西南戦争による飛躍と三菱の多角化

2012年05月29日 | 歴史を尋ねる

 岩崎は内外の有力海運業者との競争に勝ち抜いただけでなく、荷為替金融を始め、さらに海運事業から派生した海上保険や倉庫業などの、のちの三菱財閥の主力事業の芽も育てていった。P&O汽船会社との競争のあと、三菱は沿岸航路の貨物輸送の7割以上を独占する。明治9年に明治維新政府から三菱に第二命令書が交付された。第一命令書にあった一年の試験期間の成績を評価し、15年間の助成を再確認された。明治10年の西南戦争による軍事輸送で三菱は再び政府の御用を引受け巨額の利益を獲得した。さらに保有船舶を大きく伸ばした。圧倒的な輸送能力を整備する一方で、海運サービスの市場ではこの機を逃さず、旧来の商習慣を改める好機と捉え、油断することなく果断奮発するよう檄を飛ばした。

 順風満帆に見えた三菱の海運事業拡大にも問題が生じてきた。一つは大規模になった海運隊に対して、十分な荷主旅客を確保することが出来るか、いま一つは西南戦争による厖大な戦費が政府の不換紙幣増発によって賄われた為に、戦後のインフレが亢進した。海外航路などの経費は銀で支払う三菱にとって厳しい状態となった。そのため海外航路は紙幣ではなく銀貨で支払うような料金制度に変更した。こうした改定は運賃が高すぎるとの批判を生じさせ、三菱批判の萌芽となった。三菱の影響力が大きくなるにつれて、反発も大きくなるが、その一つに「兼業」への批判であった。助成を受けながら、兼業拡大するとは何事だという訳であった。その批判の的にされたのが、高島炭鉱の引受けと長崎造船所の借受であった。高島炭鉱の開発は江戸時代の後半期であったが、本格化するのは幕末に入ってからであった。肥前藩はグラバーと共同経営の契約を結び、同藩が汽船を購入する代金に石炭売却代金を充てようとした。廃藩置県後の明治5年鉱山心得書が布告され、外国人の鉱山経営への投資が禁止された。この法令は高島炭鉱の利権流出危機に対処して明治維新政府が急遽制定したものであった。明治6年、いったん官営事業となったが明治7年後藤象二郎に払い下げられたが、経営が行き詰まり、福沢諭吉が手を差し伸べ、諭吉が弥太郎に話を持ち込んだ。弥太郎は逡巡したが、弥太郎の弟弥之助は後藤の女婿であった。斡旋が始まって1年9ヶ月後にやっと弥太郎は引受けた。このとき弥太郎は「鉱山は当たるものもあれば当たらぬものもある。いはば僥倖を頼む投機と変わりがない。自信は盛事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。故に事業は必成を期し得るものを選び、一旦始めたならば百難に撓まず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ」と語っていたそうだ。

 長崎造船所は文久元年(1861)江戸幕府が開設した長崎製鉄所を起源とし、新政府となってからは工部省直轄の官営事業として整備されたものであった。事業内容は日本沿岸で活躍する蒸気船の修理で、他の官営事業の例に漏れず、経営的には厳しい状態が続く企業体であった。三菱は明治政府に「長崎造船所貸渡之儀に付伺」を出してから、事業に着手した。この辺の史実は陰謀説とかいろいろとり沙汰されているが、明治17年前触れもなく、政府から長崎の貸与の話が持ち掛けられた。三菱側からは突然の話であった。弥之助は積極的な姿勢を示し、部下に検討を指示した。どうやら工部省がイニシアチブをとって最も適切と判断される貸下げ先を選定し、その条件に三菱側が相応の条件を表明して、交渉の上で確定されたものであると武田氏は推定している。


