二・一ゼネスト その2 マッカーサー声明を招き入れた共産党の情勢判断

2020年12月29日 | 歴史を尋ねる

 二・一ゼネストについて、山川日本戦後史は、「マッカーサーがストの前日に中止命令を出した。大きな高まりをみせながらも、GHQの指令一本でストは中止となった。ストは中止されたものの、これは戦後労働運動の発展の画期となった」と記述する。 一方、ウキペディアは、「共産党と左翼勢力によって1947年(昭和22年)2月1日の実施を計画されたゼネラル・ストライキ。吉田茂政権を打倒し、共産党と労働組合の幹部による民主人民政府の樹立を目指した2.1ストとも言う。決行直前に連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となり、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右した」  尚、この記事は検証可能な参考文献か出典が全く示されていないか、不十分です。脚注には江崎道朗『朝鮮戦争と日本・台湾「侵略」工作』PHP新書2019年からとあり、江崎氏がアカデミック出身ではないので、不十分というウキペディア自身の注が併記されている。 では、ブリタニカ国際大百科事典はどう解説するか。「同年1月 15日全国労働組合共同闘争委員会が結成され,全日本産業別労働組合会議 (産別組合) ,日本労働組合総同盟 (総同盟) ,官公庁労働組合の共同闘争体制 (30組合,400万名) ができあがり,47年1月 18日にゼネスト宣言を発した。さらに日本社会党,日本共産党などを含めた倒閣実行委員会も発足し,吉田内閣打倒,民主人民政府樹立の政治要求も掲げられた。しかしこの計画も1月 31日午後2時半連合国最高指令官 D.マッカーサーの禁止命令によって中止された。連合国総司令部 GHQが労働運動に正面から介入した初めての事例で,初期占領政策の転換を示した」  ブリタニカもウキペディアの趣旨に近いが、ストの目的を労働組合の要求レベルにとどめている。 このブログでは児島襄氏の著書によって、その事実関係を追いかけたい。

 1月29日、全官公庁伊井議長は中労委を訪問し、前日の調停案に対する拒否回答を行った。全官公庁は徹夜で協議をかさねすえ拒否を決定した、交渉期限ぎりぎりまで、スト回避のため、政府との交渉に全力を注ぐ、と。政府側は調停案の応諾と1月1日からの実施を回答した。だが、全官公庁は全力態度を変えず、「もはや一大ゼネストをもってこの亡国政府を打倒し、民主政府を樹立する、と声明した。もはや政変の決意表明となる。では、占領軍の中止命令はないのか。共産党員である産別組織部次長斉藤一郎によれば、共産党グループ会議でもその点が問題となったが、指導者野坂参三は占領軍の介入はない、と判決した。①第二十四軍団長ホッジ中将の南朝鮮における労働運動弾圧が国際的批判を受けている、②南朝鮮以外の占領地でスト弾圧はない、③南朝鮮に関して米本国でマッカーサー元帥批判が高まっている。元帥は自らの首をしめるような日本での労働運動弾圧はしない、というものであり、政治局員長谷川浩も占領軍は絶対に手を引くと言明した。当時の共産党には占領軍を解放軍と見做し、当然に解放党である共産党を支持しているとの確信がうかがわれるが、占領軍は反共に立場をとる米国の軍隊である。すでに総司令部経済科学局は繰り返し中止を勧告し介入をほのめかしていた事情は野坂参三らの耳にも入っている。その意味で、共産党指導陣の判断は希望的観測であったが、第八軍司令官アイケルバーガー中将は、「共産主義者が支配する組合に鉄道その他の連絡手段を確保させるほど、占領を崩壊させる容易な方法はない。われわれが日本に上陸した際に発出した労働組合助長の指令は、民主主義を逆行させるものでしかなかった。敗戦国の権力を無責任なグループに集中させることは弱点である」と。

 1月30日、政府はゼネスト回避の手を打った。労組側が倒閣を目標にする政治ストを決心している以上、経済的要求を丸呑みしても収まるとは思えない。総辞職が政治スト回避の方策として賛成する閣僚も多かったが、吉田首相は内閣改造による押し切りを主張した。むしろストに節度を求める逓信省、今一度慎重さを求める運輸省、官吏服務規程違反として処分を伝える内務省、各種刑罰法令にふれることとなると、警告を発する検事総長と、説得と警告を試みた。しかし、相手方を納得させられるものではなかった。そして、政府はそれ以上の打つ手がなかった。  同日、経済科学局長マーカット少将は、全官公庁の伊井議長ら代表を招き、1月22日の勧告を総司令部の正式命令として発出する、6時間以内にゼネスト中止指令を各組合に出して、その写しを持参せよ、と。伊井議長は組合側からは中止指令は出せない、中止させるのならマッカーサー元帥の直接命令が必要だ、と主張。命令だ、中止指令を持参せよ、ゼネスト中止指令に反抗するする者は、労働組合運動を裏切る者だ、と少将は席を立った。 総司令部参謀長ミューラー少将はアイケルバーガー中将にこう言った。①マッカーサー元帥は、総司令部の権威と面子のために経済科学局にゼネストを中止させようとしている。②しかし、同時に元帥はマーカット少将の無能も承知しているので、翌朝の少将の工作失敗にも備えている。  この夜、首相官邸には蔵相石橋湛山、逓信相一松定吉、運輸相平塚常次郎、厚相河合良成、文相田中耕太郎が交渉のため待機した。全官公庁は側は、マーカット少将の期限付き通告について各組合の中央闘争委員会で協議を行い、全逓は58対16、国鉄総連合は24対12、また全教協もゼネスト突入を決定した。

 1月31日、全官公庁、伊井議長は共同闘争委員会の議決を求め、24時間後のゼネスト開始が確認された。首相官邸では待機する5閣僚のうち3人は引き揚げ、石橋蔵相と河合厚相は残った。経済科学局のコピー持参刻限であるが、スト中止は出来ぬ旨を同局に通告した。首相官邸に共産党書記長徳田球一があらわれ、「日本民族の権威のために組合は断固ゼネスト突入を決めた。頼もしいのは労働者だ」と石橋蔵相に告げた。官邸には中労委の末広会長代理がいたが、全官公庁代表は、政府案を拒否する、ゼネスト突入は確定した、と通告した。午前八時、予定計画にしたがい、第八軍は警戒態勢に入った。第八軍の警戒態勢実施のニュースは日本側にも伝わった。中労委事務局賀来第一部長が、占領軍がゼネスト弾圧に踏み切ったのではないかと、共産党書記長徳田球一に述べると、「いや、とんでもない。あれは、われわれ共産党がクーデターをおきなうとき保護するためにやっているんだ」と。占領軍はゼネスト、共産革命を支持すると確信していた。午前10時過ぎ、アイケルバーガー中将に参謀長ミューラー少将から電話があり、経済科学局の工作が失敗に終わったので、本日午後、マッカーサー元帥がゼネスト中止命令を発出することになった、と。午後2時半、総司令部はマッカーサー声明を発表した。『連合国最高司令官として私に託された権限に基づき、ゼネストを実行せんとする労働組合の指導者に対し、現下のごとく窮乏にあえぎ衰弱している日本の実状において、このような致命的な社会的武器に訴えることを許さない旨を通告し、このような行動をとらざるよう指令した。日本の都市は焦土化し、産業は停止状態にあり、国民はようやく飢餓をまぬかれようとしている。このような状況での輸送と通信を不具にするゼネストは、食糧と石炭の移動を困難にし、日本国民の大多数を事実上の飢餓状態に陥れ、日本国民の家庭に恐るべき結果をもたらすであろう。ゼネストの関係者は、日本国民の中の極く少数者である。日本は最近、少数者により大多数が戦争の惨禍をこうむる体験をしたばかりだが、いままた少数者が大多数に災いしようとしている。その結果は、どうなるのか。日本国民が少数者によって乱暴に押し付けられた運命に身をゆだねるか、あるいは連合国が日本国民に必要な食料その他の物資を無限に供給せねばならなくなる。連合国側は、すでにその乏しい食料の中から対日援助を行っている。私がこれ以上の負担を連合国民に要求することは、ほとんど不可能である。ゆえに、内外の公共の福祉のためにゼネストを中止させる』と。

