南京城攻略戦について、南京大虐殺の言葉を追いかけて、当時の当事者の言葉を集めてきた。多少、ピックアップ的になったので、今回は茂木弘道著「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!ー「日中戦争」は中国が起こしたー」とヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦争史観の虚妄」を参考にしながら、南京城攻略戦を俯瞰し、併せて「南京大虐殺」を世界に最初に報道した記者たちの実態を見ながら、大虐殺がプロパガンダだったことを見届けたい。
不拡大方針を実行しつつあった日本政府・軍は、蒋介石がドイツ大使トラウトマンの仲介に依る和平提案を受け入れず、抗戦を続けているので、戦争終結のためには策源地の南京占領が必要であると意見が強まり、11月28日、参謀本部は南京攻略を決定した。12月1日、松井石根中支那方面軍司令官(上海派遣軍と第十軍)に南京城攻略命令が下命された。12月9日に南京包囲を完了し、降伏勧告文を南京防衛軍司令官宛てに飛行機から投下、同じ日南京安全地帯国際委員会から蒋介石宛て休戦協定案が持ちかけられた。この案は、中国軍に南京からの平和的撤退を要請し、日本軍の無血入城を図るというもので、蒋介石から拒否された。日本軍の最後通牒は10日の正午だったが、中国側からの回答もなく、午後一時日本軍は南京城に対する全面攻撃を開始した。城外では激戦が続いたが、外郭防御陣地を失った南京城は近代兵器に依る攻撃に耐えきれず、唐生智指令官は、12日20時、部下を見捨てて逃亡。そして13日、南京城は陥落した。指令官の逃亡で中国軍は混乱の中を城外に敗走する結果となった。この敗走の過程で中国軍督戦隊による中国兵の殺害なども多発した。逃げきれない兵士が、軍服を脱いで安全地帯に隠れるという戦時国際法違反をおかし、後に摘発され処刑されるケースがかなり生じた。しかし、南京城内で戦闘そのものは殆ど起こらず、安全地帯以外には人を見ずというのが日本軍入場時の実情だった。城外では脱出した部隊と日本軍の間で激しい戦闘がいくつも起こったが、城内はほぼ平穏となった。
日本軍は、全軍が入城したのではなく、各部隊の選抜された一部部隊が入城した。たとえば熊本第六師団は二個大隊を選抜、二十連隊は一個中隊を選抜といった具合で、最初に入城したのは、一万以下であったと推定される。城内での混乱はほとんどなかった。そのことは同時に入城した150名近くの日本の記者・カメラマンがつたえている。それよりも入城した部隊の兵士がいぶかったのは、城内が森閑としていて人っ子一人見つからない状態だった。それもそのはず、南京市民はほぼ全員、国際委員会が管理する安全区に集まっていて、その数二十万だった。唐生智司令官が12月8日、市民は安全区に集合せよとの指令を布告していた。
南京城は全長34キロに及ぶ城壁で囲まれている。城門は13ヶ所、ここを通らないと城内には入れないし、出れない。面積は40平方キロ、世田谷区の70%ぐらいで安全区はほぼ市の中心部に置かれていた。150人の記者・カメラマンは城内を精力的に取材し、記事を送ってきている。東京の中央区の半分くらいしか面積のない安全区で虐殺などが起これば、記者の目に留まらない筈はない。しかしそんな記事は一つもなく、また戦後になって私は見たという記者もいない。典型的な記事は、朝日新聞の写真シリーズでしょう。第一回目は12月17日河村特派員撮影の「平和蘇る南京」。以降「きのうの敵に温情〈南京城内親善風景〉」、「南京は微笑む〈城内点描〉」、「手を握り合って越年〈日に深む日支親善〉」と連載されていくが、これが当時の南京の実情であったことは間違いない、と茂木氏。こんなところでどうやって大虐殺が起こせるのか、常識で考えればわかることだ、と。
安全区国際委員会はその活動記録を英文で残している。1939年に国民党の外郭団体が監修し、Documentos of the Nanking Safety Zone というタイトルで上海で出版されている。そこに記されている次のことは重要だ。 1、南京の人口は、陥落時20万、その後12月中はずっと20万だったが、陥落後一カ月後の1月14日には、25万と記録されている。 2、住民の苦情を書き留めたリストに殺人が26件挙げられている。しかし目撃があったのは一件のみで、合法的な殺人とわざわざ注がついている。
