南方作戦(陸海軍中央協定に基づく)

2019年03月31日 | 歴史を尋ねる
 吉田俊雄著による海軍の海戦だけだと、全体像が見えなくなるので、戦史に基づいた日本軍の南方作戦を通覧しておきたい。ウキペディアと戦史叢書76「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯5 防衛庁防衛研修所戦史室」とブログ『大東亞研究室』の力を借りたい。
 ウキペディアによると、南方作戦は、太平洋戦争の開戦時における日本軍の進攻作戦。陸海軍中央協定(1941.11.10)で定められた作戦名称は「あ号作戦」。日本海軍では南方作戦間の作戦を「第一段作戦」と呼称した。それぞれの各方面作戦は、フィリピン作戦は「M作戦」、マレー作戦は「E作戦」、蘭領印度作戦は「H作戦」、グアム作戦は「G作戦」、英領ボルネオ作戦は「B作戦」、香港作戦は「C作戦」、ビスマルク作戦は「R作戦」と定められた。南方作戦の目的は、香港、マニラ、シンガポールの重要軍事拠点を覆滅して東亜における米英勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった。
 南方作戦はハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、海軍は期待をかけていたハワイ空襲に奇襲が必要とし、陸軍は長途の危険な渡洋作戦を行うマレー作戦に奇襲が必要とした。

 マレー・シンガポール作戦
 日本が英国の極東根拠地シンガポールを攻略することは、ドイツが日本と同盟を結んだ要因の一つであった。シンガポールは、昭和初期、日英同盟の終了により英国議会で要塞強化を決定した。 軍港は主力艦隊の収容を可能とし、その海岸要塞は15インチ砲をはじめ多数の要塞砲で防備され、 海正面からのいかなる攻撃も受けつけない戦力を有した。陸路からしか攻略し得ぬマレー半島は、シンガポール島まで距離約1千KM、道路は1本道で、それ以外の多くは密林に覆われており、大小の河川は250を数えたまさに天然の要塞であった。
 1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、太平洋戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。イギリス海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、マレー沖海戦で日本軍は航空攻撃により両戦艦を撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。
 第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。

 フィリピン作戦
 開戦初頭企図された比島作戦は、主としてルソン島にある首都マニラと南部ダバオの占領であった。マニラは米国の極東における根拠地であり比島の軍・政・経の中枢であった。
またミンダナオ島のダバオは、比島南部の軍・政・経の要衝であり、両者を占領すること即ち全比島占領を意味し、戦略目的は達成できると考えられたのである。比島攻略の大きな障害は米空軍、特にB17爆撃機が脅威であった。航空母艦はハワイ作戦に充当していたので、台湾基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し制空権獲得後マレー作戦のような奇襲ではなく、正攻法にて上陸作戦を開始することが検討された。
 12月8日午後、日本軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

 香港作戦
 米・英の極東三大拠点は、シンガポール、マニラ、香港であった。シンガポールとマニラの進攻作戦が南方軍によって行われたのに併行し、香港攻略戦は支那派遣軍によって行われた。即ち、支那事変遂行上の大きな弊害となっていた、敵性租界地の処理と在華米英武力の掃討が香港攻略作戦の主眼であった。
 香港は、英国領の香港島と租借地・九竜半島からなり、九竜半島南部の高地にはトーチカ陣地からなる堅固な防御線がひかれていた。香港島の海側には堅固な砲台が構築され、九竜半島側に対しても複郭陣地が設けられていた。しかし、大局的には日本の制海空権下に孤立した要塞であり、その弱点は180万人も及ぶ過密人口とその給水の困難にあった。
 12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。

 蘭印作戦
蘭印作戦は、南方作戦中最大の狙いである資源地域確保の攻略作戦である。
この作戦には困難な点が2つあった。
 1) 蘭印に兵を用いるまでに、マレー・比島の両作戦を経過しなければならない。
2) 敵の破壊の前に重要油田地帯を占領すること。
マレー・比島他に航空基地を進出させ、ジャワ周辺の制空・制海権を奪う必要があるが、
果たして十分なる航空支援を蘭印に対し発揮できるかどうかという点が、時間的制限と合わせて作戦遂行上の条件であった。
幸いZ作戦(ハワイ作戦)の成功によって米艦隊の側面からの攻撃の危険はなくなり、
またマレー・比島作戦が順調であったので大本営は予定を1ヶ月繰上て蘭印作戦を開始した
一方連合軍は、昭和17年1月にABDA戦域コマンド/米英蘭濠 地域連合司令部を設置。マレー・蘭印への増援を開始、比島・マレーの海空軍部隊は逐次蘭印へ後退した。

開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1ヶ月繰り上げた。1942年1月11日、第16軍坂口支隊はボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベス島メナドに降下し蘭印作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。
 
 グァム作戦
 主力をもってフィリピン及びマレー半島を席巻し、蘭印を攻略して資源地を確保し、戦争遂行態勢確立を企図、これら陸海軍の主作戦と並行して、開戦初期に実施するグアム、ウェーク攻略戦、ビスマルク諸島攻略など中南部太平洋方面の作戦は、南東太平洋の戦略態勢を有利にし、連合軍の反撃基地を覆滅して南方進攻作戦の左側面を掩護する支作戦であり、主として海軍が担当し、陸軍は南海支隊をもって協同することになっていた。
 アメリカ領グアム島へは12月10日未明に南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。

