世界恐慌後の日本経済躍進時代 2

2015年12月01日 | 歴史を尋ねる
 世界恐慌は1929年(昭和4年10月)に口火が切られ1933年(昭和8年)まで約4年間続き、漸く1934年に至ってひとまず収拾された。その収拾過程で、世界の資本主義経済は、革命的といってよいほどの変容をした、と高橋。
 ①国際自由金本位制度が崩壊して、管理通貨制度がこれに代った。
 ②国際自由貿易原則が破壊されて、ブロック経済体制が支配的傾向となった。
 ③為替相場の引き下げ競争=為替戦争を始めた。
 以上のうち②と③は国際経済を破壊し、第二次世界大戦を培う結果になったので、戦後はこれを克服するため、アメリカ主導の下に国際通貨基金制(IMF)とガット(関税及び貿易に関する一般協定)とが国連の一翼として、国際協約の形で生まれた。

 世界恐慌は三つの波を打っていることは既述済み。第一波はニューヨーク株式暴落、第二波は中欧の金融恐慌、第三波は米国金融恐慌。このうち第二波の打撃が最も激烈かつ深刻で、物価暴落が最も甚大な時期であった。当時の国際商品価格の暴落率は最低約6割、最高約9割であった。しかも短期ではなく、前後4カ年続いた。日本は昭和6年12月新たに誕生した犬養内閣で金再禁止を断行、5月の五・一五事件前後から円為替が暴落したので、これが防波堤となって、世界恐慌最悪期における国際物価暴落の被害は、免れることが出来た。因みに、円為替の平価に対する暴落は、ドル対比41%、ポンド対比35%に下がった。
 日本経済が第二波を免れたということは、日本経済の立ち直りが世界中で最も早く、かつ力強いものとなった要因となったが、これをもたらした金再禁止後の推移は、政府の自主的施策の基づくよりも、満州事変~五・一五事件という、一連の軍部ファッショの財政膨張強要の僥倖的結果であった。この時も政策論争が沸騰した。当時各国は、恐慌克服対策として物価回復に重点を置き、その対策として、①金利の思い切った引下げ、②財政的にはリフレーション政策を採用し、公債発行による景気回復政策を大規模にとる、③さらに為替相場の意図的引下げ政策を採った。しかし、日本の財政当局は、金再禁止を断行したが、当初は以上のいずれの政策についても、進めることを渋っていた。高橋ら民間エコノミストは、そうした政策を積極的意図をもって計画的に実施すべきことを主張したようだ。

 この間に、満州事変の意外な拡大―軍事費の予想外の拡大―五・一五事件を契機に経済政策はリフレ政策に転じ、農村匡救予算の拡大などによって、財政のリフレーション(マクロ経済政策(金融政策や財政政策)を通じて有効需要を創出することで景気の回復をはかり、他方ではデフレから脱却しつつ高いインフレーションの発生を防止しようとする政策)化が進行し、かつ、円為替相場は軍事費予算の膨張(政府が軍部の抑制不足)と、国際連盟脱退などから、前途の財政不安から海外の投資思惑が円売り又は対日投資引上げに遭い、円為替は既述の通り二分の一以下に暴落、遂に為替管理を実施して、その安定を図るに至った。以上の結果、日本経済は昭和7年後半から、8、9、10年にかけて、誰もが予想しなかった一大躍進を遂げた。具体的には、①日本の輸出の世界的躍進、②満州国を中心とする日満ブロック経済構想の下での大陸開発(満州、朝鮮)、③軍事予算の膨張を中心とする軍事産業の勃興、の三つが重なり合って現れた。特に軍需品の自給自足目的で、日本の重工業の保護育成を大規模に推進させ、戦後の重化学工業発展の基礎を培う結果になった、と。

 昭和7~10年期に、巨大な財政支出(巨額な公債発行)によく耐えた裏には、特殊な理由があったと高橋は云う。①輸出が一大進展を遂げて、国際収支力を潤沢にしたこと、②輸入物資が暴落して貿易条件が著しく有利であったこと、③昭和4~7年の大不況で国内の設備や労力が遊休にあった、かつ、米その他の農産物が過剰状態にあった。従って遊休設備や労力や、過剰物資をフルに活用しきる段階まで、財政の膨張は好影響を及ぼし、物価や国際収支に悪影響を与えずに済んだ。
 しかし、日本の輸出が世界市場で躍進的に進展すると、恐慌の疲弊に悩む各国、特に英国の競争企業を大きく圧迫し、各国で日本品圧迫の大運動が野火のように拡がった。当初英国を中心に不公正競争だと非難し始めた。パンフの太平洋調査会会議でイギリス委員と論争し、そうでないことを論証したが、今度は個々の企業がダンピングをしていないが、国民経済として、過度の低賃金と円為替暴落の両面から損をして投売りしているとして、ソーシャル・ダンピング又は「世界産業平和の敵」だと非難し始めた。日本はこの日貨排撃の対応を迫られた。

 

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