三井鉱山と工業化改革

2011年11月22日 | 歴史を尋ねる

 明治9年に設立された三井物産は翌年勃発した西南戦争で莫大な利益を上げるが、大規模な貿易商社に発展させたのは九州の三池炭鉱の出炭が大きかったと三井広報委員会は云う。三池炭鉱は工部省の直営事業であったが、出炭量が増えて販路の開拓に苦慮していた。工部卿であった伊藤博文は三井物産の益田社長に三池炭の輸出を持ちかけた。益田は硫黄分が多く着火し易い三池炭に着目、すぐに輸出契約を締結、明治11年委託販売権を獲得した。そして三井物産も海外に支店を増やし、海外展開を積極的に進めた。明治政府は官営事業の民間払下げを打ち出していたが、三池炭鉱は優良企業として官営を続けていた。明治21年、ようやく払下げが決定し、三菱との暗闘の末、当時としては破格の価格(455万円)で三井が落札した。このとき三井炭鉱とともに手に入れたのが鉱山技師の團琢磨であった。

 黒田藩勘定奉行の養子であった團は、明治4年、岩倉使節団とともに渡米、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学ぶ、明治17年工部省に採用され、炭鉱局に勤めていた。職場の払下げで失職して福岡県庁に内定していたが、益田は團の才能をかって三井に招聘した。専務理事になった團は、最新の排水ポンプによる湧水問題の解決や三井築港など鉱山事業に手腕を発揮、後に三井合名理事長まで登り詰め、三井の雄となった。そして三井鉱山は三井のドル箱として、三井銀行、三井物産とともに三井の御三家として一角を担い、三井財閥の中核事業となった。

 一方、西南戦争は戦費調達のための債権を増発させ、また国立銀行の乱立から不換紙幣が増え、明治14年頃はインフレーションのピークになった。大蔵卿松方正義は緊縮財政措置を断行、深刻な不況をもたらした。明治15年、日本銀行が設立、三井組が扱っていた為替方の公金取り扱い業務は段階的に取り上げられていった。金融業が低迷する中、井上馨に招聘され三井入りした中上川彦次郎(福沢諭吉の甥で慶応大学卒業後、イギリスに留学、工部省、外務省を経て、福沢が創刊した「時事新報」の社長を経て山陽鉄道の社長となった)は、三井の要職につき、次々と改革に着手する。中上川はまず、不良債権の整理から着手する。政商であった三井は政財界への無担保融資が多かったが、中上川は政府の威光を恐れず、断固処置した。段階的に取り上げられた公金取り扱いなどの特権を自ら返上、明治政府の支配を脱した。

 中上川の改革で注目されるのは人材の登用と三井の事業の工業化であった。叩き上げの年功序列制で大学出がほとんどいなかったが、中上川は大学出身者を積極的に採用し銀行経営に当たらせた。後に大日本精糖社長の藤山雷太、三越中興の祖である日比翁助、製紙王の名でしられる藤原銀次郎、三井合名の池田成彬などの人材を輩出させた。商業主義であった三井の事業の工業化を推し進めたのも中上川だった。不良債権整理の過程で芝浦製作所、鐘淵紡績、王子製紙、北海道炭鉱鉄道なふぉ、いくつもの工業企業を三井の傘下に収めた。


三越と三井物産

2011年11月16日 | 歴史を尋ねる

 明治維新後の近代化の波が押寄せる中で、旧態依然の商法や体質は取り残されつつあった。そのひとつが三井組の越後屋呉服店であったと、三井広報委員会は云う。越後屋は三井家の家業であり、両替店とともに本業であった。しかし幕末から明治にかけて呉服業は不振を極めたという。三井高利が考案した画期的商法もこの頃は一般的になり、武家社会の崩壊は得意先の喪失となった。三井の統括機関である大元方も両替店の資金を割いて救済に乗り出すが一向に成果が上がらなかった。明治5年大蔵大輔井上馨に、三井家は呉服業を分離して銀行設立に専念せよと内命を受け、三越家を新たに興し、呉服業を分離独立させた。

