米内光政海軍大臣 上海事変

2018年10月28日 | 歴史を尋ねる
 当時海軍は、揚子江を含む中国沿岸警備(居留民保護と権益の保持)にあたっている第三艦隊(旗艦は上海に停泊する「出雲」)への支援を連合艦隊に命じた。一方、米内海相の指示で、翌29日、第三艦隊司令長官長谷川清中将は、「日本海軍は不拡大方針を守り、慎重な態度をとっているから、中南支の排日運動を取り締まってもらいたい」と、国民政府海軍部長と軍政部長に申入れた。中国海軍は、長谷川の申し入れをすぐに応じ、中南支で事故を起さないように努力中であると回答してきた。揚子江流域の都市からの居留民引き揚げは、何のトラブルも起らず、ウソのように無事に上海に集結できた。
 だが、引き揚げが終わった8月9日、上海特別陸戦隊中隊長大山勇夫と斉藤一等兵が、車で本部に向かう途中、中国保安隊に射殺された。この頃、上海にいた日本軍は、特別陸戦隊が約四千人、それが中国軍約三万人に取り囲まれ、孤立無援、情勢は時間と共に悪化した。長谷川第三艦隊長官は、大臣と総長に立て続けに緊急信を打ち、増援部隊の急派を訴えた。伏見軍令部総長官は、いまや外交交渉の成り行きを見守る時期ではなく、陸軍部隊を一刻も早く救援に送るべきだと考え、米内海相に意向を打診した。米内は「外交交渉は進行中であり、先行きどう実を結ぶか予想できませぬが、これを促進させることが重要であります。また上海付近で中国側が停戦協定を蹂躙したという確証がありませぬ。もうしばらく様子を見たいと思います。停戦区域に中国正規軍はいません。トーチカや塹壕などは、かれらの防衛のための準備です。わが居留民に危害を及ぼすような事態になりましたならば、すぐに出兵します。しかし陸軍の事情は、対ソ戦を考えますと、青島、上海方面に使用できる兵力はそれぞれ一個師団しかなく、熱河省方面で後方を撹乱される恐れもあります。上海方面への陸軍部隊の派遣は、この辺も十分考えたうえで決行しなければならぬと考えます」と。そのころ軍務局長であった豊田副武中将は、「絶対に不拡大だ。陸兵を出せば、必ず拡大する。陸兵派遣絶対反対」と陸軍不信をぶつけるのとは、ニュアンスが違っていた。しかし、軍令部が計画する海上兵力の戦場水域への緊急配備は認めた。海上兵力は、情況が変われば命令一つですぐに撤収できる。しかし陸軍部隊はそうはいかない。

