東京裁判  2  (その概要)

2022年03月29日 | 歴史を尋ねる

 再度、東京裁判に戻る。東京裁判はどのような経緯でスタートしたのか。その概要を太平洋戦争研究会編「東京裁判の203人」で見ておきたい。

 ・まずは、戦勝国はいかなる法律で日本の指導者を戦犯にしたのか。
 ダグラス・マッカーサー陸軍元帥が厚木に海軍飛行場に降り立ったのは、昭和20年8月30日だった。その前日8月29日、アメリカ政府はマッカーサーに暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令した。その指令は「連合国の捕虜その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官または適当な連合国機関によって告発された者は逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があったときは処罰される」と。アメリカ政府が戦争犯罪人に対する逮捕・訴追命令の根拠にしたのは、日本が降伏する直前の8月8日に米英仏ソの4か国が締結した「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定(ロンドン協定と呼ばれる)」とポツダム宣言である。 ポツダム宣言第10項には「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」という一文があり、ロンドン協定には、捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」のほかに、侵略戦争を計画、実行した者をも犯罪者として裁ける「平和に対する罪」と、占領地の一般住民に対する虐待、虐殺などの非人道的行為をした者を裁く「人道に対する罪」の2つが、戦争犯罪の概念として新たに加えられている。さらに協定には、これらの戦犯を裁くための国際軍事裁判所条例(憲章)が付属している。ドイツで行われたニュルンベルク裁判も、東京の極東国際軍事裁判も、このロンドン協定に基づいて開設された。両裁判の被告たちは、いずれも国家の中枢にいて政治や軍事を動かしてきた人たちで、いずれも「通例の戦争犯罪」(交戦法違反など)に加えて、ロンドン協定にもられた「平和に対する罪」と「人道に対する罪」で訴追された。これらの容疑で逮捕・訴追された人たちは、その他の戦犯容疑者と区別するために「A級戦争犯罪人容疑者」と呼ばれた。その他の戦犯容疑で逮捕された人たちは「BC級戦争犯罪人容疑者」と呼ばれ、殺人や虐待などの残虐行為を命令する立場にいた各級指揮官などをB級、それらの犯罪の実行者をC級としていたともいう。しかし、現実にはB級とC級の区別は難しく、日本軍将兵を裁いた戦勝7か国(アメリカ、英、豪、オランダ、仏、中国、フィリピン)が主宰した49の軍事法廷では、「BC級戦争犯罪人」として一括処理された。ちなみに戦勝7カ国に起訴された日本軍将兵は合計5644名で、このうち死刑が934名、終身・有期刑が3413名、無罪1018名、その他279名という数字が残されている。

 4か国が締結したロンドン協定には、新たに「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の2つが加えられたが、いわゆる事後法であるとして現在でもその違法性が論議されている罪状である。対象となる行為をしたときに、その行為が犯罪とされていなかった場合、事後につくった法律で処罰することは本来、禁じられているからだ。事後法とともに問題にされたのが、ロンドン協定で採択された「共同謀議罪」である。連合国は1943年10月、枢軸国の戦争指導者を処罰するためにロンドンに連合国戦争犯罪委員会を設置し、45年にロンドン協定を締結した。当初、イギリスは枢軸国の指導者を処罰するのに裁判方式をとることに強く反対した。その理由は、国際軍事裁判によって裁くことは法律問題が煩雑なうえに、時間がかかり、具体的犯罪行為を個々の立証することは困難であるため、即決処刑を主張した。しかし、ソ連は即決処刑には反対で、アメリカは裁判方式を強く主張した。ここでアメリカのスチムソン陸軍長官などから提案されたのが「共同謀議罪」の導入だった。「共同謀議」とは英米法特有の法概念で、アメリカのコンスピラシー(conspiracy=陰謀)などがその例だった。2人以上の人間が、何らかの犯罪の実行に合意し、そのうちの最低1人が何らかの行動を起こせば、計画に合意した全員が処罰の対象となる法律である。
 スチムソンら当時の連合国首脳は、この「共同謀議罪」を適用して、満州事変後の日本の軍事行動に関わった軍人や政治家らを「平和に対する罪」で十把一絡(じっぱひとからげ)にしようとしたのである。イギリスが懸念しているような個々の犯罪行為の立証は必ずしも必要なく、犯罪全体の計画に何らかの関与があれば、それで容疑は十分だという、きわめて大雑把な論理である。東京裁判では100名を超える「A級戦犯容疑者」が逮捕され、その中から28名がA級戦犯に指名され、国際軍事裁判の法廷に立たされた。アメリカのマサチューセッツ工科大学教授のジョン・ダワーはインタビューに答えて、「歴史事実の問題で言えば、判決が認定した1928年から日本の指導者が戦争の共同謀議をしていたという説を受け入れる歴史家はいません」と明快に答えている。

 ・連合国はいかにしてA級戦犯を選定したのか。
 30日、厚木に降り立ったマッカーサー元帥は、横浜にある宿舎のホテル・ニューグランドに直行、夕食をとると、CIC(対敵諜報部)部長ソープ准将に命令を出した。それは東条英機陸軍大将の逮捕と戦争犯罪人容疑者のリスト作成だった。この時の元帥の指示は、戦争犯罪人には捕虜虐待などの戦争法規違反者と侵略戦争を計画・実行した者たちの2種類があり、前者の逮捕・拘置はカーペンター大佐の法務部が担当し、東条など侵略戦争を指揮した者たちはソープ准将のCICが担当せよというものだった。翌31日、ソープ准将はCICスタッフに戦犯容疑者の人選と東条逮捕を命じた。しかし日本の政治や陸海軍組織の事情に疎いスタッフは、誰を戦犯容疑者にリストアップしたらいいか、東条がどこにいるのかも見当が付かなかった。9月2日、ミズーリ戦艦での降伏調印式、9月8日東京赤坂の米大使館での国旗掲揚指揮を終えるとマッカーサー元帥はソープ准将を呼んで、東条の逮捕とリストアップはどうなっているか尋ねた。マッカーサーは明らかに不満顔だった。ソープ准将は焦った。クラウス中佐が東条は東京に自宅におり、近々新聞記者と会見するらしいという情報を聞き込み、ソープは閃いた。東条が戦犯第一号なら、彼の内閣の大臣だった連中が戦犯に指名されてもおかしくない、と。翌9日、ソープは東条内閣の閣僚を中心に、ホセ・ラウレル(元フィリピン大統領)、ハインリッヒ・スターマー(駐日ドイツ大使)、オン・サン少将(ビルマ独立義勇軍司令官)など日本に協力した外国人を加えた戦犯容疑者のリスト(第一次)をマッカーサー司令官に提出した。マッカーサーは直ちに米国務省に報告し、翌10日、国務省から了解の返電を受け取った。
 内報を受けた日本政府(東久邇宮内閣)は、リストに現職の国務相緒方竹虎や元首相の広田弘毅の名を見つけ、「現職の重臣は避けてほしい」と司令部に申し入れ、了承を取り付けた。11日、マッカーサー司令部は東条英機元首相をはじめとする、43名の戦争犯罪容疑者の逮捕を命令した。この第一次戦犯容疑者には、日本人以外にフィリピン人3名、オーストラリア人2名、ドイツ人3名、オランダ人、ビルマ人、タイ人、アメリカ人各1名が含まれていた。こうして米軍CICによるA級戦犯容疑者の逮捕が開始された。以後、逮捕命令は近衛文麿や木戸幸一らが含めれる12月6日の逮捕命令発表まで4次にわたった。その逮捕者合計は100人を超え、人選はかなりいい加減なもので、なぜこの人が、と首を傾げたくなる人のかなりいた、と平塚柾緒氏は言う。一方で、自らの逮捕を予期したのか、杉山元元帥や橋田邦彦元文相、小泉親彦軍医中将のように自殺する者も後を絶たなかった。未遂に終わったが東条もその一人だった。