 明治7年日本橋駿河町に三越家経営の越後屋が新たに開店、明治19年洋服部を新設、明治21年洋館建物「三越洋服店」をオープンさせた。しかし、洋服は一般庶民にまでなかなか浸透せず、三越洋服店を閉鎖。再び三井家の事業として、三井呉服店に改名した。明治28年慶応大学出身で三井銀行大阪支店長・高橋義雄が三井呉服店理事に就任、高橋はアメリカの百貨店の研究をしており、ガラス張りショーケースの陳列や意匠部の新設など三井呉服店の近代化を図った。明治31年三井銀行本店副支配人日比翁助が三井呉服店副支配人となり、更に近代化を推し進めた。明治37年、三井家から分離され三越呉服店と名称変更、三越の専務となった日比は、全国主要新聞に「デパートメントストア宣言」の公告を掲載、日本初の百貨店の道を歩み始めた。

 一方、三井銀行と一緒の時期に産声を上げた三井物産は、井上馨・益田孝らによる貿易会社「先収会社」を前身とする。大蔵省を下野した井上馨は先収会社を興し、益田は頭取に就任する。益田は幕府使節団の随員として渡欧経験を持ち、英語の堪能で、井上の推挙で大蔵省入りした。先収会社の経営は順調で、米・茶・武器・肥料の取引を行なった。明治8年井上が政界に転身すると、益田は残務整理に当たったが、ちょうど三野村利左衛門から貿易会社を興したいとの要請があって、三井組が先収会社の事業を引き継ぐ事になった。そして三井物産が正式に設立され、28歳の益田が社長に就任、物産の業務を、依頼を受けて物産を売り捌き、手数料を取る「コミッションビジネス」と称した。三井家では成功するかわからないので無資本会社として発足、三井銀行から5万円を限度とする賃貸契約を結び、これを運転資金とした。三井物産の社員は当初十数人であったが、その後三井国産方を合併、支店も国内だけでなく上海などに開設して、事業の拡大が図られた。


日本初の民間銀行

2011年11月14日 | 歴史を尋ねる

 明治に入って、江戸は東京に改称、鉄道の敷設や郵便の実施など西洋文明を積極的に取り入れ文明開花が花開いた。幕府の金融関係を一手に請け負っていた三井御用所は、新政府においても「三井御用所」(御為替方御用所)としてその役割を引き受けた。明治政府は金融面で取り組んだのが貨幣制度改革であった。明治4年新貨条例を公布、新貨の鋳造に着手した。新貨の鋳造は同時に旧貨幣の回収をしなくてはならない。貨幣改革を担当していた大蔵省の井上馨や渋沢栄一と親しくしていた三野村利左衛門の働きにより、為替方として肩を並べていた小野・島田両組を出し抜いて、単独で新旧貨幣の交換業務を受け負う。同年、「為換座三井組」を設立し、東京・大阪・京都・横浜・神戸・函館で1両1円とする交換業務を始めた。しかし造幣局の造幣能力も限界に達しており、三井は大蔵省に兌換証券(正貨が支払われることを約した一時的紙幣)の発行を要請、井上・渋沢の了解を取って、為換座三井組の名義で「三井札」が発行された。