二百有余年の旧慣を改める

2012年05月25日 | 歴史を尋ねる

 上海航路の第一便が横浜から出港する際、その船には副社長岩崎弥之助(弟)が乗り込み、弥太郎は母と長男を連れて横浜埠頭で見送ったと伝えられている。弥太郎は心中期するものがあった。国内の競争相手である帝国郵便蒸気船会社を吸収合併した岩崎弥太郎の経営目標はパシフィック・メイル社を代表格とする外国汽船との競争に勝つことであったと、武田晴人氏はその著書「岩崎弥太郎」でいう。それはまた、保護を前提として明治政府が求めていることでもあった。弥太郎は「外国汽船会社の跳梁を拝し、我国海運の自主自立を図るためには、社員各自が国家的使命感に徹して奮励し、国民の期待に応える覚悟がなければならない」と抱負を述べている。

 しかしその実現はそれほど簡単ではなかった。岩崎が受け継いだ船のうち、帝国郵便蒸気船会社の船はほとんどが老朽船であった。もう一つは西欧の海運業と日本の海運業の違いであった。日本の海運業は、船主の商人が港で積荷を買い取って運搬し、他所で売却する自己運送方式が主流であった。一方外国会社の業態は商品の売買をやらず、もっぱら運輸サービスを提供するものであった。荷主の商人から見れば、船への積み込みで代金回収できず、遠隔地間の売買代金回収は別のサービスがなければスムースな取引は実現しない。三菱の提供する新手法に対し荷主側の抵抗は大変強かった。商習慣の革命的な変化を必要とした。そのため弥太郎は「二百余年の慣習を改め、商界の悪弊を一掃するは、実に至難である」と嘆いていた。

 そういうなかで、まずアメリカのパシフィック・メイル社との競争が始まった。1867年サンフランシスコ・上海航路を開設し、1870年から横浜・神戸・長崎に寄航した。三菱が進出した時競争の中心は神戸・横浜間であった。価格競争は激しく、五分の一まで引き下げられた。三菱に幸いだったのは、パシフィック社がアメリカで多額の政治献金を使ったことが問題となって、アメリカ政府から助成金削減方針が出された。明治7年から8年にかけてパシフィック社の人気が低下、遂に上海航路に使っていた船舶と施設を三菱に売却、日清間と日本沿岸航路に30年間進出しないという協定を結び、パシフィック社は撤退した。ここで一息ついたのもつかの間、明治9年日本・上海航路にイギリスのP&O社が進出することになった。三菱は強大なイギリスの海運業者から逆に挑戦状を突きつけられ、また、この参入を大坂の荷主たちは歓迎した。この背景には、三菱に対する潜在的不満、「人を見下し、官府の様なる有様」と批判されるされていることが記録されている。かって帝国郵便蒸気船会社に対すると同様な批判であった。そしてこのときの競争も船客運賃の引き下げという事態に至った。このP&O社の新規参入には諸説あって、日米外交の懸案となっていた日英郵便交換条約の締結問題があったという。英側は交渉を有利に運ぶために、日本政府に圧力をかける手段として画策したのではないかというものであった。

 岩崎弥太郎は非常事態を宣言して、社長役員の給料を減額し経費削減で対抗した。競争は無理だから協調の道を探れとの進言もあったが、弥太郎はこれを拒否。この競争の起死回生策として弥太郎が打ったのは荷為替金融であった。三菱に回漕荷物を預けた者に対して、その荷物を担保に資金を貸す制度であった。この金融業務の資金は、政府が低利資金を用立てた。このサービスは荷主に好評だった。それだけでなく政府は三菱利用者に鉄道運輸上の特典を与えたり、外国船利用の場合には許可手続きを厳重にして手数料までとる措置を実施した。さすがにイギリス公使パークスから抗議を受けた。こうした保護政策もあって結果的には明治9年、P&O社は日本沿岸から撤退することとなった。政府が懸命に三菱への保護措置をとった理由として、この時期の明治政府が外国資本の流入に敏感になって警戒をしていたと武田氏は指摘する。三菱の石炭鉱業の中心的事業所となる高島炭鉱は、もともとマセソン商会が資金を出してグラバーが実質的経営権を持っていたが、政府はこれを強引に取り返す。神奈川・新橋間の鉄道敷設権も外交交渉で取り返す。当時外国人は、開港場に設けられた居留地並びにその周辺でしか行動が出来ないことになっていた。たとえが生糸を産地に買付けに行くことは出来なかった。この制限が撤廃されるのは明治32年のことで、日本はそれまで経済的には鎖国を続けていたこととなる。貿易は行なわれているが、人と金は入れないという徹底的な外資排除政策をとっていた。この政策の一環としてみると、三菱を育てて日本の海運権を守ろうとしたことは、この時代の基本方針であったと武田氏はいう。


