ローズベルトの老獪さ (Bankrupting theEnemy)

2017年10月27日 | 歴史を尋ねる
 「日本経済を殲滅せよ」(Bankrupting the enemy)は、アメリカの対日戦争計画を描いて数々の賞を得た「オレンジ計画」の著書、エドワード・ミラーの第二作である。前作が第二次大戦に至るアメリカの軍事戦略であったが、本書は同じ対日戦略でも、金融・経済面に絞り、結果的に日本を対米開戦へと追い詰めていったアメリカの緻密な戦略とその根拠を詳細に描いてる。本文は詳細過ぎて、かえって全体の道筋が見えにくなっていたので、訳者金子宣子氏のあとがきで、簡潔に振り返っておきたい。
 ミラーは、日本の中国侵攻(盧溝橋事件)を受けて、フランクリン・ローズベルト大統領が1937年10月に行った「隔離演説」から説き起こす。侵略行為の蔓延を阻止するために、日独伊等の好戦的な独裁国家を「隔離」すべきというものだ。さらに同年12月、日本の爆撃機が揚子江上のアメリカの砲艦を撃沈させた「バネー号事件」が起こり、これに激昂した大統領は、アメリカがもつ金融パワーを行使できないかと考える。ここで浮上したのが第一次大戦時に成立した「対敵通商法」で、この中の一項が大戦後も生き残り、敵国か否かを問わず、外国が所有する在米資産を凍結する権限を大統領がもつことが判明した。当時アメリカは孤立主義が優勢だったことから、結局、この時は金融という武器は行使されなかった。だが、41年7月、日本が南部仏印進駐を決定した時、ついにローズベルトは在米日本資産の凍結措置に踏み切る。これに、イギリス、オランダも同調し、それまで日本が戦費用に貯め込んできた在外ドル資産は使用不能となり、すでにアメリカから輸出許可を得ていた輸出についても、代金の支払いがままならなくなった。すでにブロック経済下に入っていた世界では、事実上、日本の決済手段はドルのみとなる中で、手持ちの金を米財務省に売却してドルを得るという方法も封じられ、もはや軍需物資を交易で手に入れる道は塞がれた。これに石油の全面禁輸が追い打ちをかけ、対米交渉も行き詰まり、ついに日本は真珠湾に向かう。

 アメリカの対日経済制裁は、金融面ばかりではない。1938年7月、日本の中国空爆に対応して、輸出業者に航空機の輸出自粛を求める「道義的禁輸」を実施。翌39年には日米通商航海条約の廃棄を決定(40年1月失効)。続いて12月には「道義的禁輸」の品目を追加する。すでにヨーロッパでは、39年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対し、英仏両国が宣戦を布告して大戦が始まった。中立を維持していたアメリカだったが、パリの陥落に衝撃を受け、輸出許可制を導入し、40年7月、二度にわたって各種の軍事物資を対象品目として発表した。一方、日本は40年9月に北部仏印に進駐、同月、日独伊三国同盟を締結する。これに対してアメリカは、10月に屑鉄の対日禁輸、12月には鉱石、板金、鉄管など、あらゆる種類の鉄と鋼鉄を禁輸とした。やがて41年の半ばまでには、戦略物資の対日輸出は、非航空用燃料油を除き、ほぼすべての品目に対する輸出許可が下りなくなった。厳しく締め上げられた日本経済の息の根を止めたのが、「対敵通商法」の発動と金融制裁、そして石油の全面禁輸だった。

 開戦までの流れは以上であるが、ミラー氏は貿易立国日本の実状と、アメリカの貿易に頼らざるを得なかった事情、アナリストが予測した日本の破産の日、その予測が外れる秘匿ドル資金、さらに経済戦争をめぐるアメリカ省庁間の暗闘、日本のアキレス腱を調べ上げた「脆弱性の研究」等々が事細かく紹介されている。中でも金子氏が注目するのは、権力の座を狙い、自分の属する省庁の権力拡大を図って範囲を超えて提言を積極的に行う若手・中堅官僚の群像(メンバー)だった、強烈な印象を残すのは、ディーン・アチソンだ、と。第一次ローズベルト政権で財務次官を任じられたものの、通貨政策の対立から六カ月で辞職するが、1941年、今度は国務次官補として再び政権に呼び戻された人物。コーデル・ハル長官に象徴される穏健派の国務省の中で、アチソンは強硬派のモーゲンソー財務長官と手を組み、本来は日本の侵略行為を阻むためとされた金融凍結案を強硬に推進し、その運用を通じて日本を締め上げる。ミラー氏はこのアチソンこそ、日本を戦争へと駆り立てた元凶と見ていると、金子氏は見る。尚、モーゲンソー財務長官の右腕で、通貨調査局長という肩書を与えられたハリー・デクスター・ホワイトが登場するが、ホワイトは補佐官にヴァージニアス・フランク・コーを選び、大戦後、コーは、IMF(国際通貨基金)の創設を主導したホワイトの後を追う様に、IMFに移るが、ソ連のスパイだったとの疑惑が浮上し、IMFを去っている。また、財務長官首席補佐官でもあったホワイト自身もスパイ疑惑を受け、1948年、非米活動委員会に召喚されて出席後、心臓発作で死亡した。原文の注記には、元KGB局員のパブロフによれば、ホワイトに接触し、日本を対米戦争へ引き込む行動を起こすよう促したという。だが、ミラー氏は資産凍結措置がソ連の影響によるものとする証拠はないとも云っている。

 様々な人物が登場する中で、次第に浮き彫りになってくるのは、ローズベルトの老獪さではないか、金子宣子氏はこう述べる。ヨーロッパでの戦争が進展する中で、ローズベルトは、多くの人材を登用し、次々と新組織や委員会を創設した。ローズベルトは意図的に利害が相反し、役割が重視する組織を林立させ、同じ組織内にも意見の対立する者を配し、競わせる中で、最終的な決定権を自らの掌中に収めていった。明確な方針も示さず、ある者の意見を採用したかと思えば、別の意見に乗り換える。こうした柔軟とも言える姿勢を保ちながら、自ら選んだ時期に、自らの意図した方向へと舵を切る。しかも、ローズベルトは世論の動向を常に注視し、ラジオで「炉辺談話」等を通じて民衆の心を動かす術にも長けていた。秘かに参戦を望んでいたローズベルトは、真珠湾攻撃を事前に知りながら、敢えて奇襲攻撃を受けたとする説もあるが、仮に事実であっても、ローズベルトが尻尾を掴まれるような痕跡を残すはずがない、と金子氏。そして、ミラー氏は想像や憶測でストーリーを組み立てることはなく、事実のみを提示するストイックに貫く姿勢だった、と。
 

金融凍結へ1941年5月~7月(Bankrupting the Enemy)

2017年10月24日 | 歴史を尋ねる
 1940年の夏、日本の秘匿ドル資金が発見されて以来、ワシントン周辺から、日本がニューヨークの銀行口座から大量の資金を持ち出しているという噂が広がった。日本はアメリカの金融凍結を予期して、横浜正金ニューヨーク支店がブラジル銀行にドル口座を開き、5百万ドルを振り替えた。この時、法律に定められた資金振替の報告を行っていなかったため、アメリカ当局は資金の流れを掴めなかった。日本がドルを急いで送金したのは、アメリカから入手が困難になった銅、油、皮革などを中南米から仕入れるためだった。その資金の移転先に、蘭領東インドの中央銀行ジャワ銀行もあった。両者は互いの通貨の円とギルダーの口座を持ち、互いの貿易額を差し引いた額をドルで決済したが、ここでは日本の輸出超過で、日本側の決済はなかった。
 1940年9月、日本が日独伊三国同盟条約を調印すると、日米の関係悪化を解消するため、コーデル・ハル国務長官は野村吉三郎駐米大使との折衝が翌年始まった。ハルの目的は日本を説得してアジア制覇の目論見を捨てさせることであったが、ほとんど進捗はなかった。ドイツがソ連に対する奇襲攻撃「バルバロッサ作戦」を敢行した結果、ソ連の満州攻撃という日本の不安は消えた。日本政府は、諸外国が領有する東南アジアの植民地を占領するという「南進論」に軸足を置いた。攻撃の危険が最も差し迫っていたのは、仏領インドシナだった。1940年8月、日本は仏のヴィシー親独政権に北部仏印の進駐を認めさせた。ハノイと中国を結ぶ雲南鉄道を遮断するためという理由をつけていた。この鉄道は、中国国民党にとっては、外界に繋がる唯一の鉄道路線だった。けれども、1940年当時のアメリカは、まだ日本と衝突する姿勢はとっておらず、ただ抗議を行っただけだった。一方、南部仏印には、中国と結ぶ輸送路がある訳ではなく、シンガポールの英海軍基地を射程に収め、蘭印を脅かすことも出来た。加えてインドシナは、アメリカ産業にとって死活的に重要な錫と生ゴムを提供していた。タイが占領されれば、インドシナも日本の手に落ちる。野村大使は、西側の貿易制限を受けている日本としては、インドシナの米と工業用原料が必要と弁明し、アメリカとの関係はますます悪化した。