いわゆる大虐殺事件がいかに捏造のものか、この2点で説明できる、と。さらに付け加えると、台北の国民党党史館で東中野修道教授が発見した「国民党宣伝部国際宣伝処工作概要という「極機密」印のついた資料に、南京戦を挟む約11カ月の間、南京から避難した漢口で、300回の記者会見を外国人記者を招いて行ったことが書かれている。ところが日本軍非難を目的としたこの記者会見でただの一度も南京で市民虐殺があったととか、捕虜の不法殺害を行ったとか言っていない。本当に大虐殺があったら、何も云わない事はあり得ない。「南京虐殺は南京が陥落した後で、蒋介石政府がそれを糾弾していた」と思われがちだが、300回の記者会見で一度も云わなかった事実が記録として残っている。うっかり言って事実関係を調べられることが怖かった、と推測される。
ところが「日本の日本侵略に加担しないアメリカ委員会」といYMCAが主体となって組織した反日団体が、南京事件の半年後の出した『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題するブックレットが、1938年に6万部も印刷されて、マスコミ、議会、学会その他に配布された。その中で南京事件より半年も後の広東爆撃で何百人も死者が出たと大々的に書かれているが、南京などは全く出ていない。これも有力な証拠だ。戦後、日本が米軍に軍事占領されまともに抵抗できず、反論できないときになって、勝者が勝手にでっち上げて、大宣伝したウソ話が南京大虐殺だと、茂木氏は結論付けている。
では、いったいどうして南京大虐殺という情報が流され、欧米でも常識化されたのか。一つはティンパーリー著『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とな何か)』と題する本で、当時ニューヨークとロンドンで出版された。この著作は当時、西洋知識人社会を震撼させた。「ジャーナリストが現地の様子を目の当たりにした衝撃から書いた、客観的なルポ」として受け取られた。この本はレフト・ブック・クラブから出版された。この「左翼書籍倶楽部」は、北村稔教授の調査によると、1936年に発足した左翼知識人団体で、その背後にはイギリス共産党やコミンテルンがあったという。東中野修道教授はさらに調査し、この本は中国語版も出版されたほか、しばらくして日本語版やフランス語版も出版された。この時上海にいたティンパーリー記者は英国のマンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員であると同時に国民党中央宣伝部の顧問でもあった。全八章からなる『戦争とは何か』の最初の四章が南京に関する描写で、そのほとんどが匿名の下、ベイツ教授とフィッチ師が描き出したものであった。第一章前半は、城門陥落の12月13日から15日までが、匿名のベイツ教授によって描かれていた。これは、15日に南京を離れたスティール記者やダーディン記者などに利用してもらおうと、ベイツ教授が事前に準備していた原稿であった。両記者はベイツ教授の原稿をニュースソースとして「南京虐殺物語」や「陥落後の特徴は屠殺」という記事を『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・ディリー・ニューズ』に載せた。その記事とベイツ教授の原稿が似通っているのは、東中野教授の研究で明らかになっている。ベイツ教授は、城門が陥落して二日もすると、殺人、暴行、掠奪によって見通しが暗くなったと、記述するが、しかしよく読むと、ベイツ教授が実際に見たのは、路上の死体と中国兵の連行のみであった。ベイツ教授の言う「たび重なる殺人」とは、死体と連行後の処刑を根拠に、男たちの処刑、元兵士の処刑、すなわち市民殺害、捕虜殺害を暗示したものであった、という。もう少しこのブログで付け加えれば、武装解除した元兵士は、一般市民だから、市民虐殺と言っても言い訳が立つと、ベイツ教授は考えたと思う。巧妙なすり替えである。次にフィッチ師が『戦争とは何か』の第一章後半を絵がいていると。12月14日から16日までの殺人を記述している。