「南京大虐殺のまぼろし」の実像 3

2023年02月13日 | 歴史を尋ねる

 南京城攻略戦について、南京大虐殺の言葉を追いかけて、当時の当事者の言葉を集めてきた。多少、ピックアップ的になったので、今回は茂木弘道著「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!ー「日中戦争」は中国が起こしたー」とヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦争史観の虚妄」を参考にしながら、南京城攻略戦を俯瞰し、併せて「南京大虐殺」を世界に最初に報道した記者たちの実態を見ながら、大虐殺がプロパガンダだったことを見届けたい。

 不拡大方針を実行しつつあった日本政府・軍は、蒋介石がドイツ大使トラウトマンの仲介に依る和平提案を受け入れず、抗戦を続けているので、戦争終結のためには策源地の南京占領が必要であると意見が強まり、11月28日、参謀本部は南京攻略を決定した。12月1日、松井石根中支那方面軍司令官(上海派遣軍と第十軍)に南京城攻略命令が下命された。12月9日に南京包囲を完了し、降伏勧告文を南京防衛軍司令官宛てに飛行機から投下、同じ日南京安全地帯国際委員会から蒋介石宛て休戦協定案が持ちかけられた。この案は、中国軍に南京からの平和的撤退を要請し、日本軍の無血入城を図るというもので、蒋介石から拒否された。日本軍の最後通牒は10日の正午だったが、中国側からの回答もなく、午後一時日本軍は南京城に対する全面攻撃を開始した。城外では激戦が続いたが、外郭防御陣地を失った南京城は近代兵器に依る攻撃に耐えきれず、唐生智指令官は、12日20時、部下を見捨てて逃亡。そして13日、南京城は陥落した。指令官の逃亡で中国軍は混乱の中を城外に敗走する結果となった。この敗走の過程で中国軍督戦隊による中国兵の殺害なども多発した。逃げきれない兵士が、軍服を脱いで安全地帯に隠れるという戦時国際法違反をおかし、後に摘発され処刑されるケースがかなり生じた。しかし、南京城内で戦闘そのものは殆ど起こらず、安全地帯以外には人を見ずというのが日本軍入場時の実情だった。城外では脱出した部隊と日本軍の間で激しい戦闘がいくつも起こったが、城内はほぼ平穏となった。

 日本軍は、全軍が入城したのではなく、各部隊の選抜された一部部隊が入城した。たとえば熊本第六師団は二個大隊を選抜、二十連隊は一個中隊を選抜といった具合で、最初に入城したのは、一万以下であったと推定される。城内での混乱はほとんどなかった。そのことは同時に入城した150名近くの日本の記者・カメラマンがつたえている。それよりも入城した部隊の兵士がいぶかったのは、城内が森閑としていて人っ子一人見つからない状態だった。それもそのはず、南京市民はほぼ全員、国際委員会が管理する安全区に集まっていて、その数二十万だった。唐生智司令官が12月8日、市民は安全区に集合せよとの指令を布告していた。
 南京城は全長34キロに及ぶ城壁で囲まれている。城門は13ヶ所、ここを通らないと城内には入れないし、出れない。面積は40平方キロ、世田谷区の70%ぐらいで安全区はほぼ市の中心部に置かれていた。150人の記者・カメラマンは城内を精力的に取材し、記事を送ってきている。東京の中央区の半分くらいしか面積のない安全区で虐殺などが起これば、記者の目に留まらない筈はない。しかしそんな記事は一つもなく、また戦後になって私は見たという記者もいない。典型的な記事は、朝日新聞の写真シリーズでしょう。第一回目は12月17日河村特派員撮影の「平和蘇る南京」。以降「きのうの敵に温情〈南京城内親善風景〉」、「南京は微笑む〈城内点描〉」、「手を握り合って越年〈日に深む日支親善〉」と連載されていくが、これが当時の南京の実情であったことは間違いない、と茂木氏。こんなところでどうやって大虐殺が起こせるのか、常識で考えればわかることだ、と。

 安全区国際委員会はその活動記録を英文で残している。1939年に国民党の外郭団体が監修し、Documentos of the  Nanking  Safety Zone というタイトルで上海で出版されている。そこに記されている次のことは重要だ。 1、南京の人口は、陥落時20万、その後12月中はずっと20万だったが、陥落後一カ月後の1月14日には、25万と記録されている。  2、住民の苦情を書き留めたリストに殺人が26件挙げられている。しかし目撃があったのは一件のみで、合法的な殺人とわざわざ注がついている。
 いわゆる大虐殺事件がいかに捏造のものか、この2点で説明できる、と。さらに付け加えると、台北の国民党党史館で東中野修道教授が発見した「国民党宣伝部国際宣伝処工作概要という「極機密」印のついた資料に、南京戦を挟む約11カ月の間、南京から避難した漢口で、300回の記者会見を外国人記者を招いて行ったことが書かれている。ところが日本軍非難を目的としたこの記者会見でただの一度も南京で市民虐殺があったととか、捕虜の不法殺害を行ったとか言っていない。本当に大虐殺があったら、何も云わない事はあり得ない。「南京虐殺は南京が陥落した後で、蒋介石政府がそれを糾弾していた」と思われがちだが、300回の記者会見で一度も云わなかった事実が記録として残っている。うっかり言って事実関係を調べられることが怖かった、と推測される。
 ところが「日本の日本侵略に加担しないアメリカ委員会」といYMCAが主体となって組織した反日団体が、南京事件の半年後の出した『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題するブックレットが、1938年に6万部も印刷されて、マスコミ、議会、学会その他に配布された。その中で南京事件より半年も後の広東爆撃で何百人も死者が出たと大々的に書かれているが、南京などは全く出ていない。これも有力な証拠だ。戦後、日本が米軍に軍事占領されまともに抵抗できず、反論できないときになって、勝者が勝手にでっち上げて、大宣伝したウソ話が南京大虐殺だと、茂木氏は結論付けている。

