吉田俊雄 五人の海軍大臣 最終章

2019年02月15日 | 歴史を尋ねる
 なぜ太平洋戦争は、始まったのか。なぜ海軍は、戦争回避を希望しながら、開戦を阻止することが出来なかったのか。あるいは、海軍では、広い視野から見る総合的思考方法や行動様式に、何か欠点があったのではないか、海軍の教育や人事行政に、誤りがあったのだろうか、軍令部に7年間在籍、米内、長谷川、永野、嶋田、及川、塩沢各大将などの副官をして接する機会があり、これら大将たちの思考と行動を通して、自分の疑問を考えてみようと、吉田俊雄は「五人の海軍大臣 太平洋戦争に至った日本海軍の指導者の蹉跌」という著書を書き上げ、2018年出版した。無理なく当時を彷彿とさせる良書だった。そして海軍は国策を決める場で、日米戦争に反対する天皇や閣僚から期待されながら、最後まで自らの考えを開陳し、開戦阻止に貢献することがなかったことが本書から読み取ることが出来る。最終章では、吉田の万感の思いを整理して置きたい。

 アメリカ政府は、外務省暗号の解読という圧倒的な対日優位を活用し、日本をあやしながら、アメリカ陸海軍の戦備が整うまで、極力開戦の日を引き延ばしてきた。日本陸軍流に言えば、ルーズベルトは日本に対し、日華事変拡大の頃から懲らしめの「戦争決意」はしていたが、「開戦決意」をするまでには至っていない。しかし「開戦決意」をしなければ、うかつに踏み込めない「対日資産凍結」を、日本軍の南部仏印進駐を見て断行した。そのあと、石油の対日禁輸を打ち出して、やるならやって見ろ、という姿勢もあらわにした。しかし、もたざる国・日本が、強大なアメリカに戦争を仕掛けるとは、彼らには信じられなかった。経済制裁を積み重ねてゆけば日本は和解を求めてくるだろう。もし日本が軍隊を動かしても、フィリピン、シンガポール、そして蘭印までがせいぜいであり、それ以上の力はないと判断した。かれらが頭を痛めていたのは、アメリカ議会と国民に、どうしたら参戦を決意するまでに誘導してゆけるか、であった。ルーズベルトは、イギリスを救い、ナチを倒すには、どうしてもアメリカが参戦し、陸軍部隊、空軍部隊をヨーロッパに送り込むことが必要だと確信していた。所詮、ルーズベルトには大西洋が表門で、太平洋は裏門にすぎなかった。

 11月26日、ハル国務長官は野村大使と来栖三郎特命全権大使の来訪を求め、その席で、日本のいわゆる乙案には同意できないと回答し、対案として十カ条のハル・ノートを手渡した。ハルノートのキーポイントは、「1、ハル四原則を承認すること。2、①日英米ソ蘭支泰の間で相互不可侵条約を結ぶ。②日英米ソ蘭支泰の間で仏印不可侵と仏印での経済上の均等待遇協定を取り決める。③支那と全仏印からの日本軍の全面撤退。④日米両国間で支那では蒋介石政権以外の政権を支持しない確約。⑤支那での治外法権と租界に撤廃。⑥最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約を結ぶ。⑦日米相互凍結令解除。⑧円ドル為替安定。⑨日米両国が第三国との間に結んでいる協定はこの協定と太平洋平和維持の目的に反しないこと」
 歴史家ジョン・トーランドによると、③項の「支那」には満州が含まれず、ハルは最初から日本による満州国の放棄など考えていなかった、という。ふむ、そうは言うものの、この段階では、蒋介石と連絡を取り合って交渉案文を決めていたから、蒋介石は了解しなかったのではないか。その証拠に、11月20日のルーズベルト自身がメモした日米協定案が作られたが、この案に中国が強い抗議をしてきて、さらにチャーチルからも抗議が行われ、再考を求めてきた。ホワイトハウスでは、その日(26日)最高軍事会議が開かれ、ルーズベルトは「日本人は事前に警告もせずに奇襲することで悪名が高い。もしかすると来週月曜日、日本は攻撃を開始するかもしれない」といい出した。そしてその日、符節を合わせるように、エトロフ島のヒトカップ湾から、空母6隻を中核とする艦船31隻がハワイをめざして滑り出した。

