東京裁判 項目別詳述 検察側立証

2022年04月18日 | 歴史を尋ねる

 冨士信夫著 「私の見た東京裁判」に依る。
 1,裁判所設立経緯
 ポツダム宣言第十項「吾等の俘虜を虐待せし者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる裁判を行うべし」。 ミズーリ号艦上での降伏文書調印からわずか9日後の9月11日、連合国総司令部は東條英機元首相以下39人の戦犯容疑者逮捕令を出した。12月26日米英ソ三国外相会議で、連合国軍最高司令官の権限が「日本降伏条項の履行、同国の占領および管理に関する一切の命令並びに補充的指令を発すべし」と、発表された。昭和21年1月19日、マッカーサー司令官は極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言書を発表するとともに、極東国際軍事裁判所条例を発布した。この条例が、東京裁判法廷が拠って立つ根本の法であった。
 2,起訴状
 4月29日天皇誕生日の日、国際検察団は裁判所に起訴状を提出すると共に巣鴨拘置所に拘禁中の被告に起訴状の写しを送り、正式に28人の被告が正式に起訴された。起訴状本文「本起訴状の言及せる期間に於いて日本の対内対外政策は犯罪的軍閥に依り支配せられ且つ指導せられたり。かかる政策は重大なる世界的紛争及び侵略戦争の原因たると共に平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり」との書き出しに始まる前文に続いて、三類五十五訴因に分かれている。
   第一類  平和に対する罪
     訴因1~5  戦争に関する共同謀議
     訴因6~17 戦争の計画・準備
     訴因18~26戦争の開始
     訴因27~36戦争の遂行
   第二類  殺人
     訴因37・38宣戦布告前の不法なる攻撃による殺人の共同謀議
     訴因39~43宣戦布告前の不法なる攻撃による殺害
     訴因44   不法なる攻撃による俘虜及び一般人の殺害に関する共同謀議
     訴因45~52不法なる攻撃による俘虜及び一般人の殺害
   第三類  通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
     訴因53   戦争法規慣例違反の計画・立案・実行に関する共同謀議
     訴因54   違反行為の命令・授権・許可による戦争法規違反
     訴因55   俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反
 これら25訴因については全被告に責任が、その他の訴因についてはそれぞれの訴因に名前を挙げられた被告に責任があるとされている。訴因がどのように書かれているかの説明として、訴因第一「全被告は他の諸多の人々と共に1928年(昭和3年)1月1日から1945年9月2日に至るまでの期間において共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして・・・」  さらに各訴因の要点は別表第一に列挙している。
  別表第一  訴因の要点
  第一類  平和に対する共同謀議
   A   戦争に関する共同謀議
    1、1928年1月1日~1945年9月2日の間に於ける大東亜全域に対する全面的な戦争に関する共同謀議
    2、満州事変に関する共同謀議
    3、支那事変に関する共同謀議
    4、大東亜戦争に関する共同謀議
    5、日独伊三国同盟による連合国に対する戦争に関する共同謀議  
   B  戦争の計画準備   (以下略)
 別表第二は被告と訴因との関係、別表第三は被告の担当弁護士の一覧で、日本人弁護士と米人弁護士を記載。

 3、裁判所の管轄権を巡る法律論争
  かねて弁護側が提出していた、裁判所の管轄権を巡る法律論争が展開された。
  (1)裁判所の権限:(清瀬弁護人)本裁判所はポツダム宣言第十項を根拠として設置、かつ同宣言は降伏文書により日本側は確認受諾したものであるから、連合国も同条項に拘束される。従って同条項に規定されている以外の戦争犯罪人裁判は行い得ない。裁判所条例には平和、人道に対する罪なるものが規定されているが、ポツダム宣言にそのようなものは含まれていない。従って、連合国にも最高司令官にも、かかる規定を設ける権限はない。当時戦争犯罪人の意義は、戦争法規違反の罪を犯した者をいうのであって、戦争の計画・準備・開始・遂行を戦争犯罪であるとする考えは、ポツダム宣言発出当時、文明国間には存在しなかった。 
  (2)起訴の範囲:(清瀬弁護人)ポツダム宣言は1945年7月26日現在、日本と連合国間に在った戦争を終結させるための国際法上の宣言である。従って戦争犯罪の範囲も、大東亜戦争中の犯罪だけを含むべきであって、過去すでに終了した戦争の犯罪人まで起訴できるものとは、断じて考えられない。しかるに満州事変を取り上げ、張鼔峰・ノモンハン事件を取り上げている。ポツダム宣言発出当時、日本とタイ国間には戦争はなく、タイ国は連合国でなかった。
