トルーマン

2018年02月07日 | 歴史を尋ねる
 トルーマンは、こういう場合ルーズベルトはどのような決定を下したであろうとたえず自問していた。トルーマンがいかにルーズベルトの政策を忠実に遂行していると信じていても、アドバイザーの選択、政策決定のスタイル、ソ連、日本に対する彼自身の考え方などは、自ずと反映され、トルーマン色を帯びるのは当然の成り行きだった。トルーマンの対ソ政策は、その存在感を急激に伸ばしたソ連に、どっちつかずの態度を示した。ソ連の対日戦争参加は好ましいと見做されたが、ソ連が新しく占領した東欧、とりわけポーランドの行動をみれば、ソ連の影響力拡大が如何なる帰結をもたらすか、不安を呼び起こした。トルーマン政権の内部も様々な意見が混在し、その結果として、トルーマンの対ソ政策は大きくジグザグのコースをとるに至った。
 大統領就任宣誓直後から、注意を払ったのはポーランド問題だった。チャーチルはスターリンがヤルタ条約を違反してポーランドに傀儡政府を押し付けることを恐れ、抗議しなくてはならないとルーズベルトに手紙を送った。この手紙に対して、トルーマンは同意する旨伝えた。ルーズベルトがチャーチルに「ソ連を公然と非難するのは避けよう」と忠告したのに対し、トルーマンはスターリンと対決することを選択した。それまで政策決定過程から遠ざけられていた国務省の高官、なかでもハリマンはソ連の膨張主義の危険について大統領執務室に押し掛け、警告した。「共産主義の外への膨張が過去のものになったと信ずることは出来ない。われわれは、共産主義イデオロギーとの戦いに正面から立ち向かわなければならない。その戦いは、ファシズムやナチズムに対すると同様に厳しく、また同様に危険に満ちている」
 ルーズベルトがハリマンの意見に耳を傾けなかったのに反し、トルーマンは彼の意見に共鳴した。ハリマンは、アメリカの寛大さとその協調姿勢は、ソ連からすれば、弱さの現れでしかないと解釈され、ヤルタ会談以降次々と生じて来た面倒な厄介事を具体的に列挙した。トルーマンはハリマンに向かって、自分は「ロシア人を恐れていない」「単にソ連から好かれるために、アメリカの原則や伝統から逸脱するいかなる譲歩も行うつもりはない」と断言した。ハリマンはソ連と妥協点を見出すのは悲観的で、「ソ連が国際問題において、世界が認めている原則に基づいて行動するという幻想を断ち切って、新しい対ソ政策を構築しなければならない」と主張した。
 しかしトルーマンは完全にハリマンの意見に与したと考えてはならない。アメリカ中西部の小さな町の弁護士上がりだったトルーマンは、契約を守ることがアメリカのもっとも基本的な原則であり、ルーズベルトが法律の細かい条文を超越してパワーポリティックスを行使したのに対し、合意された契約は必ず遵守されるべきであるという頑なな遵法主義の虜になる傾向があった、と長谷川毅氏。アメリカにとって必ずしも有利でない場合でも、ヤルタ条約を忠実に順守することは、トルーマンの変わらぬ原則であった、と。

 スターリンをはじめとするクレムリンの指導者たちは、新しい大統領がどうソ連に対応するか注視していた。グロムイコ駐米大使は、トルーマンの合同会議での演説が、ルーズベルトの政策を継続するとのべている、過去にソ連に対して友好的でない演説をしたことがあるが、少なくとも短期的にはルーズベルトの政策であった対ソ協調路線を踏襲するであろうと予想した。さらに、訪米するモロトフとトルーマンが如何なる会談をするかによって、対ソ政策の方向を占うことが出来ると述べた。
 4月22日モロトフはワシントンに到着、直ちに大統領と会談、断乎たる態度をとると約束したトルーマンだったが、最初の会談では友好的な態度に終始した。極東におけるヤルタ密約について、トルーマンは、条文を完全に支持すると回答、モロトフは大統領から重要な言質をとることに成功した。翌23日、モロトフとの会談の前に、ホワイトハウスで内密の問題に関する緊急会議が開かれた。出席者はスティムソン、ステティニアス、フォーレスタル、マーシャル、キング、レーヒー、さらにハリマン、ディーン、ジェイムス・ダン、ボーレン。議題は対ソ政策であった。この会議はトルーマンを是々非々政策に転換させるために国務省によって計画されたものだった。ステティニアスとハリマンは、アメリカはソ連に対し断固とした態度をとるべきと主張、さらにハリマンは、ソ連が極東での戦争でアメリカと協力する約束を反故にしている、ディーンは、ソ連を恐れることはアメリカにいかなる利益ももたらすことはありえない、といった。スティムソンは、ソ連が東欧での安全保障を懸念するのは理解し得る、ソ連はいままで約束を履行しており、むしろ約束した以上に立派に振舞っていると述べ、マーシャルは、ソ連の対日参戦はアメリカにとっても有益であり、ソ連と決裂することは重大な結果をもたらすと警告した。会議の終わりに、大統領はスティムソンと他の軍事指導者を退席させ、国務長官とハリマンら国務省関係者に、居残ってその日の晩に予定されているモロトフとの会談の準備をするように命じた。

