「歴史を訪ねる」最終章

2021年12月28日 | 歴史を尋ねる

 このシリーズは日本の歴史を詳しく知らない筆者が、近代日本の行方を必死に追いかけてきた。初回は2009年9月、「歴史を辿る」というタイトルでスタートした。文字数にして500字あまり。筆者の記憶を頼りに、次第に薄れていく記憶・感想を記録に留めておきたいとの思いが最初だった。名古屋に住んでいた時、古戦場巡りをしたこともきっかけになった。さらに水戸の弘道館を訪ねた時、徳川慶喜が蟄居した部屋を見せられ、元将軍慶喜がこんな小さい部屋で薩長軍に降ってうつうつと生き延びていたことに、大いに驚いた。そうか、歴史の現場とはこうまで苛烈なものか、あまりにも知らなすぎる、出来るだけ現場に立つ思いで歴史を辿ってみよう、と思い立ったのがこのシリーズのきっかけだった。だから本人(当事者)が語った言葉を出来るだけ拾い集めた。言葉とは不思議なもので、力があるというが、言葉を通して、当時のいろいろなものが見えてくる。それを大事にしながら、タイトルを重ねた。
 最初のテーマは尊王攘夷がどう生れ、時代の大義となったにもかかわらず、その大義を背負った薩長がその大義をフェイドアウトさせ、文明開化を呼び込んだ。その歴史の面白さ。そこのところをうまくキャッチ出来たかどうか、このシリーズの最初の見せどころだったが、どうだったか。筆者は第一次資料を読むことはできないので、誰かの著作で、当時を思い浮かべるしかない。そうした中で、野口武彦氏の著作に出会ったのはラッキーだった。週刊新潮に幕末物の出来事をちょっと違った角度から活写していた読み物が気になって、氏の著作「幕末バトル・ロワイアル」を読んでみたらこれが面白かった。氏の活写シーンを随分参考にさせてもらった。そこで行きついたのが、権力交代劇の実況中継「小御所会議の山内容堂と岩倉具視が激突する対決場」であった。そうか権力交代(政権交代)はここからスタートしたのか、と。
 次のテーマは貨幣経済。日本の貨幣経済の歴史は古い。お隣の韓国は李朝朝鮮時代も貨幣経済がまだ成立していなかった。平安時代に日本に来た朝鮮通信使は、乞食さえ銭を欲しがったとびっくりして報告書に記していた。この貨幣経済の仕組みが曲折を経ながら、明治維新以降の経済的発展の礎になった。日米修交通商条約の発効以降、金銀交換比率の違いにより金貨銀貨が大量に国外に流出した問題、薩英戦争、下関戦争の賠償金は幕府が負担、残りは明治新政府、幕府の財政を圧迫したのは開国と長州征伐、政権を返納された朝廷側も国を動かす資金は持ってなかった。国の根幹は財政にありとの考えのもとに、越前藩の由利公正が会計責任者に抜擢され戊辰戦争の戦費をねん出した。由利公正の起案により発行された太政官札は額面通り通用せず、新政府は新貨条例を布告、両に代わる通貨単位円を採用した。このように金銀貨幣がどのように円に切り替わり、現代の貨幣経済につながったのか、随分丁寧に資料を集めて、解析したつもりだったが、自分自身で納得いく理解ができていない。しかしその当時の貨幣にまつわる出来事はかき集めたつもりであった。
 続いて、明治新政府の国つくりと日本の財閥の成長。幕藩体制から中央集権的近代国家へと一新させた明治新政府の苦闘と財閥の興り・発展を追いかけた。廃藩置県断行と大名の債務の解消、岩倉遣欧米使節団の役割、大久保利通の政策と自由民権運動の興隆、西南戦争から大隈財政、松方財政と進み、国会開設・憲法制定へと歩を進める。一方で農業国家日本の近代化にスポットを当てた。併せて日本の最大の輸出製品・生糸と製糸工場の行方を追った。明治初期の海外貿易創出の生命線だった。

