留守政府の混乱と大久保利通

2011年09月30日 | 歴史を尋ねる

 明治6年(1873)1月、太政大臣三条実美は国内が多事な時、政府の中が「無人」でいろいろと「不都合」も生じているので、大久保と木戸の両名にすぐ帰国するよう岩倉に訴えた。三条の「不都合」とは、予算問題をめぐる大蔵省と他省の対立であり、それは留守政府における近代化政策が絡んでいた。近代化政策は、岩倉使節団の調査研究を待つことなく着手されていた。明治維新の三大改革といわれる学制・徴兵令・地租改正をはじめとする近代化政策は、留守政府によりほとんど実施されていた。それも、各省が功を競うように、急進的に行われていた

 文部省は長官大木喬任(たかとう)を中心として、着手から8ヵ月後の明治5年(1872)8月、学制を制定している。フランスをモデルとする学区制で、財政基盤が不十分なため、教育費は国民負担とされた。教育費の負担と就学強制に反発を招き、各地で反対一揆が起こった。陸軍省は次官山県有朋が中心となり、明治6年(1873)1月、徴兵令が制定した。フランス軍制をモデルに、20歳以上の男子を対象にするものであるが、広範な免役条項が設けられていたので、これを利用する徴兵忌避が行われ、国民皆兵とは名ばかりとなった。大蔵省は長官大久保が欧米視察に出発する以前から地租改正に取り組み始め、土地売買の自由・地券の発行・地価への租税賦課という根本方針を定め、大久保不在中は次官井上馨が中心となって、法制化を進めた。大久保が帰国した明治6年4月から5月の地方官会同で、審議・議決された。公布されたのは7月であった。地価の算定をめぐり農民の反対一揆が起こったが、土地私有権が確立し、近代租税制度は樹立された。司法省は江藤新平が長官に就任すると、裁判権の独立を目指して動き出す。地方裁判権を大蔵省管轄から司法省管轄への移管・吸収することが行われた。

 改革は統一的・漸進的に実施するよう、岩倉使節団派遣時の事由書に明記されていたが、実際には現状を深く考慮する余裕もなく、西洋化という至上課題のもとで、諸改革がバラバラ・急進的に行われた。そして独自に改革を進める諸省は、それぞれ予算を要求する。大蔵省は財政難のもとで、すべての要求を受け入れることは出来ない。ここに、予算をめぐって大蔵省と他省の対立が発生した。この経緯はすでに記述済みである。明治6年2月、大蔵省官員北代正臣は使節団メンバー佐々木高行に政府の内情を次のように語っていると、勝田政治著「<政事家>大久保利通 近代日本の設計者」で記述している。井上大蔵省次官は昨年10月から「閉居」、西郷参議(廃藩置県に激怒した島津久光は西郷・大久保を政府から追放せよとの要求を三条公に迫る)は鹿児島へ帰省、山尾庸三工部省次官は「引入」り、江藤司法長官もつづいて「引入」り、板垣参事は仕事を「大投げ」して、辞めたいといっている。西郷の「心事」も辞職模様。この二人が辞職したら参議は大隈一人となる。三条大臣はただ一人「苦慮」している。

 この状況を三条は岩倉宛の手紙で政府「無人」と評した。この留守政府の混乱は、廃藩置県後の官制改革(太政官三院制)に大きな原因があった。最高機関の正院に行政責任者の各省長官が参加できない仕組み、本来は正院が政策の調整・決定すべきであったが、実際は各省の政策を追認するに過ぎない場となってしまった。この正院の統制力・指導力を回復するため、三条がとりあえず考えた措置は、大久保・木戸の召喚策であったと、勝田氏はいう。

帰国した大久保は、参議でもなかったので、「現状はどうしようもない状況に立ち至っており、「有為の志」があってもいかんともし難く、「愚存」はあるが使節団が帰国するまで「傍観」している」とヨーロッパ留学生に手紙を書き送っていた。この「愚存」とななにか、勝田氏は追跡する。


