果になってしまったと考えられる文書が、昭和13年1月16日近衛内閣が出した帝国政府声明「帝国政府は南京攻略後尚支那国民政府の反省に最後の機会を与える為今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せずみだりに抗議を策し、内人民塗炭の苦しみを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし、よって帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」 この声明はトラウトマン駐支ドイツ大使の仲介努力が実らなかった結果、日本政府が発した声明だったが、蒋介石政権に絶縁状を叩きつけた格好になり、その時の日本政府の意図のいかんにかかわらず、この日以後日本軍は、広大な支那大陸での日支紛争の泥沼の中にさらに巻き込まれていってしまった、と見ることが出来ると冨士信夫氏。