 ビスマルク作戦
この方面の作戦を担当するのは日本海軍の南洋部隊で、同部隊指揮官は井上成美海軍中将(第四艦隊司令長官)である。開戦前の昭和16年9月と10月におこなわれた図上演習で、第四艦隊(井上長官)は「ラバウルだけを占領しても役にたたず、同地確保のためさらに前方の要地(パプアニューギニア、ソロモン諸島)を攻略すべき」と主張している。 その後大本営は南洋部隊と陸軍南海支隊に対し、日米開戦と共にウェーク島とグアム島を攻略したのち、第一段作戦でのラバウル攻略、第二段作戦での同方面要地攻略の実施を命じた。連合艦隊司令長官山本五十六大将は南洋部隊に対し第一段作戦で状況によりラバウル攻略を、第二段作戦においてビスマルク諸島と英領ニューギニア領方面要地の攻略を命じた。
 南海支隊は次いで1942年1月23日にオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルは、トラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した。
 アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。

 以上南方作戦の各方面の状況について、ざっと見て来た。ハワイ作戦を含め、何れも当初見込みより順調に経過しているように見える。しかし、防衛庁戦史室はいう。陸軍にとって来るべき戦局の焦点は、アジア大陸であって太平洋の海洋にはない。陸軍の作戦計画の表題は、「対米英蘭戦争に伴う帝国陸軍作戦計画」であって、「対米英蘭支作戦計画」とは呼んでいない。その計画の主体を占める部分の表題も「南方作戦」であり、「対米英蘭作戦」ではない。そこには陸軍が従来取り組んで来た対支ないし大陸作戦から一転して、米国軍を主敵とする対米英蘭作戦に本格的に取り組もうとする認識と気魄の欠如を感じさせるものがある、と厳しく指摘する。総合作戦計画の研究策定は南方作戦が出来上がった後のことであり、それも「対支作戦」及び「対露作戦」を付け加えたにすぎず、しかも陸軍の関心は主として大陸なかんずく北方ソ連に向けられていた。そして「南方作戦計画」そのものも、戦争初期における「南方攻略作戦計画」にすぎなかった。攻略作戦終了後の長期作戦に関し、物的国力の推移の研究は行われたが、用兵作戦そのものについての研究はほとんど行われなかった。「数年に亙る作戦的見通し如何」という問題の解答は、「物的戦力の見透し」に成算ありということが主であった。従って陸軍の南方作戦計画において、南方攻略後の持久作戦に関し規定するところは全くなかった、と。

 以上のよって来る所以の第一。陸軍の南方作戦計画が、南方武力処理という局地的発想から出発している。瀬島中佐によれば「グローバルの観点に立って南方作戦を考えなかった。ローカルウォアではなくワールドウォアであるという認識が欠けていた。陸軍の特にその色彩が強かった」と。当時の作戦事務当局者として極めて率直な反省だ、と戦史室。
 第二は、対米太平洋戦面の作戦は海軍に一任するという陸軍の考えであった。それは同時に海軍の考えでもあり、それについてなんらの論争はなかった、と戦史室。太平洋戦面の海軍一任という構想は、明治40年「帝国攻防方針」「用兵綱領」制定以来の伝統的精神だった、と説明する。ふーむ、それでは、これまで吉田俊雄氏の著書で見て来た、陸軍に引っ張られる海軍の姿は、自らの責を自覚していない、異様な姿だった、と言える。
 第三は、対米英蘭戦争における作戦の誤判断が致命的であった、南方攻略作戦は対米英蘭戦争の前哨戦にすぎず、戦争の運命は数年後に開始される米国の反攻様相を如何に判断し、そしていかに対処するかによって決せられるべきだった。しかし太平洋戦面の矢面に立つべき海軍も、その大勢は依然として大鑑巨砲によって象徴される艦隊と見做し、作戦の運命は洋上の艦隊決戦によって決せられるものと判断した、と。

邀(よう)撃漸減艦隊決戦の行方

2019年03月26日 | 歴史を尋ねる
 連合艦隊司令部にとって邀撃漸減作戦の第一段作戦は真珠湾作戦、マレー沖海戦だった。第二段作戦は、本来ならば邀撃漸減艦隊決戦に当てられた段階だった。ところが、真珠湾作戦、マレー沖海戦の成功で、艦隊決戦の相手がいなくなった。こんな事態になろうとは誰も予想していなかった。第二段作戦以後は、それまで誰も、一度も、考えたことも研究したこともない、まったく未知の、初体験の状況や条件に直面した。そして、自ら考えながら、戦わねばならなくなった。
 緒戦のショックから立ち直った米軍は、大わらわで戦備を急ぎ、身構えていた。日本はゆっくり時間をかけて、慎重周密に計画を練り上げている余裕はなかった。時は敵に有利に働く。二年もたてば、米軍の戦力は膨大なものになる。飛行機は10倍になる。艦船は4倍になる。富岡作戦課長は考えた。「10倍になっても、米本土やハワイにひしめいているかぎり、少しも怖くない。飛行機は、戦力を十分に発揮できるように作られた基地に展開しなければ、無意味だ。とすると、わが方でもっとも痛い場所は何処か。太平洋上を探すとその場所は豪州でしかない。広大な豪州に大きな戦力が展開して、ドッと北に突き上げてきたら、かなわない。どうしても豪州を、早く脱落させるか、さもなくば米本土との間を遮断しなければならない」と豪州作戦構想。豪州攻略は、米陸軍航空兵力の対日反攻の本拠を衝くことになり、防備手薄な豪州を揺さぶることになる、と考えた。豪州全土を占領しなくともよい。一、二か所に手を付けるだけでよい、と。
 この話を部員が軽い気持ちで参謀本部に話したら、瀬島龍三少佐は「機械化を主とした五コ師団が要りますね」という。海軍側は「いや、豪州東岸の要点を占領する態勢を示すことで、米艦隊に決戦を強要する。かつ、補給を遮断するのが目的で、豪州攻略に深入りしようとする訳ではないから、大兵力はいらない」という。海軍には、海さえあればどこにも出没できる機動力がある。ちょっと手を付け、目的を達したらサッと引き揚げる。軽巡か駆逐艦に陸兵を載せて突っ込む、といった考え方をしがちである。このため後日、ガダルカナルで手痛い目に遭うが、いまは戦争が始まったばかり。吉田俊雄がこの例を引いたのは、陸海軍が、それぞれお互いの戦い方を、まるで知らないということで、信じられないことだとコメントする。

