講談社は、昭和58年、創立七十周年記念事業の一つとして長編記録映画「東京裁判」を企画・制作し、上映一週間前に池袋のサンシャインシティで国際シンポジウムを開催した。このシンポジウムは一橋大学名誉教授細谷千博氏、神戸大学教授安藤仁介氏、東京大学助教授大沼保昭氏の三人が交代で議長役を務め、日本、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、西ドイツ、中国、韓国およびビルマの学者、歴史家、評論家等19人が東京裁判について意見を述べ質問に答えた。二日目の午後、東京教育大学名誉教授家永三郎氏は、東京裁判史観に立つ一人の日本人学者として、次のように見解を表明した。「弁護側立証開始時の清瀬一郎弁護士の冒頭陳述は、現代の大東亜戦争肯定論と基本的に同じ考えに立つものであって到底賛同することは出来ない。パル判事の少数意見は日本の中国侵略を弁護する論旨であり、きわめて強烈な反共イデオロギーの偏見にみちみちていて、東京裁判の不法性の有力な論証として利用されている危険性を声を大にして訴えなければならない。パル少数意見は東京裁判不法論、大東亜戦争肯定論に連なり、ひいては戦後日本の民主主義、平和主義の全面的否定のために利用されているのは看過できず、日本人自身の手で、日本が遂行した侵略戦争遂行過程で発生した残虐行為に対する責任追及をなし得なかった事情を考える時、東京裁判の持つ積極的意義を無視してその瑕疵のみ論じ、これを全面的に否定する事の危険な効果を心配しないではいられない」と。 日本には「東京裁判史観」なる歴史観があると言われているが、それは日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した「侵略戦争」であって、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、悪であった、とする歴史観。本判決が「侵略戦争」と判定したのだから日本が行った戦争は侵略戦争であり、「南京大虐殺」があったと判定したから南京大虐殺はあったのだと信じ、あるいはなんらかの思惑なり意図があって単に口先だけでそう言っているだけかもしれない、と冨士信夫氏は言う。
歴史とは不思議なもので、その時の経過と共に、パル判事が言うように「正義の女神がその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変える事を要求する時が来る」と、自ずとその判定をしてくれる。例えば、家永氏のいう「パル少数意見は、ひいては戦後日本の民主主義、平和主義の全面的否定のために利用されている」という事実はあったのか、その後の事実ではなかったことが分かる。また、その後の日本では、パル判決は闇に消されたではないか、つまり影響力はなかった。家永氏はいう「パル判事の少数意見は、きわめて強烈な反共イデオロギーの偏見にみちみちていて」という。こういういい方は、政治的言説、アジテーターに近い。むしろ家永氏が社会変革を目指す共産主義者ないし社会主義者であることを反面で言っているようにも受け取れる。冨士氏が「なんらかの思惑なり意図があって単に口先だけでそう言っている」と記述するのも、こうした憶測かもしれない。
東京裁判の目的は何だったのか。裁判終了直後の1948年11月、全弁護団を代表してブレイクニー弁護士がマッカーサー元帥に提出した覚書には、「侵略は犯罪であり重刑を以て支払わねばならぬということを法律として確立すること、および、法律を尊重し法律を支持するために行動しているのであり、これらの敵にまでも司法手続きによる公正な裁判を許していることを敗戦国および世界に印象付けることであった」と記述している。そしてブレイクニー弁護士は、今回の判定はそのいずれの目的をも達することに失敗した、と述べている。
清瀬一郎主任弁護士は後日、「この事件の中心になった法律問題は、侵略戦争を準備し、またはこれを遂行するということは、太平洋戦争当時犯罪であったか、犯罪であったとして、その当時の指導者個人を処罰し得たのであろうかの2点であった。この2点について、パール判事は徹底的に研究された。国際法学の権威であるイギリスのハンキー卿は、その著書で裁判官パール氏の主張が、絶対に正しいことを私は全然疑わないと保証しておられる」と。
更に清瀬一郎弁護士の冒頭陳述では、「検察官は日本政府が、1928年すなわち昭和3年より、1945年すなわち昭和20年の間に、日本政府の採用した軍事措置が、国際公法から見てそれ自体犯罪行為である、と。更に検察官は、日本の政策が犯罪であると論ずるのみならず、もし国家が侵略的戦争または条約違反の戦争を起した場合に、たまたまその局に当り、戦争遂行の決定に参加した個人は犯罪者としての責任を免れぬ、と。言い換えれば、被告を含む日本国家が、検察官の指摘する十七カ年の全期間にわたって国際法的の犯罪を続行していたということが、検察側の根本の主張である。被告はまずこれを極力否定するものである。また弁護人の方では、主権ある国家が、主権の作用としてなした行為に関して、ある者が当時国家の機関たりしとの故を以て個人的に責任を負うというが如きは、国際法の原理としては、1928年においては無論のこと、その後においても成立していなかったことを上申する」と。
