吉田俊雄著による海軍の海戦だけだと、全体像が見えなくなるので、戦史に基づいた日本軍の南方作戦を通覧しておきたい。ウキペディアと戦史叢書76「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯5 防衛庁防衛研修所戦史室」とブログ『大東亞研究室』の力を借りたい。
ウキペディアによると、南方作戦は、太平洋戦争の開戦時における日本軍の進攻作戦。陸海軍中央協定(1941.11.10)で定められた作戦名称は「あ号作戦」。日本海軍では南方作戦間の作戦を「第一段作戦」と呼称した。それぞれの各方面作戦は、フィリピン作戦は「M作戦」、マレー作戦は「E作戦」、蘭領印度作戦は「H作戦」、グアム作戦は「G作戦」、英領ボルネオ作戦は「B作戦」、香港作戦は「C作戦」、ビスマルク作戦は「R作戦」と定められた。南方作戦の目的は、香港、マニラ、シンガポールの重要軍事拠点を覆滅して東亜における米英勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった。
南方作戦はハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、海軍は期待をかけていたハワイ空襲に奇襲が必要とし、陸軍は長途の危険な渡洋作戦を行うマレー作戦に奇襲が必要とした。
マレー・シンガポール作戦
日本が英国の極東根拠地シンガポールを攻略することは、ドイツが日本と同盟を結んだ要因の一つであった。シンガポールは、昭和初期、日英同盟の終了により英国議会で要塞強化を決定した。 軍港は主力艦隊の収容を可能とし、その海岸要塞は15インチ砲をはじめ多数の要塞砲で防備され、 海正面からのいかなる攻撃も受けつけない戦力を有した。陸路からしか攻略し得ぬマレー半島は、シンガポール島まで距離約1千KM、道路は1本道で、それ以外の多くは密林に覆われており、大小の河川は250を数えたまさに天然の要塞であった。
1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、太平洋戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。イギリス海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、マレー沖海戦で日本軍は航空攻撃により両戦艦を撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。
第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。
フィリピン作戦
開戦初頭企図された比島作戦は、主としてルソン島にある首都マニラと南部ダバオの占領であった。マニラは米国の極東における根拠地であり比島の軍・政・経の中枢であった。
またミンダナオ島のダバオは、比島南部の軍・政・経の要衝であり、両者を占領すること即ち全比島占領を意味し、戦略目的は達成できると考えられたのである。比島攻略の大きな障害は米空軍、特にB17爆撃機が脅威であった。航空母艦はハワイ作戦に充当していたので、台湾基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し制空権獲得後マレー作戦のような奇襲ではなく、正攻法にて上陸作戦を開始することが検討された。
12月8日午後、日本軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。
香港作戦
米・英の極東三大拠点は、シンガポール、マニラ、香港であった。シンガポールとマニラの進攻作戦が南方軍によって行われたのに併行し、香港攻略戦は支那派遣軍によって行われた。即ち、支那事変遂行上の大きな弊害となっていた、敵性租界地の処理と在華米英武力の掃討が香港攻略作戦の主眼であった。
香港は、英国領の香港島と租借地・九竜半島からなり、九竜半島南部の高地にはトーチカ陣地からなる堅固な防御線がひかれていた。香港島の海側には堅固な砲台が構築され、九竜半島側に対しても複郭陣地が設けられていた。しかし、大局的には日本の制海空権下に孤立した要塞であり、その弱点は180万人も及ぶ過密人口とその給水の困難にあった。
12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。
蘭印作戦
蘭印作戦は、南方作戦中最大の狙いである資源地域確保の攻略作戦である。
この作戦には困難な点が2つあった。
1) 蘭印に兵を用いるまでに、マレー・比島の両作戦を経過しなければならない。
2) 敵の破壊の前に重要油田地帯を占領すること。
マレー・比島他に航空基地を進出させ、ジャワ周辺の制空・制海権を奪う必要があるが、
果たして十分なる航空支援を蘭印に対し発揮できるかどうかという点が、時間的制限と合わせて作戦遂行上の条件であった。
幸いZ作戦(ハワイ作戦)の成功によって米艦隊の側面からの攻撃の危険はなくなり、