  (キーナン検察官)被告側の動機は、ポツダム宣言に対する被告側の解釈により、裁判所の管轄範囲を制限するもので、日本の降伏はある条件に基づくものだと述べている。この主張に対して我々は、単に法律問題としては関心を持たないが、かかる誤った主張を全然反駁せずに終わることは、到底耐えられない。日本の降伏は無条件なもので、終戦時スイスを通じて連合国の送達された文書で、これを立証できる。ポツダム宣言および降伏文書には、最高司令官は降伏条件履行のため、適当と認める一切の行為を為し得る権能が定められており、裁判所条例は、降伏文書第五項に基づく最高司令官の命令の一つと解釈すべき。弁護側は、ポツダム宣言発出時考えられていた戦争犯罪は戦争法規違反だけであると主張しているが、1943年2月12日ルーズベルト大統領は「枢軸国首脳が彼らの犯罪の結果を免れようとする企画に対してカサブランカ宣言、すなわち無条件降伏あるのみ。我々は枢軸国の一般民衆に対して処罰を意図しないが、有罪な野蛮な指導者に対しては、処罰と報復を加えようとするものである」旨述べている。  それはポツダム宣言を読めば判然とする。侵略戦争を共謀し、計画し、開始し且つ遂行した犯罪人には厳重なる処罰が課せられ、それは一般犯罪人と同様である。
  (カー検察官)降伏の瞬間より天皇および日本国家の権能は最高司令官に従属すべきとの降伏文書と俘虜の虐待する者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重な裁判を行うとのポツダム宣言第十項の文言を結び付け、ポツダム宣言にいう戦争犯罪とは、通例の戦争犯罪以外の犯罪も含まれると解釈すべき。
  (清瀬弁護人)両検事は日本の降伏は無条件降伏といっているが、ポツダム宣言第五条には「吾等の条件は左の如し」といっている。条件付きの無条件降伏という事はない。同宣言第十三項に無条件降伏という言葉が出てくるが、これは日本政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言せよというのであって、日本政府、日本国民に無条件降伏を言ったものではない。戦犯という言葉の定義は、刑罰をもって処罰されるというのが世界共通の定義であるが、不戦条約の前文には、条約上の権利を失うとあるが、違反した国を処罰するという規定はない。両検察官とも文明擁護のために裁判をしなければならないというが、いわゆる文明の中には、条約の尊重、裁判の公正が含まれていないだろうか。トルーマン大統領は今年に一般教書で、世界の歴史が始まってから初めて戦争製造者を罰する裁判が行われつつある、と。
  (裁判長)トルーマン大統領が云ったという事は、本件に何ら関係がない。討論は本件をもって終結する。
 ふーむ、起訴の範囲、満州事変迄遡るという点については、検察側の弁論はない。そんなものなんだろう。
 この後裁判所書記が、「アメリカ合衆国その他の連合国対被告人全体に関する申立及び追加申立、平沼・松岡・重光・東郷・梅津の申立、板垣・木村・武藤・佐藤の裁判権に関する却下申立は」と文書を朗読したのを受けて裁判長は「すべて却下されました。その理由は将来に宣言致します。これにて休廷」と裁判所の裁定を発表し、この日の公判は終わった。弁護側として、管轄権に関する動議が認められるとは思っておらず、却下される事を百も承知で提出した。弁護側が提出した動機は「この裁判は国際法に準拠した司法裁判なのか、それとも、勝者が敗者を力を以て裁こうとする、司法の仮面をかぶった政治裁判なのか」を問い、後世のため、東京裁判の真の姿を明かにしようと意図したためだった。

 4、検察側の立証について
  (1)キーナン首席検察官の冒頭陳述 
 本訴追が正義の執行であり、本裁判が文明及び人道の立場から行われるべきものであることを強調、本論に入り、前半では侵略戦争が犯罪である理由をもっぱら国際法及び刑法の見地から詳論し法的根拠として①アメリカおよびドイツの成文法並びに慣習法、②文明国における法の一般原則、③諸判決例及び各国法律学者の学説等を引用している。本論の後半では侵略戦争のための共同謀議、殺人、戦争法規違反、人道に対する罪について、検察側が依拠しようとする事件・事柄の概要に触れ、立証には確信を持っている旨を述べたあと、「国家自体は条約を破るものではなく、また公然たる侵略戦争を行うものではないという事を強調する必要がある。責任はまさに人間という機関に在る。すなわち、平和を維持するためにかかる条約及び協定を実施するためなり、又は破壊したりするためなりの権力を何らかの方法によって自発的に求め、かつ獲得した個人に在る。彼らはその権力を自発的に掌握したのであるから、一般普通の正義の命ずるところに従って、彼等自身、彼等の行為に対し個人的に処罰を受けねばならない」と。最後に東京湾の降伏手続きの際の連合国最高司令官の声明に厳格に準拠し行動すると言って冒頭陳述を結んだ。
  (2)「日本の政治及び世論の戦争への編成替」に関する立証
 要旨は次の通り。①日本は明治19年以降次第に学校での軍事教練を強化し、青年を戦争への熱情に駆り立てるべく、対敵憎悪の感情を注入した。②組織的宣伝により、満州を日本の生命線とし、さらに大東亜共栄圏の使命を説き、米英を日本の大敵なりと宣伝した。③検閲の強化、宣伝・情報・映画の統制、言論の抑圧を行い、以て侵略戦争の方向に国民を駆り立てた。④軍部大臣現役武官制を陸軍が逆用する事により、政治に対する軍の圧力を強めた。⑤さらに軍部は、過激な国家主義、愛国団体と結託し、暗殺の陰謀を続けた。⑥政治的計画としてあらゆる政党を解散させ、軍国主義的、極端な国家主義的団体でもある大政翼賛会を創設し、以て非人道的、違法な戦争を連合国に仕向ける最終的準備を完了させた。                                                                          