すでに前にも触れたが、清瀬一郎弁護士は冒頭陳述の中で侵略について次のように触れている。「検察官は、侵略戦争は古き以前から国際犯罪を構成したと主張し、侵略の定義を与えている。これを支持するために多数の国際条約または協定も引用している。元来侵略が何であるかということを定義するすることは、かってジョン・バゼット・モーア氏が「理性への訴え」という一文で指摘したように、実に不可能である。今は法律上の議論をするものではない。むしろ検察官が引用された事実に、脱落があることを指摘したい。検察官がまず1907年のハーグ条約第一を挙げているが、この条約では周旋または調停を絶対義務としていない。当事国はなるべく又は事情の許す限り問題を周旋または調停することが期待されているだけである。検察官は次に1924年の第四回国際連盟総会に付議された相互援助条約案を引用している。しかしこの案は第五回総会で廃棄された。また検察官はジュネーブ議定書を引用されている。しかしながらイギリスの批准拒絶により他の国もこれに倣って批准を与えていない。ついに条約としては成立しなかった。条約として成立しなかったことは、侵略戦争を国際法上の犯罪なりとすることが当時未熟であり、これを定義することがあまりに困難であるということの証拠として引用され得ると思う。1928年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)もまた侵略戦争を犯罪なりと規定はしていない。(アメリカは条約締結に当たり、重大な条件を付帯させた。それは、この条約は「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている。」と表明し、自衛のための戦争は可能であるという道を残したことである。また不戦条約には「侵略」をどこが認定するのか規定が無く、「違反に対する制裁」についても触れられていなかった : ウキペディアの解説)」 清瀬一郎弁護士は以上のような論旨で、検察側の主張の杜撰さを指摘している。尚、この件についての裁判所判断とパール判事の判断は前段で詳しく触れた。
ちょっと横道に逸れたが、また最初の「東京裁判とは一体なにだったのか」を理解する為のテーマに戻る。
3,共同謀議に関する事実論
起訴状の訴因第一は「全被告は昭和三年一月一日から昭和二十年九月二日までの期間に、日本が東アジア、太平洋、インド洋ならびにこれらの地域およびこれに隣接するすべての国家、島嶼の軍事・経済・政治的支配の獲得を目的とする共同謀議の立案または実行に指導者、教唆者または共犯者として参画し、この目的達成のため、他国を誘致または強制的にこの共同謀議に加入させ、この目的に反対する国々に対し、宣戦を布告しあるいは布告しないで侵略戦争ならびに国際法、条約、協定および保証に違背した戦争を遂行した」という内容で、全被告を訴追している。 本判決は、弁護側提出証拠の大部分を証拠価値のないものとして斥けているので、この事実論の内容の大部分が検察側最終論告内容と同じで、すべての事が「大東亜各地の支配を獲得しようとする共同謀議達成のための侵略戦争の遂行」という、検察側の主張そのもので綴られていた。これに対してパル判決は、これらの出来事、事件等は共同謀議という概念に結び付けなくとも、証拠により、一つの事実上の事柄として立証できる。もし立証できるとすれば、敢えて共同謀議なるものに結び付けて考える必要はないのではないか、という立場でこの事実論を説き進めた。
本判決の事実論は、満州事変、支那事変を含む対中国関係、張鼓峰・ノモンハン両事件を含む対ソ連関係、米英蘭諸国との関係にそれぞれ詳述しているが、その前の「軍部による日本の支配と戦争準備」の中で、日本が近隣諸国の領土を相次いで侵略した違法行為に対する個人責任を判定するに当たって、その当時の日本国内の政治的発展、当時の国内史を考察する必要がある旨述べた後、皇道と八紘一宇の原理に始まり三国同盟締結に際しての日本の指導者の意図に終わる、日本国内で起こった各種出来事等を取りあげている。例を挙げると、①「国策の基準」について、②「満州事変」の勃発を巡る諸問題について、③「陸海軍大臣現役武官制」の制定ついて、④ソ連に対する日本の侵略について、⑤太平洋戦争について、以上紹介した諸点を含めて、12月8日の開戦までの各種出来事、事件等について述べて来た本判決は、その纏めとして「結論」の項を設け、「日本のフランスに対する侵略行為、オランダに対する攻撃、イギリスとアメリカに対する攻撃は正当な自衛の措置であったという、彼らのために申し立てられた主張を検討することが残っている。