なぜ太平洋戦争は、始まったのか。なぜ海軍は、戦争回避を希望しながら、開戦を阻止することが出来なかったのか。あるいは、海軍では、広い視野から見る総合的思考方法や行動様式に、何か欠点があったのではないか、海軍の教育や人事行政に、誤りがあったのだろうか、軍令部に7年間在籍、米内、長谷川、永野、嶋田、及川、塩沢各大将などの副官をして接する機会があり、これら大将たちの思考と行動を通して、自分の疑問を考えてみようと、吉田俊雄は「五人の海軍大臣 太平洋戦争に至った日本海軍の指導者の蹉跌」という著書を書き上げ、2018年出版した。無理なく当時を彷彿とさせる良書だった。そして海軍は国策を決める場で、日米戦争に反対する天皇や閣僚から期待されながら、最後まで自らの考えを開陳し、開戦阻止に貢献することがなかったことが本書から読み取ることが出来る。最終章では、吉田の万感の思いを整理して置きたい。
アメリカ政府は、外務省暗号の解読という圧倒的な対日優位を活用し、日本をあやしながら、アメリカ陸海軍の戦備が整うまで、極力開戦の日を引き延ばしてきた。日本陸軍流に言えば、ルーズベルトは日本に対し、日華事変拡大の頃から懲らしめの「戦争決意」はしていたが、「開戦決意」をするまでには至っていない。しかし「開戦決意」をしなければ、うかつに踏み込めない「対日資産凍結」を、日本軍の南部仏印進駐を見て断行した。そのあと、石油の対日禁輸を打ち出して、やるならやって見ろ、という姿勢もあらわにした。しかし、もたざる国・日本が、強大なアメリカに戦争を仕掛けるとは、彼らには信じられなかった。経済制裁を積み重ねてゆけば日本は和解を求めてくるだろう。もし日本が軍隊を動かしても、フィリピン、シンガポール、そして蘭印までがせいぜいであり、それ以上の力はないと判断した。かれらが頭を痛めていたのは、アメリカ議会と国民に、どうしたら参戦を決意するまでに誘導してゆけるか、であった。ルーズベルトは、イギリスを救い、ナチを倒すには、どうしてもアメリカが参戦し、陸軍部隊、空軍部隊をヨーロッパに送り込むことが必要だと確信していた。所詮、ルーズベルトには大西洋が表門で、太平洋は裏門にすぎなかった。
11月26日、ハル国務長官は野村大使と来栖三郎特命全権大使の来訪を求め、その席で、日本のいわゆる乙案には同意できないと回答し、対案として十カ条のハル・ノートを手渡した。ハルノートのキーポイントは、「1、ハル四原則を承認すること。2、①日英米ソ蘭支泰の間で相互不可侵条約を結ぶ。②日英米ソ蘭支泰の間で仏印不可侵と仏印での経済上の均等待遇協定を取り決める。③支那と全仏印からの日本軍の全面撤退。④日米両国間で支那では蒋介石政権以外の政権を支持しない確約。⑤支那での治外法権と租界に撤廃。⑥最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約を結ぶ。⑦日米相互凍結令解除。⑧円ドル為替安定。⑨日米両国が第三国との間に結んでいる協定はこの協定と太平洋平和維持の目的に反しないこと」
歴史家ジョン・トーランドによると、③項の「支那」には満州が含まれず、ハルは最初から日本による満州国の放棄など考えていなかった、という。ふむ、そうは言うものの、この段階では、蒋介石と連絡を取り合って交渉案文を決めていたから、蒋介石は了解しなかったのではないか。その証拠に、11月20日のルーズベルト自身がメモした日米協定案が作られたが、この案に中国が強い抗議をしてきて、さらにチャーチルからも抗議が行われ、再考を求めてきた。ホワイトハウスでは、その日(26日)最高軍事会議が開かれ、ルーズベルトは「日本人は事前に警告もせずに奇襲することで悪名が高い。もしかすると来週月曜日、日本は攻撃を開始するかもしれない」といい出した。そしてその日、符節を合わせるように、エトロフ島のヒトカップ湾から、空母6隻を中核とする艦船31隻がハワイをめざして滑り出した。
