「民主的再建は主として日本自体の問題」総司令部当局談

2019年10月29日 | 歴史を尋ねる
 巣鴨拘置所に出頭を指定された12月16日の朝、近衛公爵は自決した。公爵の遺言には「戦争に伴う昂奮と激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れたる者の過度の卑屈と故意の中傷と、誤解にもとづく流言蜚語と、是等一切の所謂輿論なるものも、いつかは冷静さを取戻し、正常に復する時も来よう・・・」と。
 公爵の死の五日後、12月21日、総司令部当局談が発表された。「・・・日本の民主化に関する基本的指令は一応出つくした。今後は日本の民主的再建は主として日本自体の問題となっている・・・」 堀切善次郎内相は、日本政府に対するGHQの励ましと受け止めた。指令は出つくした感じだった。①(9月2日)陸海軍解体指令、②(9月10日)言論および新聞の自由に関する覚書、③(9月19日)日本プレス・コードに関する覚書、④(9月22日)日本ラジオ・コードに関する覚書、⑤(9月24日)新聞の政府からの分離に関する覚書、⑥(9月27日)新聞および言論の自由に対する追加措置に関する覚書、⑦(10月4日)政治的、公民的および宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書(自由の指令)、⑧(10月22日)日本の教育制度の行政に関する覚書、⑨(11月6日)持株会社の解体に関する覚書(財閥解体指令)、⑩(11月18日)皇室財産に関する覚書、⑪(12月8日)制限会社の規制に関する覚書、⑫(12月9日)農地改革に関する覚書、⑬(12月15日)国家神道に対する政府の保証、支援、保全、監督および弘布の廃止に関する覚書。
 これらで、日本の政府、経済、教育、宗教、思想など社会全般にわたる旧体制の破壊が行われた。ポツダム宣言第12項は、降伏条件が履行され、日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立されれば、占領軍は撤退する、と規定している。日本民主化という降伏条件を実施するために必要な指令は、現在実行中で、後は自由で平和で責任ある政府が誕生すれば、占領は終わりになる。ゆえに自由で民主的な選挙をおこなえばよい、総選挙だ、と堀切内相は考えた。内相は内閣発足した二日後、10月11日、閣議に選挙法改正方針を提議し、了承を得た。

 「選挙年齢の引き下げ」「婦人参政」「大選挙区制」・・・などの内容であり、とくに「婦人参政」は米国でも実施されていない画期的なものであった。同じ日、幣原首相がマッカーサー元帥に会い、その婦人参政を含む「五大改革」を指示されたとき、泰然として受諾を回答したのも、すべて先取りする用意が出来ていた。その後、作成された選挙法改正案は、11月27日、開会した第89臨時帝国議会の冒頭に提出され、12月15日に議会を通過し、17日に公布された。その翌日、政府は衆議院を解散し、19日総選挙スケジュールを定めた。ところがこの予定表を総司令部に伝えると、選挙日程の発表を禁止された。選挙中止が指示されるのかと緊張していると、改正選挙法の英訳文の提出が求められ、続いて冒頭の「総司令部当局談」が発表された。「彼等も総選挙の早期実施を希望している。早目に帰国したいのだ」、堀切内相はそう感じ取った。
 松本烝治国務相は、総司令部当局談を憲法改正を促す黙示と理解した。政府は10月27日、「憲法問題調査委員会」を発足させていた。委員長:松本国務相。顧問:美濃部達吉東京大学名誉教授、野村淳治同名誉教授、清水澄枢密院副議長。委員:宮沢俊義東京大学教授、河村又介九州大学教授、清宮四郎東北大学教授、次田大三郎内閣書記官、楢橋渉法制局長、入江俊郎法制局次長、佐藤達夫法制局第一部長。ふーむ、当時の錚々たるメンバーだ。 日本の民主化を永続させるべく米国側が憲法改正をせまるのは必至とみられ、また、日本としても、民主的改革に見合う憲法の改正は必至と判断された。ただし、憲法改正は格別急ぐ必要がないというのが、政府および委員会の見解であった。「あらかじめ時期をかぎって、政治的に急いでおこなおうというなら、自分は委員を辞職したい」(美濃部達吉)、「内はともかく外から要請があった場合、いつでもこれに応じ得るように、切実にやむを得ないと思われる条項を深く掘り下げてゆかなければならない」(松本烝治)、「そりゃあ、ポツダム宣言を受諾した以上は明治憲法みたいに勇ましいのはダメでしょう。しかし、駄目だとわかっていても、人間の頭というものは一足飛びに進むものじゃない。せいぜい、吉野作造的デモクラシー、美濃部達吉的リベラリズムといったところでしてね」(宮沢俊義)、その美濃部達吉は、憲法改正の基本方針に関する意見書をまとめ、新日本を建設し民心を一新するためには、部分的改正よりも新憲法の制定に着手すべきだ、と強調した。では、どのような新憲法にするかといえば、美濃部の意見は、結局、旧憲法の部分的手直しを提議するにとどまった。