 11月27日、ハル・ノートを受け取った日本政府首脳も激怒した。松岡元外相流の力の外交、独伊との軍事同盟によって力を誇示し、その力を背景として対米交渉にのぞみ、アメリカに日本の東亜新秩序政策と主張を認めさせようという構想は、最後の段階にいたって挫折した。ところが、驚いたことに、主戦論者たちは、逆に勢いづいた様子だった、と吉田。田中参謀本部一部長は、「ハル・ノートが、日本のため、あたかも好機に接到したことは、むしろ天祐といえる。このような挑戦的な文書を衝きつけられては、東郷外相、賀屋蔵相も、もはや非戦闘的立場を固持し得ないだろう。これで国論も一致するだろう。陛下の御納得もこれでいただけよう。要するに来るべきものが来たのだ。統帥部長以下何も驚くことはなかった。既定の開戦方針の貫徹のためには、情勢はこれで一挙に好転したのだ。むしろ肩の重荷が一応降りたような感じだ」(田中感想録)。宇垣纏連合艦隊参謀長も、「帝国の主張するところは一も容るるところなく、米国本来の勝手なる主張に、各国の希望条件さえ多分に織りこまれあり、いまさら何の考慮や研究の必要あらん。米国をやっつける外に方法なし。これだけ言いたき事を主張せられては、外交官はもとより、いかなる軟派も一言の文句もあるまじ。明瞭にして可なり」(戦藻禄)。東郷外相は、「目もくらむばかりの失望に打たれた。米国の非妥協的態度は、かねてから予期したことであるが、その内容の厳しさには少なからず驚かされた」といい、これまでの交渉経過を無視した強硬なものであるかを指摘していた。
 しかし、今日改めて当時を組み立て直して見ると、東郷外相がアメリカ側の論旨一貫しない理由が推察できると、吉田。かれらは時を稼ぐのに懸命で、論旨が一貫しようとしまいと、問題ではなかった。もともと日本のいうところをそのまま呑む気など、毛頭なかった。海軍は次々と新艦船を就航させ、せめてあと三カ月待ってくれという。陸軍ははじめフィリピンを捨てる計画でいたところ、新鋭機B17が驚くべき成功を収めたところから、これをフィリピンに使おうと考え直した。その為にあと三週間欲しいと要求した。そんなことで、ハル長官が予定していたであろう最終的段階までのスケジュールがいろいろ変わった。そこに、30隻から50隻の大船団が台湾南方海上にいるという急報が入った。「ルーズベルトは宙に飛びあがらんばかりに怒り、一方で中国からの撤兵を交渉しながら、他方で仏印に兵力を送るとは背信も甚だしい。これで状況は変わった」とスチムソン日記に言う。それでいて、ルーズベルトは翌日、野村、来栖両大使に、「私はいまなお、日米関係が平和的妥結に達することに、大きな希望を持っている」などと、にこやかに語った。

 11月27日、大統領は、参謀総長と作戦部長からの、フィリピンとハワイに最終的警戒令を発する提案に同意した。 陸軍部隊へ。「日本の敵対行動はいつ起こるかもわからない。もし敵対行動が避けられないとすれば、アメリカは日本が最初からあからさまな行動に出ることを望んでいる。偵察その他必要とする手段をとれ」  太平洋艦隊(ハワイ)とアジア艦隊(フィリピン)へ。「本電をもって戦争警告と見做すこと。日米交渉はすでに終了した。日本の侵略行動がここ数日以内に予想される。日本軍はフィリピン、タイまたはクラ海峡(マレー)、もしくはボルネオに対して行動するものと判断される。適切なる防衛措置を取れ」