 ①で注目すべき証言を行ったのは京都帝大法学部長瀧川幸辰証人:日本の学校制度における教育形式は、自由な思考、自由な思想を欠き、中国及び満州での日本の侵略的戦争行為に理由付けする事のみ没頭したもので、日本の将来の偉大と運命とは、侵略的戦争行為にある事を学生に教えるよう企てられ、学生の心に、他の民族国家に対する蔑視、憎悪を吹き込む効果を挙げて、学生達を、将来の侵略戦争に備えしめた、と。反対尋問にたった清瀬弁護士が、瀧川証人の帝大免職事情について質問したのち、将来の侵略戦争という言葉をどういう意味で使ったかと質問すると、「満州事変を含めて、それ以後のすべての戦争を自分は侵略戦争と考えている。当局が何と考えたかは、私の関知するところではない。事実は侵略戦争ということを示しているのだから、事実によって認めてもらうしかない」と日本人証人として初めて、満州事変、支那事変、大東亜戦争を日本の侵略戦争と断定する証言を行った。
 軍部の政治的圧迫、暗殺事件等の具体的立証としては、幣原喜重郎・犬養健・若槻禮次郎・宇垣一成の各氏を含む七人が証人として出廷、組閣大命が下った宇垣大将は、陸軍大臣の時縮軍を断行し、三月事件を中止させた事等の理由により、軍部大臣現役武官制を逆用して、陸軍大臣の推薦を拒絶、組閣の大命を拝辞せざるを得なかった、と口述書で証言した。また、罪状認否を最後に出廷できず不帰の客となった松岡被告からは、その抱懐する信念をその口から聞きえず、失ったことは、本法廷での審理の上からも、将来の大東亜戦争をめぐる歴史研究の上からも、誠に惜しまれると、筆者の冨士信夫氏はいう。たしかに、日独伊三国の共同謀議という訴追に対する松岡の弁論を聞きたかった日本人は多いだろう。
   (3)満州における軍事的侵略に関する立証
 ①1931年9月18日、柳條溝事件の発生は日本軍が軍事行動を開始するための一つの口実で、事件直後、朝鮮軍越境事件を含む日本軍の迅速な行動は、かねてよりの計画に基づくもの。②満州占領後溥儀を首領とする満州国を樹立したが、その実態は関東軍が操る傀儡政権に過ぎず、人事・行政の一切の権力を持っていた。③日本軍は侵略の手を熱河から内蒙古に進めたのみならず、万里の長城線より南方にまで兵力を進め、1933年塘沽停戦協定でその侵略を停止したが、日本はさらに将来の侵略を考慮して北支、内蒙に自治政権を樹立し、日本の軍事的・政治的・経済的統治権の拡張と強化に努めた、と冒頭陳述。
 四人の証人が出廷したが、最も異色だったのは元陸軍少将田中隆吉証人だった。大東亜戦争を迎えた昭和17年9月、東条陸軍大臣と戦争指導上の事で意見が衝突、健康上の理由もあって現役を去った。終戦後「敗因を衝くーー軍閥専横の実相」という本を著して陸軍部内の暗闘を暴露した異色の人物と見られていたが、昭和22年にはさらに「日本軍閥暗闘史」も著した。サケット検察官の巧みな尋問に答えて田中証言は、1928年(昭和3)6月4日の張作霖爆殺事件から始まり、関東軍参謀河本大作大佐以下十数名の計画の基づいて決行されたもの、1931年(昭和6)9月18日に発生した柳条溝事件(満州事変)は、満州侵略の口実を作ろうとする日本陸軍の陰謀であり、その主要関係者は陸軍中央部では参謀本部第一部長建川少将、橋本中佐、長大尉、民間では大川周明、関東軍にあっては板垣大佐、石原中佐であったとして、これらの人々の事変勃発前後の行動について詳細に証言した。さらに満州国独立問題に移り、長大尉が関東軍の独立を唱えて中央政府を威嚇し、それまで満州国の独立にさほど賛成でなかった中央政府を急速に独立賛成に傾かしめたと述べ、南関東軍司令官、東条関東軍参謀長の満州国に対する支配権行使の状況を証言、その後、冀東防共自治政府、冀察政務委員会、内蒙古自治委員会等、満州事変発生後に北支及び内蒙古に誕生した自治政権に対する土肥原、南、東条、梅津等関東軍首脳部にあった各被告の権力行使や活動状況の事にまで及んだ。アメリカの検察官はFBI出身者がいた。司法取引が行われたのだろうと冨士氏。
 事変発生当時奉天総領事館首席補佐として勤務していた森島守人が証言、田中義一内閣の対満積極政策、張作霖爆殺事件、昭和6年に入ってからの満州での緊張の高まり、柳条溝鉄道爆破発生時直後の事態収拾の話し合いでの板垣大佐、花谷少佐両参謀の威嚇的態度、その後の満州国の承認経緯について宣誓口述書で語った。さらに書証として事変勃発翌日の木戸日記、リットン報告書が朗読された。
    (4)満州国建国事情に関する立証