 松本国務相も委員たちも、憲法改正を無用だとは考えていない。ただ、新憲法の制定またはそれにひとしい大幅な改定をしなくとも、部分的修正によって民主日本の法的枠組みを規定することは可能だ、と判断していた。大日本帝国憲法の根幹は、天皇制という立憲君主制度を定めた点にあり、他の条項もすべてそこから派生している。権威の象徴ではあっても支配者ではない立憲君主の下での政治改革は可能であり、立憲君主制を共和制に変えなければ民主化が出来ないものではないから。議員たちの間にも、天皇制保持の声が高かった。
 斉藤隆夫議員(日本進歩党)「如何に憲法を改正するとも、之によって我が国の国体を侵すことは出来ない。統治権の主体に指をふれることは許されない」
 鳩山一郎議員(日本自由党)「わが日本に於て天皇が統治し給うということは、国民の血肉となっている信念である」
 北昤吉議員(日本自由党)「日本的民主主義とは、君民同治あるいは君民共治主義にほかならない」
 松本義一議員(貴族院)「天皇制廃止などという文字を見るだけでも、不快千万である」
松本国務相は、この世論に逆らって天皇条項に手を触れたら非常な論議が起る、と確信した。そこで、他の条項を改正することによって憲法の民主化を図ることにし、かつゆるゆると作業を進めて来た。だが、社会の改編を指令した後の総司令部当局談、とくに日本自体の問題だという表現は、警戒感を誘発した。革命の呼びかけでなければ、国家の基本法である憲法に対する介入を示唆し、それが嫌なら早く民主的に改正せよ、と催促しているようにも思えた。松本は、年内に各条項の改正に必要な検討を終えることにし、総括的検討のために天皇条項も対象に含めた。
 
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米軍の日本駐留

2019年10月26日 | 歴史を尋ねる
 日本進駐兵力は第八、第六軍計40万人であった。そのうち第八軍では2師団、翌年初めには1師団が帰国予定。第六軍は、第八軍よりも早期に編成されたので、それだけ復員資格を獲得している部隊も多く、来年前半にはほとんどが米国に帰る筈。結局は、日本占領は米軍復員と共に終了せざるを得ず、その時期は翌年の秋以降になることはないだろう。アイケルバーガー第八軍司令官はそう考え、マッカーサー元帥も同意見に思えた。9月17日、「日本占領の円滑な進展は、その目的のために当初に予想された兵力に思い切った削減を加えることを可能にした」「不測の事態が発生しない限り、日本占領の兵力は今後六カ月以内に二十万以上にはならない、残った兵力は、われわれの意思を保障するために十分に協力なものとなるであろう」と元帥は声明した。

