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農業行詰りの打開策と限界

2013年11月22日 | 歴史を尋ねる

 農村労力の減少と賃金高騰に対応する抜本策は、農作業における省力化であった。在来農法は、高度な労働集約制であるから、その余地は多分にあった。その初歩的省力方式は田の草取り回数の削減であった。しかし農業経営上の発展的省力ではない。農作業の機械化が次の発展であったが、これも限界があった。大農的農業経営であれば採算的場合もあるが、零細農下の自作農小作農が経営者本人である場合、その省力した労力を、他に有効に利用しうる道が開かれなければ、採算に合わない。また、農作業を機械化する場合、零細農業制では、その採算性は限られる。五馬力以下の石油発動機、電動機に発達によって、技術的には農業機械化の条件が具備されたが、その動力機器利用の範囲はきわめて限られていた。大正後半期、農林省当局の報告書にも、動力機器の用途が限られていると語っている。一方、養蚕業に於いては、規模の拡大(副業的養蚕から本業的養蚕への転換)が進行し、養蚕技術の発達によって、労働集約的飼育法から省力化飼育法への転換が進行した。しかし従来農家の手工的副業が、機械製品化される場合、農家の対抗策は自らも機械化するほかないが、副業観念では太刀打ちできない。

 農業所得はもともと日本経済が農業国段階であり、むしろ基準をなしていたので、低水準との意識は薄かった。そのうえ所得は絶対的には過去に比して少なからず向上しつづけていたので、自ら農業の窮乏感はそれほど深刻でなかった。しかし明治末期から大正期にかけては、農業所得の上昇率は鈍化し、国民経済は商工業段階に入って、自らの所得を商工業と比較してみる段階に転じたと高橋亀吉はいう。明治末期以降、農業の薄利性が改めて問題化するに至った。当時協調会農村課の一文がある。「農業は営利的行為として極めて僅少の利益を挙げるにすぎず、これを商工業に比すればその差は頗る大なり。我が国の農家は一町未満の耕地を耕作するにすぎざる者全農家の約七割に当たるという事実によりて、益々薄利なる特質が一層我が国の現実とせらるるなり。独り小作人に対してのもならず、小作人並びに自作人の何れにも共通せる事実にして、土地所有の有無によりて差異を生ぜざる程、一般的にして絶対的なり。斯く薄利なることの直接的原因は、耕作面積の過小なることと農業組織の不備なることとに帰するを得べし。耕地面積の過小なることは、結局農村の人口が多すぎるの事実に帰する。この人口の過剰なる事情は、独り農村に限れる減少にあらずして、むしろ我国全般に亘りて、これが我国に於いて困難なる社会現象の起る真因にして、農村問題もその現象の一つということを得べし。以上により、都会の誘引力が強く作用し、滔々と向都の現象を惹起するものなり。」

 農民の脱農化は、農家戸数より就業人口数の方がわかりやすい。農家戸主自身の脱農以前に、子弟の脱農の方が早く多いはずである。第一次産業の有業者人口は明治11年と比べ明治30年は10%増加している。しかしここを頂点に漸減し、明治46年8%減少している。この間日本の有業人口総数は10%近く増大している。以上のように明治31年以降、農民の脱農化を最もよく反映している。

 農業経営のこうした困難化に直面して、農民はいかなる対策を要求し、政府はいかなる施策を講じたか。明治40年代までには、当時農業の進歩発達に対する投資が先行されていた。しかし明治末期に顕現した農業の行き詰り状態は、従来の農業不振とは著しく性格を異にするものであった。ここに農業の直面する困難に対し、一種の救済的保護政策が登場するに至った。大正10年代に「農村振興に関する建議書」と「農村振興に関する方策如何」の諮問に対する農業部の答申を参考にしたい。建議は①農家負担の軽減(焦眉の急なり)、②米穀法の改正(外国米の輸入調整と米価の調整)、③米・麦の輸入税率を引き上げる、④農務省の独立(農商務省から分離独立)。いずれも採用され実施されたが、この四大対策はいずれも、農業そのものの生産性ないし経済性の向上によって農業を振興させようとするものではなく、農業外の負担において、農業を救済または保護しようとする性格に一変した。高橋亀吉がまとめると次のようになる。「農業はこれまで、近代商工業発達の源泉力となり基盤力となった。しかるに、明治末期以降の農業は、その不振救済のために、商工業の犠牲的負担を強く要求するに至った。明治末期、日本経済の農業時代は終わり、商工業時代に入った。」