 仮想敵国であるソ連ないし米国のどちらかとの間に戦争が起った時、陸海軍が一緒になって長期全力作戦をするのは、どうするか。そんな計画を練り上げた年度戦争計画は、まったくなかった。陸軍は、対米作戦を知らない。海軍任せであった。海軍は、対ソ作戦を知らない。陸軍任せだった。そして、艦隊決戦一点張り。たとえば南洋群島周辺は、艦隊決戦の作戦海面である。島は基地になる。それが、攻防戦のマトになる大事な基地であることは、十分承知していた。しかし、ここは海軍の戦場である。防備も海軍が独占すべきものだ、とかんがえた。陸軍とハラを割って話していない。そして、南洋の島々に飛行場を作った。その計画をするのは軍令部作戦課。防備を担当するのは軍令部二課。ここは発言力の弱い課だから、防備はほったらかしになる。もともと海軍は、陸上の防備には無関心である。
 第一段作戦が終わると、参謀本部は、これで主作戦は終わったから、南方に出していた陸軍部隊をいったん引き揚げ、対支、対ソ作戦に備えると言い出した。軍令部は驚き、12月下旬から3月7日までかかり、敵を前にしてこれからどう戦うかを軍令部と参謀本部が論議を重ね、「今後採るべき戦争指導の大綱」を煮詰めた。まとめてみると、抽象的で、ポイントの不明確な、作文的大綱になった。その中の世界情勢判断が、後々大きな影響を与えたので、吉田は記録している。『米英は戦力向上の時機を見て対枢軸大規模攻勢に転ずべく、これが為日本に対して、ソ支と連携して大陸方面より直接わが中枢部を衝くに努めつつ、主力を以て豪州及びインド洋方面より逐次戦略要点を奪回反撃し来る算大なり。然してその大規模攻勢を企図し得べき時機は、概ね昭和18年以降なるべし』 問題はこの昭和18年以降だろうとした判断だった。

 それと同じようにして、軍令部と連合艦隊、永野総長と山本長官の間のギャップが、真珠湾の時以上に増大した。山本長官は、決戦を急いだ。一日も早く敵に大打撃を与え、戦意を喪わせようと、第二段作戦を詰めの段階と考えた。少し後(4月16日)、第二段作戦に入るのを機会に、全軍に訓示した。『征戦ここに五か月、連合艦隊は今や第一段作戦を概成して、まさに第二段作戦に移らんとす』と述べ、これまで各隊の奮戦で、戦果大いに挙がるのを共に喜び、『然りと雖も既往の成果は未だ以て戦争の全局の態勢を制するに足らず・・・この敵を討ちて征戦究極の目的を達成せんには、その軍容成るに先んじ敵海上武力の中核を撃破し、併せてわが攻防自在の態勢を確立せざるべからず。戦局決戦段階に入る。即ち連合艦隊は新部署(第二段作戦部署)に就きてその陣容を整え、今次戦訓を加えて益々鋭鋒を磨き、決戦勢力を挙げ東西両大洋に敵を求めてこれを補足撃滅し、以て戦局の大勢を海上に決戦とす』(機密連合艦隊訓示第二号)
 4月29日の戦訓研究会の最後に、山本は所信を表明した。「第二段作戦は第一段作戦と全然異なる。今後の敵は、準備して備えている敵である。長期持久、守勢をとることは、連合艦隊長官としては出来ない。海軍は必ず一方で攻勢をとり、敵に手痛い打撃を与える必要がある。このため、次々に敵の痛いところに向かって猛烈な攻撃を加えなばならない。これがため、わが海軍軍備は一段の工夫を要する。従来の行き方とは全然異ならなければならぬ。軍備は重点主義に徹底し、これだけは負けられぬという備えをする必要がある。このため、わが海軍航空の威力が敵を圧倒することが絶対に必要である。共栄圏を守るのは、一に海軍力である」 この所信の後段は、席に連なっていた伊藤軍令部次長、高田軍務一課長たち中央からの出席者に聞かせるためのものであった。