 出先の外交機関は、とくに漢口の場合、居留民を引き揚げるよりも、まず海軍の陸戦隊や艦艇を引き揚げろと言う。海軍の艦艇が揚子江にいるから中国側を刺激して抗日行動を起させ、居留民を引き揚げさせねばならぬほどの窮地に追い込まれる。中国官憲は居留民の生命財産は保障すると約束しているから、心配無用だという。また、参謀本部第一部長石原莞爾少将も、「海軍が揚子江に艦隊を持っているから戦火が上海に飛び火する。もともとこの艦隊は、中国がまだ弱かったときに置いたもので、今日のように中国が軍事的に発展して来れば、居留民保護などできないし、いくさになれば揚子江に浮いてはいられないはずのものである。それを軍令部は、事変突発前に艦隊を撤退させることが出来なかったため、事変後撤退するときに漢口の居留民まで引き上げさせてしまった。これで揚子江沿岸地域が何ごともなくすんだのでは海軍の面子が立たない。・・・」とは『海軍の面子が立たないから揚子江沿岸でひといくさ起させようと、陸軍を引きずって海軍が上海出兵をやらせた』と上海出兵が決定されたころ批判している。名指しされた海軍はビックリ、居留民の保護と権益保全の任務を与えられている海軍は、さっさと引き揚げるわけにはいかなかった。
 だが、12日午後、中国正規軍一個師団が上海駅に到着、黄埔江河口の呉淞と上海市内に進出してきた。情況一変である。日本政府は、翌13日、急ぎ陸兵の上海派遣を決定した。が、上海では、市内の中国正規軍が、もう陸戦隊に銃撃を加えて来た。翌14日、中国空軍機が海軍特別陸戦隊本部、黄埔江上の旗艦出雲、呉淞沖の各艦などを爆撃した。中国機の空爆を見て米内海相は、即座に剣をとって立ち上がった。中国正規軍が攻撃を加えたばかりか、上海周辺の海軍の艦艇や陸上拠点が、奥地から飛んでくる中国空軍機の爆撃を受けるようになった以上、戦いは中支に拡大して本格化した、と判断した。日本がとって来た局地化、不拡大主義はこれで消滅した。この上は、敵撃滅に全力を上げることが日本のとるべき国策ではないか、と強調した。そして杉山陸相に、「日中全面戦争となったからは、南京を攻略するのが当然だ。使用兵力については、いろいろあるだろうが、主義としてはそうでなければならんだろう」と。急に主戦論に変わった米内に、陸相は驚いた。
 米内の豹変の理由を、長谷川第三艦隊長官の対応で分かると吉田俊雄はいう。12日の中国正規軍の上海到着で、戦勢の急転重大化を予測した長谷川は、これに中国空軍が大挙して出てきたら一大事になると判断し、機先を制して中国空軍を無力化して置かねばならぬと決意した。情報によると、中国空軍は、南京、句容、広徳、南昌、漢口、杭州などに、相当の兵力を展開していた。12日深夜、中央から、「敵の攻撃あらば機を失せず敵航空兵力を撃滅せよ」との命令が届いた。13日から16日、中国軍と陸戦隊との陸上戦闘は激烈を極めたが、逆に中国空軍から先制攻撃を掛けられた長谷川長官は、14日前飛行機隊に反撃を加えよと号令を出した。あいにく東シナ海に960ミリバールの低気圧があり、空母の発着艦が出来ず、陸攻隊も渡洋爆撃が出来なかった。中国機のいる内陸飛行場は、低気圧の影響をほとんど受けなかった。我慢しきれなくなった長谷川は、天候の回復も待たず全飛行隊に攻撃命令を出した。

 この三日間の陸攻(中攻)隊の被害はすさまじかった。九機が還らず、飛行機の半数以上が喪失または作戦不能になった。中央は血の気を失った。中攻隊は、西太平洋にアメリカ艦隊を迎撃して艦隊決戦する、日本の存亡を賭した日米決戦で、劣勢6割の日本海軍を勝たせる秘蔵の秘密兵器、それを海軍の戦場でもない中国で失ってしまっては、国防の基盤を揺るがす大問題である。軍令部は担当参謀を台北に飛ばせ、一連空司令官に「もう少し攻撃の手をゆるめ、被害を出さぬよう」提言させた。現場指揮官戸塚道太郎少将は「とんでもない。たとえ全兵力を使い尽くしても攻撃の手は緩めない」 すでに開戦が決意された以上、圧倒的な兵力を集中してどこまでも敵を追撃し、これを撃滅するのが軍隊の任務ではないか、と。
 吉田はいう。軍令部はおかしい。勢いに乗せられて不拡大主義を捨て、全面戦争に突入しながら、実は、懲らしめるために猛烈な一撃を加え、加えればたちまち相手は膝を屈して、和を乞うて来る。そこらあたりまでしか考えていなかったのではないか、と。