地主が農業発達の中核体

2013年11月20日 | 歴史を尋ねる

 高橋亀吉の明治期農業(商工鉱業との生産性向上格差)を追っかけて小作農問題にぶつかり、一気に現代に舞い降りた。現代農業の実態に結びつける方が、歴史的課題を理解しやすいと考えたからであった。もう一つ高橋の指摘で気になるのは、「日清戦争以降の商工業の急速な発展に伴い、地主の脱農化現象を生じ、地主そのものの農業改善意欲を鈍化させた」というのである。今回はこの点を高橋の分析をもとに掘り下げてみたい。

 徳川期における地主は、大地主と雖も、下男下女を使ってみずから農業を営んでいた。明治期にも引き継がれた。維新以降、農業改善発達の手段や機会が新たに開かれ、農業収益を増大する余地が出てきた。この時の農業技術や改善の先導者は、当時の農村素封家であった。いわゆる老農・精農・篤農などいずれも当時の有力地主であった。豪農と呼ばれる村の素封家たちは、自分の息子を農事の練達者として育て上げた。成人すると息子たちは下男下女を凌ぐ農事の練達者となり、農談会や種子交換会などを行い、県会議員などにもなって、馬耕講師の招聘や試験田の提供など、技術指導的役割などを引き受けた。そうした豪農的人達が地租軽減などを掲げる自由民権運動を支持し、渦中にも飛び込んだ。江戸時代、貢租が実物納であった関係で、その努力の主体は領主であったが、地租改正で金納になった関係上、その努力の主体は地主のなり、その努力は地方議会、中央、府県政府にも通じて、農業政策にも影響を及ぼしていた。

 しかし日本経済が飛躍的発展期に入った明治30年代以降、農地収益性の相対的地位は年々低下し、地主の地位にその影響が直接及んだ。豪農経営が暫時困難になった。経営に使う下男下女の入り手がなくなってくる。それは工業の勃興であった。日清戦争を契機に工業が勃興し、農村の労働力は都会に吸収される。明治28年頃新聞紙上で人口過小のため農業の荒廃が起こっているとの記事が掲載された。工鉱業、土木などの発達に伴う労働者需要の増大と賃金の高騰が、農業から労働力を奪った。併せて地価の高騰が始まり地主の小作地投資採算を悪化させた。一方で小作人層の一般的地位の向上・小作争議が始まり、新たな土地の入手は困難になり、地主層の有価証券投資化が進展し、脱農化の現象が現れてきた。農家の脱農化は、①小作地主の脱農、②自作地主の脱農、③小作人その他の農業からの離農の三形態。③の離農は、もともと農村は過剰人口に悩んでいたから、大きな影響ではない、農業発達の停滞化は、地主の脱農傾向の出現だと高橋亀吉は分析する。最初の形態は非耕作地主への脱皮であったが、続いて他業への投資、更には進んで小作地の地主を保ちながら、銀行・商業・製糸業などを経営するとなると、明らかな脱農化である。明治末期、農学者山崎延吉は「農業が薄利なことは誰も承知している事実であり、農民が困窮している事実は誰も認めている。今中等農家が年を追い、月を重ねて減少していく現象は、何れの農村に於いて蓋うべからざる事件となってきている」と。