 昭和20年12月6日、ジョセフ・キーナンが19名の検事を含むアメリカ検察陣幹部38名を率いて来日した。8日、マッカーサーはキーナンを局長に任命、国際検察局を都心の明治ビルに設置した。キーナンたちアメリカ検事団はA級戦犯を選定するため、連日のように巣鴨拘置所に通い、東条大将をはじめとする軍人、政治家の尋問を精力的に開始した。12月28日、米国務省は日本の降伏文書に調印した英、仏、中、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソ連の各国に裁判官と検察官を1名ずつ指名するよう要請した。
 キーナンは検察局のアメリカ人要員をAからHまでの8グループに分け、被告の選定作業を開始した。Aグループ:1930年~36年1月まで。 Bグループ:1936年2月~39年7月まで。  Cグループ:1939年8月~42年1月まで。 Dグループ:財閥からの被告予定者の選定。  Eグループ:超国家主義団体からの被告予定者の選定。  Fグループ:陸軍軍閥からの被告予定者の選定。  Gグループ:官僚からの被告予定者の選定。  Hグループ:日本政府の資料調査で、被告の選定作業には直接関与しない。 そして検察陣が逮捕者や証人を尋問する中で、有力な協力者が現れた。その一人は、11月24日に内大臣府が廃止されるまでその要職にあった、昭和天皇の第一の側近・木戸幸一だった。木戸は12月6日逮捕令が出され、16日に出頭、その木戸に対する尋問は、12月21日からキーナン首席検事をはじめ、国際検察局の有力スタッフによって進められた。この尋問の中で木戸は「日本陸軍の中で戦争を望んでいたのは誰だったか?」と質問に対して、まず陸軍省の軍務局長だった佐藤賢了中将と武藤章中将の名をあげ、続いて企画院総裁だった鈴木貞一陸軍中将について「彼は対米戦争には成算があると主張していた」と答えている。木戸は延べ30回を超す尋問を受け、満州事変から終戦にいたる間に起きた様々な事件や重要会議の決定についても供述した。そして、それらの事件や会議での関係者名を明かにし、検察陣の被告選定に協力していった。さらに彼が昭和5年元旦から出頭する前日までに書いた日記(のちに『木戸日記』として刊行された)も検察局に提出した。
 木戸が検察局の質問に答えて、重大な政治責任や戦争責任があると言明あるいは示唆した人物のうち、結果として、東京裁判の被告に選定されたのは15人にもなる。全被告28人の半数を超えた。その人物は、陸軍:南次郎、荒木貞夫、小磯国昭、板垣征四郎、橋本欣五郎、松井石根、鈴木貞一、東條英機、武藤章、佐藤賢了の10名。海軍:永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純の3名。残る2名は元外相の松岡洋右と右翼の大川周明。

 検察側へのもう一人の協力者は田中隆吉少将で、、満州事変に連動して起こった上海事変の謀略を担当した功績をかわれて関東軍参謀となり、綏遠事件などの謀略を実行した後、陸軍省に呼ばれ少将に昇進した。昭和15年12月に、憲兵の元締めである兵務局長に就いた。ところが上司の登場英機首相と対立し、昭和17年9月、予備役にされた。田中は東京裁判が対象とする、満州事変から終戦にいたる期間に起きた様々な事件について、その内容と関係者を詳細に証言している。張作霖爆破事件の内幕を暴き、満州事変の発端となった柳条湖事件(満鉄線爆破)も関東軍の謀略であったことを暴き、さらには橋本欣五郎大佐らの桜会による3月事件、10月事件、そして2・26事件と、日本陸軍の暗黒部分を多岐にわたって暴き続けた。これら田中尋問の一次資料を読み込んでいる粟屋健太郎立教大学名誉教授は、A級戦犯被告28名の検察ファイルには、田中隆吉の人物評を利用して資料として添付されている者が17名に上ると記している。そして田中の証言は、被告選定や被告の立証準備の有力な資料として、検察側に活用された、という。田中は事前の協力だけでなく、実際の法廷にも検察側の証人としてたびたび出廷し、被告たちを名指しで証言した。こうして、当初CICが逮捕・拘留した戦犯容疑者以外からも、何人もの戦犯候補者が浮上し、被告の最終決定は次のプロセスで決められた。
 まず被告の絞り込み作業は、昭和21年3月に設立された国際検察局執行委員会(委員長はイギリス代表検事コミンズ・カー)が行い、これを各国検事で構成された参与検察官会議にかけて最終決定案とする。この決定案を、マッカーサー司令官が承認するという手順を踏んだ。この被告の選定作業の中で、新たな戦犯容疑者が洗い出され、3月末に、元軍令部総長永野修身海軍元帥、元海軍省軍務局長岡敬純海軍中将、元陸軍省軍務局長武藤章陸軍中将の三人に逮捕令が出された。4月8日までに東条元大将をはじめとする26名の被告が決定されたが、オーストラリア代表検事のマンスフィールドは昭和天皇の訴追を強硬に主張した。しかしアメリカ政府は占領政策を円滑に進めるためには天皇の存在は欠かせないと判断し、キーナン首席検事は、昭和天皇の訴追には断固反対、昭和天皇の免責が決定された。しかしその後も被告選びが二転三転し、まず、第7方面軍司令官だった板垣征四郎大将とビルマ方面軍司令官だった木村兵太郎大将が追加、さらにソ連検事団が到着、尋問と選定をやり直すと言い出し、4月17日、重光葵元外相、梅津美治郎元関東軍司令官、鮎川義介満州重工業総裁、藤原銀次郎王子製紙会長、富永恭次陸軍次官を追加するよう求めてきた。参与検察官会議の討論の結果、重光と梅津が被告に編入され、最終的に被告数は28名となった。以上でもわかるように、死刑囚を出すかもしれない戦犯選びも絶対的なものではなく、きわめて恣意的、曖昧な根拠による選定でもあった。 