 1941年6月下旬、日本の軍事戦略立案者は、南部インドシナの占領を決断した。アメリカ当局は英の諜報機関、日本の外交電信の暗号解読を通じて、この計画を察知した。ローズベルト大統領は極度の不快感を示すため、「経済および金融上の各種妨害措置」を講ずる決断を下した。その翌日から、米英の高官が制裁の方法について議論を交わし、コーデル・ハルもついに同意した。大統領は国務次官サムナー・ウェルズに凍結令草案作成を指示、ウェルズは事務手続規定の草案作りを国務次官補ディーン・アチソンに任せ、スタンレー・ホーンベックには、21の命令書を準備するよう伝えた。日本に輸出する石油の量と等級を制限し、絹糸の輸入を差し止め、さらには最も重要な日本の在米金融資産凍結を行うという内容だった。1941年7月24日、南部仏印のカムラン湾に日本軍が上陸するという情報を得たローズベルトは、早速閣僚を招集した。対抗措置として、ドルの凍結に踏み切り、日本の凍結資産を使用するすべての取引について許可が必要となる。ローズベルトは野村大使との会談で警告を発し、結局は無駄だった。翌日、アチソンは財務省の高官と、石油の輸出について、従来通り、輸出管理局と国務省が機械的に許可を出すが、代金の決済については、凍結された日本の口座から支払わせる。許可証を得た輸出については、国務省と財務省の高官で構成される「外国資産管理委員会」が口座の凍結を解除する。こうして二重の管理システムが誕生した。
 7月25日金曜日、西海岸の移民社会に噂が飛び交い、日本領事館に電話が殺到した。サンフランシスコでは預金者たちが列をなし、横浜正金の地元支店から資金を引き出した。やっと出航許可が出た巨大タンカーは原油と共に慌ただしく出航していった。沖合に浮かぶ定期船は生糸を運んできたものの、燃料不足で帰国できず、船長も途方に暮れている。アメリカの沿岸警備隊は当局の指示を待っていた。ニューヨークでは、横浜正金ニューヨーク支店は一週間で740万ドルの預金を支払った。日本は7月26日の凍結令が正式に出る前に、手持ちのドルの大部分を無事に引き出していた。その額が判明したのは12月7日以降のことで、財務省の試算によれば、日本政府が横浜正金ニューヨーク支店の政府口座から引き出した資産は、同支店保管資産の半分近い額であった。真珠湾攻撃のの時点で残っていたのは、わずか2900万ドルにすぎなかった。当時の日本人の在米資産は総額6120万ドル、総額から債務を差し引いた純資産は5300万ドルだった。凍結を逃れた額は、秘匿していた資金を含めると、1億3千万ドルが逃げ出した可能性がある。たぶん総額の半分以上は、対米貿易赤字の清算に使われたのだろう。残る資金の大部分は、中南米で盛んに買い込んだ物資の代金に使われた可能性が高い。ハリー・デクスター・ホワイトの見方は正しかった。彼はモーゲンソーに、資産凍結の効果を上げるには、即座に実施しなければならない、と。

 1941年7月25日金曜日、ニューヨークと西海岸の金融市場が引けたのち、ローズベルト大統領は大統領令8832号を発令した。この内容は、前年の4月、ヨーロッパ戦線の被害国が所有する在米ドル資産を初めて凍結したものに、凍結資産の対象国に中国と日本、凍結資産の対象は、日本の植民地、日本が占領した満州と中国に拡大された。この大統領令に中国も対象国として加えられたのは、中国国民政府の要請で、日本の不法な侵害から国民政府の資産を保全し、日本が中国の通貨を入手してドルに交換する道を塞ぐためであった。尚、中国国民政府とフィリピンには、凍結解除の許可証が交付された。間もなく、イギリスも大英帝国全体を代表して同様の凍結令を発し、その後、蘭印がこれに追随した。この法令は、あらゆる意味で厳しいものだった。日本の個人、企業、政府が25%以上を保有するすべての資産が凍結された。アメリカの国内銀行であれ外国銀行であれ、いかなる銀行間であっても、日本資産の移転には個々に許可証が求められ、国内、対外を問わず、外国為替・有価証券の取引にも、金・銀・通貨の輸出にも、許可証が必要だった。これに違反した場合、一万ドルの科料と十年間の禁固刑が科せられた。
 7月28日月曜日、ウォール街のビジネスが始まると同時に、瀕死の円は外為市場から完全に消滅した。不振を極めていた日本のドル債は、わずかな取引で大幅に落ち込み、日本の大蔵大臣は債務利払いの継続を発表した。翌日日本の債券決済代理機関の横浜ニューヨーク支店は、期限を迎える公社債の償還や利払いのため、これに充当するドルの凍結解除を連銀に申請、債券価格はわずかながら盛り返した。財務省の監査局は日本の銀行在米支店に監査官を置き、すべての通信は英語使用を命じ、夜間は地下金庫に夜警を配備した。

 凍結令の発令後、アチソンは直ちに今後のタイムテーブルづくりに取り掛かった。草案の内容は、最初の二週間は、凍結された日本資産の解除申請をすべて保留とし、この間アメリカは連合国との調整を行う。外国資産管理委員会は、例えば日本の船舶が母国に帰国するために必要な燃料の購入といった緊急の場合にのみ、解除許可を与える。次の二か月間は試行期間として、輸出入ともにほぼ同額となる限定的な貿易を許可する。許可が与えられるのは、生糸輸入と原綿輸出、割当量レベルの石油輸出、十月半ば以降も貿易継続が望ましいと思われた場合には、何らかの協定が必要。尚、この三段階のどの期間であっても、全体的な方針についての発表は行わないことにした。これはローズベルトが好んだ方式で、常に自由な選択肢を確保し、個別の決定を通じて徐々に自らの意図を明かすことで、相手が対応できないようにするという巧みなやり口だった、とエドワード・ミラー氏。ふむ、このミラー氏の解説は面白い。日本が徐々に戦争の途に進んだプロセス、ついに身動きできなくなった道にも相似する。そしてこの経済制裁、国際法のどの部分でこのような強力な制裁という行為が可能なのか、直接戦争を始めているわけでもないのに、国際連盟の決議があった訳でもないのに。北朝鮮が経済制裁に対して宣戦布告と同じだというメッセージを発するが、日本の軍部もそんな思いもあったかもしれない。
 ローズベルトが1941年7月31日に承認した実施要領は、在日日本資産を無力化しただけでなく、アメリカ以外で日本が所有していた金やドルの使用も実質的に封じることとなった。金は日本の最大のドル源で、日銀には相当の金が保管されていたが、米財務省から売却してドルを得る道は絶たれた。これは「対敵通商法」に基づいていた。しかもアメリカ以外の主要な金市場は世界のどこも機能していなかった。そしてこの凍結が恒久的かつ水も漏らさぬものであるというシグナルを日本に送った。アメリカ政府のファイルは、輸出許可を取得済みの石油の購入費として、その分の凍結解除を懇願する申請書で溢れていた。抜け道を探し続けた疲れ知らずの男としてアチソンが評した井口貞夫参事官と西山勉財務官がいたが、これを巧みにかわしたのは、アチソンを含めた外国資産管理委員会の次官級メンバーと、各省庁から集まった専門家だった。

