我われが日常頻繁に使う「会社」の由来について「明治経済史再考」の著者高村直助氏が小論を書いているので、記録にとどめておきたい。経営史研究でもあまり取り上げないテーマを現代資本主義論で著名な馬場宏二氏が「会社という言葉」で論文を発表しているようだ。この論文によると、「会社」「商社」「社員」はいずれも和製漢語らしい。文献による「会社」の最初の用例は1848年ないし1851年に出版された翻訳本のようだ。そのときの語義は学者集団、仲間集団らしく、原書はオランダ語で、学会または組合であった。一方「商社」は長崎奉行岡部駿河守長常の文書が初見である。「商社」が幕末慶応期には幕府関係者の間で一種公用語化していった。1866年に発行された福沢諭吉の「西洋事情」の会社は早い用例として有名であるが、その内容は蘭学者が用いた用例と一緒で、営利企業は「商社」を用いていた。
ところが明治政府は通商会社、為替会社の設立、福地源一郎訳「会社弁」、渋沢栄一著「立会略則」を通じて、営利企業を指すのに適切であった「商社」を退け、語義不適切なる「会社」を強引に通用させたといっている。明治24年の言海に至って、ようやく現代の意味内容となり、夏目漱石の作品の中ではすでに「勤め先」といった程度の日常言語化している。
高村氏は若干この点にクレームを発し、むしろ商社の方に不適切な点があるのではないとかいっている。幕末幕府関係者にとって会社起業の導入が急務であると意識されたのは開港後の貿易分野であり、日本語の語感として商社が自然であったが、明治に入って貿易や商業に限らない各種の産業分野で会社企業の設立が現実問題になり始めると、商社として語尾につけるのは抵抗があったのではないか、複数の仲間による共同企業というニュアンスで「会社」が用いられたのではないかと高村氏は推測する。
そこで高村氏は当時共同出資企業の設立に際し官庁の許可が必要とされたから、出願を受ける中央・地方の制度を見るのがいいとして、明治4年廃藩置県後の条例・事務章程をみてみると共同出資企業の呼称を会社としている。当時の大蔵省の事務章程も会社となっている。会社という用語の推進者は渋沢であったと馬場氏は推論しているが、実は明治2年末渋沢栄一は大蔵省租税司正に任じられている。改正係のメンバーとして大蔵省職制・事務章程の作成に携わっていた。
高村氏の結論は、県治条例・県治事務章程制定を画期として、「会社」を共同出資企業の名称に付すのが通例になったとしている。