干戈(かんか)を以って是に当たらず

2011年09月23日 | 歴史を尋ねる

 日本に帰国した黒田一行は凱旋して大歓迎を受けた。その時の雰囲気が伺える錦絵がきままに歴史資料集http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi017.htmlにある。錦絵に「古今勤王名鑑、黒田公、井上公、早川松山図書、松山鉄次郎」と記載。 この絵の文章描き込みには、「・・・今や我国文明の域に進み、彼(朝鮮)先に屡(しばしば)我(日本)に無礼を加うといえども、干戈を以って是に当たらず、弁理両大臣が力を尽し、朝命を奉じ一言の下に説破し、彼固有の頑陋心を転じ我と好みを厚うするや、皇威のさかんなる事を待すといえども、両大臣の功また偉ならずや。」 とこの澤田氏は読み取っている。武力によらずに論破して改心させ、問題を解決したと伝えている。

また、「対韓政策関係雑纂/黒田弁理大臣使鮮始末 正本/4」に朝鮮側の謝辞(謝罪文)があるそうだ。その内容は

朝鮮政府謝辞
議政府為照會事兩國修睦且三百年矣使幣往來情若兄弟各安人民無爭嚇戊辰以來因未審
貴國革新状所以有種々疑端
貴國屡次使書未遂接受終爲隣誼阻隔之地昨秋會
貴國汽船抵江華島又致有紛擾迨此次
貴大臣奉使臨與敝國使相接得領盛意従前猜疑一朝開釋曷勝歎如承示立約各款我朝廷既委敝國使會商戊辰以來兩國往來公文均廢爲枯紙庶永遠親睦共謀兩國之慶亦以昭我國善隣之誼
右 照 會
大日本國辨理大臣
大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日[議政府印]

(明治9年2月26日)

『両国が睦んでほとんど三百年にして使節往来の情は兄弟の如く、各人民は安んじて相争う事がなかったのに、戊辰(明治1年)以来、未だ貴国の革新(維新)の状況を審議しなかったことに因り種々の疑いをし、貴国が何度も送る使書を未だ遂に接受をせず、終に隣国阻隔の地として、そうして昨秋には貴国の汽船(雲揚号)が江華島にいたるに及んで紛擾までしてしまった。今、貴大臣が我が国と相接するにおよんで、従前の猜疑は一朝にして消えてなくなった。従来の事を回顧すれば、痛歎に堪えないことである。条約を結ぶことや各款の検討は、我が朝廷より既に我が国の大臣に委任して会商させた。この上は、戊辰以来の両国来往の公文(朝鮮が出した諸例規や誹謗文とそれに対する日本の抗議文のことか。)は均しく廃して枯紙となし、更に永遠に親睦し、共に両国の慶を謀らば、また以って我が善隣の誼を明らかにするものである。』

 あの長きにわたる日朝の紛糾はかくのごとき結末を得ているとは驚きである。こうした史実は余り眼に触れないが、現代の価値観からすれば、西郷隆盛の征韓論よりはるかに喝采を受ける成果だと思われる。このときはまだ西郷も生きており、この結果についてのインタビューメディアがあっていい。

 「征韓論」というと直ぐに西郷隆盛が代表され、朝鮮侵略、植民地化を狙ったものである、などと言う者があるが、これは違っていると、澤田氏はいう。

 「征韓の議論」とは、要するに、怒っているのである。そのために、「けしからん、いっそのこと軍隊を送って征服せよ」「いやそんなことをしては国家の財政が破綻する」「しかしこのまま黙っておれるか」「その気持ちは分かるがここは辛抱するしかない」「いや、これ以上皇国に対する無礼に堪えられるか」などなどの議論が国を挙げて百出したのである。
 つまりは朝鮮を征服したいというよりも、懲らしめたいのである。言葉としては「征韓論」なのであるが、その内容は感情的なものであったと言えよう。
 その証拠に、明治9年に「日朝修好条規」が結ばれて交際が正常化すると、あれほど激しかった「征韓論」は国内からすっかり消えてしまっている。もし「征韓論」が、朝鮮を征服したいとの「日本の野望」から生じたものであるなら、たとえ国交はなっても、相変わらず盛んに議論されたであろう。否むしろ、釜山、元山、仁川の居留地が出来たことから、いよいよ征服の足掛かりが出来たと、益々声が大きくなったのではなかろうか。しかし、事実はそうではなかった。それどころか、日本人はやがて朝鮮の実情を見聞するにしたがい、朝鮮が清の属国の地位に甘んじ、貧国弱兵の国となっていることから、これを開明に向かわせ、独立国として、また中立の立場をとる富国強兵の国として発展することを強く望んだのだ。

 この澤田氏の見方が当時の偽らざる国民感情だったのだろう。しかし歴史はふしぎなもので、この「強く望んだ」という日本人特有の世話好き感情がやがてのっぴきならぬ情勢をつくりだしたと今は思えてくるが、別項で追いかけることとしたい。