フィッチ師も実際には処刑を見ていないが、兵士の処刑を、日本軍による市民殺害や捕虜殺害と見做して描写している。また『14日の火曜日に、日本軍は、戦車や大砲や歩兵やトラックが、町に雪崩れ込んできました。恐怖時代が始まったのです。』と記述しているが、実際は「戦車第一中隊は明14日午前十時に宿営地を出発し、担当区域の外周に沿う主要道路を掃蕩して帰還せよ」と命じられていたから、戦車は外周に沿う主要道路にのみ待機していた。従って戦車や大砲、トラックが安全地帯に雪崩れ込んでくることはなかった。しかしフィッチ師のように記述すると、読者はまさに強姦・掠奪・殺人を意のままに狂奔する日本軍を想像するだろう、と。
ティンパーリー著『戦争とは何か』の中身に触れたが、ヘンリー・S・ストークスによると、ティンパーリーは中国社会科学院の『近代來華外国人人名辞典』にも登場するが、それによれば「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣された宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と。また、『中国国民党新聞政策之研究』の南京事件の項目には、「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国のマンチェスター・ガーディアン紙の記者のティンパーリーとアメリカの教授のスマイスに宣伝刊行物『日軍暴行紀実』と『南京戦禍写真』を書いてもらい、この画書は一躍有名になったという。このように中国人自身が顔を出さずに手当を支払う等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝手法は、国際宣伝処が戦時もっとも常用した技巧の一つであり効果が著しかった」と。国際宣伝処長の曽虚伯はティンパーリーとの関係について言及している。「ティンパーリーは都合の良いことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の「抗戦委員会」に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。彼が南京から上海に到着すると、我々は直に連絡を取った。そして香港から飛行機で漢口(南京陥落後の国民党政府所在地)に来てもらい、直接会って全てを相談した。我々は目下の国際宣伝において中国人は絶対に顔を出すべきでない。ティンパーリーは理想的な人選であった。我々は手始めに、金を使ってティンパーリーとスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することに決定した」「我々はティンパーリーと相談して、彼に国際宣伝処のアメリカでの影の宣伝責任者になってもらうことになり、トランスパシピック・ニュースサービスの名のもとにアメリカでニュースを流すことを決定、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコの事務所を取り仕切ってもらった。その事務所に参加した人たちはみな経験を有するアメリカの記者であった」と。北村稔教授の本によると、ティンパーリーは犠牲者数として「三十万」という数字を本国に伝えた。いったい、この数字はどこから来たのだろう。北村教授は中国の情報機関がティンパーリーを通じて、世界に発信したとしている。ストークスは言う。「1938年初頭で、中国の情報機関が十分に整備されていなかったが、ティンパーリーの働きは絶大で、中国の情報機関も驚愕し、味を占めた。日本人は野蛮な民族だと、宣伝することに成功した。中国人は天使であるかのように位置づけられた。プロパガンダは大成功だった」と。