 検察側は、その建国は全く関東軍の策謀によるものであって、表面独立国を装わしめたが事実は関東軍が一切の指導権を持っていた傀儡政権に過ぎなかったと主張し、具体的に裏付ける最も強力な証拠として、溥儀前満州国皇帝を証人として喚問した。二日半にわたる溥儀証人証言の要点は「事件発生後、天津駐屯軍司令官香椎中将の強制により旅順に行き半年滞在中、関東軍司令官本庄大将は板垣参謀を派遣して、東三省で張学良が人民を圧迫し、日本の既得権益に対しても悪影響を及ぼしているので、この軍閥を追い払い、東三省人民の幸福のために新政権を作り、私が満州人なので、私に新政権の領袖になるよう伝達させた。私はこの申出を拒絶したが、板垣は不満のようであった。その後、彼は鄭孝胥及び萬縄械に向かって、私を新政権の首領に擁立しょうとする事はすでに関東軍が決定した政策でもあるから、もしこれを拒絶する時は、断固たる処置に出る旨語った。そのため両人及び羅振玉は、私に板垣の申し出に応じるよう勧めた。私は、真意に於いては拒絶したい意思を持っていたが、日本側の武力圧迫と、これら顧問たちの勧告により、やむを得ずこれに屈服した。・・・・建国当初板垣は満州国の完全な独立と私の意志通りの施政が行われることを約束したのだが、事実は全くこれと違って、関東軍が一方的に押し付けたものであり、皇帝としての私は、何ら自由な手も口も持っていなかった。リットン卿との会見も、日本軍将校の監視下で行われ、命の危険があったので、種々の事情を告げられなかった。・・・」
 弁護側の反対尋問に対する溥儀の証言は、終始一貫、日本の強制下全く自由意思がない傀儡皇帝に過ぎなかったとの主張で貫かれ、あるいは質問の論点を避け、忘れた、記憶がないと逃げる答弁に終始。裁判所に信憑性の疑念を懐かせるところがあったが、昭和6年9月以降日本の高官に、自分が復辟を受諾する意思を認めた書簡を出したことはないかとの質問、証人が否定するや、証人の家庭教師遠山猛雄が南陸軍大臣の許に持参したもので、後に昭和9年4月3日、満州国皇帝特使として来日中の鄭孝胥満州国国務総理が、溥儀皇帝の真筆に間違いないとその左下方に奥書した宣統帝御璽が押してある手紙を証人に示し証言を求めた。溥儀はしばらく見詰めていたが突然立ち上がり、中国語で絶叫した。翻訳すると「判事各位、これは全く偽造であります」と。その親書なるものを翻訳すると「今次の満州事変に対する中華民国政府の措置は、当を失している。友邦日本と戦いを開き、尊き人命を害した。余は甚だこれを憫む。ここに皇室の家庭教師である遠山猛雄を派遣し、余に代りて陸軍大臣南大将を訪問し、余の意のある処を伝達せしめる。我が朝は人民の苦しみを忍びぬ故に、政権を漢民族に譲ったのである。その後二十年も経過したのであるが、中華民国の政治は、進めば進むほど紊乱するに至った。これは実に我が朝の考え及ばざるところである。・・・」 児島襄氏によると、昭和39年北京で発行された溥儀著「我的前半生」のなかで、満州国執政就任についてもそれが自発的意思に基づくものであった事、南陸相宛親書も自筆である事なども認めている。ふーむ、歴史の真実を判定するのは、なかなか、困難な作業が伴う。
 溥儀が法廷から姿を消した後、検察側は満州国建国に関する関東軍の策謀を立証するものとして、合計二十通の電報を提出した。これらの電報は昭和6年11,12月の間に天津、上海、奉天、牛荘、遼陽、北平の日本総領事館から外務省宛ての電報、及び陸軍大臣から関東軍司令官宛ての電報だったが、19通の外交電報はいずれも満州国独立に関連する関東軍の動きを報告する内容のもので、先の溥儀証言の一部を裏付けるようなものが多かった。①上海村井総領事より幣原外務大臣宛て:当地漢字新聞は日本側は東三省の独立を扇動し・・・目下極秘裏に種々の手段を用いて宣統帝を奉天に連れ出さんと画策中なるも、皇帝は依然拒絶せられつつある為日本側は脅迫手段に出で居る旨掲載せり。 ②天津桑島総領事より幣原外務大臣宛て:土肥原は館員に対し、満州の事態を現状まで漕ぎ着けたるは、一に出先の軍部の活動にして、今後に於ける収拾上是非共に帝の擁立を必要とする場合、現政府が之を阻止するが如き態度にいづるは奇怪千万にして、果たして然りとせば、或いは関東運は政府と離れて如何なる行動にいづるやも保ち難し。   先に触れた森島守人証言と併せ考える時、関東軍の圧力により不本意な行動をとらされた外務省関係者の間には、満州国の誕生は全く関東軍の策謀によるものであって、外務省も中央も強くこれに反対していたのであるから、今その真相が裁判によって明らかにされるのは当然、という考えがあったためこのような結果になったのであろうが、弁護側が国家弁護を根本方針として弁護を保持しながら弁護を進めることの難しさを、冨士信夫氏は嘆いている。
   (5)中華民国ぼ他の部分における軍事的侵略に関する立証
 冒頭陳述は、1932年1月29日に始まる第一次上海事変、1937年7月7日の盧溝橋事件を経て、1941年12月8日大東亜戦争当日の第三次上海侵攻、上海共同租界の接収及び満州以外の中国全土に及ぶ日本の軍事侵攻の実態を述べ、これらの軍事侵攻には全被告に責任がある事を強調した。同陳述中、今後提出する証拠の紹介より、検察側の意見、結論と見られるものが含まれていたため、この点について裁判長から厳しい指摘を受けた。この項の立証の主眼点は、昭和12年7月7日夜発生した盧溝橋事件であった。戦争拡大の立証として、当時の中国第二十九軍副軍長秦徳純上将と河北省宛平県知事王冷斎の両人を証人、当時北平駐在アメリカ大使館付陸軍武官補デビット・パレット大佐の宣誓口述書だった。 秦徳純証人の第一の口述書は事件発生前の1935年6月、北察哈爾で日本軍将校二名と下士官兵が中国軍によって一時抑留され、土肥原少将と秦徳純副軍長との間に、土肥原・秦徳純協定が締結されるに至った「北察哈爾事件」について述べたもの。 