 ローズベルトとハルは、どうやら外国資産管理委員会の厳格な金融凍結措置に気づいていなかったようだ、とミラー氏。この運用はローズベルトの承認した計画案から逸脱したもので、本来は柔軟性を持たせ、限定的ながら貿易再開をも含めたものだった。歴史家の言葉を借りれば、凍結は日本を正気に戻すためのもので、屈服させるものでもなかった。ハルは安静療養を終えて政務に復帰したが、側近たちはこうした現状に長官の目を向けさせなかった、と。ローズベルトは在米日本資産の無条件凍結を認めたのか否か、諸般の事情で認めざるを得なかったのか、あるいはもともと望んでいた方針だったのか、わずかな記録が散在するのみで、決定的な結論は望めないと、ミラー氏は結論付けている。

敵を破産させよ(Bankrupting the Enemy)

2017年10月21日 | 歴史を尋ねる
 真珠湾攻撃の35年前から、アメリカは日本の経済・金融の基盤が脆いことを見抜いていた。1905年、日本が日露戦争で勝利を得ると、セオドア・ローズベルト大統領は、日本がアメリカの門戸開放政策を踏みにじって中国支配に向かうのではないかと懸念を深め、必要とされる段階で、日本と戦端を開くことを想定した計画立案を海軍に指示した。こうして立案されたオレンジ計画は、その原点も結論も、基本的には経済戦略であった。アメリカの軍事計画の立案者たちは、日本側の戦争目的は限定的なものにすぎず、奇襲攻撃をかけて海戦に勝利し、この結果を受けて和平交渉に入り、東アジアでの支配的立場を一部譲り渡して決着させるという程度のものと見ていたが、一方、アメリカ側の目的は異なり、敵国の徹底的な殲滅だった。大日本帝国は、国民を養う食料は生産できていたが、工業化を進め、植民地の拡大を図るには、大量の金属と燃料が必要だった。こうした状況から、アメリカの計画立案者たちが立てた戦略は包囲戦略だった。当初はいくらか打撃は被るものの、やがて反撃を開始して島々の奪還、敵艦隊を撃沈して日本周辺の基地を占領し、日本の生命線である輸入物資を枯渇させ、ついには降伏へと追い込む、とエドワード・ミラー著(金子宣子訳)「日本経済を殲滅せよ」のプロローグで「オレンジ計画」を語っている。計画は自信に満ちたもので、決定的かつ完璧な通商上の孤立に追い込み、疲弊・消耗させ・ついには経済破綻に陥らせることが出来る、としていた。この包囲戦略は、空軍力の充実と共に、産業施設や輸送設備を標的とする空爆が加わり、オレンジ計画はレインボー計画5に引き継がれ、その主要部分が実際に遂行された、とミラーはいう。しかし、経済、金融の両面で孤立させれば、日本が無力化することは、すでにアメリカ政府が参戦を避けていた時点から自明となっていた。日本の侵略を阻止するという国家政策が定着した頃、艦船と爆弾といった手段とは別に、次第に自らの巨大な経済・金融パワーを行使するようになっていた。平時におけるオレンジ計画の一戦略であった、と。ミラー氏は『オレンジ計画』の著者で数々の賞を得たというから、プロローグでの解説は正しいのだろう。随分早くから周到に計画が考えられていた、ということか。

 ここからは、エドワード・ミラーの著書「日本経済を殲滅せよ(Bankrupting the Enemy)」の本論に入る。1937年7月盧溝橋事件が勃発した。この時アメリカ政府の金融専門家は、日本が長期戦を戦い抜くことは無理と見ていた。戦争遂行に必要な軍事物資を海外で調達するだけのドルを欠いていると考えていた。大日本帝国は、とりわけ鉄、鋼、銅、亜鉛、さらに高強度鋼をつくるための合金元素などの金属類が欠乏していた。また植民地を含め、日本の石油埋蔵量はわずかで、輸入原油を軍用および民間の燃料に精製する設備能力も不十分だった。軍服用のウールや革、建材、化学製品、食物さえも輸入していた。繊維機械は製造していたものの、金属加工用の複雑な工作機械を製造する専門知識も持ち合わせていなかった。第一級の軍艦、航空機、各種の軍需品は生産していたが、旋盤、研削盤、穿孔機、フライス盤、鍛造気などの工作機械は輸入品だった。これほど海外からの供給に頼りながら、果たして長期にわたる戦争を耐え抜くことは出来るのか。円は主要通貨と交換できないソフトカレンシーで、日本の領土以外では、無価値も同然だった。輸出で稼ぎだしたハードカレンシー(例えばドル)を使って輸入品の決済をしていたが、貿易収支は危ういものであった。労働力と各種の資本は戦争に振り向けられていたから、貿易収入は縮小していた。多大の外貨を稼いでいた生糸は贅沢品で、大恐慌を境に、需要も価格も下落した。大々的な輸出攻勢をかけていた綿布は、一部の市場で成功を見たが、綿布一ドル分に原綿五十セントの材料費がかかっていた。新たなレーヨンでさえ、輸入品のパルプと塩を使わねばならなかった。アメリカの経済学者は、日本の貿易収支は赤字に転落する、と予測した。日本の信用状態は低く、海外からの融資は受けにくく、貿易赤字の補填は、金の備蓄や各種のドル資産を取り崩すしかない。資産の流出が続けば、やがて破産国になるだろう。日本との通商を縮小しなくても、日本は金融資産の枯渇から、戦闘行為を終結せざるを得ない。経済学者はそう予測した。当時のアメリカの省庁・機関による破たんの予想期限は、国務省:39年9月、財務省:38年10月、FRB;39年7月。しかし、日本の金融逼迫について、しばしば誤った予測をしたが、これは才能不足からではなく、データ不足からであった。究極の原因はドル資産を日本は秘匿していた。その時初めて、間もなく破産に陥る期待は持てないとして、戦費に回される日本の在外資産の凍結を真剣に考えるようになった。

 軍需品の輸出規制を別にすれば、アメリカ政府は1940年半ばまで、安全保障政策の一環としての貿易管理には、ほとんど関心を払ってこなかった。戦略物資の輸出規制は、当初は国内の戦時体制準備の添え物程度にすぎず、潜在敵国の牽制を目的とした経済戦争の武器として浮上したものではなかった。1940年春、ドイツ軍はノルウェーから北海沿岸三国、ついにはフランスを制圧。6月のフランスの降伏には、アメリカ政府も衝撃を受け、これまで軽視してきた国防の構築に向け、一夜にして、船舶や航空機、銃器などの生産高を調べ、生産工業や造船所の建設を目指した。必需物資の資源の確保、保全、蓄積が必要だった。1940年5月、ローズベルトは戦時経済を先導させるため危機管理局、国防諮問委員会を再構築、活性化させた。フランスの降伏から十日後、議会は国防強化の法案を通過させ、国防関連製品の規制について、大統領に包括的権限を与えた。1940年7月5日、大統領は許可証を必要とする膨大な数の対象品目を発表、26日にはさらに品目を追加した。9月さらなる大統領令が出され、航空燃料の製油所の設計図および設備、航空機およびエンジンの設計・建造に関する技術情報の輸出には許可が必要となった。
 日本が最も憂慮していたのは、鉄鋼生産に必須の屑鉄だった。鉄鋼の生産は平炉法で50%の屑鉄が使われた。新参の日本は、十分な屑鉄を生み出す素地が出来ていなかった。アメリカは唯一の供給元だった。9月26日、屑鉄の輸出許可をイギリスおよび西側諸国向けのみとした。屑鉄の禁輸は日本を苦しめたが、日本も早くから備蓄を指示し、38年鉄鋼製品の配給統制を始めていた。40年になると陸海軍には鉄鋼製品の35%、造船には7%が投ぜられ、公共施設、運輸、鉄道、工場に対する配分は徹底的に削減され、消費財にはわずかな量しか回されなかった。

 1941年春までに、アメリカは国防上の理由から、重要物資についてすべて輸出規制をかけてきた。アメリカの総輸出のうち、輸出許可制の対象となった割合は、1940年12月の25%から、1941年5月には47%に跳ね上がり、金属類の80%、機械類の50%が対象となった。厳しく締め上げられた日本経済には、さらなる試練が待ち受けていた。日本を標的とする「対敵通商法」の発動と金融制裁だった。

