「会社」の由来

2011年01月23日 | 歴史を尋ねる

 我われが日常頻繁に使う「会社」の由来について「明治経済史再考」の著者高村直助氏が小論を書いているので、記録にとどめておきたい。経営史研究でもあまり取り上げないテーマを現代資本主義論で著名な馬場宏二氏が「会社という言葉」で論文を発表しているようだ。この論文によると、「会社」「商社」「社員」はいずれも和製漢語らしい。文献による「会社」の最初の用例は1848年ないし1851年に出版された翻訳本のようだ。そのときの語義は学者集団、仲間集団らしく、原書はオランダ語で、学会または組合であった。一方「商社」は長崎奉行岡部駿河守長常の文書が初見である。「商社」が幕末慶応期には幕府関係者の間で一種公用語化していった。1866年に発行された福沢諭吉の「西洋事情」の会社は早い用例として有名であるが、その内容は蘭学者が用いた用例と一緒で、営利企業は「商社」を用いていた。

 ところが明治政府は通商会社、為替会社の設立、福地源一郎訳「会社弁」、渋沢栄一著「立会略則」を通じて、営利企業を指すのに適切であった「商社」を退け、語義不適切なる「会社」を強引に通用させたといっている。明治24年の言海に至って、ようやく現代の意味内容となり、夏目漱石の作品の中ではすでに「勤め先」といった程度の日常言語化している。

 高村氏は若干この点にクレームを発し、むしろ商社の方に不適切な点があるのではないとかいっている。幕末幕府関係者にとって会社起業の導入が急務であると意識されたのは開港後の貿易分野であり、日本語の語感として商社が自然であったが、明治に入って貿易や商業に限らない各種の産業分野で会社企業の設立が現実問題になり始めると、商社として語尾につけるのは抵抗があったのではないか、複数の仲間による共同企業というニュアンスで「会社」が用いられたのではないかと高村氏は推測する。

 そこで高村氏は当時共同出資企業の設立に際し官庁の許可が必要とされたから、出願を受ける中央・地方の制度を見るのがいいとして、明治4年廃藩置県後の条例・事務章程をみてみると共同出資企業の呼称を会社としている。当時の大蔵省の事務章程も会社となっている。会社という用語の推進者は渋沢であったと馬場氏は推論しているが、実は明治2年末渋沢栄一は大蔵省租税司正に任じられている。改正係のメンバーとして大蔵省職制・事務章程の作成に携わっていた。

 高村氏の結論は、県治条例・県治事務章程制定を画期として、「会社」を共同出資企業の名称に付すのが通例になったとしている。


第一次大隈財政

2011年01月23日 | 歴史を尋ねる

 大隈は会計官副知事になると5月2日金札を正金に引き換えることを禁止すると共に、金札を「太政官」と称することを禁止する布告を出した。更に2日後、時価相場ではなく、正金と同価として取扱うこととし、租税の支払は金札で納付するよう太政官達を出した。また、28日には金札の通用を13年間としていたのを明治5年限りで引き換えることとした。そして太政官札の発行額を3250万両までとしたが、結局7月末までに流通高は4800万両に達した。

 貨幣の贋金については、明治2年2月貨幣改所を東京、京都、大阪、横浜、兵庫、長崎に設置し通貨の検査がなされた。貨幣司、金銀座も廃止し、旧貨幣の鋳造も取りやめた。5月には造幣局を設置し、新貨幣の鋳造を行った。7月には造幣局が造幣寮と改称し、造幣頭には長崎府判事兼外国官判事の井上馨が就いた。また、大蔵少輔伊藤博文は、アメリカで調査した貨幣の鋳造や紙幣、公債証書の発行などの報告を行い、明治3年12月意見書を岩倉具視や大隈重信に提出した。それに基づいて明治4年5月、新貨条例が発布された。それに先立つ2月15日、右大臣三条実美以下の政府高官を中心に内外の貴賓を招いて造幣寮創業式が大阪造幣寮で挙行された。その100年後昭和46年皇太子殿下参加の下、大阪で造幣事業百年記念式典が行われたそうだ。この貨幣の鋳造について「近代的貨幣制度の成立 円の誕生」のなかで、著者三上隆三氏は次のように書いている。「貨幣の鋳造および発行の権利は、貨幣大権と呼ばれ、国家主権の中枢部を占める。歴史の流れに即して、時々の権力者、領主・君主・国王がこれを持ち、現代では政府に所属するのが普通である。・・・新政府は日本の近代化を推し進め、経済の国際社会への参加を標榜している以上、・・・貨幣大権を恣意的な悪用ができないのみならず、諸外国に対し貨幣の量目と品位についての公約をうたった法律・貨幣法を制定しなければならない。」 つまり、この造幣寮の業務すべてを総括・規制・根拠付ける法律が、この「新貨条例」だといっている。確かに根拠法が必要なことはわかるが、日本が当時のグローバルスタンダード(欧米基準)にいかに対応すべきか、苦心しているさまが見て取れる。のちに大隈は「造幣局はわが国が旧体制から新体制に移る兵馬倥偬(くうそう)の間に設立された。・・・この時代に、なぜ俄かに造幣局が設立されるに至ったかというと、これは外交の関係に基づくものだ」と言い切っているが、明治政府の性格もあって回答を引き延ばしたのでイギリス、フランスを中心に各国の外交団が日本政府に対し抗議・突き上げが激しかったようだ。