第二の口述書は盧溝橋事件に関するもので、事件発生直前の河北・察哈爾両省方面の政治情勢を述べるとともに、日本の侵略段階を、分化離間・経済独占・武力脅迫に分けて陳述し、当夜の事件発生の状況を次のように述べている。日本特務機関長松井の電話は、「陸軍一中隊が今しがた盧溝橋付近で夜間演習中、駐屯する中国部隊から射撃を受け、演習部隊は呼名点呼の結果、一名行方不明なので入城して検査すると言っているが、どうすればいいか」とのこと、徳潤は折り返し「日本軍隊が勝手にわが国の領土内で演習するということは、国際法に違反したことである。事前に通知もなく、許可も与えていないので、わが方は何ら責任を負うことはない。もし事実兵隊が失踪しているならば、地方警察と一緒に代わって捜索してやれ」と外交委員会を通じて伝達した。その後の日本側とのやり取り、両軍の戦闘開始の模様から、7月28日の日支全面交戦に至るまでの経過も述べ、その全部の責任は日本側に在るとし、当時の華北駐屯軍司令官香月清司陸軍中将以下数名の名前を挙げた。
 この秦徳純証人に対し弁護側は8人の弁護士が立って反対尋問を行ったが、秦証人の証言は、自分に不利になると論点を避け、不必要に長い陳述を行い、あくまで全部の責任は日本側に在ると答弁する。ブルックス弁護人は、中国側の排日・悔日行為、中国共産党の活動が日支関係を悪化させた大きな原因であって、この事が満州事変、支那事変発生の遠因であるとの反対尋問を進めようとしたが検察側から宣誓口述書の範囲外であると異議申し立てにより、ほとんど却下された。
 検察側提出の三十通の証拠書類の中で、その後の経過から見て、日支関係に決定的な影響をもたらす結果になってしまったと考えられる文書が、昭和13年1月16日近衛内閣が出した帝国政府声明「帝国政府は南京攻略後尚支那国民政府の反省に最後の機会を与える為今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せずみだりに抗議を策し、内人民塗炭の苦しみを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし、よって帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」 この声明はトラウトマン駐支ドイツ大使の仲介努力が実らなかった結果、日本政府が発した声明だったが、蒋介石政権に絶縁状を叩きつけた格好になり、その時の日本政府の意図のいかんにかかわらず、この日以後日本軍は、広大な支那大陸での日支紛争の泥沼の中にさらに巻き込まれていってしまった、と見ることが出来ると冨士信夫氏。                                                                                                                                               

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東京裁判 3 (その概要、続)

2022年04月08日 | 歴史を尋ねる

 引き続き、A級戦犯の横顔を見ていく。   永野修身(海軍大将・軍令部総長:公判途中で病没) 日米開戦時の軍令部総長だった永野は、海軍の中の開戦論者の代表格で、真珠湾攻撃の決行を最終的に決断した当人であった。「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国かも知れぬ」「もはやディスカッションなすべき時に非ず。早くやって貰いたいものだ」「3年後にやるより今やる方がやりやすい」など。しかし勝算については永野は決して言質を与えなかった。自信がなかったのだ。かといって避戦の立場をとれば内乱が起きると考えていた。避戦派の旗頭であった井上成美海軍大将の「古来、敗戦で亡びた国はあっても内乱で亡びた国はない」という見方と正反対だった。     大川周明 (国家主義者:公判途中で免訴)  文学部哲学科でインド哲学を研究しているうちに、白人による植民政策の暴状を知り、アジア主義にめざめて次第に被圧迫民族解放の信念を抱くようになった。満鉄の東亜経済調査局で特許植民会社制度研究で博士の学位を得た。自ら抱く日本主義を推進するため北一輝、満川亀太郎らと猶存社を結成、国家改造をめざした。昭和維新をめざした5・15事件では、海軍将校たちに資金やピストルを渡して幇助罪に問われ、禁固刑が確定した。その後は政界新指導者層のブレーンの一人として影響力を発揮し、戦時中は汎アジア主義を鼓吹する著述活動をした。東京裁判では精神病院に送られ免訴となった。    大島浩(陸軍中将・駐独大使)経歴の過半を駐在武官として過ごした。最初が駐独、駐オーストリアの武官を経て、野砲連隊長に着いた後、駐独武官として渡独、日米開戦の引き金となった日独防共協定、日独伊防共協定の締結を強力に推進した。昭和13年予備役編入とともに駐独大使に出世した大島は、日独伊三国軍事同盟の締結を主張、その最中独ソ不可侵条約が締結され、この年、大使を更迭された。