 では、いったいどうして南京大虐殺という情報が流され、欧米でも常識化されたのか。一つはティンパーリー著『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とな何か)』と題する本で、当時ニューヨークとロンドンで出版された。この著作は当時、西洋知識人社会を震撼させた。「ジャーナリストが現地の様子を目の当たりにした衝撃から書いた、客観的なルポ」として受け取られた。この本はレフト・ブック・クラブから出版された。この「左翼書籍倶楽部」は、北村稔教授の調査によると、1936年に発足した左翼知識人団体で、その背後にはイギリス共産党やコミンテルンがあったという。東中野修道教授はさらに調査し、この本は中国語版も出版されたほか、しばらくして日本語版やフランス語版も出版された。この時上海にいたティンパーリー記者は英国のマンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員であると同時に国民党中央宣伝部の顧問でもあった。全八章からなる『戦争とは何か』の最初の四章が南京に関する描写で、そのほとんどが匿名の下、ベイツ教授とフィッチ師が描き出したものであった。第一章前半は、城門陥落の12月13日から15日までが、匿名のベイツ教授によって描かれていた。これは、15日に南京を離れたスティール記者やダーディン記者などに利用してもらおうと、ベイツ教授が事前に準備していた原稿であった。両記者はベイツ教授の原稿をニュースソースとして「南京虐殺物語」や「陥落後の特徴は屠殺」という記事を『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・ディリー・ニューズ』に載せた。その記事とベイツ教授の原稿が似通っているのは、東中野教授の研究で明らかになっている。ベイツ教授は、城門が陥落して二日もすると、殺人、暴行、掠奪によって見通しが暗くなったと、記述するが、しかしよく読むと、ベイツ教授が実際に見たのは、路上の死体と中国兵の連行のみであった。ベイツ教授の言う「たび重なる殺人」とは、死体と連行後の処刑を根拠に、男たちの処刑、元兵士の処刑、すなわち市民殺害、捕虜殺害を暗示したものであった、という。もう少しこのブログで付け加えれば、武装解除した元兵士は、一般市民だから、市民虐殺と言っても言い訳が立つと、ベイツ教授は考えたと思う。巧妙なすり替えである。次にフィッチ師が『戦争とは何か』の第一章後半を絵がいていると。12月14日から16日までの殺人を記述している。フィッチ師も実際には処刑を見ていないが、兵士の処刑を、日本軍による市民殺害や捕虜殺害と見做して描写している。また『14日の火曜日に、日本軍は、戦車や大砲や歩兵やトラックが、町に雪崩れ込んできました。恐怖時代が始まったのです。』と記述しているが、実際は「戦車第一中隊は明14日午前十時に宿営地を出発し、担当区域の外周に沿う主要道路を掃蕩して帰還せよ」と命じられていたから、戦車は外周に沿う主要道路にのみ待機していた。従って戦車や大砲、トラックが安全地帯に雪崩れ込んでくることはなかった。しかしフィッチ師のように記述すると、読者はまさに強姦・掠奪・殺人を意のままに狂奔する日本軍を想像するだろう、と。
 ティンパーリー著『戦争とは何か』の中身に触れたが、ヘンリー・S・ストークスによると、ティンパーリーは中国社会科学院の『近代來華外国人人名辞典』にも登場するが、それによれば「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣された宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と。また、『中国国民党新聞政策之研究』の南京事件の項目には、「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国のマンチェスター・ガーディアン紙の記者のティンパーリーとアメリカの教授のスマイスに宣伝刊行物『日軍暴行紀実』と『南京戦禍写真』を書いてもらい、この画書は一躍有名になったという。このように中国人自身が顔を出さずに手当を支払う等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝手法は、国際宣伝処が戦時もっとも常用した技巧の一つであり効果が著しかった」と。国際宣伝処長の曽虚伯はティンパーリーとの関係について言及している。「ティンパーリーは都合の良いことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の「抗戦委員会」に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。彼が南京から上海に到着すると、我々は直に連絡を取った。そして香港から飛行機で漢口(南京陥落後の国民党政府所在地)に来てもらい、直接会って全てを相談した。我々は目下の国際宣伝において中国人は絶対に顔を出すべきでない。ティンパーリーは理想的な人選であった。我々は手始めに、金を使ってティンパーリーとスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することに決定した」「我々はティンパーリーと相談して、彼に国際宣伝処のアメリカでの影の宣伝責任者になってもらうことになり、トランスパシピック・ニュースサービスの名のもとにアメリカでニュースを流すことを決定、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコの事務所を取り仕切ってもらった。その事務所に参加した人たちはみな経験を有するアメリカの記者であった」と。北村稔教授の本によると、ティンパーリーは犠牲者数として「三十万」という数字を本国に伝えた。いったい、この数字はどこから来たのだろう。北村教授は中国の情報機関がティンパーリーを通じて、世界に発信したとしている。ストークスは言う。「1938年初頭で、中国の情報機関が十分に整備されていなかったが、ティンパーリーの働きは絶大で、中国の情報機関も驚愕し、味を占めた。日本人は野蛮な民族だと、宣伝することに成功した。中国人は天使であるかのように位置づけられた。プロパガンダは大成功だった」と。