 さらに吉田は、この懲らしめるという発想と姿勢が問題だったと、掘り下げる。相手を懲らしめる、という考え方は、自分は正しいことをしているのに相手がよこしまなことをするから、正義に名において相手を懲らし、痛い目にあわせ、それに懲りて二度と同じことをしないようにさせようとするものである。しかし、これは、強大国が弱小国を一方的に意に従わせようとして力を振るう場合に使われる胡散臭さを持っている。満州事変、北支事変が始まるとき以来の陸軍の論理、ひいてはジャーナリズムの論理がそうであった、と。排日侮日いたらざるなき暴支を膺懲するというのは、この論理をアメリカが日本に使ってきたから、ややこしくなった、と。満州事変突発後、フーバー大統領の下で国務長官をしていたスチムソンが、門戸開放、機会均等を旗印にして、日本政府に抗議した。しかし陸軍は、そんなことを頓着せず、膺懲の師をどしどし進めた。
 スチムソン国務長官は、これをアメリカにたいして、というより彼個人の威信を失墜させようとする挑戦とうけとめ、即刻、暴日を膺懲せよと大統領に進言した。が、フーバー大統領は戦いを好まず、膺懲の師は出されなかった。スチムソンにとって、これは骨髄に徹する遺恨であった。それ以来彼は対日不信と憎悪をいよぴよ募らせ、のちにルーズベルト政権の陸軍長官に返り咲くと、日本を膺懲すべしと声高に主張しつづけ、もっとも強硬な主戦論者として、大統領を日米開戦にいたる軌道に引きずっていく、と吉田俊雄はいう。

 昭和12年12月13日、首都南京がおちた。上海を制圧するために派遣された新鋭の大部隊だったが、第一次上海事変の司令官白川陸軍大将と違って、こんどの軍司令官ははじめから南京まで行くつもりで来ていた。その十日ほど前、蒋介石はトラウトマン独大使を仲介として、日本が提示していた条件で和平を受諾しようと申入れて来た。和平への絶好の機会が転がり込んで来た。参謀本部はさっそくこれを推進しようとしたが、南京陥落の翌日の閣議がひどいことを決めてしまった。それまでの和平条約をひっくり返し、蒋介石政権が受諾できないほどの強硬なものに変えたのであった。南京は、包囲したまま兵を停め、城内に突入せず、中国の面子を潰さないように和平を結ぶのが良い、中国人の立場を考え、かれらの面目が立つようにしながら和平の実をとろうとする含蓄のある提案もあったが、強硬派の感情むき出しにした激しい怒声にかき消された。和平は潰れた。
 南京をやれば、蒋介石は参る、と公言していた武藤章参謀長や中堅参謀たちの予想は外れた。外れたというが、それでは、誰が責任を取ったか。蒋介石は事前に首都を重慶に移し、徹底抗戦を宣した。
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海軍大臣米内光政 盧溝橋事件

2018年10月21日 | 歴史を尋ねる
 太平洋戦争に至った日本海軍の指導者の蹉跌と題して、吉田俊雄は五人の海軍大臣時代を振り返っている。海軍大臣がいかに行動したかという本の題名だが、内容は陸軍がどう行動したか海軍側からの見方がつづられている。なかなか当事者としての行動が見えてこない。陸軍に引きずられているといえばそれまでだが、一方の当事者としての明確な考え方がなかなか見えない。太平洋戦争での米軍との戦いの主力は海軍の筈だ。ポツダム宣言受諾を巡る豊田副武軍令部総長の言動に当事者としての考えを表明しない、その理由を求めて、吉田俊雄の著書に辿り着いた。海軍予算取りだけは陸軍と同額の要求をずっとしてきた海軍が、なぜこうも当事者としての見解を表明しないのか、もう少し歴史を追いかけてみたい。