 ワシントンはこの発言に反発した。日本が降伏すると政府幹部の人事異動が行われ、戦時中とは別の着想と構想が必要となった。冷戦によるヨーロッパの政情の不安定さ、アジアも軍事情勢は危機的流動性に満ちている。満州と北朝鮮に進出したソ連軍の動静は不鮮明で、中国では国府軍と中共軍が対立している。陸軍省は、有力は在日米軍の存在がアジア安定のための唯一最大の基礎となる、と判断し、兵力保持に苦慮していた。そこに兵力半減を約束するようなマッカーサー元帥の声明。国務省のアチソン次官は激怒した。元帥は日本占領の本質を全く理解していない、日本占領の根拠はポツダム宣言第六項、「吾等は、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せられるに至る迄は、平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張する・・・」 戦争のない新秩序を確保する手段として、①戦争を国家間の紛争の解決手段とみなす従来の戦争観を改め、戦争を犯罪とする新戦争観を確立する。②ドイツ、日本を戦争不能国に改造する。
 アジア諸国に安心感を与えるためにも、日本の徹底的改造は断行しなければならぬ。それが新戦争観に基づく米国のアジア政策の基軸になる、とアチソン。しかしことは慎重に運ばねばならぬ、日本改造は、一国が他国に干渉してその国を思いのままに作り替えるに等しいい作業、歴史に前例のない政治的テストケースだ。しかも、日本の民主化は一時的なものではなく、定着させ永続させねばならない。日本に無かった民主主義をよほど日本国民に理解させなければ、成果は期待できない。それには適切な手順が不可欠、時間もかけねばならない。それなのに、マッカーサー元帥は、日本占領が政治問題であるとの認識を欠き、米国のアジア政策の足を引っ張る声明を発表した。次官はトルーマン大統領にそう述べると、大統領も同感した。「彼の声明は、とんでもない損害を与えることになる。何という出しゃばりだ」と。

 一方で、マッカーサーはここで本国に帰っても満足できるポストの空きはない、現在の地位を保持続けるのではないかと、アイケルバーガー中将は考えた。
10月2日、総司令部の機構改革が実施された。参謀部が、一般参謀部と特別参謀部とに分かれ、特別参謀部にそれぞれ担当事項を持つ九局が所属することになった。①民政局:中央、地方の政治および行政一般。②経済科学局:経済、産業、科学。③民間情報教育局:教育、宗教、美術、言語、映画、演劇、出版、放送。④天然資源局:農業、林業、水産業、鉱業。⑤公衆衛生福祉局:公衆衛生及び社会福祉。⑥法務局:B、C級戦争犯罪者の調査。⑦統計資料局:占領軍の非軍事面の統計、資料の作成。⑧民間通信局:電信、電話、郵便。⑨民間諜報局:占領軍内部の防諜公安。日本国内の検閲、傍受。警察、消防、刑務所、海上保安行政の指導、監督。この9局はそのまま日本政府の機構に対応した。特別参謀本部の設置は、各省に対する指導による降伏条件履行の促進策でもあった。特に、民政局が重視され、総司令官にたいして四項目について勧告する権限を与えられた。イ、日本政府及びすべての下部組織、行政区画の非軍事化。ロ、地方分権化および地方権限の増大奨励。ハ、人民による政府の出現を妨げる封建的全体主義的慣習の除去。ニ、日本の潜在戦力を持続させ、占領目的達成を妨げようとする政府と実業界との関係の排除。 そして民政局は、日本の民主化に必要な法律、制度を自由に改変する権限を持った。

 そして元帥は中将に折に触れ語るようになった。この占領は三年間はつづくよ、日本が大丈夫だと得心が行けば帰国するが、それにはまだ長い時間がかかるだろう、と。占領に期限はない、日本の民主化が完了すれば占領軍は引き揚げる、とポツダム宣言に規定されているだけだった。戦時中からこの時点までに変遷があるが、占領の終結すなわち講和時期について、米国側には、早く故国に帰りたいという軍人の希望以外には、なんの腹案のなかったことが理解できる、と児島襄氏。