またマレー・比島作戦が順調であったので大本営は予定を1ヶ月繰上て蘭印作戦を開始した
一方連合軍は、昭和17年1月にABDA戦域コマンド/米英蘭濠 地域連合司令部を設置。マレー・蘭印への増援を開始、比島・マレーの海空軍部隊は逐次蘭印へ後退した。
開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1ヶ月繰り上げた。1942年1月11日、第16軍坂口支隊はボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベス島メナドに降下し蘭印作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。
グァム作戦
主力をもってフィリピン及びマレー半島を席巻し、蘭印を攻略して資源地を確保し、戦争遂行態勢確立を企図、これら陸海軍の主作戦と並行して、開戦初期に実施するグアム、ウェーク攻略戦、ビスマルク諸島攻略など中南部太平洋方面の作戦は、南東太平洋の戦略態勢を有利にし、連合軍の反撃基地を覆滅して南方進攻作戦の左側面を掩護する支作戦であり、主として海軍が担当し、陸軍は南海支隊をもって協同することになっていた。
アメリカ領グアム島へは12月10日未明に南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。
ビスマルク作戦
この方面の作戦を担当するのは日本海軍の南洋部隊で、同部隊指揮官は井上成美海軍中将(第四艦隊司令長官)である。開戦前の昭和16年9月と10月におこなわれた図上演習で、第四艦隊(井上長官)は「ラバウルだけを占領しても役にたたず、同地確保のためさらに前方の要地(パプアニューギニア、ソロモン諸島)を攻略すべき」と主張している。 その後大本営は南洋部隊と陸軍南海支隊に対し、日米開戦と共にウェーク島とグアム島を攻略したのち、第一段作戦でのラバウル攻略、第二段作戦での同方面要地攻略の実施を命じた。連合艦隊司令長官山本五十六大将は南洋部隊に対し第一段作戦で状況によりラバウル攻略を、第二段作戦においてビスマルク諸島と英領ニューギニア領方面要地の攻略を命じた。
南海支隊は次いで1942年1月23日にオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルは、トラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した。
アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。
以上南方作戦の各方面の状況について、ざっと見て来た。ハワイ作戦を含め、何れも当初見込みより順調に経過しているように見える。しかし、防衛庁戦史室はいう。陸軍にとって来るべき戦局の焦点は、アジア大陸であって太平洋の海洋にはない。陸軍の作戦計画の表題は、「対米英蘭戦争に伴う帝国陸軍作戦計画」であって、「対米英蘭支作戦計画」とは呼んでいない。その計画の主体を占める部分の表題も「南方作戦」であり、「対米英蘭作戦」ではない。そこには陸軍が従来取り組んで来た対支ないし大陸作戦から一転して、米国軍を主敵とする対米英蘭作戦に本格的に取り組もうとする認識と気魄の欠如を感じさせるものがある、と厳しく指摘する。総合作戦計画の研究策定は南方作戦が出来上がった後のことであり、それも「対支作戦」及び「対露作戦」を付け加えたにすぎず、しかも陸軍の関心は主として大陸なかんずく北方ソ連に向けられていた。そして「南方作戦計画」そのものも、戦争初期における「南方攻略作戦計画」にすぎなかった。攻略作戦終了後の長期作戦に関し、物的国力の推移の研究は行われたが、用兵作戦そのものについての研究はほとんど行われなかった。「数年に亙る作戦的見通し如何」という問題の解答は、「物的戦力の見透し」に成算ありということが主であった。従って陸軍の南方作戦計画において、南方攻略後の持久作戦に関し規定するところは全くなかった、と。
以上のよって来る所以の第一。陸軍の南方作戦計画が、南方武力処理という局地的発想から出発している。瀬島中佐によれば「グローバルの観点に立って南方作戦を考えなかった。ローカルウォアではなくワールドウォアであるという認識が欠けていた。陸軍の特にその色彩が強かった」と。当時の作戦事務当局者として極めて率直な反省だ、と戦史室。
第二は、対米太平洋戦面の作戦は海軍に一任するという陸軍の考えであった。それは同時に海軍の考えでもあり、それについてなんらの論争はなかった、と戦史室。太平洋戦面の海軍一任という構想は、明治40年「帝国攻防方針」「用兵綱領」制定以来の伝統的精神だった、と説明する。ふーむ、それでは、これまで吉田俊雄氏の著書で見て来た、陸軍に引っ張られる海軍の姿は、自らの責を自覚していない、異様な姿だった、と言える。
第三は、対米英蘭戦争における作戦の誤判断が致命的であった、南方攻略作戦は対米英蘭戦争の前哨戦にすぎず、戦争の運命は数年後に開始される米国の反攻様相を如何に判断し、そしていかに対処するかによって決せられるべきだった。しかし太平洋戦面の矢面に立つべき海軍も、その大勢は依然として大鑑巨砲によって象徴される艦隊と見做し、作戦の運命は洋上の艦隊決戦によって決せられるものと判断した、と。