 新貨幣制度の第一歩は「明治貨幣考要」によると、慶応4年2月より4月と述べており、鳥羽伏見の戦い直後、東征・彰義隊討伐にかけてのまさに兵馬倥偬の時で、兵力増強に直接効果もない幣制改革に着手せざるを得なかった。そしてすぐに、香港にある閉鎖直後のイギリス造幣局の造幣機械を購入しようとしたのであった。政府は制度改革に積極的に取り組んでいったが、その過程は権限の集中化であり、その先は藩札の発行権限を取り上げることにつながっていった。


外交を梃子に(2)

2011年01月22日 | 歴史を尋ねる

 「従来のおカネに対する見解は、金銀の裏付けのない不換紙幣は政府の手にまかせてしまうと、濫発され、爆発的インフレを引き起してしまう恐れがある。中央銀行にまかせれば、金融市場、つまり市中銀行を通じて流されて中央銀行に還流する。中央銀行は金利とカネの発行量により、調整できる。つまり、中央銀行は政府から独立し、おカネをコントロールすべきだという論理が成り立つわけです。しかし、日銀券であろうと政府紙幣であろうと、不換紙幣、つまり「マネー」であることに変わりありません。」 これは日経ワシントン特派員を経て現在産経新聞論説委員の田村秀男氏のブログ(http://tamurah.iza.ne.jp/blog/entry/914879/)の一節である。更に次のような一節がある。「日本の政府紙幣は、明治維新期に大量発行された太政官札が悪性インフレを引き起したというのが教科書的な通説ですが、間違っています。与謝野さんも麻生さんも調べ直すべきです。明治の指導者は心血を注いで考え抜いて政府紙幣を発行し、成功させたのです。」 由利公正が聞いたら小躍りしそうな文面ですが、経済的な事象も、その時代の趨勢に左右されるということでしょう。由利の意思に反して、太政官札が時価相場取引を許され、価値の下落が大きかったが、だからインフレが起きたとはいえないようだ。当時のデータが極めて限られるが、日本銀行金融研究所、大森徹氏の「明治初期の財政構造改革」の中で、物価推計を見ると1868年はむしろ物価が下がり、1869年の方が物価は跳ね上がっている。大隈が指揮を振ったときのほうがあがっている。且つ、国内現金通貨流通高の推移を見ると太政官札のシェアは10%にも満たないボリュームであった。

 明治新政府は江戸幕府の幣制をひとまず引き継いだが、内外の要請に応えると共に内外への威信を示すために、慶応4年(1868年)4月「画一純正の貨幣を新鋳すべきこと」を決議するや直ちに海外へ造幣機械の発注、造幣所の建設に取り掛かった。それと共に新鋳すべき貨幣はどうするか明治2年(1869年)3月から本格的に検討を始めた。大隈が会計官副知事になったときである。3月4日新鋳貨幣はその形状を円形に改め、貨幣の計算体系を十進法に改め、貨幣呼称も両・分・朱から元・銭・厘にすべきとの「新貨の形状および価名改正」案を大隈重信・久世治作の二人によって提出され、朝議で決定された。6月15日大隈・伊藤・井上等の当局担当者とオリエンタルバンクの支配人ロバートソンとの相談・協議から新幣制の具体的検討が開始されたとされている。なぜ外国人の意見を徴し、協議したのか。当時の貿易は外国人に握られた商館貿易であり、貿易決済も外国銀行によってなされていたこともあるが、慶応2年(1866)に締結された改税約書では、日本政府は勝手に貨幣制度の改革を行ってはならず、改革に当っては必ず諸外国と協議しなければならないと通告されていた。大阪への造幣局の移転問題さえもクレームがあった。そしてそのときロバートソンよりメキシコドルと同位同量の銀貨による銀本位制の勧告があった。結局日本は(金銀複本位制を志向しつつ)金本位制を採用するが、このときの公文書に「円」の呼称が登場している。