 最後に、A級戦犯28被告の横顔を見ておきたい。  荒木貞夫(陸軍大将:終身禁固刑)旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれた。日本が国際連盟を脱退した昭和8年当時、脱退論をあおって政官界を引きずり、日本を孤立化へ追い込んだ一人、そして陸軍の政界進出は5・15事件を契機としているが、その推進者は陸相当時の荒木と真崎甚三郎参謀次長、林銑十郎教育総監の3人だった。青年将校がクーデターを計画した3月事件、10月事件は、この荒木・林・真崎の3大将を政権の中枢に据えようとしたものだった。   土肥原賢二(陸軍大将:絞首刑)大佐だった満州事変当時は奉天特務機関長としてもっぱら謀略に明け暮れ、中国人から土匪源の異名で恐れられた。関東軍が奉天を占領した時、奉天市長も務め、清朝の廃帝・溥儀を執政として満州国建国を企図した時、溥儀を天津から連れ出したこと、もう一つは華北分離工作を積極的に推進したことで、察哈爾(チャハル)事件をきっかけに土肥原・秦特純協定と呼ばれるものを強引に締結したこと。土肥原の華北分離工作とは、河北省内の冀東防共自治政府を成立させ、国民政府からの離脱宣言をさせて、満州国の隣にもう一つの小満州国を作ろうとした謀略のこと。土肥原は被告選定段階では有力な証拠もなく、当人の自供も得られなかったが、中国代表検事の強い要求で選ばれ、絞首刑判決を受けた。    橋本欣五郎(予備役大佐:終身禁固刑)トルコ駐在の時、トルコ共和国建国の父、アタチュルク初代大統領に傾倒し、昭和5年帰国した橋本は、アタチュルクの国民国家建設運動と橋本独特の天皇帰一主義を結合させた国家体制を提唱、若手将校たちを糾合して桜会を結成、3月事件、10月事件を計画したが、いずれも事前に情報が洩れて失敗、重謹慎処分を受ける。2・26事件後の粛軍人事で予備役に編入され、国家社会主義系右翼らと大日本青年党を結成して統領に収まった。    畑俊六(陸軍元帥:終身禁固刑)米内内閣の陸相だった昭和15年7月、単独で辞表を出し、米内内閣を倒閣に追い込んだ。それは米内光政海軍大将が新米英派で、陸軍の推進するドイツとの連携を拒んだからで、畑の行動は陸軍の総意ともいえた。畑は頭脳明晰、陸大最優秀の軍刀組で、順調に大将に昇進、阿部内閣の陸相にもなった。当時陸軍の若返り人事が叫ばれたが、陸軍統制派の横暴を抑制するため昭和天皇が統制派の穏健分子である畑を指名した。しかし結果的には、非戦派の米内内閣を瓦解させ、好戦派の過激分子に開戦の途を開く結果を招いた。また支那事変勃発に際しては武漢作戦時の中支那派遣軍司令官で、中国各地で引き起こした残虐行為を停止させる措置をとらなかった。    平沼騏一郎(元首相:終身禁固刑)東大法科卒業とともに司法省に入り、判事・検事畑を歩み、大逆事件の主任検事などを務め、検事総長に登り詰める。その後山本権兵衛内閣に司法大臣となり、政治の途へ。山本内閣総辞職後、神道イズムの鼓吹を目標とした国本社を創立、陸軍の真崎甚三郎、荒木貞夫、海軍の加藤寛治、末次信正といった軍部革新論者たちと結びついた。その後広田弘毅首相の推薦で、枢密院議長に。昭和14年1月、近衛内閣のあとを受けて首相に就任。大島浩駐独大使、白鳥敏夫駐伊たちの執拗な勧めもあって日独伊軍事同盟の締結交渉を行っていたが、同年8月、独ソ不可侵条約が締結されたことに仰天、退陣した。    広田弘毅(元首相:絞首刑)外交官の道を歩いてきた広田は昭和8年、斎藤実内閣の外相に抜擢された。2・26事件のあとの昭和11年3月、組閣の大命が下った。皇道派を追い落とした陸軍の統制派は広田の組閣に介入、陸軍推薦の5名を閣僚に押し込んだ。その組閣人事で軍部と妥協したことが日独防共協定の締結を生み、さらには軍部大臣現役武官制の復活も認めざるを得なかった。昭和12年1月末、広田内閣は瓦解したが、続く第一次近衛内閣で再び外相に就任、日独伊防共協定を成立させた。支那事変に突入するや、副総理格の広田は高圧的外交を推し進め、軍部とともに日本を戦争に引きずり込んだ。   星野直樹(満州国総務長官:終身禁固刑)大蔵省入りした星野は、その財政手腕を買われて建国直後の満州国政府に招かれ、財政部理事官を皮切りに総務司長となり、満州国の財政部門で活躍した。この満州時代、関東軍首脳と親密な関係を作り、星野の画策した産業5カ年計画、満州重工業会社の創立、日満統制経済の実現などは、これら軍部人脈の後押しによるものだった。関東軍参謀長の東条英機と知り合ったのもこのころで、満州国を実質的に支配していた人物を指す言葉「二キ三スケ」(東条英機、松岡洋右、鮎川義介、岸信介、星野直樹)の一角を占めていた。昭和15年第二次近衛内閣の無任所大臣で経済新体制を目指し、東条内閣が誕生すると内閣書記官長として中枢に入り、東条側近として絶大な発言力を保持した。     板垣征四郎(陸軍大将:絞首刑)板垣に対する戦犯容疑は、満州事変と満州建国に関する謀略問題だった。満州事変は日本軍が奉天郊外の満鉄線を爆破(柳条湖事件)し、それを中国軍の仕業として戦端を開いた。この一連の謀略を計画・指揮したのが、高級参謀だった板垣大佐と作戦主任参謀だった石原莞爾中佐だった。しかし当時その事実を知っていたのは陸軍内部でもほんの一部で、東京裁判で全容が明らかになった。事変直後少将に昇進した板垣は建国間もない満州国にもかかわりを深めた。中将に昇進した板垣は13年6月、第一次近衛内閣の陸相となり、続く平沼内閣でも陸相に留任して日独伊三国同盟の締結を強硬に主張した。第7方面軍司令官の板垣はシンガポールでイギリス軍に身柄を拘束されていた。しかし東京裁判の被告に選定され、急遽、東京に移送された。     賀屋興宣(蔵相:終身禁固刑)官僚の典型的なエリートコースを歩い賀屋は、陸海軍の予算編成を担当、自然に陸海軍の少壮幕僚たちと親しくなった。林銑十郎内閣で大蔵次官、第一次近衛内閣で大蔵大臣に抜擢、折しも盧溝橋事件によって支那事変が起こり、本格的な戦時予算の途を開いた。昭和16年10月に発足した東条内閣の蔵相に再び就任、今度は戦時予算編成に取り組んだ。主要閣僚だった賀屋は、戦時公債を乱発し、増税によって巨大な軍事費中心の予算を組んで東条内閣を支えた。その予算編成は中国の資源収奪や大東亜共栄圏の中心としてブロック経済を視野に入れた。    木村兵太郎(陸軍大将:絞首刑)絞首刑に処せられたA級戦犯7被告の中で、木村ほど一般国民になじみの薄い軍人はない。木村の経歴の中でもっとも華やかな舞台は、第2次、第3次近衛内閣と東条内閣における陸軍次官というポストだった。仕えた陸相は東条英機、当時陸軍きっての秀才と言われた武藤章が軍務局長で、次官には温厚な木村が選ばれたのだろう。しかし東京裁判では東条陸相の腹心と思われたか、予想もしない死刑判決を受けた。東条、武藤が絞首刑でバランスをとったとも思られる。    小磯国昭(陸軍大将・元首相:終身禁固刑)東条内閣が瓦解し、昭和19年7月に誕生したのが小磯内閣だった。予備役になって7年も経っており、戦局には疎かった。日本はこんなに負けているのかとびっくり、さらに予備役のまま組閣したから、規則で大本営の会議にも出席させて貰えなかった。しかし敗戦間際に首相になったばかりにA級戦犯に選ばれた。ただ満州事変後に関東軍参謀長を務め、資源を中国に求めることを前提に、総力戦体制に適合する国防経済の確立を提唱していた。朝鮮半島に通じる海底トンネルの建設さえ構想した。      木戸幸一(内大臣:終身禁固刑)明治の元勲・木戸孝允の曾孫。昭和8年、西園寺公望の推薦で宮内省内大臣秘書官長に任ぜられた。学習院、一高、京大を通じての親友である近衛文麿が内閣を率いることとなり、文相・厚相を兼務して、近衛内閣の副総理をもって任じていたが、近衛内閣退陣とともに野に下り、貴族院議員を務めていた。15年6月、内大臣に就任、後継首相候補を木戸は重臣会議を招集して意見を聞き、木戸が天皇に推薦するようになった。しかし日米開戦直前の東条内閣、戦争末期の小磯内閣、終戦処理の鈴木貫太郎内閣の登場も、木戸の影響力と無関係ではありえなかった。それだけに東京裁判での木戸の役割は、昭和天皇を戦犯の座に座らせないこと一点に絞られた。木戸日記を提出したのも、天皇の平和主義者としての側面を強調するためだった。そのため木戸の証言は軍人被告に対する容赦ない批判となり、軍人被告から罵声を浴びせられた。    松井石根(陸軍大将:絞首刑)松井は陸軍有数の中国通。10年8月に予備役に編入されたが、支那事変が起きると、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官を命ぜられ再び中国大陸に渡った。いわゆる「南京虐殺事件」はこの松井司令官の下で起きた。松井が絞首刑の判決が言い渡された後の昭和23年11月23日、花山信勝教誨師との面談で語っている。「私は日露戦争で従軍したが、当時の師団長と今の師団長と比較すると、問題にならんほど悪い。日露戦争の時、シナ人に対してもロシア人に対しても、俘虜の取扱はよくいっていた。今度はそうはいかなかった。武士道とか人道とかという点で、当時とは全く変わっていた。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面司令官だったが、折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった、と。ところが、このことの後で、みんなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。このまま往生したいと思っている」と。    松岡洋右(外相:公判途中で病没)満州事変、満州国建国という一連の行動が国際連盟で侵略行為とされたとき、日本の首席全権大使だった松岡は脱退演説をぶって退場、「ジュネーブの英雄」として軍部や右翼からもてはやされる存在となった。第二次近衛内閣で外相の椅子を手にした松岡は、日独伊3国軍事同盟を締結、ドイツに飛んでヒトラーに会い、モスクワでスターリンと日ソ中立条約を締結。松岡の考えでは3国同盟にソ連を加え、アメリカに対抗できる体制を整えたつもりだったが、独ソ開戦という思わぬ事態に直面、松岡構想は崩れた。    南次郎(陸軍大将;終身禁固刑)満州事変は南大将が第2次若槻内閣の陸相を努めている時起きた。南は事変の謀略計画そのものには参画していないが、直前にそれを知り、中止勧告の使者を送った。しかし、事変が起こってからは政府の不拡大方針に従わず、軍閥をバックに南一流の押しの一手で篠原外交を封じ、軍独走の端緒を開いた。     武藤章(陸軍中将:絞首刑) 武藤の軍務局長は昭和14年9月~17年4月の2年7カ月もつづいた。盧溝橋事件が起きた時、武藤は参謀本部作戦課長で、直属上司石原莞爾部長の不拡大方針に対して、武藤は拡大論を主張して激しく対立、日本軍を泥沼の戦場に追いやる端緒をつくった一人であった。その武藤が軍務局長として日米開戦の舵をとることに成った。局長就任後、先ず日独伊3国同盟、北部仏印進駐、日ソ中立条約締結、日米交渉開始、南部仏印進駐、日米交渉打ち切り、対米英宣戦と、じゅうような外交案件が相次いだ。この軍部狂奔時代の渦中にあって、海軍の岡敬純軍務局長と共にその最先端に立って軍政を推し進め、政党活動と議会政治を仮死状態に陥らせる役割を演じた。    