11月27日、ハル・ノートを受け取った日本政府首脳も激怒した。松岡元外相流の力の外交、独伊との軍事同盟によって力を誇示し、その力を背景として対米交渉にのぞみ、アメリカに日本の東亜新秩序政策と主張を認めさせようという構想は、最後の段階にいたって挫折した。ところが、驚いたことに、主戦論者たちは、逆に勢いづいた様子だった、と吉田。田中参謀本部一部長は、「ハル・ノートが、日本のため、あたかも好機に接到したことは、むしろ天祐といえる。このような挑戦的な文書を衝きつけられては、東郷外相、賀屋蔵相も、もはや非戦闘的立場を固持し得ないだろう。これで国論も一致するだろう。陛下の御納得もこれでいただけよう。要するに来るべきものが来たのだ。統帥部長以下何も驚くことはなかった。既定の開戦方針の貫徹のためには、情勢はこれで一挙に好転したのだ。むしろ肩の重荷が一応降りたような感じだ」(田中感想録)。宇垣纏連合艦隊参謀長も、「帝国の主張するところは一も容るるところなく、米国本来の勝手なる主張に、各国の希望条件さえ多分に織りこまれあり、いまさら何の考慮や研究の必要あらん。米国をやっつける外に方法なし。これだけ言いたき事を主張せられては、外交官はもとより、いかなる軟派も一言の文句もあるまじ。明瞭にして可なり」(戦藻禄)。東郷外相は、「目もくらむばかりの失望に打たれた。米国の非妥協的態度は、かねてから予期したことであるが、その内容の厳しさには少なからず驚かされた」といい、これまでの交渉経過を無視した強硬なものであるかを指摘していた。
しかし、今日改めて当時を組み立て直して見ると、東郷外相がアメリカ側の論旨一貫しない理由が推察できると、吉田。かれらは時を稼ぐのに懸命で、論旨が一貫しようとしまいと、問題ではなかった。もともと日本のいうところをそのまま呑む気など、毛頭なかった。海軍は次々と新艦船を就航させ、せめてあと三カ月待ってくれという。陸軍ははじめフィリピンを捨てる計画でいたところ、新鋭機B17が驚くべき成功を収めたところから、これをフィリピンに使おうと考え直した。その為にあと三週間欲しいと要求した。そんなことで、ハル長官が予定していたであろう最終的段階までのスケジュールがいろいろ変わった。そこに、30隻から50隻の大船団が台湾南方海上にいるという急報が入った。「ルーズベルトは宙に飛びあがらんばかりに怒り、一方で中国からの撤兵を交渉しながら、他方で仏印に兵力を送るとは背信も甚だしい。これで状況は変わった」とスチムソン日記に言う。それでいて、ルーズベルトは翌日、野村、来栖両大使に、「私はいまなお、日米関係が平和的妥結に達することに、大きな希望を持っている」などと、にこやかに語った。
11月27日、大統領は、参謀総長と作戦部長からの、フィリピンとハワイに最終的警戒令を発する提案に同意した。 陸軍部隊へ。「日本の敵対行動はいつ起こるかもわからない。もし敵対行動が避けられないとすれば、アメリカは日本が最初からあからさまな行動に出ることを望んでいる。偵察その他必要とする手段をとれ」 太平洋艦隊(ハワイ)とアジア艦隊(フィリピン)へ。「本電をもって戦争警告と見做すこと。日米交渉はすでに終了した。日本の侵略行動がここ数日以内に予想される。日本軍はフィリピン、タイまたはクラ海峡(マレー)、もしくはボルネオに対して行動するものと判断される。適切なる防衛措置を取れ」
12月1日、御前会議が開かれた。その前29日、天皇から、重臣を集めて広く意見を聞きたいと希望され、重臣の中の海軍出身者、岡田啓介大将と米内光政大将は、長期戦になった場合の持久力、とくに物資の補給能力に大きな懸念を見せ、戦争反対の意見を申上げた。だが、ここまできた流れを止めることは出来なかった。御前会議では、とくに全閣僚が出席し、「対米英蘭開戦に関する件」を審議し、決定された。それを受けて、大本営海軍部命令第九号が山本連合艦隊長官に下達され、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信された。
その同じ日、スターク作戦部長は、ルーズベルトの意を受けてアジア艦隊長官に命令した。小型船三隻を徴用、海軍士官一名と小型火器を備え、米国軍艦としての表示をし、南支那海およびシャム湾における日本軍の行動を監視し、無線報告を行うことを求めた。イザベラは、墜落した飛行機を捜索すると称して仏印海岸に向け出港、12月5日、日本海軍機に発見され、旋回偵察されたが、何ごとも起こらなかった。もう一隻ラニカイは、二週間分の食料を積み込み、イザベラと交替するためマニラを出港しようとしたところで、真珠湾攻撃の報を聞き、出港を中止した。この奇怪な大統領命令は何を狙ったのか。ライニカで出港するはずだった指揮官トリ―大尉は、戦後、「日本を戦争に引きずり込むためのワナだったに違いない」と語った。そして当時の艦隊長官から、「ライニカがおとりだったことは認める。証拠はあるが見せない。これ以上の詮索はやめてくれ」とも言われた。