もう一つは、南京大虐殺を世界に最初に報道した記者たちである。南京陥落後の12月15日、『シカゴ・ディリー・ニューズ』アーチボールド・スティール記者は、南京大虐殺物語との見出しで、トップの扱いでこのニュースを報じた、「南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの命が犠牲となったが、多くは罪にない人達であった」と。12月18日、『ニューヨーク・タイムズ』ティルマン・ダーディン記者は、「南京に於ける大規模な虐殺と蛮行により、殺人が頻発し、大規模な掠奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害、南京は恐怖の町と化した」と。「多くの罪のない人たちであった」とか「非戦闘員の殺害」という表現は、あたかも一般市民の虐殺があったような印象を与える。もしそういう事実があったのであれば、重大な国際法違反であり、大量の民間人を殺害したのならば、「大虐殺」の誹りは免れない。さらに1938年7月、先に触れたティンパーリーの『戦争とは何か』が出版された。この本は、南京陥落前後に現地にいて、その一部始終を見たという匿名のアメリカ人の手紙や備忘録をまとめて、南京に於ける日本軍の殺人、強姦、掠奪、放火を告発したものだった。この本の評価がいっそう高まったのは、その後、匿名の執筆者が国際委員会のメンバーで南京大学教授で、南京の著名な宣教師として人望のあったマイナー・ベイツと、やはり国際委員会のメンバーで宣教師のジョージ・フィッチ師であることが判明した。ベイツは東京裁判にも出廷し、日本軍の虐殺を主張した。しかし、匿名の執筆者がベイツやフィッチだと判明したのは、東京裁判後であり、弁護側の反論もまだ十分な情報がなかった。ベイツは国民党政府「顧問」であり、フィッチは妻が蒋介石夫人の宋美齢の親友だった。ベイツは「『戦争とは何か』で、12月15日に南京を離れようとしていた様々な特派員に利用してもらおうと、私が同日に準備した声明が掲載されている」と述べている。その特派員はスティール記者、ダーディン記者などであり、ベイツが渡した「声明」とは、次のようなものであった。
「日本軍による南京陥落後二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまった。市内を見回った外国人は、この時、通りには市民の死体が多数転がっていたと報告していた。・・・死亡した市民の大部分は、13日の午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き刺されたりしたものだった。・・・元中国軍として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎに縛り上げられて射殺された。これらの兵士たちは武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいた。・・・南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は・・・」 ベイツの記述内容は、日本兵の従軍日誌と符合しないし、兵士の死体を市民の死体とすり変えている。安全地帯の状況説明もないし、指揮官が逃れたことも触れていない。戦闘の状況が不明のまま、手当たり次第に、自らの想像を膨らませて、状況を説明している。これを利用してスティール記者、ダーディン記者が特報の記事に仕立てているさまは、東中野教授が詳細に分析している。
さらに当時の南京に関する公式記録と、まったく相容れない。当時、国際委員会は、南京の不祥事を日本大使館に『市民重大被害報告』(Daiiy Report of the Serious Injuries to Civilians)を届けている。『市民重大被害報告』は、ルイス・スマイス南京大学社会学部教授によって、1938年1月に纏められた。全444件中の123件がティンパーリーの著した『戦争とは何か』の付録に収録され、その後に蒋介石の軍事委員会に直属する国際問題研究所の監修で『南京安全地帯の記録』として1939年夏に英文で出版された。それによると南京陥落後の三日間の被害届は次の通り。 「12月13日~殺人ゼロ件、強姦一件、略奪二件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害一件、侵入ゼロ件。 12月14日~殺人一件、強姦四件、略奪三件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害ゼロ件、侵入一件。 12月15日~殺人四件、強姦五件、略奪五件、放火ゼロ件、拉致一件、傷害五件、侵入二件。」 これは日本側による報告ではなく、国際委員会が受理した南京市民の被害届で、日本大使館に提出されたものである。