 午後4時53分、マッカーサー声明がラジオ放送された直後、米兵二人が全官公庁を訪ね、伊井議長にマーカット少将の出頭命令を伝達、各単産の委員長も同伴した。司令部に入ると、マーカット少将は憎悪に燃える視線を伊井議長に向け、直ちにスト中止をラジオで放送せよと命令し、マッカーサー声明文を突きつけた。外界では事態がスト中止の方向に急転回していた。共産党が声明を発表した。「総司令部の声明はゼネスト中止を通告したのであって、合法的な目的貫徹のための行動の自由を制限したのではない。組合は自己の当然の要求を掲げて、政府または資本家に対して闘争を続けるであろう」と。午後9時16分伊井議長はマイクの前に立った。「声がかれていてよく聞こえないかもしれませんが、緊急しかも重要ですからよく聞いてください。私はいま、マッカーサー連合国最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に明日のゼネスト中止をお伝えしますが、実に、断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では、遺憾ながらやむを得ません」なお生活改善のために政府と交渉を続けると言い、最後に「日本の労働者および農民万歳、われわれは団結せねばならない」と。ときに嗚咽に途切れる切々とした伊井議長の放送は、聞く者の胸を打ったが、同時に疑問も誘った。労働者を救い亡国内閣を打倒するゼネストだと言っていた、では進駐軍は最初は全官公庁を指示していたのか、最後の労働者側を裏切ったのか、あるいは全官公庁側の一方的な誤算だったのか。アイケルバーガー中将はこう感想を手記している、「彼らは新憲法が施行されて日本が民主国家になる前に、日本を共産国家にしようとしてゼネストを計画したのかもしれぬ。そんなことは今後も出来ぬ」

 革命到来とさえ、国内を興奮させたぜネストは、中止されてみると、まるで突風が吹き抜けただけのように、世間の興奮も意想外にあっさりと消え失せた。その意味では、政治スト、倒閣ストの性格を持ったゼネスト乗り切りは、政局の安定をもたらす筈であるが、事情は相違した。政府が自力でゼネスト騒ぎを収拾できなかった不手際は海外からも指摘された。「現政府より進歩的な政府が出現すれば、日本の経済状態を改善することができる」とシカゴ・デイリー・ニューズが論評すれば、他の米国紙の多くも同様の批評記事を並べた。国内のマスコミも、改めて吉田内閣の反動性を非難したが、与党・自民党内からも不満の声が噴出した。対象は1月31日に実施した内閣改造人事であった。元厚相芦田均は、これで政党内閣か、官僚内閣だ。外からの不評と与党の不満できっと潰れ、と。マッカーサー元帥は危機を感得した。元帥は二年後の講和を予期している。そのためには、日本の政府と政局が安定して、新憲法が定着することが前提になる。内閣がぐらつき政情不安が続けば、日本に講和は早すぎる、占領の長期化が必要ともなりかねない。元帥は吉田首相に書簡を送った。「私の信ずるところによれば、総選挙の時期に到ったと思う」 この一年間に日本の社会は非常な変化をとげたので、諸問題についてあらためて国民に自由なる意思を問う必要がある、新憲法の実施に伴う新立法が施行されるようにするため、現在の議会閉会後なるべく速やかに総選挙は行われるべきである、と。新憲法施行日の5月3日の前に議会を解散して総選挙を行ない、新議会で新憲法に臨め、との命令にほかならなかった。

 

 

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二・一ゼネスト その1 「その混乱の中にクーデターをやるんだ」

2020年12月26日 | 歴史を尋ねる

 長い道草を経て、日本の戦後に戻って来た。昭和22年お正月から再スタートする。昭和22年の年頭あいさつ、 マッカーサー元帥の年頭声明、「新憲法によって日本国民はこれまでにない自由と権利を入手するが、同時に責任を負うことになった。特にこの一年は次の幾世代にも影響を及ぼす重大な時期になる。それはいまやっと乗り出したばかりの諸般の大改革を結実させ得るからである」と。  吉田首相の年頭の辞、「敗戦後、工業諸設備は破壊せられ工業原料たる物資のストックは漸く枯渇し、生産は近時著しく減退し、我が現下の経済事情は誠に憂慮すべき状態にある。しかも、前年の秋いらい、労働争議、ストライキが続発し、それが生産減退、インフレ及び生活不安を激化させている」「この悲しむべき経済事態を政争に利用し、経済危機を叫んで職場を放棄し社会不安を醸成しようとする勢力を排撃せざるを得ない。このままでは、連合国の日本に対する同情は失われ、物資供給も再考慮されるかもしれない。然れども、私はかかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。愛国的熱情に富めるわが国民は、必ずや一致協力して経済再建に邁進することを確信している」  吉田首相は、マッカーサー元帥の書簡を受け取った。日本国憲法は施行後一年ないし二年の間に連合国および日本国会に再検討の機会が与えられ、修正が必要と認められれば、国民投票または直接に日本国民の意見を表明する適当な手続きをとることができる、という内容だった。しかし、吉田首相にも政府にもこの書簡について真剣なる検討を試みる余裕は、この時期なかった。容易ならぬ年の幕開けの形で、全国をおおうゼネストの気配が色濃くなっていたからだった。

 1月6日、産別(全日本産業別労働組合会議)と国鉄総連合(国鉄労働組合)がそれぞれ幹事会、闘争委員会を開いた。労働攻勢は前年の秋から急速に盛り上がり、国鉄総連合、全逓(全通信従業員組合)、全教組(全日本教育組合)その他を集めた全官公庁(全官公庁共同闘争委員会)が組織されていた。官公庁労組が一本化され、その分野でのゼネスト態勢が組成されたが、他の企業の組合間でも大同団結の動きが進み、労働攻勢は倒閣運動の色彩も加えて政局の動揺を誘った。その勢いの火に油を注ぐ形になったのが、吉田首相の不逞の輩発言だった。産別幹事会は声明文を発表、不逞の輩暴言は、基本的人権である大衆行動の自由を否定し、労働者階級と一般大衆との分離を企図するものであり、政局担当の力を失った証拠である、全人民の名をもって吉田亡国内閣退陣を要求する、と。1月9日、全官公庁は、方針を決定、①スト態勢確立大会を開く。その際最低賃金要求とゼネスト宣言文を採択する。②スト決行日は2月1日とする。役所の反乱につづいて、民間労組の蹶起も必至とみられた。1月15日、産別を中心に総同盟(日本労働組合総同盟)その他を加えた全闘(全国労働組合共同闘争委員会)が組織され、これで全官公庁と全闘が足並みを揃えれば、官民の労組を網羅した全国ストが可能となった。通常国会は自然休会明けを伸ばして2月1日からにする様に提議され受諾された。政府の狙いは二つ、一つは政局打開のため三党(自由、進歩、社会)連立内閣を構想し、その成功によって、二・一ゼネストを回避したい、もう一つは、その日を議会開催日として世論に問うべき。

 ところで日増しに高まるゼネスト気運の中で、市民の間には素朴な疑問を発生した。マッカーサー元帥のは、前年の食料デモを暴民デモと見做して禁止した。社会混乱を招くとの理由によるが、それならば、今回は大規模な混乱発生が予想されるゼネストを総司令部は容認するのか。反政府ゼネストは反米ストにも値するが、だが、現実にゼネストは実施に向かっている。ということは、総司令部がやらせる以外には出来ない筈だが、では総司令部は吉田内閣に見切りをつけたのか❓ ゼネストの背後に総司令部、少なくともその総意ではなくとも、一部の有力な支援があるのではないか、という疑問だった。第八軍司令官アイケルバーガー中将も日誌に記述している、「ストについては、それが米国人共産主義者の仕業か日本人共産主義者の仕業かは、良く判らない。彼らはコンスタンチノの指示にしたがったのだと思う。たぶん、彼自身がストを起したのだ」と。コンスタンチノは総司令部経済科学局労働課労働関係班長だった。ほかに労働課長コーエン、同課雇用班長コレットも同類、ゼネストは総司令部内の共産主義者の共産主義者の指導によると判断した。中央労働委員会事務局第一部長賀来才二郎によれば、労働課長コーエンは全官公庁代表にしっかりやれといい、共産党書記長徳田球一は労働課にほぼ日参してそのたびにニコニコしていたと言う。厚生省労政局長吉竹恵市も、課長コーエンの労組一辺倒の態度に困惑し、外務省筋からGHQ幹部級に話をさせたが、担当セクションに任せてある、との返事であった。米国はセクショナリズムの国であること、労働組合の助長が占領政策の一部であることを考えれば、この総司令部の反応も理解出来た。だが、現実にはゼネストは実行不可能であった、と児島襄氏。日本占領は実質的には軍事占領である。その実務は第八軍が担当する。政策担当セクションがゼネストを支持しても、第八軍はそれを阻止する力があり、アイケルバーガー中将はゼネストは有害だと判決していた。

