再度、東京裁判に戻る。東京裁判はどのような経緯でスタートしたのか。その概要を太平洋戦争研究会編「東京裁判の203人」で見ておきたい。
・まずは、戦勝国はいかなる法律で日本の指導者を戦犯にしたのか。
ダグラス・マッカーサー陸軍元帥が厚木に海軍飛行場に降り立ったのは、昭和20年8月30日だった。その前日8月29日、アメリカ政府はマッカーサーに暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令した。その指令は「連合国の捕虜その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官または適当な連合国機関によって告発された者は逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があったときは処罰される」と。アメリカ政府が戦争犯罪人に対する逮捕・訴追命令の根拠にしたのは、日本が降伏する直前の8月8日に米英仏ソの4か国が締結した「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定(ロンドン協定と呼ばれる)」とポツダム宣言である。 ポツダム宣言第10項には「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」という一文があり、ロンドン協定には、捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」のほかに、侵略戦争を計画、実行した者をも犯罪者として裁ける「平和に対する罪」と、占領地の一般住民に対する虐待、虐殺などの非人道的行為をした者を裁く「人道に対する罪」の2つが、戦争犯罪の概念として新たに加えられている。さらに協定には、これらの戦犯を裁くための国際軍事裁判所条例(憲章)が付属している。ドイツで行われたニュルンベルク裁判も、東京の極東国際軍事裁判も、このロンドン協定に基づいて開設された。両裁判の被告たちは、いずれも国家の中枢にいて政治や軍事を動かしてきた人たちで、いずれも「通例の戦争犯罪」(交戦法違反など)に加えて、ロンドン協定にもられた「平和に対する罪」と「人道に対する罪」で訴追された。これらの容疑で逮捕・訴追された人たちは、その他の戦犯容疑者と区別するために「A級戦争犯罪人容疑者」と呼ばれた。その他の戦犯容疑で逮捕された人たちは「BC級戦争犯罪人容疑者」と呼ばれ、殺人や虐待などの残虐行為を命令する立場にいた各級指揮官などをB級、それらの犯罪の実行者をC級としていたともいう。しかし、現実にはB級とC級の区別は難しく、日本軍将兵を裁いた戦勝7か国(アメリカ、英、豪、オランダ、仏、中国、フィリピン)が主宰した49の軍事法廷では、「BC級戦争犯罪人」として一括処理された。ちなみに戦勝7カ国に起訴された日本軍将兵は合計5644名で、このうち死刑が934名、終身・有期刑が3413名、無罪1018名、その他279名という数字が残されている。
4か国が締結したロンドン協定には、新たに「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の2つが加えられたが、いわゆる事後法であるとして現在でもその違法性が論議されている罪状である。対象となる行為をしたときに、その行為が犯罪とされていなかった場合、事後につくった法律で処罰することは本来、禁じられているからだ。事後法とともに問題にされたのが、ロンドン協定で採択された「共同謀議罪」である。連合国は1943年10月、枢軸国の戦争指導者を処罰するためにロンドンに連合国戦争犯罪委員会を設置し、45年にロンドン協定を締結した。当初、イギリスは枢軸国の指導者を処罰するのに裁判方式をとることに強く反対した。その理由は、国際軍事裁判によって裁くことは法律問題が煩雑なうえに、時間がかかり、具体的犯罪行為を個々の立証することは困難であるため、即決処刑を主張した。しかし、ソ連は即決処刑には反対で、アメリカは裁判方式を強く主張した。ここでアメリカのスチムソン陸軍長官などから提案されたのが「共同謀議罪」の導入だった。「共同謀議」とは英米法特有の法概念で、アメリカのコンスピラシー(conspiracy=陰謀)などがその例だった。2人以上の人間が、何らかの犯罪の実行に合意し、そのうちの最低1人が何らかの行動を起こせば、計画に合意した全員が処罰の対象となる法律である。