ウキペディアによると、南方作戦は、太平洋戦争の開戦時における日本軍の進攻作戦。陸海軍中央協定(1941.11.10)で定められた作戦名称は「あ号作戦」。日本海軍では南方作戦間の作戦を「第一段作戦」と呼称した。それぞれの各方面作戦は、フィリピン作戦は「M作戦」、マレー作戦は「E作戦」、蘭領印度作戦は「H作戦」、グアム作戦は「G作戦」、英領ボルネオ作戦は「B作戦」、香港作戦は「C作戦」、ビスマルク作戦は「R作戦」と定められた。南方作戦の目的は、香港、マニラ、シンガポールの重要軍事拠点を覆滅して東亜における米英勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった。
南方作戦はハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、海軍は期待をかけていたハワイ空襲に奇襲が必要とし、陸軍は長途の危険な渡洋作戦を行うマレー作戦に奇襲が必要とした。
マレー・シンガポール作戦
日本が英国の極東根拠地シンガポールを攻略することは、ドイツが日本と同盟を結んだ要因の一つであった。シンガポールは、昭和初期、日英同盟の終了により英国議会で要塞強化を決定した。 軍港は主力艦隊の収容を可能とし、その海岸要塞は15インチ砲をはじめ多数の要塞砲で防備され、 海正面からのいかなる攻撃も受けつけない戦力を有した。陸路からしか攻略し得ぬマレー半島は、シンガポール島まで距離約1千KM、道路は1本道で、それ以外の多くは密林に覆われており、大小の河川は250を数えたまさに天然の要塞であった。
1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、太平洋戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。イギリス海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、マレー沖海戦で日本軍は航空攻撃により両戦艦を撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。
第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。
フィリピン作戦
開戦初頭企図された比島作戦は、主としてルソン島にある首都マニラと南部ダバオの占領であった。マニラは米国の極東における根拠地であり比島の軍・政・経の中枢であった。
またミンダナオ島のダバオは、比島南部の軍・政・経の要衝であり、両者を占領すること即ち全比島占領を意味し、戦略目的は達成できると考えられたのである。比島攻略の大きな障害は米空軍、特にB17爆撃機が脅威であった。航空母艦はハワイ作戦に充当していたので、台湾基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し制空権獲得後マレー作戦のような奇襲ではなく、正攻法にて上陸作戦を開始することが検討された。
12月8日午後、日本軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。
香港作戦
米・英の極東三大拠点は、シンガポール、マニラ、香港であった。シンガポールとマニラの進攻作戦が南方軍によって行われたのに併行し、香港攻略戦は支那派遣軍によって行われた。即ち、支那事変遂行上の大きな弊害となっていた、敵性租界地の処理と在華米英武力の掃討が香港攻略作戦の主眼であった。
香港は、英国領の香港島と租借地・九竜半島からなり、九竜半島南部の高地にはトーチカ陣地からなる堅固な防御線がひかれていた。香港島の海側には堅固な砲台が構築され、九竜半島側に対しても複郭陣地が設けられていた。しかし、大局的には日本の制海空権下に孤立した要塞であり、その弱点は180万人も及ぶ過密人口とその給水の困難にあった。
12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。
蘭印作戦
蘭印作戦は、南方作戦中最大の狙いである資源地域確保の攻略作戦である。
この作戦には困難な点が2つあった。
1) 蘭印に兵を用いるまでに、マレー・比島の両作戦を経過しなければならない。
2) 敵の破壊の前に重要油田地帯を占領すること。
マレー・比島他に航空基地を進出させ、ジャワ周辺の制空・制海権を奪う必要があるが、
果たして十分なる航空支援を蘭印に対し発揮できるかどうかという点が、時間的制限と合わせて作戦遂行上の条件であった。
幸いZ作戦(ハワイ作戦)の成功によって米艦隊の側面からの攻撃の危険はなくなり、
またマレー・比島作戦が順調であったので大本営は予定を1ヶ月繰上て蘭印作戦を開始した
一方連合軍は、昭和17年1月にABDA戦域コマンド/米英蘭濠 地域連合司令部を設置。マレー・蘭印への増援を開始、比島・マレーの海空軍部隊は逐次蘭印へ後退した。