脇道 晒されるノーマンの過去

2017年10月19日 | 歴史を尋ねる
 ハーバート・ノーマンについて、日本の知人、友人が書いた文章は、驚くほどの賞讃に満ちているのが特徴と、工藤美代子氏はいう。当時親交の深かった日本人は、都留重人、丸山真男、中野好夫、羽仁五郎、渡辺一夫などの一流の知識人と言われる人々だった。1947年の後半になって、日本のマスコミにノーマンは何度か登場した。長野市で父親の追悼式に出席して、「封建制下の人民」を日本語で記念講演、東京新聞でインタビュー記事、時事新報ではノーマンの業績を大窪氏が紹介している。インタビュー記事は「かってなき輝かしい好機来る」という見出しで、封建制度の圧政により、日本人は虐げられて来たが、今や民主主義的でヒューマニスティックな文化を独創的に発展せしめる好機に恵まれている。これらは先天的に存在したものであり、ただ社会的、政治的圧政の支配によって破砕され抑圧されていたものだから。日本が進む道として、不正に対する消極的な習慣を改めれば、と。ふーむ、ここでも戦前を反省する人々と反省しないで済む人々と分かれている。いずれにしろ、この時代に日本に駐在した多くの戦勝国の人々の発想でもあった、と工藤氏。

 ノーマンの仕事ぶりで1947年5月、カナダ本省宛に送った報告書を工藤氏が紹介している。
 マッカーサー元帥と天皇の会見で、天皇が日本の将来の防衛について質問した、日本の新憲法九条によると、日本は陸、海、空軍を絶対維持してはならないので、国家の安全について不安を感じるというと、マッカーサー元帥は、不安を感じる必要はない、日本のどんな攻撃も、アメリカ合衆国の一部であるのと同じほどの信念で、防衛するつもりだから安心してほしいとの返答があったようだ。しかし本来なら会見内容は絶対公開してはならない決まり。ところが、天皇の通訳が記者団に詰め寄られ、オフレコの約束で内容を喋った。それを聞いた読売の記者がアメリカの記者に気軽に伝えた。あっという間にアメリカの新聞、ラジオに流れた。マッカーサーは直ちに報道が間違っているとの声明を出した。このニュースは日本では報道規制で、何も知らない。この年の5月3日、新憲法は施工されたばかり、天皇がどのような気持ちを抱いていたか、その一端が見える質問だった。ノーマンは日本のジャーナリストや外務省の人々から、直接入手した情報をまとめたのであった。
 
 当時のGHQ内部は、熾烈な勢力争いがあった。日本占領の当初から、民主化・自由化路線を推進しようとする民政局(GS,局長はコートニー・ホイットニー准将)と保守・反共路線で固めようとする特別参謀局の第二部(G2,部長は占領軍のジョー・マッカーシーのあだ名を持つチャールズ・ウィロビー准将)との激しい対立があった。民政局には太平洋問題調査会でのかっての同僚たちもいたので、当然、思想的にも人的関係でも民政局側に属していた。ノーマンが日本に赴任して最初にはG2を通して仕事をしていたが、知人や友人のいる外交局を通して仕事をする方が都合がよいことを発見した、と。この頃、G2部長のウィロビーは、すでに民政局のホイットニーやマッカーサーに対して、日本にコミュニストのジャーナリストが入り込んでおり、GHQ内部にもいるとの報告書を提出していた。ウィロビーが挙げたジャーナリストの名前4人と、ノーマンはすべて親しかった。その他にもウィロビーは民政局の左翼がかった職員が吉田内閣打倒のため工作し、コミュニストの台頭をはかったと主張したが、決定的な証拠を挙げるには至らなかった。

 1948年1月、ロイヤル米陸軍長官は「日本は共産主義への防壁」と演説し、冷戦期に入ったアメリカは、この時期、対日占領政策を変える方向にあった。従来は民主化・自由化政策を推し進める方針であったが、次第に日本の経済復興を計り、保守・反共路線を固める政策へと転換していった。それにともない、もともと対立していた民政局(GS)のホイットニーと特別参謀第二部(G2)のウィロビーとの反目は激しくなった。ノーマンの1948年早々の仕事はGSのソープ准将の要請により皇室改革の資料面で協力することであった。その5か月後、天皇が退位するのではないかとの噂が浮上した。退位の噂は三回目であったが、週刊朝日に載った三人に鼎談が発祥地であった。記事によると、最高裁長官の三淵忠彦が、天皇が戦争の道義的責任を取って、責めを受ける詔勅を出し、退位したならば、どんなに良い教訓になっただろうと語った。その後報道陣のインタビューに答えて、三淵長官は同様の趣旨を述べたので、たちまち日本で発行されている英字新聞に載り、世界のマスコミを駆け巡った。ノーマンは久しぶりにマッカーサーと会見、様々な問題を話し合ったが、天皇の退位問題も含まれていた。ノーマンの報告書によると、マッカーサーが天皇の退位に徹頭徹尾反対で、義務としてその地位にとどまることを要求した。ノーマンはもともと天皇制に反対で、特に日本の皇室の時代錯誤的な言動を苦々しく感じていたが、占領も三年目を迎えて、ノーマンの天皇についての理解も、観念的なものから次第に現実的なものへと変わっていったようである、と工藤氏は推測する。彼の本国への報告書に「天皇は日本のシンボル」であり、日本人はそれを必要としていた、と。これ以後ノーマンはこの事件を通して天皇の位置づけを彼なりに完了した、と。この時ノーマンは39歳であった。

 1949年2月、「極東における国際スパイ事件」と題されたウィロビー・レポートがワシントンの陸軍省から発表された。これは1933年来日、ソ連のスパイとして活動し、1941年に検挙され、44年11月処刑されたリヒァルト・ゾルゲとその一味について、G2がまとめた報告書であった。なぜ死後4年以上たってから、その報告書が公表されたのか、ウィロビーは自著で、今なおあちこちで暗躍している共産スパイに有効に対抗するためであると同時に、共産主義に同情を示すアメリカ人に警告をするためだった、と。ウィロビーによると、ゾルゲ事件の残党はまだ日本にいて活動を行っている、それをG2が監視していたという。

 ノーマンの名前が公共の場で共産主義との関連で引き合いに出されたのは1950年4月、カナダ公文書館で解禁になったノーマン関連文書を工藤氏は整理する。
 RCMP(カナダ連邦騎馬警察)の文書:上院議員ジョセフ・マッカーシーは、アメリカ国務省内部の東洋専門家に多数の共産主義者およびシンパがいると発言し、公開公聴会を開いた。俗にいう「マッカーシーの赤狩り」。この時最大のターゲットがノーマンの古くからの友人オーウェン・ラティモア。この時ノーマンの名前が言及された。さっそくワシントン駐カナダ大使が本省に報告、本省から東京のノーマンにも報告書が送られた。工藤氏が踏み込んで分析するところによると、反共主義者のアメリカ人は、すでにノーマンを攻撃対象の一人として定め、共産主義者とそのシンパはソ連側のスパイという、理論が成立していた。この頃、東京の占領軍情報部のエージェントが、ノーマンのケースを立証しようと働いていた。ノーマンはこの3月に帰国予定であったが、朝鮮戦争の勃発で帰国が延期されていた。10月、カナダ外務省は帰国するよう命令を出した。到着のわずか三日後、早々とカナダ外務省による尋問が行われた。
 同僚からの尋問を受けた際、ノーマンは共産党員であったことは一度もないと答えている。しかし実際には兄ハワード宛の手紙に、ケンブリッジ時代、入党したと書いていた。当時、党員イコールソ連のスパイと考えられていた時代、党員であったと告白するのは勇気を必要とする、と工藤氏。自分の過去は消せない以上、はじめから告白した方がノーマンに有利ではなかったか、と。RCMPは11月外務省に中間報告している。その中に、ノーマンのオープンな人柄はロシア人に、情報を得られるのではないかと思わせがちだし、彼と妻はあまりにナイーヴで、他人を疑うことを知らず、どんな人もそのまま受け入れたのではないかと記していた。配慮が足りないという点では工藤氏も同意している。ノーマンは体制側に身を置く外交官である。それにしては、余りに多くの、反体制または共産主義者との交友があった。ノーマン自身も、IPR関係や左翼的思想を持つ人々の間にいた方が居心地が良かったという面もあっただろう、と。