 機構改革に際し、民間諜報局長E・ソープ准将は、総司令部内に回覧した覚書で、「いまや、総司令部の直接命令がなければ、日本国民は諸指令が求めるいかなる屋内清掃(政治改革)の措置を取ることも、無さそうである」と強調した。この観察はおかしいと、児島襄は声を挙げる。米国は日本を非民主国と見定めた。そして、どこをどうすれば民主国に出来るかの方針を策定して、総司令部が次々と指令を連発、日本側はすべてを唯々として実行する。この解釈を裏書きするように、総司令部の動きは活発になった。戦争犯罪人特に政治指導者を対象とするA級戦犯については、9月11日に元首相東條英機ら39人が指名され逮捕されて以来、音沙汰なしの状態が続いていた。11月20日、ドイツでナチスA級戦犯を裁くニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、被告席に並んだ旧指導者は22人。日本では、マスコミがしきりにかっての指導者を弾劾して戦争犯罪人の列に加えるべきだと主張したが、総司令部は沈黙していた。ドイツ事情に照合して戦犯指名は終わりだとの観測が広まった。すると、12月2日、梨本宮守正大将、元首相広田弘毅を含む59人の戦争犯罪人指定が発表された。ついで四日後、さらに9人が指名され、その中には、元内大臣木戸幸一と並んで元首相近衛文麿公爵の名前もあった。合計百七人、旧指導者は根こそぎ逮捕され、さらに皇室にも累が及ぶのではないか、と国民は改めて衝撃を受けた。
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満州の悲劇と蒋介石の戦略

2019年10月17日 | 歴史を尋ねる
 戦後を追いかけていたが、戦後は未だだった。上記の重大な事実に触れないわけにはいかない。丁度よい資料がないので、ウイキペディアの資料を参考にしたい。

 8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(1938年4月1日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。

 一方、満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出したため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。

 ソ連軍は軍紀が乱れ、赤軍将兵により日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発した。8月14日には葛根廟事件が起こった。ソ連軍により、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。

 一方ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。

 皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。

 2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。

 8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。

 戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事件も発生した。

 また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

 満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続き、撫順市や長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。

 1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は蒋介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転した。

 1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。

 旧満州国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍はウランフによって人民解放軍に編入され、チベット侵攻などに投入された。

 1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満州国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)。ソ連軍から引き渡された満州国関係者の多くは撫順戦犯管理所で中国共産党の思想改造(洗脳)を受けたが、毛沢東によって元満州国皇帝の溥儀はロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連より優越している中国共産党の証左として政治利用されることとなった。溥儀は釈放後、満州族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

 満州事変に関する書籍は沢山あるが、満州国の終焉と関東軍の終息について語る書籍はあまりない。概要であるが、ウイキペディアによる「満州国」は貴重である。そして、岡崎久彦は「百年の遺産」で次のように語っている。
 武装解除してしまった側には、何の交渉力もない。もう相手の文明度に信頼するしかない。米国は、ポツダム宣言の、「吾等は右条件より離脱することなかるべし」という約束を弊履のように捨て、無条件降伏を強要した、と岡崎氏。しかしソ連の軍隊の行動の野蛮さは、そんなことと比べ物にならない言語に絶するものであった、と記述。
 全ユーラシア大陸が戦乱の生き地獄と化していた1945年前半、満州は唯一の楽土で、空襲で家を失い、食糧に窮していた日本人の中には、家族で移住する人もいた時、突如ソ連軍が侵入してきた。今から思えば、居留民、婦女子が全部引き揚げるまで武装を維持し、大連のの港で武装解除して、日本に撤兵するよう大本営が命令すればよかった、と。関東軍総参謀長秦彦三郎がは、武装解除の大本営命令に従って、日本軍の名誉と居留民の保護に万全を期せられたいと強く申入れ、ソ連軍の快諾を得て降伏したが、その約束は一顧だにされなかった、と。
 ソ連側は、日本人民間人に暴行、略奪をほしいままにし、民間人死亡者は176,000人にのぼった。さらにポツダム宣言にも国際法にも違反して、575,000人の日本将兵をソ連に拉致し、強制労働を課した結果、約60,000人が虐待と栄養不良で死んだ。ソ連邦が解体して、種々の証言が出てきたが、ロシア人の言うことは、あの頃はロシア人自身がそういう目に遭っていた、と。共産主義者の非人道性によってロシア人自身が惨苦を受けていたということだが、武装解除した以上、勝者の言いなりであり、その時の勝者の人間性によってどんな目にも遭うと、岡崎氏は結論付けている。勝者による一方的な戦争裁判の下に呻吟した東郷茂徳元外相は歌っている。「いざ児等よ 戦う勿れ 戦はば勝つべきものぞ ゆめな忘れそ」