 広田内閣総辞職のあと、組閣の大命は宇垣一成陸軍大将に降下した。国民も政党も財界もこれを大歓迎したが、陸軍は、宇垣が首相になったのでは石原構想を実現できなくなると思い込み、石原をはじめ若い将校たちが死に物狂いの抵抗をした。「すでに林銑十郎陸軍大将や近衛文麿公爵が石原プランを鵜呑みにする条件で待機している時に、保守勢力の代表である宇垣大将が総理となって、革新の歯車を逆転されてはたまらない」と言い立てて、永野・寺内の置き土産、軍部大臣は現役大・中将とする、という規定を盾に取り、内閣に陸軍大臣を送ることを拒否した。宇垣は憤激した。「大命をおかすものではないか」となじったが、陸軍はすでに満州事変で大命を犯していた。二・二六事件もそうであった。宇垣の抗議が聞かれるはずはなかった、と。ふーむ、この時の世論、新聞はどうしていたのか、未だ報道規制は無かったろうに。二・二六事件で震え上がったか。
 宇垣内閣流産のあとを継いだ林銑十郎内閣は、猛烈な不人気で、三カ月で倒壊した。そして昭和12年6月、陸軍待望の第一次近衛内閣が誕生、海相には米内、次官には山本が留任する。さらに井上成美が軍務局長に就任、当時の海軍ベストメンバーがそろった、陸軍の突進に立ちはだかった、と吉田。

 日本の命取りとなった日支全面戦は、近衛内閣成立約一カ月後の7月7日だった。6年前の満州事変の発端が、関東軍の謀略によるものであったため、盧溝橋の場合も同じだと思われがちだが、第三者の立場で日支双方を調査した北平大使館付武官と北平特務機関補佐官それぞれの報告からすると、その付近に配備されていた宋哲元麾下の第二十九軍の一部が誤って発砲した偶発事件の可能性がもっとも大きいという。発砲直後、中国軍指揮官が必死にその発砲をやめさせようとしていたし、撃たれた日本軍第三大隊は、夕食後の、夜食の用意もせず、鉄カブトももたず出かけていたこと、又中国軍との衝突を避けよという命令が小部隊にも徹底していたことなどの理由が挙げられている。第三大隊はその時一発の反撃もせず、隠忍自重して営舎に帰った。大隊長は一木清直少佐。彼は五年後、米軍が反攻を開始したガダルカナルに、飛行場奪回のため第一陣として乗り込み、不意に、戦車に包囲されて自決を遂げる。それが米軍大反攻の序幕になったことを思うと、この人にまつわるなにか因縁めいたものさえ感じる、と吉田俊雄。

 吉田は重要なこととして、この時期の中国の抗日運動の高まりと国共合作による抗日戦に全力集中するようになったこと、しかし日本軍、政府、国民は、明治の日清、日露戦争の頃の中国と中国人に対する認識がほとんどそのまま、このような時代の変化を洞察する明を持たなかった、と言っている。
 その夜、営舎に帰った一木大隊は、翌8日午前三時半ごろ、こんどは作戦行動を命じられて出勤したが、そこで第二回目の射撃をうけた。牟田口廉也第一連隊長は、攻撃前進を命じた。「協定違反をこれほど重ねるなら、もう容赦できん。断固膺懲の一撃を加えて猛省を促す。それが事件を拡大させないためのもっとも有効な手段だ」 そこへ作戦指揮のために河辺正三旅団長が駆けつけて来た。 「敵はともかく、日本軍だけにはあくまで協定を厳守させる。不拡大方針に徹する」と決意を固めていたが、来てみると牟田口大佐は連隊命令を出していた。兵もすでに行動を起していた。それを知ると河辺少将は、黙り込んだ。黙ることは、協定厳守の方針を捨てることになるが、それでも彼は黙り続けた。「協定厳守と断固膺懲とは見解が違っているが、いま連隊命令を撤回させ、部隊を引き返させることは、高級指揮官としてとるべき策ではなかった」とあとで河辺は説明した。
 政治(ここでは不拡大方針)よりも作戦(ここでは攻撃前進・拡大)が優先さるべきだと、陸軍、とくに青年将校はそう確信している者が多かった。中央で耳にタコができるほど不拡大方針を聞かされて着任して来た新しい関東軍司令官香月清司中将も、河辺と同じ考えだった。陸軍省軍務課長柴山兼四郎大佐は戦後の述懐に言う。「軍はもとより政府の方針として不拡大ということになっていたが、軍中央部内、ことに青年将校にはこれにあきたらぬ者が相当多数であった。とくに参謀本部にこれが多かった。作戦情報などの実務者の多数がこの方針に反対なのであるから、すべてが方針通りに進まぬ。当時この不拡大方針にもっとも忠実であったのは、参謀本部では多田次長、石原第一部長、河辺虎四郎大佐などであった。しかし満州事変以来、全軍に拡がって来た下剋上の思想は、軍中央部にもっとも甚だしく、意図の徹底など容易なわざではなかった。いまにしてこれを見れば、国家崩壊のきざしが、ここにも歴然と現れていた」と。

