紛争の遠因

2015年12月21日 | 歴史を尋ねる
 日本が満州に進出するにあたって、対内的にも対外的にも多くの問題があった。対内的にみると、日露戦争中満州の軍事占領に主要な役割を果たした陸軍が、対満政策の樹立に対して決定的な地位を獲得した。租借地と鉄道付属地とを管轄するために設置された関東都督府は、戦争後占領行政にあたっていた軍政機関を引き継いだもので、その後十年以上関東都督には部隊を指揮する陸軍大将又は中将が就任した。第一次世界大戦後の大正8年〈1919〉、政府は漸く統治機構を民政機関に改めると共に、新たに関東軍司令部を設置、部隊の統率と関東州、鉄道線路の保護に当たらせた。彼らはその根底に満州を清国領土と認めず我が勢力下に在る一種特別の地域として対応するが如きであったと、緒方氏。一方、満州の経済発展を重視する人々は、半官半民である南満州鉄道を通じて日本の政治的、経済的権益の拡大を計ろうと努めた。こうして、満州の開発という国家目的に対し、急進的な武断政策と漸進的な経済中心政策との対立は、日本が満州に進出した時から存在し、両政策を推進する人々の力関係によって大きく左右された。

 対外的には、特に米国の「機会均等」「門戸開放」政策と真っ向から対立した。ハリマンによる南満州鉄道買収申入れ、国務長官ノックスの鉄道中立化計画案、開発に関わる四国借款団組織など、米国の満州への経済的浸透を試みたが、日本は米国の経済的進出を恐れるロシアと中国外交に関して提携した。もう一つは中国の政治的混乱であった。当時日本の指導者は、清朝を支持した山県有朋も、革命派を援助した犬養毅も、中国との協力が日本の満州発展のための不可欠な条件と考えていた。袁世凱は大総統に就任するや、米国および欧州諸国の財政的援助を受け入れ、満州権益に不安を感じた日本は「対華21カ条の要求」を提出、租借期限を99年に延長すると共に、日本人は南満州で、自由に居住往来し、各種の商工業に従事し、建物の建設又は農業の経営のために土地を借りる権利が保障された。この結果、満州における勢力を強化する目的は達したが、反面中国に反日感情を呼び起こし、ヴェルサイユ平和会議時、いわゆる五・四運動といわれる熾烈な排日運動に繋がった。以後、日本の帝国主義的発展は中国ナショナリズムの激しい抵抗に対処しつつ進められ、中国と協力しつつ満州の開発にあたるという従来の方針を踏襲することは、もはや不可能ではないかと考えられるに至った。

 ワシントン会議後の約10年間、日本の大陸政策は幣原喜重郎によって代表されるいわゆる「軟弱外交」と田中義一の主唱するいわゆる「強硬外交」との一見対照的な二つの理念により推進された。しかしこの硬軟二様の外交政策は、中国並びに満州における日本の権益を、次第に高まる中国の反日的民族運動と列国の監視の中で保持し発展するという基本方針は一致していた。ワシントン会議当時駐米大使であった幣原は、日本の将来は「門戸開放」と「領土保全」とを尊重する国際協定の範囲内で中国における権益を保持し発展する外はないとし、中国に対する進出は経済進出であること、また中国の内乱には不干渉主義をもってのぞむ二大原則とした。幣原の不干渉主義の狙いは、中国を政治的変動に左右されない輸出市場として確保することであった、と。幣原の描いた未来図は、工業化された日本が中国および極東を輸出市場として確保することであった。満州は彼にとって日本が擁護すべき多くの権益を所有していた中国の一部であり、満州権益の処遇を巡って日中関係が悪化する事態は起こしてはならなかった。そういう意味では「中国第一主義者」であった、と。そして幣原外交が効果を発揮するためには、蒋介石一派が中国の覇権を握ることが必要であり、共産党の勝利は致命的な結果をもたらすと考えた。幣原が南京事件の際、蒋介石一派を苦境に追い込むことを防いだ事例だった。