これら諸国が日本の経済を制限する措置を執ったために、戦争をする以外に、日本はその国民の福利と繁栄を守る道がなかったと主張されている。これらの諸国が日本の貿易を制限する措置を講じたのは、日本が久しい以前に着手し、かつその継続を決意していた侵略の道から日本を離れさせようとして講じられたもので、全く正当な試みである。(アメリカの日米通商航海条約廃棄通告をした理由が、日本の満州・中国の占拠に対する対抗措置であったことを述べた後)日本向け物資の輸出に対して、次々に輸出禁止が課せられたが、これは日本が諸国の領土と権益を攻撃する事を決意したことが、たまたま明白になったからである。また諸国が、自国に対する戦争を遂行するための物資を、これ以上日本に供給しないようにするためであった。
弁護側の主張とは反対に、フランスに対する侵略行為、イギリス、アメリカおよびオランダに対する攻撃の動機は、日本の侵略に対して闘争している中国に与えられる援助をすべて奪い去り、南方における日本の隣接諸国の領土を日本の手に入手しようとする欲望であったことは、証拠が明らかに立証するところである」と述べて弁護側の主張を斥け、更に1940年、41年に行われた日本の北部・南部仏印進駐と終戦直前の仏印全土における日本軍によるフランス軍の武装解除、警察権の掌握等について、当時の日本の行動は、フランス共和国に対する侵略戦争の遂行を構成するものだったと、裁判所は認定した。この後、米・英・蘭に対する日本の行動は侵略戦争だったとの、裁判所の見解を明らかにした。
本判決に対してパル判事は次のように述べている。アメリカが経済上、軍事上の援助を中国に与えていた事を指摘し、引続き、日米通商航海条約の破棄をはじめ、米国の採った対日禁輸措置が日本に対してどのような影響を与えたか、について次のような見解を述べている。「経済圧迫に困惑の余り、日本は蘭印に対して、ことに石油に関し新規の交渉を開始するために一層の努力を傾けた。蘭印との交渉は、1941年6月17日まで継続された。その間、アメリカは更に輸出禁止令を発表し、それによって経済圧迫を一段と強化するに至った。7月21日、ルーズベルト大統領は日本大使に「米国がこれまで日本に対して石油の輸出を許可していたのは、そうしなければ、日本政府は蘭印にまで手を延ばすと思われたからである」と。7月25日同大統領はラジオを通じて「日本に対し石油を送っている目的は、米国の利益及び英国の防衛、更に海上の自由を慮り、南太平洋水域における戦争の勃発を避けようとするにある」と。かような対日経済制裁こそ、日本をして、後に事実採用するに至ったような措置に出る事を余儀なくさせるであろうとは、米国の政治家、政治学者、ならびに陸海軍当局すべてが意見を等しくしていたところだ。かような措置の中に、検察が主張するような種類の企図ないし共同謀議を読み取れない」と。
パル判事は、「検察側によって主張されたような共同謀議に関連して検討さるべき主要事項は、真珠湾攻撃に先立って日本が、日米交渉に関してどのような態度を執ったかという点である」ということから始まっている。まず検察側の主張が、米国との会談の期間中に、かって一歩でも譲歩しようという意志が共同謀議者側に見られなかった、日本はその出来心に任せて、占領または征服する権利の承認を米国から得ようと志したか、または米国ならびに英国をして安全感を持つよう持ち掛け、その間に自国は秘密裏に準備し、さらに、侵略的行動を執るのに最も有利な時期を決定しようとした、米英両国は、重要問題は単に現在の諸規定全部を遵守する事によって解決され得るものとの立場に在ったが、一方日本は、条約に基づく権利を遥かに超える権利を主張し、条約の課す義務を認める事を全く拒絶した、というものであった事を指摘した上で、検察側の最終論告を26項目に分けて要約した。そしてこの交渉における東京の当局者は、ワシントン駐在大使に対して、日本の態度を米国当局者に明確にするよう繰り返し訓令し、大使もこの訓令に慎重に従った事が明らかである。日本が米国に対してなした諸提案は、陰険回避的なものはなかった。少なくともこれらの提案には曖昧な点が一つもなかった。交渉は決裂した。決裂したことは遺憾であるが、少なくとも日本側において、すべての事は誠意をもって為されたものであり、本官はそのいずれの所においても欺瞞の形跡を発見することが出来ない、と。この後パル判事は、日米交渉開始の当初、ハル長官から野村大使に提示された日米私人により国務省に提示された草案を初めとして、爾後の日米交渉の間に両国から提示された各種修正案の内容を引用しながら、日米双方の交渉態度等について分析し、その見解を述べている。