 12月1日、御前会議が開かれた。その前29日、天皇から、重臣を集めて広く意見を聞きたいと希望され、重臣の中の海軍出身者、岡田啓介大将と米内光政大将は、長期戦になった場合の持久力、とくに物資の補給能力に大きな懸念を見せ、戦争反対の意見を申上げた。だが、ここまできた流れを止めることは出来なかった。御前会議では、とくに全閣僚が出席し、「対米英蘭開戦に関する件」を審議し、決定された。それを受けて、大本営海軍部命令第九号が山本連合艦隊長官に下達され、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信された。
 その同じ日、スターク作戦部長は、ルーズベルトの意を受けてアジア艦隊長官に命令した。小型船三隻を徴用、海軍士官一名と小型火器を備え、米国軍艦としての表示をし、南支那海およびシャム湾における日本軍の行動を監視し、無線報告を行うことを求めた。イザベラは、墜落した飛行機を捜索すると称して仏印海岸に向け出港、12月5日、日本海軍機に発見され、旋回偵察されたが、何ごとも起こらなかった。もう一隻ラニカイは、二週間分の食料を積み込み、イザベラと交替するためマニラを出港しようとしたところで、真珠湾攻撃の報を聞き、出港を中止した。この奇怪な大統領命令は何を狙ったのか。ライニカで出港するはずだった指揮官トリ―大尉は、戦後、「日本を戦争に引きずり込むためのワナだったに違いない」と語った。そして当時の艦隊長官から、「ライニカがおとりだったことは認める。証拠はあるが見せない。これ以上の詮索はやめてくれ」とも言われた。
 
 ルーズベルトは、大統領選挙で、アメリカの青年たちを戦場に送るようなことはしないと、繰り返し繰り返し公約してきた。議会は、孤立主義者、非戦論者、反ルーズベルト派が勢力を増やし、いっそう操縦が難しくなっていた。そして国民は、ルーズベルト個人を支持する者こそ多かったが、戦争には反対だった。ルーズベルトは、そんなアメリカを戦争に引き込んで、イギリスを救い出すと同時に、ヒトラーを倒して枢軸の背骨を折り、自由陣営の勝利を勝ちたらねばならなかった。のちにスチムソン陸軍長官が、軍事補佐官ハリソン少佐に向かい、「真珠湾がなかったら、アメリカを戦争にさせることは絶対に不可能だったね」と回想した。
 開戦劈頭、米太平洋艦隊主力部隊を一挙に壊滅させ、米海軍と米国民の士気を叩きのめしたことは確かで、山本作戦としては大成功だったが、それは山本が期待した救うべからざるほどの大打撃を与えたことには成らなかった。最大の理由は、ワシントン大使館の最後通告文の翻訳が遅れ、野村大使がハル長官に手渡したのが真珠湾攻撃開始の一時間後になってしまった。それを見逃すルーズベルトではなかった。「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、孤立主義者、非戦論者、反ルーズベルト運動家をひっくるめた全アメリカ国民を、「打倒日本、打倒ヒトラー」に結集させることに成功した。アンフェアを嫌うアメリカ人の国民性を、これ以上ない格好の起爆剤で爆発的に燃焼させることが出来た。

 12月8日、真珠湾攻撃成功の電報が、トラック環礁に停泊する旗艦「鹿島」の司令部に入った。通信参謀飯田中佐が電文を井上成美司令長官に届け、「おめでとうございます」と付け加えた。じっと文字を追っていた井上は、無言でそれを通信参謀に返すと、「ばかな・・・」と吐き捨てた。17年10月、海軍兵学校校長になるが、構内にある教育参考館という、生徒の精神教育の中心である東郷元帥の遺髪が安置されている聖域から、海軍大将の写真額を全部取り外させた。「海軍大将のなかには、海軍のためにならないことをやった人もいるし、また、先がみえなくて日本を対米戦争に突入させてしまった、私が国賊と呼びたいような大将もいる。こんな人たちを生徒に尊敬せよとは、私にはとうてい言えない。また、館内に同居している、真珠湾攻撃の特殊潜航艇で戦死した若い軍人方にもあいすまぬ・・・」
 