 石原は満州に飛んで、軍司令部で事件不拡大を説いた。しかし幕僚たちは、石原の戦争論より、さしあたり北支に入り、さらに中国全土を奪取することに興味を持った。「満州事変で閣下のやられた方策に学び、なお足らざるを憂えている情況でありまして」、石原を冷かしているような受け答え。たまりかねて内地に戻った石原は陸軍大臣室に乗り込み、「このさい、思い切って北支にあるわが部隊を一挙に山海関の満支国境までさげる。そして近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石とひざ詰めで日支の根本問題を解決すべし」と。冷ややかに梅津美治郎次官が応じた。「実はそうしたいが、貴公は総理に相談し、総理の自信を確かめたのか。北支の邦人多年の権益財産を放棄するのか。満州国はそれで安定し得るのか」と。
 近衛首相は、はじめのうちは、石原案に乗り気であった。そのうち「相手とうまく話をつけても、それをそっちのけにして現地軍が勝手な行動をしたのでは、総理の面目がまる潰れになるだけだ」という者があり、紆余曲折の末、この案は捨てられた。

 米内海相の考えは、はじめから不拡大、局地的解決であった。事件二日後、杉山陸相は師団派兵を提議、米内は反対した。「内地から派兵すると、全面戦争を誘発する恐れがある。派兵の決定は、もっと情勢を見きわめ、さらに事態が窮迫してからにしたい」 この米内の意見にほかの閣僚全部が賛成したので、派兵は見送られた。さらに二日後、五相会議で陸相は出兵を提議した。それでも米内は同意しなかったが、5500人の天津軍と北平、天津地方の日本人居留民を皆殺しにするのは忍びない、是非とも出兵させてくれと頼んで来た。米内も、しぶしぶながら、同意せざるを得なくなり、五個師団の派兵が決まった。
 では拡大派は何を考えていたか、吉田は推測する。彼らは拡大することが事件を早く終わらせる結果になる、と確信していた。杉山陸相は、出兵の声明をすれば、それで中国はおびえ、戦意を失い、問題はすぐに解決すると考えていた、と。武藤章軍務課長も、南京をとれば蒋介石は参るといい、参謀本部作戦課の案では、第二十九軍の掃蕩には約二カ月、中央軍の戦意を失わせるために南京方面に重圧を加える作戦は、三、四カ月で終結させることができるといった、と。
 蒋介石が公式に明らかにした『最後の関頭演説』は7月19日であった。中国軍のこの事変に対する覚悟を表明し、この演説は、事変解決のための日本に対する最後の忠告でもあった、と蒋介石秘録で蒋介石は説明している。政府は、軍部は知っていたのか、知らなかったのか。当然外務省は情報を得ていたと思われるが、日本側の歴史に記されたものがあまりない。日本の先々を左右する参謀本部の実態は、当時の日本を取り巻く各国の戦略(国共合作、ドイツ軍事顧問団の中国軍強化とドイツ製武器の装備、米英の対日戦略等)を前にすると、あまりにもお粗末、これが戦後の反省点で、陸海軍学校の教育の問題が取り上げられた由縁であろう。