その中から、ここではハル・ノートを取り上げる。パルはハル・ノートの内容を要約説明した後、「日本政府はこれを以て、八か月間の交渉による、了解に対する発展を無視するものであると見た」と述べ、ハル・ノートの内容は6月21日の米側提案乗内容より厳しいものであった事、具体的条項を引用・比較しながら、ハル・ノートがどのような性格のものであったかを、歴史家の言葉を引用しながら、「現代の歴史家でさえも、『今次戦争について言えば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも、合衆国に対して戈を執って立ち上がったであろう」 現代の米国歴史家は「日本の歴史、制度と日本人の心理について何ら深い知識を持たなくとも、1941年11月26日の覚書について、二つの結論を下すことが出来た。第一に日本の内閣は、たとえ自由主義的な内閣であろうと、また、反動的なそれであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒す事なしには、その覚書の規定する所を交渉妥結の基礎として受諾する事は、出来なかったであろう。第二に米国国務省の高官、特に極東問題担当の高官はすべて、日本政府がこの覚書をとうてい受諾しない事を感知していたに違いない。同時にまた、ルーズベルト大統領とハル国務長官が、東京はこの覚書を受諾するだろうとか、この文書を日本政府に交付することが戦争の序幕になる事はあるまいと考えるほど、日本の実情に疎かったとは、到底考えられない」と述べている。ルーズベルト大統領とハル国務長官は、覚書に含まれた提案を日本側が受諾しないものと思ったので、日本側の回答を待つことなく、日本の代表に手交された翌日、米国の前哨地帯の諸指揮官に対して、戦争の警報を発する事を認可したのである、パルは述べている。
ここでパル判決は一転し、1936年末に中国では国共合作が行われ、1937年7月に起こった日中戦争(支那事変)を誘発したのはこの国共合作であった事を指摘した後、アメリカがあらゆる方法で国民党を援助して来た事を述べ、アメリカが支那事変に関連して執った行動は、もし支那事変を戦争と見る場合は、アメリカの行為は国際法上は交戦行為とみなすことが出来るとの見解を明らかにした。また、先に弁護側立証段階で証人となった嶋田被告の宣誓口述書を引用した上で、検察側の共同謀議説を批判し、最後に、日本と交戦状態に在った中国を連合国が援助してきた事実に再び言及した後、日本の執った行動が何ら侵略的なものではなく、また日本側に背信はなっかった、との見解を示し、「当時中国と交戦していた日本に対して連合国が執った措置は、紛争に直接参加するに等しい行為であった。彼らの行動は中立の理論を無視し、また国際法が今なお非交戦国に課している根本的な義務を、棄てて顧みないものである。連合国がこのような諸行為を執ることによって、すでに紛争に参加していたのである事、そして、それから後に日本が連合国に対して執った敵対行為は、どれも侵略的なものとはならない」と。いずれにせよ、これらの事実は、起訴状の中で主張されたような種類の共同謀議の存在を包含することなしに、真珠湾攻撃に至るまでの事態の進展を十分説明している。日本はアメリカとの衝突は一切これを避けようと全力を尽くしたけれども、次第に展開した事態のために、万止むを得ず、ついにその運命の措置を執るに至ったという事は、証拠に照らして本官の確信する所である、と。
日本人でないパル判事の、ここまで事実関係を究明したその努力に頭が下がる。それにつけても、冒頭の家永三郎氏の言説は、事実の究明に汗を流さない表面的な言辞で、実に残念である。
4,通例の戦争犯罪(残虐行為)
被告の個人責任(省略)の項で本判決が、捕虜および一般人抑留者に対する戦争法規違反についての被告の責任を論じたが、検察側がその立証中に提出した厖大な証拠を基に、本判決はこの通例の戦争犯罪の項を説き進めた。「本裁判所に提出された残虐行為およびその他通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から、1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦およびその他の非人道的な野蛮な性質の残虐行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われた事を立証している。数か月の期間に亙って、本裁判所は証人から口頭や宣誓口述書による証言を聴いた。これらの証言は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域で全く共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏および軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかという事である」 ふーむ、随分乱暴な論の進め方だ。