農地改革と土地規範

2013年11月15日 | 歴史を尋ねる

 これまでは板根嘉弘広島大学大学院教授の著作を参考に小作制度・農業政策を概観してきたが、今回は岩本純明東京農業大学教授の著作を参考に戦後の農業政策を概観してみたい。戦後の農地改革は当時の小作地総面積の82%もの農地を、国の直接介入の下で小作農民に解放した。農地改革は在村地主の保有限度(平均一町歩)を除くすべての小作地を強制譲渡の対象としたから、農地の保有構造は一挙に平等化した。さらに北海道を除く平均三町歩を超える自作地も、その耕作が適切でないものは買収の対象にした。この結果、農地所有の原則は三町歩以下となり、きわめて平準化された農地所有構造をとるにいたった。農地改革の成果を受けて昭和27年に制定された農地法は、耕作者の地位の安定と農業生産力の増強という課題を解決するのは、農地を耕作者みずからに所有させることが最も望ましいという政策理念が表明されている。自作農が望ましいとする耕作者主義だという。

 農地改革を現時点で再評価する場合、もっと注目すべきは農地の所有・利用には社会的責務が伴っていることを明確にした点だと岩本氏はいう。そしてこの理念を農地改革違憲訴訟を通して明らかされた。農地改革自体の正当性を問題にする違憲訴訟は、昭和25年までに119件提起された。違憲論の主張は①自作農創設のために国が農地を強制的に買収してこれを小作人に売り渡すことが憲法29条3項「公共のために用ひる」ものでない、②買収価格も同項「正当な補償」に値しないというものであった。しかし、いずれの裁判所も合憲とした。そして最高裁は、農村の民主化あるいは農業生産力の発展という高度な公共性を持つ目的のために、国が私有財産を正当な補償をもって買収することは、特定階層、特定集団の利害に基づくものではなく、全国民的な利害=「公共性」に基づいており合憲であるという判断であり、創出された土地所有はその利用を公的に規制された農業経営の所有権として把握された。農村の伝統的土地規範においても、農地は単なる私的所有の対象ではなく、イエの所有対象であり、ムラの管理下におかれるべき特殊な財産であった。これに対して農地改革は、農地所有の公共性について、より普遍的な理念を導入したと岩本氏はいう。確かに、農地改革が山場を超えたあたりから、農林省内部では、農地の効率的利用を図るため、農地の国家的管理(管理の主体は市町村農地委員会)などが提起され検討もされたが、政府及び占領当局の理解を得ず忘れられた。その後農業基本法の論議の過程で、議論の対象にはなったが、離農対策を欠き構造政策としての総合性を具備していなかったこと、公的介入による選別政策が小農切り捨てにつながる危惧、地価高騰による事業量拡大に対する財政当局の疑問などで結局挫折した。

 戦後農民の土地規範に最も大きな影響を及ぼしたのが地価の高騰であった。戦後復興を遂げた昭和25年ころより地価は上昇を開始し、以後一般物価の上昇率をはるかに上回るスピードで上昇した。とりわけ転用需要が見込まれる都市近郊農地やレジャー用地の候補となった農林地の価格は急上昇をみた。土地転用売却代金は昭和35年から傾向的に増加し、昭和48年の狂乱物価期にその額は農業生産額の80%に達した、バブル経済期に再度急騰した。地価高騰による農地の資産所有化は、その資産的価値がまず重視され、それを損なう場合、耕作放棄や荒らし作りなどが選択される事態にもなった。農地改革の政策理念が妥当しない事態が発生した。一方過疎地・限界地においては、農業生産の担い手が減少した。1990年代以降、農地の改廃理由は、耕作放棄が都市的用途への転用を上回るに至った。バブル経済下の地価高騰を受けて土地基本法が制定され、第二条で土地に対する公共的規制の根拠を謳っているが、法律の規制で流れを変えることは難しい。岩本氏は農地所有・利用の公共的コントロールを主張されているようにその著作から読み取れるが、歴史的展望から見ると、現状は農林省乃至一部で進めてきた農業政策の破たんのように見える。むしろ産業として農業を捉え直し、国際化に備えた農業振興(付加価値を高める)の方向が求められているように見える。http://www.canon-igs.org/column/macroeconomics/20131030_2176.html