 もう一つは、南京大虐殺を世界に最初に報道した記者たちである。南京陥落後の12月15日、『シカゴ・ディリー・ニューズ』アーチボールド・スティール記者は、南京大虐殺物語との見出しで、トップの扱いでこのニュースを報じた、「南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの命が犠牲となったが、多くは罪にない人達であった」と。12月18日、『ニューヨーク・タイムズ』ティルマン・ダーディン記者は、「南京に於ける大規模な虐殺と蛮行により、殺人が頻発し、大規模な掠奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害、南京は恐怖の町と化した」と。「多くの罪のない人たちであった」とか「非戦闘員の殺害」という表現は、あたかも一般市民の虐殺があったような印象を与える。もしそういう事実があったのであれば、重大な国際法違反であり、大量の民間人を殺害したのならば、「大虐殺」の誹りは免れない。さらに1938年7月、先に触れたティンパーリーの『戦争とは何か』が出版された。この本は、南京陥落前後に現地にいて、その一部始終を見たという匿名のアメリカ人の手紙や備忘録をまとめて、南京に於ける日本軍の殺人、強姦、掠奪、放火を告発したものだった。この本の評価がいっそう高まったのは、その後、匿名の執筆者が国際委員会のメンバーで南京大学教授で、南京の著名な宣教師として人望のあったマイナー・ベイツと、やはり国際委員会のメンバーで宣教師のジョージ・フィッチ師であることが判明した。ベイツは東京裁判にも出廷し、日本軍の虐殺を主張した。しかし、匿名の執筆者がベイツやフィッチだと判明したのは、東京裁判後であり、弁護側の反論もまだ十分な情報がなかった。ベイツは国民党政府「顧問」であり、フィッチは妻が蒋介石夫人の宋美齢の親友だった。ベイツは「『戦争とは何か』で、12月15日に南京を離れようとしていた様々な特派員に利用してもらおうと、私が同日に準備した声明が掲載されている」と述べている。その特派員はスティール記者、ダーディン記者などであり、ベイツが渡した「声明」とは、次のようなものであった。
 「日本軍による南京陥落後二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまった。市内を見回った外国人は、この時、通りには市民の死体が多数転がっていたと報告していた。・・・死亡した市民の大部分は、13日の午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き刺されたりしたものだった。・・・元中国軍として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎに縛り上げられて射殺された。これらの兵士たちは武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいた。・・・南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は・・・」 ベイツの記述内容は、日本兵の従軍日誌と符合しないし、兵士の死体を市民の死体とすり変えている。安全地帯の状況説明もないし、指揮官が逃れたことも触れていない。戦闘の状況が不明のまま、手当たり次第に、自らの想像を膨らませて、状況を説明している。これを利用してスティール記者、ダーディン記者が特報の記事に仕立てているさまは、東中野教授が詳細に分析している。
 さらに当時の南京に関する公式記録と、まったく相容れない。当時、国際委員会は、南京の不祥事を日本大使館に『市民重大被害報告』(Daiiy Report of the Serious Injuries to Civilians)を届けている。『市民重大被害報告』は、ルイス・スマイス南京大学社会学部教授によって、1938年1月に纏められた。全444件中の123件がティンパーリーの著した『戦争とは何か』の付録に収録され、その後に蒋介石の軍事委員会に直属する国際問題研究所の監修で『南京安全地帯の記録』として1939年夏に英文で出版された。それによると南京陥落後の三日間の被害届は次の通り。  「12月13日~殺人ゼロ件、強姦一件、略奪二件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害一件、侵入ゼロ件。 12月14日~殺人一件、強姦四件、略奪三件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害ゼロ件、侵入一件。 12月15日~殺人四件、強姦五件、略奪五件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害五件、侵入二件。」 これは日本側による報告ではなく、国際委員会が受理した南京市民の被害届で、日本大使館に提出されたものである。以上から、ベイツは、中央宣伝部の「首都陥落後の敵の暴行を暴く」計画に従ってでっち上げられた。さすがにスティール記者もダーディン記者も、そこまででっち上げられたとは、思っていなかったかもしれない。二人の特派員は、南京の信頼のおける人物が目撃した報告として報道したが、その真偽の裏は取らなかった。スティールとダーディンは世界で最初に「南京大虐殺」を報道した歴史的栄誉に輝く外国特派員となったが、東京裁判に出廷した時は「頻発する市民虐殺」を事実として、主張することがなかった。しかし、この後も、外国特派員による「南京大虐殺」の報道が続いて、欧米の新聞に載った。2月1日、こうした外国特派員の記事を根拠に、国際連盟で中国代表の顧維鈞が演説して、南京市民が二万人も虐殺されたと言及した。

