「日本経済を殲滅せよ」(Bankrupting the enemy)は、アメリカの対日戦争計画を描いて数々の賞を得た「オレンジ計画」の著書、エドワード・ミラーの第二作である。前作が第二次大戦に至るアメリカの軍事戦略であったが、本書は同じ対日戦略でも、金融・経済面に絞り、結果的に日本を対米開戦へと追い詰めていったアメリカの緻密な戦略とその根拠を詳細に描いてる。本文は詳細過ぎて、かえって全体の道筋が見えにくなっていたので、訳者金子宣子氏のあとがきで、簡潔に振り返っておきたい。
ミラーは、日本の中国侵攻(盧溝橋事件)を受けて、フランクリン・ローズベルト大統領が1937年10月に行った「隔離演説」から説き起こす。侵略行為の蔓延を阻止するために、日独伊等の好戦的な独裁国家を「隔離」すべきというものだ。さらに同年12月、日本の爆撃機が揚子江上のアメリカの砲艦を撃沈させた「バネー号事件」が起こり、これに激昂した大統領は、アメリカがもつ金融パワーを行使できないかと考える。ここで浮上したのが第一次大戦時に成立した「対敵通商法」で、この中の一項が大戦後も生き残り、敵国か否かを問わず、外国が所有する在米資産を凍結する権限を大統領がもつことが判明した。当時アメリカは孤立主義が優勢だったことから、結局、この時は金融という武器は行使されなかった。だが、41年7月、日本が南部仏印進駐を決定した時、ついにローズベルトは在米日本資産の凍結措置に踏み切る。これに、イギリス、オランダも同調し、それまで日本が戦費用に貯め込んできた在外ドル資産は使用不能となり、すでにアメリカから輸出許可を得ていた輸出についても、代金の支払いがままならなくなった。すでにブロック経済下に入っていた世界では、事実上、日本の決済手段はドルのみとなる中で、手持ちの金を米財務省に売却してドルを得るという方法も封じられ、もはや軍需物資を交易で手に入れる道は塞がれた。これに石油の全面禁輸が追い打ちをかけ、対米交渉も行き詰まり、ついに日本は真珠湾に向かう。
アメリカの対日経済制裁は、金融面ばかりではない。1938年7月、日本の中国空爆に対応して、輸出業者に航空機の輸出自粛を求める「道義的禁輸」を実施。翌39年には日米通商航海条約の廃棄を決定(40年1月失効)。続いて12月には「道義的禁輸」の品目を追加する。すでにヨーロッパでは、39年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対し、英仏両国が宣戦を布告して大戦が始まった。中立を維持していたアメリカだったが、パリの陥落に衝撃を受け、輸出許可制を導入し、40年7月、二度にわたって各種の軍事物資を対象品目として発表した。一方、日本は40年9月に北部仏印に進駐、同月、日独伊三国同盟を締結する。これに対してアメリカは、10月に屑鉄の対日禁輸、12月には鉱石、板金、鉄管など、あらゆる種類の鉄と鋼鉄を禁輸とした。やがて41年の半ばまでには、戦略物資の対日輸出は、非航空用燃料油を除き、ほぼすべての品目に対する輸出許可が下りなくなった。厳しく締め上げられた日本経済の息の根を止めたのが、「対敵通商法」の発動と金融制裁、そして石油の全面禁輸だった。
開戦までの流れは以上であるが、ミラー氏は貿易立国日本の実状と、アメリカの貿易に頼らざるを得なかった事情、アナリストが予測した日本の破産の日、その予測が外れる秘匿ドル資金、さらに経済戦争をめぐるアメリカ省庁間の暗闘、日本のアキレス腱を調べ上げた「脆弱性の研究」等々が事細かく紹介されている。中でも金子氏が注目するのは、権力の座を狙い、自分の属する省庁の権力拡大を図って範囲を超えて提言を積極的に行う若手・中堅官僚の群像(メンバー)だった、強烈な印象を残すのは、ディーン・アチソンだ、と。第一次ローズベルト政権で財務次官を任じられたものの、通貨政策の対立から六カ月で辞職するが、1941年、今度は国務次官補として再び政権に呼び戻された人物。