ルーズベルトは、大統領選挙で、アメリカの青年たちを戦場に送るようなことはしないと、繰り返し繰り返し公約してきた。議会は、孤立主義者、非戦論者、反ルーズベルト派が勢力を増やし、いっそう操縦が難しくなっていた。そして国民は、ルーズベルト個人を支持する者こそ多かったが、戦争には反対だった。ルーズベルトは、そんなアメリカを戦争に引き込んで、イギリスを救い出すと同時に、ヒトラーを倒して枢軸の背骨を折り、自由陣営の勝利を勝ちたらねばならなかった。のちにスチムソン陸軍長官が、軍事補佐官ハリソン少佐に向かい、「真珠湾がなかったら、アメリカを戦争にさせることは絶対に不可能だったね」と回想した。
開戦劈頭、米太平洋艦隊主力部隊を一挙に壊滅させ、米海軍と米国民の士気を叩きのめしたことは確かで、山本作戦としては大成功だったが、それは山本が期待した救うべからざるほどの大打撃を与えたことには成らなかった。最大の理由は、ワシントン大使館の最後通告文の翻訳が遅れ、野村大使がハル長官に手渡したのが真珠湾攻撃開始の一時間後になってしまった。それを見逃すルーズベルトではなかった。「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、孤立主義者、非戦論者、反ルーズベルト運動家をひっくるめた全アメリカ国民を、「打倒日本、打倒ヒトラー」に結集させることに成功した。アンフェアを嫌うアメリカ人の国民性を、これ以上ない格好の起爆剤で爆発的に燃焼させることが出来た。
12月8日、真珠湾攻撃成功の電報が、トラック環礁に停泊する旗艦「鹿島」の司令部に入った。通信参謀飯田中佐が電文を井上成美司令長官に届け、「おめでとうございます」と付け加えた。じっと文字を追っていた井上は、無言でそれを通信参謀に返すと、「ばかな・・・」と吐き捨てた。17年10月、海軍兵学校校長になるが、構内にある教育参考館という、生徒の精神教育の中心である東郷元帥の遺髪が安置されている聖域から、海軍大将の写真額を全部取り外させた。「海軍大将のなかには、海軍のためにならないことをやった人もいるし、また、先がみえなくて日本を対米戦争に突入させてしまった、私が国賊と呼びたいような大将もいる。こんな人たちを生徒に尊敬せよとは、私にはとうてい言えない。また、館内に同居している、真珠湾攻撃の特殊潜航艇で戦死した若い軍人方にもあいすまぬ・・・」
アメリカ政府は、外務省暗号の解読という圧倒的な対日優位を活用し、日本をあやしながら、アメリカ陸海軍の戦備が整うまで、極力開戦の日を引き延ばしてきた。日本陸軍流に言えば、ルーズベルトは日本に対し、日華事変拡大の頃から懲らしめの「戦争決意」はしていたが、「開戦決意」をするまでには至っていない。しかし「開戦決意」をしなければ、うかつに踏み込めない「対日資産凍結」を、日本軍の南部仏印進駐を見て断行した。そのあと、石油の対日禁輸を打ち出して、やるならやって見ろ、という姿勢もあらわにした。しかし、もたざる国・日本が、強大なアメリカに戦争を仕掛けるとは、彼らには信じられなかった。経済制裁を積み重ねてゆけば日本は和解を求めてくるだろう。もし日本が軍隊を動かしても、フィリピン、シンガポール、そして蘭印までがせいぜいであり、それ以上の力はないと判断した。かれらが頭を痛めていたのは、アメリカ議会と国民に、どうしたら参戦を決意するまでに誘導してゆけるか、であった。ルーズベルトは、イギリスを救い、ナチを倒すには、どうしてもアメリカが参戦し、陸軍部隊、空軍部隊をヨーロッパに送り込むことが必要だと確信していた。所詮、ルーズベルトには大西洋が表門で、太平洋は裏門にすぎなかった。
11月26日、ハル国務長官は野村大使と来栖三郎特命全権大使の来訪を求め、その席で、日本のいわゆる乙案には同意できないと回答し、対案として十カ条のハル・ノートを手渡した。ハルノートのキーポイントは、「1、ハル四原則を承認すること。2、①日英米ソ蘭支泰の間で相互不可侵条約を結ぶ。②日英米ソ蘭支泰の間で仏印不可侵と仏印での経済上の均等待遇協定を取り決める。③支那と全仏印からの日本軍の全面撤退。④日米両国間で支那では蒋介石政権以外の政権を支持しない確約。⑤支那での治外法権と租界に撤廃。⑥最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約を結ぶ。⑦日米相互凍結令解除。⑧円ドル為替安定。⑨日米両国が第三国との間に結んでいる協定はこの協定と太平洋平和維持の目的に反しないこと」