 これに対し田中の「強硬外交」は、軍事手段の行使と権益の積極的な開発を中心とした大陸発展を試みた。田中内閣の下で三度の山東出兵を行ったが、その公式の目標は北伐が同地にある日本人の生命財産を保護するとされるが、究極の目標は、日本の権益の集中している満州に中国の内乱が及ぶのを阻止することにあった。満州を中国本土から切り離し、対満政策を対中政策とは別個のものと考えた。満州との関係を優先的に考慮した点で、「満州第一主義」であった。まず経済面で、満州における日本権益の開発の方が、貿易拡大より安全でかつ望ましい経済発展の道と考えた。その代表的な例が、山本条太郎と張作霖とで、満蒙で新たな五鉄道の建設権を獲得したことであった。軍事的には、ロシアの南下政策に対し満州・朝鮮・シベリア沿海州に一大緩衝地帯を設ける事を夢見ていた。また、共産主義の恐怖が、田中の満州第一主義の思想的原因をなしていた。幣原と同様、田中も中国国民党の穏健派による中国支配を期待したが、共産党勢力を中国から駆逐することを強く決意した田中は、蒋介石との会談で、中国共産党を討伐して、揚子江以南の中国統一を計るのであれば、日本は援助を惜しむものではないと約した。しかし、中国が国民党穏健派によって統治される確証が得られるまでは、満州への国民党の勢力が波及することは阻止されねばならないと考えた。

 田中の満州分離政策は、国民党に対して満州を含む中国全土の統一を意図しないことを求め、張作霖に対しては満州にとどまって中国本土征服の野望を断念することを要請した。国民党に対する要求は、三度にわたる山東出兵において示され、また田中・蒋介石会談の際に田中によって明らかに伝えられた。しかし張作霖に対する要請は複雑な経過を辿った。遂に張作霖が日本の圧力に屈し、漸く掌中に収めた北京を退こうと決した時、田中の「強硬外交」は成功の絶頂に達した。満州を中国から分離させ、張作霖には満州を、蒋介石には中国本土を統治させようという田中構想は、まさに実現されようとしているかにみられた。そこに張作霖の爆殺事件が起った。田中構想が敗退した真因は、田中政策の内部に存在した矛盾であった、と緒方氏。

 張作霖爆死事件は、その数年後に起るべき事態を予告するものだった。満州における日本の直接統治を確立するためには、謀略的手段を行使し、中央の政策決定を敢て無視しようとする強硬論がここの片鱗を示した。関東軍高級参謀河本大作を直接行動に駆り立てた原因は、5月18日以来張作霖軍の武装解除を行うべく出勤せんと万全を整え、一日千秋の思いで奉勅命令を待っていたが、参謀総長の訓令は日本軍の介入を禁止するものであったからだ。爆死計画が事前に関東軍司令官村岡長太郎、参謀長斉藤恒の承認のもとに進められた証拠はないが、日本が満州を支配するためには張作霖は追放されねばならず、その軍隊も武装解除されねばならぬと強く信じた村岡、斎藤は、軍中央部に対し繰り返し出勤命令を求めており、張作霖の不慮の死はまさに望むところであった。昭和3年(1928)頃の関東軍首脳部は、日本が満州の統治に積極的に乗り出すことを希望し、中国本土から分離された満蒙に、自治連省(連省自治:各省ごとに憲法を制定して自治を実行し,聯省会議を基礎とする聯省自治政府を樹立するとの構想)を日本の援助で設立することすら考案していた。張作霖軍対北伐国民党軍の動乱が満州に波及する場合は、「満州治安維持の為適当且つ有効な措置を執ることもある」とする日本政府の張作霖宛5月18日付通告について、関東軍首脳部は、彼らと同一の目標を持った強硬政策を内容とするものと解したのだった。田中首相が最後の瞬間に至って、米国からの意思表示により出勤命令を撤回したと伝え聞いた彼らは、憤懣やる方なく、田中の優柔不断を責めた。