 12月カナダ外務省はRCMPに礼状を書くと共に、ノーマンをアメリカ極東部長の職に任命した。外務省は嫌疑が晴れ次第、職場復帰をさせようとした。しかしアメリカ側は爆弾を爆発させた。5月イギリス外務省の職員二人がソ連に亡命し、彼らがソ連のスパイであったことが暴露された。そこへノーマンと二人の亡命者を関連付ける手紙が送られてきた。8月になってアメリカが聴聞会でノーマンの名前を持ち出した。ウィットフォーゲルがアメリカ上院司法委員会で1938年の夏、ノーマンが共産主義の学習グループに属し、共産主義者であったと証言した。一夜にしてこのニュースはセンセーションを巻き起こした。この時カナダのマスコミはこぞってアメリカを非難し外務省も信頼すべき貴重な職員とコメントを出している。しかしカナダ側の猛烈な抗議も、余り効果はなかった。かつて国務省の知日派であるドゥーマンが証言に立ち、1945年、共産党のリーダーであった志賀と徳田を釈放し、家にまで連れて帰ったと語った。その効果はと問われ、十万人の日本共産党員を増やす効果があったと答えている。たとえ荒唐無稽の推測でも、かつて日本駐在公使で知日派と目されたドゥーマンの証言である以上、その影響力は大きかった。この後、ノーマンはこの点について何度も釈明せざるを得なかった。その後の経過については、工藤氏の著書によることとし、ノーマンは翌年2月ニュージーランド駐在の高等弁務官(大使と同格)、1956年4月エジプト大使兼レバノン公使に正式任命され、8月にカイロに到着した。1957年3月頃カイロで外交官として自信をつけ始めたノーマンは4月4日、公邸を出て、エレベーターでスウェーデン大使の住居のある最上階まで上り、屋上から身を投じ、47年の生涯を閉じた。

脇道 ハーバート・ノーマンの日本研究

2017年10月14日 | 歴史を尋ねる
 1940年5月、ノーマンは博士号を取得し、その直後に語学官として日本に赴任した。時に三十歳、青年時代に二年間、結核のため学業を休んだブランクがあったが驚くべきスピードで博士号までの道程を歩んだ。しかも、博士論文は、IPR(太平洋問題調査会)より出版が決まり、1940年2月に刊行された。このノーマンの初めての著書である「日本における近代国家の成立」は、発刊と同時に大きな反響を呼び、歴史学者としてのノーマンの名声を不動のものにした。弱冠30歳の新進学者が、日本語資料を自由に読みこなし、その上に、西洋史の豊かな知識も備え、日本の近代国家成立に至る過程を、明治期までさかのぼって綿密に、しかも体系立てて分析している。その意味で、同書が当時の欧米の日本関係者に与えた影響の大きさは、計り知れないものがあった、と工藤美代子氏。同時代のエドウィン・ライシャワーは、ノーマンの初めての著書を、おそらくは戦中、戦後のアメリカや西側諸国の日本に対する政策を決定する上で、最も影響を与えた学術書であろうといった内容の記述をしている。それは、同書が執筆された事情が、IPR(太平洋問題調査会)の調査の一環として、日本の中国大陸進出にどう対処するかを分析・検討するのが目的であったことと無関係ではない、と。状況を素直に読み取れば、当時日本の事情に精通した人は極めて少なかった、日本文献を読みこなせる人がいなかった、その中で、ノーマンは日本に生まれ育ったことから、貴重な存在だったのではないか。記述内容の適否までの要求水準は出来兼ねたのではないか、「表面的な分析にとどまらず、日本人の深層心理を歴史の中で解明しようとしたノーマンの論文」と工藤氏がコメントしているように、アメリカ、カナダでは貴重な文献だったのだろう。

 ライシャワーが最も影響を与えた学術書と称賛される「日本における近代国家の成立」をちょっと覗いてみたい。訳出は大窪愿愿二氏による。『徳川封建制の上からの打倒は、人民、とくに農民および都市貧民が下からの行動によって反封建運動を展開する叛乱の企てを制止することを可能にした。徳川封建支配の崩れかかった堡塁が維新戦争(1867-68年)の嵐に襲われ、その後数年間にもろもろの封建的特権に側面攻撃が加えられてからは、新政府は旧制度の復活を阻止しようとする要求にたいすると同様に、もはや下からの要求に対しても断乎として抑圧する立場をとるようになった。この政策を遂行するためには、強力な国家機構、すなわち警察力と軍事力を自由に行使しうる中央集権政府がぜひとも必要となった。この必要こそは明治政府を特徴づける開明的絶対主義の原動力であった。』
 記述された内容は、われわれ日本人にはちょっとついていけない生活感のない日本の歴史であるが、もう一つはノーマンがマルクス主義者になっていた事の証左であろう。

 ノーマンが日本へ行くのと入れ違いに、両親が日本を去り、カナダに帰った。宣教師を引退した後日本に残っていたダニエル・ノーマン夫妻がカナダに引き揚げたのは、日本が外国人に住み難い世相になったためだった。一方ノーマンは、カナダ公使館の語学官とはいうものの、学生気分も抜けていなかったか、軽井沢で再会した旧知の羽仁五郎に頼み、岩波書店から出版された「岩波講座・日本の歴史」の明治維新をマンツーマンで教えを請うこともあった。そして12月8日、太平洋戦争が勃発するとカナダ公使館に抑留され、翌1942年7月、交換船で離日した。

 1945年を迎え、連合国側にとって日本の敗戦は時間の問題であった。この時期、様々な形でアメリカからノーマンへの働き掛けがあった。まず1月に、カナダの外務大臣が、戦争中にノーマンが発表した六点の論文をアメリカ側に手渡している。この時期アメリカヴァージニア州で開催された第9回IPR会議に、ノーマンはカナダ代表団員として出席、「日本政治の封建的背景」をデータ・ペーパーとして提出。この会議は敗戦後の日本についての活発な議論も行われ、それまでIPRが主催した国際会議の中で最も影響力の大きな会議の一つとなった。米・英・中・加・仏・仏印・蘭・蘭印・豪・ニュージーランド・フィリピン・朝鮮・タイ・インドからの代表が出席、日本の将来についての円卓では、天皇制や財閥、日本の再軍備阻止の方途を巡って激論があった。戦後の東アジアに『強い中国』を建設し、日本には徹底した改革を求める中国派と、逆に対日宥和的な立場をとる日本派の対立があった。日本派の人々としては。前駐日大使ジョセフ・グルーや極東局長補佐官のユージン・ドーマンら。中国派はオーエン・ラティモア(元蒋介石顧問、米戦争情報局極東局長)らで、ノーマンはこちらに近かったと工藤氏。
 終戦後、東京入りしたノーマンは彼の日本語、能力、専門知識はアメリカ軍にとって貴重であったから、必要に応じて協力を求められ、これがきっかけとなって、連合国占領軍司令部(GHQ)が正式に開設されたとき、対敵諜報部調査分析課長に任命された。日本の民主化を自分たちの手で成し遂げることが、最高司令官マッカーサーの偉大なる幻想であったとしたら、当時、日本に駐在した占領軍のほとんどの人々が、その幻想に巻き込まれており、ノーマンも例外ではなかった。工藤氏はカナダにいたノーマンの妻にあてた手紙も解読し、ノーマンが非常に多忙な日々を送っている様子を伝えている。GHQの対敵諜報部の部長のソープ准将は、フランクで、ぶっきらぼうで、口の悪い軍人だけれど同時に正直で謙虚な人間で、びっくりするほどあっさり、自分の提案を受け入れてくれると書いていた。ノーマンが新しい仕事を楽しんでいるのは、生涯で最もエキサイティングな体験とも呼べる出来事があったからでもある、と工藤氏。工藤氏もなかなかエスプリが効いている。ノーマンの担当は、政治犯や政治指導者の情報収集で、府中刑務所にいた共産党関係の政治犯(志賀・徳田ら)の釈放を行っている。

 1986年、日本の国会図書館が米国公文書館の国務省文書の中に志賀と徳田の尋問禄が収められていることを発見し、公表した。この尋問録には全てノーマンの著名がある。志賀、徳田の逮捕されて以来の生活、拷問の様子などを詳しく聴取したのち、占領軍に反対する政治グループ、反動グループの人名と背景について詳細に述べられている。志賀は鈴木貫太郎内閣の大臣など10名以上を危険人物として批判、ノーマンによると彼はCIS(対敵諜報部)に、これから先、秘密警察や反動グループなど占領政策に反対する人々に関する情報を友人や同志から集めて、提供したいと語った。しかし、ノーマンは冷徹なまでに占領軍側に身を置き、突き放した目で日本の共産主義運動の行方を見ていた。しかも、CISの一員として、占領軍にとって危険と思われる人物のリストを丹念に作成し、一方で共産主義者のリストアップしていた事実から、工藤氏はノーマンの性格に潜む二重の仮面性を指摘している。
 1945年11月~12月、ノーマンは戦争犯罪人に関する調査結果をまとめ、GHQに提供した。特に近衛文麿がマッカーサーに見捨てられ、戦争犯罪人の嫌疑をかけられるようになったのは、ノーマンの覚書が大きな影響を与えたと指摘されている。占領軍に接近して、帝国憲法の改正に着手しようとしていた近衛を、ノーマンは容赦ない筆致で糾弾し、アチソン政治顧問はこの覚書をもとに戦争犯罪容疑者としての報告書をまとめ連合国司令官に提出した。その翌日、近衛の逮捕が決定され、戦犯に指定された近衛は、12月16日服毒自殺を遂げる。