 三井組は明治5年現在の日本橋一丁目と兜町に架かる海運橋際に日本初の銀行建築「海運橋三井ハウス」を完成させ、ここに大元方、御用所、為換座を集約させ、銀行設立に向け、情熱を傾ける。大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢は、三井・小野両組共同で銀行設立を提案、両組は政府主導による設立を望んでいなかったが、公金取り扱いの特権剥奪を条件に出され、やむなく「三井小野組合バンク」の創設に協力することとなった。明治6年、三井・小野両組合作の「第一国立銀行」が発足、両当主が頭取、三野村が支配人、渋沢はこの銀行を主宰する総監役に就任した。ただ、三井・小野は独自の銀行を欲していたので、銀行業務より各県の出納・為替業務に専念した。明治7年、明治政府は公金預かり高に対する担保をこれまで1/3であったのを、突如全額担保令を発した。これは公金の流用を禁止する措置、これにより小野・島田は耐え切れず倒産。三井は辛うじて危機を乗り切った。それでも三井の三野村はあきらめず、第一国立銀行から手を引き、日本橋駿河町に「為換バンク三井組」を発足させた。明治9年7月、明治政府から認可を得て、日本初の民間銀行「三井銀行」が開業した。前後して三井物産も創設された。


越後屋物語

2011年11月06日 | 歴史を尋ねる

 江戸に呉服店、京都に仕入店を開業してスタートした三井越後屋は、元禄初頭にかけて商都大阪への進出を果たして、急速に経営規模を拡大していく。その原動力となったのは、三井高利とその息子たちの息のあった活動であるが、特に高利の商売に対する集中と矢継ぎ早の施策は斬新かつエネルギーに満ちていたという。高利の父、高俊はもっぱら連歌や俳諧をたしおなんだが、高利は趣味・道楽にまったく興味を示さず、ひたすら商いの道を邁進した。そして、奉公人を重視し、手代の質を見抜き、身許のはっきりした者を雇用し、経営上の意思の疎通が十分なされることに留意した。江戸店開店時の25か条の注意事項のうちいくつか挙げると、①武家屋敷などへの掛売りの禁止、もし掛売りした場合、手代の小遣いにつける。②商人売りの場合、清算日に清算できない客に得ることを禁止、取引前に客にはっきり伝える。③手代の博奕の禁止。更にまじめに精進した手代には褒美を与えた。近代的な経営感覚が生かされている。

 江戸の繁盛に伴い、仕入の京都店も、西陣織を仲買人を経由しないで直接仕入れる店を新設、織屋と呉服商の現金売買が行なわれた。こうした現金決済の取引を超えて、「先金廻し」という前金で西陣織物の買い付けを行い、次第に織屋を支配下に置く状況を作り出した。こうして三都にまたがる営業基盤を確立、その後の成長の礎を築いた。

 三井越後屋は、創業からほどなく幕府御用達を命じられることとなった。官との結びつきは越後屋の安定経営の基盤となったが、幕末の動乱期においては、大きな決断を迫られた。

 1687年、将軍綱吉の御側衆であった牧野成貞から声がかかり、御納戸呉服御用の役を引き受けることになった。御納戸とは江戸城大奥にあった部屋のひとつで、着替えや化粧の間であった。これが呉服御用達であった。それから程なく、幕府から為替の御用も引き受けることとなった。江戸奉行所より大阪御金蔵銀御為替御用を希望するものは名乗りでよとのお達しに応じたものであった。幕府の大阪御金蔵に集まった銀貨を、60日(その後90日)後に江戸の御金奉行に上納する。これまでは現金を東海道経由で運んでいたが、それを為替によって行なおうというのである。御用の両替商はその間の資金を運用できる。これが多大の利益を生むこととなった。三井の両替店は呉服店より独立し、やがて大きく成長する。1710年、大元方を設立、家制と越後屋の経営を一元化し、組織を強固なものとして、大火や内紛もあったが、江戸後期まで比較的安定していた。