政商岩崎弥太郎の誕生 3

2012年05月20日 | 歴史を尋ねる

 三菱商会は明治7年政府の台湾出兵の輸送業務を引受け、不足する船舶を受託運行して、一挙に運行すべき船舶数が増えた。三菱が引き受けた時点で、その保有船数では政府が考えている海運力が調達できない、そのため政府はイギリスから10隻の大型船を購入して三菱に下付した。三菱の提出した海運担当約條には有事の時から平時の時の戻った時の輸送の便宜を三菱に許可するよう条項をしのばせていた。平時に戻れば貸与船舶の三菱による運航が予定されていた。この約束に従って、台湾出兵後には商業輸送に使える三菱の海運力が大幅に上昇した。以上の経過を見ると、三菱は政府の御用を競って獲得したのではなかった。弥太郎は政府から選ばれて「政商」となるチャンスをつかんだのであった。当時政府の大久保や大隈の視線の先にあったのは、軍事上の差し迫った要求を満たすことであった。その要求に三菱が応えてくれただけであった。しかしこれを契機に三菱を国内海運業者の第一人者に押し上げることとなった。

 明治8年内務卿大久保は「海運三策」を建議して、政府に結論を求めた。その内容は①民営自由、②民営育成、③官営の三案が対比された。そして大久保は①では政府の負担は少ないが、外国海運会社との競争に敗れて日本の海運業はつぶれる危険がある、②はそれなりの助成金が必要となる、③は大幅な赤字が見込まれる。以上比較考量して、②を大久保は提案した。さらに第2案では官民の船を合わせて新会社を設立する。三菱を含めて新会社への参加を求めるとともに、帝国郵便蒸気船会社への貸与船引上げて新会社に提供、蒸気船会社は解散。この建議を受けて政府は第二案を採択。そして大久保は新会社設立ではなく三菱を選択する旨を明らかにした。これは新会社を官営にすると過度な官依存という経営体質が問題だ、その点、「岩崎は官に依頼せず全く自立の業を営み・・・」とその経営手腕を評価している。しかし個人の事業とは一線を画し、三菱会社を基礎に新会社を作り、補助・助成政策の受け皿にふさわしい「公業」としての性格を明確にすること、そのためには会社の組織や規則を改めることを求めている。最後の郵便汽船三菱会社という名称にすることが提案された。結果的には大久保の提案通りに政府の海運助成策は決着し、育成の対象に三菱会社が選ばれた。

 この保護の方針が具体的に示されたのは明治8年駅逓頭前島密から交付された第一命令書である。内容は政府助成金と船舶の無償譲渡を前提に、政府の検査・命令権、修繕等の適否、会計記録、郵便等の運送料金、不適切と政府が判断するような事業運営の方法に関する政府の是正命令などの条文が広範囲に定められた。当然のことながら、平常非常にかかわらず政府の用向きがあるときは、優先的に対応することが義務付けられた。一方三菱は政府の助成金で既に開設していた上海航路の航路権をパシフィック・メイル社から買収した。この定期航路の運行は、日本が初めて国際郵便業務に自前で参画したことを意味する。従来日本の開港場にはイギリスやフランス、アメリカなどの開設した郵便局が設置されていた。維新政府にとって、それは日本の独立、主権の確保という観点で、どうしても解決すべき問題であった。