 1938年4月、東京のアメリカ大使館付き武官キャーボット・コーヴィルが調査のため南京にやってきた。米国大使館のジョン・アリソン領事などと共に、ベイツなど外国人が集まって、南京の状況を報告した。その結果を、コーヴィルは「南京では、日本兵の掠奪、強姦は数週間続いている。アリソンは大使館再開のために1月6日午前11時に南京についたが、略奪、強姦はまだ盛んに行われていた」と報告している。この報告には殺人や虐殺という報告がない、ベイツまでもいたのに。一人として市民虐殺をアメリカ大使館付き武官のコーヴィルに訴えなかったのか、とヘンリー・ストークスは疑問を挟む。そしてさらに、もっと摩訶不思議なことがある、と。アメリカの新聞記事が「日本軍による虐殺」を思わせる報道をしているのも拘らず、中央宣伝部は「南京大虐殺」を宣伝材料として国際社会にアピールしなかった。そして、南京陥落の四ヵ月後に中央宣伝部が創刊した『戦時中国』の創刊号は、「南京は1937年12月12日以降、金と略奪品と女を求めて隈なく歩き回る日本兵の狩猟場となった」と報告しただけで、「虐殺」にはまったく触れてなかった。そもそもベイツもフィッチも、南京城内の安全地帯にいた。安全地帯は大虐殺どころか、殺人の被害届もわずかしかなかった。いったい、ベイツやフィッチの描写する「三日間で一万二千人の非戦闘員の男女子供の殺人」や「約三万人の兵士の殺害」とはどこで起こったところのことか。
 スティール記者は「河岸近くの城壁を背にして、三百人の中国人の一群を整然と処刑している」と報じている。ところが国民党政府もその中央宣伝部も、日本をいっさい非難していない。ちなみに日本軍が安全地帯から連行した中国兵は、問題ない限り市民として登録されていた。敗残兵は苦力、労働者となっていた。苦力は好待遇で、月額5円の給料を支給された。日本軍の一等兵の本給は、月額5円50銭だった。中央宣伝部がティンパーリーに依頼し、制作した宣伝本『戦争とは何か』について、興味深い事実がある、と。同書は漢訳されて『外人目撃中の日軍暴行』として出版された。ところが、英文にあったベイツの遺体や死者の数が削除されている、という。なぜか。中央宣伝部は英文の読者は海外の外国人であるため、バレないと思った。しかし漢訳本となると、中国にいる事情通がこうした記述を読んだら、それは事実でないと批判してくるかもしれない。虚偽の宣伝・プロパガンダと露見してしまう。そこでその部分を削除した、と考えられいる。中央宣伝部が「四万人虐殺説」を削除したのは、以上から理解できるが、さらに重要なのはベイツが「四万人不法処刑説」を主張する文を漢訳版で削除されたことに納得している。また、中央宣伝部国際宣伝処工作概要の中の「対敵課工作概要」にこの本の要約が掲載された。ところが、この要約には「大虐殺」「虐殺」どころか「殺人」という言葉も出ていない、と。唯一考えられる理由は、国民党政府も、中央宣伝部も、国際宣伝処も「南京大虐殺」を認めていなかった、と東中野氏は推論する。
 世界が注目する中で行われた、敵の首都陥落戦である。天皇の軍隊である「皇軍」の名を汚す事がないように、南京攻略軍の司令官だった松井岩根大将が、綱紀粛清を徹底していた。蒋介石と毛沢東は南京陥落後に、多くの演説を行っているが、一度も日本軍が南京で虐殺を行った事に、言及していない。このことだけとっても、「南京大虐殺」が虚構であることが分かると、ヘンリー・S・ストークス(英国人記者)は自ら多年のジャーナリストとしての体験から、断言する。