 他面、満州の悲劇は、戦後左翼思想の跋扈する中で、関東軍が入植者を見捨てて真っ先に逃げたという伝説を生んだ。東部正面の第百二十四師団は、ソ連軍主力の猛攻を五日間支え、牡丹江在留邦人3万人の後退を完了させてから停戦した。西部の第百七師団も健闘して邦人を避難させた。内蒙古の駐蒙軍は邦人引揚げ迄、ソ連軍進駐の猶予を求めたが容れられず、善戦して四万人の張家口邦人全員引き上げを完了させた。一方で、大本営命令に従って早期に武装解除した地域、軍から遠く離れた地域には惨劇もあり、それぞれの環境は千差万別だったが、故意に邦人の生命を無視した、などということは、当時の日本人の心情として、考えられない、と岡崎氏。

 中国からの引き揚げは対照的であった。日本軍将兵110万人、在留邦人50万人は、整斉と日本に引き揚げた。満州と違い、本土とさえ違って、日本軍が武力を保持して居留民保護の責任を果たしたのが直接の要因だったが、それを許したことも含め、蒋介石の戦略的考え方がその背後にあった、と。
 蒋介石は、もともと中国共産党を掃滅してから、日本に立ち向かう戦略だったが、西安事件と盧溝橋事件で不本意のまま順序が逆になって8年が経過した。蒋介石にとって何より必要なのは、日本軍の占領地域と、その武器弾薬が保存されてそのまま国民党軍に引き渡されることであり、そのためには日本軍による秩序の維持と整斉たる占領地、武器の引き渡しが必要だった。しかし、それが出来なかった満州の武器弾薬が中共軍の手に入り、中共軍の反撃の端緒となった。
 他面、日本人引き揚げが順調に行った背後には、南京事件以降、綱紀粛正に努めた日本軍と現地人との信頼関係があったから。もし戦後の史観が説くように、日本軍が中国全土で暴行、凌辱を極め、中国人の怨嗟をかっていたら、蒋介石が何といおうと、とてもこうはいかなかった、と岡崎は推察する。たしかにそれが、歴史を見る自然な観察であろう。
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外務省の講和研究