スチムソンら当時の連合国首脳は、この「共同謀議罪」を適用して、満州事変後の日本の軍事行動に関わった軍人や政治家らを「平和に対する罪」で十把一絡(じっぱひとからげ)にしようとしたのである。イギリスが懸念しているような個々の犯罪行為の立証は必ずしも必要なく、犯罪全体の計画に何らかの関与があれば、それで容疑は十分だという、きわめて大雑把な論理である。東京裁判では100名を超える「A級戦犯容疑者」が逮捕され、その中から28名がA級戦犯に指名され、国際軍事裁判の法廷に立たされた。アメリカのマサチューセッツ工科大学教授のジョン・ダワーはインタビューに答えて、「歴史事実の問題で言えば、判決が認定した1928年から日本の指導者が戦争の共同謀議をしていたという説を受け入れる歴史家はいません」と明快に答えている。
・連合国はいかにしてA級戦犯を選定したのか。
30日、厚木に降り立ったマッカーサー元帥は、横浜にある宿舎のホテル・ニューグランドに直行、夕食をとると、CIC(対敵諜報部)部長ソープ准将に命令を出した。それは東条英機陸軍大将の逮捕と戦争犯罪人容疑者のリスト作成だった。この時の元帥の指示は、戦争犯罪人には捕虜虐待などの戦争法規違反者と侵略戦争を計画・実行した者たちの2種類があり、前者の逮捕・拘置はカーペンター大佐の法務部が担当し、東条など侵略戦争を指揮した者たちはソープ准将のCICが担当せよというものだった。翌31日、ソープ准将はCICスタッフに戦犯容疑者の人選と東条逮捕を命じた。しかし日本の政治や陸海軍組織の事情に疎いスタッフは、誰を戦犯容疑者にリストアップしたらいいか、東条がどこにいるのかも見当が付かなかった。9月2日、ミズーリ戦艦での降伏調印式、9月8日東京赤坂の米大使館での国旗掲揚指揮を終えるとマッカーサー元帥はソープ准将を呼んで、東条の逮捕とリストアップはどうなっているか尋ねた。マッカーサーは明らかに不満顔だった。ソープ准将は焦った。クラウス中佐が東条は東京に自宅におり、近々新聞記者と会見するらしいという情報を聞き込み、ソープは閃いた。東条が戦犯第一号なら、彼の内閣の大臣だった連中が戦犯に指名されてもおかしくない、と。翌9日、ソープは東条内閣の閣僚を中心に、ホセ・ラウレル(元フィリピン大統領)、ハインリッヒ・スターマー(駐日ドイツ大使)、オン・サン少将(ビルマ独立義勇軍司令官)など日本に協力した外国人を加えた戦犯容疑者のリスト(第一次)をマッカーサー司令官に提出した。マッカーサーは直ちに米国務省に報告し、翌10日、国務省から了解の返電を受け取った。
内報を受けた日本政府(東久邇宮内閣)は、リストに現職の国務相緒方竹虎や元首相の広田弘毅の名を見つけ、「現職の重臣は避けてほしい」と司令部に申し入れ、了承を取り付けた。11日、マッカーサー司令部は東条英機元首相をはじめとする、43名の戦争犯罪容疑者の逮捕を命令した。この第一次戦犯容疑者には、日本人以外にフィリピン人3名、オーストラリア人2名、ドイツ人3名、オランダ人、ビルマ人、タイ人、アメリカ人各1名が含まれていた。こうして米軍CICによるA級戦犯容疑者の逮捕が開始された。以後、逮捕命令は近衛文麿や木戸幸一らが含めれる12月6日の逮捕命令発表まで4次にわたった。その逮捕者合計は100人を超え、人選はかなりいい加減なもので、なぜこの人が、と首を傾げたくなる人のかなりいた、と平塚柾緒氏は言う。一方で、自らの逮捕を予期したのか、杉山元元帥や橋田邦彦元文相、小泉親彦軍医中将のように自殺する者も後を絶たなかった。未遂に終わったが東条もその一人だった。