 明治新政府が国交を開いて最初につまずいたのは李朝朝鮮への新政府成立通知の書簡授受(書契)問題だった。この問題はインターネット上の情報しか手に入らないし、韓国の歴史では絶対扱われない。一見小さな問題ながら、日朝間のその後の紛争の根本に根差している、いやらしい問題で、結局その時の解決策は、日本の軍事的威嚇であった。国際情勢に後れを取った当時の李朝朝鮮のメンツ問題でもあり、今も変わらぬ面子問題の原初的な現れであった。日朝間の諸問題について随分細かくそれぞれの事件を追いかけた。結局、日韓併合問題は極東の安全保障体制と結びついて誕生したが、今となっては国際情勢上の理解の外ということだろう。そして形を変えて、朝鮮半島の南北分離統一問題として、解決の道筋は生まれていない。
 日本の国防問題が転換されたのは明治23年、山県有朋の国防論「外交政略論」からだという。ヨーロッパの憲法調査を行った伊藤博文を師事した人物で、ウィーン大学教授・国家学者ローレンツ・フォン・シュタインは山県の国防論「軍事意見書」を高く評価し、自国の主権の及ばぬ領域であっても、その領域の動向が自国の及ばぬ領域であっても、その領域の動向が自国の独立にとって脅威となる場合には、自らその領域を「利益疆域」として兵力を以て防衛しなければならないとの考えを披歴した。この考え方が、山県の「外交政略論」の主権線、利益線につながり、守勢国防戦略思想から、「帝国の国防は攻勢を以って本領とす」「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」へと、国防戦略思想の転換となった、という。この国防論がその後の日清戦争、日露戦争にどう影響を及ぼしたかまで掘り下げることはできなかったが、その後の日本の軍事行動はその考え方に沿って動いていった。
 日露戦争でロシアから引き継いだ満州の権益の取り扱いは実に難しい。その一つは、満州の地で実に多くの戦死者を出した。日本人にとっては、日本人の多くの血であがなった権益である。そうは言っても、「満州問題に関する協議会」の席上、伊藤博文は「児玉参謀総長は満州に於ける日本の地位を根本的に誤解している。満州に於ける日本の権利は講和条約に依って露国から譲り受けたもの以外に何もない。満州経営という言葉は戦時中から我が国の人が口にしていた所で、今日では官吏や商人もしきりに満州経営を説くが、満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我が主権の行われる道理は無いし、従って拓務省のようなものを新設して事務を取扱う必要もない。満州行政の責任はこれを清国に負担させねばならない」 歴史を振り返ってみると、伊藤博文の考えは奥が深い。協議会の論争は形の上では伊藤の提案に沿った決着となったが、実際の行動は児玉参謀の考えに近い外交政策となった。当時の首相西園寺公望の決断がなかった所為だ。そして、伊藤が朝鮮人のテロに倒れたのも残念であった。このブログでも随分満州問題を取り上げたが、結局伊藤の考えに戻ってくる。そのうえで、日本の経済進出をどうするのか、清国との経済友好条約等を考えたほうが、よい方途があったのではないか。
 辛亥革命以降の中国と日本の接し方については、産経新聞に掲載された「蒋介石秘録」を中心に、事件を追いかけた。国際問題については、日本側の資料だけだと、バランスを欠く。両方の見解を併記することによって、日本側の足らざるところが見えてくる。蒋介石は「1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍促成学堂の関係者しか振武学校の入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし蔣介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。翌1907年7月、再び日本へ渡り、東京振武学校に第11期生62名の一人として留学した。彼らは2年間の教育課程を修めた後、日本の陸軍士官学校には入学せず日本陸軍に隊附士官候補生として勤務することとなり、1910年12月5日より新潟県高田市(現在の上越市)の第13師団の歩兵、騎兵、砲兵各連隊に配属され実習を受けた。このときに経験した日本軍の兵営生活について蔣介石は、中国にあっても軍事教育の根幹にならなければならない」(ウキペディア)と後に述懐した。蒋介石は日本の軍隊をリスペクトしていた。蒋介石は中国共産党との戦いに手こずっていた。ある意味では、日本を十分知り尽くしていたところもあり、対共産党対策のため、中国の主権が尊重されれば、日本と組むことも考えていたのではないか。それが田中義一内閣の時ではないか。まだ満州事変も起こっていなかった。田中義一と蒋介石の会談は、田中義一の蒋介石の本音を汲み取る感覚が鈍かったと筆者は感じた。逆に蒋介石は日本の対中国政策に失望した、と。その後も日本との提携を考えていた、しかしその都度日本の軍部に阻止され、最後は日本の軍部を徹底的に批判した、というのが筆者の見立てである。

 明治新政府による経済政策の展開で、日本経済がどのように発展していったか、この辺を具体的に叙述した著書はなかなか見つからなかったが、在野エコノミスト高橋亀吉の力を借りることとなった。高橋は具体的材料を揃えて分析に取り掛かる。イデオロギーに染まらない分析姿勢はわかりやすかった。高橋が活躍した時代は、労働運動、農民運動の勃興期で、社会主義運動、共産主義運動が盛んとなった。高橋は共産党と理論論争を闘わせながら、日本資本主義経済の研究、明治大正農村経済の変遷、金融の基礎知識などを出版し、各種の提言も実践していた。我が国初の経済評論のフリーランサーだった。また、新政府スタート時の金融関係については、日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵の「貨幣の散歩道」にもずいぶんお世話になった。
 明治・大正・昭和前半の政治情勢については、岡崎久彦著「百年の遺産――日本の近代外交史73話」を参考にさせて貰った。シンプルで簡潔、日本の政治の流れがわかりやすかった。新聞の連載になっていたが、単行本になったときすぐに手にした。キャッチコピーは「陸奥宗光、伊藤博文、小村寿太郎、幣原喜重郎、吉田茂・・・。激動の時代の中で、彼らはいかに日本の舵取りに苦心したか。ペリー来航(1853年)から占領の終了(1952年)までの100年間を曇りのない眼で描き上げた著者渾身の力作」
 開戦前夜は児島襄氏の戦史著作集を参考にした。著書のあとがきで言う。「太平洋戦争の起因は多様である。その時間的にも空間的にも複雑な軌跡を辿るとき、太平洋戦争の発生が日米交渉の有無だけに左右されるものではないことは、容易に理解できる。だが、公式の現象としては、日本にとって開戦のスプリング・ボードになったのは、日米交渉の行き詰まりである。しかも、日米交渉はその発端から終幕まで、終始して異常な雰囲気に包まれていた。交渉は二人のカトリック僧の来日で発起された」「その経過をたどると、真っ先に気付くのは、日米交渉は一般的な意味での交渉とは程遠い性格であった」と。そして、「世界は変わった」とは、戦後、元駐米大使野村吉三郎にハル元国務長官が語った言葉だ、という。
 日米戦争は海軍の戦いである、陸軍はそう考え、海軍もそれは承知だった、と思われる。それまで陸軍の仮想敵国はソ連で、海軍の仮想敵国は米国だった。日米戦争を海軍はどう戦うのか、当事者としての考えを見つけるため、吉田俊雄著の「四人の軍令部総長」を渉猟した。残念ながら、当事者としての責任ある発言は見つからなかった。終戦時の御前会議もまた、豊田副武総長は陸軍に配慮した、不測の事態が起こらないために、と。それでも米軍と矢面に立って戦ったのは連合艦隊であった。真珠湾攻撃から珊瑚礁海戦、ミッドウェー海戦をつぶさに見てきた。何が決定的に欠けていたのか、日米の戦略・戦術を比較すると、残念ながら、指揮官も含めて後れを取っていたと見えた。