 「一円を以ってメキシコ洋銀一枚にて起算する」との文言が入った「新貨鋳造を各国公使に告」げる書状(明治2年7月7日付)に見られる。これは太政官札・悪貨の善処方について、英・米・仏・独・伊諸国からの申し入れに対する書状である。更に11月ころ、新貨幣を鋳造して、太政官札・悪貨を除去するとの内容も述べられている。


外交を梃子に

2011年01月17日 | 歴史を尋ねる

 ここまで延々と由利公正と大隈重信の経緯を書いてきたのは、あれだけ反対論を押し切って始められた太政官札発行責任者が歴史書の記述では,簡単に「由利公正は,明治2年2月17日病気を理由に会計官事務局を去る」と記述していることに釈然としないものを感じたからであった。「由利財政と第一次大隈財政(1)」の冒頭にも記したように、由利財政を公然と批判する大隈(この1月外国官副知事のまま会計官御用掛の兼任を命じられた)に由利が詰め寄ったシーンであった。しかしここに重要な言葉が書かれている。「イギリス公使のパークスも英国東洋銀行の支配人も、太政官札の発行は時期尚早であるといっている。」 そして普通の歴史書には太政官札が不換紙幣だったから失敗に終わったと済ましている。この辺をもう少し掘り下げてみたい。

 参与・諸侯・公卿たちが,いかに財政経済にたいして無智であったかについて,由利はつぎのごとく語っている。「参与隆々の者も,経済の事は予ねて少しも考へたことはない,どうして天下を持つものである(か)と言ふことを少しも考へて居らぬ。さういふ時勢であるから,その上に居らるるは諸侯天下有名の諸侯,夫れに連れて居らるるのは御公卿さん方は一寸も知った者はなし、斯くの如く今日に致しても諸侯方が,口で理屈な事を言っても経済は分らぬものである。」 これは広島経済大学教授辻岡正巳氏の由利財政の研究(二)(広島経済大学経済研究論集)からの引用である。更に武士層については次のように記述している。「残念な事は其時の有志は経済上を考へましたものは稀れで,尊皇攘夷と言ふ丈の人であって,事実どうすると言ふ事はなく,戦争には勇んで行きますが,経済上に力を尽すものはございまぜぬ。私共日々経済の大切なる事は攻撃に就いても弁じ,堂上参議の人にも心を尽して弁解書或は図を作って出した事もあります。如何せんどうしても御分りがないと言ふ時勢であった。……私共の考へます処は,御一新に成って,朝廷の天下の政事を御持ちになったら,一番六ケ敷いものは経済の点であろうと思ひましたが多くの人はさうではない。徳川の財産丈がコチラに移るから易々行かるると思ったが,受取って見れば何程の収穫もなし、」 

 上記の由利公正の言葉は政策立案者の言葉であるから割り引いて聞く必要があるが、凡そ当時の実態を伝えた言葉であろう。東洋経済新報社「明治大正 財政詳覧」で明治初期財政歳入歳出表をみると、慶応3年12月~明治元年12月で、歳入は地租関税等315万両、太政官札発行2400万両、調達借入470万両等で、歳出は皇室費25万両、陸軍海軍費200万両、征東費350万両、石高割貸付金900万両、勧業貸付金900万両等となっている。これをみても、太政官札の発行がなければ官軍の戦費は賄えなかったし、産業起業資本も出なかった状況である。