 アイケルバーガー中将は鉄道に注目した。日本の鉄道はわれわれのアキレス腱だ、百人の決死隊がそれぞれトンネルを爆破すると、われわれの占領を崩壊させることができる。当時の日本は交通の動脈が鉄道だった。占領軍の業務も日本の政府、経済活動もすべて鉄道に依存している。鉄道電話が途絶したうえ、百か所のトンネルが爆破されたら、占領軍部隊は各地で補給が受けられぬままに孤立し、各個撃破の危険に直面する。中将は総司令部経済科学局長マーカット少将に必要なら第八軍は軍事行動をとる、そうならぬようスト中止を指導するのが、貴官の任務だ、と。日本側では吉田首相の描いた連立工作は、社会党の反対で失敗に終わった。1月18日、全官公庁は2月1日から無期限ストに入ることを正式に決定すると共に、ゼネスト突入共同宣言を発表した。「われら260万の全官公労働者は2月1日午前零時を期して、全国一斉にゼネストに突入し、全要求の貫徹するまでは、政変の如何にかかららず断固として闘うことを宣言する」  ここでいう政変は三党連立政権の誕生を指すが、その成否にかかわらず闘うのは、共産党主導の民主政権の樹立をめざすというのにひとしい。全逓、全教協、国鉄総連合は全て停止、学校、郵便局には次々に二・一ゼネスト決行と書いた看板が立てられ始めた。アイケルバーガー中将は、事態は日本赤化運動または反米革命に発展しかねないと判断して、至急スト中止の措置をとるよう経済科学局長マーカット少将に勧告した。

 マーカット少将は腰を上げた。1月22日、全官公庁議長伊井弥四郎ら幹部を招き、ゼネスト中止を勧告した。元帥はこの度のゼネストを非常に心配しているとして、少将は覚書を提示した。日本の労組の権利も連合国最高司令官の制限下にある。占領政策と社会に有害なストライキは認められない、と。あくまでもゼネストに入るということになれば、死の犠牲を負担せねばならぬ者も発生するだろう。少将の通告は、労組側に対する経済科学局の変身を告示している。だが、全官公庁代表たちは、ピンとこなかった、会談はなお友好的な雰囲気に包まれていたから。代表たちはゼネストといわず、呼称を変える相談を持ち掛けていた記録が残っている。翌日に回答を貰いたいと言ったが、代表たちは三日後にしてほしいと要請すると、少将ともども承諾した。退出した一行は首相官邸に向かい、蔵相石橋湛山と会見した。蔵相はベースアップの回答案を提示した。全官公庁の要求は三倍のベースアップで、伊井議長は即座に不同意を表明した、われわれの要求は最低のものである。労働者は経済、生活の安定を求めているが、現政府にその力はない、と。石橋蔵相は反発した。ここに示したのが政府の最終案で、再考の余地はない。会談は物別れに終わった。翌日全官公庁拡大闘争委員会は前日の交渉について声明を発表した。さらに社会党中央執行委員会は、ゼネストは絶対に回避せねばならない、しかし、ここに至ったのは政府の責任である。政府はゼネスト以前に争議の解決をせねばならぬ、その自信がないならば、総辞職によって責任を明らかにするとともに、ゼネストを延期せねばならぬ、と。中央労働委員会は政府と全官公庁の双方に斡旋して第一回団交を開くことを承知させた。拡大闘争委員会は交渉条件を決定した。①政府に全官公庁の団体交渉権を認めさせる、②政府案を白紙撤回させる、③交渉期限を1月29日24時、とした。この日全官公庁代表は総司令部を訪ね、経済科学局コーエン労働課長に面会、政府が要求を受けない限りゼネストは中止できないと回答した。コーエンは興奮した。課長としては、日本労働界の民主的発展のために組合側を支援してきたが、今や総司令部の雲行きは変わった。ゼネストを実施すれば、諸君をはじめ指導者は監獄に入ることになりかねない、と。代表たちも興奮して、投獄されてもこのストはやめられない、と。ゼネスト中止勧告に対する正式回答をさらに三日間延期してほしい、いやダメだ明日(1月26日)午後一時が限度だ、それ以上の譲歩は出来ない。

 代表たちは予定通り首相官邸で政府側との団体交渉の席に着いた。政府側は吉田首相が欠席し、国務相幣原喜重郎、同埴原悦二郎、厚相河合良成の三人、全官公庁側は伊井議長ら25人、ほかに中央労働委員会から2人。団体交渉権は即諾したが、22日の政府案撤回は応じず、交渉は打ち切りとなった。  アイケルバーガー中将はは現実に鉄道のトンネルが破壊された場合の図上演習を行わせ、その報告書を添付して建白書を元帥に提出した。経済科学局の中には毒虫が巣くっている。やつらに任せればゼネストは必至だ、と。  1月26日全官公庁の代表たちは、拡大共闘委員会で既定のゼネスト方針を再確認したあと、約束通り労働課長コーエンを訊ねた。議長伊井弥四郎は、政府との交渉は不調に終わった。要求が貫徹できない限りゼネストは止められない、と。課長コーエンは顔色を一変させ、諸君は自分で自分の首を絞めることになった、占領軍としては、政府に対するゼネストの恫喝も許すつもりだった。しかし本日の回答はそれも出来ないものにした。議長はなお政府に圧力をかけてもらいたい、と要請したが、課長は不可能だ、組合指導者の中には自分の政治目的のために行動する者がいる、それは私に責任を負わす結果になる、と。   1月27日首相官邸で全国地方長官会議が開催され、首相吉田茂が訓示した。内容はゼネストを対象にしたもので、官公吏の給与は国民の税金を基盤にする国家の財政負担力によって定まること、官公吏は国家国民の公僕であることを強調し、自粛を要望した。全官公庁は直ちに声明を発表し、首相訓示は特権階級を擁護して封建制度を維持しようとするものだ、反駁した。

 この日、宮城前広場で三十万人が集まって、内閣打倒危機突破国民大会が開かれ、最低賃金制の確立、吉田亡国内閣打倒、社会党中心の民主政府樹立などが決議された。そして中央労働委員会は、この夜、18歳650円、平均税込み1200円の調停案を政府、全官公庁に提示した。中労委事務局第一部長賀来才二郎によれば、全官公庁側は不満を表明したが、中には考慮の気配を示す向きもあった。しかし出席した共産党書記長徳田球一は強硬に反対した。賀来部長がどの線なら納得するか、と質問すると、徳田書記長は要求通り1800円と応える。では1800円ならゼネストは中止するのかと質問すると、いや、それでもストはやる、と。国鉄が一日止まると、回復には10日以上一カ月はかかる、と賀来は聞いていた。東京都の米の備蓄量はニ・三日分に留まる。ゼネストすなわち食料の枯渇であり、餓死者、食糧暴動の発生も予想される。労働者の味方を自認している共産党が、それでもよいのか、と徳田書記長に詰問すると、「それは気の毒だと思うけれども、われわれはその混乱の中にクーデターをやるんだ」と。賀来部長は、徳田書記長がたしかにそう明言したと記述している。

 

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老川慶喜著 『もういちど読む 山川 日本戦後史』 山川出版社