アジア歴史資料センター

2011年09月21日 | 歴史を尋ねる

 近隣諸国との間に「歴史認識」をめぐる議論が繰り返され、「歴史認識」の共有を議論するためには、まず史実を確認する作業が必要との観点にたって、平成6年8月、当時の村山首相は翌年の戦後50周年を記念した「平和友好交流計画」に関する談話の中で、「アジア歴史資料センター」設立の検討を指示したという。「アジア歴史資料センター」をどのようなものにするかについては、戦後50年に当たる平成7年以降、さまざまな角度から検討が進められ、「我が国とアジア近隣諸国等との間の歴史に関し、国が保管する資料について国民一般及び関係諸国民の利用を容易にし、併せて、これら諸国との相互理解の促進に資することを目的」とする「アジア歴史資料センター」が、国立公文書館の一組織として平成13年11月30日に開設された。

 「アジア歴史資料センター」は、インターネットを通じて、国の機関が保管するアジア歴史資料(原資料=オリジナル資料)を、パソコン画面上で提供する電子資料センターであり、国立公文書館において運営されている。このアジア歴史資料とは、近現代の我が国とアジア近隣諸国等との関係に関わる歴史資料として重要な我が国の公文書及びその他の記録のこと。開設以来10年近い蓄積を重ね、現在約2,090万画像が「いつでも、どこでも、誰でも、無料で」閲覧することができるようになったという。確かにのぞいてみると、次から次に大変な量の資料が自由に閲覧できるようになっている。歴史家はクリスマスであれ正月であれお盆であれ、国立公文書館などで歴史史料のマイクロフィルムをジーツと見ているのがこれまでだったようだ。その意味では大変な変革である。しかし、当時の手書き文字を読みこなせる力がないと、せっかくの資料もただ眺めるだけで終わってしまう。この膨大な資料から、読み解いて作成されたのが、先に紹介した「きままに歴史資料集」だと思われる。資料の解読、資料の整理、そしてよみがえる当時の状況、歴史はそのよみがえる力が人をひきつけるのではないか。

 明治初期の日朝関係をネットサーフィンし、ブックサーフィンしても、当時の状況がなかなかよみがえらない、判で押したような当時の解説がある中で、「きままに歴史資料集」は眼を見張らせてくれる。さらに一次資料がふんだんに使われ、安心して当時の想像させてくれる。もう少し本ブログを活用して見たい。


特命大使の派遣

2011年09月20日 | 歴史を尋ねる

 明治8年の書契問題が決裂した直後に江華島事件(明治8年9月28日)が勃発した。外務省の森山茂、広津弘信はその11月に「特に大使を朝鮮国江華島に派し彼国隣誼に悖りたる罪を問ふの議」を外務卿に建議した。この中で、江華島砲撃事件だけが重大なことではなく、そもそも朝鮮が交渉の約束を破っていることが問題であって、雲楊号のことと同じ重大さであると述べ、朝鮮には、事件を謝罪し約束を守り、親睦を図って条約を結べばこのような事件が再び起こることを防ぐことが出来ることを説くべきとした。また、そのための特命大使を朝鮮の首都の入り口である江華府に直接派遣する事を提案した。江華島事件に対する日本側の対応も遅れたが、朝鮮側も政府から何の反応もなかった。 これを機に完全に断絶するとか、こういう事件があったとか、一言も何も言ってこないのである。その事を踏まえて日本側の方針は特命大使を派遣する事となり、明治8年12月9日に陸軍中将兼参議開拓長官である黒田清隆が特命全権弁理大臣として朝鮮に派遣する発令がなされた。

 明治9年2月11日午後1時、日朝両国の大臣会談が開かれた。まず朝鮮側から、日本の兵士2名が上陸の際に溺死事故があったことに驚きと共に各地方へ通達して遺体が発見された場合は日本へすぐに通知することを約した。日本側はそれを謝した。また朝鮮側も、日本人が勝手に遊歩しないよう要望したことを守っていることに感謝の意を表した。 

 黒田全権大臣は、「我が皇帝陛下は、両国三百年の旧交を敦(あつ)うするの意を以って、貴国接待の大臣へ細かに談議いたすべしと鄭重に命じられたり」と本題に入った。
 それに対し申大臣は、「両国三百年来の交誼、誠に廃すべからざるなり。今、さらに旧交を敦(あつ)うするの言を承って、殊に感謝に堪えず」と答えた。