 第二回目の会談では、大統領は変身し、ソ連がポーランド政府の構成について意見を変えないことにまったく失望していると述べ、ポーランドの民主的な要素を代表しないポーランド政府を認めることが出来ない、と言い切った。モロトフは反論したが、トルーマンはアメリカ政府がヤルタ会談で締結されたすべての条約を遵守する用意があり、ソ連政府も同じことを望むのみである、と繰り返した。会談に同席したグロムイコの回想録では、「トルーマンの話し方は非常にタフであった。彼のジェスチャーは冷たさが支配していた。新しい大統領は提案されたすべてを拒否した。将来の国際機構の意義、ドイツの再度の侵略を防止する措置などを討論しようとするソ連側の論点に、ことごとく反駁した。会話の途中で立ち上がり、会談は終わったというジェスチャーをした」
 スターリンは即座に対応した。4月24日、トルーマンとチャーチルの共同書簡に返答した。トルーマンとチャーチルの提案はヤルタ協定違反である、英米がベルギーやギリシャで自分ちの望む政府を創設した時、ソ連は何も文句もつけなかった、ソ連の安全保障にとって重要なポーランドにおいても、同じ取り扱いを要求すると述べた。スターリンの言葉は、トルーマンの言葉と同様に、毒気に満ちた刺々しいものであった、と長谷川氏は解説する。

 4月25日、スティムソンとグローヴィスは大統領に対して、マンハッタン計画に関する最初の本格的な報告を行った。秘密の通路から大統領執務室に通された二人は、恐らく四か月以内に、われわれは一発で一つの都市を完全に破壊することの出来る人類史上もっとも恐ろしい武器を有することになるだろう。この数年間のうちにこの武器を開発することの出来る国はソ連である。現代文明は完全に破壊されるかもしれない。したがって、この武器に関する情報を共有することがアメリカ外交の主要な課題になるであろう、と報告した。さらにスティムソンは、原子力の国際管理は、人類の存続が掛かった問題であるからこそ、これのソ連を参加させることが重要である、したがって、ポーランド問題でソ連といま決裂するのは得策でない、ソ連との対決は、アメリカが原爆の開発に成功した時に初めてなすべきだ、と主張、そのあと、グローヴィスが書いた原爆開発の詳細なスケジュール(8月1日ごろまでに完成)の入った報告書を提出した。大統領は、この時、日本の降伏を勝ち取るための重要なカードを手にした。5月1日、トルーマンは原爆に関するハイレベルの諮問委員会を創設した。しかし、大統領の知らないうちに原爆使用についての重大な決定がなされていた。原爆の標的を選ぶ「目標委員会」がつくられ、この委員会は、広島、東京湾、八幡など18の都市が候補として選ばれていた。そしてグローヴィスは、少なくとも二発の原爆を使用することが必要、一発目は新しい兵器の効果を見せつけるため、二発目はアメリカが大量の原爆を所有しているかもしれないことを示すためだ、と考えた。5月に開かれた目標委員会は、原爆投下の第一候補を京都、そして広島、新潟の順で優先順位の高い候補を決めた。この決定はスティムソンはを驚愕させた。スティムソンが京都を標的から外すことを要求したが、グローヴィスは頑としてこれを拒否、空軍司令官アーノルド将軍迄がグローヴィスを支持した。スティムソンは京都に原爆を投下すれば全世界がアメリカの行動をヒトラーの暴虐と同等であると非難するであろう、とトルーマンに直接訴えた。とルーズベルトはスティムソンを支持し、京都は標的から外された。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
どこのドイツ (ガーゴイル)
2021-01-16 11:28:09
原爆投下を決断したのは本当はジェームズルーズベルトである。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。