2020年12月22日 | 歴史を尋ねる

 戦後の極東アジアの動向を巡り終えて、いま一度日本の戦後史に戻るとき、日本の歴史教科書はどう記述しているのか、日本を代表する山川出版社の上記表題の本を手にした。出版社はいう、「高校の教科書を一般読者のために書き改めた教養書、日々変化する世界と日本をとらえ、ニュースの背景が分かる社会人のための教科書」とキャッチコピー。著者老川慶喜氏は、交通史特に鉄道史から研究をスタートし、近年は戦間期の自動車工業、第1次大戦後の生鮮食料品市場問題、さらには戦後の運輸業などに研究対象時期と分野を広げている、という。戦後日本全般の歴史が専門分野なのではないので、著者の日本戦後史の記述内容は、現在の通説による記述となっているのだろう。初版が2016年4月となっているので、そんなに古い著書ではない。戦後の日本につて、コンパクトでよくまとめているが、しかし、どうも引っかかる箇所がいくつかあって、本当にそうなのか、児島襄氏の著述内容と比較してみると、明らかにおかしい。これがいわゆる教科書問題と指摘される事項なのか、と思わざるを得ない。歴史的事実は詳述すると、事実関係を曲げることはなかなか難しい。ただその事実の解釈は多様であっていい。しかし教科書などの記述はコンパクトに纏められる反面、祥述出来ない分、事実に基づかない解釈をしてしまう恐れがある。しかも通説によって記述されているので、通説自身がその弊に陥っている可能性がある。いくつか例を引きたい。

 「3 朝鮮戦争と戦後復興  朝鮮戦争と警察予備隊ぼ創設  1950(昭和25)年6月25日、朝鮮半島の北緯38度線で戦闘が開始された。38度線の南半分に成立した大韓民国(韓国)は、政情が不安定なうえに財政危機もつづいていた。李承晩政権は。国内の危機を北への武力挑発で解消しようとし、武力による北進をとなえていた。一方、北半分の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、ソ連軍の援助で軍備を整え、南の政情不安に乗じて一挙に武力による南北統一をはかろうと画策した。朝鮮戦争は、南北双方の思惑によって開始された内戦であった」(上記著書 P61)

 ウキペディアの朝鮮戦争欄では、北朝鮮の奇襲攻撃と言っている。詳細は以下、「1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみで、農繁期であったこともあり、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があったため軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲から6時間も経ってからとなった。さらに韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車隊を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。」  今やウキペディアの説明が通説だが、上記山川本では痛み分けにしている。これだけの事件で、事実関係を曖昧にすることは許されない。2016年出版だから、事実関係は明らかになっており、他意があると、考えざるを得ない。あるいは従来の通説の引き写しか。

 「2 非軍事化と民主化  「五大改革」の指令  東久邇稔彦内閣総辞職後の1945(昭和20)年10月、幣原喜重郎が組閣した。幣原は、戦前期に対英米協調外交を主導してきた実績があり、戦争責任者となる心配がなく、アメリカの歓心がを買うことができると判断されたからである。なお、吉田茂が外相として内閣にとどまり、GHQとの連絡役となった。 マッカーサーは、幣原首相に対して、①選挙権付与による婦人の解放、②労働組合結成の奨励、③自由主義的教育の実施、④秘密警察の廃止、⑤経済機構の民主化の、いわゆる「五大改革」を指令した。幣原首相をはじめ日本の当局者は、戦時中の体制を廃止して戦前の日本にもどせばよいと考えていたが、アメリカはもっと根本的な社会の改革を要求しており、憲法の自由主義化をも示唆していた。五大改革の指令に引きつづき、GHQは翌年1月に公職追放令を発した。そして、軍国主義を進めてきた教員の教職からの即時追放、財閥財産の凍結、財閥解体、皇室財産の凍結、戦時補償の凍結、軍人恩給の廃止、財産税と戦時利得税の創設、農民解放、国家と神道の分離、軍国主義者の公職追放、超国家主義団体の解散などを指令した。」(上記著書P13)

 ここで事実関係を争いたいのは、『幣原首相をはじめ日本の当局者は、戦時中の体制を廃止して戦前の日本にもどせばよいと考えていた』という老川氏の記述である。同じ場面で、児島襄氏の記述を引こう。当ブログのタイトルでは、「東久邇宮内閣から幣原内閣へ」で詳述している。 もう一度引くと「10月9日幣原喜重郎内閣が誕生、二日後、マッカーサー元帥を訪ねた。マッカーサー元帥は、日本民主化のためには次の五項目の実践が必須だと、幣原首相に告げた。①参政権の賦与による婦人の解放、②労働組合の組織の奨励、③学校教育の自由主義化、④秘密審問司法制度の廃止、⑤経済制度の民主化、独占の是正。首相は、何れも実行できる、と即答した。実は、首相は親任式後の初閣議で政府が直ちに取り組むべき課題として、八項目を決定していた。①民主主義の確立、②食糧問題の解決、③復興問題、④失業問題、⑤戦災者の救護、在外同胞および軍隊の処理、⑥行政整理、⑦財政および産業政策、⑧教育および思想。幣原首相は、八項目を説明し、日本には戦前に「民主主義の潮流」があった、必ず実現する、と述べた。愛想よく首相を送り出した後、元帥は渋面をあらわにした。元帥は五項目を提示する前に、民主化のための社会改革を求め、憲法の自由主義化を包含すべき、と主張していた。元帥の要求は実質六項目で、とりわけ憲法改正を最重要テーマとして指摘したが、首相はそれに触れず去った。憲法改正に言及せず日本的デモクラシーを強調する首相に、不安感をさそわれた。幣原内閣も東久邇宮内閣に似て、口先で民主化を唱えながらも、実行となると逃げだすのではないか、と」 幣原は、日本には戦前に「民主主義の潮流」があった、必ず実現する、と述べている。大正デモクラシーのことを指しているのだろう。更に日本政府は、GHQに指摘される前に、考えていたという。マッカーサー元帥による占領政策との緊張関係の中、日本は痛みを伴う再生の作業を始めようとしていた。老川本も、「同じ敗戦国のドイツのように、占領軍が行政や司法を担当する直接統治ではなく、最高司令官が日本政府に命令し、日本政府が実行するという間接統治が取られた」と記述しているが、最高司令官が全てに亘って命令を出しているわけではない。マッカーサーは日本政府が自主的に行政を進めている様工夫もしている。従って日本政府はいかに自ら主体的に行政を進めるか努力した。重光葵は、『日本の改造は自己改造でなければならぬ。強制されたから渋々やるというのでは、いずれ旧態に復する。ポツダム宣言は日本の政治改革を条件にした和平勧告であり、その受諾で両国が合意した。敗北して占領されても卑屈になる必要はない。日本のために日本による自己改造を、毅然として行えばよい。占領軍対処方法は、何れの場合も、ディグニティ(威厳)を持つこと』と当時語っている。また、児島氏は膨大な日米双方の資料渉猟・取材を費やして当時の事実関係を記述している。これは、歴史に対するリスペクトだと思う。残念ながら、老川氏の日本戦後史には戦後を歩いた日本人の懸命の努力が感じられない。日本人に対する理解不足と表面的な戦後作られた安易な通史に安住しているように感じられる。

 もう一つ例を引こう。「1945(昭和20)年10月、マッカーサーは幣原喜重郎首相と会談し、大日本帝国憲法(明治憲法)の改正を要請した。幣原には憲法を改正するという積極的な意思はなかったが、マッカーサーの指示を受けると、憲法改正が国務であり内閣の責任であるとして閣議決定した。民間では、高野岩三郎、鈴木安蔵、森戸辰男らによる憲法研究会が、12月に主権在民原則と立憲君主制を採用した憲法草案要綱を発表し、GHQや日本政府に提出した。GHQは、マッカーサー草案(GHQ草案)を作成するさいに、この憲法草案要綱を参照したといわれている。 一方日本政府は、国務大臣松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設置し、1946(昭和21)年2月に憲法改正要綱(いわゆる松本私案)をまとめた。しかし、これはあまりにも保守的で、国体護持を前提にて、天皇制にもとづいた明治憲法の根本原則を変更するものではなかった。松本私案の内容を知ったマッカーサーは、①天皇は国家元首であること、②戦争を放棄すること(非武装、交戦権の否認)、③封建的諸制度を廃止すること、の3原則を示して、民政局にGHQ草案の作成を指示した。そして、日本政府が提出した松本私案を拒否し、GHQ民政局が起草した新憲法草案を日本側に提示した。GHQの草案には、天皇大権を否定し、基本的人権と民主主義を尊重するなど、きわめて進歩的な内容が盛り込まれていた。」(上記著書P18) 