 元来幕藩体制下での商品流通過程において決定的な経済上の実権を握ってきたのは、「天下の台所」大阪の商人層である。したがって金札発行にたいして新政府の足下、京商人と大阪商人層の支持がなければ,金札流通は期待することができない。それだけに由利はかれの金札発行計画案について京阪商人層の支持をとりつけるべく舞台裏で周到な説得工作をすすめたのである。 京阪商人層の支持が得られたことが、太政官会議において会計基立金募債と金札発行案が同時可決採択された一つの理由でもあった。商入層の支持の明確化が財政経済について知識をもちあわせていない新政府首脳に由利の金札発行を賛成させたのであったと辻岡氏はいう。荒唐無稽の思いつき制度ではなかった。さらに不換紙幣との批判があるが、その間インフレを招来したとの経済情勢の記録もない。むしろ兌換銀行券を停止したのちの管理通貨制度に酷似した紙幣発行状況にも見える。


外圧と新知識

2011年01月15日 | 歴史を尋ねる

 日本は外圧によって成長・発展してきたとも言われるが、その内実は個人レベルの奮闘であり、なかなか窺い知ることができないが、大隈が対峙した当時の事象については「大隈公政略記」とか当時の記録が残されているので、もちろん孫引きであるが詳細を見てみたい。

 東本願寺の会談の様子であるが、パークスが「キリスト教布教の禁を解き、切支丹に寛典を下すことが文明国の仲間入りをする近道である」と説いたのに対し、日本側は「耶蘇教一揆の顛末を申し立て、日本の政治を妨げる故の禁制である」と答え、大隈は各国は国内法に干渉することはできないとする内政不干渉の論理を展開したらしい。さすがにこれには反駁できず、ひたすらキリスト教の普遍性を説き、信仰の自由を認めるべき、併せて信徒の寛大な処分を求めた。ここで大隈は十字軍の遠征、三十年戦争、聖バーソロミューの虐殺などを挙げ、日本が古来から信奉してきた神道とは相容れず、日本国民の精神の自主独立を展開した。結局この件は平行線に終わり、前回のパークスの感想にもつながった。

 日本側は対応に苦慮していたことが一気に吹き飛び、大隈の雄弁にびっくりした。大久保や木戸、岩倉らは東西の知識と論理の組み立てたこの若者の出現を大いに喜んだ。諸外国も布教や信教の自由を求める方向から逮捕された切支丹に対する寛大な措置を求める方向に変わった。そして大隈は明治政府の一つの地位を確立した。続いて大隈は4月10日、横浜裁判所の勤務を命ぜられる。

 新政府は4月11日、江戸城開城を勝ち取ったものの、上野には彰義隊が立てこもり、相模湾から江戸湾にかけてまだ制海権を取れてなかった。この中にあって重大問題は幕府の勘定奉行小栗忠順の進言で建設が始まった横須賀製鉄所とストーンウォール号の帰属であった。先立つものは金であったが、新政府は独自の財源に欠け、京都から大阪を回って25万両を掻き集めたが、江戸に帰ると大村益次郎から彰義隊征伐の費用提供に周り、寺島陶蔵と小松帯刀に相談すると、パークスを紹介者にイギリスのオリエンタル銀行からの融資を受けるしかないとの結論、早速融資交渉を行って首尾よく実行してもらうことになった。フランスは幕府よりであったが、要は金の問題であり幕府が準備した造船所と武器を調達することができた。更に幕府がアメリカに発注していたストーンウォール号も再度オリエンタル銀行からの融資で新政府に引き渡された。そしてこの艦は函館戦争に間に合った。

 長崎英国人水兵殺害事件で今度は長崎に呼ばれこの折衝に当った。いま一つメキシコ・ドル問題で、これにも係わったようだ。慶応4年8月23日外国官判事専任となり京都に在勤し、明治天皇の即位の大礼にも昇殿が許された。更に外国官副知事であった小松帯刀が病没するとその後任に抜擢された。外国官判事には薩摩の五代、長州の井上馨、土佐の後藤象二郎などを飛び越えての推挙で、本人さえも驚いた。そして副知事になっての対外的問題の多くは、不換紙幣や悪貨、贋貨に対する苦情処理に追われることとなった。そこで大隈は、内政は難問が山積しているが、外交を梃子に内政の難問を処理しようとする意欲が湧いてきたと、片岡氏は云う。