 冒頭からまず日朝両国の国交をより緊密な関係とすることが確認された。次に黒田は、王政維新の書契を贈ったことや使臣を派したことに触れ、「今に何の回答もないが、両国で情意が充分に通わないのはこのためではないか」と問うた。申大臣はこれに答えて、「両国間で従来からの慣習の違いがあり、それによって疎隔を生じた故であろう。今さらに憫忙(心痛)している」と述べた。 

 黒田「念のために一応承りたい。従前両国の情意阻隔、我が国の書簡に答えずに8年を久しく経て遷延したことは、今日に至って非理と思われるか。」

 「戊辰(明治1年)以来、書契の件、従前はこれを拒みたるもの、今ことごとく氷解した。向後はこれを拒まず異議なく領受すべし。」

 井上「しからば我が国の情意はすでによく通じた。貴国のこれを拒みしは今は悔悟されたであろう。」

 申・尹「我らは貴大臣を接待する一介の使臣なれば、悔悟の字面は説き出し難い。従前の疑いは全て氷解したということである。」

 井上「それなら、このような事が友好国に対し当然のことと思われるか。」

 申「すんだことは必ずしも是非を論ぜず。今後の和交を計らんとすでに説いているのである。」

 井上「事の是非を明らかにしないとは、その意を得ないことである。今しばらく両国交際のことをもってこれを論じないが、ただ貴大臣は自ら反省されよ。互いに交際する約束に背いて信を失うことを理に合うこととするか。悖ることとするか。」

 申「すでに説いたように、戊辰以来の書契などのことは全てこれを拒む必要はなかったと思う。しかし、過去の非を陳謝することは(その権限上)本大臣ではあえてなし得ないところである。」

 これを以て会談第1回目を終了。

 翌日12日の会談第2回目、黒田は佐賀の乱のことなども話し、日本がいかに朝鮮と交際することに努力してきたかを懇々と説いた。その上で、ただ「氷解した。」だけでは、こちらは帰国して報告も出来ないし過去のことを咎めないということにも至らない、と述べ、貴国が日本に無礼をしてきたことに対してそれ相当の挨拶があってしかるべきであると、朝鮮政府の正式な謝罪を求めた。

 それに対して申大臣は、「この数年の両国の阻隔によって、貴国の内情が不安になり、ついに佐賀の変までになったことは今日はじめて承った。貴朝廷の様々な努力の委細を承って、あらためて感謝に堪えない。我が国においてもかつて阻隔を生じさせた東莱府使を追放し訓導を処刑したことは既に御承知もあるべし。しかしながら、我らはただ接待の命を奉じて来たのであってここでご挨拶するわけにもいかない。いずれ朝廷へ上申した上で、朝廷から貴大臣が納得されるだけのそれ相当のご挨拶は致すべきなり。」 と政府からの謝罪があるだろう事を告げた。

 これにより黒田は、過去のことはこれで不問にするとして、今後の日朝両国の交情に阻隔がないように永遠共守の条約を締結することを提案し、条約案を提示した。

 以上は、「きままに歴史資料館 明治開花期の日本と朝鮮(5)」から特に興味深いやり取りを転載させていただいた。澤田獏氏の労作に感謝したい。これが日本侵略の第一歩と歴史書の書かれている会談の事実関係だ。http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi016.html


国憂る者ありや

2011年09月19日 | 歴史を尋ねる

 明治8年の書契に対する朝鮮朝廷内の議論を見てみたい。これも前述石田徹氏の論文による。政権の座を追われたがまだ影響力を有していた大院君と右議政朴珪寿との論争である。大院君は当初の書契は妄りに尊称を加えた約条違反、今回の書契は①皇・大・勅の使用、②対馬藩の私貿易、③日本使節の応接、④日本と西洋の交際、⑤日本語の使用を受取拒否に挙げた。石田氏が指摘するのは②で、外務省と外務大丞を嘗ての将軍家、対馬島主と同様に捉え、日本の大政奉還・廃藩置県などの変化の意味を把握せずに、前例に依るべしとしていることである。この意見に対し、朴珪寿は真っ向から反対した。宗氏の職名、爵位が変更したことなどはそれほどたいしたことではない、天皇という言葉も日本では1000年以上も使っている、天子という表現のみ改めるべきだと主張した。彼は書契の形式上の変化を重視するのではなく、日本が書契を送ってくるという事実を重視した。「交隣においてはただ礼を以て接するのみであって、日本がすでに書契をもたらしてきている今、たとえその文中に問題があろうとも、朝鮮としては礼を以て接し、日本に乗じるべき隙を与えてはならない」、とした。