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韓国に埋もれた「日本資産」の真実 『帰属財産研究』

2022年03月14日 | 歴史を尋ねる

 上記著書を借りることが出来たが、返還時期も早いので、急遽東京裁判の記載中に割り込んでその概要を知っておきたい。それは歴史のあり様について、著者李大根(イ・デグン、経済史学者 1939~ )が貴重な考え方を提示しているから。著者が帰属財産問題に目覚めたのは1982年だという。民間の研究所にいて、大学に移ってきたころだった。母校の先生の還暦記念論文集に寄稿を頼まれ、やっと思いついたテーマが帰属財産問題だった。日本人が解放後に残した財産を、新たに登場した米軍政がどのように扱ったかがその内容で、この帰属財産と著者の出会いはそこからだった。著者は1988年、日韓共同研究会の韓国側メンバーとして参加、帰属財産関連の論文を載せる。三度目のきっかけは1999年、三星経済研究所から解放後の韓国経済の研究を依頼され、そこに原稿を寄稿している。だが、帰属財産について最善を尽くせなかったことが悔やまれ、この莫大な財産である歴史的遺物を、地中の奥深く埋めたまま知らぬふりをしてはならない、という強い問題意識があったものの機会が訪れず、大学定年後70歳になってやっと決心を固めて、研究に着手した、という。4~5年かけて最終章迄原稿を書き上げ、分量は予想より多くなったが、自分が見てもまだまだ不十分である、この著書が懸け橋となって、後続の研究が行われることを期待している、と。

 著書の概要は、著者自身が説明している。研究領域を二つの分野、植民地時代、日本人によって帰属財産がどのように形成されたかという財産形成の領域と、解放後にそれがどのような措置を取られ、誰によってどのように管理・運営・処分されたかという管理の領域である。 財産形成の領域は、(1)国家が完全に責任を持つ公共財、つまり治山治水関連の砂防・植樹・森林緑化・灌漑・水利事業などと、教育・保健・衛生・芸術・体育・文化事業など、(2)公共的な性格が強く、政府がその設立・運営に深く関与する社会間接資本としての鉄道・道路・港湾・電信・電話など、(3)第一次、第二次、第三次産業全般にわたるほとんどの民間企業群。 管理の領域は、解放直後の米軍政による管理と、1948年に韓国政府に移管された後の管理に分けた。 しかし一次資料を読む込む過程で、それらすべて扱うのは到底力が及ばぬことが分かった。こうして、一部を切り捨てながら進めたので、全体像を描くという当初計画はかなわなかった。このように縮小して、本の構成を次の七章にまとまった、という。

 第一章 なぜ帰属財産なのか
    1、植民地遺産としての帰属財産
    2、いまになって問題として取り上げる理由
    3、研究が不十分な理由
    4、結語:研究の必要性
 第二章 日本資金の流入過程
    1、序論:資料・概念・用語の問題  初期併合以前の資金流入、工業化のための財源調達、典拠資料と資金
                      カテゴリー、概念上の留意事項
    2、資金の類型別流入額  国庫資金の流入、大蔵省預金部資金の流入、会社資本の流入、個人資本の流入
    3、流入資金の総合と評価  流入資金の形態別構成、流入資金の目的別構成、流入時期別特性、1940年代
                  前半における大規模な資本流入の性格、総合評価
 第三章 帰属財産の形成過程:社会間接資本建設
    1、鉄道  草創期の鉄道敷設計画、京釜鉄道株式会社の設立と朝鮮鉄道、朝鮮鉄道運営体制の変遷、鉄道の
          路線拡大と資金調達、解放当時の鉄道事情、おわりに:朝鮮鉄道が残したもの
    2、道路  近代社会の開幕と治道論の台頭、日政時代の道路建設、解放当時の道路事情
    3、港湾  序:港湾の前史、港湾の段階的改築過程、港湾の等級別状況、解放当時の港湾事情
   (補論)山林緑化事業  朝鮮後期における韓国山林の事情、総督府の山林政策と緑化事業、総督府の山林政策
               と人工造林、おわりに:解放当時の山林の姿
 第四章 帰属財産の形成過程:産業施設
    1、電気業  はじめにー韓国電気業の始まり、日政時代の電気業の発達、発電事業の展開過程、電源開発の
           波及効果、解放当時の電気事情
    2、鉱業  開港期の鉱業開発と外国人特許制度、総督府の鉱床調査と鉱業制度の整備、韓国鉱業の発展
          過程、総督府の朝鮮鉱業振興政策、解放当時の鉱業事情
    3、製造業  植民地工業化の性格、工業化の段階的展開過程、工業構造の変動と重化学工業化、解放当時の
           製造業の実体
 第五章 帰属財産の管理:米軍政時代
    1、解放時における日本人財産の状況  日本人財産の種別構成、企業体財産の実態、日本人財産に対する
                       資産価値評価
    2、米軍政の帰属財産接収過程  米軍政の登場と日本人財産の運命、帰属財産のカテゴリーと規模、帰属
                    事業体の運営の実態
    3、帰属事業体の管理および処分  米軍政の財産管理政策、帰属事業体の払下げおよび処分、帰属農地の
                     分配事業
    4、帰属財産の韓国政府移管  移管財産の実態、米軍政による帰属財産管理の決算
 第六章 帰属財産の管理:韓国政府時代
    1、韓米の最初の協定と帰属財産の引受  韓米協定の意義、韓国政府の帰属財産引受の過程、引受財産の
                        種別構成
    2、引受財産の実情と管理体制  引受財産の部門別構成、管財行政の原則と管理機構、事業体財産に対する
                    管理制度
    3、帰属財産の処理過程  帰属財産処理法の制定、民間払下げの原則と規準、払下げの過程と実績、不良
                 企業体の清算、帰属銀行株式の払下げ
    4、民間払下げ以降の運営状況  企業運営上の問題点、政府の企業運営改善措置、帰属財産民営化の意義
 第七章 解放後の韓国経済の展開と帰属財産
    1、植民地遺産としての帰属財産  植民地主義と植民地遺産、植民地遺産と韓国の経験
    2、1950年代の経済と帰属財産  解放後における韓国経済の三部門モデル、1950年代の対日貿易の
                      特性
    3、1960年代の韓日協定と帰属財産  1960年代における帰属財産の変貌、韓国経済の構造と特性

 目次を見ただけで、誠実に事実関係を洗い出そうとしている姿勢が窺われる。著者はソウル大学商学部卒業後、韓国産業銀行調査部、国際経済研究所を経て、成均館大学経済学部教授、ニューヨーク州立大学、京都大学、北京大学に留学。グローバル時代に適合した、広く世界を渡った人ならではの見地が見受けられる。では、本書に立ち入りたい。
 1945年8月の終戦とともに、朝鮮の日本人居住者は、軍人、総督府の職員から民間人に至るまで、直ちに日本に帰らなければならなくなった。9月に米軍が進駐すると、朝鮮総督府を閉鎖し、そこに米軍政庁が立ち入った。米軍政に与えられた最初の任務は、日本人居住者をなるべく早く本国に撤収させることであった。日本人はこれまで自分が住んでいた家屋や田畑、工場など、すべての財産を残したまま、身一つで朝鮮を去らねばならなかった。(この姿を見て、韓国人は戦勝国気分になったのかな?) 日本は朝鮮に対する植民地経営において驚くべき経済開発の成果をあげた、と著者は言う。(ブログ筆者は、朝鮮併合を植民地というこばに置き換えることに違和感を感じている。世界史で使われる植民地の定義は併合とは実態が違っている。NHKもいつしか朝鮮併合を植民地という言葉で表現するようになった。韓国歴史学者の言葉にすり寄ったと理解している。そこから日本併合の実態が、曲解させる要因になっている、と考えている。当時の日本の使用言語で十分ではないか。ただ、李大根氏は日本の植民地支配は一般の植民地支配と違うと、丁寧に説明している、が。)
 著者は言う。日本人が朝鮮に渡ってきて財産を形成し、資本を蓄積するようになったのは、1876年の江華島条約の締結により、日本に対する門戸が開放されたときからである。主要三港(釜山、元山、仁川)の門戸が開放され、日本資本はこの開港場を通じて朝鮮に流入し始めた。
 開港以前、韓国の道路は牛馬車の通行どころか、人一人通るのがやっとの狭い路地が大部分だった。曲がりくねっていて路線も一定ではないうえ、道路がところどころくぼんでいる。雪や雨が降ると道路が水たまりになって、通ることも出来ない。人工的に造られた道路というよりは、人々が往来し続けることにより自然に作られた道路がほとんどであった。1876年2月、日本に対して開港すると朝鮮朝廷は日本を視察するため修信使節団を派遣、その時日本の道路事情を驚きの目で記録している。また5年後の紳士遊覧団も同様な記録であった。その翌年1882年、日本を訪問した金玉均により至急の優先的解決課題として①衛生問題、②農業と養蚕、③道路改築を挙げ、とくに国を豊かにする産業を開発するには、まず治道が必要と主張した。1894年の甲午改革を機にようやく関連法制が作られたが、政府による道路改築計画は、財政および技術の問題より実行できなかった。1905年、乙巳条約が締結され、日本が統監府を設置すると、政府内に治道局を設置し、日本技師も派遣され、全国的に最も重要な四路線を選定し、近代的な道路改築事業を推進した。総延長256キロで、主要地域を結ぶ中心路線となった。1908年には第二期工事として七路線、総延長198キロに及んだ。統監府が設置されてから韓国併合の1911年までの実績は大小20路線、総延長840キロに達した。また総督府体制に移行すると、道路改築事業はいっそう積極的になり、道路の等級分け、道路管理の責任所在も明確にした。
 草創期の鉄道敷設はどうであったか。開港後、近代交通手段の寵児である鉄道敷設が課題に挙がった。朝鮮には自ら敷設できる技術がなく、鉄道敷設権を特許契約により他国に委託する方式によらざるを得ない。1882年、競合する多くの列強から日本と英国が先ず、朝鮮朝廷に要求した。しかし最初の敷設権(京仁線)は予想を覆して、1896年3月米国人モースという民間人に渡った。これは1894年8月締結された朝日暫定合同約款の規定を朝鮮が一方的に破ったとして、日本の強い抗議にあった。背景には日清戦争後の三国干渉が大きく作用したようだ。1896年、更にソウルー公州間、ソウルー義州間の鉄道敷設権がフランスの会社に渡った。当時の朝鮮の財政状態や技術水準から、到底自力で敷設することなどできなかった。フランスの見せかけの計画に引っかかっただけだった。その敷設権をロシアが自国に渡すよう要求した。これは日本に対する露骨な挑戦と見做された。
 1897年朝鮮最大規模の京釜線鉄道敷設権が日本にわたると日本では朝鮮鉄道事業に対する投資ブームが起こる。株式発行と共に朝日両国間のこの歴史的な事業を記念する意味で、朝鮮王室3500株、日本皇室1000株を優先株として引き受けるよう特別の配慮措置もとった。ただ鉄道経営上、他国に渡った京仁線、京義線などの敷設権も渡して貰わないと朝鮮鉄道事業の効率性、採算性にが保証できないと日本側が主張、幾多の紆余曲折の末、朝鮮政府の同意を得て交渉し、一元化に成功した。以降、日韓併合が行われるまでの11年間に、総延長1043㌔の鉄道路線が整備された。この大規模工事の資金はどうしたのか。曲折はあったが、大韓帝国期の鉄道建設は、日本政府からの直接財政支出か日本政府保証の社債などで調達された。また、併合後の総督府時代も大きく変わらなかった。1938年末時点で朝鮮総督府の特別会計上の国債発行額の83%が鉄道関連事業費だった。日露戦争が1905年に終了し、日本は統監府を設置して朝鮮の内政に深くかかわり、鉄道事業の運営体制も変化が起きた。日本国内の鉄道をはじめ、朝鮮鉄道・満州の東清鉄道などの運営を一つに結ぶ統合計画がすすめられた。鉄道事業の一元化計画は、すべての鉄道を日本政府(逓信省)が管轄する鉄道事業の国有・国営化を意味した。
 開港から植民地時代を経て、韓国の鉄道は外国資本と技術による他律的な開発方式に依存してきた。そして短期間に驚異的に発展した。戦後、政治的に独立した第三世界の新生開発途上国の中で、韓国ほど自国の領土に近代的な鉄道網が細かく構築されていたケースは見当たらない。代表的な近代的交通手段である鉄道の発達は、韓国の初期近代化過程において社会経済的変化をもたらすリーディング・センターとしての役割を十分果たしたといえる、と著者は言っている。