 第一命令書を受けることが定まったことに対応し、岩崎弥太郎は三菱会社の諸規則を整備し、組織を改革し、経営体制の近代化を図っていった。具体的には社制改革に着手する方針を公表し、慶応義塾から招かれた荘田平五郎なども参加し、三菱会社簿記法という会計規則や、職務章程、事務規則など広範囲にわたり、その完成は数年に及んだ。組織改革の中でその進歩性が際立っているのは会計制度の改革であったと、「岩崎弥太郎」の著者武田晴人氏はいう。和式の大福帳式簿記をやめ、洋式の複式簿記が採用された。船の減価償却を考慮するなど、極めて早い採用の例であった。さらに人材採用面では士族出身者が多く、実業の世界で基礎を築く上では重要であったが、商人としての処世を求められるところでは徹底してそれを要求した。


政商岩崎弥太郎の誕生 2

2012年05月19日 | 歴史を尋ねる

 外国海運業者の優位を崩すため、明治新政府は明治3年回漕会社をつくり、幕府から接収した汽船を交付して、東京・大阪間の貨客の輸送を開始した。三井組の献策にによると云われているが、 この会社は大損失を出し1年後に瓦解した。そのため改めて廃藩置県などで政府が収納した汽船を交付して、帝国郵便蒸気船会社を設立した。これには三井組、鴻池組など江戸時代以来の豪商が出資した。同社は貢米輸送の独占を認められ、各種の支援策も実施された。

 一方岩崎弥太郎の三菱商会は、所有船舶数が明治3年3隻から少しづつ増やしたが明治8年から急激に増やしている。当初大阪・東京間、神戸・高知間の航路が徐々に航路を開設して明治8年には、上海航路、北海道航路が開設された。その後は支店網がどんどん広がっている。その間、三菱商会は何が起こっているのか。九十九商会時代岩崎弥太郎が競争したのは紀の国屋萬蔵など和船荷受問屋が始めた紀萬汽船であった。この会社と台湾出兵まで、関西航路をめぐって競争していたが、台湾出兵後は、弥太郎が政府の保護を得るに至り、紀萬汽船は圧倒され、閉店に追い込まれた。続いて対決しなくてはならない相手は、帝国郵便蒸気船会社であった。当時岩崎が社内向けに飛ばした檄文には、「かの郵便蒸気船会社は政府の保護を受け、徒に規模宏大なるも主宰統括する人物が凡庸で、さらにその船舶は概して腐朽に傾き、実用に適さざるもの多し、それに反してわが商会は社船少数なるも、いずれも堅牢快速にして、社内の規律厳然として整頓し、社員協力一致して奮闘する気力に富む」「今後の方針は第一に彼を征服し、第二に米国太平洋郵便会社を日本領海より駆逐するにあり。これ決して不可能の事にあらず」と書いてあったそうだ。荷主たちはどちらがサービスが良いか天秤にかける。徐々に競争のメカニズムが働いて、結局三菱に軍配が上がった。

 帝国蒸気船会社の敗因は何であったか。一つは明治6年まで独占していた貢租米の運送が、地租改正事業の進展と共に、地租は金納化され、政府は米を回漕する必要がなくなった。改正後は米の販売は農民の役割で、米の輸送は政府ではなく商人たちの裁量二任せられた。もう一つは明治7年の抵当増額令が発布されたことであった。政府の御用商売をしていた豪商に追加担保要求で、有力な出資者であった小野組、島田組が倒産した。三井組もオリエンタル・バンクからの臨時借入れで当座を凌いだ。このため蒸気船会社は経営的困難に陥り、解散に追い込まれた。もう一つ重要なことが同時に進んでいた。それは政府の台湾出兵であった。当初明治政府は外国船を雇用してまかなう予定であった。しかし、米英は局外中立を宣言して、自国船利用を拒んだ。そこで帝国郵便蒸気船会社に話を持ち込んだが、同社は「台湾向けの船団を組むと、その留守の間に三菱に沿岸航路を荒らされる。引き受けなければ、三菱にいくから、その間荷主と話し合って失地を挽回したい」と考えた。大隈の要請を受けた弥太郎は、「敢えて力を尽くして政府の重荷に耐えざらんや」と応じたという。このとき政府に対し「海運担当約條」が提出された。その誓約書には、繰り返し「私利を顧みず」とか「奮然尽力、公用に弁給す」との誓約が記されていた。こうして弥太郎は通常の海運業務を事実上放棄して軍事行動に必要な輸送業務に専念することになった。