 書契授受をめぐる論争は、次にもたらされる書契を日本使節と会談を行う際にそれを確認し、その場で理を以て退けるよう命じることで結論が下された。さらに国王は、朝廷の高位要職にある者35名を召集し、再度書契授受問題の諮詢を行った。やはり受取拒否を主張するものが多く、あくまでも書契の一点一画たりとも前例から逸脱してはならないとした。この結果に朴珪寿は「各自書契を受け取ろうという意もあったが、誰もそれを口に出さず脅迫をおそれ、はっきりしなかった」と感想を残している。最近出会った歴史家加藤陽子氏(「それでも、日本人は戦争を選んだ」の著者)は歴史的事件には「問題=問い」があるはずだといっている。しかも正しい問いが。とすれば、これは朝鮮側にこそ問いを発するべきではないか。しかしながら、韓国人の書いた歴史書になぜか、この書契問題の記述が少ないか、触れずに、一気に江華島事件、日朝修好条規に飛んだ記述が多い。この時朝鮮朝廷が朴珪寿の考えを採用していれば、その後の東アジアの様子も大分違ったものになったのではないか。

 最近アジア歴史資料センターも出来て一次資料が得やすくなっている。その資料を基に、日朝間にかかわる歴史資料ブログを見つけたので参考に供したい。http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html

このHPは12月に終わるようだ。アーカイブも出来るようだが、早めに見ていただきたい。


約条を重んじて好誼を軽んずる

2011年09月17日 | 歴史を尋ねる

 朝鮮政府の論理はどうであったか。先問書契を一読して、安東晙は宗氏の官職の変更、皇室・奉勅などの語句の使用は極めて悖慢であり、図書の改鋳にも駭然とするばかり、すべて格外であると川本先問使を責めた。なおも書契の受取を求める川本に対し、詰問して受取を拒否した。最終的な朝鮮側の最終的な意思として翌年2通の理由書が草梁倭館司に手交された。その一は、「交際を始めて以来、格例に違反し義理に背いていなければ、言い出したことはすべて聞き入れられたが、今回の書契の字句の変更や印章の改変は三百年来無かったことであり、誠信に反し、約条に反する」。その二は理由書で7箇所指摘していた。①左近衛少将は本国の位階であり、不易の規に反する。②朝鮮の印章を用いていないので不易の規に反する。③「公」は「大人」に代えるべき。④皇室の語句を書契の中で使うのは許さない。⑤奉勅も同様。⑦朝鮮国が対馬島主に与えた印は私交では無い。そして最後に、書契の往復は漫然と行っているものではなく、一言一句異なれば受け入れられるものではなく、百年待っても徒に友好を傷つけるだけだという。

 以上が書契問題の前期で、中期は明治3年9月から明治4年11月、後期が明治8年9月までと石田徹氏は書契の内容によって分けている。明治3年10月の佐田調査団の調査結果を受けて、外務省員を正式な使節として吉岡弘毅を朝鮮に派遣する。しかし交渉では朝鮮側が外務省員との交渉を拒み、この時の書契も朝鮮側に渡された様子がないので、朝鮮側の反応も不明である。その後、日本側は廃藩置県、米欧使節団の派遣、征韓論等の議論を経て、明治7年6月、日朝交渉が再開された。明治8年3月朝鮮側に渡された書契は正文が日本文であることと、前期に問題となった「皇・勅」の復活、新印の使用と旧印の返還など当初の書契問題のすべてがそろっていた。また、専使の日本派遣も要求し、これまで対日外交に携わっていた担当官も処罰を求めることも行った。この点を補足すると、明治6年(1873年)11月、朝鮮ではそれまで実権を握っていた国王の実父大院君が政権を追われ、高宗の親政が始まった。まず行われたのが大院君の施策の方針転換、清算だった。その一環で対日外交に従事していた安東晙、その上役が不正蓄財で捕縛された。また、明治7年8月交渉再開の予備折衝が行われた。折衝が始まると朝鮮側は川本先問使以来の書契などの提示を求め、それを見るや、「今初めて此書を見るに一として諱斥するところなし。之を要するに到底中間に擁蔽せしと云て可ならん」と述べたという。しかしこれは朝鮮側の総意でなかった。しかし日本側の外務省森山茂は強気な折衝姿勢となった。