 李大根氏は補論として山林緑化事業を挙げている。社会間接資本の範疇に含めるのは性格上不都合だが、帰属財産の形成と関連し重要な意味を持つと考えるので、補論として収録した、という。非常に誠実な取り上げ方で、しかも極めて重要な事業だった。 19世紀後半、朝鮮王朝が門戸を開いた時の、国土面積の7割以上を占める韓国の山林はどうだったかというと、韓国の山野は山と呼べないほど荒廃した黄土色のはげ山だったという。当時外国人のカメラで撮られたソウル近郊の仁王山には松の木一本も見当たらなかった。朝鮮と満州の国境地帯で見られる原生林や江原道の一部の高山地帯にある深山幽谷を除くと、程度の差はあれ、山野のほとんどがはげ山だった、という。なぜか。当時の人々は、政府や公共機関を含め、山林に対する所有の概念がなかった。すべての土地は王のものという王土思想が山林にまで及んでいたのか、どんな山林であれ、自由に出入りでき、その中の木や草などの林産物を自由に採取できた。しかし、植樹や育林問題に関して、中央政府や地方官庁も、誰も関心を持っていなかった。その乱伐の原因を求めると、1、燃料用薪に対する需要の増大、一般民家までオンドルが普及すると炊事用だけだなく暖房用の薪の需要が急増した。 2、建築用木材として松の需要が高く、政府は禁松政策をとったが、松の乱伐を防ぐことが出来なかった。 3、耕作する田畑のない窮民たちの火田、17~18世紀、山地をやたらと焼き払って開墾する事態が急増した。
 日本は1905年、統監府を設置し、韓国政府の外交と財政の分野に顧問官制度を導入し、その他の教育や治安分野などにも日本の官吏を招聘して諮問を受ける方法で、国政全般にわたって一大改革を進めた。こうした改革措置の中で第一に施行しようとした分野が、これまで知られていなかったが、このはげ山を青くする山林緑化事業であった、と。韓国政府は統監府の要請を受け入れて森林法を制定、林籍調査に着手したが、森林法自体が韓国の山林の現実とかけ離れて全く当てはまらなかった。総督府はやむを得ず新たに森林例を制定し、山林緑化を最優先目標に据え、所有権を付与する方式を推進した。これまで土地調査事業に対する歴史的意義を強調するあまり、この林野調査事業について知らないばかりか、等閑視する傾向にあった。全国土の7割が林野であることを考えると、極めて重要な歴史的意義を持っていた。にもかかわらず、韓国の学会の一部では、総督府の林相・林野調査の目的は朝鮮山林の収奪であり、民有林を収奪して国有林にした、という主張まで出てきた。申告も未申告も最終的に調整されており、未申告の場合は直ちに国有林に転換されるという主張は、歴史的事実を大きく歪曲するものであった。
 初代総督寺内正毅が、赴任と同時に「治山・治水・治心」という独特の政策スローガンを掲げ、人工造林事業を一つの挙国的な国民運動レベルに昇華させる計画を立て、果敢に実践に移そうとした。総統府は併合翌年の1911年、4月3日を「植樹の日」と定め、国を挙げての国民造林運動推進を図った。政府は各学校や官庁を動員する方式で積極的に記念植樹を推奨した。結果的に、併合前の1907年から1942年までの35年間で82億本の植栽実績を上げた。植民地後期、1930年以降、戦時下の極めて困難な時期に、総督府は他の政策事業をほとんど中断させても山林緑化事業だけは強力に推進したことをどう理解すべきか。日本の朝鮮統治の根本理念がどこにあったかを如実に物語るものである、とわざわざ著者は記述している。
 日本から受け継いだ韓国の青い山野は、解放後、長くたたずかってのはげ山に戻った。解放後の政治的・社会的大混乱で、治山治水・山林緑化の関する行政システムが崩壊した。韓国の山林が再び本来の青さを取り戻したのは、1973年から始まる朴正熙政権の第一、二次山林緑化事業からだという。政府の第三次経済開発五か年計画の一環として、挙国的な山林緑化運動が成果を収めた。