2019年10月12日 | 歴史を尋ねる
 昭和20年11月21日、外務省に「平和条約問題研究幹事会」が組織された。平野条約すなわち講和条約について、取り敢えず事務担当者による「予備的研究」をおこなっておこう、という趣旨のものであった。戦闘は休戦条約で停止し、戦争状態は講和条約で終止する、といわれる。しかし、日本は敗けた。占領された。実際には戦争は終わったのである。今さら戦争を終わらせる講和条約は不要ではないか。日本の現状は、すでに戦後そのものである。
 外務省も連合国側は対日講和条約に至急の関心を持たないのではないか、と推理した。国際連合が成立する二日前、10月22日、外務省条約局第二課は、「平和条約締結の方式および締結時期に関する考察」を纏めていた。この中で、第一次大戦後の対ドイツ「ベルサイユ講和条約」の主要項目に注目した。①戦後世界の平和機構(国際連盟9の設立、②戦争犯罪人の処罰、③領土、④賠償。これらのうち①は現に誕生(国際連合)しつつあり、対日講和条約に規定する必要はない。②は、すでに日本が受諾したポツダム宣言に含まれている。③に関しては、同じくポツダム宣言第八項がある。「日本国の主権は、本州、北海道、九州および四国並びに吾等の決定する諸小島に局限される」 第一次世界大戦の際、領土問題について民族自決を基調にするウイルソン米大統領の「十四か条」宣言があったが、内容は抽象的だった。ヨーロッパの複雑な地理的民族的諸相」に対応して領土問題を解決するには、講和条約で規定せねばならなかった。今回の場合、カイロ宣言およびポツダム宣言で日本の領土問題も処理されていると見做されるので、この面から対日講和条約を急ぐ理由は、連合国側にはない。④の賠償問題も、前大戦のフランスの経済的被害が大きかったが、今次大戦で賠償を取ろうとして汲々としている国家は見当たらない。日本の経済力は破壊され、賠償させようにも多くを期待できない実情もある。従って、講和条約を緊急としない事情がうかがえる。
 しかし、第二課はそれでも対日講和条約は必須且つ必至だと判定した。戦争が国際関係である以上は、その開始が外交の断絶と宣戦という国際法上の手続きを必要とするように、終結もまた実体的なものだけでなく、法的処置がとられねばならないからである。日本は、敗戦によって他国に併合されたのでもなく、国家が分割されたものでもなく、いずれは交戦国との間にも平和関係が設定される。平和関係の回復は、講和条約の締結によらねばならない。連合国側は、すでに枢軸国に対する講和条約の起草を公約している。日本だけだ除外される理由はない。折から連合国側の冷戦は明確な姿を見せ始めている。勝利の果実をどの国がどれだけ入手するかを調整し、アジアの安定を図って各国が果実を享受するためには、対日講和条約での規定による以外に、方法はない。ポツダム宣言との関係においても対日講和条約は必須だ、と条約局第二課は考えた。

 ポツダム宣言は、日本が降伏条件を実行するまでは占領を続ける旨を規定する。言い換えれば、日本は占領の終結とともに主権を回復して国際社会に復帰するが、そのとき、ポツダム宣言も降伏文書も無効になっている。日本と連合国との新たな国際関係を規定する法的協約、講和条約が結ばれなければ、日本は主権国家としての法的基盤の失ってしまう。
 ポツダム宣言は第八項で「吾等の決定する諸小島」に限定した。吾等が連合国を指すとすれば、その決定は対日講和条約によらざるを得ない。その意味でポツダム宣言第八項は講和条約の締結がなければ実施できないことになる。さらに言えば、講和条約を結ばなければいつまでも占領を続けなければならず、占領の終結を規定したポツダム宣言の条項(第十二項)に矛盾する。第二課が、以上の判断を下して講和条約の到来を確信し、外務省幹部も準備の必要を感じて、「平和条約問題研究会幹事会」を発足させた所以でもあった、児島襄は詳細に当時の外務省の動きを追跡している。ふーむ、現在に引き直せば、ロシアとの平和条約締結も、この講和条約締結と同じ動機である。日本が北方四島を議題にする所以でもある。

 第二課は検討対象に、①講和条約の内容、②講和条約の方式、③日本の参画の有無、④講和の時期。①については、平和機構(国際連合)への参加条項、領土条項、賠償条項、債権・債務条項(戦災を受けたアジア諸国に対する日本の債務額と支払方法)、軍備制限条項(日本軍隊の解体と再軍備に利用される産業の禁止)、工業制限条項(商船、航空機など)、多国間条約の復活条項(郵便、電信など生活条約)、保障占領条項(降伏条件実行の保障のための日本の占領)。第二課は保障占領に強い関心を抱き、日本を安全国家にしておくために、占領軍が引き揚げても、自分たちの安全保障のために軍事力を駐留させて監視と圧迫を続けるのではないか。②については、全面講和か単独講和か。③について、講和会議に日本代表が出席して、権利として発言できるか。政府代表は先方の提案に署名調印するほかないか。④日本にとって待ち望む日であるが、その日はいつか。すべては連合国側の都合次第である。
 外務省が講和問題の研究を開始したこの時期に、米国はじめ連合国側には、対応する具体的な動きは見られなかった。