 軍令部は、第二段作戦を詰めの段階と考えていなかった。長期持久態勢を確立すると同時に、出来るだけ短期戦で終わらせるため、戦争終結を早める作戦を考えようとしていた。ただ、軍令部作戦課があれだけ執拗に反対した真珠湾攻撃が大成功を収めたため、連合艦隊司令部との妙な力関係があった。軍令部は17年3月半ばまでには第二段作戦の構想を固め、参謀本部との調整も済ませた。『まず、インド洋作戦で、英東洋艦隊を撃破する。セイロン攻略は、この時せず、ドイツ軍が中東に出てくるタイミングに合わせる。次に、米豪遮断を狙うFS作戦(ニューカレドニア、フィジー、サモア攻略作戦)にかかり、海上交通破壊戦を積極化する。豪州攻略は、対ソ不安が解消、蒋介石政権屈服などがあって状況が好転した場合、要すれば決行する。それまでの間、飛行機や艦隊で豪州方面の敵兵力を撃破、要地に攻略を行い、FS作戦で米豪連絡路を遮断するのと相俟って、豪州を圧迫し続ける。ハワイ作戦は、他正面の処理が終わった後、情勢が許せば実施し、米艦隊の撃滅を狙う。そのとき好機があれば、攻略することがある』 盛りだくさんな構想である。しかしよく見ると、インド洋作戦とFS作戦以外は、皆条件が付いていて、条件が満たされなければやらない、という。つまり、連合艦隊の考えと違い、英艦隊を東洋から追っ払い、米豪遮断で豪州を無害化する、これが軍令部の考えた第二段作戦の主目的であった。

南雲機動部隊の戦闘結果と米戦闘システムの転換

2019年03月20日 | 歴史を尋ねる
 『いったん矢が離れると長期の戦争になるが』と天皇が静かにたずねるとと、『大命降下があれば、予定通りに進出いたします』と奉答した軍令部総長、『大臣としてもすべてよいかね』とたずねると『物も人も、ともに十分の準備を整えまして大命降下をお待ちしております』とお答えした海軍大臣。しかし、ハワイ作戦に関する軍令部側と連合艦隊側の大きな衝突、リスクを賭けた緒戦の作戦準備。海軍内では、「物も人も、ともに十分の準備を整えまして」と言える状況ではなかった中での、海軍トップの奉答は如何許りか。
 
 海軍作戦の頭脳である軍令部第一部第一課(作戦課)が、開戦一カ月前、御前会議の国策決定資料として、情勢判断「対米英蘭戦争における初期及び数年にわたる作戦的見通し」を起案、提出した。
『二、海軍作戦
 初期作戦の遂行及び現兵力関係をもってする邀(迎)撃作戦に勝算あり。初期作戦にして適当に実施されるにおいては、我は南西太平洋における戦略要点を確保し、長期作戦に対応する態勢を確立すること可能なり。しかして対米作戦は、武力的屈敵手段なく長期戦となる覚悟を要し、長期戦は米の軍備拡張に対応し我が海軍戦力を適当に維持し得るやに懸かり、戦局は有形無形の各種要素を含む国家総力の如何及び世界情勢の推移の如何により決せらるるところ大なり』 
  吉田は解説する。開戦当初の進攻作戦には勝算がある。また開戦直前の兵力比(ほぼ対米7割)のままで迎撃作戦をする場合にも勝算がある。当初作戦がうまくいけば、フィリピン、蘭印、マレー、仏印などの戦略要点を確保し、長期戦に備える態勢をとることができる、と。  もっと率直に言えばどうだったか。軍令部作戦部長福留繁少将は「日米兵力増強の情況から見て、開戦から2年以内ならば、成算がある。2年以後のことは、はじめの2年の成果で持久できるかどうか決まる。計画の時点では、2年以後には勝算は残らないというしかない。何しろアメリカの建艦計画の規模が大きいので、時間が経つほど日米兵力比が開いてくる。決戦は早いほどよい。だいたい昭和17年中ならば、五分以上の勝算がある。18年初めを境として、勝算は三分以下に減る。ただし、勝算ありといっても、これは早期決戦の第一回戦だけについてのことで、第二回戦以後については、計画的には勝算はない。ともあれ、劣勢な日本海軍が米海軍に勝ち目を持てる唯一の戦法は、全力総合決戦しかない。そうでなく、積極侵攻作戦をしようとしても、日米の兵力量、兵器の性能から、ハワイ奇襲作戦が限度で、それ以上の作戦は計画が立たない。一言で言えば、対米戦では、全面的な勝利は初めから望めない、ということである」と。吉田俊雄氏は福留のこの発言の時期について、とくに記していない。しかし少将と書いているところを見ると、開戦前の発言と思われる。17年11月には中将に昇進しているから。福留少将の発言内容から、「勝算あり」とは言っていたが、実はそれには、いろいろな制約的前提条件が付いていた、と吉田。それが、いつの間にか消え、「勝算あり」だけが独り歩きした、と。ふーむ、初期の邀撃作戦自身にも黄色信号が灯っていたということか。