コーデル・ハル長官に象徴される穏健派の国務省の中で、アチソンは強硬派のモーゲンソー財務長官と手を組み、本来は日本の侵略行為を阻むためとされた金融凍結案を強硬に推進し、その運用を通じて日本を締め上げる。ミラー氏はこのアチソンこそ、日本を戦争へと駆り立てた元凶と見ていると、金子氏は見る。尚、モーゲンソー財務長官の右腕で、通貨調査局長という肩書を与えられたハリー・デクスター・ホワイトが登場するが、ホワイトは補佐官にヴァージニアス・フランク・コーを選び、大戦後、コーは、IMF(国際通貨基金)の創設を主導したホワイトの後を追う様に、IMFに移るが、ソ連のスパイだったとの疑惑が浮上し、IMFを去っている。また、財務長官首席補佐官でもあったホワイト自身もスパイ疑惑を受け、1948年、非米活動委員会に召喚されて出席後、心臓発作で死亡した。原文の注記には、元KGB局員のパブロフによれば、ホワイトに接触し、日本を対米戦争へ引き込む行動を起こすよう促したという。だが、ミラー氏は資産凍結措置がソ連の影響によるものとする証拠はないとも云っている。
様々な人物が登場する中で、次第に浮き彫りになってくるのは、ローズベルトの老獪さではないか、金子宣子氏はこう述べる。ヨーロッパでの戦争が進展する中で、ローズベルトは、多くの人材を登用し、次々と新組織や委員会を創設した。ローズベルトは意図的に利害が相反し、役割が重視する組織を林立させ、同じ組織内にも意見の対立する者を配し、競わせる中で、最終的な決定権を自らの掌中に収めていった。明確な方針も示さず、ある者の意見を採用したかと思えば、別の意見に乗り換える。こうした柔軟とも言える姿勢を保ちながら、自ら選んだ時期に、自らの意図した方向へと舵を切る。しかも、ローズベルトは世論の動向を常に注視し、ラジオで「炉辺談話」等を通じて民衆の心を動かす術にも長けていた。秘かに参戦を望んでいたローズベルトは、真珠湾攻撃を事前に知りながら、敢えて奇襲攻撃を受けたとする説もあるが、仮に事実であっても、ローズベルトが尻尾を掴まれるような痕跡を残すはずがない、と金子氏。そして、ミラー氏は想像や憶測でストーリーを組み立てることはなく、事実のみを提示するストイックに貫く姿勢だった、と。
ミラーは、日本の中国侵攻(盧溝橋事件)を受けて、フランクリン・ローズベルト大統領が1937年10月に行った「隔離演説」から説き起こす。侵略行為の蔓延を阻止するために、日独伊等の好戦的な独裁国家を「隔離」すべきというものだ。さらに同年12月、日本の爆撃機が揚子江上のアメリカの砲艦を撃沈させた「バネー号事件」が起こり、これに激昂した大統領は、アメリカがもつ金融パワーを行使できないかと考える。ここで浮上したのが第一次大戦時に成立した「対敵通商法」で、この中の一項が大戦後も生き残り、敵国か否かを問わず、外国が所有する在米資産を凍結する権限を大統領がもつことが判明した。当時アメリカは孤立主義が優勢だったことから、結局、この時は金融という武器は行使されなかった。だが、41年7月、日本が南部仏印進駐を決定した時、ついにローズベルトは在米日本資産の凍結措置に踏み切る。これに、イギリス、オランダも同調し、それまで日本が戦費用に貯め込んできた在外ドル資産は使用不能となり、すでにアメリカから輸出許可を得ていた輸出についても、代金の支払いがままならなくなった。すでにブロック経済下に入っていた世界では、事実上、日本の決済手段はドルのみとなる中で、手持ちの金を米財務省に売却してドルを得るという方法も封じられ、もはや軍需物資を交易で手に入れる道は塞がれた。これに石油の全面禁輸が追い打ちをかけ、対米交渉も行き詰まり、ついに日本は真珠湾に向かう。
