岩崎は内外の有力海運業者との競争に勝ち抜いただけでなく、荷為替金融を始め、さらに海運事業から派生した海上保険や倉庫業などの、のちの三菱財閥の主力事業の芽も育てていった。P&O汽船会社との競争のあと、三菱は沿岸航路の貨物輸送の7割以上を独占する。明治9年に明治維新政府から三菱に第二命令書が交付された。第一命令書にあった一年の試験期間の成績を評価し、15年間の助成を再確認された。明治10年の西南戦争による軍事輸送で三菱は再び政府の御用を引受け巨額の利益を獲得した。さらに保有船舶を大きく伸ばした。圧倒的な輸送能力を整備する一方で、海運サービスの市場ではこの機を逃さず、旧来の商習慣を改める好機と捉え、油断することなく果断奮発するよう檄を飛ばした。
順風満帆に見えた三菱の海運事業拡大にも問題が生じてきた。一つは大規模になった海運隊に対して、十分な荷主旅客を確保することが出来るか、いま一つは西南戦争による厖大な戦費が政府の不換紙幣増発によって賄われた為に、戦後のインフレが亢進した。海外航路などの経費は銀で支払う三菱にとって厳しい状態となった。そのため海外航路は紙幣ではなく銀貨で支払うような料金制度に変更した。こうした改定は運賃が高すぎるとの批判を生じさせ、三菱批判の萌芽となった。三菱の影響力が大きくなるにつれて、反発も大きくなるが、その一つに「兼業」への批判であった。助成を受けながら、兼業拡大するとは何事だという訳であった。その批判の的にされたのが、高島炭鉱の引受けと長崎造船所の借受であった。高島炭鉱の開発は江戸時代の後半期であったが、本格化するのは幕末に入ってからであった。肥前藩はグラバーと共同経営の契約を結び、同藩が汽船を購入する代金に石炭売却代金を充てようとした。廃藩置県後の明治5年鉱山心得書が布告され、外国人の鉱山経営への投資が禁止された。この法令は高島炭鉱の利権流出危機に対処して明治維新政府が急遽制定したものであった。明治6年、いったん官営事業となったが明治7年後藤象二郎に払い下げられたが、経営が行き詰まり、福沢諭吉が手を差し伸べ、諭吉が弥太郎に話を持ち込んだ。弥太郎は逡巡したが、弥太郎の弟弥之助は後藤の女婿であった。斡旋が始まって1年9ヶ月後にやっと弥太郎は引受けた。このとき弥太郎は「鉱山は当たるものもあれば当たらぬものもある。いはば僥倖を頼む投機と変わりがない。自信は盛事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。故に事業は必成を期し得るものを選び、一旦始めたならば百難に撓まず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ」と語っていたそうだ。
長崎造船所は文久元年(1861)江戸幕府が開設した長崎製鉄所を起源とし、新政府となってからは工部省直轄の官営事業として整備されたものであった。事業内容は日本沿岸で活躍する蒸気船の修理で、他の官営事業の例に漏れず、経営的には厳しい状態が続く企業体であった。三菱は明治政府に「長崎造船所貸渡之儀に付伺」を出してから、事業に着手した。この辺の史実は陰謀説とかいろいろとり沙汰されているが、明治17年前触れもなく、政府から長崎の貸与の話が持ち掛けられた。三菱側からは突然の話であった。弥之助は積極的な姿勢を示し、部下に検討を指示した。どうやら工部省がイニシアチブをとって最も適切と判断される貸下げ先を選定し、その条件に三菱側が相応の条件を表明して、交渉の上で確定されたものであると武田氏は推定している。