以上から、ベイツは、中央宣伝部の「首都陥落後の敵の暴行を暴く」計画に従ってでっち上げられた。さすがにスティール記者もダーディン記者も、そこまででっち上げられたとは、思っていなかったかもしれない。二人の特派員は、南京の信頼のおける人物が目撃した報告として報道したが、その真偽の裏は取らなかった。スティールとダーディンは世界で最初に「南京大虐殺」を報道した歴史的栄誉に輝く外国特派員となったが、東京裁判に出廷した時は「頻発する市民虐殺」を事実として、主張することがなかった。しかし、この後も、外国特派員による「南京大虐殺」の報道が続いて、欧米の新聞に載った。2月1日、こうした外国特派員の記事を根拠に、国際連盟で中国代表の顧維鈞が演説して、南京市民が二万人も虐殺されたと言及した。
1938年4月、東京のアメリカ大使館付き武官キャーボット・コーヴィルが調査のため南京にやってきた。米国大使館のジョン・アリソン領事などと共に、ベイツなど外国人が集まって、南京の状況を報告した。その結果を、コーヴィルは「南京では、日本兵の掠奪、強姦は数週間続いている。アリソンは大使館再開のために1月6日午前11時に南京についたが、略奪、強姦はまだ盛んに行われていた」と報告している。この報告には殺人や虐殺という報告がない、ベイツまでもいたのに。一人として市民虐殺をアメリカ大使館付き武官のコーヴィルに訴えなかったのか、とヘンリー・ストークスは疑問を挟む。そしてさらに、もっと摩訶不思議なことがある、と。アメリカの新聞記事が「日本軍による虐殺」を思わせる報道をしているのも拘らず、中央宣伝部は「南京大虐殺」を宣伝材料として国際社会にアピールしなかった。そして、南京陥落の四ヵ月後に中央宣伝部が創刊した『戦時中国』の創刊号は、「南京は1937年12月12日以降、金と略奪品と女を求めて隈なく歩き回る日本兵の狩猟場となった」と報告しただけで、「虐殺」にはまったく触れてなかった。そもそもベイツもフィッチも、南京城内の安全地帯にいた。安全地帯は大虐殺どころか、殺人の被害届もわずかしかなかった。いったい、ベイツやフィッチの描写する「三日間で一万二千人の非戦闘員の男女子供の殺人」や「約三万人の兵士の殺害」とはどこで起こったところのことか。
スティール記者は「河岸近くの城壁を背にして、三百人の中国人の一群を整然と処刑している」と報じている。ところが国民党政府もその中央宣伝部も、日本をいっさい非難していない。ちなみに日本軍が安全地帯から連行した中国兵は、問題ない限り市民として登録されていた。敗残兵は苦力、労働者となっていた。苦力は好待遇で、月額5円の給料を支給された。日本軍の一等兵の本給は、月額5円50銭だった。中央宣伝部がティンパーリーに依頼し、制作した宣伝本『戦争とは何か』について、興味深い事実がある、と。同書は漢訳されて『外人目撃中の日軍暴行』として出版された。ところが、英文にあったベイツの遺体や死者の数が削除されている、という。なぜか。中央宣伝部は英文の読者は海外の外国人であるため、バレないと思った。しかし漢訳本となると、中国にいる事情通がこうした記述を読んだら、それは事実でないと批判してくるかもしれない。虚偽の宣伝・プロパガンダと露見してしまう。そこでその部分を削除した、と考えられいる。中央宣伝部が「四万人虐殺説」を削除したのは、以上から理解できるが、さらに重要なのはベイツが「四万人不法処刑説」を主張する文を漢訳版で削除されたことに納得している。また、中央宣伝部国際宣伝処工作概要の中の「対敵課工作概要」にこの本の要約が掲載された。ところが、この要約には「大虐殺」「虐殺」どころか「殺人」という言葉も出ていない、と。唯一考えられる理由は、国民党政府も、中央宣伝部も、国際宣伝処も「南京大虐殺」を認めていなかった、と東中野氏は推論する。
世界が注目する中で行われた、敵の首都陥落戦である。天皇の軍隊である「皇軍」の名を汚す事がないように、南京攻略軍の司令官だった松井岩根大将が、綱紀粛清を徹底していた。蒋介石と毛沢東は南京陥落後に、多くの演説を行っているが、一度も日本軍が南京で虐殺を行った事に、言及していない。このことだけとっても、「南京大虐殺」が虚構であることが分かると、ヘンリー・S・ストークス(英国人記者)は自ら多年のジャーナリストとしての体験から、断言する。