昭和20年12月6日、ジョセフ・キーナンが19名の検事を含むアメリカ検察陣幹部38名を率いて来日した。8日、マッカーサーはキーナンを局長に任命、国際検察局を都心の明治ビルに設置した。キーナンたちアメリカ検事団はA級戦犯を選定するため、連日のように巣鴨拘置所に通い、東条大将をはじめとする軍人、政治家の尋問を精力的に開始した。12月28日、米国務省は日本の降伏文書に調印した英、仏、中、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソ連の各国に裁判官と検察官を1名ずつ指名するよう要請した。
キーナンは検察局のアメリカ人要員をAからHまでの8グループに分け、被告の選定作業を開始した。Aグループ:1930年~36年1月まで。 Bグループ:1936年2月~39年7月まで。 Cグループ:1939年8月~42年1月まで。 Dグループ:財閥からの被告予定者の選定。 Eグループ:超国家主義団体からの被告予定者の選定。 Fグループ:陸軍軍閥からの被告予定者の選定。 Gグループ:官僚からの被告予定者の選定。 Hグループ:日本政府の資料調査で、被告の選定作業には直接関与しない。 そして検察陣が逮捕者や証人を尋問する中で、有力な協力者が現れた。その一人は、11月24日に内大臣府が廃止されるまでその要職にあった、昭和天皇の第一の側近・木戸幸一だった。木戸は12月6日逮捕令が出され、16日に出頭、その木戸に対する尋問は、12月21日からキーナン首席検事をはじめ、国際検察局の有力スタッフによって進められた。この尋問の中で木戸は「日本陸軍の中で戦争を望んでいたのは誰だったか?」と質問に対して、まず陸軍省の軍務局長だった佐藤賢了中将と武藤章中将の名をあげ、続いて企画院総裁だった鈴木貞一陸軍中将について「彼は対米戦争には成算があると主張していた」と答えている。木戸は延べ30回を超す尋問を受け、満州事変から終戦にいたる間に起きた様々な事件や重要会議の決定についても供述した。そして、それらの事件や会議での関係者名を明かにし、検察陣の被告選定に協力していった。さらに彼が昭和5年元旦から出頭する前日までに書いた日記(のちに『木戸日記』として刊行された)も検察局に提出した。
木戸が検察局の質問に答えて、重大な政治責任や戦争責任があると言明あるいは示唆した人物のうち、結果として、東京裁判の被告に選定されたのは15人にもなる。全被告28人の半数を超えた。その人物は、陸軍:南次郎、荒木貞夫、小磯国昭、板垣征四郎、橋本欣五郎、松井石根、鈴木貞一、東條英機、武藤章、佐藤賢了の10名。海軍:永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純の3名。残る2名は元外相の松岡洋右と右翼の大川周明。
検察側へのもう一人の協力者は田中隆吉少将で、、満州事変に連動して起こった上海事変の謀略を担当した功績をかわれて関東軍参謀となり、綏遠事件などの謀略を実行した後、陸軍省に呼ばれ少将に昇進した。昭和15年12月に、憲兵の元締めである兵務局長に就いた。ところが上司の登場英機首相と対立し、昭和17年9月、予備役にされた。田中は東京裁判が対象とする、満州事変から終戦にいたる期間に起きた様々な事件について、その内容と関係者を詳細に証言している。張作霖爆破事件の内幕を暴き、満州事変の発端となった柳条湖事件(満鉄線爆破)も関東軍の謀略であったことを暴き、さらには橋本欣五郎大佐らの桜会による3月事件、10月事件、そして2・26事件と、日本陸軍の暗黒部分を多岐にわたって暴き続けた。これら田中尋問の一次資料を読み込んでいる粟屋健太郎立教大学名誉教授は、A級戦犯被告28名の検察ファイルには、田中隆吉の人物評を利用して資料として添付されている者が17名に上ると記している。そして田中の証言は、被告選定や被告の立証準備の有力な資料として、検察側に活用された、という。田中は事前の協力だけでなく、実際の法廷にも検察側の証人としてたびたび出廷し、被告たちを名指しで証言した。こうして、当初CICが逮捕・拘留した戦犯容疑者以外からも、何人もの戦犯候補者が浮上し、被告の最終決定は次のプロセスで決められた。