 敗戦後の日本を見つめることは、今につながる問題を抱えているので、相当細かく事実関係を追い求めた。そうなると、やはり児島襄氏の著作に依るしかない。「講和条約 戦後日米関係の起点」は日本の戦後の混乱も含めて、細部まで記述されていた。キャッチコピーは「ミズリー艦上の降伏調印式、そして進駐・・・。マッカーサー元帥による占領政策との緊張関係の中、日本は痛みを伴う再生の作業を始めようとしていた。膨大な資料を辿り歴史の真相を冷徹に追い詰める現代史探求の金字塔」。それに吉田茂著「吉田茂 回想十年」 これは当事者が自らの考えを披歴するので、当時の出来事をリアルに甦らせてくれる。吉田首相のしたたかなマッカーサー元帥との接触、ジョン・ダレスとの駆け引きが、まさしく戦後の日米関係をつくり、戦後の経済成長の基礎を作った。


 以上でこのシリーズのブログは打ち止めにしたい。ただ、尻切れトンボの感を免れないので、以降の日本の歩みは「国立公文書館 高度成長に時代へ 1951-1972」http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/sitemap.html
を参照願いたい。簡潔に、コンパクトにその後の日本の歩みが収められている。

サイトマップ

第一部 「独立」以後の日本 -国際社会への復帰-

1. サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約
1 第11回国会における吉田内閣総理大臣演説要旨
2 日本国との平和条約及び関係文書(条約第5号)
3 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約及び関係文書公布の件
2. 日本の自衛力強化
4 昭和25年7月8日付吉田内閣総理大臣宛連合国軍最高司令官書簡
5 保安庁法
6 自衛隊創設の日の長官訓示
3. IMF加盟と世界銀行借款
7 国際通貨基金協定
8 関西電力株式会社、九州電力株式会社及び中部電力株式会社の火力発電設備輸入のための国際復興開発銀行からの外資の受入に関する説明書
4. 国際社会への復帰
9 日本国とソヴイエト社会主義共和国連邦との共同宣言(条約第20号)
10 第25回国会における鳩山内閣総理大臣の所信演説案
11 国際連合憲章及び国際司法裁判所規程
5. 南極観測への参加
12 国際地球観測年における南極地域への参加について
6. 日米安全保障条約の改定
13 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約及び関係文書(条約第6号)
7. テレビ放送の開始と東京タワー
14 日本放送協会昭和27年度業務報告書及び同報告書に対する郵政大臣の意見書
15 叙位・叙勲について (内藤多仲)
8. 公団住宅の建設
16 日本住宅公団法
17 荻窪住宅計画図・設計図
9. 洞爺丸遭難事故
18 台風第15号による洞爺丸等遭難事件に関する件

第二部 高度成長政策の展開

10. 国民所得倍増計画
19 国民所得倍増計画について
20 経済自立五カ年計画 (附:各部門別計画資料)
新長期経済計画 (附:各部会報告)
国民所得倍増計画 (附:経済審議会答申)
中期経済計画 (附:経済審議会答申)
経済社会発展計画 40年代への挑戦 (附:経済審議会答申)
11. 農業基本法の制定
21 農業基本法
12. 重化学工業の躍進とエネルギー革命
22 全国総合開発計画について
23 石炭対策大綱について
13. 黒部川第四発電所建設への挑戦
24 黒部川第四発電所工事概要(昭和31年9月)
14. 鉄道網の整備と新幹線の建設
25 日本国有鉄道幹線調査会の答申について
26 東海道新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法
15. 高速道路の建設とモータリゼーション
27 名古屋・神戸高速自動車国道計画路線図
16. 日本経済の国際化
28 貿易、為替自由化促進計画について
29 IMF8条国移行に伴う政府声明案
17. 東京オリンピックの開催
30 オリンピック東京大会の準備等のために必要な特別措置に関する法律
31 オリンピック東京大会リーフレット
18. ニュータウン開発計画
32 千里丘陵開発事業計画図
19. 日本万国博覧会
33 国際博覧会に関する条約及び同条約の改定議定書の公布の件
34 日本万国博覧会記念協会法
20. 公害問題への対策
35 公害対策基本法
21. 交通戦争
36 道路交通法案
22. ニクソン・ショック
37 基準外国為替相場の改定について
38 国際経済調整措置法
23. 沖縄の返還
39 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(条約第2号)
40
 

 

 

 


 

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日本はなぜ和解と信頼の平和条約をかち得たのか

2021年12月07日 | 歴史を尋ねる

 歴史的事実は時に有識者、歴史家などの手あかにまみれるので、近年の事象も、なかなかその事実関係を正確に知るのは難しい。前項の吉田首相の国会演説は、児島襄氏の著書「講和条約」にも掲載されていなかった。国立公文書館のアーカイブスから拾い出して引用させて貰った。この演説内容は、対日講和条約調印に至る経緯が簡潔に語られ、日本を代表して吉田総理がその感想を述べている。又とない歴史文書だと考え、アーカイブのほぼ全文を引用した。その中で、吉田総理の語る「旧敵国たる日本に苛酷なる講和条件を押し付けようとするならば格別、公正にして寛大、和解と信頼を基礎とする現平和条約案の如きに対し関係国間の議をまとめんとする容易ならざるは甚だ明らかである。この困難を敢て進んで引受け現条約案にまとめ上げ且つ日本側の意向、希望を寛容に取り入れようとするダレス特使の苦心、米国政府の堅意にわが国民の永く記憶すべきところである」に、なぜそこまでしてくれるのか、総理ならずとも持つ素直な疑問である。吉田総理は、その解答もつづいて語っている。「米国政府の斯くまでの厚意および連合国の同調を得るに至った理由は、畢竟わが日本国民が既往六カ年、耐乏、刻苦、敗戦日本再建に国民的誠意と営々努力の事績が米国はじめ諸外国政府の認めるところとなれる故である」と。確かに、当時の経過からすると、その通りだと思うが、本当にそれだけだろうか。日本が優等生だから過去は水に流して、自由主義陣営の一員として早く自立してほしい、ということか。トルーマン大統領の思いはそうかもしれない。しかし、ダレスはそこ迄純粋に行動してくれたのだろうか。今回はダレス特使がなぜここまで日本の立場に立って行動したのかその理由を掘り下げてみたい。