政商岩崎弥太郎の誕生

2012年05月16日 | 歴史を尋ねる

 武田晴人氏の著書「岩崎弥太郎」の見開きに、「入獄、藩職を辞すなど腰の据わらない青年時代を過ごすが、長崎に出向いたことから、藩の貿易業務に従事する。維新後、三菱商会を発足させ、「政商の時代」を築いた」と、簡潔に岩崎を紹介する。岩崎の人物像を描くと、政商とは切っても切れない代名詞のような関係である。ではその事実関係はどうであったか探りながら、三菱グループの誕生を追いかけたい。

 政商とは明治に生まれたジャーナリズム用語で、ジャーナリスト山路愛山は「政府自ら干渉して民業の発達を図るに連れて自ずから出来たる人民の一階級であり、我等は仮に之をなづけて政商という」と記しているそうだ。この段階ではまだ後ろ向きの響きはない。弥太郎が世に出るきっかけは、公武合体論を説く吉田東洋の門下生になったことであり、吉田は改革の担い手として、門閥にかかわらず抜擢人事を断行する人物であった。吉田は藩財政の建て直しのために殖産興業政策を推進し交易を奨励した。しかし吉田の積極政策は、土佐の下級武士の中で盛り上がりつつあった尊王攘夷運動の流れとは鋭く対立し、武市一派に暗殺された。その後吉田の後を継いだ後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易業務に従事した。明治維新後、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所に移った。明治2年大阪商会は九十九商会と改称、弥太郎は海運業に従事した。この九十九商会改称は明治新政府の藩営商会所の廃止という方針を意識したものといわれている。さらに廃藩置県によって藩有資産は新政府に納付されることになる。従って藩船を九十九商会に移し、東京との飛脚船事業に乗り出した。

 廃藩置県が実施されると弥太郎は東京に赴き、板垣退助に会って辞職願を出し、九十九商会閉鎖の伺書を提出した。商会の閉鎖は高知県大参事林有造をはじめ板垣、後藤などが反対、商会の存続条件として、①九十九商会を弥太郎個人の事業として与える、②商会の剰余金を運営金としてあたえる、③将来土佐県民から異議が出ないよう保証するなどが、などが弥太郎に提示された。これは弥太郎が中央政府の官途を求めていたことに対する林、板垣、後藤等からの説得材料であった。弥太郎も逡巡の後、①九十九商会が借り受けていた船舶を弥太郎が買い取り、②運営資金を継承するなどとして、三菱創業の起点となる三つ川商会の設立につながった。高知藩の廃藩処理にあたった林有造は、実業界への進出を勧め、「豊太閤のような雄略で業界の傑物になるべし」と励ましたという。

 武田晴人氏の著書で三菱創業期の海運事業の状況を見ておきたい。明治3年末の日本における西洋式蒸汽船は総数で25隻、西洋式帆船11隻。三菱商会の所有船舶6隻。松村巌氏によると、初期の海運経営は困難を極め、この窮状に弥太郎も心身疲弊して、死を決せしこと一再にとどまらずとの言葉を伝えている。開港後の日本近海の海運業は、当初、郵便と客を運ぶ郵便定期航路が、イギリスのP&O汽船会社、フランス汽船、アメリカのパシフィック・メイル社の3社で、7割ぐらいを担っていた。日本国籍の海運会社が所有する船舶の小規模性は際立っていた。しかし明治7年の英国領事館の報告によると、「日本政府は全国の重要地点を結ぶ定期郵便路を作りあげ、上海との定期航路はパシフィック・メイル社の独占状態であったが、日本政府によって強力に補助されている日本の二汽船会社との競争を強いられている」と、報告されていた。この二汽船会社とは、帝国郵便蒸気船会社と三菱蒸汽船会社であった。従って、それ以前の三菱商会船舶は、無視されても仕方がないほど脆弱な海運業者であった。