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海軍大臣嶋田繁太郎 嶋田の決心

2019年02月11日 | 歴史を尋ねる
 10月30日の連絡会議が終わって、突然、嶋田海相が決心を翻した。「今日まで事態を静観してきたが、いよいよ最後のところに来た。今の大きな波は、到底曲げられない。結局、開戦になるだろう。現状からみれば、アメリカはいつ起って先制してくるかもしれぬ。そうなれば、日本の作戦は根本から破れ、勝ち味はなくなる。この際、海軍大臣一人が戦争に反対したために時期を失ったとなっては、申し訳ない。むろん自決してお詫びはするが、そんなものは何の役にも立たぬ。適時、決心すべきである」 開戦反対から、開戦やむを得ぬと旗印を換えた。そして、必要とする物資の優先配給を受けたいと言い出した。彼が決心変更を述べた時、聞いていた沢本次官は、「何度考えても、大局として戦争を避けた方がよいという意見ですが、ではどうすべきかというと、直接的なよい方法が見つかりません。ただ、アメリカの国情として、議会にも諮らずに戦争することは、ありえない。そこまで心配したら、きりがない」嶋田は顔色を変えて、「次官の保証がいくらあっても、何の役にも立たん。時機を失しないようにすることが大切である」と。そして覚書を認めた。1、極力外交交渉を促進すると同時に作戦準備を進む。2、外交交渉の妥協確実とならば作戦準備をやむ。3、大義名分を明確に国民に知らしめ、全国民の敵愾心を高め、挙国一致難局打開に進ましめる如く外交及び内政を指導す。戦争決意のもとで外交と作戦準備を並行させようとするものであった。のちに嶋田は、「私は苦しんだが、やっと決心した。決心しなければしょうがないじゃないかと思った。石油がなければ問題にならず、また作戦初動にどうしても成功しなければならないことは、私も軍令部に長く勤務していたので、よく分かった」 やはり嶋田は、軍令部系統の考え方から抜け出せなかった、と吉田俊雄は概括する。嶋田はこの時、真珠湾攻撃の作戦を承知していたのか、でもその先の海戦はどう考えていたのか。トップは嶋田だ、その披歴が少しもない。余りにも日米交渉の経緯にとらわれすぎ、戦争のシビアな先を想像することが出来なかった、そこが日本の海軍大臣の限界であったのだろう。

 11月1日午前9時から開かれた連絡会議は、二日午前1時半迄かかった。会議は東條首相の提案で、このまま戦争せずに細々と耐えていくか、すぐに開戦を決意して戦争で解決するか、それとも戦争を決意しながら作戦準備と外交を並行して進めるかの三案について検討した。(アメリカの主張を取り入れたらどうなるかの検討はされていない。経済封鎖を解除する方法は日本が没落する方法であるとしか考えなかったのだろう)
 蔵相(賀屋興宣)と外相(東郷茂徳)は、今後の苦痛を覚悟しても戦争すべきでないと主張した。永野総長はこれに対し、三年後は今よりもさらに戦略的に不利になり、勝てなくなる。「戦機は今だ。今をおいてほかにない」と叫んだ。蔵相と外相はそれでも納得しなかった。「戦争」を考えれば納得できないのが当然であり、また「作戦」を考えれば、先に延ばせば伸ばすほどアメリカは軍備大拡張の成果が出てきて強くなり、日本は勝てなくなる、いまがチャンスだ、という結論になるのは自然だった。日本の悲劇は、「戦争」と「作戦」とをはっきり区別し、「作戦」で勝っても、「戦争」では勝てない以上、戦争してはならないのは当然ではないか、という識者をもたなかったことである。だから現実には、蔵相、外相は最後まで納得せず、已む無く討議を打ち切り、先へ進むしかなかった、と吉田は解説する。
 この後、いつまで外交交渉を続けるか、交渉期限をいつにするかで、大揉めに揉めた。大激論になって会議は休憩、その間、陸海軍は作戦部長を呼んで協議し、ギリギリ11月30日まではよいことにした。東郷は一日でも長く外交をやりたいと、12月1日を提案、これにも喧々諤々となって、30日夜12時までとようやく、一応の結論が出た。「戦争を決意する。戦争発起は12月初頭。外交は12月1日午前零時までとし、それまでに外交が成功したら戦争発起を中止する」 ここで吉田はコメントする。永野といい、嶋田といい、この時の海軍軍令、軍政のトップは、座を丸く収めることが、なんと上手な人たちだったろう、それだからこそ、がむしゃらに戦争に持ち込もうとする陸軍と大喧嘩もせず、大騒動も起させず結論に持ち込むことが出来たのであろう、と。