 1959年5月、国務長官を辞したばかりのジョン・フォスター・ダレスが死去した。その十四年前にフランクリン・ルーズベルト大統領がなくなっているが、アメリカの悲しみはそれを上回った。棺はワシントン大聖堂に安置され、弔問の長い列ができた。西ドイツのアデナウアー(首相)、台湾の蒋介石(総統)といった要人の顔も見えた。葬儀の模様はABCとCBSが中継した。アイゼンハワー大統領は「時代の偉人を失った」と弔辞を述べ、アメリカ国民もその言葉に頷いた。葬儀の二カ月後、アイゼンハワーは建設中の大型空港をダレス国際空港と命名する大統領令に署名した。評伝「ダレス兄弟」(訳者:渡辺惣樹)を書いたスティーブン・キンザーは、「アメリカ国民がダレスの名前を完全に忘れ去った訳ではない。しかし彼を文句なしに褒め称えるという雰囲気はもはやない」「ダレスは実に強面(こわもて)で情け容赦のない国務長官(アイゼンハワー大統領時代)だった。自由世界(西側)の指導者たちさえ、重要な外交政策については、ダレスの承認がなければ何一つできなかった」と記している。弟のアレンは「最も偉大な諜報の専門家(情報担当官僚:CIA長官)」と評されている。ジョンとアレンの二人の兄弟が、我々がいま生きている世界を作り上げた、そして、アジアもアフリカもラテンアメリカも、混乱を続けたままである、そうした世界の原型を作り上げたダレス兄弟は如何なる人物であったのか、この評伝は迫ろうとしている。しかし残念ながら、ここでテーマとする対日講和締結に至るジョン・ダレスの役割は一行も触れられていないし、アレン・ダレスが終戦間際、スイスで日本海軍将校と対日戦争終結工作をしたことについても触れていない。

 1944年、ジョンは友人トーマス・デューイ(ニューヨーク州知事)を支援して大統領選挙を戦った。ジョンは俄か外交顧問となり、スピーチ原稿も彼に代わって書いた。デューイは共和党候補になることは出来たが大統領選で敗れた。敗れはしたものの、ジョンは共和党の外交政策を語れるスポークマンの一人と見做されるまでになった。戦争はまだ終わっていなかったが、ルーズベルトは世界の指導者をサンフランシスコに集め、国際連合に発展する歴史的な会議となった。アメリカは超党派で代表を送ることになったが、共和党はジョン・ダレスを推した。ルーズベルトは気に入らなかったが、共和党は方針を変えなかったので、しぶしぶ認めた。サンフランシスコ会議はトルーマン副大統領に託され、世界50か国から代表が集まり、世界組織設計に参加。ジョンは九週間にわたり自らの構想を熱心に説明、現在の国際連合となる構想の輪郭が形作られた。こうしてジョン・フォスター・ダレスは共和党のスポークスマンとして外交を語る一方で、キリスト教組織の指導者にもなり、同時にカーネギー財団の国際平和委員会の議長も務めた。
 ではジョン・ダレスがなぜトルーマン大統領時代の国務長官顧問として対日講和の特使になったのか、児島氏の著書で確認したい。1950年3月30日、トルーマンは対日講和を超党派外交で実現させるべく、アチソン国務長官に共和党との交渉を指示、「対日講和には米国の威信と世界の平和がかかっている。最上の人物が必要だ」と。共和党の長老ヴァンデンバーグ上院議員は、日本問題だけでなくヨーロッパ問題にも関与すべきと応え、ヨーロッパ担当にJ・クーパー、対日講和には国連憲章の起草も手掛けた外交のベテラン、J・ダレスが適当だと回答、長官アチソンは承知し、二人に顧問就任を交渉した。長官アチソンが前議員ダレスの受諾を発表すると、ダレスはニューヨークの事務所で記者会見を行い、「私は、ソ連の脅威に直面してわれわれの団結がいかに必要であるかを痛感するあまりに、顧問就任を承諾した」と。顧問ダレスの分担は、第一義的分野:対日講和条約。第二義的分野:極東政策一般、国連対策ならびに国務省広報計画、国際機構問題の検討。
 4月7日、国務次官補パタワースと国務長官特別顧問ハワードはダレスの要請でニューヨークに出向き、対日講和問題に関する国務省の見解とこれまでの経緯を説明、顧問ダレスは説明する二人の言葉に注意深く耳を傾けていたが、一応の話が終わると、「対日講和の焦点は、安全保障にある。米国は日本を守る義務はない。しかし、日本の再度の攻撃から米国自身とアジアを守り、日本を共産主義勢力から防衛する義務は、米国が担わなければならぬ。日本の安全保障と講和は不可分のものであるが、順位がある。まず日本の安全保障体制を確立し、その上にたって講和条約を締結すべき」 顧問ダレスはこの自分の理解に間違いはないかと質問し、イエス、その通りだと二人は言う。ここの部分は以前既述した箇所である。ダレスは当時の国際情勢のキーを安全保障と見ている。朝鮮動乱はまだ始まっていないが冷戦の真っただ中での対日講和問題である。冷戦体制の中で日本をどう自由陣営体制の独立国として誕生させるか、それを安全保障の構築が何より優先順位が高い、ダレスは対日講和をこう位置づけたのだろう。そこまでは理解できるが、そこから和解と信頼の講和になぜ飛ぶのか、もう少し、ダレスの周辺を探りたい。