農地政策の展開

2013年11月09日 | 歴史を尋ねる

 都市における宅地借地権の保護は、難航した農地とは違い、建物保護・建物への投下資本保護立法の形で、一足早く実現された。明治42年(1909)の「建物保護に関する法律」の成立。日露戦争後起こった特殊な売買で、仮装的売買をなした新地主が借地人に土地明渡しを迫り地代値上げをはかる売買への対抗策であった。この法律は建物保有を目的とする借地権に第三者対抗力を付与したものである。更に1921年、借地法が成立した。これは、建物保護法で決着がついていなかった短期期間約定の阻止や地主の更新拒絶の際の借地人に建物買取請求権が付与されることなどが規定され、投下資本の保護・回収を保証し、結果として借地権を格段に強化した。

 農地については、小作法案が流れたのち、昭和13年(1938)農地調整法が成立した。この調整法は、大正期以来農地政策の両輪であった小作法主義と自作農創設主義を合体させて農地立法としたものであるが、農地賃借権の第三者対抗力の付与と解約・更新拒絶の制限であった。さらに調停制度の強化がはかられ、小作官の活動は強固な法的裏付けを与えられた。この法によって新設された農地委員会制度は、多種多様な各地の実情に応じた農地問題の調整・斡旋機能が期待された。小作争議に際して自治的に争議の解決をはかり未然防止機能を担った協調組合・小作委員会などが各地に成立したが、農地委員会制度はこのような組織の機能を引き継ぐものであった。農地所有権制限への大きな動きであったが、戦時体制下で格段に強められた。

 戦時経済統制期には、戦争遂行をめざした食料増産確保の点から、農地所有権制限による生産者保護が全面的に進行した。国家総動員法に基づく小作料統制令は昭和14年小作料の引上げを停止、契約小作料の固定化を図るものであった。さらに市町村農地委員会が必要と認めた場合には小作料適正化を行うことが出来るようにし、地方長官は個別地主に対し小作料の引下げを命ずることが出来るようになった。また、臨時農地等管理令は、食料問題の深刻化にともない、農地の処分・利用を本格的に国家統制のもとにおこうとしたもので、当時進行していた農地潰廃を防ぐため、農地を耕作目的以外に供するときには、地方長官の許可を必要とした。また、地方長官は農地委員会をして農地の権利者に農地の耕作に関して勧告を行う、不要不急作物の制限・禁止や主要作物の作付命令が規定された。稲、麦、甘藷、馬鈴薯、大豆が食料農産物、桑、茶、薄荷、煙草、果樹、花卉が制限農作物に指定された。また、農業生産統制令によって、市町村農会は、農作物の種類・数量、作付面積、農業労働力、農機具、役畜の統制を行わせる体制を整えた。更には、農地権利移動の全面的な統制(当初は農外転用の統制であったが、改正後は農地の所有権・賃借権など権利移動の統制)への道が切り開かれた。


明治土地制度と地主小作関係

2013年11月07日 | 歴史を尋ねる

 地租改正事業は、財政上・土地制度上の大きな画期となった。領主的土地所有が否定され(秩禄処分で処理)、近代的土地所有権が付与された。そのため日本近代社会は封建的特権である大土地所有は無く、比較的階層間格差の小さい、階層間移動の激しい、経済的活力を生み出しやすい近代社会となった。この改組により、土地の取引や土地担保に基礎が築かれた。土地取引を巡る法制度は、明治13年の土地売買譲渡規則を経て、19年登記法、22年土地台帳規則へと受け継がれた。地租改正や地押調査によって土地を商品化しうる土台が築かれたことは、土地取引の費用の節約を意味し、その後の経済発展にとって効果的であった。土地担保金融が可能となり、農業をはじめ各分野への長期投資・資本形成が可能になった。