 本交渉は明治8年9月、新たに赴任した担当官との間で行われた。これは吉岡使節団が外務省から派遣されて以来、朝鮮が拒否し続けていた外務省員を交渉相手として正式に認めたことになる。ただ朝鮮側の主張は予備折衝時とのズレが出てきた。「皇・勅」の問題、勘合印(図書)の問題などが従来同様提起され、これらについて森山は万国について同様の方式である、対朝鮮外交も特別視せず、他の国々と同列に扱うことを主張、万国公法に基づく外交を展開した。旧約にこだわる朝鮮側を批判すると、朝鮮側は「三百年の久しきを保つのも条約ありてなり。実に万世不易の約条というべし」と返した。しかし森山は「決して不然。万世不易の約条と云うものは即恒約なり。貴国と我邦との約条の如き、即常約にして随時制宣康煕以来幾回にして全備せしや之を知らず。而して其約例多くは黙契になる。何ぞ万世不易の語を呈するや。思うに貴国は約条を重んじて好誼を軽んずるが如し如何。」 朝鮮側は之を論駁できなかった。


日朝の書契(外交文書)問題

2011年09月17日 | 歴史を尋ねる

 西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いた。この問題を石田徹氏は論文「明治初期日朝交渉における書契の問題」として掘り下げているので、問題の核心を探りたい。この文書(国書)は明治政府が政権交代を通知する文書で、結局明治8年まで朝鮮政府に受け取りを拒否されたままとなり、朝鮮が守ろうとした従来の交隣関係は、日本が日朝間にも適用しようとした万国公法的な価値観に基づく艦砲外交によって、新たな近隣関係のスタート(日朝修好条規)となった。これが日本の朝鮮侵略の端緒となったという日本人史家が多いのだが。

 倭寇禁圧を依頼してきた朝鮮との間で始まった対馬と朝鮮との交際(嘉吉条約1443年)は、通交船や貿易量を制限した貿易協定で、代りに歳賜米200石を李氏朝鮮から支給されることが決められた。その後中断時期があったものの、日朝貿易は対馬藩の財政に寄与したが、幕末貿易品目の減少で藩財政の負担を強いるものとなった。そして対馬藩は藩財政立て直しの一環として日朝外交の刷新を訴え続けていた。対馬が朝鮮に依存しなくてもすむよう、屈辱的な対応をしなくてすむよう、改めてほしいというものであった。明治政府が発した「王政御一新」の通告の命を受けた対馬藩は、日朝外交刷新のきっかけにと、書契作成に当たった。「宿弊一掃」「旧弊一洗」「対州私交の弊例更革」とは、今回の書契で、彼国の印を改めて朝議の上作成された新印を用い、軽蔑侮慢藩臣を以て我を待つの謬例を正し、旧来の国辱を雪いで、専ら国体国威を立てんと欲することであった。「此度の一挙」によって、これまで続いていた朝鮮からの経済的援助も中断され、財政的にさらに厳しくなることも承知の上で、対馬藩は書契問題の引き金を引いた。

 明治元年(1968年)12月18日対馬藩が釜山草梁倭館へ派遣した先問使川本九左衛門は朝鮮側担当官の安東晙に用件を伝えて書契を示した。内容は次の通り。「国内の時勢が一変して政権が皇室に帰したこと、それに伴って宗家当主である宗義達が旧勲によって昇叙、左近衛少将になったこと、朝廷からの命により宗氏が今後も日朝間の交隣の職を担うこと、今回朝廷から新たな印を賜ったので大修大差使の持参する書契にはその新印が押されていること、そしてこれまでの図書(朝鮮側の印)は、朝鮮側の厚誼によるものだったが、今回は朝廷の命によるものであり、「私を以て公を害する」ことはできないので了解してほしい」旨を告げた。朝鮮側はその書式や語句が前例にないことから受け取りを拒否し、膠着が始まった。こうした中で、明治2年9月外務省が太政官に宛てて出した伺い書がある。これまでの朝鮮国との交際は対馬藩宗家に委任して私交に流れ、対馬藩が日朝外交にこだわるのは朝鮮への経済的依存によるものとして、見直しを迫るもの、この時外務省が指向していた万国公法による外交関係の樹立を目指すべきだとした。しかし日朝外交の沿革・実態について知識がなく対馬藩抜きで交渉を進めることができないので、外務省自ら日朝外交の実態調査に乗り出す。佐田白茅を長とする調査団を派遣した。その報告書は、この図書は彼国の臣下に等しく、加えて歳賜米を貰うことは臣礼をとることになる、対馬が日朝両属しているような秩序ではなく、日本と朝鮮が一対一の関係を結ぶ秩序、つまり万国公法に基づく関係を主張した。対馬藩が訴えていた屈辱は、明治政府にとっても見逃しえない謬例であった。