万国公法と大隈重信

2011年01月14日 | 歴史を尋ねる

坂本竜馬のエピソードの中で有名なものに、龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といったという。これは逸話であって史実ではないが、当時の気分を伝えるものでもある。「万国公法」とは、国際法学者ヘンリー・ホイートンの代表的な著作 Elements of International Law が漢語訳されたときのタイトル名、翻訳者は当時中国で布教していたアメリカ人プロテスタント宣教師ウィリアム.マーティンで、その訳書は東アジアに本格的に国際法を紹介した最初の書物である、とウィキペディアはいう。この本は直ちに日本に持ち込まれ、当の中国よりも日本の幕末・明治維新に大きな影響を与えたことがウィキペディアに記されている。ぜひご覧戴きたい。維新時の五箇条のご誓文にも影響が認められるし、日本の新漢字が実はここからも多く採用されているという。

さて、長崎会議所における外交担当の大隈は、外国人と内国人との通商上の紛争が絶えなかったが、資料が持ち去られたり、焼却されて一向に解決の目処が立たない状況をみて、外国人が内国人に対して持っている権利関係(債権も含まれるのか?)を2年以内に残らず申告するように各国大使に通告し、過ぎてからの申告は認めないとした。外国人から不満が起こったが、内国人にも同様の取り扱いをすることで了解された。また、諸外国は、幕府との間に結んだ条約がいまや無効だと主張してきたが、万国公法の知識を持っていた大隈は、幕府が倒れたとしてもそれを継承する正当な政府が成立しているのだから、当然新政府に引き継がれると通告した。フランス領事は堂々と条約を無視し、不当な要求を押し付け様と、本国から大艦隊を呼ぶぞと恫喝したが、領事にそのような権限がないと承知していた大隈は、これを跳ね返した。

 慶応4年(1868)1月24日新政府は九州鎮台をおき、長崎に鎮撫総督の沢宣嘉(のぶよし)と参謀の井上馨が赴任してきた。長崎会議所は解散し、松方正義と大隈が鎮台の一員になった。更に鎮台は長崎裁判所となり大隈は徴士の資格でその判事となった。肥前佐賀からは江藤新平が戊辰戦争に参戦し新政府の一員となったが、副島種臣と大木喬任は鍋島藩から貢士として新政府にだされた。大隈は新政府がその必要な人材を確保する徴士であった。維新に参加する機会を失った佐賀も、こうして新政府の重要な構成員となり、リーダー群像の中に登場することとなった。

 総督の沢は生粋の国粋主義者で、幕府のキリシタン禁制を継承してキリスト教徒を容赦なく弾圧を加え、大勢を捕らえた。フランスの宣教師はこれを公使に伝え、大きな外交問題に発展した。長崎裁判所も捨て置けず、事件の顛末を京都の総裁局に送った。慶応4年3月17日、大隈は突然参与に任ぜられ、外交官出仕として上京を命じられた。このころ、中央で木戸や大久保を悩ましていたのが①キリスト教徒問題、②贋金と金札、③浮浪者処置で、中でも①と②は特別の知識を必要とする問題で、共に外国との交渉が絡んでいた。特にキリスト教徒問題で談判のための交渉が持たれることとなり、木戸は長崎で外国人との問題に当っている大隈八太郎(重信)に目をつけた。会談の場所は当時の行在所が置かれている大阪船場の東本願寺と決まった。日本側に出席者は三条実美、岩倉具視、木戸、大久保等当時の政府トップが顔をそろえ、末席に大隈が控えた。先方は英国公使のハリー・パークスに仏公使、米公使などが居並び通訳はアーネスト・サトウであった。議題は多岐に渉ったが、最後に浦上切支丹問題に移った。パークスは名うての外交官で、女王陛下の名代である自分が、大隈のごとき下級役人を相手に交渉できないと跳ね除けたが、このとき大隈も参与であったので、堂々の論陣を張って、パークスは生意気だが、問題の本質から挑戦してきて、なかなか見所のあるやつだとの感想を残している。

 