開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1ヶ月繰り上げた。1942年1月11日、第16軍坂口支隊はボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベス島メナドに降下し蘭印作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。
グァム作戦
主力をもってフィリピン及びマレー半島を席巻し、蘭印を攻略して資源地を確保し、戦争遂行態勢確立を企図、これら陸海軍の主作戦と並行して、開戦初期に実施するグアム、ウェーク攻略戦、ビスマルク諸島攻略など中南部太平洋方面の作戦は、南東太平洋の戦略態勢を有利にし、連合軍の反撃基地を覆滅して南方進攻作戦の左側面を掩護する支作戦であり、主として海軍が担当し、陸軍は南海支隊をもって協同することになっていた。
アメリカ領グアム島へは12月10日未明に南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。
ビスマルク作戦
この方面の作戦を担当するのは日本海軍の南洋部隊で、同部隊指揮官は井上成美海軍中将(第四艦隊司令長官)である。開戦前の昭和16年9月と10月におこなわれた図上演習で、第四艦隊(井上長官)は「ラバウルだけを占領しても役にたたず、同地確保のためさらに前方の要地(パプアニューギニア、ソロモン諸島)を攻略すべき」と主張している。 その後大本営は南洋部隊と陸軍南海支隊に対し、日米開戦と共にウェーク島とグアム島を攻略したのち、第一段作戦でのラバウル攻略、第二段作戦での同方面要地攻略の実施を命じた。連合艦隊司令長官山本五十六大将は南洋部隊に対し第一段作戦で状況によりラバウル攻略を、第二段作戦においてビスマルク諸島と英領ニューギニア領方面要地の攻略を命じた。
南海支隊は次いで1942年1月23日にオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルは、トラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した。
アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。
以上南方作戦の各方面の状況について、ざっと見て来た。ハワイ作戦を含め、何れも当初見込みより順調に経過しているように見える。しかし、防衛庁戦史室はいう。陸軍にとって来るべき戦局の焦点は、アジア大陸であって太平洋の海洋にはない。陸軍の作戦計画の表題は、「対米英蘭戦争に伴う帝国陸軍作戦計画」であって、「対米英蘭支作戦計画」とは呼んでいない。その計画の主体を占める部分の表題も「南方作戦」であり、「対米英蘭作戦」ではない。そこには陸軍が従来取り組んで来た対支ないし大陸作戦から一転して、米国軍を主敵とする対米英蘭作戦に本格的に取り組もうとする認識と気魄の欠如を感じさせるものがある、と厳しく指摘する。総合作戦計画の研究策定は南方作戦が出来上がった後のことであり、それも「対支作戦」及び「対露作戦」を付け加えたにすぎず、しかも陸軍の関心は主として大陸なかんずく北方ソ連に向けられていた。そして「南方作戦計画」そのものも、戦争初期における「南方攻略作戦計画」にすぎなかった。攻略作戦終了後の長期作戦に関し、物的国力の推移の研究は行われたが、用兵作戦そのものについての研究はほとんど行われなかった。「数年に亙る作戦的見通し如何」という問題の解答は、「物的戦力の見透し」に成算ありということが主であった。従って陸軍の南方作戦計画において、南方攻略後の持久作戦に関し規定するところは全くなかった、と。
以上のよって来る所以の第一。陸軍の南方作戦計画が、南方武力処理という局地的発想から出発している。瀬島中佐によれば「グローバルの観点に立って南方作戦を考えなかった。ローカルウォアではなくワールドウォアであるという認識が欠けていた。陸軍の特にその色彩が強かった」と。当時の作戦事務当局者として極めて率直な反省だ、と戦史室。
第二は、対米太平洋戦面の作戦は海軍に一任するという陸軍の考えであった。それは同時に海軍の考えでもあり、それについてなんらの論争はなかった、と戦史室。太平洋戦面の海軍一任という構想は、明治40年「帝国攻防方針」「用兵綱領」制定以来の伝統的精神だった、と説明する。ふーむ、それでは、これまで吉田俊雄氏の著書で見て来た、陸軍に引っ張られる海軍の姿は、自らの責を自覚していない、異様な姿だった、と言える。
第三は、対米英蘭戦争における作戦の誤判断が致命的であった、南方攻略作戦は対米英蘭戦争の前哨戦にすぎず、戦争の運命は数年後に開始される米国の反攻様相を如何に判断し、そしていかに対処するかによって決せられるべきだった。しかし太平洋戦面の矢面に立つべき海軍も、その大勢は依然として大鑑巨砲によって象徴される艦隊と見做し、作戦の運命は洋上の艦隊決戦によって決せられるものと判断した、と。