明治前期生糸直輸出の概観

2012年05月03日 | 歴史を尋ねる

 ここまではハル・ライシャワーの著書「絹と武士」を通して、日本人の手による生糸直輸出の苦心を見てきたが、今回は高崎経済大学教授富澤一弘氏の論稿「明治前期に於ける生糸直輸出の位置」で初期の生糸貿易を概括しておきたい。http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/45_1/tomizawa.pdf

 明治9年9月 群馬県星野長太郎の器械糸が実弟新井領一郎の手でニューヨーク生糸仲買商に直売されたが、これが生糸直輸出の嚆矢。ついで12月、福島県二本松製糸会社佐野理八は全米屈指の絹織物業者に生糸を直売、よく年12月社員をニューヨークに派遣。富沢氏によるといずれも内務省勧商局の支援、並びに富田ニューヨーク領事等によるアメリカ絹業協会並びに絹織物業者への濃やかな働き掛けもあって可能になったとしている。明治10年三井物産会社も官営富岡製糸場の器械糸を大蔵省の支援の下にフランスに直輸出している。明治13年2月大蔵卿大隈重信、慶応義塾福沢諭吉以下三田系人士の肝煎りで、外国貿易振興のための横浜正金銀行が開業。群馬県下の改良座繰製糸を取扱う組織が連合して精糸原舎を結成したが、巨額の荷為替資金の手当てをしている。この荷為替は地方から開港場までの荷為替と開港場から海外までの荷為替を開設、市中金利の5割以下という金利で、当時の生糸、お茶等の直輸出関係者の利用に供した。横浜正金銀行による御用外国荷為替開設は直輸出の発展と全国化の直接的契機になったと富沢氏は語る。

 このような動きの中で上毛繭糸改良会社と横浜同伸会社が誕生した。前者は星野長太郎が頭取で、精糸原舎幹部の指導の下で群馬県内87組合が結集して、政府、横浜正金銀行などの支援を受けて創立された。後者は内務卿大久保利通在りし日に構想され、内務省御用係兼官営富岡製糸所長速水堅曹を中心に組織された、日本初の生糸直輸出専門商社であった。両者の誕生は、地方製造者の団結→品質の改良→直輸出という、時の大蔵省御用掛前田正名の所論(殖産興業に関する論策)に合致するもので、前田も両社構想段階より商議に与っていたという。明治14年4月、内務省、大蔵省から農工商に関する権限を移譲されて農商務省が成立した。これ以降蚕糸業行政も農商務省に一本化されていくが、こと輸出政策に関してはなお大蔵省の関与するところが大きかった。大蔵省御用係前田正名は全国を巡回して、同業者の結束、製品の改良、直輸出の必要性を訴えた。そして多くの県で製糸、製茶、漆器、陶器、雑貨等の直輸出に参入した。

 しかしこの直輸出のその後は、極めて短命に終わっている。先の富沢氏の論稿46ページを参照願いたい。横浜同伸会社の成功に刺激を受けて参入した商社・商店は、短期間のうちに撤退している。さらに三井物産も明治16年、長く直輸出を継続した横浜同伸会社も明治22年休眠、26年消滅している。なぜ頓挫したか。慶応義塾系の人材をもってしても、海外需要地の現状に通暁する人材、新井領一郎級の海外駐在員を輩出するまでに至らなかった。事実として、戦前期、新井領一郎に比肩する在外生糸商は現れなかったし、海外市況や需給動向の情報に乏しく、国内の小資本、高金利に掣肘され、変転極まりない世界市場を前に判断を誤り、商機を逃したことなどが要因として挙げられている。その上、政府による直輸出の変更、金融的保護の後退にその所以に多くを求めるべきだと富沢氏は言い切る。その糾弾先は大蔵卿松方正義であるが、詳細は氏の論稿で確認していただきたい。