脇道 「スパイと言われた外交官」 ハーバート・ノーマンの生涯

2017年10月13日 | 歴史を尋ねる
 歴史的事実を辿るのは難しいことで、識者によってその事実そのものの見方は大きく変わる。そして事実そのものが定かでないものは、さらに大きく見方の違いが出てくる。ここまでは江崎道朗氏の著作によって、ハーバート・ノーマンの役割を見て来たが、日本・米国でも大きく評価が分かれている。今回は工藤美代子氏の著書「スパイと言われた外交官」を中心に、日本にどんな影響を与えた人物なのか、見ておきたい。まずはおさらいの意味で、江崎氏の著書から。
 日本を戦争に追い込んだのは、ローズベルト民主党政権であるが、このローズベルト民主党政権を反日親中へと裏から操ったコミンテルン・アメリカ共産党こそ、真の敵ではなかったか。そしてコミンテルン・アメリカ共産党の影響は、戦後の占領政策にも色濃く残った。若手の日本研究者であるハーバート・ノーマンが、1940年に、IPR(太平洋調査研究会)から「日本における近代国家の成立」という報告書を出した。その結果、ローズベルト大統領はこのノーマン理論、つまりコミンテルン戦略に基づいて、対日圧迫外交の正統性を訴えた。真珠湾攻撃後、ノーマンの主張はさらに過激になっていく。1943年にIPRから発行された「日本における兵士と農民」の中で、明治以降の日本政府が、日本人民を弾圧する軍国主義国家であったかのように描き、「その解決策は日本の軍事機構の決定的・全面的敗北以外にない段階に達した。かかる敗北によって初めてアジアは、日本侵略の不断の悪夢から最後的に解き放たれる」と主張し、日本の国家体制を容赦なく解体し、アジアの人々や日本人民を開放する責務がアメリカにはある・・・このようはノーマン理論が、GHQの日本弱体化政策の論理的根拠となった。アジアの人々を搾取してきた欧米の責任を不問にして、日本だけを非難したノーマンの著書は、GHQ幹部たちによって愛読され、マッカーサー司令官は、当時カナダの外交官だったノーマンをGHQ対敵諜報部調査分析課長として招聘、日本軍国主義の根絶のため、東京裁判の被告人の選定や、政治犯の釈放と天皇批判の自由を保障する人権指令の策定などを任せた。このノーマン理論に基づく占領政策によって、日本共産党の野坂参三らは「デモクラシー勢力」と見做され、産業界と教育界において共産主義勢力の台頭をもたらし、占領下の日本は、革命前夜の様相を示すようになった、と。

 続いて、加藤周一編「ハーバート・ノーマン 人と業績」では、加藤周一氏が序で次のように云う。E・H・ノーマン(1909~1957)はカナダの宣教師の子として軽井沢で生れ、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーバード大学などで学び、外交官になって日本を占領した連合国の対日理事会にカナダを代表した。歴史家としては、徳川時代及び明治初期の日本社会を分析して古典的な名著を書いた。その中でも「日本における近代国家の成立」は戦後日本で一世を風靡した。しかし1950年に朝鮮戦争が起り、50年代の米国では狂信的な反共主義、いわゆるマッカーシズムの嵐が吹き荒れる。その嵐に巻き込まれたノーマンは、カナダ大使としての任地カイロで自殺する。外交官としても歴史学者としても多くの輝かしい未来を約束された彼の短い生涯は絶たれた。ノーマンの死後、日本は追悼した。その著作は広い読者を持ち、その人柄は生前の彼が接触した多くの日本人を魅了した。その中には歴史家ばかりでなく、様々な知的分野からの代表的な知識人たちが含まれる。彼らは愛読し、回想し、そこに近代日本の自己理解の源泉の一つを見出し続けた。他方、北米の社会は抹殺した。かって「日本における近代国家の成立」を敢行した米国の「太平洋問題調査会」を攻撃し、日本学の創始者の一人ノーマンを自殺に追い込んだマッカーシズムは、彼を葬った。その後の米国の日本研究は、彼の業績の一切を無視し、それがなかったかのように日本の「近代化」の成功物語を謳い続けている。E・H・ノーマンの名が再び米国の文献に現れ、評価されたのが、ジョン・ダワー氏の論文とノーマン文集の刊行によった。他方、外交官としての忠誠に対する疑いをカナダ連邦政府が正式に否定して、名誉回復が決定したのは、1990年だった、と。

 標記著書は工藤美代子氏によるノンフィクション本である。工藤氏の著書は「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」で参考にさせてもらったが、著者の調査力には頭が下がる。工藤氏はこう書きだす。ハーバート・ノーマンが赴任先のカイロで、投身自殺したのは、1957年4月4日のことだった。駐エジプト大使であったカナダ人の自殺は、世界を驚愕させた。ほとんどの新聞が一面トップでこの自殺を報じた。とりわけ、カナダと日本の人々の哀しみは深く、その死を惜しむ声も大きかった。なぜ自らの生を絶ったのか、この謎は今でも解けていない。ある者は、ノーマンがソ連のスパイであったと断定し、ある者は、ノーマンの潔白を証明しようとする。だが、両者ともに、決定的な証拠を発見していない。ただ彼の自殺にだけ照準を合せ、類推に類推を重ねてもひどく空しい、彼の死よりも、彼の生に照準を合せて、その人生を辿る方が、不可解な自殺に辿りつけるのではないか、こう言って彼の生涯をたどっている。
 1897年から1940年まで、43年間にわたって日本に在住した父ダニエルは、カナダ・オンタリオ州の出身(ノーマンの祖父の代に英国サマーセットから19世紀半ばカナダに移住)、ヴィクトリア・カレッジを卒業した翌年、開拓宣教師として日本に派遣(1997)され、長野を中心に在住した。次男のノーマンは高校時代、神戸のカナディアン・アカデミーで生活、17歳で肺結核を罹患、カナダ・カルガリーの療養所に転地。1928年9月、病の癒えたノーマンはトロント大学に進学、33年に首席で卒業した。しかし時代は暗黒の時代、悪魔の十年間と呼ばれる1930年代に突入していた。当時家族に書き送った手紙の中で「日本はもう立脚点を失ったと、僕は心配しています。状況はどう考えても圧倒的に日本に不利です。・・・日本は平和条約を破ることで、もう勝ち目はなくなり、以前は全世界の同情を集めていたのに、今は絹の市場も暴落し、軍隊の派閥がはびこり、破産に直面し、人心は不安で落ち着かない。日本にどんな未来があるのでしょう。可哀想な日本! 僕は自分の祖国に対する、理屈抜きの、ものすごい忠誠心は感じています。でもあの腐った武士道には、我慢できません。それは恥知らずの軍国主義者たちに利用されている、使い物にならない封建的な観念にすぎず、僕の意見では、彼らは革命を起こし、ファシスト政府をつくり、将軍の時代のように国を牛耳って、昔のような政権者を追い出すか引退させることが出来るのではないかと思って、あの国を絶望的な状態へと追いやっているのです。・・」後に封建制や軍閥をその著述の中で激しく批判したノーマンの片鱗が既に見えている。この手紙の約二か月後に、日本は国際連盟を脱退し、世界の孤児の道を歩き始めた、と。まあ、青年期らしい、時代観察で、日本観察だ。この時代日本では、金融恐慌が収まりかけたところ、世界恐慌時における金解禁と昭和恐慌の招来、満州事変から満州国建国、暗殺事件が頻発する中5・15事件の発生等、社会が大変混乱していたことは確か、しかし、分析はちょっと定規に当て嵌め過ぎているように、感ぜられる。1933年5月に家族に送った手紙の中は、高らかにノーマンがマルクス主義を謳って、工藤氏は理解が皮相的にすぎる印象を語っている。