 日本側が最も知りたい講和の日、占領終結期に関しては、米国では早期終了説が有力だった。米国の硫黄島上陸の五日前、2月14日。国務省極東地域委員会では、日本占領に関する覚書が作成された。まず結論。日本占領は一年ないし五年またはそれ以上の期間にわたるべきだ、との意見があるが、我々は日本の内政に責任を持つべきではなく、主な占領目的を達成し次第、速やかに日本を退去すべき、と。理由。①米国および連合国の対敵国政策の基本は、処罰と安全保障にある。米国の安全は、米国とその味方を強くし、敵を弱いままで置くことによってのみ、保持される。米国が優先的に関与し支援するのは、ヨーロッパ諸国および中国、フィリピン、朝鮮などの味方であって、日本ではない。日本の侵略を受けた国々の被害が、その復興能力を上回っていることを、忘れるべきでない、と。覚書は、米国は敵を強くする必要はない、という立場を強調した。「占領は、封鎖よりも費用が掛かる。戦争が終わった後も、日本のために米国の納税者に負担をかけるのは、避けねばならない」と。
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飢えとインフレ

2019年10月05日 | 歴史を尋ねる
 昭和20年秋の日本国民は飢えていた、と児島襄は記述。特に空襲を受けた大都市の食糧難はひどかった。戦時につづいて配給制度は維持されたが、国外貿易は途絶え、国内生産は減少し、流通機構も輸送手段も麻痺しているとあっては、配給すべき糧食が不足する。東京都の場合、十月に家族四人世帯が配給を受けたのは、米24キログラム、うどん四把、代用粉4キログラム、大根75匁、魚120匁であった。四人家族が切りつめても12,3日分の量で、残りはイモ類、主に甘藷の買い出しで補給する。食料の買出しは戦時中も行われたが、敗戦後に急激に増えた。買出し乗客数は東京都人口の三分の一以上が動いた。食糧難、生活苦は、インフレによってより悪化された。戦時中の巨額の国債は紙片並みになり、戦後経済は、実質的裏付けのない銀行券の発行でまかなわねばならなかった。敗戦時302億円だった日銀券発行残高は、20年末に500億円を超えていた。
 当然に物価は上昇し、売手市場である農村は、あてにならぬ紙幣よりは衣類などの物々交換を要求し、おかげで都民はなけなしの衣類で甘藷を買うタケノコ生活を余儀なくされた。失業者が増えた。離職してかつぎ屋になり、食うための買出しから売るための買出しが加わった。物資のヤミ値も高騰するばかりだった。

 占領軍もインフレを促進した。米軍は日本で使用するためにB円軍票を用意していた。すでに敗戦前、米兵には一ドル対十円の比率で給料三億円が軍票で支払われ、沖縄で使用済みであった。インフレが予期できる戦後日本で大量の軍票が使用されると、通貨はますます膨張する。日本側は米軍に訴え、つぎの条件で軍票使用を中止させた。①軍票の代わりに日本円を支給する。日本銀行に占領軍名義の円勘定を設け、必要な資金は日本政府が払込む。②米軍保有の軍票は等価で日本円と交換する。 ③米軍が本国に送金する場合の交換比率は、一ドル=十五B円とする(戦前の為替レートは一ドル=約四円)
 この措置は、米軍が要求する物資、施設、労力の調達要求に応ずることは、その費用分の日銀券増発を必要とするからであった。また、米兵が儲けることにもなった。日本の美術品、骨董品などが割安で買える。また、PXで安値で仕入れたタバコ、キャンディその他をヤミで流せば、結構な収入になる。軍物資の組織的な横流しがはじまり、米兵の財布は膨らみ、ヤミ値も釣りあがった。