 これに対して児島襄氏の「講和条約」ではこのような事実関係を記述している。「12月21日、総司令部当局談が発表された。『・・・日本の民主化に関する基本的指令は一応出つくした。今後は日本の民主的再建は主として日本自体の問題となっている・・・』」 ・・・「松本烝治国務相は、総司令部当局談を憲法改正を促す黙示と理解した。政府は10月27日、「憲法問題調査委員会」を発足させていた。委員長:松本国務相。顧問:美濃部達吉東京大学名誉教授、野村淳治同名誉教授、清水澄枢密院副議長。委員:宮沢俊義東京大学教授、河村又介九州大学教授、清宮四郎東北大学教授、次田大三郎内閣書記官、楢橋渉法制局長、入江俊郎法制局次長、佐藤達夫法制局第一部長。ふーむ、当時の錚々たるメンバーだ。 日本の民主化を永続させるべく米国側が憲法改正をせまるのは必至とみられ、また、日本としても、民主的改革に見合う憲法の改正は必至と判断された。ただし、憲法改正は格別急ぐ必要がないというのが、政府および委員会の見解であった。「あらかじめ時期をかぎって、政治的に急いでおこなおうというなら、自分は委員を辞職したい」(美濃部達吉)、「内はともかく外から要請があった場合、いつでもこれに応じ得るように、切実にやむを得ないと思われる条項を深く掘り下げてゆかなければならない」(松本烝治)、「そりゃあ、ポツダム宣言を受諾した以上は明治憲法みたいに勇ましいのはダメでしょう。しかし、駄目だとわかっていても、人間の頭というものは一足飛びに進むものじゃない。せいぜい、吉野作造的デモクラシー、美濃部達吉的リベラリズムといったところでしてね」(宮沢俊義)、その美濃部達吉は、憲法改正の基本方針に関する意見書をまとめ、新日本を建設し民心を一新するためには、部分的改正よりも新憲法の制定に着手すべきだ、と強調した。では、どのような新憲法にするかといえば、美濃部の意見は、結局、旧憲法の部分的手直しを提議するにとどまった。松本国務相も委員たちも、憲法改正を無用だとは考えていない。ただ、新憲法の制定またはそれにひとしい大幅な改定をしなくとも、部分的修正によって民主日本の法的枠組みを規定することは可能だ、と判断していた。大日本帝国憲法の根幹は、天皇制という立憲君主制度を定めた点にあり、他の条項もすべてそこから派生している。権威の象徴ではあっても支配者ではない立憲君主の下での政治改革は可能であり、立憲君主制を共和制に変えなければ民主化が出来ないものではないから。議員たちの間にも、天皇制保持の声が高かった。」 これも当ブログのタイトル”「民主的再建は主として日本自体の問題」総司令部当局談"から引いている。老川氏が民間の高野岩三郎、鈴木安蔵、森戸辰男らによる憲法研究会を取り上げるならば、政府による憲法問題調査委員会を取り上げるべきではないか、そこでどういう議論をしていたか、それを踏まえて、「これはあまりにも保守的で、国体護持を前提にて、天皇制にもとづいた明治憲法の根本原則を変更するものではなかった」というのは個人的見解を述べるのはいいが、立憲君主制と独立国家としての自国の安全をどうするか、今でも重要な議論を、司令部から期日をかぎられた憲法論議を迫られていた実態は、歴史的事実として重要であった。あまりにも保守的であったと突き放すのは、如何か。

 昭和21年8月24日、憲法改正案が衆議院を通過した。本会議が始まると、まず芦田委員長が登壇して審議の経過を報告した。「顧みれば明治初年五カ条の御誓文と共に、近代民主主義の黎明が訪れ・・・明治22年に大日本帝国憲法が制定公布され、いらい七十有九年の歳月が流れた。その明治憲法は、用語は簡潔雄渾、内容は博大要約であり、その運用が適切であれば、日本の憲政の発達は見るべきものがあったと信じられる。しかるに世界の大勢に通じない一部の輩は、この憲法の特色を逆用し、ついに我ら愛する祖国と同胞とを今日の境涯に導いたことは、真に痛恨の極みです。この時に当って、われわれは永久に明治憲法と決別しようとしているのであります。過去をしのび現在を想うて、誠に感慨にたえないものがあるのであります。」 芦田委員長は報告演説の冒頭に、憲法改正の眼目として、国家機構の封建的残滓の除去、民主的政治体制の確立、基本的人権の尊重、国際生活における理想主義的側面の付与などを挙げ、それに沿った改正が達成されたと強調した。しかし、結論はその新憲法の誕生に対する祝辞よりは、旧憲法への弔辞であった。回顧すれば、旧憲法の不備は指摘されるし、逆用の過ちも明らかである。が、旧憲法と共に歩んだ歴史は、自分たちの歴史でもある。その歴史が閉ざされ、新憲法を指針とする新しい歴史に踏み込むとき、旧時代に別れを告げる一掬の涙があるべきではないか、議場に共感の拍手がわき、芦田委員長は代議士たちの手の動きを白波のように眼底に写し取りながら、降壇した、と児島襄氏。

 

 

 

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日韓併合

2020年12月09日 | 歴史を尋ねる

 日本の戦後を訪ねていたが、マッカーサーの日本占領政策と講和条約の行く末を追いかけていたところ、同時代の中国大陸は一体何が起っていたのか、知りたくて横道に入った。その関係で、朝鮮半島はなぜ二つの国に分かれたのか、それも知りたくなり、とうとう余り立入りたくなかったテーマを取り上げることとなった。素直に考えれば、これも日本の歴史の一部であり、植民地だといって、避けて通るのも、逆にそれを追認するようになるので、正面から事実関係を辿ってみたい。

 当ブログも、明治期の日本と李朝朝鮮の関係は細かく追いかけた。しかし、どうしても日本側から見た日朝関係で、どうして李朝朝鮮はそんな反応になるのか、不思議なことが沢山あった。そして、日韓併合100年日韓知識人共同声明の内容も、どうも納得がいかない。今回は、呉善花氏の「韓国併合への道 完全版」を参考に、事実関係をひも解いてみたい。それにしても、呉善花氏は来日して日本と朝鮮の関係を非常によく研究している。巻末にある「日韓併合関連年表」を読むと、日清、日露戦争の経緯も概略理解出来そうなほどだ。増補版へのまえがきにいう。韓国に支配的な歴史観では、1875年(明治8)日本による韓国江華島砲撃にはじまり、日韓併合を経て日本統治が1945年8月に終わるまでの70年間を、日本がしかけた侵略戦争に対する韓国の反侵略戦争の歴史と位置づけている、と。韓国の国定教科書「中学校国史教科書」では、日本統治時代のタイトルは「民族の独立運動」で、朝鮮総督府は苛酷な武断統治でわが民族の自由を抑圧し、土地と資源を略奪したかを学び、これに対抗してわが民族はいかに独立運動を展開したかを学ぶことが、この章と目的だという。内容は、憲兵警察を先頭にきびしい武断統治を実施した、主要生産手段である土地を奪った、韓国を日本の商品市場と原料供給基地にして二重に収奪したの三点に整理している。更に日帝は侵略戦争を拡大し、わが民族と文化を抹殺する政策を実施した、と。これに対する民族の勇敢な抵抗と正義の独立運動という観点から身につけていく歴史認識だけが、韓国国民にとって唯一の正しい歴史認識だというのが、戦後韓国政府が共通して取ってきた立場だ、そう呉氏はいう。