 地租改正は、公法的な土地制度の改革であったと同時に私法的な地主小作関係にも大きな影響を及ぼした。近世の地主小作関係は、村請制のため公的な性格を強く持っていた。村請制は、村人からの年貢徴収は村しごとであったが、小作料徴収も村しごとの意味合いを強く持っていた。小作料決定や村方検見など地主小作関係に村が関与していた。地租改正事業完了とともに、こうした村請制はなくなった。改正後は地租負担者である地主が、小作料の増減を含めて小作料徴収に関する全責任を負うこととなった。個人対個人の直接的関係に転化した。

 当時の小作料は十分に高く、それまで旧慣にまかせていたが、次第に小作料をいかに安定的に徴収するかを制度化する方向であった。デフレや自然災害で小作料の滞納や引下げ要求など小作紛議・騒擾が多くみられ、地主小作関係は不安定で、流動化し始めた。明治10年以降、小作条例の類がいくつか登場する。その中で明治24年の民事訴訟法の督促手続は、地主を支援する意味を持った。この時期に再編された地主小作関係がのちに小作慣行と認識されことのなり、地主の小作人支配がいわれるようになった。しかし決して封建的社会関係ではなかった。こうした状況になかで、地主小作関係は急速な拡大をみせた。小作地率は明治6年の27%、明治41年の45%と急増した。この時期、土地投資利回りは比較的高く、大地主・不在地主からは土地は有利な投資対象とみなされていた。

 第一次大戦後、社会主義思想の潮流が世界的に広まり、日本にも同様な動きが本格化した。かって当事者の慣行にまかせられていた地主小作関係も、国家が積極的に入り込むことになった。石黒農政といわれている。背景には小作争議の本格的展開があった。小作争議は大きく分けて集団的小作料減免争議と個別的土地争議であった。地域、時代別に特徴づけると、1920年代の西日本、集団的小作料減免争議、1930年代の東日本特に東北地方で、個別的土地争議となる。前者は小作条件を巡るもの、後者は地主の土地引上げなど土地や耕作権にかかわるものであった。

 小作立法事業は大正9年の小作制度調査委員会設置で始まった。裏方を担ったのは農商務省農務局農政課の石黒忠篤課長と小平権一室長であった。議論は小作法、小作組合法、自作農創設事業、小作調停法に及んだ。1921年第三次案が新聞にスクープされ、地主側の猛反発のもと、小作法の棚上げ、小作調停法へと大きく舵を切ることとなった。


江戸と明治の農業の違い 2

2013年11月04日 | 歴史を尋ねる

 日本の自治体は、歴史にまつわる事柄をHPによくアップしているが、秋田県では、「農業農村の歴史に学ぶ」と称して、当時の農業をわかりやすく、具体的に描き出しているので、参考にしたい。明治・大正時代は以下の6つの項目が建てられている。1、イサベラバードが見た秋田 2、老農 石川理紀之助 3、先人に学び農業の未来を開く 種苗交換会 4、農業革命、乾田馬耕と耕地整理 5、耕地整理はなぜ必要だったのか 6、秋田は地主王国だった。

http://www.pref.akita.jp/fpd/taiko.edo/rekishi-mindex.htm 

 明治11年(1878)、イギリス人女性、旅行作家イサベラ・バードは、東北、北海道を旅し、「日本奥地紀行」と題する旅行記を書いている。「実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデア(桃源郷)である」とか「どこを見渡しても豊かで美しい農村である」と述べているが、秋田はどう記述されているのだろうか。結論から先に述べれば、秋田の農村の貧困と文化的な立ち遅れを指摘する文が多く、いかに秋田が貧しい実態にあったかがよくわかる。こうした秋田の貧しい農村を救うべく、農村救済活動に生涯を捧げた老農・石川理紀之助が誕生する。