小中華

2011年09月04日 | 歴史を尋ねる

李朝朝鮮は1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。太祖李成桂を助けて李氏朝鮮の建国に大きい功を立てた鄭道伝、趙俊などは、皆が朱子学の信奉者だった。彼らは儒学的な理想を新王朝に実現させようと、政治、宗教の指導理念に儒教を採択すると同時に、仏教を猛烈に排斥させた。李氏朝鮮では君主の進講をはじめとして、成均館、四学、郷校などの教育機関や科挙などにもその科目が採択され、国の政治は儒教政治のようになった。

 朝鮮は明の華夷朝貢体制から見れば夷狄に分類されるが、儒教文化の面では、中国と対等か、中国の次に行くものとして自負し、「華」と称した。自ら中華と同一視して、「小中華」と称し、明と一体化する一方、周辺国家の女真・日本・琉球を夷狄とみなした。これがいわゆる小中華意識である。この時期の朝鮮の国際観念と意識をよく示しているものとして、混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)がある。これは1402年(太宗2年)に製作された地図で、中国が世界の中心に位置し、朝鮮は右側にあって、面積が非常に拡大されて描かれている。これに比べ、日本や琉球は小さく書かれ、東南アジアは位置がおかしい。この図から見えることは、大中華・明、小中華・朝鮮、夷狄は女真(のちの清)、日本、琉球、禽獣は東南アジア、ヨーロッパ、アフリカ。そして女真と対馬を朝鮮の羈縻(きび)圏の中に編入し、彼らに朝貢秩序を遵守するよう強制した。さらに時代が進んで朝鮮の外交構想は、日本・琉球や中国東北地方の女真を羈縻交隣の対象として位置づけた。羈縻の羈は午の手綱、縻は牛の鼻綱のことをさし、羈縻政策(きびせいさく)とは中国の唐王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対してとった統御政策の呼称である。彼らがもともと有していた統治権を中華の政治構造における官吏であるという名目で行使させようとするものであった。

 日本の室町幕府は1403年、明の冊封体制に入り、1404年、国書を持参した日本国王使を朝鮮に派遣し、両国間に正式な国交が開かれた。日本からの使節を日本国王使、朝鮮から日本への使節を通信使といった。通信とは信義を持って通好するという意味で、外交儀礼上、対等国間で派遣される使節を指した。通信使が定例化し、儀礼体系化されたのは朝鮮時代後期、徳川幕府の時代であった。後期の日朝関係は朝鮮朝廷から日本の徳川幕府に派遣され、国書が交換される通信使行と、釜山の倭館で行われる対馬との通商貿易であった。

 1876年、日朝修好条規の締結以後、朝鮮朝廷は開化政策の推進過程で、どの国よりも日本との深い関係を持った。修好条規締結時に日本の全権大使黒田清隆が朝鮮の接見大臣に、日本側は今回正副大臣を派遣したことに対し、朝鮮側から回礼使を派遣するよう勧告した。これに対し朝鮮側は回礼の名分とともに日本の情勢と開化文物を探索するという実質的な動機を持って、修信使という使節団を派遣した。その後も派遣され前後4回実施された。この時期は朝鮮開化史の幕開けの時期に該当した。開化思想が形成され、開化自強政策が実施される中、開化派が政治勢力として浮上した時期でもあり、朝鮮の政策路線をめぐって、斥邪派との対立が鮮明になった。このとき日本側も汽船の提供もあり、使節の接遇も丁重であった。日本側は西欧列強の侵略に対応してアジアの連帯を図ろうという純粋な意図のほかに、明治日本の経済的・軍事的実力を見せて、朝鮮を開化政策に転換させ、清に対する日本の優位性の誇示があったのではないかと、河宇鳳著「朝鮮王朝時代の世界観と日本認識」の中で語っている。