 朝鮮の電気業と鉱業がどのような過程を経て発展の道を歩んだのか考察されているが、ここでは省略して、すべての産業の根幹と言える製造業がどのように発展したか、見ておきたい。日政時代の工業化問題に関する研究実績は、①韓国人が行った国内派による研究、②当事者格である日本人研究者の研究、③英語圏を中心とした第三国による研究の三つに分けられる。①については、植民地侵略・収奪論に基づき、日本による工業化それ自体を否定する極端な立場や工業化自体は認めるが、日本の資本と技術により日本のために行ったものであるから、韓国人としてそこに意味を付与する必要がないという立場など、植民地的工業化に対する否定的立場が韓国の学会の主流である。これらの見解は、韓国人の暮らしや福祉とは全く関係なく展開されたという共通の背景がある。実際に起きている現実には意図的に目をつぶり、日本が敷設した鉄道や道路を現実に韓国人が利用しているんを目にしながら、鉄道や道路が存在することすら認めようとしない。それがこれまでの韓国側研究者の基本的な立場である。 ②の日本側研究者は、一つは日本史的観点から、帝国主義の対外膨張史・侵略史または植民地朝鮮の工業化を扱う傾向と、もう一つは徹底して朝鮮史的観点から、工業化が植民地朝鮮の社会経済全般にどのような変化をもたらしたか、朝鮮の近代化ないし資本主義の発展にどのように寄与したのかという面で朝鮮の工業化問題を扱っている。結局、植民地工業化の過程を通じて朝鮮経済の発展、ひいては朝鮮の資本主義的な市場経済の成立と発展をもたらしたという工業化の肯定的意味を付与しようとしている。さらに、日本の資本と技術によって行われたことは厳然たる事実であるが、それが鉄道と道路の敷設や発電所の建設、そのほか水利事業、電信・電話事業など社会間接資本の開発とともに朝鮮社会が伝統社会から近代的な産業社会に移行する物質的土台を構築した。また精神的側面でも、無限の学習効果を通じて国民の意識構造を改革し、近代的な制度と法令が作られ、近代的な資本主義の市場経済制度を導入する契機になったと見ている。
 ここで大事なことは、日本は資本や技術、あるいはフレームワークを持ち込んだが、その実践は韓国人が行った事実も見落とせない。つまり国民の学習や意識の改革は韓国人がよいと思って実践した。そこの行為をもう少し強調する論説があってもいい。どうも植民地という言葉が邪魔して、与えられたものという意識が強すぎる。文化文明の受容は最初はそんなものではないか。韓国人はやはり同じ日本人のようになろうとしたのではないか。そのこと自体は否定されるものではない。その先に韓国人としてのアイデンティティが生まれるのではないか、ブログ筆者はそのように考える。
 ③は欧米人学者の研究。1960年代、韓国、台湾などのアジア新興工業国(NIEs)が高い経済成長を遂げたのは、歴史てき背景がある筈だとして、植民地時代の日本が行った工業化に着目した。その成功のルーツを植民地工業化に見出そうとした。特に朝鮮の場合、1930年代後半から1940年代初頭にかけて日本の産業資本が大規模に流入し、これによって重化学工業化が飛躍的に発展した。それが解放後の韓国の工業化過程に有用な歴史的経験として作用した。この主張の中核は、当時の総督府当局の強力な統制経済下での計画的、先導的な役割に注目している。1960年代以降、朴正熙時代の経済開発五か年計画を通じた政府の先導的な工業化戦略の成功は、植民地時代の日本による工業化にそのルーツを求めている。 以上の三つの認識方法は相互にかなりの偏差がある。特に韓国人研究者は、決して見逃してはならない深刻な認識上の誤謬を犯している、と李大根氏は指摘する。自分の目で直接見ることが出来る歴史的事実についても、意図的に見ようとしない研究者としての不誠実な姿勢である。自分が利用してきた国内の鉄道や新作路、または自分が通った小・中学校や大学の建物や運動場、日本人が作った制度や法令、そして数多くの科学技術や学術研究のための理論や概念・用語などの存在自体を否定するならば、それは客観的事実の否定という側面で、科学の領域から外れていることを意味する。植民地時代に韓国は驚くべき水準の工業化または重化学工業化を経験し、西洋的概念では産業革命の段階に至るほど経済構造が高度化したことを、意図的に否定することに他ならない、と。

 解放時における日本人財産の状況はどうであったか。上は総督府の建物から下は民間人の個人住宅まで、様々な財産があった。第一に、軍事施設を含む各種国公有の公共的性格に財産。公共財産は①朝鮮に駐屯していた軍用財産、②朝鮮総督府傘下の行政司法などの国公有財産、③鉄道、道路など各種事業体の財産。  第二に、①農耕地、牧場、鉱山、工場、銀行など各種民間企業所有の産業施設、②家屋、敷地など民間所有の個人財産、③学校、病院、図書館など公共的性格の非営利団体の財産、④自動車,自転車などの運搬用器具、⑤漁船、漁労道具、農畜産用器具などの各種生産手段、⑥田畑で栽培中の農作物、牧場で飼育中の動物、養殖中の魚介類、果実、家畜類、⑦一般商店の在庫、個人の家財道具、会社の動産類。  第三に、有形財産とは別に、各種無形の財産。株式、社債、有価証券、各種債権、特許権、商標権、著作権などの無形財産。
 1945年8月、朝鮮総督府は日本への撤収を控え、朝鮮を去る企業に対する実態調査を緊急に実施した。総督府は後日起こりうる戦争賠償に備えるため、調書を作成し日本に持ち帰ろうとしたが、米軍政の方針は、帰還する日本人はいかなる場合も一般書類を持参できないというものだった。総督府は仕方なく総督府内の韓国人高級官吏に預け後日渡してもらう約束をしたが、結局米軍兵に押収されたという。日本の海外財産のうち、朝鮮に置いていった日本政府の評価は、在外財産調査会の朝鮮部会責任者であった旧総督府財務局長が、一年以上実態調査を行って報告している。国公有財産は除外して、民間における私有財産評価額は、企業体財産500~550億円、個人財産250億円規模に達すると推定。

 1945年8月時点で、この地に残された日本人財産、当時の価格での評価額を52.5億ドルとして、このうち北鮮に所在する財産29.7億ドルについては除外し、南鮮側に残された財産22.8億ドルの財産について、見てみる。9月、米軍政は、日本人財産の所有権を米国に引き渡す措置を断行、その中には民間人所有の家屋や土地もすべて含まれた。
 1948年の政府樹立と同時に、米軍政から帰属財産を引き受けた韓国政府は、最初からすべての帰属財産を民間に売却する方針を立てた。一般企業の運営を早急に正常化し、生産を促進しなければならない状況にあったので、帰属企業体を優先して民営化させる必要があった。李承晩大統領が、米国式の自由企業主義の対する確固たる信念を持っていたこともあるが、時代状況が政府に民営化を急がせた。増加する財政収支赤字を補うため、民間払い上げを急がせた。しかし六・二五(朝鮮)戦争の勃発により、払下げ計画に支障が生じる。しかし戦争物資生産の迅速な増強が必要とされ、民間払下げが急がれた。1950年~1956年の間に大半の企業が払い下げられた。飲食料品工業(509件)、機械・金属工業(271件)、化学工業(151件)、繊維工業(121件)などが払い下げられた。1958年5月末までに、帰属事業体は100社ほどの未処分企業を残してほとんどが処分された。未処分企業の中には、大手電力会社三社(朝鮮電業、京城電気、南鮮電気)、鉱工業では大韓重工業、朝鮮機械、大韓重石、三成工業などの大企業、運輸・倉庫業や新聞社など比較的大規模な企業が未処分となった。
 しかし米軍政権下であれ韓国政府への移管後であれ、帰属企業体の運営が正常化されず経営不良となり、赤字経営から抜け出せなかった。問題は大規模な事業体を運営できる経営者や技術者がいなかったことである。また南北間の産業上の不均衡、電力問題、主要工業用原料鉱や燃料用地下資源の分布状況も北鮮に偏っていた。こうした問題を抱えながら、1950年代の韓日間の輸出・輸入の比率は次の通りであった。韓国の総輸出に占める日本の比重は、」1950年75%から57年の49%、58年の59%と引き続き圧倒的な割合を堅持した。総輸入でも1950年の69%から51年の72%、52年の59%と50年代前半は輸入においても絶対的であった。これが後半になると、米国から援助物資の輸入が大幅に増加したうえ、政府が対日輸入に強力な抑制措置をとった影響で、58年には13%、59年には10%にまで縮減した。また、韓国側は慢性的な赤字累積により、まともな決済方法では貿易が持続できなくなった。これで米国側は韓日間の交易では、精算勘定を設置して、決済猶予・後払い方式に切り替えた。別途その間はいろいろ紛糾したが、1950年代の韓日関係は特殊な事例が積みあがった。韓国は外交上の相互主義の原則を無視し、外交的慣行に反する行為を日本に頻繁にとった。換言すれば、米国側に助けられて、韓国は外交的にも経済的にも日本から一方的な特惠を受けていた。もう一つ、1950年代までは韓国経済の流れにおいて、植民地遺産である帰属財産は生き残り、経済全般にわたって相当な役割を果たしていた。
 1950年代、韓国にとっての最大の外交的課題は、日本との国交正常化を実現することであり、一日も早く韓日会談の開催を成功させなければならなかった。サンフランシスコ講和条約締結と時をk同じくして、米国側の要求により韓日会談が開かれるが、結局10年間、何の成果もなく歳月を送った。その責任は李承晩大統領が行った会談決裂のための遅延作戦が最大の責任であった。1965年の韓日両国の国交正常化に向けた韓日協定の締結こそ、韓国現代史における一大歴史事件であった。協定の締結により、日本から入った五億ドル以上の経済協力資金(請求権資金+商業借款)は、1960年代に朴正熙政権が経済開発五か年計画を成功させる土台となった。経済政策の性格を1950年代の自由主義政策基調とは明確に異なる、政府主導の計画経済政策基調に変えた原動力といる、李大根氏は断言する。結論として、約40年間にわたる植民地支配の物的遺産と言える帰属財産は、解放後、1960年代前半までは与えられた役割を忠実に果たし、新時代が求める経済協力という名の莫大な資本が日本から導入され、帰属財産という名誉とは言えないレッテルがついにはずれた、と。