歴史家ジョン・トーランドによると、③項の「支那」には満州が含まれず、ハルは最初から日本による満州国の放棄など考えていなかった、という。ふむ、そうは言うものの、この段階では、蒋介石と連絡を取り合って交渉案文を決めていたから、蒋介石は了解しなかったのではないか。その証拠に、11月20日のルーズベルト自身がメモした日米協定案が作られたが、この案に中国が強い抗議をしてきて、さらにチャーチルからも抗議が行われ、再考を求めてきた。ホワイトハウスでは、その日(26日)最高軍事会議が開かれ、ルーズベルトは「日本人は事前に警告もせずに奇襲することで悪名が高い。もしかすると来週月曜日、日本は攻撃を開始するかもしれない」といい出した。そしてその日、符節を合わせるように、エトロフ島のヒトカップ湾から、空母6隻を中核とする艦船31隻がハワイをめざして滑り出した。
11月27日、ハル・ノートを受け取った日本政府首脳も激怒した。松岡元外相流の力の外交、独伊との軍事同盟によって力を誇示し、その力を背景として対米交渉にのぞみ、アメリカに日本の東亜新秩序政策と主張を認めさせようという構想は、最後の段階にいたって挫折した。ところが、驚いたことに、主戦論者たちは、逆に勢いづいた様子だった、と吉田。田中参謀本部一部長は、「ハル・ノートが、日本のため、あたかも好機に接到したことは、むしろ天祐といえる。このような挑戦的な文書を衝きつけられては、東郷外相、賀屋蔵相も、もはや非戦闘的立場を固持し得ないだろう。これで国論も一致するだろう。陛下の御納得もこれでいただけよう。要するに来るべきものが来たのだ。統帥部長以下何も驚くことはなかった。既定の開戦方針の貫徹のためには、情勢はこれで一挙に好転したのだ。むしろ肩の重荷が一応降りたような感じだ」(田中感想録)。宇垣纏連合艦隊参謀長も、「帝国の主張するところは一も容るるところなく、米国本来の勝手なる主張に、各国の希望条件さえ多分に織りこまれあり、いまさら何の考慮や研究の必要あらん。米国をやっつける外に方法なし。これだけ言いたき事を主張せられては、外交官はもとより、いかなる軟派も一言の文句もあるまじ。明瞭にして可なり」(戦藻禄)。東郷外相は、「目もくらむばかりの失望に打たれた。米国の非妥協的態度は、かねてから予期したことであるが、その内容の厳しさには少なからず驚かされた」といい、これまでの交渉経過を無視した強硬なものであるかを指摘していた。
しかし、今日改めて当時を組み立て直して見ると、東郷外相がアメリカ側の論旨一貫しない理由が推察できると、吉田。かれらは時を稼ぐのに懸命で、論旨が一貫しようとしまいと、問題ではなかった。もともと日本のいうところをそのまま呑む気など、毛頭なかった。海軍は次々と新艦船を就航させ、せめてあと三カ月待ってくれという。陸軍ははじめフィリピンを捨てる計画でいたところ、新鋭機B17が驚くべき成功を収めたところから、これをフィリピンに使おうと考え直した。その為にあと三週間欲しいと要求した。そんなことで、ハル長官が予定していたであろう最終的段階までのスケジュールがいろいろ変わった。そこに、30隻から50隻の大船団が台湾南方海上にいるという急報が入った。「ルーズベルトは宙に飛びあがらんばかりに怒り、一方で中国からの撤兵を交渉しながら、他方で仏印に兵力を送るとは背信も甚だしい。これで状況は変わった」とスチムソン日記に言う。それでいて、ルーズベルトは翌日、野村、来栖両大使に、「私はいまなお、日米関係が平和的妥結に達することに、大きな希望を持っている」などと、にこやかに語った。
11月27日、大統領は、参謀総長と作戦部長からの、フィリピンとハワイに最終的警戒令を発する提案に同意した。 陸軍部隊へ。「日本の敵対行動はいつ起こるかもわからない。もし敵対行動が避けられないとすれば、アメリカは日本が最初からあからさまな行動に出ることを望んでいる。偵察その他必要とする手段をとれ」 太平洋艦隊(ハワイ)とアジア艦隊(フィリピン)へ。「本電をもって戦争警告と見做すこと。日米交渉はすでに終了した。日本の侵略行動がここ数日以内に予想される。日本軍はフィリピン、タイまたはクラ海峡(マレー)、もしくはボルネオに対して行動するものと判断される。適切なる防衛措置を取れ」