 前回の当ブログで、ハワイ作戦(南雲機動部隊)が軍令部の作成した邀撃漸減作戦を押し退けて採用された経緯に触れたが、ではその邀撃漸減作戦とはどんな作戦だったのか。ウキペディアを利用して整理して置く。1922年のワシントン軍縮会議で主力艦の保有比率を5:5:3の劣勢に抑えられると、それに対応する新しい戦法を開発し、1923年改定の帝国軍の用兵綱領で、「敵艦隊の主力東洋方面に来航するに及び、その途に於て逐次にその勢力を減殺するに努め、機を見て我が主力艦隊を以てこれを撃破す」と規定された邀撃漸減作戦であった。以後日本海軍は終始一貫してこの戦略構想の下に、軍備・艦隊編成・教育訓練等を推進した。
 もう少し具体的な内容に触れると、対米作戦構想は、東洋所在のアメリカ艦隊を開戦初頭に撃破し、フィリピン、グァム攻略後は、太平洋を横断して来航するアメリカ艦隊を、潜水艦・航空機および水雷戦隊の夜襲によって逐次撃破し勢力の漸減に努め、機を見て決戦により撃破する作戦で、武器体系及び戦術は次の様であった。
1、第一段邀撃戦・・・潜水艦
 ワシントン会議での劣勢な比率を克服するため、敵艦隊の動静を入手し、部分的優位を確保するための偵察兵力として、また敵艦隊の漸減を図るため、潜水艦に期待した。このような運用構想から、無補給で太平洋を往復できる航続力を持ち、艦隊を追尾できる大型潜水艦の開発、航空機を搭載できる潜水艦を完成させた。
2、第二邀撃戦・・・航空機
 第一次大戦後の経済不況、平和ムードのため、航空部隊の整備は常に延期、繰り延べが繰り返され1931年までに実用化された航空機は120機だった。1932年に艦上爆撃機が制定化、1935年頃は雷撃機、急降下爆撃機の命中精度も上がり、航空撃滅戦、艦隊決戦等の有効性が急速に上がった。1937年にはワシントン条約が失効し、南東諸島の前進基地化が脚光を浴び、母艦航空兵力のほか、陸上航空兵力も邀撃兵力に加わり、航空関係者からは戦艦無用論が唱えられたりした。特にワシントン条約破棄後の空母建造は、建艦競争を誘いやすいのである程度忍び、陸上航空兵力の整備に努め、徐々に艦艇重視から航空重視へと移行し、邀撃漸減作戦の主役が航空部隊へと移行していった。
3、決戦段階・・・水上艦艇
 劣勢の日本海軍対応の一つに個艦能力の向上、条約の制約を受けない魚雷を利用した水雷戦隊の夜襲を重視。1934年の海戦要務令の改定では、漸減戦を重視して、巡洋戦艦部隊の積極活用、1935年には射程4万メートルの酸素魚雷が開発され、以後水雷戦術が急速に進歩、決戦時には本体の前方20キロに配備される前衛部隊から魚雷を発射、魚雷の到達時に戦艦が砲撃を開始するとされた。
 さらに兵力劣勢の日本海軍の戦術、用兵思想は、先制・奇襲・夜襲の重視、アウト・レンジ思想(列国より大口径の砲の装備、相手より優れる射程、航続距離を要求)、従って長距離砲を備えた戦艦大和、武蔵を進水させた。


 12月23日、南雲機動部隊が広島湾に引き揚げてきた。永野総長が旗艦長門を訪れた。来艦した南雲長官、草鹿参謀長たちから戦況を聞き、終わって乾杯、記念撮影。そのあと旗艦赤城に行き、山本長官の機動部隊各級指揮官にたいする訓示、永野総長の挨拶、記念撮影、祝杯。だが、山本の赤城での訓示は、永野総長の屈託のなさを予想して、峻烈を極めた。「・・・真の戦いはこれからである。奇襲の一戦に心驕るようでは、真の強兵ではない。勝って兜の緒を締めよとは、まさにこの時である。諸子は凱旋したのではない。次の作戦に備えるために一時帰投したのである。一層の戒心を望む」 聞いていた連合艦隊参謀三和大佐は「叱られている」と感じたほどだった。

 真珠湾の廃墟の中に着任した新太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、その時の感懐を戦後、児島襄氏に語った。「それは、私も海軍士官だ。戦艦戦隊同士が向かい合い、堂々たる艦船決戦をやって日米の雌雄を決したかった。しかし真珠湾奇襲で、それよりも有効で強力な打撃力があることを知った。そうと知ったら、その打撃力を使わないという法があるかね」 真珠湾で戦艦は使えなくなたので、米海軍は、討ち漏らされた空母と巡洋艦で作戦せざるを得なかった。たとえばハルゼ―中将の率いる空母エンタープライズは、巡洋艦三隻と駆逐艦九隻とで、タクス・グループを作り、ミッドウェーに飛行機を運んでいた。かれらは、その編制のまま、ソロモン戦までを戦い続けた。ただ、アメリカは開戦一年前、両洋艦隊法を成立させ、エセックス級正規空母11隻、インデペンデンス級巡洋艦改装空母8隻を発注していた。このほか、真珠湾後に追加発注した正規空母15隻、改装空母1隻が18年に入って続々と完成した。そして、18年11月からのギルバート攻略作戦のときには、4つのタスク・グループからなる高速空母機動部隊を編制、全軍をあげて、空母中心の戦闘システムに転換した。
 ところが、日本海軍では、福留作戦部長も宇垣参謀長も、考えをあらためなかった。航空作戦の特性で、首脳部が作戦戦闘を実際に見ることができないため、戦艦は味方飛行機のカバーがなければ、独力では有力な敵航空部隊に勝てないことが、なかなか理解されなかった。主兵は戦艦で、戦艦は無敵だという思い込みが強かった。その上、戦艦が飛行機に勝てなくなったとは思いたくない人たちが、たくさんいた。この人たちは、日本海海戦以来37年、海軍の中核としてエリートを集め、中央や艦隊の要職を占め、多数が将官となって、日本海軍をリードしてきた。そして、主流意識の凝り固まりでもあった。戦艦は飛行機の爆弾や魚雷で沈むものではない。飛行機が爆弾の投下点、魚雷に発車点に近づく前に、強力な対空砲火で一機残らず撃ち落としてしまうと確信していた、と記して、吉田俊雄は厳しく迫る。

真珠湾(ハワイ作戦)