 「どうして日米戦争を、ああも陸軍はやろうとしたのか」 戦後の問いに、参謀本部の作戦の中枢にいた服部卓四郎(陸大恩賜)大佐は答えた。「ドイツが勝つと思った。また、船舶があれほど沈むとは思わなかった。
 陸軍の戦争観にも原因があった。参謀本部第一部長田中新一中将は「日本はいま世界戦争に突入しつつある」という認識に立っていた。決定的意義を持つのは、対ソ戦と対支戦、つまり戦局の焦点はアジア大陸にあって、太平洋にあるのではない、と判断していた。そうだとすれば、南方作戦は、陸軍にとって武力処理という、一種の局地作戦になる。しかも、対米戦は、作戦は海軍に一任するという考え方であった。海軍に一任するのだから、「海軍は何をぐずぐずしているのか。早く日米戦争をはじめろ」と大声をあげて急がせればよいことになる。そして陸軍としては、対ソ作戦、対中国作戦をもっぱら考えていればよいのである。もっとも、陸軍にとって、南方作戦は資源的には決定的な重要性を持つので、その点、戦局から目を離さず、押さえるものを押さえればよいわけである、と。
 こんなことが戦後になって分かっても何も役に立たない。ハッキリ言えば、この時出席者の頭の中は、互いに違うことを考えながら、結論を探していた、ということになる。作戦と戦争、陸軍と海軍。この段階では、対米戦を担当する海軍が一番重い役割を担うこととなる。しかしその自覚が消えて、戦機は今だと叫んでいる。陸軍より海軍の方がこの時点では責任は遥かに重大だったと言わざるを得ない。なのに、座を丸く収めた。これも歴史的事実というものだろう。

 連絡会議は、「長期戦になっても大丈夫戦争を引き受けるという者がなく、さりとて現状維持でゆくのは不可であり、だから止むなく戦争をする」という結論に落ち着いた。そして11月1日、「帝国国策遂行要領」を決定し、対米交渉要領として、甲、乙二つの案を決めて、幕を閉じた。
 甲案は、それまで日本が主張してきた条件を、さらに譲りうる限り譲って整理したもので、三国同盟問題、駐兵問題はそのまま譲らず、ハル四原則、中国の通商の門戸開放と機会均等については多少譲歩をみせていた。
 乙案は、突然東郷外相が提案したもので、外務省が作成した代案。狙いは南部仏印進駐軍を北部仏印に移駐させ、情況を資産凍結前に引き戻そうとするにあったが、陸軍が猛反対した、しかし憤激のあまり蒼白になりながら、乙案に賛成せざるを得なかった。
 そして翌11月2日午後5時、東條首相は杉山、永野両統帥部長と共に参内し、討議の経過と結論を奏上、そのとき東條の上奏は、声涙ともに下るふうであったという。3日には両統帥部長が作戦計画を上奏、4日には軍事参事官が宮中に集まって討議、5日には御前会議が開かれた。会議で説明に立った鈴木企画院総裁の結論は、長期戦を戦いうる国力を保ち続けることは難しい、ただ戦果を収めることで優勢を維持し、一方で国民の協力を得つつ努力してゆくという考え方は、一本の丸木橋をわたるも同然、作戦部隊と生産部隊は、一瞬の気のゆるみも許されない情況であると指摘した。このような貴重な判断が示されていたというのに、せめて海軍部隊だけでも詳しく知らされなかったのだろうか、もしそれが知らされ、とくに作戦計画立案者たちが十分慎重な姿勢を崩さずにいたならば、あるいはミッドウェー海戦の惨敗はなかったであろうに、と吉田は悔しがる。
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海軍大臣嶋田繁太郎 白紙還元