「老農」とは、在来農法を研究し、これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた、農業熱心家のことをいう。この頃、県内の各地には、こうした老農層が成長し、秋田県農業を支える大きな原動力となった。その老農の代表的な人物が石川理紀之助である。老農としての石川の特色は、農事改良を単なる個人の営みとして進めるのではなく、農民を広く組織して集団的研究に高めたことである。明治5年(1872)秋田県庁の勧業課に勤める。当時、秋田県農業の最大の課題は、腐米改良問題であった。彼は、乾燥に問題があることをさがし新しい乾燥法をあみだし、腐米の改良指導に尽力した。新しい農業技術の普及を進めるため、明治11年(1878)、種子交換会(現在の種苗交換会の前身)を開催、新しい催しは、関心を呼び多くの人がくりだした。これを契機に毎年開催されるようになった。 しかし、行政の第一線で働けば働くほど、上からの指導には限界があることを痛感するようになった。そこで、彼がやったことは、行政とは別に、各地の老農を結集して、自主的な農事研究団体として「暦観農話連」(明治13年、1880)を組織したのである。結成時には、早くも74名もの老農層の参加を得た。暦観農話連は、その後も加入者が増え続け、明治末年には499名にも達した。さらに会員は秋田県にとどまらず、山形、宮城、埼玉県にもみられるようになった。石川が組織した農話連は、秋田県農業の発展に計り知れない影響力をもった。こうした石川の活動はやはり明治の代になって可能な活動だ。

秋田県では、近世以降明治10年代までは湿田が多く、農耕はもっぱらクワ・カマを使っての人力作業で、牛馬を使役することは一般化していなかった。秋田県で湿田から乾田へ、人耕から馬耕への農業技術の一大変革が行われたのは、明治20年代から30年代にかけてのことだった。この農業革命とも呼べる乾田馬耕と耕地整理に大きな功績を残した人物、それが斎藤宇一郎(1866~1926年)である。当時、農家の人たちは、泥のような田んぼの中に腰をつかって、クワ一本を農具として朝から晩まで、汗と泥にまみれて働いていた。田んぼの大きさも形も様々で、難儀をした。そのため、秋の収穫も遅く、ミゾレの降る頃になっても、稲が田んぼに残っている家もたくさんあったほどである。湿田からとれる米はおいしくなく、収量も少なく、農家の人たちの生活は大変貧しいものだった。 宇一郎は、このような農家の姿を見て、「どうすれば米がたくさんとれ、農家の生活がよくなるか」を考えて、自分から取り組んで見せると、農家の人たちも安心してやるのではないかと信じて、乾田馬耕をすすめたのである。乾田馬耕がだんだん取り入れられてくると、排水や深耕などの仕事がしやすいように、田んぼを整理しようとした。しかし、いろいろな問題がたくさん出てきたり、協力してもらえなかったり、苦労の連続だった。しかしながら馬耕の広がりは、明治30年に作付面積の5.6%に過ぎなかったが、10年後の大正2年には42.8%へと急速に普及した。時代の息吹がこうした人物を輩出したのだろう。

 一方で、戦前、秋田は、新潟・宮城・山形と並び地主王国だった。 大正13年、50ha以上の田畑を所有する大地主は、 条件の異なる北海道を除いて、新潟県が256人でトップ、 次いで秋田県が212人で2位となっている。明治初年、水田の小作率は30%程度と推定されている。
それが明治20年には47.2%にまで急増している。明治30年には、小作率が50%を突破し、明治末には55.3%地主制はいっそう強固なものになっていった。この頃、秋田では乾田馬耕と耕地整理がが広く行われるようになり、 水稲の生産力は上昇し、安定した小作料収入が増加した。 地主は、この収入の増加を土地集積に向けたため、より巨大な地主へと成長したいった。これは、明治維新政府の、田畑勝手作の許可と土地永代売買禁の解禁で土地所有の自由に大きな道を開いた。特に後者は身分にかかわらず土地所有売買の自由を認めたもので、土地の使用、売買に関する封建的規制が撤廃された。地租改正事業はこれらの措置のうえに展開されたと板根嘉弘氏は解説する。更に関所の廃止など一連の改革により農民への居住移転の制限も次第に解かれていった。  