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「南京大虐殺のまぼろし」の実像 2

2023年02月06日 | 歴史を尋ねる

 蔣介石は唐生智将軍を南京防衛司令官にして南京死守を宣言したが、将軍は南京を放棄して敵前逃亡した。蒋介石政府が唐将軍の逃亡から六日後の12月18日に「軍事裁判の結果死刑を宣告」したことを人々は当然のことと受け止めた。しかし、1966年香港で出版された書籍では、唐将軍は1949年に国民党を捨てて共産党に走り、戦後も共産党政権下で湖南省副省長などを歴任した。唐生智の処刑という重大発表は蒋介石政府しか流せないから、その発信源は蒋介石の中央宣伝部しか考えられない。なぜ虚報が流されたのか。その答えは、唐生智逃亡は最初から織り込み済みだったのでないか、これが東中野修道教授の推理である。なんの為だったのか、それは東中野氏が台北で探り当てた極秘文書「編集課工作概況」が報告したように、中央宣伝部は「首都陥落後の敵の暴行」を宣伝することを目標に定めていた。その方法としは、これを外国人に宣伝してもらうやり方だった。仮に唐生智将軍が逃亡しなかった場合、唐司令官をはじめとする中国軍は玉砕しても、英雄的な振る舞いとして感動させただろう。しかし首都陥落後の敵の暴行を宣伝することは出来ない。唐生智将軍が降伏を命令することなく、多くの将兵を残したまま逃亡してしまえば、残された兵士たちに城外脱出の余裕がなくなる。城壁に囲まれた南京で逃げ場を失った中国兵はパニックに陥り、軍服を脱ぎ捨て、市民の避難遅滞「安全地帯」に逃げ込む。これは南京の欧米人が予想しなかったことだ。国際委員会はどうするか。日本軍は残敵掃蕩で安全地帯に入ってくる。この先の混乱まで先読みして、中国側が情報戦を展開したのではないか、と。従って蒋介石政府の南京死守は表向きの宣言で、唐生智逃亡は最初から織り込み済みだったのではないか、と東中野教授。フーム、この推理は多少、後付けの感じがする。ただこの事態に対して、司令官が逃亡したことが、事態を悪化させた。これは戦争のルールを逸脱している。南京事件の混乱は、まず命令を発せず、敵前逃亡した司令官の責めに帰着する。日本軍の所業を責めるより、まず自らの兵士を放り出したこの中国軍・中国政府の非を責めるべきである。その証拠に、蒋介石政府は、唐生智司令官を銃殺刑に処したと発表しているではないか。
 日中関係八十年の証言としてサンケイ新聞社が取材した「蒋介石秘録」にここの部分はどう記述しているか。『上海戦線の中国軍主力が呉淞江南岸へ転進した直後の11月5日、日本軍三個師団は杭州湾金山衛に上陸した。続いて13日には日本軍1個師団が長江の白茆口に上陸、東、南、北の三方から挟撃された中国軍は、さらに西へ転進、南京防衛に総力を入れることとなった。国民政府は11月19日の国防最高会議で、首都を南京から西方の重慶に移すことを正式に決定した。12月7日早朝、日本軍は南京城に東と南から迫り、城外の中国軍陣地に総攻撃を開始した。日本軍の機械化部隊と波状的な空襲の前に、13日、ついに南京は陥落した。1927年、国内軍閥および共産党と戦うなかで首都をおいて以来十年、南京は外国の侵略軍に踏みにじられることはなかった。南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除した後、長江岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ。金陵女子大学内に設置された国際難民委員会の婦女収容所にいた七千余人の婦人が、大型トラックで運び出され、暴行のあと、殺害された。日本軍将校二人が、百人斬り、百五十人斬りを競い合ったというニュースが、日本の新聞に大きく報道された。こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二か月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。「倭寇は南京であくなき惨殺と姦淫を繰り広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極みに達しているのだ」(1938年1月22日の日記)』  なんと、南京攻防戦の記述が少ないことか。首都を攻められることは、国家存亡危機の時であるし、当時は相当苦慮したことだと思われるが、時の推移をあっけなく記述して、肝心の南京大虐殺に筆を進めている。唐生智将軍のことは一切触れず、「撤退が間に合わない中国軍部隊」とサラッと経緯をも触れず記述する当たり、この時期だけは詳しく触れたくないのがありありで、さらに事実関係をゆがめている。少なくとも南京の戦場には政府関係者、軍の首脳部はいなかった。そもそも情報が取れなかったはずである。唯一の情報源は、中央宣伝部副部長の董顕光と国際宣伝処処長の曽虚伯(董顕光の自伝では最後の段階まで南京に残ることを決意したと書いているが、いつまで南京に残ったかは明らかでないと東中野教授は言う)らか、あるいは安全地帯を管理する国際委員会のメンバーであろう。1月22日の蒋介石の日記の情報源はどこなのか、海外メディアのニュースか、中央宣伝部からか。中央宣伝部からの情報であれば、この秘録の言葉『同胞の痛苦はその極みに達している』と空々しいし、海外メディアからならば、その怒り方がおとなしい。他人事の様だ。蒋介石には秘録に記述できない事柄がたくさんあったことの証左と思われる。

 まずは問題点を整理しながら東中野修道著『再現南京戦』を参考に南京事件を見ていきたい。南京陥落(12月13日)二十日前の南京では、蒋介石も董顕光、曾虚伯も馬超俊南京市長もまだ南京に残っていた11月22日、南京の欧米人が国際委員会を設立し、南京残留の市民のために非武装中立地帯としての避難地帯を設けることにし、その青写真を発表した。国際委員会は上海で設置に成功した「上海南市安全地帯」をモデルにした。しかし南京の安全地帯には多くの問題点があった。まず上海の安全地帯は境界に有刺鉄線が張り巡らされ、その出入り口をフランス軍兵士が警戒し、力づくで中国兵の侵入を阻止していた。しかし南京のそれはただ単に大きな道路を境界として、ところどころに安全地帯を示す旗が立てられているだけだった。中国軍の侵入を阻止する第三者の軍隊はいなかった。中立地帯であるべき安全地帯に、中国兵はどこからも難なく入れた。さらに非戦闘員のための避難地帯でありながら、中国軍の軍事施設が撤去されていなかった。それどころか軍事施設を増強していた。日本軍は12月8日、「南京全体が要塞、中立地帯不可能」(東京朝日新聞12月9日)と発表し、安全地帯は承認しないが尊重すると付言するにとどめた。ちなみに、軍事標的を狙った日本軍の弾が逸れて安全地帯に落ちたことは、実に僅かであった。そこで国際委員会のラーベ委員長は、日本軍に宛てた最初の第一号文書の中で、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方に感謝します」と謝意を表明している。ところが、「榴弾が落ちた。福昌飯店の前と後ろだ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。(略)さらにもう一発、榴弾今度は中学校。死者十三人」と書かれたラーベ日記を見ると、日本軍は市民の安全地帯まで攻撃したと思えてしまう、と。
 日本軍は南京は必ず陥落する、中国軍に降伏勧告を出し、戦火を避けたいと願った。12月7日に南京城攻略要領を下達し、降伏勧告を出した9日にも「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を全軍下達した。『一、皇軍が外国の首都に入城するは、有史以来の盛時にして、世界に斉しく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々将来の模範たるべき心組みをもって、各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為等、絶対になからしむるを要す。 二、部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を棄損するが如き行為の、絶無を期するを要す。 三、別に示す要図に基づき、外国権益、特に外交機関には絶対に接近せざるはもとより、特に外交団が設定を提議しわが軍に拒否せられたる中立地帯には、必要のほか、立入を禁じ、所要の地点に歩哨を配置す。又、城外に於ける中山陵その他革命志士の墓、及び明孝陵には立入ることを禁ズ。 四、入城部隊は、師団長が特に選抜せるものにして、予め注意事項、特に城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。 五、略奪行為をなし、また不注意と雖も火を失するものは、厳罰に処す。軍隊と同時に多数の憲兵補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。』 この注意事項を今読むと、すでに中国側の中央宣伝部の戦略を見通しているような内容になっている。南京事件の首謀者として処刑された第六師団長谷中将の申弁書でも軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものは厳罰を加えることを下達している。又、松井司令官以下司令部の発する注意事項は、世界を意識し、歴史を意識した、視野の広い見方が出来ているし、事前に想定される混乱を防ぐ手立てを打っている。当時の日本軍を知らない戦後の日本人が、思い込みで想像している日本軍とはだいぶちがう。従って、こうした前提を抑えながら、南京事件を見ていく必要がある。