まず被告の絞り込み作業は、昭和21年3月に設立された国際検察局執行委員会(委員長はイギリス代表検事コミンズ・カー)が行い、これを各国検事で構成された参与検察官会議にかけて最終決定案とする。この決定案を、マッカーサー司令官が承認するという手順を踏んだ。この被告の選定作業の中で、新たな戦犯容疑者が洗い出され、3月末に、元軍令部総長永野修身海軍元帥、元海軍省軍務局長岡敬純海軍中将、元陸軍省軍務局長武藤章陸軍中将の三人に逮捕令が出された。4月8日までに東条元大将をはじめとする26名の被告が決定されたが、オーストラリア代表検事のマンスフィールドは昭和天皇の訴追を強硬に主張した。しかしアメリカ政府は占領政策を円滑に進めるためには天皇の存在は欠かせないと判断し、キーナン首席検事は、昭和天皇の訴追には断固反対、昭和天皇の免責が決定された。しかしその後も被告選びが二転三転し、まず、第7方面軍司令官だった板垣征四郎大将とビルマ方面軍司令官だった木村兵太郎大将が追加、さらにソ連検事団が到着、尋問と選定をやり直すと言い出し、4月17日、重光葵元外相、梅津美治郎元関東軍司令官、鮎川義介満州重工業総裁、藤原銀次郎王子製紙会長、富永恭次陸軍次官を追加するよう求めてきた。参与検察官会議の討論の結果、重光と梅津が被告に編入され、最終的に被告数は28名となった。以上でもわかるように、死刑囚を出すかもしれない戦犯選びも絶対的なものではなく、きわめて恣意的、曖昧な根拠による選定でもあった。
最後に、A級戦犯28被告の横顔を見ておきたい。 荒木貞夫(陸軍大将:終身禁固刑)旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれた。日本が国際連盟を脱退した昭和8年当時、脱退論をあおって政官界を引きずり、日本を孤立化へ追い込んだ一人、そして陸軍の政界進出は5・15事件を契機としているが、その推進者は陸相当時の荒木と真崎甚三郎参謀次長、林銑十郎教育総監の3人だった。青年将校がクーデターを計画した3月事件、10月事件は、この荒木・林・真崎の3大将を政権の中枢に据えようとしたものだった。 土肥原賢二(陸軍大将:絞首刑)大佐だった満州事変当時は奉天特務機関長としてもっぱら謀略に明け暮れ、中国人から土匪源の異名で恐れられた。関東軍が奉天を占領した時、奉天市長も務め、清朝の廃帝・溥儀を執政として満州国建国を企図した時、溥儀を天津から連れ出したこと、もう一つは華北分離工作を積極的に推進したことで、察哈爾(チャハル)事件をきっかけに土肥原・秦特純協定と呼ばれるものを強引に締結したこと。土肥原の華北分離工作とは、河北省内の冀東防共自治政府を成立させ、国民政府からの離脱宣言をさせて、満州国の隣にもう一つの小満州国を作ろうとした謀略のこと。土肥原は被告選定段階では有力な証拠もなく、当人の自供も得られなかったが、中国代表検事の強い要求で選ばれ、絞首刑判決を受けた。 橋本欣五郎(予備役大佐:終身禁固刑)トルコ駐在の時、トルコ共和国建国の父、アタチュルク初代大統領に傾倒し、昭和5年帰国した橋本は、アタチュルクの国民国家建設運動と橋本独特の天皇帰一主義を結合させた国家体制を提唱、若手将校たちを糾合して桜会を結成、3月事件、10月事件を計画したが、いずれも事前に情報が洩れて失敗、重謹慎処分を受ける。2・26事件後の粛軍人事で予備役に編入され、国家社会主義系右翼らと大日本青年党を結成して統領に収まった。 畑俊六(陸軍元帥:終身禁固刑)米内内閣の陸相だった昭和15年7月、単独で辞表を出し、米内内閣を倒閣に追い込んだ。それは米内光政海軍大将が新米英派で、陸軍の推進するドイツとの連携を拒んだからで、畑の行動は陸軍の総意ともいえた。畑は頭脳明晰、陸大最優秀の軍刀組で、順調に大将に昇進、阿部内閣の陸相にもなった。当時陸軍の若返り人事が叫ばれたが、陸軍統制派の横暴を抑制するため昭和天皇が統制派の穏健分子である畑を指名した。しかし結果的には、非戦派の米内内閣を瓦解させ、好戦派の過激分子に開戦の途を開く結果を招いた。また支那事変勃発に際しては武漢作戦時の中支那派遣軍司令官で、中国各地で引き起こした残虐行為を停止させる措置をとらなかった。 平沼騏一郎(元首相:終身禁固刑)東大法科卒業とともに司法省に入り、判事・検事畑を歩み、大逆事件の主任検事などを務め、検事総長に登り詰める。その後山本権兵衛内閣に司法大臣となり、政治の途へ。