2019年02月04日 | 歴史を尋ねる
 10月17日午後4時半、宮中から東條陸相にお召しがあった。いよいよお叱りを受けるものと覚悟した陸相は、軍服を着かえ、苦り切った表情で出ていった。ところが大命降下、東條にも陸軍にも唐突で意外であった。木戸内大臣は、アメリカが日本政府を支配している陸軍に狙いをつけていることを見抜き、その陸軍を押さえ、陸海軍の協調をはかり、9月6日の御前会議決定事項を再検討して出直すことの出来る者は東條以外にないと見た。すっきりしないし、どうにも危なっかしいが、代案もなかった。過去の積み重ねの上に現在があることからすれば、日本の選択の範囲も、これほど狭まったということだ。つまり、東條内閣を作った本当の狙いは、9月6日の御前会議を白紙に還元するところにあった、と吉田俊雄は解釈する。
 東條は17日夕方、大命降下のあと、その白紙還元の御言葉をいただいた。東條英機は宣誓供述書の中で、その御沙汰は木戸日記の通りといっている。「ただ今陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察しますが、なお国策の大本を決定せらるるについては9月6日の御前会議決定に捉われることなく、内外の情勢を更に広く深く検討して慎重なる考究を加えるを要すとの思召しであります。命によりその旨申上げておきます」というのであり、のちにいう白紙還元の御諚であると東條が言っている。

 海相の人事だが、及川は豊田副武大将(呉鎮守府長官)を予定していた。東條にいうと、「豊田は困る。陸軍の空気が悪く、協調精神がない。強いて豊田に固執されるなら自分も総理を固辞するほかない」と猛反対した。豊田の陸軍嫌いは、海軍部内でも有名で、満州事変以来の陸軍のやり方に激怒、日華事変、上海事変に拡大した後、第四艦隊長官として陸軍との間に青島事件といわれる大喧嘩をしたことでますます有名になった。しかし、豊田に大臣を引き受けさせようと及川海相が呉から読んだ時点では、近衛の次は東久邇宮が総理だろう、陸軍に向かって海軍のいいたいことをズバズバいえるのは、豊田しかいない、それが総理一任で失敗した及川はじめ海軍首脳部たちの熱い期待だった。それが、まさかと思う東條に決まり、情勢が急転直下した上に、東條からあからさまに豊田を忌避してきた。沢本次官は、「海軍が推したものを、陸軍の反対でひっこめては、悪例を残します。東條じゃ、どうせ戦争になります。潰した方が国のためです」 同席した伊藤軍令部次長も岡軍務局長も沢本に賛成したが、及川は海軍が内閣を引き倒すことを嫌って、賛成しない。海軍が倒閣したのだから、あと海軍がやれ、といわれても、陸軍を押さえて協力内閣を組織する自信はもてなかった。「それならやむをえません。豊田さんに、自発的に断った形をとってもらいましょう」と沢本。沢本の懇請で豊田は、「東條陸相になぜ大命が下ったのか、理由が分からない。東條をもってすれば、戦争突入のほかない。私としても、東條のポリシーには共鳴できないし、性格的にも手を繋ぐことは出来ない。その上、及川海相に総理一任などと血迷ったことをいわざるを得なくした部内の急進派、陸軍の急進派と気脈を通ずる海軍上層または中層の一部と一戦交えて海軍の足並みを揃えねばならぬ。これはむずかしい。しかし是非ともやなねばいかん」と八つ当たりにあたりまくって、呉に去った。ふーむ、それにしても、終戦時の最高戦争指導会議での豊田の言動に米内から見損なったと非難され、陸軍側に与した姿とどう重なるのか。非常時での人の判断は極めて複雑で、理解し難いということか。更に、海軍という組織にいながら、トップに立つと組織の大きな考え方もあるが、苦境に立たされている現状に立ち向かうと、組織の考え以上に個人的な判断・思考方法が優先されるのか。最終的には個人的力量が大きく影響を与えるということか、確かに吉田俊雄はその辺を詳らかにしようと、この著書「五人の海軍大臣」を書いたのだろう。