 当ブログでは二つの事実関係を踏まえて、呉善花氏の主張に耳を傾けたい。1876年(明治9)2月に日朝修好条約が締結されて開国となると、李朝は日本と清国へ使節・留学生・視察団などを活発に派遣し始める。1876年5月、金綺秀を正史とする第一次修信使を日本に派遣  1880年(明治13)7月、金弘集を正史とする第二次修信使を日本に派遣  1881年(明治14)5月、魚允中ら62名の紳士遊覧団を日本に派遣(内3名が初の日本留学生)  同年10月、趙秉鎬を正史とする第三次修信使を日本に派遣  同年11月、金允植が領選使となり軍機留学生を引率して清国天津へ派遣  1882年(明治15)国王の内命で青年官僚、金玉均を日本視察に派遣。金綺秀は帰国後の「日本見聞記」を著し、金弘集は清国駐日公使の著書「朝鮮策略」を持ち帰り、魚允中は日本と清国の見聞体験を「中東紀」としてまとめている。「朝鮮策略」は、李朝にとっての脅威は南下政策をとるロシアであり、李朝のとるべき政策は、親中国、結日本、連米国だと説いている。そのためには、欧米諸国と修好を結び、通商を行い、技術を導入し、産業と貿易の振興をはかり、富国強兵策を推し進めていくべきと述べ、日清両国への留学生派遣、外国人教師の招聘をを主張している。日本の外務卿井上馨も金弘集に対して、朝鮮にとっての脅威がロシアであり、李朝は欧米諸国に門戸を開くべきでありと説き、日本はそうした情勢を踏まえて李朝との関係を考えていると述べている。閔氏政権は、なんらの政策も展望もなしに、時代の流れにただ押されるようにして開国したのだったが、修信使たちの報告や朝鮮策略によって、ようやく方向性を与えられた。そこで閔氏政権は「朝鮮策略」を複写して、全国の儒学徒に配布した。時代の趨勢を知らせ、開国・開化策を推進する必要性を訴えようとしたが、逆に猛烈な反発を受けることになった。儒学徒たちは連名で朝廷に上訴を行い、徒党を組んで各地で反対運動を展開し、開化派を国賊として激しく糾弾した。こうした状況下で閔氏政権は、国論不統一のまま、開国・開化策を進めるほかなかった。

 一方、閔氏政権は1881年、開化派官僚主導で官制の一部を近代的に改革した。また近代的な軍隊設置のために、日本人教官を雇って訓練を開始し、軍営の統廃合を推し進めて軍制の改革にも着手した。閔氏政権は官制の近代化を行ったが、ポストはことごとく閔氏一族によって、あるいはその影響下にある者によって占められていた。これを勢道政治といい、乏しい国家財政下での王室と閔氏一族の浪費、租税など国家収入の横領、中央から地方までいきわたった汚職など、政権は全く腐敗しきっていた。しかも、窮乏生活に苦しむ一般民衆からは、相変わらず厳しい税の取り立てが行われていた。こうした閔氏政権の腐敗と主体性を欠いた開国・近代化の動きに対して、大院君に象徴される復古派・衛正斥邪派からは大きな反発を示して反対運動を展開し、政治的な対立を深めた。また、閔氏政権は開国策をとったとはいえ、清国との宗属関係は守っていこうという事大主義に立つもので、開化派官僚たちに支えられていたが、それに対して、朝鮮近代化のモデルとして日本に学び日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうとする、もう一つの開化グループがあった。彼らは独立党とも開化党とも言われ、その中心は金玉均、朴泳孝らの若い青年官僚たちであった。ふーむ、ここまで書くと、この国の厄介さが分かる。1884年(明治17)、金玉均は日本の支援を頼りにクーデターを起こしたが清軍の出動で鎮圧させられた。日朝修好条約締結から、これら一連の出来事が起きた事実を以て、日本がしかけた侵略戦争という。

 1910年(明治43)8月、日韓併合条約調印によって、大韓帝国という国家は消滅し、朝鮮半島は日本の統治下に入った。現在、韓国で使われている地籍公簿(土地台帳・地籍図)は、1910年9月から1918年(大正7)11月までに総経費2456万円を投じて朝鮮総督府によって行われた朝鮮土地調査事業によって作られたもので、日本では明治初年に行われた地租改正と同様の土地制度政策だ、と呉氏はいう。事業内容は、土地の所有権、価値、地形、地貌などについての調査と土地の測量である。目的は①所有権を明確化した近代的土地制度の確立、②所有権をめぐる伝統的紛争の一掃、③土地の生産力に相応しい租税制度の確立、④税負担の公平化。近代国家体制の確立していなかった朝鮮では、土地の所有制度が不明瞭で、両班階層の暴力的な土地収奪などが日常的に起きていた。農民の間でも土地の所有を巡る紛争が絶えなかった。総督府は翌月9月に臨時土地調査局を設置、12年に高等土地調査委員会を設置して土地調査令を公布、本格的な土地調査事業を開始した。そして1918年、林野を除いてすべての土地の所有権が確定した。林野の事業も1922年完了。確定した朝鮮全土の土地、1918年末で442万町歩、うち朝鮮人所有地391万町歩、国有地27万町歩、日本人所有地24万町歩、不明の土地3万町歩は総督府が接収した。土地の調査は次の手順、①土地所有者が調査局に申告、②申告を受けた調査局が各地の地方調査委員会に諮問、③調査委員会が土地調査を行い、その結果を調査局に報告、④報告によって調査局が所有者と境界を査定。土地測量の実務は、土地測量学校を設置して、そこで技術を身につけた朝鮮人が当たり、地主立ち合いの下で杭打ち。この土地調査事業について、韓国の国定教科書では、「日帝は土地を奪うために、土地所有関係を近代的に整理するという口実を立てて、農民たちの土地を登録する様にした。しかし、登録手続きが煩わしいものであり、日帝がやることに反発して、登録しない場合が多かった。そして登録しない土地は、全て主がない土地と見做され朝鮮総督府の所有となった。従来の王室や公共機関に属していた多くの土地も朝鮮総督府の所有になり、共有地も没収され、全国農地の40%に当たる膨大な土地が朝鮮総督府に占有され、日本人の土地会社に払い下げるか、移住してくる日本人に安い値段で売り渡した」と書いている。40%にあたる膨大な土地を総督府が没収したなど、史実に則った記述とは言えない、と呉氏。しかし、こうした理解が現在の韓国では常識化されている、と。

 しかし、近年は実際の史料に即した研究成果を示す専門家が出てくるようになった。ソウル大学経済学科教授李榮薫氏は、総督府の土地調査事業について、「全国を回って土地台帳など現資料を収集した。資料を見て、教科書とはあまりに違う内容にびっくりした。総督府は未申告地が発生しないように綿密な行政指導をしたし、土地詐欺を防止するための啓蒙を繰り返した。農民たちも自分の土地が測量されて地籍が上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。その結果、墳墓、雑種地を中心に0・05%くらいが未申告地で残った。あの時、私たちが持っていた植民地朝鮮のイメージが架空の創作物なのを悟った」「日帝の植民地統治史料を見ると、収奪・掠奪ではなく、日本本土と等しい制度と社会基盤を取り揃えた国を作って、永久編入しようとする野心的な支配計画を持っていた。近代的土地・財産制度などは、このための過程だった」 最後の李榮薫氏の文言は、残念ながら、誤解だ。国造りのイロハが、土地調査だ。税収があってはじめて国家は運営ができる。併合しても、朝鮮地区の運営予算はまずその地区の予算で賄うのが原則だろう。更に言えば、その時の土地調査の結果が現在の韓国でも生きて使われている。その事実からも、國として成り立つための基本データである。そして、呉善花氏も触れていないが、李朝朝鮮時代あれほど猛威を振るった両班階級がなくなっている。これはこの土地調査による結果ではないか。第二次大戦後の日本の農地改革にも匹敵する事件ではなかったか。こうした李朝朝鮮時代の旧弊も改革したものだ。そこに軋轢がなかった筈はない。あって当たり前。この辺の事実関係も明らかにしてほしい。いずれにしろ、国定教科書の40%の記述は誤りである。しかし堂々と記述している。日本の韓国史家がやさしいためなのか、戦後の米軍の言論統制に配慮した人たちか。もう一つ、その後日本統治時代の朝鮮半島ではこの地に起因する戦争は起こっていなかった。