2019年03月16日 | 歴史を尋ねる
 もう少し海軍を追いたい。今度は吉田俊雄著『四人の軍令部総長』から。1941年11月29日。宮中で重臣会議が開かれ、東條首相と東郷外相が対米交渉と国策についての説明に当り、開戦決意の了解を求めた。午後、御学問所で、天皇自身、重臣の意見を聞かれた。海軍関係では、まず岡田啓介大将。「今日はまことに非常の事態に直面いたしたものと思います。物資の補給能力について、十分の成算があるものなりや否や、はなはだ心配であります。先刻政府の説明がありましたが、まだ納得するに至りませぬ」 米内光政大将。「資料を持ちませんので、具体的な意見は申し上げられませんが、俗語を使いまして恐れ入りますが、ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様、十分のご注意を願わしいと思います」 吉田の指摘は厳しい。平生、日米戦ってはならぬ、と言っていた岡田、米内両大将にしては、なんともじれったい奉答になった。「戦争回避」を言外に訴えていることは分かるが、なぜ、あからさまに、そう申上げられなかったのか、と。サイパン陥落後、東條内閣に独力で立ち向かい、総辞職に追い込んだ岡田大将の勇気と、終戦の時、本土決戦を呼号する急進派の威迫をモノともせず、鈴木首相を援けて不可能を可能とした米内大将の勇気を思うと、この場で二人とも中途半端に終わったのが、いかにも不可解かつ残念に思われる、と吉田は記す。当時40歳の若い天皇を援けるには、もう少しの踏み込んだ意見を申上げなければ、天皇自身が戦争回避の意見を申上げるには力不足であることは、吉田氏の言う通りだ。

 御前会議を明日に控えた11月30日、突然のお召しによって、嶋田と永野が急ぎ参内した。天皇は静かに永野総長に向かわれた。「いよいよ時機は切迫して、矢は弓を放たれんとしているが、いったん矢が離れると長期の戦争になるが、予定のとおりやるかね」 永野は奉答した。「いずれ明日、委細奏上いたしますが、大命降下があれば、予定通りに進出いたします」 永野の奉答は老獪で、誠実ではない。天皇は長期の戦争になると見通しを言っている。海軍上層部はかねてから、長期戦は日本に分がないと言っていた。その見解をかわして、大命降下があればと、巧みに自己責任を回避している。天皇の突然のお召しの趣旨をかわしている。
 つづいて嶋田に向かわれた。「大臣としてもすべてよいかね」「物も人も、ともに十分の準備を整えまして大命降下をお待ちしております」「ドイツが欧州で戦争をやめたときは、どうかね」「ドイツは、シンから頼りになる国とは思っておりませぬ。たとえドイツが手を引きましても、差し支えないつもりでございます」 そうお答えした嶋田はあとで、書いている。『大御心を安んじ奉らんために、両人から艦隊の様子を申上げ、司令長官は訓練が行き届き、士気旺盛なることに十分の自信を有していることや、この戦争をどうしても勝たねばならぬと一同覚悟しておることなどを申上げて退下した。陛下には、御安心の御様子に拝した』 ドイツが勝つことを前提としているからこそ対英米戦争に踏み出す決心をしていながら、天皇に安心していただくためにウソを申上げたことになるのではないか、と吉田。翌12月1日午後の御前会議で、開戦が決意された。そして翌2日、武力発動の時期を、12月8日午前零時と定められた。それでは、海軍の十分の準備とはどんなものだったか。

 かねてから山本五十六は軍令部の「年度作戦会議」的、正統的な迎撃漸減艦隊決戦構想に疑問を持っていた。「(図演では)これまで一度も大勝を得たことがなく、このまま行けばジリ貧になるというところで演習中止となる」 山本の意識の裏には、いつも極度の危機感があって、彼を衝き動かしていた、と吉田は『四人の軍令部総長』でいう。彼はアメリカをよく知っていた。日露戦争の時のような、手ぬるいことではダメだ。開戦劈頭、『勝敗を第一日に於て決する覚悟』をもって突撃しなければならない。猛烈な闘志を持つ指揮官の率いる突撃部隊の、全力攻撃である。そこで彼は第一航空艦隊の全力を、彼自身が直率して真珠湾を突撃しようと切望した。しかし、その希望は叶えられないまま、開戦が刻々に近づき、開戦劈頭の真珠湾攻撃を、戦争の作戦計画に採用してもらうため、軍令部と折衝しなければならなくなった。この場合の当事者は、軍令部側は作戦課長富岡定俊大佐で、連合艦隊側は先任参謀黒島亀人大佐だった。二人は討議するうち、大激論になった。富岡は、南方作戦で資源地帯を押さえ、有利な態勢を固めることが最も重要で、自存自衛のための戦争という考え方だった。「ハワイ攻撃は、奇襲がカギで、空襲開始前に発見され、攻撃を受けて、戦果より被害が大きくなる可能性が強い。作戦として不安が多く、成功の確算が立たない。それ以上に、早く完成させねばならぬ本命の南方作戦には、当然全兵力を集中使用すべきで、核心となる空母を多数ハワイに割くことは出来ない」と。 黒島参謀は反論した。「ハワイ作戦が投機的と言えばその通りだが、戦争に冒険はつきものだ。南方作戦が重要なことは分かるが、空母がなくてもやれぬことはない。南方作戦ばかりでなく、対米作戦全体として考えるべきだ。連合艦隊としては、ハワイで睨んでいる米太平洋艦隊に打撃を与えないで、落ち着いて南方作戦はやれない。軍令部は、南方作戦中に米艦隊が出てきたら、作戦中の連合艦隊主力を、迎撃のため内南洋に向けるというが、そんなに簡単にいくものではない。基地航空部隊だけを見ても、基地の整備不十分で、中枢基地のトラックには27機しか置けず、大部隊を急速にマーシャルに出せといっても、不可能なのが現状ではないか」結局、話は平行線で、結論には至らなかった。