帰国後松岡外相の進める日独伊三国同盟の必要性を声高に主張、締結後の15年12月、再び駐独大使となって、敗戦後の昭和20年12月までその職にあった。    岡敬純(海軍中将・軍務局長:終身禁固刑)昭和15年10月から軍務局長の要職に就き、19年7月に海軍次官になるまで3年10カ月間もその職にあった。支那事変・太平洋戦争のほぼ全期間にわたって海軍軍政を担当、陸軍省の武藤章中将と同じ立場だった。陸軍に引きずられないようにと、国防政策を担当する軍務局第2課をつくったが、開戦推進派の石川大佐を据え、第3次近衛内閣の末期、和戦を決める時期に部内の反対を押し切って総理一任に海軍の態度を決定したことや、開戦後の陸海相対立する場面であやふやな態度をとり、この時期の嶋田繁太郎海相と共に部内からその弱気を痛撃された。    佐藤賢了(陸軍中将・軍務局長:終身禁固刑)内大臣だった木戸幸一は、検察の尋問に対して陸軍強硬派の中心は佐藤と武藤であると証言、最も若いA級戦犯容疑で逮捕された。議会で法案趣旨説明中、ヤジに対して黙れ発言をした人物で、当時は軍務課班長だった。そのあと、東条の下で軍務課長、軍務局長を歴任、東条軍政の中枢で戦争遂行の舵を取った。     重光葵(外相:禁錮7年)重光が特命全権駐華公使に抜擢された昭和7年、日中間でようやく第一次上海事変の停戦協定が調印に運びとなった。この調印式を前に公園で天長節祝賀会の壇上で、韓国の独立運動家が爆弾を投げつけ、多くの死傷者が出たが、重光は右足切断の重傷を負った。しかし重光はベッドで調印し、協定を調印させた。戦前戦後を通じて外相を4回努めている。最初が昭和18年の東条改造内閣で、当時に日本政府は汪兆銘の国民政府に、米英に対して宣戦布告をさせることと引き換えに、不平等条約の日華基本条約の撤廃を考えていた。東条はその推進のため重光を外相に据えた。それほど戦局は逼迫していた。その東条内閣がサイパン島陥落で瓦解し、小磯内閣に代わっても重光は留任した。降伏直後の東久邇宮内閣で、ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印式に日本帝国政府代表として署名した。29年の第一次鳩山内閣で副総理兼外相として日ソ国交回復交渉を成功させ、国連にも加盟した。     嶋田繁太郎(海軍大将・海相:終身禁錮刑)嶋田の軍歴で、軍政に関わった経験がない。その上海軍大臣に就任する前の4年間は、艦隊や鎮守府の司令長官に出ていて中央にいなかった。大臣に就任したのは日米開戦直前の昭和16年10月だった。就任の打診があった時辞退したが、海軍元帥伏見宮の勧告もあり、断り切れなかった。戦後嶋田は述懐、「私は敗戦には責任を感じるが、開戦には責任を感じない」と。大臣になって初めて御前会議にことを知った。そして伏見宮から「すみやかに開戦せざれば戦機を逃す」という言葉を聞くと、3日後の海軍省幹部を呼んで「この際戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対したため戦機を失しては申し訳ない」と、いともあっさりと日米開戦を伝えた。2週間前までなにも知らなかった人が、先輩の米内大将や同期の山本五十六連合艦隊司令長官など海軍首脳たちが身を張って主張してきた日米避戦論を無視する形で、陸軍の主張する戦争を決意した。以後嶋田は東条の副官などと揶揄されるほど、東条首相への協力を惜しまなかった。
  白鳥敏夫(駐伊大使:終身禁錮刑 服役中に病没)外務省の長老・石井菊次郎の甥にあたり、英語は省内きっての使い手であった。その白鳥は早くから軍部や大川周明などと関係を持ち、対米英強硬外交の主唱者であった。外務省の情報部長だった満州事変当時、白鳥は内閣書記官長だった森恪や陸軍の鈴木貞一中佐などと結び、満州事変に対する国際連盟の非難に対抗するため強硬外交の宣伝役をつとめた。そして軍部とタイアップして、連盟脱退への世論誘導に奔走した。以来、アジアモンロー主義を提唱して型破りを謳われたが、結局スウェーデン公使に追われた。しかしここでも大島浩と組んで日独防共協定成立に走り回り、昭和13年イタリア大使に起用されると、大島と組んで日独伊3国軍事同盟の締結交渉を強力に推進し、本国政府に圧力をかけ続けた。     鈴木貞一(陸軍中将・企画院総裁:終身禁錮刑)満州事変後の軍務局課員時代、白鳥敏夫などと連携して国際連盟脱退論を主張、軍の推進役となった。昭和16年4月予備役となった鈴木は、近衛内閣の企画院総裁として入閣、以来、東条内閣でも留任、18年10月まで総裁をつとめた。この時代、国防国家体制の確立と戦力増強計画の中心となった。鈴木が太平洋戦争で果たした最大の役割は、開戦直前の御前会議で、日本の経済力と軍事力の数量的分析を報告した。そこで鈴木は、石油の輸入を止められ以上3年後には供給不能となり、産業も衰退し、軍事行動もとれなくなり、中国はもとより満州、朝鮮も失うことになる、だから開戦して、南方資源地帯の占領の必要性を説明した。     東郷茂徳(外相:禁錮20年)東郷は外交官試験に5回挑戦してやっと合格している。31歳になっていた。この粘り強さが東郷の特徴で、外交官としてはエリート・コースを歩いた。駐ソ大使時代、モロトフ外相と折衝して日ソ漁業交渉、ノモンハン事件停戦交渉を成立させ、また日ソ不可侵条約、通商条約、日ソ中立条約締結交渉を進めた。