 ここにハミルトン・フィッシュ著、渡辺惣樹訳の「ルーズベルトの開戦責任」がある。原本の題名は「ルーズベルト:コインの裏側  第二次世界大戦にわれわれはどう引きずり込まれたのか(How We Were Tricked World War Ⅱ)」である。著者ハミルトン・フィッシュ(1888-1991)はオランダ系WASPの名門に生まれた。祖父はグラント大統領政権で国務長官をつとめ、父は下院議員に選出された政治家一家。ハーバード大学卒業後、1914年ニューヨーク州議会議員、第一次大戦では黒人部隊を指揮して戦う。帰還後の20年、下院議員に選出(~45年)。共和党の重鎮として、また伝統的な非干渉主義の立場から第二次大戦への参戦に反対するが、1941年、「真珠湾」直後のルーズベルトの日本への宣戦布告演説に同調するも、後に大統領が対日最後通牒の存在を隠していたことを知り、日本との戦争は対ドイツ参戦の前段にすぎず、チャーチルとルーズベルトこそがアメリカをこの戦争に巻き込んだ張本人であると確信するに至った。著者は戦後22年を経て、真実を書き残すべき本書を執筆した。大戦前夜の米政権の内幕を知悉する政治家による歴史的証言が本書である、とブックカバー見開きの解説にある。

 「私は25年間、共和党の下院議員であった。1937年から1945年の間、ワシントン議会における外交問題の議論に深く関わった。1941年12月8日に対日宣戦布告容認スピーチをした最初の議会メンバーである。議会のスピーチをラジオで国民が聞いたのはこの時がはじめて、私のスピーチを、二千万人を超える国民が聞いた。スピーチは、あの有名なフランクリン・ルーズベルト大統領の「恥辱の日」演説(大統領が議会に対日宣戦布告を求めた)を容認し、支持するものだった。(歴史文書として貴重なのでこの演説内容は後記する) 
 私は今では、あのルーズベルトの演説は間違いだったとハッキリ言える。あの演説のあとに起きた歴史を見ればそれは自明である。アメリカ国民だけだなく本当のことを知りたいと願う全ての人々に、隠し事のない真実が語られなければならない時が来ていると思う。あの戦いの始まりの真実は、ルーズベルトが日本を挑発したことにあったのである。彼は、日本に、最後通牒を突きつけていた。それは秘密裡に行われたものであった。真珠湾攻撃の十日前には、議会もアメリカ国民をも欺き、合衆国憲法にも違反する最後通牒が発せられていた。
 今現在においても、12月7日になると、新聞メディアは必ず日本を非難する。和平交渉が継続している最中に、日本はアメリカを攻撃し、戦争を引き起こした。そういう論説が新聞紙面に躍る。しかしこの主張は史実と全く異なる。クラレ・ブース・ルース女史(下院議員 コネチカット州)も主張しているように、ルーズベルト大統領はわれわれを欺いて、日本を利用して裏口から対ドイツ戦争をはじめたのである。
 英国チャーチル政権の戦時生産大臣であったオリバー・リトルトンはロンドンを訪れた(1944年)米国商工会議所のメンバーに、日本は挑発されて真珠湾攻撃に追い込まれた。アメリカが戦争に追い込まれたなどという主張は歴史の茶番(a travesty on history)である」 

 これはハミルトンの著書の「はしがき」の一節である。更に彼はこうも書いている。「私はこの書の発表を、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、モーゲンソー財務長官、マッカーサー将軍の死後にすることに決めていた。彼らを個人的にも知っているし、この書の発表は政治的な影響も少なくないからである。彼らは先の大戦の重要人物であり、かつ賛否両論のある人々だからである。私はこのような人物の評判を貶めようとする意図はもっていない。私は、歴史は真実に立脚すべきとの信条に立っているだけである。それは、表面だけしか見せていないコインの裏側もしっかり見なければならない、と主張することなのである。コインの裏側を見ることは、先の大戦中あるいは戦後すぐの時点では不可能であった。その頃はまだ戦争プロパガンダの余韻が充満していた。そうした時代には真実を知ることは心地よいものではない。しかし今は違う。長きにわたって隠されていた事実が政府資料の中からしみ出してきている。これまで国民の目に触れることのなかった資料が発表され始めた。実は当時の民主党員でさえ、ルーズベルト大統領は参戦のために出来ることはほとんど全て議会に同意させていたと認めている。大統領ができなかったことは、対ドイツ、対日宣戦布告だけであった。1940年9月の時点で、民主党のウォルター・ジョージ上院議員は、『議員諸君。自己欺瞞はもうやめようではないか。国民を欺くことももう止めよう。国民は、政府が平和ではなく戦争に向かう政策をとっていることを知っている。戦争の準備をしているいことを知っている』 ルーズベルト大統領がジョージ議員を排斥しようとしたのはこの発言が理由だろう」と。