 陸軍の統制の乱れ、いわゆる下剋上の風潮の広がりに、吉田は現地軍の目を通してもう少し詳細に分析する。国と国とが条約を結び、その条約によって権利が与えられ、その権利を行使して駐屯している軍隊である、といっても、所詮は中国民衆という広大な海に浮いている小舟にすぎない。現地軍が、膚で感じて恐れているのは、一か所の崩壊が、北支の崩壊ばかりか、満州にも及び、今日までに営々と築き上げてきたものを、二十万を超える在留邦人の生命財産ぐるみ、根こそぎ手放さなければならなくなることであった。それが、日とともに現実のものになろうとしていた。これは、外から侵された経験を持たぬ日本人にとって、鳥肌が立つほどの恐ろしさであり、理性の平衡を失わせるほどの衝撃だあった。日清、日露戦争後の、政情が安定しない中国では、排日、抗日どころではなかった。外国との国交調整は、外務大臣の任であるが、陸軍中央の急進派や現地軍信光見方からすると、出先外交機関は中国側といざこざを起すまいとすることに重点を置きすぎ、陸軍のいい方によれば、国家観念がなかった。現地の陸軍は、外交不信を募らせた。だから、満州、北支についても、外交機関を無視して外交問題を処理した。防共協定の発端と同じだ。広田外相は、いちいち陸軍の意向を確かめないと、仕事ができないまでになった。陸大の戦術教育は、教官がまず情況を与え、その枠の中で、目的をどんな手段で達成するのがもっともよいか、それを決めるための判断力を一途に鍛錬してきた。しかし今の場合は、情況そのものを改善する必要があった。だが、かれらはそれに慣れていないばかりか、無頓着でさえあった。そのような教育を受けて来た軍人たちが、現実に政治を支配し、外交を動かしたら、どうなるか。結局、武力による解決に走ろうとするのは、いたって当然ではなかったろうか、吉田俊雄はこう振り返る。
 7月28日、北支で、第二十九軍(宋哲元軍)にたいする総攻撃命令が発せられた。7月9日以来、全面戦争に備えて軍の再編を急いでいた蒋介石は、7月19日、廬山で演説し、「今日の北平がもし昔日の瀋陽(奉天)になれば、今日の冀察(河北省)もまた昔日の東四省(満州)となろう」と民族の蹶起を促した。

 言い換えれば、28日の総攻撃によって火ぶたを切った北支事変は、満州事変のように、戦場が局地にだけ限定されるのではなく、中国全土に拡大する必然性を持っていた。はじめから、民族戦争の性格を持っていたが、それを陸軍は、どう判断していたのだろうか、と吉田は疑問を投げかけてこの節は終了している。

 
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海軍大臣永野修身 日独防共協定

2018年10月14日 | 歴史を尋ねる
 国防方針をまとめるに当たって石原莞爾の折衝相手は、軍令部作戦課長の福原繁(海大24恩賜)大佐であった。海大で作戦研究に没頭し、優秀な成績で卒業したが、方向違いの戦争論で、メッケル式陸大恩賜の石原と議論することは、難物だった。永野海相の決裁した制度調査委員会のうち、第一委員会が国策とこれを実現するための海軍政策の研究調査を担当し、福留をバックアップするブレーンになる筈のものだった。
 海軍は「北守南進」で、北(ソ連)に向かって事を起してはならぬと考えた。国防強化、人口問題解決、経済発展のために南方を重視すべきで、その南方諸国に向かって、武力によらず、移民と経済の両面で斬新的かつ平和的に進出すべきだ、としたと吉田俊雄。ウーン、「平和的に進出」と吉田は書いているが、その詳細は語っていない。そこで、ウキペディアでその内容を調べてみる。
 佐伯康子『海軍の南進と南洋興発』によると、「第一次世界大戦を機に、海軍は南進への足掛かりを得ることとなった。マリアナ・カロリン・マーシャルの三諸島からなる南洋群島を軍事占領して以来、委任統治後も軍事的拠点化構想に固執し、民政移行後の南洋庁に対して、軍事的配慮を要望し、また東南アジアに接近するパラオに司令部移転を図った。1930年代後半に入ると、海軍では液体燃料の自給化問題が浮上してくると共に、本国の前進防御陣地としての、戦略的価値の高まりをみせてくる。以上二点について組織的な研究を行う目的で、1935年7月、『対南洋方策研究委員会』が発足する。一方、この時期、1933年に国際連盟を脱退した日本は、海軍軍備条約交渉の最終段階にあった。1930年のロンドン軍縮条約は日本海軍に極めて不人気で、1934年までに、海軍省内の条約存続を求める自重派は、対米パリティを求める強硬派にほとんど駆逐されていた。結果的には、1936年1月、日本政府はロンドン軍縮会議を脱退、1937年1月より、海軍軍備について無条約国となった。これは一部海軍首脳部の望んでいたことであった。省内で勢力を掌握しつつあった強硬派は、1934年以降軍令部を中心に、この事態を予想して、独自の政策を検討する必要を感じていた。1935年7月「対南洋方策研究委員会のメンバーが発表された。委員長には軍令部次長、委員には軍務局長以下21名。12月には委員長に中将島田繁太郎、軍務局長に中将豊田副武がとったかわった。委員長、軍務局長を除いて、他はすべて海軍省の主要部局の中核をなす佐官級で占められた。途中の報告書には、当初開拓を絶望視された南洋群島が、施政十年にして、財政独立を達成し、生産年額2400万円、移住内地人55000人に達した」と。