大隈重信

2011年01月11日 | 歴史を尋ねる

 由利公正(三岡八郎)の維新初期経済政策に取って代わったのが大隈重信であったが、なぜ突如大隈が浮上してきたのか、彼の経歴を辿りたい。天保9年(1838)佐賀城下に生まれ、大隈家は知行地400石相当、実収120石の上士であった。7歳のとき藩校弘道館に入学、カリキュラムは朱子学と葉隠であった。大隈は四書五経をマスターし16歳で寄宿生活に入った。ペリーが浦賀に来て世情騒然としている中、藩校の教育は旧態依然で、この変革運動に参加、退学処分を受ける。このころ彼は尊王主義の義祭同盟に参加、古事記、日本書紀を学んだ。この同盟には副島種臣、江藤新平、大木喬任、島義勇などが参加していた。元治元年(1864)、長州が四国連合艦隊と対峙すると、木戸孝允が来藩し、大木喬任と会談して藩主鍋島直正に働きかけて長州に協力要請、更に幕府の長州征伐に際して藩主に調停を依頼。大隈も動いたが成果は出なかった。更に藩士の子弟を連れて長崎で英語の勉強に派遣された。そこでオランダ系アメリカ人フルベッキらを招いて致遠館を副島と共に開設。しかし藩からの財政的な支援は受けられず、藩の物品を捌く仕事を手掛け、費用を捻出した。

 長崎で大隈はこのままでは欧米の進出の波に押し流されてしまうという焦燥感が高まり、国事に奔走したいという夢が膨らんだ。そのころ第二次長州征伐の問題が起こり、このように日本が割れていては列強の思う壺だと心配して、幕藩を王政の下にまとまるべきと考えた。そして、藩を動かすためには、京都や江戸で起こっていることを知らしめるのが一番であると考えたと、片岡氏は推察する。慶応3年(1867)3月共に致遠館を運営していた副島と一緒に脱藩し京に向かった。二人が潜伏したのは三條の下宿屋とも言われているが、当時の京は、幕府が諸外国に約束した兵庫の開港の勅許を朝廷に奏請して却下された物情騒然とした中で、大隈の昔日譚には「時の将軍一橋慶喜に会って大政奉還を説きたい」と意気込みが記されている。腹心の原とあったが、過激な浪士と間違えられたのか、通報されて佐賀に送り返された。ただ鍋島直正は聞き置くとして処分はしなかった。同じ年再度大隈は脱藩し、江戸に上ったが、江戸の情勢は幕府の威令が届かず、すでに自滅状態になっているとの見方をして、鍋島公に兵を率いて上洛するように伝えた。鍋島直正は四候会議にも声がかからず、大隈は再三意見具申をして、当主直大の上洛が決まったが、鳥羽伏見の戦いがすでに始まり時すでに遅かった。

 大隈は再び長崎に向かい致遠館の運営に当った。慶喜が大阪を脱出する報が届くと、長崎奉行は長崎を逃げ出し新政府の手が届かず無政府状態となった。そので、長崎にいる16藩が語り合って長崎会議所を興し、薩摩の松方正義、長州の揚井謙蔵、土佐の佐々木高行らが中心となった。外交には誰もが素人であったので、大隈が担当することとなった。当時、諸外国は幕府と結んだ不平等条約を都合よい様に振りかざし、都合が悪くなれば無効であると主張してきた。条約では領事裁判権が規定されており、不当と思える決定でも、日本側に異議を申し立てる権利がなかった。それを何とかしようと大隈が思いついたのは、無謀の相手には商品の売買をボイコットする運動であった。これには多くの商人の協力が必要であったが、この説得に成功した。


実効リーダー層とリーダー予備軍

2011年01月03日 | 歴史を尋ねる

 前回に引き続いて片岡寛光氏の著書より、引用していきたい。岩倉や大久保などの中核リーダー層は、維新以後の新しい国家を建設する意欲と見識を持っていたが、どのように具体化し実現していくかの知識を欠いていた。維新期では新たな政策を定めるための新知識が必要とされたが、それはこれから習得していかなければならなかったが、その可能性は実効リーダー層に期待された。実効リーダーとは、時代の要請に応えられる新知識を習得でき、近代国家建設の政策立案、献策をし、実行して成果を挙げていくことが期待された。大隈重信がリーダー群像の中にリクルートされたのは、まずリーダー予備軍であったが、その新知識により、いち早く実効リーダー層に引き上げられ、中核リーダーからの彼への期待は大きく、ほとんど対等の姿勢で臨んでいたと片岡氏は解説している。もう少し具体的な動きを追ってみたい。次の組織は王政復古後の最初の人事である。この時点(慶応3年12月9日)では三条実美や木戸孝允は見当たらない。大宰府、下関から駆けつけているところであった。

総裁

 有栖川宮熾仁親王

(ありすがわのみや・たるひとしんのう)

議定

 皇族・公卿・諸侯から10名

 中山忠能

 正親町三条実愛

 中御門経之

 仁和寺宮入道純仁親王

 山階宮晃親王

 徳川慶勝(尾張大納言)