 ここでハミルトンの著書を詳細に語ることが本旨でないので、その要点だけを以下に掻い摘んで記しておきたい。
 彼(ハミルトン)は当時のアメリカの政治家の典型で、(ヨーロッパ問題に対する)非干渉主義者だった。非干渉主義者に立つものには、1937年10月5日のルーズベルトによる「隔離演説」で、参戦を目論んでいることに気づいた。ルーズベルトがスチムソン(陸軍大臣)とノックスを閣僚に起用したことで、その懸念は確信に変わった。この二人は共和党員であったが、いけいけの干渉主義者であった。スチムソンは、対独戦参戦は宣戦布告なしでもできると受け取れるメッセージを、ラジオを通じて訴えた。しかしルーズベルトは国民には同政権が和平を希求していて参戦は考えていないと言い続けた。1940年の三選をかけた大統領選挙では、投票日が一週間後に迫った演説で、「(わが子を戦場に送ることを心配している)お父さんやお母さん、全く心配することはありません。前にも何度か約束したことをもう一度はっきりとさせておきます。あなた方のお子さんが、外国での戦争で、戦うことは決してありません。何度でも何度でも繰り返して約束いたします」 現職大統領が非参戦をはっきり約束した。アメリカ国民がそれを信じない筈はなかった。ルーズベルトの三選のためについた意図的な嘘。ルーズベルトは国民に知らせることなく日本に対して最後通牒を送り付けた。その結果およそ30万人に若者が命を失い、70万人が負傷したり行方不明になった。国民への約束を反故にした。ルーズベルトはなぜ嘘をついたか。彼は国民を騙してでも三選を実現し、ヨーロッパの戦争にどうしても参戦したかったからである。非介入を約束した演説のわずか二カ月後、自らの分身とも言えるホプキンスをロンドンに派遣、チャーチルに伝えた言葉は、「大統領は貴国と共に戦う決心を致しました。両国間に誤解のなきようにするために、私をロンドンに送り大統領の考えを直接伝えに参りました。わが国はどのような方法を使ってでも、またどれほどのコストがかかろうとも、この約束を実現させます。大統領に出来ないことは何ひとつありません」
 ヒトラーがポーランドに侵攻した時、あるいはフランスが征服されたときには、少なからざる人々が、アメリカの参戦が正しいことだと考えた。しかしその答えは難しくない。アメリカ国民には戦いの原因が皆目理解できなかった。アメリカ国民はドイツとポーランドの係争地であるダンツィヒがいったいどこにあるのか知りはしなかった。ポーランド侵攻のあった1939年9月頃の世論は、96%がヨーロッパの戦いに再び巻き込まれるのは嫌だと思っていた。ポーランド侵攻のあった時点でも、ノルウェーやフランスへの侵攻があった時も、アメリカの世論は変わらなかった。その後時間の経過とともに参戦派は数を増やしたが、それでも国民のおよそ85%は参戦に反対していた。この数字は真珠湾攻撃の直前まで変わっていない。
 当時ハミルトンに課せられた最も重要な使命は、ルーズベルトを参戦させないことであった。当時彼は下院外交問題委員会と議事運営委員会の幹事の一人だった。非干渉主義に立つ議員の中心にいた。当時議会での民主党議員の数は共和党議員を百人も上回っていた。ルーズベルトは戦争はしないと国民に説明していたが、現実は参戦への道をまっしぐらに進んでいた。ルーズベルトはイギリスに50隻の駆逐艦を供与、アイスランドに兵を駐屯、更にドイツ潜水艦は発見し次第攻撃せよと命令した。一連の大統領命令は議会の同意を得ていない。
 ルーズベルト大統領が日本に最後通牒を発したのは1941年11月26日だった。この通牒は日本に対して、インドシナから、そして満州を含む中国からの徹底を要求していた。これによって日本を戦争せざるを得ない状況に追い込んだ。この事実をルーズベルト政権は隠していた。最後通牒であるハル・ノートは真珠湾攻撃以降も意図的に隠された。最後通牒を発した責任者は勿論ルーズベルトである。日本の対米戦争開始で喜んだのはスチムソンでありノックスであった。ルーズベルトもスチムソンもハル・ノートを最後通牒だと考えていたことは明らかである。スチムソン自身の日記にそう書き留めてある。関係者の誰もが日本に残された道は対米戦争しかないと理解していた。アメリカはこうして憲法に違反する、議会の承認のない戦争をはじめたのである。アメリカは戦う必要もなかったし、その戦いをアメリカ国民も日本も欲していなかった。最後通牒を発する前日の11月25日の閣議に参加していたのはハル、スチムソン、ノックス、マーシャル、スタークである。ルーズベルトが指名し登用した者ばかりである。「どうやったら議会の承認なく、また国民に知られることなく戦争をはじめられるか」 彼らの頭の中にはそれだけしかなかった。私(ハミルトン)はルーズベルトと同政権幹部の行った隠蔽工作を白日の下にさらさなければ気がすまない。アメリカ国民は真実を知らなければならない。
 ハル・ノート手交の際に野村大使は来栖三郎(特派)大使を同伴していた。来栖はニューヨーク総領事や駐ベルリン大使を歴任していた。野村大使はかって海軍提督であり、アメリカの女性と結婚していた。それだけに、彼がアメリカとの友好の維持を望むことひとしおであった。ハル・ノートに目を通した来栖大使は「本当にこれがわが国との暫定協定締結の望みに対する回答なのか」と念を押している。ハルはそれに対して、口を濁したような言い方であったが否定はしなかった。来栖は、これは交渉終了を意味するものにほかならないと返している。来栖にとっても野村にとってもハル・ノートは最後通牒であった。ハル国務長官は野村大使との交渉を八カ月にわたって続けていた。陸海軍がフィリピンなどの極東地域で軍備増強するための時間稼ぎであった。ハルはメモワールの中で、この時間稼ぎは陸海軍からの要請に基づいたものであると記している。この戦術に気づいた日本側は交渉期限を11月29日と決めざるを得なかった。ハルは、日本が戦争か平和かの決断を迫られる土壇場に追い詰められていたことを、解読した外交暗号文書を通じて知っていた。ハルは日本との暫定協定締結交渉に関り続けた。しかし日本との協定締結にチャーチルも蒋介石も反対した。その意志はルーズベルトにも伝えられた。この頃、共産主義に理解を示すラクリン・カリー補佐官は、蒋介石の顧問で共産主義が大好きなオーウェン・ラチモアから至急電を受け取っている。どのような条件であっても日本との和平協定には反対であり、米日戦争を願っているという内容だった。チャーチルも、もし日本とアメリカが戦争になれば、アメリカは自動的に対独戦争に参入すると考えていた。二人の思惑は、アメリカに日本とはどのような暫定協定をも結ばせない方向に作用した。
 対日最後通牒の存在は議会に知らされていなかった。ルーズベルト政権の高官の中でもそれを知らされていた者は少数だった。ところがチャーチルや英軍高官は何もかも知らされていた。ルーズベルトはわが国を戦争に追いやった。真珠湾の三千人にのぼる海軍の犠牲者、アメリカ海軍史上稀に見る惨事。それは日本を挑発した最後通牒をわが国民の目から隠した、それはルーズベルトである。ルーズベルトが巧妙に隠してきた秘密はまだある。ルーズベルトが1939年から続けてきたチャーチルとの1700回にも及ぶ交信記録はまだ公開されていない。また日本の暗号をすでに解読していた事実も隠し通した。ルーズベルトがは最後通牒による挑発で日本が軍事行動に出ることを知っていた。ハル、スチムソン、ノックス、マーシャル、スターク。この誰もが日本が警告なしに軍事行動を始めることを知っていた。彼らこそが米日戦争を仕掛けた張本人で、この策謀の首謀者はルーズベルトがだった。
 ルーズベルトが大統領が米国議会と国民に対日宣戦布告を求めた恥辱に日演説は、日本の真珠湾攻撃を糾弾するものだった。それを受けて、私を含むすべての国民がルーズベルトがを支持した。アメリカ国民は、何の挑発もされていないにもかかわらず日本が卑劣な攻撃を仕掛けてきたことに驚いたのであった。宣戦布告のない、こずるい攻撃が真珠湾攻撃であった。それに対する苦々しい思い。それが怒りとなり狂信的とも思えるほどの敵愾心へと変貌した。だからこそ全国民が政治信条,党派を超えて大統領を支持したのである。ハミルトンもその一人だった。大統領の対日宣戦布告を容認するスピーチのために演台に立った。演説は明確なもので、言葉を濁す表現は使っていない。「私はこの三年間に亘って、わが国の参戦にはつねに反対の立場をとってきた。戦場がヨーロッパであろうが、アジアであろうが、参戦には反対であった。しかし、日本海軍と航空部隊は、不当で、悪辣で、恥知らずで、卑劣な攻撃を仕掛けてきた。日本との外交交渉は継続中であった。大統領は日本の天皇に対してメッセージを発し、ぎりぎりの交渉が続いていた。日本の攻撃はその最中に行われたのである。このことによって対日宣戦布告は不可避になった、いや必要になったのである」「国民に、そしてとくにわが共和党員や非干渉主義を信条とする者たちに訴える。今は信条や党派を超えて大統領を支える時である。最高指揮官の大統領を支え、わが軍の勝利に向けて団結する時である」
 ハミルトンは今では、ルーズベルトの演説は間違いだったと言っているが、いつの時点で騙されたことを確信したのか分からない、と訳者の渡辺惣樹氏も記している。それがいつであったとしても、その怒りをすぐには公には出来なかったのではないか、と渡辺氏は推測している。ただ、真珠湾攻撃の悲劇についてその後キンメル提督とショート将軍が責任を取らされたが、ハミルトンは軍法会議で弁明の機会を与えられなかった二人について1944年議会で取り上げている。しかしこの時点でもまだ日本に最後通牒が突きつけられた事実は明かされていなかった。