16年10月、東条内閣の誕生で外相に就任したが、日米開戦を阻止することは出来なかった。17年9月、大東亜哨省設置に反対して東条首相と激論、外相を単独辞職した。その東郷に、鈴木貫太郎より外相就任以来が来て、入閣。戦争継続を主張する軍部大臣たちを向こうに回して、鈴木首相に協力して聖断に持ち込んだ。しかし、和平の仲介を最後までソ連頼りにしていたなど、外交官としてのキレと読みは鈍くなっていた。     東条英機(陸軍大将・陸相・元首相:絞首刑)昭和16年10月、首相に就任するや憲兵隊の中枢を関東憲兵隊時代の部下で固め、反東条勢力の弾圧に駆使した。満州の東条は憲兵司令官として腕を振るい、関東軍参謀長、陸軍次官に就任、中央に帰った。昭和15年7月、第2次近衛内閣の陸相として初入閣、翌16年10月に近衛が内閣を投げ出す夜、首相兼陸相・内相に親任された。しかし昭和19年7月、それまで絶対に防衛できると公言していたサイパンが陥落し、本土防衛が危うくなるや内閣を総辞職した。     梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長:終身禁錮刑 服役中に病没)陸軍士官学校・陸軍大学校をトップで卒業した梅津は、緻密・冷静な学究肌の軍人といわれ、政治の表面に出るのを極力避けていた。梅津が支那駐屯軍司令官のときに結んだのが「梅津・何応欽協定」(昭和10年6月)、ささいな事件を口実に河北省から国民党勢力を駆逐した。もう一つは、東京湾のミズーリ号艦上で行われた降伏文書調印式で、大本営を代表して署名した。当時参謀総長だった梅津は最初はこの仕事を拒否したが、昭和天皇がじきじきに説得し、已む無く引き受けた。

 以上28名のA級戦犯の横顔を見てきて気がつくことは、直接日米開戦に結び付く被告だけではなく、満州事変に関わった被告や三国同盟に関わった被告、日本で軍部台頭に関わった被告などが挙げられている。しかし絞首刑の判決を受けた被告には、日米開戦に直接関わった被告、南京事件に関わった被告、満州事変や華北分離工作などに関わった被告、さらには2・26事件後の軍部と妥協人事をした元首相などだった。日本の戦前の歴史をよく知らない海外の検察官がここまで深堀出来ているのは、検察官の精力的な事情聴取もあったと思われるが、木戸幸一や田中隆吉などへの尋問、そして木戸日記、原田日記、近衛公手記(「第二次乃至第三次近衛内閣に於ける日米交渉の経過」が本来の題号)なども活用された。
 28戦犯に対する検察の訴因(起訴事実)を整理して置きたい。3類に分けられ、合計55項目からなっている。第一類 平和に対する罪(第1~36項) 第2類 殺人及び共同謀議の罪(第37~52項) 第3類 通例の戦争犯罪並びに人道に対する罪(第53~55項)。 第1類の1項 1928年(昭和3)1月1日から1945年(昭和20)9月2日までの期間五、日本が東南アジア、太平洋、インド洋地域を支配下におこうとした共同謀議、 2項 同上期間、満州(中国の遼寧、吉林、黒竜江、熱河)を支配するための共同謀議、 19項 1937年(昭和12)7月7日、中華民国に対する戦争開始(日中戦争)、 20項 1941年(昭和16)アメリカ合衆国に対する戦争開始(太平洋戦争)。   第2類の39項 1941年12月7日午前7時55分、ハワイ真珠湾のアメリカ合衆国の領土と艦船、航空機に対する攻撃を行い、キッド少将他約4000名の陸海軍将兵及び一般人に対する不法な殺害の罪、 45項 1937年12月12日以降、南京市を攻撃して数万の中華民国の一般人と武装解除された兵員を殺害した罪、 52項 1938年7~8月、ハーサン湖区域でソ連邦軍の若干名を殺害した罪。    第3類の53項 1941年12月7日から1945年9月2日までの間、アメリカ合衆国、全英連邦、フランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソビエト社会主義共和国連邦の軍隊と捕虜と一般人に対する戦争法規慣例違反。
 この訴因をよく読むと、第3類通例の戦争犯罪は太平洋戦争が開始されて以降に限定されているが、第1類平和の罪は1928年(田中上奏文が流布された時期か?)まで遡り、第2類共同謀議の罪は1931年9月18日奉天郊外の柳条湖事件にまで遡っている。こうしたツジツマ合わせの不合理性について清瀬弁護人が法廷で取り上げているので、後述したい。

 以降は、東京裁判を構成した人々、裁判官、検察官、弁護団について概観しておきたい。先ず、裁判官の陣容について:裁判官は、マッカーサー元帥によって制定公布された「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて、降伏文書に署名した、米、英、ソ、中、豪、オランダ、仏、カナダ、ニュージーランドの9か国から出されることになった。しかし、条例が一部改正され、新たにインドとフィリピンの代表が加えられ11人となった。後に「被告全員無罪」の判決を下したのはインド代表のパル判事だった。ウエッブ裁判長の横顔:オーストラリア代表の弁護士。児島襄氏によれば「地方裁判所の古参判事といったところ」だという。彼は太平洋戦争終結直後、昭和17年日本軍がラバウル攻略に際して、約150名のオーストラリア人と現地住民を虐殺したといわれる事件の調査報告を出して知られることになった。天皇の訴追を強く求めていたオーストラリア政府は、そうした経歴を持つ反日色の強いウエッブを選んだ。実際、裁判は検察側に有利なように進められることが多く、検察に不利な発言や意見が弁護側から出されると、あからさまに遮ったり、理不尽に却下するなどといった場面がしばしば見られた。ただし、天皇を不起訴に決めているアメリカ政府を代表するキーナン首席検事とは、しばしば対立した。