 24歳になって英国へ旅立ったノーマンはケンブリッジ大学の社会主義クラブへ行き、激しい衝撃を受けた。北米にいた頃のマルクス主義はあくまでも観念であり、知的青年の頭脳のゲームであった。しかし英国においては、マルクス主義は観念ではなく現実だった。スペインに巻き起こり始めたファシズムの台頭から、わが身を守るための手段であり、それはノーマンがカナダで考えていたよりも、はるかに切羽詰まった現実として、人々は受け止めていたと工藤氏はノーマンの心を類推する。
 1935年、ケンブリッジ大学を卒業したノーマンはカナダに帰り、トロント大学大学院で歴史研究を続けると共に、アッパーカナダ・カレッジで古典を教えた。カナダ外務省に語学官として東京勤務の可能性があるかを問い合わせたのもこの年であった。しかしこの時は語学官のポストは得られなかった。翌1936年10月、ロックフェラー財団より奨学金を得て、ハーバート大学で日本史、中国史の研究を続け、37年修士号を得た。

 

 

1920年のソ連・コミンテルン戦略の完成

2017年10月04日 | 歴史を尋ねる
 表題は物々しいが、あくまで江崎氏の仮説を通して、歴史的事実を見ておきたい。そもそもヴェノナ作戦は、アメリカ陸軍が、ナチス・ドイツに対抗するためにローズベルト政権が共産主義を掲げるソ連と組むことは支持したが、ソ連を信用していた訳ではなく、そのため、ソ連がアメリカに対してどのような工作を仕掛けてきているのか調べるようになったのが、その始まりだった。当時はソ連の内情はほとんどよくわかってなくて、共産主義とは民主主義の一つだと誤解する人も多かった。そもそもソ連・コミンテルとはどういう組織で、何を目的にしていたのか、江崎氏はいう。コミンテルンは1919年、ロシア共産党のレーニンの主導によりモスクワで創設、1943年まで存在した、ロシア共産党主導による、共産主義政党による国際組織のことだ。その目的は、世界各国で資本家を打倒して共産革命を起こし、労働者の楽園をつくる、というものだった。恐ろしいのは、共産党に逆らうと労働者の敵と認定され、問答無用で逮捕され、強制収容所に送り込まれたり、殺害された。このコミンテルンというのは通称で、実際に名称は第三インターナショナルである。第一インターナショナルは1864年、欧州の労働者、社会主義者がロンドンで創設した。趣意書はカール・マルクスが起草した。組織内分裂によって1876年崩壊した。第二インターナショナルは1889年、パリで創設された社会主義者の国際組織で、ストライキやテロといった直接行動でなく、選挙による議会進出によって労働者の条件改善を目指したが、1914年第一次大戦の勃発によって崩壊した。しかしこの影響は残り、民主社会主義政党として、その後も活動を続ける。一党独裁のコミンテルン、共産党とは一線を画している。

 この第一、第二の崩壊を受けて、ソ連のウラジーミル・レーニンが世界の社会主義政党とのネットワークを構築し、世界の共産化を目指したのが、コミンテルンだった。コミンテルンのユニークな点は、世界各国に共産党を設立するだけでなく、その別動隊を構築することで、大衆の組織化を図った。特に労働者と教員の組織化を重視した。そのために専門の別動隊を設置、その一つがプロフィンテルンだ。1921年7月、モスクワで創設され、第二インターに加盟していた労働組合を切り崩し、労働者を再組織化しようとした。しかし共産党は各国の治安当局にマークされて、自由に動けないことが多かったので、労働組合を偽装しながら、秘かに各国で工作活動に従事した。
 もう一つの別動隊がエドキンテルンで、こちらは教職員を対象とした教職員労働組合の世界組織である。レーニンは、世界共産化のために学校を共産党の活動家養成の場と位置付け、そのために教職員の養成・組織化に力を入れた。日本でも戦前、エドキンテルン日本支部が秘かに結成されて、その中核メンバーが戦後、GHQのニューディーラーと称する社会主義者と組んで設立したのが日教組で、正確には、1929年10月、関東小学校教員連盟が結成され、1930年8月、全国組織として日本教育労働者組合結成され、これが日教組の母体となった。エドキンテルンは戦後教育インターナショナル(EI)に合流し、EIは現在172か国で約3000万人の教職員が加盟する国際機関で、国連のユネスコとも連携している、と江崎氏。コミンテルンというと、共産党だけを思い浮かべる人が多いが、実際は、労働組合、教職員組合などの別動隊があり、その裾野は想像以上に広い、と。

 それでは、コミンテルンはどのようにして世界を共産化しようとしたか。世界共産化とは、全世界の資本主義国家すべてを転覆・崩壊させ、共産党一党独裁政権を樹立することである。世界共産化を成功させるには、レーニンは「敗戦革命」という大戦略を唱えた。敗戦革命とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争するよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて武装した共産党と労働組合が権力を掌握するという革命戦略だ。各国の共産党は、資本主義国家同士の対立を煽る➡資本主義国家同士で戦争を起させる➡資本主義国にいる共産党員は、労働組合と共に「反戦平和運動」つまり自国が戦争に負けるよう活動する➡戦争の敗北したら、混乱に乗じて一気に政府を打倒し、権力を奪う。レーニンの凄いところは、各国でマルクス・レーニン主義の理解者を増やし、共産党を大きくする方法では共産革命を起こすことが出来ない、ということをりかいしていたことだろうと江崎道朗氏はいう。日本にとって不幸だったのは、このコミンテルンの謀略の重点対象国が「日露戦争を戦った日本」と、「世界最大の資本主義国家アメリカ」だったことだ。二つの資本主義国の対立を煽って日米戦争へと誘導することは、コミンテルンにとって最重要課題であった、と。1920年12月6日「ロシア共産党モスクワ組織の活動分子の会合での演説」(レーニン全集第31巻)で、日本とアメリカの対立、イギリスとドイツの対立を徹底的に煽ることで、ヨーロッパとアジアに共産主義国家をつくろうというのが、レーニンの世界戦略であった。1921年コミンテルン・アメリカ支部としてアメリカ労働者党(のち共産党に改名)が設置された。

 ローズベルト大統領は1941年3月、ラフリン・カリー大統領補佐官(ヴェノナ文書ではソ連のスパイ)を蒋介石政権に派遣して、本格的な対中軍事援助について協議している。翌4月、カリー補佐官は、蒋介石政権と連携して日本本土を約500機の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。この日本空爆計画に、ローズベルト大統領は7月23日、承認のサインをした。
 エドワード・ミラー著「日本経済を殲滅せよ」によれば、7月26日、財務省通貨調査局長ハリー・デクスター・ホワイト(ヴェノナ文書ではソ連のスパイ)の提案で在米日本資産は凍結され、日本は実質的に破産に追い込まれた。さらにホワイトは財務省官僚でありながら11月、ハル・ノートの原案を作成、東條内閣を対米戦争に追い込んだ。かくして、1941年12月、日米戦争が勃発した。真珠湾攻撃の翌々日、12月9日、中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋反日統一戦線が完成した」との声明を出している。アメリカを使って日本を叩き潰すという1920年のソ連・コミンテルンの戦略が、21年後に現実のものとなった、と江崎氏。
 共和党フーヴァー大統領回顧録の翻訳本が2011年11月、日本でも発刊された。この回想録でローズベルト大統領の戦争責任を次のように追及している。①ローズベルトの最大の過ちは、1941年7月、スターリンと隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。ローズベルトは、腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば、遅かれ早かれ、日本が報復のための戦争を引き起こすことになる、と警告を受けていた。 ②日米平和交渉で、近衛首相が提案した条件は、満州の返還を除く、すべてのアメリカの目的を達成するものだった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余地を残していた。皮肉なものの見方をするならば、ローズベルト大統領は満州という重要ではない問題をきっかけにして、もっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州をソ連に与えようとしたのではないか。 ③共産主義は、アメリカの国境の内側では活動しないという、狡猾な合意が約束されたが、守られることはなく、48時間後には反故にされた。共産主義の機関車とそれに乗った共産主義の乗客が、政府と高いレベルに入り込み、第五列の活動が全国に拡がり、ローズベルトが大統領であった12年間の長きにわたって、国家反逆者の行為が続くことになった。
 