 引き続き東中野氏の著書に従って、南京城陥落後の入城・掃蕩状況を見てみよう。注意事項にあったように、師団長の厳選した部隊が、城内を七つの区域に分けて、それぞれに掃蕩の部隊を配置させた。選抜された、限られた部隊だけが入城し、掃蕩にあたった。そして許可された報道関係者のみ入城を許された。南端を掃蕩した金沢九師団土屋第四中隊長は、12月13日東南の光華門から入って「城壁こそ砲撃によって破壊されていたが、街並みの家々は全く損壊しておらず、瓦一つ落ちていない。ただ不気味な静寂、異様な寂寞感がわれわれを包み、勇敢な部下も一瞬たじろいだ。未だかって味わったことのない、言葉では表せないこの静けさは、いつの間にか私を中隊の先頭に立たせた。市街に深く侵入すればするほど、まさに死の街という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした町並みのみが果てしなく続いていた」 また、南京市政府も南部にあったが死せる南京であった、と。
  部隊が城内に入った午後4時30分過ぎに、城内掃蕩に関する第二の指令「南京城内掃蕩要領」が出た。特に注目する点は『三、・・・遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるを以て、その疑いある者は悉く之を検挙し、適宜の位置に監禁す』と。日本軍は中国兵の大部分が便衣(市民服)に着替えていることを知っていた。中国兵か市民かの区別は注意を要することも知っていた。そこでその疑いのある者は悉く検挙して適当なところに監禁せよと指令をしている。従って金沢九師団歩兵第六旅団長は九つの指令を発している。1、軍司令官の発令した注意事項を周知徹底させること、そののち安全地帯を掃蕩すること。 2、大使館などの外国権益の建物は、敵が利用していない限り立入を禁じて、歩哨の配置が指示された。 3、安全地帯に掃蕩に入る各隊の任務は「残敵掃蕩」であり、必ず将校が指揮すること、それゆえ下士官以下が勝手な行動に出ることは厳禁された。 4、安全地帯の青壮年は凡て敗残兵または便衣隊と見做して逮捕監禁すること。しかし青壮年以外の敵意のない支那人民、特に老幼婦女に対しては、彼らが日本軍の威風を敬仰するよう、市民には寛容に接することが指示された。 5、銀行などへの侵入を禁じて、歩哨を配置すること。 6、家屋内に侵入して掠奪することはきびしく自戒すること。 7、放火はもちろん、失火であっても軍司令官の注意事項どおり厳罰に処すこと。 8、合言葉を「金沢」「富山」として友軍相撃にならないよう中止すること。 9、中国兵による放火が発生しているため、火災を発見したならば、付近の部隊はもちろん、掃蕩隊も速やかに消火に務めること。 以上を見ると日本軍の軍紀レベルが非常の高いことが窺われる。蒋介石もこれを知ったら、南京徹底抗戦も考え直しただろうか。でも不思議な事に、日本軍の南京大虐殺が世界の通説になっている。一つは東京裁判の結果であろうが、もう一つは日本のメディア関係者の結果だろうか。簡単に相手の意図したプロパガンダの術中にはまったか。とにかく、中国軍の軍紀の低さの巻き添えに、日本軍が巻き込まれた、と言えるかもしれない。