江戸と明治の農業の違い 1

2013年11月02日 | 歴史を尋ねる

 小作制度そのものは徳川時代からの伝統的制度であったという。明治になって何が変わったか、一つは地租改正に伴う近代的土地所有権の確立であり、もう一つは明治農法(品種の改良、肥料の増投と土地改良など)の普及であった。他は前時代の伝統を引き継いでいた。では江戸の農業の実情はどうであったか。当時の様子が伺えるHP「故郷の史跡 日光市塩野室地区」の中に 次のような解説がある。具体的な内容となっているので参考にしたい。http://www.geocities.jp/goodlife0703mameta/rekishi/noumin/kaisou.html

 江戸時代前期、武士に階層があったように、この時代には農民にも階層があった。大きく分けて高持百姓(本百姓)と無高百姓(水飲など)に分けられた。また、本百姓に隷属する農民層もあったが、江戸時代に入ると隷属農民層の本百姓化がすすめられたともいっている。この辺の事情はウキペィデアによるとこうだ。

 「百姓を農民と同義とする考え方が日本人の中に浸透し始めたのは江戸時代だった。江戸時代には、(1)田畑と(2)家屋敷地を所持し、(3)年貢と(4)諸役の両方を負担する者を百姓(本百姓)とした(「初期本百姓」)。なお、百姓は戦時においては小荷駄などを運搬する(5)陣夫役を負担する者とされた。しかし、初期・前期の村落内では前代を引き継ぐ階層差が大きく、(1)(2)(3)(4)(5)のどれかを欠く家(小百姓あるいは多様な隷属民)も多数存在していた。江戸幕府をはじめとした領主は、このような本百姓数の維持増加に努め、平和が続いたことによる社会の安定化によって耕地の開発も進んでいった。次第に本百姓の分家や隷属民の「自立」化が進み、17世紀の半ば以降には、村請制村落が確立していき、(1)田畑や(2)家屋敷地を所持する高持百姓が本百姓であると観念されるようになった。江戸初期は本百姓が村内で持つ影響力に依拠しなければ年貢諸役を集めることが難しかったが、中期以降、村請制に依拠できる体制が完成した。一方で江戸時代の中後期の社会変動によって、百姓内部での貧富の差が拡大していくようになる(「農民層分解」)。高持から転落した百姓は水呑百姓や借家などと呼ぶようになった。その一方で富を蓄積した百姓は、村方地主から豪農に成長していった。」

 もう一つ面白いHPデータがある。「農民の家計簿」と称して、江戸時代の農家の実情を伝えるものである。http://www.geocities.jp/goodlife0703mameta/rekishi/kakeibo/nouminkakeibo.html

江戸時代初期のころから幕末のころまでの農家の家計簿、比較的大きな農家は別として、米の取れ高10石前後の農家ではよくてトントン、ほとんど赤字だ。表をよく見てみると、食費の内訳は米よりも麦の方が多いのが分かる。麦ばかりの家計もみられる。衣食住費、生産諸掛費も米を売却してねん出するから、米はほとんど食べることはできない。貯蓄も無理なようで、凶作でなければなんとか食えるが贅沢はできない。より倹約が必要な家計であることが分かるとHPの著者は言っている。

 同じ著者が明治時代の農業を次のように書いている。「地租改正の結果は農民の生活に余裕を与え、農業を発展させることでなく、農民の負担は封建制のままで、かえって土地が農民の手から離れて地主の兼併にゆだねられるという皮肉な結果になりました。封建時代にはきびしい搾取がなされた反面、封建的な農民保護といいますか、あらゆる方法をもって農民の絶対数の確保に努めましたので、地租改正時代のような混乱はまずありませんでした。結局明治初年の諸制限廃除で農民に与えられた自由は土地の売却放棄、無一物になって離村しようと貧窮にあえごうと自由勝手だということで、この解放期に際して地租改正は農村民にとって未曾有の危機ともなりました。」 ちょっと悲観的な見方すぎるが、戦後作られた歴史観にとって、ある普遍的な見方でもあるのだろう、自治体の広報誌に掲載されているのだから。