アメリカの対日経済制裁は、金融面ばかりではない。1938年7月、日本の中国空爆に対応して、輸出業者に航空機の輸出自粛を求める「道義的禁輸」を実施。翌39年には日米通商航海条約の廃棄を決定(40年1月失効)。続いて12月には「道義的禁輸」の品目を追加する。すでにヨーロッパでは、39年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対し、英仏両国が宣戦を布告して大戦が始まった。中立を維持していたアメリカだったが、パリの陥落に衝撃を受け、輸出許可制を導入し、40年7月、二度にわたって各種の軍事物資を対象品目として発表した。一方、日本は40年9月に北部仏印に進駐、同月、日独伊三国同盟を締結する。これに対してアメリカは、10月に屑鉄の対日禁輸、12月には鉱石、板金、鉄管など、あらゆる種類の鉄と鋼鉄を禁輸とした。やがて41年の半ばまでには、戦略物資の対日輸出は、非航空用燃料油を除き、ほぼすべての品目に対する輸出許可が下りなくなった。厳しく締め上げられた日本経済の息の根を止めたのが、「対敵通商法」の発動と金融制裁、そして石油の全面禁輸だった。
開戦までの流れは以上であるが、ミラー氏は貿易立国日本の実状と、アメリカの貿易に頼らざるを得なかった事情、アナリストが予測した日本の破産の日、その予測が外れる秘匿ドル資金、さらに経済戦争をめぐるアメリカ省庁間の暗闘、日本のアキレス腱を調べ上げた「脆弱性の研究」等々が事細かく紹介されている。中でも金子氏が注目するのは、権力の座を狙い、自分の属する省庁の権力拡大を図って範囲を超えて提言を積極的に行う若手・中堅官僚の群像(メンバー)だった、強烈な印象を残すのは、ディーン・アチソンだ、と。第一次ローズベルト政権で財務次官を任じられたものの、通貨政策の対立から六カ月で辞職するが、1941年、今度は国務次官補として再び政権に呼び戻された人物。コーデル・ハル長官に象徴される穏健派の国務省の中で、アチソンは強硬派のモーゲンソー財務長官と手を組み、本来は日本の侵略行為を阻むためとされた金融凍結案を強硬に推進し、その運用を通じて日本を締め上げる。ミラー氏はこのアチソンこそ、日本を戦争へと駆り立てた元凶と見ていると、金子氏は見る。尚、モーゲンソー財務長官の右腕で、通貨調査局長という肩書を与えられたハリー・デクスター・ホワイトが登場するが、ホワイトは補佐官にヴァージニアス・フランク・コーを選び、大戦後、コーは、IMF(国際通貨基金)の創設を主導したホワイトの後を追う様に、IMFに移るが、ソ連のスパイだったとの疑惑が浮上し、IMFを去っている。また、財務長官首席補佐官でもあったホワイト自身もスパイ疑惑を受け、1948年、非米活動委員会に召喚されて出席後、心臓発作で死亡した。原文の注記には、元KGB局員のパブロフによれば、ホワイトに接触し、日本を対米戦争へ引き込む行動を起こすよう促したという。だが、ミラー氏は資産凍結措置がソ連の影響によるものとする証拠はないとも云っている。
様々な人物が登場する中で、次第に浮き彫りになってくるのは、ローズベルトの老獪さではないか、金子宣子氏はこう述べる。ヨーロッパでの戦争が進展する中で、ローズベルトは、多くの人材を登用し、次々と新組織や委員会を創設した。ローズベルトは意図的に利害が相反し、役割が重視する組織を林立させ、同じ組織内にも意見の対立する者を配し、競わせる中で、最終的な決定権を自らの掌中に収めていった。明確な方針も示さず、ある者の意見を採用したかと思えば、別の意見に乗り換える。こうした柔軟とも言える姿勢を保ちながら、自ら選んだ時期に、自らの意図した方向へと舵を切る。しかも、ローズベルトは世論の動向を常に注視し、ラジオで「炉辺談話」等を通じて民衆の心を動かす術にも長けていた。秘かに参戦を望んでいたローズベルトは、真珠湾攻撃を事前に知りながら、敢えて奇襲攻撃を受けたとする説もあるが、仮に事実であっても、ローズベルトが尻尾を掴まれるような痕跡を残すはずがない、と金子氏。そして、ミラー氏は想像や憶測でストーリーを組み立てることはなく、事実のみを提示するストイックに貫く姿勢だった、と。