 このフーヴァー回想録の発刊と歴史研究におけるアメリカ保守派の復権は、明らかに連動している。アメリカは戦時中から、ローズベルト民主党政権の下でリベラル派に牛耳られてしまって、戦後長らく、アメリカの保守派は肩身の狭い思いをしてきた。共和党のフーヴァー大統領は無能な大統領だという評価が一般的だあったが、本書が発刊されて、ようやくローズベルト大統領の戦争責任を追及出来るようになった、と。具体的には、連邦議会が設置したシンクタンクで、ヴェノナ文書を含むソ連共産主義に関連する資料が次々公開され、またヘリテージ財団と提携した共産主義犠牲者追悼財団では、東欧諸国、キューバ、チベットやウイグル、北朝鮮の実態を調査するとともに、コミンテルンとローズベルト大統領の責任を追及している、という。

太平洋問題調査会(IPR)と若杉総領事

2017年10月02日 | 歴史を尋ねる
 当時のロビー活動を具体的に見てみると、例えば、日本が侵略国家という前提で、日本に対する軍需物資および主要商品に禁輸を主張する要望書を1939年提出したが、それは「アメリカ平和デモクラシー連盟」が提出したもので、連盟は5千万人のアメリカ国民を代表すると称し、アメリカ共産党の影響下にあるマスコミが、それを大々的に報じた。そのため、多くの下院議員が多くのアメリカ国民が対日経済制裁を求めていると誤信するようになった。このロビー活動を理論的に支えたのが、当時アメリカ最大のアジア問題のシンクタンク「太平洋問題調査会(IPR)だった。IRPは、アジア太平洋沿岸国のYMCA主事(教会の牧師にあたる)たちが国際理解を推進すると共に、キリスト教布教を強化する目的で、1925年汎太平洋YMCA会議開催時に、ハワイホノルルで創設された。ロックフェラー財団の資金援助を受けたIRPは、アメリカ、日本、中国、カナダ、オーストラリアなどに支部を持ち、二年に一度の割合で国際会議を開催、1930年代には世界を代表するアジア問題についてのシンクタンクへと成長した。1933年カナダ・パンフで開かれた第五回太平洋会議に高橋亀吉が、英国の日貨排撃政策に反対する論戦を交わしたことについては、すでに記述してきたが、このIPRをアメリカ共産党は乗っ取った、と江崎道朗氏はいう。エドワード・カーターが1933年事務総長に就任するや、中立的な研究機関から日本の外交政策を批判する政治団体へと、IRPはその性格を大きく変えた、と。カーター事務総長は1934年、IPR本部をホノルルからニューヨーク移すと共に、政治問題を積極的に取り上げることを主張し、機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長ににオーエン・ラティモアを抜擢した。後にマッカーシー上院議員によって「ソ連のスパイ」と非難されたラティモアは、IPRの機関紙で日本の中国政策を「侵略的」と非難する一方、中国共産党に好意的記事を掲載するなど、その政治的偏向ぶりは当時から問題になっていた。にも拘わらず、ラティモアを擁護し続けたカーター事務局長は、FBIの機密ファイルによれば、自ら「共産党のシンパだ」と認め、その周りに共産党関係者が集まっていた。このIPRが支那事変以降、ローズベルト民主党政権の対日政策を、対日圧迫政策へと牽引していった。

 支那事変勃発から南京陥落へ続く1937年当時、中国情勢に対するアメリカの世論は様子見といったところだった。ところが、1938年1月サンフランシスコでIPR中央理事会が開催され、国際事務局の責任で、支那事変に関する調査を実施することを決定、アメリカ共産党とそのシンパが会議を主導した。この決定を受けて、カーター事務総長が、日本IPRに対して「極東紛争に関する全面的調査」の実施を提案、日本側は日本を裁断するようなものになっては困ると返答をしているが、調査計画の資金はロックフェラー財団の理事会で承認され、7月調査検討会議が開催された。日本からは高柳賢三、オーストラリアからはティンパリー(南京大虐殺30万人の証拠とされる証言記録本を編集した記者)などが参加、事務総長は日中戦争に関する調査ブックレットの発行を決定した。その編集は、エジアティカス(ドイツ共産党員)、陳翰笙(上海でゾルゲと共に対日工作に従事し、機関誌の編集部に所属したコミンテルンのスパイ)、冀朝鼎(経済学者、米国共産党員で帰国して中共の貿易局長を歴任)の三人に委ねた。ブックレットを執筆した一人がハーバート・ノーマンで、英国留学中に共産党の秘密党員になり、IPRから著書も発行しているが、日本が中国大陸で戦争をしているのは、在留邦人保護でも中国の排外ナショナリズムでもなく、日本自体が維新後、専制的な軍国主義国家であったからだと説明、紛争の責任は日本の軍国主義体質にあると決めつけた。対日強硬派のローズベルト大統領らは、このノーマン理論を使って、対日圧迫外交の正統性を訴えることになった。
 日本の中国侵略を批判する調査ブックレット集は、アメリカの対日占領政策の骨格を決定することとなった。その理由は、IPRは戦時中、太平洋方面に派遣されたアメリカ陸海軍の将校向けの教育プログラム作成に関与すると共に、啓蒙用反日パンフレットを、軍や政府に大量に供給したから。IPRが政策に協力した宣伝映画は、日本が世界征服を目論んでいるとする田中メモランダムや国家神道、南京大虐殺などを毒々しく紹介、戦後の東京裁判などに繋がった。このように「反ファシズム」「デモクラシー擁護」という大義名分に惑わさエて、スティル元国務長官や、ホーンベック国務相極東部長ら政府関係者や、アメリカ陸軍までがアメリカ共産党の工作に巻き込まれていった。それほどアメリカ共産党の工作が巧妙だったということだが、一方で当時のアメリカは、コミンテルン・ソ連に対する警戒心が薄かったという問題もあった。FBIがアメリカ共産党をマークするのは1939年の後半になってからであった。

 一方、日本の外務省はアメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを、正確に分析していた。若杉要ニューヨーク総領事は1938年7月、宇垣一成外務大臣に機密報告書を提出し、アメリカの反日宣伝の実態について、①支那事変以降、アメリカの新聞は中国の被害状況をセンセーショナルに報道している、②ローズベルト民主党政権と議会は、世論に極めて敏感で、反日報道を受けた世論によって、どうしても反日的になりがち、③アメリカで最も受けがいいのは、キリスト教徒の蒋介石と宋美齢夫人だ。彼らはデモクラシーとキリスト教の擁護者とアメリカ国民から思われている、④日本は日独防共条約を結んでいるので、ナチスと同様のファシズム独裁国家と見做されている、⑤中国擁護の宣伝組織は、中国政府系、アメリカ共産党系、宗教・人権団体系の三種類があるが、共産党系が掲げる反ファシズム、デモクラシー擁護が各種団体の指導原理となっている、⑦共産党系の反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている、⑦共産党の真の狙いは、日米関係を悪化させて支那事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に軍事的圧力を加えることが出来ないようすることだ。若杉はローズベルトの反日政策の背後にアメリカ共産党がいることを強調し、共産党による日米分断策動に乗らないよう訴えた。
 ローズベルト政権は、1939年7月日米通商条約の廃棄を通告、くず鉄、鉄鋼、石油などの重要物資の供給に致命的な打撃を受ける危機に瀕し、一方蒋介石政権に対しては軍事援助を表明して、反日親中政策を鮮明にしつつあった。1940年7月、発足したばかりの松岡洋右外相に報告書を提出、①反日・中国支援運動はロビー活動が効果を挙げ、新聞・ラジオにより一般民衆に影響を与えている、②この運動の大部分は、アメリカ共産党、ひいてはコミンテルンがそそのかした、③その目的は、日本の行動を牽制することによって、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成する、④アメリカ共産党による「トロイの木馬」作戦が成功し、政界・宗教界・新聞界をはじめ、一般知識人にかなり浸透している。つまり、ローズベルト政権の反日政策に反発して近衛内閣が反米政策をとることは、結果的にスターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだと訴えた。報告書が届いた翌日、近衛内閣は、ゾルゲ・グループの尾崎秀実ら昭和研究会の影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要綱」を閣議決定、翌1941年4月、日ソ中立条約を締結した。対抗してローズベルト政権も、アメリカ共産党が工作によって煽った反日世論を背景に、対日圧迫外交を強化していく。