 以上がハミルトン・フィッシュの出版本の一部の内容である。原題は FDR:THE OTHER SIDE OF THE COIN(フランクリン・ルーズベルト そのコインの裏側)。歴史は表側の出来事だけでは語りつくせない、ということか。
 ところでジョン・ダレスに戻ると、1948年の共和党大統領補選は、デューイ対タフトではなく、国際主義者対孤立(非干渉)主義者の戦いであった。ジョンはデューイの戦況参謀として国際主義を主張した。アメリカはいま共産主義の危機にさらされている。積極的に世界の紛争の場に出ていかなくてはならないと主張、「人類の自由の敵(共産主義)は今や世界中に存在し、最も脆弱なところはどこかと虎視眈々と探している」。大統領選挙が近づくと、ジョンは勝利を見込んだ外交方針を立てた。デューイは選挙に勝利したらすぐにヨーロッパを訪問し、西欧諸国との同盟強化を図るようすべきと建言した。しかしトルーマンが再選され、アメリカの歴史に残る番狂わせだった。その後の四年間のアメリカ外交も、ジョンが無能だと罵ったトルーマンが担うことになった。そのトルーマンは、ジョンはウォールストリートの番人と罵り軽蔑していた。共和党の敗戦後ジョンは共和党の外交代表として、ワシントンの公聴会ではヨーロッパ諸国との安全保障体制を構築すべきだと訴えた(これが後の北大西洋条約機構となる)。1949年7月、ニューヨーク州選出の上院議員が健康問題を理由に辞任、次期選挙までにジョンをデューイ知事が推した。ジョンは38年間勤めた国際法務の仕事から身を引き、正式に上院議員となった。ジョンが上院議員となった三カ月後、毛沢東の率いる中国共産党が勝利した。そしてジョンは、1949年11月補選でリーマンに敗れた。
 1950年5月、ジョン嫌いの大統領に彼を外交に関与させるよう説得したのはヴァンデンバーグ上院議員だった。ヴァンデンバーグは国務省顧問就任をトルーマンに認めさせた。ジョンの専門はヨーロッパであったが、最初の仕事は日本との講和条約の調印だった。周囲は驚いたが、ジョンは対日交渉をまとめ上げ、上院共和党への根回しもこなして条約批准も成功させた。トルーマンはジョンに対する評価を変えた。彼の仕事ぶりを認め、駐日大使のポストを提示したが、ジョンはこれを断った。ワシントンの中枢が機能していないのに、その指令を受ける側にいても意味がない、と。この頃、冷戦の恐怖は一層強まった。ソ連は原爆実験を成功させ、中国への支配も強めていた。さらに朝鮮戦争もあった。こうした環境の中で、共産主義を徹底的に拒否する外交官としてジョンは評価を高めていた。
 1952年は大統領選挙の年であった。共和党の候補はアイゼンハワー将軍が有力だったが、彼は根っこからの軍人でニューヨークのパワーエリートとの付き合いはなかった。ジョンはパリでの講演旅行を企画した。パリにはアイゼンハワーがNATO軍司令官として赴任していた。ジョンはアイゼンハワーと長時間話すことができ、『ライフ』誌に寄稿したばかりの論文『大胆な外交方針(への転換)』の写しを手交した。内容は、「民主党の方針は共産主義を封じ込めればよしとするだけの臆病な政策である。共和党はその方針を変え、より積極的な外交攻勢をかけなければならない。そうすることで共産主義者の手に落ちた諸国家を解放し、世界中の共産主義者の傀儡を叩き潰すことができる。ソビエトに屈した者たちはその罪を贖わなくてはならない」と主張した。
 アイゼンハワーの選挙演説にはジョンの考えがそこかしこに使われたが、ジョンと違って必ず「平和的に実現することを望む」との言葉を加えた。選挙結果はアイゼンハワー大統領の圧勝だった。アイゼンハワーは数週間検討した末、ジョンダレスを国務長官に任命した。聴聞会が上院外交委員会で開催され、そこでダレスは所信を述べ、上院での信頼は絶大で、採決も取らず、発声投票で国務長官に指名された。以上はキンザーの著書による。