 最後になったが、著者がなぜ今になって帰属財産をとりあげるのか、触れておきたい。歴史歪曲に対する国民の認識を正すために、この帰属財産を原状復帰させるのが何よりも重要な課題だとしているが、著者の問題意識は深い。一つには韓国経済が解放後から1950年代までは当然のこと、1960年代初めまでは一人当たりGNPがわずか62ドルであり、これは当時のフィリピンやタイはもちろん、はるか彼方のアフリカ諸国にも及ばぬほどの最貧国であったという主張が公然と繰り広げられている。政府やマスコミ、ひいては経済学者の間にまで広がっているこの主張は果たして歴史的事実に符合するのか。こうした主張は、主に1960~70年代、朴正熙政権時代の経済開発の功績を過度にあおるための政治的意図から作られた、誇張された比喩である。あるいは、植民地時代の日本による経済的発展を意図的に隠すためにものか、李承晩大統領が政治的に独裁を行うだけで経済的に何もしなかったという点を強調するための1950年代卑下論の三つに分けられる、という。いずれにしても、不当な政治的要求による歴史的事実の歪曲に違いない。そうではなかったことを明確にしたいという知的好奇心が、このように遅きに失した帰属問題を取り上げることになったゆえんである。1945年8月15日の解放当時、韓国に形成された資本蓄積の水準は、戦後どの第三世界の新生国家とも比較できないほど、アジアではどの面から見ても、日本に次ぐ第二位の経済先進国であった。こうした水準の韓国経済が、1960年代に入るや世界最貧国に転落するというのか。韓国はもちろん、先進国も国民所得の統計が出る前である。発展途上国の場合、人口統計すらまともに整備されていなかった時代である。国民一人当たりGNPという概念を持ち出して国別に数値比較すべきでない、と李大根氏。うむ、誠にその通りだ。ブログ筆者も当時の韓国は最貧国だという記事を何回か、読まされた。李氏の言うとおりだ。国民を誤導する歴史歪曲を正すためには、何よりも歴史的反証資料として帰属財産の実体に関する研究が必要である、と。
 もう一つ、1960年~70年代の「請求権資金」という名前で入ってきた日本資金の性格に関し誤りがあるからだ、という。韓日協定に基づいて提供された日本からの資金(無償三億ドル、有償二億ドル)の性格を、人々はどのように理解しているのか。ほとんどの韓国人は、過去35年間の植民地支配に伴う韓国人の精神的・肉体的苦痛と経済的収奪に対する報償的な次元であり、日本にとって有利な条件で提供した有償・無償の資金であると思っている。だから、韓国が日本に対して当然要求できる権利、対日請求権の行使として受け取る資金であると、いままで理解してきた。しかし、きちんと調べてみると、この請求権の資金の性格は、韓国人が知っている内容とは全く異なる。これを正しく理解するために、当時の韓日会談の過程を書いてみる、と。1952年の韓日両国は相手方に対し、異なる性格の「財産請求権」を提起することから始まる。韓国側は植民地支配に対する報償的な性格の請求権を提起、日本側は自分たちが韓国に置いてきた財産、特に民間の私有財産に対する財産権行使としての請求権を提起した。終戦後、韓国に入った米軍政が日本人の私有財産まで没収し、それを韓国政府に無償で移管したことは明らかな国際法違反であるため、日本はこの財産を取り戻す権利がある、というものであった。双方の主張が拮抗し、会談は決裂する。しかし請求権を主張するためには、その正確な金額を相手に提示しなければならない。だが双方に正確な金額を提示することあ不可能であるとわかると、互いに相手への請求権の主張を放棄することで相殺しようと決める。従って、請求権という用語も自動的に消滅することになった。しかし韓国側は請求権という用語を使い続けた。国家レベルの請求権は消えても、戦前、日本の軍需産業やその他民間企業などに従事していた韓国人労働者の未払賃金やその他債権などに対する民間の個別の請求権は存在し続ける、と。しかし、件別にその請求権を算定する基礎資料を見つけるのは事実上、不可能であることを双方が了解して、代案として政治的交渉を通じた一括打開方式で問題を解決する道を選んだ。両国の間で最終的に決定した無償三億ドル、有償二億ドルの資金は、こうした政治的考慮による一括打開方式の産物だった。従って韓国で慣行として使われてきた「対日請求権資金という用語は、その資金の本来の性格を正確に反映した表現ではない、と李大根氏は言う。朴正熙政権は、韓日協定締結の当事者として、このような事実をありのまま国民に伝え、十分納得させてから、政府自ら用語の使用に慎重を期すべきだった。しかし反対世論を意識しすぎたせいか、そうはしなかった。その点こそが、朴正熙政権18年における代表的失政であると著者は言う。こう言い切る李大根氏に敬意を表したい。

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東京裁判 1   (その歴史的位置づけ)

2022年03月06日 | 歴史を尋ねる

 太平洋戦争終結後の極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)に於いて、弁護団の中心人物であり、東条被告の主任弁護人でもあった清瀬一郎は、昭和41年7月、読売新聞文化部記者から東京裁判の思い出を、当時あったことで世人がよく知らないことを、ありのままに執筆願いたいと言われ、とりあえず4,5回分の回顧録のようなものを作り上げた。しかし非常な反響があり、文化部からはせめて30回ぐらい続けてほしい、一方出版局から『秘録・東京裁判』として纏めて出版させてもらいたいという申し出があり、こうした経緯で、50回続けて著書として出版された。実は昭和23年12月末(七被告死刑執行のあと)、読売新聞社より、東京裁判の顛末について執筆してほしいと切なる申し出があったが、その時、清瀬は断然、これを断った。それなら執筆できないわけを書いてくれと申し出があり、そこで清瀬は「東京裁判のことを書かざるの記」として一文を草した。
 連合国はみな自由主義を標榜している。当然法廷における言論の自由をも重要事項として包含している。法廷では、連合国の違法も、わが国の自衛権も、正々堂々、だれはばからず主張することが出来た。いかに耳障りでも、とにかく、これを許さねば道理が立たぬ、と。しかし、法廷以外では、その半分の主張も許されぬ。そのことは当時の占領政策の実際としてわかっている。それは毎日の法廷記事の許可の限度でわかっているた。従って、その時、読売新聞の申し出により、清瀬が正直に、良心的の記事を書けば、新聞の発行禁止は必然であり、それ以上の災害を伴うかもしれない。これを避けるため緩和的言辞を弄すれば、これを読む世人は、清瀬の書いたことを本当かと思われる。それゆえ、日本がこの体制(占領下の言論統制等)にある限り、東京裁判のことは書かぬことを決心した、と『あとがき』に記している。

 平成29年11月、第2回「東京裁判」シンポジウムが国士舘大学で開催され、篠原敏雄国士舘大教授は「学会では1960年代までは東京裁判肯定論、すなわち戦前の日本は侵略と残虐行為を重ねたという見方が主流だった」「いまだに戦前の日本は、残虐な国家だと言い募るメディアもある」と指摘、同シンポジウムに出席した阿比留瑠比産経新聞論説委員は「現在、マスメディアが東京裁判を否定的に見ているかというと、さにあらず。いろいろなことが分かってきて、肯定はしにくいけれども否定もしたくないのであまり触れない。中でも朝日新聞に至っては、いまだに必死に、東京裁判はけじめだから受け入れるべきだと言っている」「ではマスメディアは、どうして歪んだ東京裁判認識、あるいは東京裁判報道になったのか。これはGHQの占領期に、東京裁判を批判できず、批判しないでいた自分たちをいまさら否定できない。正当化するために、東京裁判を否定できなくなって東京裁判に呪縛されている」「これは江藤淳さんのいう『閉ざされた言語空間』がいまだに続いていることだと思う」と。さらに阿比留氏は言う。「なぜそんなことになってしまったのか。昭和20年9月に朝日新聞が発禁処分を受けたのは、鳩山一郎の占領支配やGHQの在り方に関する批判、あるいはアメリカの原爆使用に対する批判を掲載し、2日間にわたって新聞を発禁とした。すると途端に、自分たちが悪かった、GHQバンザイという内容の記事を載せた。これは朝日だけでなく、マスメディア全体の傾向となった。GHQは民主主義を名乗る一方で、日本に厳しい検閲を強いてきた。さらに検閲していること自体を検閲して、言わせないよう、書かせないようしていた。さらに、中国、朝鮮人の批判はいけない。憲法の草案にGHQがどのような役割を果たしたかということもかいてはいけない。占領軍の兵士と日本女性の交渉も書いてはいけない。当初は嘘が分かっていたが、その時代のことを知らない若者が増えてくると、かえって観念的になり、ますます検閲内容の方向に行ってしまう。しかし、例えば昭和27年には、戦犯とされた方々に対する釈放嘆願の著名が日本で4千万集まったと言われている。さらに28年の国会で、全会一致で戦犯釈放決議が成された。朝日新聞ですら、首相の靖国参拝などを平気で書いて、批判していなかった」と。
 「東京裁判では、インドのパール判事が被告全員無罪論をいい、東京裁判は間違っていると主張されたが、当時日本の新聞はほとんどなおざりだった。A級戦犯容疑者とされていた岸信介の『獄中日記』で、東京裁判の判決に対するインドのパール判事の反対意見が相当詳しく日本タイムスに乗せられている。日本の侵略戦争を否認し、共同謀議を否定し、全面的に判決に反対して、被告全部の無罪を主張するものである。その正義感の強きこと、勇気の盛んなること、誠に欽慕すべきものがある、と。その一方で、ただ最も不快とし、かつ恥じなければならぬことは、他の新聞はほんの一部しか載せていない。之は各新聞社の卑屈か非国民的意図に出づるものである。これらの腰抜けどもは宜しくパール判事の前に愧死すべきである、とある。さらに田中正明氏は、ヨーロッパ諸国においては、このパール判決がビックニュースとして紙面のトップを飾り、大々的にその内容が発表され、センセーションを巻き起こした。そしてフレンド派のキリスト教団体や国際法学者や平和主義者の間に非常な共感を呼び、これらに論争が紙面を賑わせた、とその著書に書いている」と。