 松平慶永(越前宰相)

 浅野茂勲(安芸少将)

 山内豊信(土佐前少将)

 島津忠義(薩摩少将)

参与

 公卿・諸藩代表者20名

 大原重徳

 岩倉具視

 万里小路博房

 長谷信篤

 橋本実梁

 尾張藩(3人) 

 越前藩(中根雪江ら3人) 

 芸州藩(辻将曹ら3人) 

 土佐藩(後藤象二郎ら3人)

 薩摩藩(西郷、大久保ら3人)

 

 上記は内閣制度以前の新政府機構で、三職(総裁・議定・参与)を設置した太政官制度である。翌1月17日三職の下に七科を設け、2月3日には三職八局としている。閏4月21日政体書が発布され、欧米先進国にならって三権分立の原則に即して、議政官・刑法官・行政官を置き、天皇を輔弼して大政を総括した。更に神祇官、会計官、軍務官、外国官を置いてこれを7官を総称して太政官と称した。天皇が親裁するのは勅令の制定、予算の裁可、文武官の任免、条約の締結等に限られ、その他は上記の行政諸機関に委任された(日本官僚制総合辞典)。ついで明治2年7月の官制改革は復古主義の色彩が強く神祇官を諸官の首位に、太政官に左大臣、右大臣、大納言、参議、更に民部、大蔵、兵部、刑、宮内、外務の6省を置いた。各省には卿、輔、丞、録以下の官吏を置いて事務に当らせた。明治4年7月の太政官職制は、大納言を廃し、はじめて太政大臣を置き、太政官を正院、左院、右院に分けた。正院は天皇が臨御して万機を総判し、大臣の輔弼、参議の参与によって庶政に当る官庁で旧太政官に相当した。諸官は外務・大蔵・兵部・工部・宮内・神祇・文部・司法の八省からなり更に内務省が追加された。

 政体書発布(慶応4年閏4月)時の維新政府機構を見ておこう。

議政官(上局)

議定

 中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、松平慶永、岩倉具視、三条実美、大徳寺実 則、鍋島直正、蜂須賀茂韶、毛利元徳

参与

 木戸孝允、小松帯刀、大久保利通、広沢真臣、後藤象二郎、福岡孝弟、副島種臣、横井小楠、由利公正、西郷隆盛

行政官

輔相

 三条実美、岩倉具視

神祇官

神祇官知事

 鷹司輔熙

会計官

会計官知事

 万里小路博房

会計官副知事

 大隈重信(明治2年3月30日ー7月8日)→2官6省時代になり大蔵大輔となる。

軍務官

軍務官知事

 嘉彰親王

軍務官副知事

 長岡護美、のち大村益次郎が加わる

外国官

外国官知事

 伊達宗城

外国官副知事

 東久世通禧、のち大隈重信(明治元年12月27日ー2年4月17日)が加わる

ほかに刑法官、民部官もできた。

 

 ところで、大隈重信の経歴を見ておこう。明治1年12.27-2.4.17外国官副知事、明治2年3.30-2.7.8会計官副知事、2.7.8-4.7.14大蔵大輔、2.7.22-3.7.10民部大輔、3.9.2-4.6.23参議。

 

 明治4年(1871)7月三院八省制時のメンバーを見ておこう。

1.正院
 太政大臣・・・三条実美
 参議・・・木戸孝允(長州)、西郷隆盛(薩摩)、板垣退助(土佐)、大隈重信(肥前)
2.左院
 議長・・・欠員   副議長・・・江藤新平(肥前)
3.右院
 神祇卿・・・欠員   神祇大輔・・福羽美静(津和野藩)  
 外務卿・・・岩倉具視(公家)   外務大輔・・・寺島宗徳(薩摩)
 大蔵卿・・・大久保利通(薩摩)  大蔵大輔・・・井上馨(長州)
 兵部卿・・・欠員   兵部大輔・・・山懸有朋(長州)
 文部卿・・・大木喬任(たかとう/肥前)  文部大輔・・・欠員
 工部卿・・・欠員   工部大輔・・・後藤象二郎(土佐)
 司法卿・・・欠員   司法大輔・・・佐々木高行(土佐)
 宮内卿・・・欠員   宮内大輔・・・万里小路博房(公家)
 開拓長官・・・東久世通禧   開拓次官・・・黒田清隆(薩摩)