本判決が検察側の立証(証人として出廷していない宣誓口述書を含む)はすべて事実であるとの見解の上に立ってこの部門の判決を綴っているのに対し、パル判決は、訴因第37~43(宣戦布告なしの攻撃による殺人の共同謀議および、真珠湾、コタバル、香港、上海およびダバオでの不法殺人)を検察側は、条約に違反して開始された、日本には交戦権がなかった、その結果敵対行為で行われた殺害は、普通の殺人になる事を主張するが、敵対行為の開始に手落ちがあったがやはり戦争を構成するものであり、交戦に付帯する法律上の権利・義務が伴っているとし、コミンズカー検事が侵略戦争は不法なものであるから、不法な攻撃・殺害を命ずる事の関与した被告は、この犯罪的殺人行為を正当化する事は出来ないと問うたのに対し、パルはどのような殺害でも、同行為が戦争中に行われたものである事を立証すればそれで充分で、その戦争自体を正当化しなければならない理由はない、と。訴因第45~50(南京、広東、漢口、長沙、衝陽、桂林、柳州における殺害)の起訴事実は、日本の軍隊の攻撃に伴って必然的に起こった殺害、住民の殺害を不法に命令し、その結果、不法に行った殺害としているが、パルは国際法に違反して住民を殺害する事を命令し、授権し、許可した事を示すような証拠は絶無だったので、これらの訴因を考察から外した。訴因第51、52(ノモンハン事件、張鼓峰事件)パルはこれら二訴因が本裁判の管轄外であると簡単に片づけた。また、訴因第44および第53(戦時中の俘虜および一般人の殺害に関する共同謀議)について、パルは共同謀議の訴追の、どのような部分を立証されていないとして除外した。結局、訴因37~53のすべての訴因を考察の対象から外した。この後、訴因第54(日本占領下の諸地域の一般人に関する訴因)は、軍隊を指揮した土肥原、橋本、畑、板垣、木村、武藤、佐藤、梅津の郭被告について彼らが指揮下の軍隊に残虐行為の実行を命令し、許可したとする証拠は皆無である事を指摘し、一般市民に対する起訴事実は成立しないとし、第55(俘虜に関する訴因)は、当時の日本における情勢に鑑みて、これらの遺憾な処刑を阻止する事を怠った事について、被告が刑事的責任を有するものとは認めない、との見解を表明した。
検察側が最も力を入れて立証した戦争法規違反の証拠をすべてそのまま事実と認定し、それらの犯罪の類似性から、これらの犯罪は日本政府の政策に由来するものとして被告の責任を問うた本判決と、純粋に国際法学者としての立場に立ち、多くの戦争法規違反行為があった事実を認めつつも、それらの不法行為に対する刑事責任を被告に結び付けるものは何もないとして、検察側の主張を一つ一つ覆していったパル判事の見解で綴られたパル判決。
冨士信夫著「私の見た東京裁判」を読了して、筆者が感じ取った「東京裁判とは一体なにだったのか」の実態が以上である。それを簡潔に言い表すとパル判事が言っている言葉の引用が適切である。『法律的外貌をまとっているが、本質的には政治的である目的を達成するために本裁判所は設置されたに過ぎない』『戦争国は敗戦国に対して、憐憫から復讐までどんな物でも施し得る。しかし戦勝国が敗戦国に与えることが出来ない一つの物は正義である』『正義とは実に強者の利益に外ならない』『現在、国際世界が過ごしつつあるような艱難辛苦の時代において、あらゆる弊害の源泉として虚偽の原因を指摘し、それによって、その弊害をすべてこれらの原因に帰すると説得する事によって人心を誤らせる事の極めて容易である事は、実に、誰しも経験している。このようにして人心を支配しようと欲する者にとっては、今こそ、絶好の時期である。復讐の手段に、それ以外に解決はないという外貌を与えて、この復讐の手段を大衆の前にささやくには、現在ほど適当な時は他にない』『感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は、教育的というより、むしろ興行的なものであった。恐らく敗戦国の指導者だけが責任があったのではないという可能性を、本裁判所は、全然無視してはならない。指導者の罪は、単に、恐らく、妄想に基づいた彼らの誤解に過ぎなかったかもしれない』『時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剝ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう』
パル判事の言葉は反語的ですぐにはのみ込みにくい。これは連合国判事の総意に反する見解だから、正論として強く表現できなかったせいだろう。しかし真摯な・断固とした心を読み取ることが出来る。