山本内閣総辞職後、神道イズムの鼓吹を目標とした国本社を創立、陸軍の真崎甚三郎、荒木貞夫、海軍の加藤寛治、末次信正といった軍部革新論者たちと結びついた。その後広田弘毅首相の推薦で、枢密院議長に。昭和14年1月、近衛内閣のあとを受けて首相に就任。大島浩駐独大使、白鳥敏夫駐伊たちの執拗な勧めもあって日独伊軍事同盟の締結交渉を行っていたが、同年8月、独ソ不可侵条約が締結されたことに仰天、退陣した。 広田弘毅(元首相:絞首刑)外交官の道を歩いてきた広田は昭和8年、斎藤実内閣の外相に抜擢された。2・26事件のあとの昭和11年3月、組閣の大命が下った。皇道派を追い落とした陸軍の統制派は広田の組閣に介入、陸軍推薦の5名を閣僚に押し込んだ。その組閣人事で軍部と妥協したことが日独防共協定の締結を生み、さらには軍部大臣現役武官制の復活も認めざるを得なかった。昭和12年1月末、広田内閣は瓦解したが、続く第一次近衛内閣で再び外相に就任、日独伊防共協定を成立させた。支那事変に突入するや、副総理格の広田は高圧的外交を推し進め、軍部とともに日本を戦争に引きずり込んだ。 星野直樹(満州国総務長官:終身禁固刑)大蔵省入りした星野は、その財政手腕を買われて建国直後の満州国政府に招かれ、財政部理事官を皮切りに総務司長となり、満州国の財政部門で活躍した。この満州時代、関東軍首脳と親密な関係を作り、星野の画策した産業5カ年計画、満州重工業会社の創立、日満統制経済の実現などは、これら軍部人脈の後押しによるものだった。関東軍参謀長の東条英機と知り合ったのもこのころで、満州国を実質的に支配していた人物を指す言葉「二キ三スケ」(東条英機、松岡洋右、鮎川義介、岸信介、星野直樹)の一角を占めていた。昭和15年第二次近衛内閣の無任所大臣で経済新体制を目指し、東条内閣が誕生すると内閣書記官長として中枢に入り、東条側近として絶大な発言力を保持した。 板垣征四郎(陸軍大将:絞首刑)板垣に対する戦犯容疑は、満州事変と満州建国に関する謀略問題だった。満州事変は日本軍が奉天郊外の満鉄線を爆破(柳条湖事件)し、それを中国軍の仕業として戦端を開いた。この一連の謀略を計画・指揮したのが、高級参謀だった板垣大佐と作戦主任参謀だった石原莞爾中佐だった。しかし当時その事実を知っていたのは陸軍内部でもほんの一部で、東京裁判で全容が明らかになった。事変直後少将に昇進した板垣は建国間もない満州国にもかかわりを深めた。中将に昇進した板垣は13年6月、第一次近衛内閣の陸相となり、続く平沼内閣でも陸相に留任して日独伊三国同盟の締結を強硬に主張した。第7方面軍司令官の板垣はシンガポールでイギリス軍に身柄を拘束されていた。しかし東京裁判の被告に選定され、急遽、東京に移送された。 賀屋興宣(蔵相:終身禁固刑)官僚の典型的なエリートコースを歩い賀屋は、陸海軍の予算編成を担当、自然に陸海軍の少壮幕僚たちと親しくなった。林銑十郎内閣で大蔵次官、第一次近衛内閣で大蔵大臣に抜擢、折しも盧溝橋事件によって支那事変が起こり、本格的な戦時予算の途を開いた。昭和16年10月に発足した東条内閣の蔵相に再び就任、今度は戦時予算編成に取り組んだ。主要閣僚だった賀屋は、戦時公債を乱発し、増税によって巨大な軍事費中心の予算を組んで東条内閣を支えた。その予算編成は中国の資源収奪や大東亜共栄圏の中心としてブロック経済を視野に入れた。 木村兵太郎(陸軍大将:絞首刑)絞首刑に処せられたA級戦犯7被告の中で、木村ほど一般国民になじみの薄い軍人はない。木村の経歴の中でもっとも華やかな舞台は、第2次、第3次近衛内閣と東条内閣における陸軍次官というポストだった。仕えた陸相は東条英機、当時陸軍きっての秀才と言われた武藤章が軍務局長で、次官には温厚な木村が選ばれたのだろう。しかし東京裁判では東条陸相の腹心と思われたか、予想もしない死刑判決を受けた。東条、武藤が絞首刑でバランスをとったとも思られる。 小磯国昭(陸軍大将・元首相:終身禁固刑)東条内閣が瓦解し、昭和19年7月に誕生したのが小磯内閣だった。予備役になって7年も経っており、戦局には疎かった。日本はこんなに負けているのかとびっくり、さらに予備役のまま組閣したから、規則で大本営の会議にも出席させて貰えなかった。