12月1日、御前会議が開かれた。その前29日、天皇から、重臣を集めて広く意見を聞きたいと希望され、重臣の中の海軍出身者、岡田啓介大将と米内光政大将は、長期戦になった場合の持久力、とくに物資の補給能力に大きな懸念を見せ、戦争反対の意見を申上げた。だが、ここまできた流れを止めることは出来なかった。御前会議では、とくに全閣僚が出席し、「対米英蘭開戦に関する件」を審議し、決定された。それを受けて、大本営海軍部命令第九号が山本連合艦隊長官に下達され、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信された。
その同じ日、スターク作戦部長は、ルーズベルトの意を受けてアジア艦隊長官に命令した。小型船三隻を徴用、海軍士官一名と小型火器を備え、米国軍艦としての表示をし、南支那海およびシャム湾における日本軍の行動を監視し、無線報告を行うことを求めた。イザベラは、墜落した飛行機を捜索すると称して仏印海岸に向け出港、12月5日、日本海軍機に発見され、旋回偵察されたが、何ごとも起こらなかった。もう一隻ラニカイは、二週間分の食料を積み込み、イザベラと交替するためマニラを出港しようとしたところで、真珠湾攻撃の報を聞き、出港を中止した。この奇怪な大統領命令は何を狙ったのか。ライニカで出港するはずだった指揮官トリ―大尉は、戦後、「日本を戦争に引きずり込むためのワナだったに違いない」と語った。そして当時の艦隊長官から、「ライニカがおとりだったことは認める。証拠はあるが見せない。これ以上の詮索はやめてくれ」とも言われた。
ルーズベルトは、大統領選挙で、アメリカの青年たちを戦場に送るようなことはしないと、繰り返し繰り返し公約してきた。議会は、孤立主義者、非戦論者、反ルーズベルト派が勢力を増やし、いっそう操縦が難しくなっていた。そして国民は、ルーズベルト個人を支持する者こそ多かったが、戦争には反対だった。ルーズベルトは、そんなアメリカを戦争に引き込んで、イギリスを救い出すと同時に、ヒトラーを倒して枢軸の背骨を折り、自由陣営の勝利を勝ちたらねばならなかった。のちにスチムソン陸軍長官が、軍事補佐官ハリソン少佐に向かい、「真珠湾がなかったら、アメリカを戦争にさせることは絶対に不可能だったね」と回想した。
開戦劈頭、米太平洋艦隊主力部隊を一挙に壊滅させ、米海軍と米国民の士気を叩きのめしたことは確かで、山本作戦としては大成功だったが、それは山本が期待した救うべからざるほどの大打撃を与えたことには成らなかった。最大の理由は、ワシントン大使館の最後通告文の翻訳が遅れ、野村大使がハル長官に手渡したのが真珠湾攻撃開始の一時間後になってしまった。それを見逃すルーズベルトではなかった。「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、孤立主義者、非戦論者、反ルーズベルト運動家をひっくるめた全アメリカ国民を、「打倒日本、打倒ヒトラー」に結集させることに成功した。アンフェアを嫌うアメリカ人の国民性を、これ以上ない格好の起爆剤で爆発的に燃焼させることが出来た。
12月8日、真珠湾攻撃成功の電報が、トラック環礁に停泊する旗艦「鹿島」の司令部に入った。通信参謀飯田中佐が電文を井上成美司令長官に届け、「おめでとうございます」と付け加えた。じっと文字を追っていた井上は、無言でそれを通信参謀に返すと、「ばかな・・・」と吐き捨てた。17年10月、海軍兵学校校長になるが、構内にある教育参考館という、生徒の精神教育の中心である東郷元帥の遺髪が安置されている聖域から、海軍大将の写真額を全部取り外させた。「海軍大将のなかには、海軍のためにならないことをやった人もいるし、また、先がみえなくて日本を対米戦争に突入させてしまった、私が国賊と呼びたいような大将もいる。こんな人たちを生徒に尊敬せよとは、私にはとうてい言えない。また、館内に同居している、真珠湾攻撃の特殊潜航艇で戦死した若い軍人方にもあいすまぬ・・・」