 横須賀鎮守府長官嶋田繁太郎大将にとって、大臣就任は寝耳に水であった。嶋田は翌18日、組閣本部で東條陸相と会った。「対米外交を促進する一方、あるいは最悪の場合になる場合も考えると、海軍の立場は極めて重大だが、その辺十分ご了解願えるか」「その通りだが、陸軍の方はどうでもよいと考えられるのか」「陸軍、海軍の関係をどうこういうのではない。それはその時の情況によって定まってくると思う。ただこの事態で、海軍の立場についてお考えを聞いただけだ」「陸海軍の協調は何よりも大切である。その点いささかも遺漏なきよういたしたい」「まったく同感」 残念ながら、腰砕けになってしまった、と吉田。
 永野軍令部総長が山本連合艦隊長官の、開戦と同時に真珠湾奇襲攻撃をするという決意を聞き、「山本長官がそれほどまでに自信があるというならば、総長として責任を持ってご希望通り実行するようにいたします」と伝えた日、及川海相と事務引継ぎを終わった嶋田新海相は、岡軍務局長に、「対米交渉は平和本位に、正々堂々、徹底的にやらないといけない。作戦上、チャンスを失うから早く打ちきれ、などと言うのは暴論だ。この大戦争をそんなことで始めることは出来ない。軍令部が承知しないというなら、私は辞職する。そのほかない」 永野を狙い撃ちしたような、堂々たる正論であった。その反響が、翌日軍令部次長から返って来た。「その場合は総長一人が辞職して事態を収める」と。永野、嶋田ともに戦争は避けたいと考え、外交交渉に望みを託していた。ただ永野は、このままでは外交交渉の行く先は闇だと判断していて、そのときになって日本が窮地に落ちぬよう、立ち遅れぬよう、戦備に万全を尽くそうとすつところが違っていた。
 
 東條内閣が発足すると、第一着手の重要課題として、10月23日から白紙還元作業に取り組んだ。この時、参謀本部や軍令部、いわゆる統帥部には白紙還元の御言葉が伝わっていなかった。人づてに、あとからその趣旨を聞いても、なかなか納得しなかった。かれらの頭は、9月6日の御前会議で固まっていた。問題は「十月上旬頃に至るも尚わが要求を貫徹し得る目途なき場合においては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す」の項である。すでに目標日を過ぎてもなお外交交渉が妥協する目途が立たないのだから、当然直ちに開戦を決意すべきであり、そうしないと作戦準備が出来ないという焦りしかなかった。そのような空気のなかで、見直し作業が進められていく。
 見直し作業は、11項目に分け、9日間にわたって精力的につづけられた。「10月の話が今になったのだから、研究会議も簡単明瞭にやって貰いたい。海軍は今でも1時間400トンの油を焚いている。事は急を要する。急いでどちらかに決めてもらいたい」と督促する永野総長たちに急き立てられながら、計算のし直し、見積もりの立直し、議論のやり直しをしていた。しかし、ひと月立ったからといって、データがすっかり変わるものではなく、結局は前回と変わり映えしない結果となった。
 吉田は考える。もしこの時、新首相がメモ魔的事務屋ではなく、視野の広い、国際感覚に富んだ大政治家であったとしたら、そしてまた、陸軍の始めた4年に亘る日華事変で国力が痩せ、さらに陸軍は大軍を北辺に集結してソ連を窺がう姿勢を崩さず、その上にこんどはアメリカ、イギリス、オランダを相手に戦争を始める、そのことが日本にとって、どれほど重すぎる負担であり、どれほど危険な賭けであるかを、国力とのバランスの上に見通すことができる人物であったら、どうだったろう。残念ながら、政治家たちは、五・一五事件、二・二六事件以来テロを恐れて表面に立ちたがらず、この頃になっても近衛首相、平沼枢相が暴漢に襲われていて、陸軍急進派の怒りを買うと、命がいくつあっても足りない状況は変わっていなかった。こんな難しい時、「私がやろう」などと名乗りを上げる奇特な政治家はいなかった、と。併せて、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、スターリン首相、蒋介石総統、毛沢東など、その後歴史に残るそうそうたる人物が、相手の国のトップに立っていることも忘れてはいけない。