 江戸末期になって争乱の様相を帯びてくる。横浜が開港し、国内織物業に大きな打撃を与えた。絹糸市場は価格が上昇し、越後屋の経営を圧迫していった。更に京都の秩序は失われ、両替商の経営も苦境に陥った。この幕末の混乱期、江戸と大坂の店は佐幕の中心地、京都は勤王の真っ只中、越後屋の立場は微妙であった。しかし両陣営の中枢に通じていたことは、戦いの趨勢を推し量る上で幸いした。勘定奉行・小栗上野介忠順の下で奉公した経験がある三野村利左衛門を抜擢して、幕府から要請のある御用金の減免交渉に当たらせると同時に、薩摩藩家老小松帯刀、西郷隆盛が京の三井家を訪ねて資金調達の密談を行なった。王政復古の大号令が出された12月、新政府は金穀出納所を設け、三井・小野・島田の豪商に御用達を命じた。三井は率先して1000両を献納、鳥羽伏見の戦いが起こり、三井・小野・島田は共同で1万両を献納した。幕末の三井は三野村の手で幕府と接触しながら、一方で総領家は勤王派と緊密に連絡をとり、鳥羽伏見の戦いを契機に官軍の資金面を援助し、明治新政府についた経緯がうかがえる。


越後屋の屋号、ここに濫觴(らんしょう)す

2011年11月05日 | 歴史を尋ねる

 濫觴とは揚子江も水源にさかのぼれば、觴(さかずき)を濫(うか)べるほどに微である意だそうだ。今回は三井グループのその濫觴より下ることによって、日本の経済活動の変化を追ってみたい。

 三井グループの租、三井高利は1622年、現在の三重県松坂市に生まれ、14歳で江戸に奉公に出た。その商才は、当時の松坂の地域性と家庭環境があって育まれたと、三井広報委員会は云っている。三井越後屋の屋号は、高利の祖父三井高安が越後守を名乗っていたからといわれている。三井高安は、近江の国鯰江の武士で、守護大名六角氏に仕えていたが、織田信長軍と戦って破れ、六角氏とともに、伊勢の地に逃れた。その20年後、蒲生氏郷(うじさと)が松坂の地を開いた。氏郷の父、賢秀(かたひで)も六角氏の家臣であったが、信長の家来になって生き延びることを選んだ。そして嫡男氏郷は人質として信長に差し出され、彼の非凡さを、信長は愛した。信長の死後、秀吉に仕えて松ヶ島12万石を封じられた。氏郷は城を築き、その地を松坂とした。氏郷は商業こそ町の発展のエネルギーと考え、近江の国から有力な商人を松坂に住まわせた。近江商人の商売の心得は、売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」であった。商売の取引は、当事者だけでなく世間のためになるものでなければならないという哲学は、三井越後屋の精神のひとつでもあったという。氏郷は伊勢神宮の街道を松坂に引き込み宿場町の機能も持たせた。商都としての気風が、武士から商人になる者も多かった。そのひとりが高安の子、高俊であった。高俊はこの地で質屋を営み、酒や味噌、醤油の商いもした。人呼んで越後殿の酒屋という。越後屋の屋号、このに濫觴すと司馬遼太郎の一節がある。

 高俊の妻(高利の母)殊法(しゅほう)は伊勢の大商家の娘で、当時の「越後殿の酒屋」を実質的に支えるほど商才に長けていた。高利にとって商道を学んでいく上で、恵まれた家庭環境であると同時に、飛躍するスタート地点でもあったようだ。高利の奉公先は江戸日本橋の呉服商であった。徐々に才能を開花させ、18歳になると一軒の店を任され、眼を見張るほどの商才を発揮した。しかし郷里で兄が病死し、28歳の時店を辞して帰郷した。やがて松坂で家業を拡張し、更に金融業を営み、資金を蓄積した。そして長男を江戸に奉公に出し、長男が育ったところで、京都に仕入れ店を借りて、江戸では随一の呉服店街で店舗を借り受け、「越後屋八郎右衛門」の暖簾を掲げ、呉服商を開始した。当時は将軍家光の時代となって江戸の町が急速に発展していく途上であった。老舗大店が軒を並べるなかで、高利は次々と新商法・新機軸を打ち出し盛況を極めたという。その一は掛売・掛値を廃止して現金取引を始めた。その二は呉服反物の切り売りを始めた。当時同業者間では切り売りが禁じられていた。さまざまな営業妨害を受けながら、幕府の呉服御用達を命ぜられるようになった。