 東中野修道著「再現南京戦」では「城内安全地帯の十日間 12月13日➡23日」という章を設け、国際委員会のラーベ委員長、「戦争とは何か」を匿名で記述したベイツ教授やフィッチ師らの当時の記述内容と日本軍の陣中日記などを突き合わせ、事実関係はどうだったか、克明に比較検討している。詳細は同書を読んで頂くことにして、ここではその見出しを羅列ことにして、東中野氏が伝えたいと考えている内容を読み取っていただく。 『掃蕩戦前夜12月13日、・日本軍は「掠奪」「失火」という不法行為を心配していた、・選抜された部隊が担当区域を掃蕩した、・金沢七連隊が入る前の安全地帯(国際委員会のラーベ委員長は12月12日から中国人将校を自宅に匿っていた、武器を隠し持つ中国兵が安全地帯にいた、路上には死体があり、挹江門には大量の死体があった、武器を隠し持った中国兵が外交部や最高法院に潜伏していた、武器を以て抵抗する中国軍がいた)、・金沢七連隊が初めて安全地帯に入ったのは12月13日の夜であった、・ベイツ教授とフィッチ師は日本軍が「市民」を射殺したと記す、・死体は市民の死体だったのか、・12月13日の掃蕩は翌日から始まる掃蕩戦の下見であった、・本格的な掃蕩を命ずる「歩兵第七連隊命令」、  三日間の掃蕩戦と処刑、・安全地帯周辺で襲撃してくる中国軍部隊、・うろたえる欧米人、・国際委員会は12月17日に何を抗議したのか、・ベイツ教授は処刑を市民殺害や捕虜殺害であったかのように描く、・フッチ師も処刑を市民殺害や捕虜殺害であったかのように描く、・ラーベ委員長の日記、・掃蕩一日目の安全地帯、日本軍兵士の陣中日記、・抵抗しない中国兵は解放された、・金沢七連隊の「南京城内掃蕩成果表」、  安全地帯掃蕩戦三日間に於ける掠奪、・欧米人の描く三日間の「掠奪」、・実際どんなものが掠奪されているのか、・日本軍は南京占領の為に調達が必要であった、・組織的掠奪と見られた原因、・「官憲徴発」の発令、・徴発のさいに日本軍は対価を支払った、・調達が掠奪となったのは言葉の壁が大きかったのではないか、・南京市民や中国兵による掠奪は無かったか、  入城式前日から三日間頻発した「強姦事件」、・12月17日に入城式が、18日には慰霊祭が行われた、・特に入城式前日から慰霊祭まで「強姦事件」が頻発する、・金陵女子大学のヴォートリン女史の日記から、・12月16日から三日間に欧米人の周辺に起きた出来事、・夜の外出は危険であった、・朝夕「点呼」があった、・他の部隊の安全地帯立ち入りは厳禁されていた、・陥落後の日本軍は移動に向けて多忙を極めた、・日本軍の処罰はことのほか厳しかった、・国際委員会の日本大使館宛て抗議文書、・「強姦につぐ強姦」において何人が被害者となったのか、・「市民重大被害報告」とは何だったのか、・なぜ12月16日から突如として強姦の訴えが多発したのか、   放火も多発、・12月20日前後の火災が多発した、・日本軍は消火に心がけた』 
 この中で特に課題となるのは、金沢七連隊の伊佐連隊長の陣中日記である。 12月14日の項には「朝來、掃蕩を行う。地区内に難民区あり。避難民約十万と算せらる」と記している。この時の掃蕩が現在に至って大問題になっている。連隊長は掃蕩の方法について、歩兵第七連隊命令において、次のように周知徹底を図っている。『一、各隊は掃蕩を担当した区域内に兵力を集結し、掃蕩を続行せよ。なお掃蕩地区内では歩兵第七連隊以外の部隊の勝手な行動を絶対に禁止せよ。 二、各隊の俘虜は掃蕩区域内の一か所に収容し、その食糧は師団に請求せよ。 三、歩兵第七連隊は城内に宿営するのではなく、掃蕩隊として入城したものであり、掃蕩終了後は城外に出ることを忘れてはならない。 四、外国権益内に敗残兵が多数いる見込みであるが、これには語学堪能な者を選抜して当らせることになっているから、各隊としては外から十分に監視しておくようにせよ』  安全地帯を掃蕩する際の困難の一つは、外国権益内に敗残兵が多数いる見込みと分かっていながら、外国権益の下にある建物を自由に掃蕩出来なかったことである。例えば憲兵によって外国人の建物には「大使館職員の建物にして無断立ち入り厳禁」ひんsの張り紙が貼られたり、中国兵がいると分かっていながら、そこには堂々と「避難民九名居住宅」と掲げてあったり、「独逸人家屋につき侵入を禁ず」と墨書された憲兵隊の注意書きもあった。  12月15日の項には「朝來担当地域の掃蕩を行う。午前9時半より旅団長閣下と共に地区内を巡察する」と記している。ハーグ陸戦法規は俘虜(戦争捕虜)に対して、氏名と階級については実を以て答えると定めている。金沢七連隊が拘束した中国兵を尋問調査した時、その中には将校がほとんどいないことが判明した。中国軍の将校が本当の階級を隠して市民に成りすまし、安全地帯に潜伏していると判断されたことから、その摘発が翌16日の重点課題となった。それは外国権益の建物を捜索の重点において中国軍将校を摘発することであった。  12月16日の項には、「赤壁路の民家に宿舎を転ず。三日間に亙る掃蕩にて約6500を厳重処分する」と簡単に記している。こうして本格的な掃蕩は終わった。この三日間の残敵掃蕩戦において金沢七連隊は約6500名の中国兵を処刑したと記されている。このように処刑を堂々と記していることからすれば、これらは合法的処刑と見做していたことになる。

 1980年代から日本では、この日本軍の処刑に関して次のような論調が出てくる。①北村稔「南京事件の探求」平成13年:当時の法解釈に基づく限り、日本軍による手続きなしの大量処刑は正当化する十分な論理は構成し難い。 ②中村粲「敵兵への武士道」平成18年:軍司令官には無断で万余の捕虜が銃刺殺された。便衣の兵は交戦法規違反であると強弁してはならず、何より武士道に悖る行為であった。 ③原剛「本当はこうだった南京事件」推薦の言葉、平成18年:まぼろし派の人は、捕虜などを揚子江岸で銃殺もしくは銃剣で刺殺したのは、虐殺ではなく戦闘の延長としての戦闘行為であり、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた便衣兵は、国際条約の「陸戦の法規慣例に関する規則」に違反しており、捕虜の資格はないゆえ処断してもよいと主張する。しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきものであって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。 ④秦郁彦「昭和史の論点」平成12年:南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのがいけない。その人間が、銃殺に値するかどうかを調べもせず、面倒臭いから区別せずにやってしまったのが問題なのです。 ⑤吉田裕「現代歴史学と南京事件」平成18年:国際法違反の行為があったとしても、その処罰には軍事裁判の手続きが必要不可欠であり、南京事件の場合、軍事裁判の手続きを全く省略したままで、正規軍兵士の集団処刑を強行した所に大きな問題がはらまれていた。以上が私の主張の中心的論点である。
 以上の論者は一様の軍事裁判の必要性を主張している。ただ、この人たちが南京のこの現場にいた時、軍事裁判をやっただろうか。戦闘行為の真っ最中で、いくら戦意を失っている兵士とはいえ、どんな裁判を想定しているのか。何が争点になるのか。戦闘行為中、日本軍兵士も命を懸けているのは、東中野氏の書物からも伝わってくる。個々の状況に依るのではないか。 ひとえに、戦争中の敵方の司令官が遁走していて、指示も出していない、残された将校も具体的な戦闘行為の意志表示をしていない、ただただ安全地帯に逃げ込むことは、法規も想定していないケースではないか。司令官は残された中国軍兵士がどうなってもいいという考えだったと推測される。ここが南京事件の核心ではないか、だから中国中央宣伝部宣伝処工作班は虐殺というしかなかった、自らの非のすり替えを実践したのではないか。東中野修道教授も、「当時の関係者は、戦時中であったからこそ国際法を基準に判断していた。南京に復帰してきた外交官も国際法を熟知しており、日本軍の処刑を問題にできなかった。外交官の関心事は市民に対する被害の有無に移っていた。日本軍も、戦闘詳報などで見てきたように、市民に被害が及ばないようくれぐれも注意を払っていた」と。 