 9月中旬、作戦計画検討のため、連合艦隊主催の図上演習をしたが、南方作戦だけで零銭160%、陸攻40%の損耗が出た。当時の生産力では早急にこの損耗を補充できる見込みがなかった。これを見た連合艦隊側は、これだけの大損害を生じ、その補充に相当期間を要する以上、少なくとも補充が終わるまで敵艦隊の来攻を阻止しなければ、艦隊決戦を有利に戦うことは出来ない。開戦劈頭ハワイ作戦を決行し、敵艦隊に大打撃を与え、来攻を遅らせることが絶対必要と主張した。一方、軍令部、海軍大学校、その他の参会者の大部は、これほどの大損害を生ずることになるならば、ハワイ作戦などに空母を分派せず、南方作戦に空母を集中すべきだと主張した。この場合も平行線をたどった。
 一般図演のあと、別室で、参加者を最小限に限定したハワイ作戦図演が、極秘裏に実施された。一般図演は連合艦隊司令官の作成した作戦計画によったが、これは、第一航空艦隊司令部の作戦計画によった。その結果、敵戦艦四撃沈、一大破、空母二撃沈、一大破、巡洋艦三撃沈、三大破、敵機180撃墜または地上撃破の戦果を得たが、わが空母全滅(この図演では四隻)、飛行機127機失う被害を受けた。日本が負けすぎると手直しして、あとで判定をし直し、空母二隻沈没とされた。この図演で出した被害が、実際のハワイ作戦のとき、南雲部隊を第一撃で引き返させる大きな要因となった。「全滅する覚悟で行ったら、一隻もやられなかった。飛行機29機の被害だけで済んだ。助かった。これ以上の怪我をしない様、即刻引き返すべきだ」という考え方である。

 図演すぐ後(9月24日)、軍令部作戦室で、ハワイ作戦を採択するかどうかを決める会議を開いた。図演では戦争継続も危ぶまれる大損害を出し、衝撃を受けた直後で、ハワイ作戦を支持するのは連合艦隊だけだった。軍令部は慎重に構え、当の作戦部隊である一航艦は、あまりにもリスクが大きすぎると、作戦反対を表明した。しかし、会議のどの時点かで宇垣参謀長が福留作戦部長に、「オレも着任早々で、あまり自信がないが、山本さんは職を賭しても、この作戦をやる決意のようだ」 福留は息を呑んだ。山本さんなら、辞めると言いかねない、言い出したらテコでも動かない山本の性格を、よく承知していた。この時機、山本長官に辞められたら、連合艦隊はガタガタになり、海軍は戦えなくなる。軍令部の態度を決めるのは総長であるが、作戦部長はどちらに向けて膳を置くか、ということもある、と。
 富岡作戦課長の回想にいう。『太平洋戦争のハイライトは、何といっても真珠湾攻撃だった。これは山本長官が16年1月ころ決断したもので、そのころ軍令部は考えてもいなかったし知らされもしなかった。何しろ南方作戦で手一杯だった。米海軍は16年2月ころからカタリナ飛行艇を使って、ハワイ周辺の全周警戒をしていることが分かり、米国の戦争準備の並々ならぬことを知ったが、そのうち、また情報が入り、北方の哨戒はやめたと聞いた。そこで軍令部も、ハワイ作戦にOKを出した。私は真珠湾作戦に不同意ではなかったが、大バクチだと考えていた。ただ、軍令部は机の上の仕事だけで、連合艦隊の作戦になるべく干渉するなという伝統があり、それを私たちは守っていた。・・・』 

 10月19日、軍令部との折衝の最終段階で、連合艦隊の黒島参謀が、山本長官の言葉を伝えた。「ハワイ作戦を空母全力をもって実施する決心に変りはない。自分は職を賭しても断行する決意であることを軍令部に伝えよ」 そうすると伊藤次長はあわてて総長室に入り、総長と凝議、やがて黒島のところに総長みずから足を運び、「山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば、総長として、責任を持ってご希望通り実行するようにいたします、そう伝えてくれ」と。
 軍令部担当者の所見を総合すると、「軍令部は反対したが、山本長官が頑張るからそれにした」ということになる。そうすると次善の策を採用したことになる。これでは作戦担当者としての責任を取ったことにならない。海軍が、それまでいつでも陸軍に押し負けて来たように、ここでも、色々な意味での力を持つ連合艦隊に押し負けたのだろう。一言でいえば、軍令部総長が、連合艦隊長官を説得指導できるだけの明確な戦争哲学、理念を持っていなかったことが原因である。米海軍でも、同じようなトラブルがあった。そこで合衆国艦隊司令長官は海軍作戦部長(日本での軍令部総長)を兼務することとし、一体化してしまった。軍隊というものは、とくに戦時ともなれば、指揮はもっとも単純明快でなければならない。アメリカ流の改革が必要だった。そして、ここで手を打たなかったツケを、ミッドウェイやサイパンでしたたかに払わされた、と。