 
 食糧難を克服するため、幣原内閣が誕生する前日、農林次官は全国都道府県知事に「未利用資源による粉食の推進に関する指導要領」を通達した。列挙された材料は、甘藷茎葉、桑残葉、雑海藻、大根葉、蜜柑皮、団栗、澱粉粕、よもぎ、ブドウ種、カボチャ種子、南瓜茎葉、さなぎ、茶屑等々。どこまで本当に実施されたか、さすがに児島氏は記述していないが、団栗粉でつくったパンを犬が跨いで通る漫画が、新聞に掲載されたほどっであった、と。
 政府は10月30日、米の供出価格を従来の一升92銭から一円五十銭に引き揚げ、強制買い上げなど、必死に供出促進措置を取ったが、効果はなかった。農家は一升百五十円のヤミ売りを選び、より一層に主食と縁遠くなった一般市民の生活は、一日平均千二、三百カロリーの低栄養レベルに落下していった。農林省は、11月6日、20年産米予想高を発表した。四千六百万石、明治43年以来の凶作だった。東久邇宮内閣の末期、農林省は収穫高を五千五百万石と予想して、この数字を引き継いだ幣原内閣は四百万トンの主食輸入許可を司令部に要請。米に換算すれば二千四百万石に相当した。実際には、収穫高は四千万石を割る三千九百万石に留まり、供出割当約二千六百万石は、翌年三月になっても、その37%しか達せられなかった。農林省の発表は国民に衝撃を与えた。一千万人が餓死する、それを裏付けるように、各地で餓死者が発生しているとの報道が相次いだ。
 「始まっている『死の行進』 餓死はすでに全国の街に」とは、東京朝日新聞の見出しであるが、各地の餓死者を伝えた。東京朝日新聞の記事は総司令部の関心をさそい、公衆衛生福祉局から将校が同社を訪ね、記事の取材方法を質問すると共に、死体解剖をふくめて餓死問題に徹底的な調査のメスを入れることになった、と報道している。公衆衛生福祉局長サムズ大佐の覚書によれば、報道された引揚者の死は病死、餓死者はいずれも駅などに住む浮浪者で、疲労と栄養失調と秋冷に耐えられぬ環境が死亡の原因と判明したので、「本件は社会問題に非ず、福祉問題である」と。また、「食料不足も生産問題に非ず。行政問題にして、政府の施策により解決可能なり」と。ものはある、政府が出させないのだ、との趣旨の批判をした。政府は生鮮食料品の統制を全廃する、と発表。「是は食料の解放にして、物価も安定に向かうだろう」 マッカーサー元帥が幣原内閣に示した日本改造五項目の中の「経済の民主化」にかなう。サムズ大佐も満足の意を表明した。
 統制撤廃の翌日、各都市に魚、野菜が一挙に出回った。農林省は係員を派遣して状況を調査させた。米国側がいう自由経済は、政情の安定、産業・貿易の自由などのより、物があることを前提にしている。だが、日本には物があるにせよ、少ない。増やす手段も機会も、与えられていない。そんな環境で、政府の手綱が切り離されたらどうなるか。統制撤廃は、そのままヤミ値とヤミ市場の公認となり、物価を上昇させるだけではないか。

 政府は調査によりある程度の安堵感を得た。この日に記録された自由値段は、公定価格の五、六倍以上の高値は見当たらなかった。市民たちの反応も意外に明るかった。公定価格の数倍で、収入も乏しいく、高値の花であったが、市民たちは耐乏生活に慣れてもいた。敗戦までの昭和の二十年間は、満州事変、支那事変、太平洋戦争と、準戦時又は戦時体制が続き、生活の窮乏度は増すばかりであった。食料不足も体験ずみであった。戦後生活も、市民にとって突然の災厄の襲来ではなかった、といえる、児島氏の記述である。配給とヤミ買いとは違って、皿に山盛りになった魚、積み上げられた野菜を自分の手で買えるのは、懐かしい平時の日の訪れ。「高いが、あるねェ」そんな喜声に似たつぶやきが聞えた。
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