 ここからは鈴木明著「南京大虐殺のまぼろし」に戻ることとする。洞著「南京事件」は両角部隊が14,777人の捕虜を一兵あまさず虐殺した事実から説き起こしている。この事件の発端は、朝日新聞の横田記者が16日の電報で、この「大戦果」を伝えてきたもので、写真もついており、まぎれもなき「事実」に立脚したものである。記事は「両角部隊のため、幕府山付近で捕虜にされた14,777名の南京潰走敵兵は、何しろ前代未聞の大捕虜群とて、捕らえた方の部隊が聊か呆れ気味。一番弱ったのは食事で、部隊さえ現地で求めている所へ、これだけの人間に食わせるだけでも大変だ。茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到底食わせることが出来なかったーーー」 洞氏の文章によると、戦後、秦賢助という作家が、その先は死だったという文章を紹介していた。そこで鈴木氏はこの捕虜の行く末を確認するため、両角部隊の上級指揮官である山田旅団長を訪ねた。時代は丁度、田中首相が北京に行こうという時で、山田氏は喋るべきか迷ったが、子息の勧めで、以下の話を鈴木氏に語ってくれた。
 『山田旅団長のメモ  14日、他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。午前四時半出発、幕府山に向う。砲台付近に至れば、投降兵莫大にて、始末に困る。付近の文化住宅、村落、皆敵のために焼かれたり。 ここに集まった中国軍は、挹江門から下関に逃れ、西の方に逃げようとしたが、そのには日本の二個師団の一部が回っていたから、慌てて東の方に逃げ出した。その大部分は食べるものもなく、疲労困憊し、全く無抵抗のまま捕らえられた。山田旅団長は「抵抗しない者は保護する」といった。道路端には、彼らの投げた鉄砲だけで、五千丁を数えた。学校に竹矢来をめぐらしている場所があり、そこに入れた。そこに入れる時、両角部隊長と二人で、軍人かどうか、一人ひとり確認した。横田記者の記事は少し多すぎる。両角部隊長は八千人ぐらい、と言っていた。 15日、捕虜の始末で師団に派遣した所「始末せよ」との命を受ける。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山の食糧ありと聞き運ぶ。捕虜に食わせることは大変なり。 この日、軍司令部から「捕虜がどうなっているか」と憲兵将校が見回りに来た。山田旅団長は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」というと、憲兵将校はしばらく考えて、「私も神に仕える身です。命令はお伝え出来ません」と帰っていった。  16日、軍司令部に中佐を派遣して、捕虜の扱いにつき打ち合わせ。話合いが付かないうちに、三日後に山田旅団は浦口に移動せよとの命令が届いた。この時①軍司令部に送り届けるか、②釈放するか、③銃殺するか、の三つしかない。①の途は完全に塞がれた。もし②の道を取れば、この捕虜たちは、この部隊を自分たちの十分の一くらいの人数しかいないと知って殲滅を計ってくるかもしれない。釈放するという恐怖ははかりしれない。残された道は③しかない。しかし、この期に及んで、あえて第二の道を選んだ。村から出来るだけの船を徴発し、揚子江を渡して北の方に逃がしてしまおう。とにかく、かなりの時間をかけて、捕虜が江岸まで辿り着いたときには陽はとっぷりと暮れていた。彼らがここまで従ってきたのは、「北岸に送り届ける」という日本軍の言葉を信じたのか、じっと我慢してスキをうかがっていたのかは、分からない。また実際舟が来ていたか、どの程度の準備があったのかも分からない。その時突如捕虜の間から暴動が起こった。深夜、暗闇の中で、一斉に捕虜が逃げ出した。その中に、小銃と機関銃が打ち込まれた。日本側は不意を衝かれたため、混乱した。あとは何がどうなったか分からない。朝、すべてが明るみに出た時、千余りの捕虜の死体に交じって、日本兵八名と日本軍将校一名の死体があった。この事件が単に捕虜への一方的虐殺ではなかったことを、この一人の将校の戦死が物語っている。「人間というのは醜いものなんですかねえ。それにしても、戦いはむごいなア。軍は食料くれと言えば食料はない、医薬品をくれと言えば、それもない、大砲の弾もないといってきたなア、聖戦なんて、ひどいものだったなア・・・』
 

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