 12月8日午前三時半、まったく不意に「トラ、トラ、トラ(われ奇襲に成功せり)」の緊急信が飛び込んで来た。そのうちに、南雲部隊旗艦(赤城)から、「敵主力艦二隻轟沈、四隻大破、巡洋艦四隻大破、以上確実。飛行機多数爆破。我飛行機損害軽微。〇八〇〇」 軍令部は「ヤレヤレ。これで安心した」異口同音に言った。軍令部の対米作戦は、大鑑巨砲による迎撃漸減艦隊決戦であった。艦隊決戦では、南雲部隊は強力な補助部隊になるから、ハワイでの損害を出来るだけ少なくする必要があった。ところが山本長官は、真珠湾攻撃にこの戦争のすべてを賭けていた。南雲部隊は全滅を賭して真珠湾を反復攻撃、戦争の勝敗を一日で決しなければならぬと考えていた。だから、幸いハワイを奇襲できた以上は、徹底的に食い下がり、二撃、三撃、四撃と打ちつづけ、敵が敵意を放棄するまで踏み込んでいくのが至当だった。山本の認識は、深刻だった。「日米戦争は長期戦になる。長期戦には日本は勝てない。だから日米戦争を戦ってはならぬ」であり、第一次日独伊三国同盟締結を、海軍次官として、米内光政海相、井上成美軍務局長と共に、死を賭して反対し、それを貫いた。それも、この同盟が二位米戦争に導くことを見抜いたからであった。ここにも軍令部との認識ギャップがあった、と吉田は語る。

太平洋(大東亜)戦争に至る歴史を訪ねた著書一覧

2019年03月10日 | 歴史を尋ねる
 歴史を訪ねる旅も、開戦前夜に至り、通史に語ってもらうと、平板になりすぎて著者の考えを一方的に受け入れる情況に陥る。このため、多角的に、色々な著者に語ってもらい、その實相に迫ろうとしたのが、当ブログの目的だった。でもそのため、あちこちに飛びすぎてストリーが分かりずらくなったので、この折に整理して、開戦・終戦に関わるこれまでに扱った著書を記録しておきたい。

先ず通史的な著書として、
1、岡崎久彦著『百年の遺産 日本近代外交史73話』
2、重光葵著『昭和の動乱、上下』

当時の中国に関わる著書として
1、サンケイ新聞社『蒋介石秘録ー日中関係八十年の証言、上下』
2、遠藤誉著『毛沢東ー日本軍と共謀した男』

戦争に関する詳細著書として
1、児島襄戦史著作集『開戦前夜(全)』
2、福井雄三著『よみがえる松岡洋右 昭和史に葬られた男の真実』
3、「文藝春秋に見る昭和史」第一巻『日中両国青年座談会』(昭和12年7月14日)
4、産経新聞朝刊 2002/08/06『キッシンジャー・周恩来極秘会談録』
5、福井雄三著『日米開戦の悲劇 ジョセフ・グルーと軍国日本』
6、岡崎久彦著『重光・東郷とその時代』
7、司馬遼太郎著『この国のかたち』「ドイツへの傾斜」
8、早瀬利之著『参謀本部作戦部長 石原莞爾(国家百年の計に立ち上がった男)』
9、江崎道朗著『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』
10、工藤美代子著『スパイと言われた外交官』
11、エドワード・ミラー著『日本経済を殲滅せよ(Bankrupting the Enemy)』
12、菅原出著『アメリカはなぜヒトラーを必要としたか』
13、長谷川毅著「Racing the Enemy」日本語版『暗闘 スターリン、トルーマンと日本の降伏』
14、参謀本部所蔵 「敗戦の記録」『今後採るべき戦争指導の基本大綱に関し御前会議経過概要(昭和20年6月8日於宮中)』
15、渡辺惣樹氏著『誰が第二次世界大戦を起したのか』
16、高橋亀吉著『私の実践経済学はいかにして生まれたか』
17、阿羅健一著『日中戦争は中国の侵略で始まったー日本人が忘れた上海での過酷な戦い』
18、東中野修道著『再現 南京戦』
19、吉田俊雄著『五人の海軍大臣』
20、葛西純一著『新資料盧溝橋事件』
21、高木惣吉著『私観 太平洋戦争』
22、吉田俊雄著『四人の軍令部総長』

 こうして整理してみると、実に多くの方に太平洋(第二次世界)戦争がいかにはじまったかを語って貰っていた。そして何回か触れたが、当時の日本は、蒋介石、ルーズベルト、チャーチル、スターリンなど歴史を動かした巨人たちを相手に、戦いを挑んでいたことになる。そして不思議なことに、日本側歴史書の中で、
この巨人たちが何を考え、どんな戦略をもって臨んでいたか、多くを語るのに巡り合ったことがない。何か顔のない敵国を相手にしている様であった。多分日本側の当時の為政者が、そうだったに違いない。確かに近衛・ルーズベルト首脳会談の画策はあったが、時すでに遅かった。あるいは日本国を纏め切れなかった。蒋介石と会談するプランなど、簡単に吹っ飛んでしまった。松岡外相がスターリンと会談したが、見事にひねられた。重光駐英大使がチャーチルと会談したが、本国日本はナシのつぶてだった。政治指導者と軍部とテロリスト(過激急進派)との調整で手一杯になっていたか。
 
 そして今、太平洋戦争はいかに終結されたか、長谷川毅氏の著書を参考に歴史を辿っている。そして日本海軍の動きに焦点を当てて、戦争はなぜはじまったか、どのように終結したのかを整理しているところである。