 ここで、呉善花氏の主張に耳を傾けたい。1905年(明治38)日露戦争で日本が勝利し、第二次日韓協約によって日本が韓国の保護国となって以後、韓国の国権回復あるいは独立・改革を目指すナショナルな活動には、反日義兵運動と愛国啓蒙運動があった。反日義兵運動は、日清戦争後の1890年代に衛正斥邪、反日反露を掲げて武力蜂起を行った初期義兵運動を継承した反日武装闘争である。1907年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降特に活発化し、全国各地で徹底した抗日ゲリラ戦を繰り広げた。義兵闘争はほぼ全土にわたり、三年半にわたる衝突で義兵の死者17,688人、負傷者3,800人、捕虜1,933人と朝鮮駐箚軍司令部の記録にある。それに対する駐留日本軍は二千数百名、本国から新たに投入された兵士を含めても数千人だと考えられるが、日本側の損害は死者133人、負傷者269人にとどまった。呉氏はなぜこれほどの差が出たのか、義兵側の結集力に問題があった、組織を越え、地域を越えて横につながる大同団結が出来なかったと分析している。一方、愛国啓蒙運動は独立協会運動を継承した国権回復運動で、その中心になったのは1906年4月に創設された大韓自強会である。内に愛国心を養い、外に文明の学術を吸収し、教育推進と産業振興によって国力の自立増強を目指す運動を展開した。反日運動を展開したが、統監府は国権回復の主張を不法とする保安法を以て解散させ、さらに懐柔政策をとって分裂させ、自治権獲得へと目的を変化させ、自強会は運動体としての主体を喪失した。それに対して、非合法の秘密結社として国権回復、民族独立への活動を行ったのが、1907年9月平壌を中心に組織された新民会である。会長は尹致昊、副会長はアメリカに留学した李承晩、啓蒙活動を行った安昌浩。新民会は合法の外郭団体と連絡を取りながら運動を展開したが、韓国が併合されると海外に逃亡する者と国内に残留する者に分かれた。残留組は寺内正毅総督暗殺計画の容疑で1911年大量逮捕され、有罪判決を受けて完全に壊滅した。結局諸団体は、言論・啓蒙をもってしても広く国民の間に支持を得ることが出来ず、彼らもまた各団体間の連帯を生み出すことが出来なかった。

 この時期の政治・社会運動は、もう一つ正反対に、積極的に日本との同盟関係を強化し、さらに日韓合邦を推進していこうとする大衆運動が存在した。李容九をリーダとする一進会だった。会員数は自称100万だが、併合時の統監府の資料では14万と報告されている。最盛期で20万を超えていたとの推測もあるが、14万としても当時の韓国では最大の勢力だった。近代民族国家の形成期にあって、民族独立ではなく他国との合邦を唱えて運動し、大衆の政治的支持を得た例がこれまでの政治史上にはなかったものである。しかし一進会が唱えたのは日韓合邦であって、日本による韓国併合ではなかった。この主張が重視されないのは、日本の保護国となった韓国が、日本と対等の資格を以て合併することを可能とする現実的な条件などあるわけがない、との認識だろう。だから、合邦運動は併合から目を逸らせるための誤魔化しであり、日本に身を売った者たちの売国的な策動だとされる。しかし、日清戦争を経て日露が決定的に対立するに至るまで、政府、官僚、東学、独立協会などは、いずれも、韓国が自立・独立国家への道を歩むための指導原理を指し示すことが出来なかった。大同団結し、挙国一致の民族的な結集を目指そうとする、連帯運動への動きも起きることがなかった。一進会はそのような韓国政治世界の絶望的な状況を背景に台頭してきたことに注目すべき、と。朝鮮の政治社会を解明したグレゴリー・ヘンダーソンは、当時の世界情勢から「深刻化していく朝鮮の無力化に乗じて繰り広げられた、1884年から1904年に至る外国勢力によるシーソーゲームの中で、改革を志す朝鮮人は、清朝中国はもっとも反動的であり、帝政ロシアの反動ぶりも似たり寄ったりで、米国は朝鮮に無関心で、韓国政府は無能であると感じていた。ひとり日本のみが、積極的に明治の改革を推進して、彼らに大いに訴えるところがあった。日本からは朝鮮に数千人の移住者があり、有効な市場網を張り巡らせ、もっとも活動的な顧問団を送り、そして何よりも軍隊を駐留させていた。この時代の改革者は日本をあてにしたのであり、日本もまた彼らを支援したのであった」という。こうした見方は、韓国人史家からは勿論のこと、日本人史家からも表立って主張されることは少ない。しかしヘンダーソンの見方は、当時の客観情勢からいって、きわめて説得力を持つものといえるだろう、こう呉善花氏はいう。

 李容九らが日韓合邦運動を進めたのは、李朝ー韓国の政治指導者に対する根本的な不信があったためである。かといって彼らは日本政府を信じて運動を進めたのではない。あくまで日韓合邦から大東亜の合邦へという自らの理想を以て進めたのである。彼らが頼りにしたものがあったとすれば、そうした方向に共感を寄せる日本の民間志士やジャーナリズムに表されていた民意・民情だったと思う。彼らはそうした民意・民情が国家意思を大きく包括し、合邦国家内部で民族の尊厳が確保されるものと考えたのだろう。しかしながら、併合後は民意・民情は韓国人を二級国民とする国家意思に大きく左右されざるを得ず、良心的な日本人が多数あったにせよ、それをもってするだけでは、民族の尊厳を十全に確保することは出来なかった。だからこそ三・一独立運動が起きたのであり、そこで提起された民族自決に大きく影響されて、李承晩らによる上海臨時政府が生み出された。韓国の知識人中枢は、併合後10年の体験を通してようやく、近代民族国家の成立のほかに民族自立を確保することが不可能なことを自覚したのである、と。そしてその自覚は、金玉均らにはじまる開化思想の延長上にもたらされたものであった、呉氏はいう。更に言う。解放後の朝鮮半島に成立した近代民族国家は、実に対外的な民族自決による形式的なものにすぎなかった。そこから実質的な対内へ向けた民主共和主義の体裁を形づくって行くには、さらに50年を要した。現在の韓国では、いまだ併合をもたらした自らの側の要因への徹底的な解明への動きが始まっていない。それは韓国が今なお、李朝の亡霊の呪縛から完全に脱することが出来ていないことを物語っている。韓国が自らの側の問題解明に着手し、さらに反日思想を乗り越え、小中華主義の残存を切り捨てた上で、日本統治時代についての徹底的な分析に着手した時、韓国はようやく李朝の亡霊の呪縛から脱出したといえる。日本はそうした方向へと韓国が歩むことに期待すべきであり、その方向にしか正しい意味での日韓の和解はない、と呉善花氏は力強く言う。呉善花氏のこれまでの努力と熱意に敬意を表したいと思う。

 

 

 

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日露戦争後の日本

2020年12月05日 | 歴史を尋ねる

 半藤一利氏の「日露戦争史3」のあとがきに、司馬遼太郎とのインタビュー記事が載っている。 半藤 国民は事実をしらないままポーツマス講和条約の結果に怒り、一等国になったと鼻高々になって、亡国の小村全権は速やかに切腹せよ、などと怒声をあげて帰国した小村の到着駅を取り巻いた。 司馬遼太郎 現実感覚を感じなくなった国民のうぬぼれが日本をわるくした。日露戦争後は全部わるくなっていく。戦勝後に、新聞、雑誌、教育の現場で、実はこうだったと真相を教えるべきだった。真相というものを、軍が秘密にして、国家はリアリズムだ、という感覚を持たない陸軍や国民をつくって、アジアを巻き込みつつ国を滅ぼしてしまいました。(以下略) この後活字にならなかったが、「ならば司馬さん、坂の上の雲をもう一章か二章、日露戦争後の日本を書かなければいけなかった、でないと、あの小説は完結したことにならないんじゃないですか」と迫ると、これに司馬さんは苦笑を返すばかりで、一言も答えようとしなかった、というエピソードを披露している。更に半藤氏もこの本を書く前に、日露戦争後の日本を、一章を設けて書くつもりであったが、ついでにちょこちょこと書くテーマではないという思いが強まって、氏も書かなかった。結局、あとがきでちょこちょこと書いている。それを紹介すると、「日露戦争の勝利を国際的に確定させ、満州の緒権益を掌握したことにすべてが始まる。結果としてロシアと清国と、それにプラスして門戸開放政策をとるアメリカとの新たな対立関係を生んだ。戦後日本のおかれた国際環境はまことに微妙複雑なものとなった。早くいえば、一等国となったと自認する戦後日本はこれらと張り合って大国主義をとるか、持たざる国を認識してのひたすら協調を重んじる通商国家つまり小国主義をとるか、の選択を迫られた。文字で書くと簡単であるが、いずれをとるにしても難題山積であって、国論を二分し擾乱渦動を予想させる大問題であった。政府と軍は、結局のところ大国主義を目指すことを決断する。政府は陸軍の大御所山県有朋元帥の私案を基調に、明治40年4月、ロシア、アメリカ、清国の三国と同時に対処し得る兵力を整備する大軍拡方針(帝国国防方針)を国策として決定する。わが国権を侵害せんとする国に対し、少なくとも東亜に在りては攻勢を取り得る如くを要す、と。この方針の下、戦後財政のもっとも厳しい時に、陸軍は平時25個師団(戦時50個師団)を、海軍は新建造の戦艦八、装甲巡洋艦八を主力とする八・八艦隊を、それぞれ要求する。しかも仮想敵国として、陸軍は対ロシア、海軍は対アメリカを個別に想定し、一旦緩急あるときに備えることとした。日露戦争を陸軍は十二個師団、海軍は六・六艦隊で、さらに戦費二十億円弱の六割を外国債に依存して戦ったことを思えば、誰が考えても軍備大拡張などできない相談ということになる。しかし、それをあえてやる、それゆえに増税に次ぐ増税、そして国債募集、献金の強要、必然的に国民の生活は根本から脅かされる。具体的にいえば、戦争中に加徴された税金(地租、営業税、所得税、酒税、用紙税など)、あるいは新設された税金(石油消費税、毛織物消費税、相続税、通行税、小切手印紙税、織物税など)は、平和回復後はもとに戻さなければならないことになっていた。しかし、政府はそれらすべてを永久税として継続的に徴収することにした。気位は高いが資源がないという貧乏一等国は、国際的競争にたいしてはすこぶる弱体であり、あらゆる無理を国民に強いるほかはなかった。戦争が終わったというのに国家総予算に占める軍事費の割合は、以後十年以上もずっと三割以上だった。この国力のなさが根本にあるが故に、それを明らかにするのがリアリズムなのであるが、大国主義(帝国主義)の国策を選び取った政治・軍事のリーダーたちは、厳しい事実を隠ぺいするほかなかった。かわりに笛や太鼓で勝利の栄光を謳いあげ、神話を数多くつくり、一等国家の大国民としての誇りと、報国・献身とを国民に訴え続けた。栄光と悲惨との両極分解は、日本が世界の強国たらんと第一歩を踏み出した瞬間に始まっていた」と。