 話は遡るが、昭和58年6月、講談社は創立70周年記念事業に一つとして長編記録映画「東京裁判」を企画・制作し、同映画は東宝東和の配給で全国の東宝系主要映画館で一斉に上映された。その上映開始一週間前の5月、池袋のサンシャインシティ(元巣鴨拘置所跡に建てられた)で『東京裁判』国際シンポジウムが開かれた。このシンポジウムは一橋大学名誉教授細谷千博、神戸大学教授安藤仁介、東京大学助教授大沼保昭の三人が交代で議長役を務め、日本、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、西ドイツ、中国、韓国及びビルマの学者、歴史家、評論家等十九人が、東京裁判について「国際法の視点から」「歴史の視点から」「平和探求の視点から」「今日的意義」という分類に従って意見を述べ、この意見を述べた人達が傍聴人を含む参会者からの質問に答える、という形式で進められた。開会にあたって細谷教授は、東京裁判が終わって35年が過ぎ風化しつつあるように思えるが、東京裁判を風化させてしまうには余りにも大きな問題をはらんでいると思えるので、映画上映の時期を選んで東京裁判を取り上げるのも意義があると思って、このシンポジウムを企画した、と。東京裁判でオランダ判事を務めたローリング(レーリンク)博士をはじめ、東京裁判に関係があり関心を持ついろいろな立場の人たちが意見を述べたという。筆者はいま、冨士信夫著「私の見た 東京裁判」の「十五おわりに」を読んでいるが、冨士氏が傍聴していたこのシンポジウム第二日目の午後の発言者として、東京教育大学名誉教授家永三郎は、弁護側立証開始時の清瀬一郎弁護人の冒頭陳述は、現代の大東亜戦争肯定論と基本的に同じ考えに立つものであって到底賛同することはできないと述べ、パル判事の少数意見は日本の中国侵略を弁護する論旨であり、きわめて強烈な反共イデオロギーの偏見にみちみちていて、東京裁判の不法性の有力な論証として利用されている危険性を声を大にして訴えなければならない、と述べた。また、パル少数意見は東京裁判不法論、大東亜戦争肯定論に連なり、ひいては戦後日本の民主主義、平和主義の全面的否定のために利用されているのは看過できず、日本人自身の手で、日本が遂行した侵略戦争遂行過程で発生した残虐行為に対する責任追及をなし得なかった事情を考えるとき、東京裁判の持つ積極的意義を無視してその瑕疵のみを論じ、これを全面的に否定する事の危険な効果を心配しないではいられない、と論じた。
 さらに家永教授は細谷議長から、日ソ中立条約は日本が先に破ったという主張の説明を求められると、関東軍特殊演習を挙げ、関特演は単なる演習ではなく、1941年の御前会議で決定され天皇の允裁を経て動員令が発令されて、八十万人の大軍をソ連国境に集結した行為はソ連に対する侵略の予備陰謀である、と東京裁判法廷におけるソ連検察官の主張と同一論法で、日本が先に日ソ中立条約を破ったという自説を披露した。富士信夫氏は言う。「今、日本には東京裁判史観なる歴史観があると言われているが、それは東京裁判法廷が下した本判決の内容そのものをすべて真実であるとなし、日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した『侵略戦争』であって、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、悪であった、とする歴史観のようである」と。これらの人は、本判決の内容等を読んだこともなく、従ってその詳細は知らないまま、本判決が侵略戦争と判定したのだから日本が行った戦争は侵略戦争であり、南京大虐殺があったと判定したから南京大虐殺はあったのだと信じ、あるいはなんらかの思惑があって単に口先だけでそう言っているだけかもしれない、という。さらにもう一つ付け加えるならば、米軍の占領下にあった時も、家永教授の主張は清瀬一郎氏が心配した検閲に引っかからなかっただろう、それは占領軍が推奨する考え方に近い、というより全く同一だから。
 この東京裁判史観を信奉する人々は、今後いかに事情が変わろうともその史観を変えることはないのか、あるいは東京裁判の審理の実態を知ればその史観を買えるのか、は素より分からない。しかし現在無垢の状態にあり、次代の日本を背負っていくべき若者たちがこの東京裁判史観によって汚染され、誤った歴史観を持つようになることは、将来に日本にとり大きな損失である。全く偶然の巡り合わせから東京裁判法廷での審理の大部分を傍聴するという貴重な体験を持ち、審理の実態を知る事が出来た者として、まず「東京裁判法廷での審理はどのように進められ、それがどのような形で判決に表されたか」という、審理の実態を明らかにすることが、東洋裁判についての正しい知識を持ち理解を深めていくことに役立ち、そのことが東京裁判史観の払拭に多少なりとも役立つであろうと願いつつ、この記録(「私の見た東京裁判」)の筆を進めてきた、と冨士信夫氏は言う。以上を踏まえて、本ブログでは、冨士信夫氏と清瀬一郎氏の著書を参考に、東京裁判の内容を掘り下げてみたい。ただ東京裁判の日本文速記録の分量は総字数2千4百万字以上、1ページ680字詰めの本に作り上げると、3万7千ページを超す厖大な分量となる、という。富士氏の著書も要約するとしてもその全容を取り上げることは難しく、散文的な叙述にならざるを得ないと断っているので、裁判の全体像を知るために、目次を一瞥してみたい。

 1,はじめに
   1 偶然に関わり合った世紀のドラマ
   2 東京裁判とは
 2、開廷、罪状認否、裁判所の管轄権を巡る法律論争
   1 開廷
   2 罪状認否
   3 裁判所の管轄権を巡る法律論争
 3、検察側の立証を追って
   1 キーナン首席検察官の冒頭陳述
   2 「日本の政治及び世論の戦争への編成替え」に関する立証
   3 「満州における軍事的侵略」に関する立証
   4 「満州国建国事情」に関する立証
   5 「中華民国の他の部分における軍事的侵略」に関する立証
   6 「南京虐殺事件」に関する立証
   7 「日独伊関係」に関する立証
   8 「日ソ関係」に関する立証
   9 「日英米関係」に関する立証
  10 「戦争法規違反」に関する立証
  11 被告の個人責任に関する追加立証
 4、公訴棄却に関する動議
 5、一般問題に関する弁護側立証
   1 清誠弁護人の冒頭陳述
   2 一般問題に関する立証
   3 満州及び満州国に関する立証
   4 中華民国に関する立証
   5 ソ連邦に関する立法
   6 太平洋戦争関係の立証
   スミス弁護人永久追放
 6、被告の個人立証
   1 木戸幸一被告
   2 嶋田繁太郎被告
   3 東郷茂徳被告
   4 東條英機被告
   ウェップ裁判長の一時帰国
 7、検察側反駁立証
 8、弁護側再反駁立証
 9、検察側最終論告
   1 キーナン首席検察官の序論
   2 被告の責任に関する一般論告
   3 被告の責任に関する個人論告
10、弁護側最終弁論
   1 審理経過に見る論告と弁論の相違
   2 鵜沢弁護人の総論
   3 一般弁論中の事実論
   4 各被告の個人弁論
11、弁護側最終弁論に対する検察側回答
12、判決を待つ間
   1 天皇の戦争責任と退位問題
   2 刑の量定についての報道
   3 米人弁護人罷免問題
   4 法廷内の改装等に関する報道
   5 判決時期の予測に関する報道
13、判決
   1 判決公判の経過を顧みて
   2 裁判所の本判決---パル判決と対比しつつ
14、刑の執行とその後
   1 米大審院への訴願
   2 刑に執行とその後
15、おわりに

 東京裁判の現実の審理経過を、冨士氏は以上のように再構成してくれている。以降は個別に論点を見ていき、東京裁判史観はどういうものか、清瀬一郎はもう一つの歴史解釈をどう提示したか見ていきたい。

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