 キンザーにとってジョン・ダレスの対日講和問題は通りがかりの小さな問題にしか見えなかったようだが、その後のダレスが冷戦下の課題はソ連・共産主義への対応に絞り込んでいたことが分かる。そしてキンザーが言うのでは、ジョンは1945年末から46年半ば頃にはソビエト(共産主義)に対する考えを切り替えていた、という。穏健的な態度をやめ、ソビエトは悪魔だとする主張に変えた。その意見を『ライフ』誌上(1946年6月)にはっきりと述べた。「ソビエトの指導者はプロパガンダを始めた。西側諸国を彼らに従属させるためである。我々の自由社会を破壊し、人間性やフェアな精神を重視した社会システムとは調和しない、征服者に都合の良い社会システムを押し付けようとしている。世界中の自由諸国に諜報組織を巡らし、愛国者の顔をしながら、現実にはモスクワからの指令で活動している工作員が潜入している。アジア、アフリカあるいはラテンアメリカでソビエト共産主義の見えない力が民族主義運動を隠れ蓑にして活動している。ソビエトにいる小数の人間が世界中に悪影響をもたらしている。こんなことは歴史上未曾有油である」と。1947年になると、ソビエトはギリシャとトルコに対して圧力を強めた。トルーマンはアドバイスに従って議会で演説(1947年3月)、それが後日「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる外交方針であった。ルーズベルトの呪縛が解けた瞬間かもしれない。そしてその淵源は戦時中のルーズベルト大統領の対ソ政策であり、ヤルタ会談にあることに自然と行きつく。ハミルトン・フィッシュが著書で提起した問題、ハル・ノートが最後通牒だったまでは知らなかったかもしれないが、ルーズベルトの謀略が浮かび上がらなかったか。日本との戦争は日本にも同情すべき点がある、と。

また、ダレスが対日講和の構想を練るにあたって、当初の対日講和の立案担当は国務省政策企画部の照会するすると、前部長のケナンから覚書を受け取り、ダレスの意に叶った内容だったことは記述済みである。ケナンは以前マッカーサー元帥とのヒアリングで次の言葉を発している。対日講和は「短く、一般的で、非攻撃的で、新時代に向かう日本人の背をたたいて信頼のゼェスチュァを示す、そうゆう条約にした方が良い」とケナン。「ファイン、何もかも同感だ」と元帥。ケナンは『信頼のゼスチュア』という言葉を発しているが、ダレスの対日講和案はケナンが作成したものと似ている。ケナンは1946年2月、アメリカ国務省随一のソ連専門家として長文の電報を国務省に発信、その時の電文からアメリカの対ソ戦略『封じ込め』の構想が生まれた。対ソ強硬派のダレスもケナンの対日講和の原案を喜ばずにはいられなかった。当初のケナンの対日講和のひな型は『対日講和に関する米国に基本方針につき、「日本を太平洋経済圏の中で安定した親米国、必要があれば頼り甲斐のある同盟国にすること、それを中心目的にすべきである」』と。1947年9月の段階である。この時すでに共産主義に対する防衛国としてケナンの頭の中にあったのだろう。ダレスの考えにも符合する。しかもダレスの構想時は時代はもう少し進展している。太平洋戦争の位置づけが、戦後の極東アジアの共産主義の拡大で、日米戦争の意義について見直しが迫られただろう。ケナンの考えを一歩進めて、必要があれば頼りがいの同盟国から、信頼関係で結ばれた日米関係を構築する、ダレスの日本での関係者への言葉からは感じられる。ケナンの信頼のゼスチャーから、本物の信頼関係に、と。

 

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