 ふーむ、半藤氏の概説はその後の日本の歴史を踏まえると納得できるるが、そうは言っても後出しじゃんけんの説に近い。たとえば通商を重んじる通商国家の選択肢があったというが、これは戦後の今の姿であって、当時その選択肢のイメージがどれほどあったか、歴史は先の見透しが明らかでない未来に対しての意思決定の集積である。しかし、通商国家の道はその時あった。小村外交の功罪ということで、岡崎久彦氏が紹介している。小村外交を振り返ると、日露戦争にいたる過程での小村の判断は、ことごとく正鵠を射ている。日露戦争がもう半年遅れていたら、陸戦で日本の勝ち目はなかった。しかし、戦争に勝って以来の小村の判断は、当時の政府部内でも是非の論があり、また後世からも毀誉褒貶の対象になった、と。まず、ポーツマスでは、小村は領土と賠償の要求が容れられない場合は交渉を打ち切ると継戦を主張、小村の強硬さに手を焼いたセオドア・ルーズベルト大統領は直接日本の首脳に訴えて、伊藤博文と西園寺公望の決断で、講和が締結された。そして小村がポーツマスから帰る前に、米国の鉄道王ハリマンは訪日し、日本がロシアから獲得した南満州鉄道の日米共同経営を提案した。所有権は半々だが、日本は現物出資でお金はかからず、軍事使用の場合は日本に特権を認めるという有利な条件だった。元老の井上馨はこのチャンスを逸するのは愚の骨頂であると説いて回った。これに反対して潰したのは小村だった。もともと米国は戦後構想として満州を中立地帯とする国際的管理を考え、小村は満州を日本のある程度の勢力範囲におくことを考えて、反対した。小村の行動は、日本の国権主義に沿ったものだった、と岡崎氏はいう。もし、あの時に日本がハリマンの提案を受けていたならば、二十世紀の歴史はまるで変っていただろう。アメリカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というお経だけでなく、日本をパートナーとして共同で満州経営を行う形をとっただろう。また日本では伊藤が健在だった時でもあり、第一次大戦の国際情勢の中で、対露、対支政策について、日米英の協調路線が出来ていた可能性は少なくなかった。結局、小村外交の功罪は、そのまま敗戦につながる大日本帝国の歩みの功罪そのもの。つまり国際協調、詰めていえば、アングロサクソン世界との国際協調に日本の運命を委ねないで、日本の自主外交を貫き、独りで日本の勢力圏をアジアに築こうという国家戦略の是非だ、と岡崎氏はいう。ふーむ、太平洋戦争後の日本の外交路線の是非と似ている。今度は逆だが。

 もう一つ、その是非を言うことの難しさは、小村のような考え方は、その後滔々として、誰も抵抗し得べくもない国民世論となっていったということ、特に昭和史では、軍よりも先に国民世論の国権主義が国の政策を引っ張っていった例は数多くある。この時流にブレーキをかけ得た人物は、伊藤博文ただ一人だった。そう考えると、小村に先立つ伊藤の死は、国権主義をも抑え得る自由闊達な思考を許した明治という時代の終わりだ、と岡崎氏は追記する。(国権:明治前半期の政治思想用語。国権主義と同一に用いられる。国権とは国家の権力または国家の統治権を意味するが,明治維新後,〈民権〉の語とともに,これに対抗する形で登場した。)冒頭の司馬遼太郎の言も半藤一利の言も結局この国権主義の肥大化を含めて言っているのだろう。

 以上は識者による日露戦争後の日本についてであるが、日清戦争、日露戦争の戦端を開いた原因は李朝朝鮮(大韓帝国)に起因している。従って、それぞれの講和条約の第一条は、下関条約では、「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。」  ポーツマス条約では、「日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。」となっている。不思議なことに、李朝朝鮮(大韓帝国)は戦争に加担していない。なのに、なぜ講和条約では登場するのか。その辺を探ると、次のことが分かる。ポーツマス講和会議の席上、小村は第一条に「ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。」を提示すると、ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウッィテに示した小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた。こうして、第一条についても同意が得られた、とウキペディアにある。そして、小村が韓国の主権は完全なものではないと述べたのは、ロシアと戦争を起こした日本が中立を主張する大韓帝国を勢力圏に入れるために1904年(明治37年)1月に大韓帝国皇宮を攻撃し占拠して、同年2月23日に、日本の脅迫により大韓帝国(韓国)との間で締結した条約の内容を指しているのだろう。ウキペディアでは脅迫と言っているが、いずれにしろ、条約に調印している。

 韓国の保護国化は、もう国際的には避けようもない趨勢だった、と岡崎氏は説明する。米国のアレン駐韓公使は、宣教師出身の典型的な善意のアメリカ人だったが、戦争開始時、韓廷の腐敗と陰謀に幻滅して、韓国民は自分を治め得ない、自分は親日家ではないが、韓国は日本に所属すべきものと考え、日本の韓国併合は韓国民にとっても、また極東の平和にとってもよい、とワシントンに書き送っている。ルーズベルト大統領は、終始日本の対韓政策を支持し、条約(日韓議定書)は韓国が独立を保つべきだと厳粛に保障している、しかし韓国自身は条約の実行に無力である。韓国が自分で出来ないことを他国が韓国のためにするなどは問題外だ、と。そして1905年7月、訪日したタフト陸軍長官と桂太郎首相との覚書は、日本はアメリカのフィリピン領有を、アメリカは日本が韓国を保護国化することを相互に支持した。8月に日英同盟が更新されたが、ジョーダン駐韓英国公使は保護国が韓国人の利害のために唯一可能な解決であり、役人は別として、民衆は過去十年間の名目的な独立の期間中持っていた政府より、その方を限りなく好むと判断し、英国は日本の保護権設定を承認した。すべて韓国の頭越しだが、当時は文明国以外は、国際法の主体として相手にして貰えなかった時代、先進国は一方的に、この民族は独立する資格、能力があるかを判断し、それを実行に移した時代だった、と岡崎氏。たしかに満州国は自分が宣言しても、他国が独立を承認しないという状況が続いた。他国の承認手続きが必要なのだ、初めて国際的に相手にして貰える。それが当時の国際関係だ。それをウィルソン大統領的民族自決とか、レーニンの反帝国主義闘争とかで説明すると、歴史を見誤る、これも岡崎氏。

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