農村労力の減少と賃金高騰に対応する抜本策は、農作業における省力化であった。在来農法は、高度な労働集約制であるから、その余地は多分にあった。その初歩的省力方式は田の草取り回数の削減であった。しかし農業経営上の発展的省力ではない。農作業の機械化が次の発展であったが、これも限界があった。大農的農業経営であれば採算的場合もあるが、零細農下の自作農小作農が経営者本人である場合、その省力した労力を、他に有効に利用しうる道が開かれなければ、採算に合わない。また、農作業を機械化する場合、零細農業制では、その採算性は限られる。五馬力以下の石油発動機、電動機に発達によって、技術的には農業機械化の条件が具備されたが、その動力機器利用の範囲はきわめて限られていた。大正後半期、農林省当局の報告書にも、動力機器の用途が限られていると語っている。一方、養蚕業に於いては、規模の拡大(副業的養蚕から本業的養蚕への転換)が進行し、養蚕技術の発達によって、労働集約的飼育法から省力化飼育法への転換が進行した。しかし従来農家の手工的副業が、機械製品化される場合、農家の対抗策は自らも機械化するほかないが、副業観念では太刀打ちできない。
農業所得はもともと日本経済が農業国段階であり、むしろ基準をなしていたので、低水準との意識は薄かった。そのうえ所得は絶対的には過去に比して少なからず向上しつづけていたので、自ら農業の窮乏感はそれほど深刻でなかった。しかし明治末期から大正期にかけては、農業所得の上昇率は鈍化し、国民経済は商工業段階に入って、自らの所得を商工業と比較してみる段階に転じたと高橋亀吉はいう。明治末期以降、農業の薄利性が改めて問題化するに至った。当時協調会農村課の一文がある。「農業は営利的行為として極めて僅少の利益を挙げるにすぎず、これを商工業に比すればその差は頗る大なり。我が国の農家は一町未満の耕地を耕作するにすぎざる者全農家の約七割に当たるという事実によりて、益々薄利なる特質が一層我が国の現実とせらるるなり。独り小作人に対してのもならず、小作人並びに自作人の何れにも共通せる事実にして、土地所有の有無によりて差異を生ぜざる程、一般的にして絶対的なり。斯く薄利なることの直接的原因は、耕作面積の過小なることと農業組織の不備なることとに帰するを得べし。耕地面積の過小なることは、結局農村の人口が多すぎるの事実に帰する。この人口の過剰なる事情は、独り農村に限れる減少にあらずして、むしろ我国全般に亘りて、これが我国に於いて困難なる社会現象の起る真因にして、農村問題もその現象の一つということを得べし。以上により、都会の誘引力が強く作用し、滔々と向都の現象を惹起するものなり。」
農民の脱農化は、農家戸数より就業人口数の方がわかりやすい。農家戸主自身の脱農以前に、子弟の脱農の方が早く多いはずである。第一次産業の有業者人口は明治11年と比べ明治30年は10%増加している。しかしここを頂点に漸減し、明治46年8%減少している。この間日本の有業人口総数は10%近く増大している。以上のように明治31年以降、農民の脱農化を最もよく反映している。
農業経営のこうした困難化に直面して、農民はいかなる対策を要求し、政府はいかなる施策を講じたか。明治40年代までには、当時農業の進歩発達に対する投資が先行されていた。しかし明治末期に顕現した農業の行き詰り状態は、従来の農業不振とは著しく性格を異にするものであった。ここに農業の直面する困難に対し、一種の救済的保護政策が登場するに至った。大正10年代に「農村振興に関する建議書」と「農村振興に関する方策如何」の諮問に対する農業部の答申を参考にしたい。建議は①農家負担の軽減(焦眉の急なり)、②米穀法の改正(外国米の輸入調整と米価の調整)、③米・麦の輸入税率を引き上げる、④農務省の独立(農商務省から分離独立)。いずれも採用され実施されたが、この四大対策はいずれも、農業そのものの生産性ないし経済性の向上によって農業を振興させようとするものではなく、農業外の負担において、農業を救済または保護しようとする性格に一変した。高橋亀吉がまとめると次のようになる。「農業はこれまで、近代商工業発達の源泉力となり基盤力となった。しかるに、明治末期以降の農業は、その不振救済のために、商工業の犠牲的負担を強く要求するに至った。明治末期、日本経済の農業時代は終わり、商工業時代に入った。」