 国策再検討は、それぞれの担当省庁が準備したデータに基づいて検討を進めるが、管理工学の発達が不十分な頃のこと、早期開戦を正当化するための主観的な数字や判断が混在し、計算の基礎そのものにも客観性の薄いデータがあってもやむを得なかった。こんなエピソードもあるという、軍令部作戦課の作戦班長・神大佐は船舶担当者・西川中佐のところに書類をもってきて、兵棋演習はこの規則でやれ、船が沈まんようになる、と。その規則を使って計算すれば、それまでの規則では沈没と判定される船が沈没しないことになる。あとで西川中佐はいった。「そんなインチキはできんと言えって? とんでもない。神さんにそんなことをいったら、ぶん殴られる。生きておれんよ」
 神大佐は、海軍大学校を首席で卒業し、すぐにドイツ駐在を命ぜられた抜群の俊才。伝統的に海軍には、大学校を首席で、恩賜の軍刀をいただき、天皇の御前で研究の成果をお話し申上げたような逸材には、一目も二目も置き、絶対の信頼をかける気風があった。だから作戦計画のかなめに神重徳大佐を配したのだ。約1年前、参謀本部の岡村少佐にいった。「海軍は来年(16年)4月以降に南方作戦を実行しないと、部内統制上も都合が悪い。4月になれば対米戦に自信がある。対米兵力比が7割5分になる」 同じころ田中参謀本部一部長にはこういった。「蘭印をやり、英米を敵としても、16年4月以降ならば差し支えない。15年12月に巡洋艦二隻が竣工、増勢されるから、南方には水雷戦隊一隊を増派できる。外戦部隊のうち7割の戦備が12月にはほぼ終わり、1月中旬には完成する。蘭印だけならこれでやれる。4月中旬になれば、対米7割5分の戦備が整う。16年4、5月ころ、海軍としても戦争をやらねばならぬ。16年暮れになると、修理を要する艦艇が多くなる」
 ここでも吉田は言う。秀才の自信に満ちた分析だが、これは結局、作戦上の都合を言っているだけで、日本が英米を向こうに回して戦争が出来るかどうか、生産はどうするのか、補給はどうするのか、などには一言も触れていない。これは、海軍の体質であった。作戦研究は猛烈にやるが、戦争研究はしない。しないでよいと考えている。陸軍も、大同小異だ、と。

 再検討会議の席上、述べられた情況判断の要点。
1、開戦初期は大丈夫だが、長くなったら米英独ソがどうなるか、国民がどこまで覚悟するか  できまるので、いまから予測できない。
2、ヨーロッパ戦線は長期戦になるが、ドイツの優勢は変わらない。
3、戦争中の船舶の消耗量見込みは、第一年70万トン(実際は130万トン)、第二年
  60万トン(175万トン)、第三年40万トン(375万トン)、新造船見込みは、第  一年40万トン(実際は27万トン)、第二年60万トン(77万トン)、第三年80万  トン(170万トン)。
4、物資の需要供給は、300万トンの船舶があれば維持できるが、それ以下になれば不可能  だ。ことに第三年以降は不安である。石油は二カ年の民需は賄えるが、南方油がどれだけ  手に入るかがカギとなる。航空ガソリンは南方油を考えに入れても第三年以後は難しくな  る。
5、長期戦を戦い抜くには、海軍はいつも飛行機3千機を持っていなければ危ない。

 参謀本部の戦争指導班(大本営機密戦争日誌)のこの日の日誌
 「総理の決心には変化なきが如きも、鈴木(企画院)総裁に疑念あり、賀屋(蔵相)は真面目、海相最も消極的、岡(軍務)局長は非戦論なり、独り(参謀)総長、次長強硬に発言しある如く、軍令部総長及び次長の発言は少なし。かくして遂に27日に至るもらちあかず。開戦決意は前途遼遠なり」と。
 
 こうして、物資需給については、とうとう結論を出せなかった。石油は、南方作戦に踏み切っても不安であり、鉄も船舶も危ない。そこまで突き詰めたが、それではもう一度はじめに戻って考え直してみよう、三国同盟はどうか、駐兵問題はどうか、大東亜共栄圏の門戸は解放されていないのか、日米は戦わずにすませることは出来ないのか、というような基本問題についての議論は、全くなされなかった。首相はじめ閣僚みな事務屋ばかりであった。大器量の政治家は誰もいなかった、と吉田。
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