しかし敗戦間際に首相になったばかりにA級戦犯に選ばれた。ただ満州事変後に関東軍参謀長を務め、資源を中国に求めることを前提に、総力戦体制に適合する国防経済の確立を提唱していた。朝鮮半島に通じる海底トンネルの建設さえ構想した。 木戸幸一(内大臣:終身禁固刑)明治の元勲・木戸孝允の曾孫。昭和8年、西園寺公望の推薦で宮内省内大臣秘書官長に任ぜられた。学習院、一高、京大を通じての親友である近衛文麿が内閣を率いることとなり、文相・厚相を兼務して、近衛内閣の副総理をもって任じていたが、近衛内閣退陣とともに野に下り、貴族院議員を務めていた。15年6月、内大臣に就任、後継首相候補を木戸は重臣会議を招集して意見を聞き、木戸が天皇に推薦するようになった。しかし日米開戦直前の東条内閣、戦争末期の小磯内閣、終戦処理の鈴木貫太郎内閣の登場も、木戸の影響力と無関係ではありえなかった。それだけに東京裁判での木戸の役割は、昭和天皇を戦犯の座に座らせないこと一点に絞られた。木戸日記を提出したのも、天皇の平和主義者としての側面を強調するためだった。そのため木戸の証言は軍人被告に対する容赦ない批判となり、軍人被告から罵声を浴びせられた。 松井石根(陸軍大将:絞首刑)松井は陸軍有数の中国通。10年8月に予備役に編入されたが、支那事変が起きると、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官を命ぜられ再び中国大陸に渡った。いわゆる「南京虐殺事件」はこの松井司令官の下で起きた。松井が絞首刑の判決が言い渡された後の昭和23年11月23日、花山信勝教誨師との面談で語っている。「私は日露戦争で従軍したが、当時の師団長と今の師団長と比較すると、問題にならんほど悪い。日露戦争の時、シナ人に対してもロシア人に対しても、俘虜の取扱はよくいっていた。今度はそうはいかなかった。武士道とか人道とかという点で、当時とは全く変わっていた。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面司令官だったが、折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった、と。ところが、このことの後で、みんなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。このまま往生したいと思っている」と。 松岡洋右(外相:公判途中で病没)満州事変、満州国建国という一連の行動が国際連盟で侵略行為とされたとき、日本の首席全権大使だった松岡は脱退演説をぶって退場、「ジュネーブの英雄」として軍部や右翼からもてはやされる存在となった。第二次近衛内閣で外相の椅子を手にした松岡は、日独伊3国軍事同盟を締結、ドイツに飛んでヒトラーに会い、モスクワでスターリンと日ソ中立条約を締結。松岡の考えでは3国同盟にソ連を加え、アメリカに対抗できる体制を整えたつもりだったが、独ソ開戦という思わぬ事態に直面、松岡構想は崩れた。 南次郎(陸軍大将;終身禁固刑)満州事変は南大将が第2次若槻内閣の陸相を努めている時起きた。南は事変の謀略計画そのものには参画していないが、直前にそれを知り、中止勧告の使者を送った。しかし、事変が起こってからは政府の不拡大方針に従わず、軍閥をバックに南一流の押しの一手で篠原外交を封じ、軍独走の端緒を開いた。 武藤章(陸軍中将:絞首刑) 武藤の軍務局長は昭和14年9月~17年4月の2年7カ月もつづいた。盧溝橋事件が起きた時、武藤は参謀本部作戦課長で、直属上司石原莞爾部長の不拡大方針に対して、武藤は拡大論を主張して激しく対立、日本軍を泥沼の戦場に追いやる端緒をつくった一人であった。その武藤が軍務局長として日米開戦の舵をとることに成った。局長就任後、先ず日独伊3国同盟、北部仏印進駐、日ソ中立条約締結、日米交渉開始、南部仏印進駐、日米交渉打ち切り、対米英宣戦と、じゅうような外交案件が相次いだ。この軍部狂奔時代の渦中にあって、海軍の岡敬純軍務局長と共にその最先端に立って軍政を推し進め、政党活動と議会政治を仮死状態に陥らせる役割を演じた。