 検察官の陣容:キーナン率いるアメリカの検事団が最も早く来日した。30人を超えるスタッフはFBI出身者が多く、彼らの導入したFBI方式のやり方で戦犯の選定作業が進んだ。スタッフは毎日スガモプリズンに足を運び、収容されている容疑者たちの聴取を精力的に行った。並行して米国務省は著名した9か国に代表検事と判事を派遣するよう要請、アメリカに次いで多くのスタッフを派遣してきたのはソ連で、残る他の国々は2~3名の法律家と数名の事務職員で構成された。首席検事ジョセフ・キーナンの横顔:検事時代、フランクリン・ルーズベルトを応援。ルーズベルト政権が誕生すると、司法長官特別補佐官に任命され、中央進出を果たす。ここでは暴力犯罪の防止策を講じ、ギャングの一層に努めた。こうしたギャング退治のボスだったせいか、キーナンは万事に高圧的で鬼検事と評され、他の連合国検事たちの評判はすこぶる悪かった。
 弁護団の陣容:弁護人には弁護士資格がない人でも良かった。しかし、被告人たちはかっての大日本帝国の政府や軍部の中枢にいた人たちだったため、弁護人選びは難航した。当初、被告とその家族は陸軍省や海軍省、弁護士会などの依頼、中には被告の知人、友人が自ら買って出る場合もあったが、東条英機被告の弁護人はなかなか決まらず、戦争末期、陸軍省の国際法顧問団に嘱託していた清瀬一郎弁護士に頼みこんだ。清瀬は引き受け、それまでの実績から弁護団の副団長も務めた。その清瀬は、法廷では裁判官を狼狽させるほどの論戦を展開する一方で、日本の戦争は自衛戦争だと主張して、関係者やマスコミから痛烈に批判された、と山崎遊氏(太平洋戦争研究会)は記述する。東京裁判の検事団は専門スタッフを500名ほど抱え、GHQの後ろ盾があったから、資料収集や証人尋問も自由自在に出来た。経費も潤沢だった。対して弁護団はスタッフは勿論日本人弁護士の大半は手弁当だった。資料集めや証人獲得もままならず、法廷では反日色を鮮明に打ち出す検察陣と判事団を向うに回して戦わなければならなかった。だが、日本人弁護士はもとより、アメリカ人弁護士も真剣に被告の弁護に取り組んだ。ただ、熱心組、被告が何を考えているかを盗もうとするスパイ組、そして中間組の3種類が居たといわれている。

 東京裁判の概要を語るにあたって、最後に本判決とは別に、11人の判事のうち5人が本判決に反対する少数意見を提出した。それを見ると、全員極刑の強硬意見もあれば、全員無罪の少数意見もある。日本が始めた中国や米英仏蘭に対する戦争ではあったが、日本軍部や政府の指導者に対する刑罰を科すことのむつかしさがあった。 ウエッブ裁判長(豪)の少数意見:被告全員を死刑にすることに反対した。その理由として、最大の責任を問われなければならない天皇が訴追されなかったことを挙げている。従って、本判決には論理的にも倫理的にも同意するが、量刑が著しく不当である、と。    レーリンク判事(蘭)の少数意見:・東京裁判は太平洋戦争に限定すべき。・共同謀議の認定方法に異議がある。・平和に対する罪では死刑を適用すべきでない。・通例の戦争犯罪では、岡敬純、佐藤賢了、嶋田繁太郎も死刑が相当である。・広田弘毅は通例の戦争犯罪では無罪であり、平和に対する罪では有罪だが、死刑にすべきでない。     ベルナール判事(仏)の少数意見:当裁判所は裁判所条例を自ら審査すべきだった。侵略戦争は不戦条約によるのではなく、自然法によって裁かれるべき。     ハラニーリャ判事(フィリピン)の少数意見:刑の宣告は寛大すぎ、これでは犯罪防止にも見せしめにもならないと強く非難。      パル判事(インド)の少数意見:(全員無罪の意見書を書いた) 一国の政策決定にかかわった指導者を共同謀議で裁こうとする考え方が非常識である。侵略戦争に関して明確な定義は確立されておらず、その国が自衛の為に武力を発動すると宣言すれば、当時にあっては自衛戦争だった。この観点から、不戦条約に関しては、取りまとめた一人である当時の米国務長官ケロッグが米議会で証言したことや、当時の田中義一首相兼外相との間に取り交わされた書簡などを証拠として取り上げた。そして、どの国にも自国以外での武力行使に関しても自衛の為だとすればこの条約に違反したことにならない、問題はその戦争を世界が是認するかどうかであって、それに関して世界の世論に対してその国が責任を負うべきものである、という論理で一貫させている。そう論じつつも、満州における日本の行動は、世界はこれを是認しないであろう、同時にその行動は犯罪として非難することは困難であろう、と。パル判決の終末は「時が熱狂と偏見を和らげた暁には、また理性が、虚偽から、その仮面をはぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」の一句をもって結んでいる。

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