 だが陸軍、参謀本部は、石原構想を軸として新しい国防方針を決めようとしていた。「英米、とくに米国とは親善関係を保ち、ソ連と英国を攻撃して対米決戦の準備をする間、軍需物資を供給させる。まず全力でソ連を屈服させる。ソ連が屈服したら、つぎは英国を実力で東亜から駆逐する。その間、日中親善しつつ米国との大決戦に備える。また、ソ連攻撃準備を整える間に、外交手段でシベリア方面のソ連軍を欧州方面に引き揚げさせる計画を考える」 最後の部分が、日独防共協定に扮装して登場するが、それにしても自分に都合のいいことばかりを一方的に並べたものだ、と吉田俊雄はこう書きながら嘆じる。英米はくさびを入れれば分けられるとか、アメリカは最終戦争で自分が攻撃されるまで、せっせと日本に石油などを供給し続けるとか、と。
 海軍は大反対だった。それでもどうやら妥協が成立した。その過程で、国防の目標を米ソのどちらを先に文書に書くかで争った。国防方針というのは、起案するのが参謀本部であり軍令部であっても、これは国の方針であるから、責任者は陸海軍大臣になる。ところが寺内陸相のところに行くと、「国防方針に、目標として露国、米国に差等なしというのは不可解だ。まずソ連ならソ連を始末するために、力を第一に尽くすことが当然ではないか」と苦情。おどろいた永野海相は、「国境を接しているからソ連が危険で、遠く離れているから米国は危険でない、ということはない。どちらが危険かといって論争しても決着はつけにくい。両統帥部の結論にまかせたらいい」といって、国防方針案は外務、陸軍、海軍の三相会議をパスした。だが、これに関連して軍令部総長が上奏した対米情況判断は、明らかに間違っていた。五年後の開戦決意にいたる判断の積み重ねの土台をつくり間違えた、と吉田は解説する。

 [対米情況判断]――米国海軍は、
(1)依然として大鑑巨砲主義をとりつづける。
(2)戦艦を最も重視し、次に航空母艦の優勢を保つだろう。巡洋艦以下は英国海軍と均等を保つことを考えて相当量を増勢しようとするだろう。
(3)東洋方面の局地防備は、かれらが渡洋作戦でかならず勝てるとの確率を持たなければ強化しようとしないだろう。しかしハワイとアリューシャン群島方面の防備は、ますます強化するだろう。
(4)建艦競争でいつも先頭に立ち続けることは、米国でも容易ではないだろうから、日米の比が七対十、ないし八対十であれば満足し、必ずしも六対十の比率を固執しようとはしないだろう

 さらに「…現下の予想にては、今後おおむね十年間は、対米七割ないし八割の比率は保有し得る見込みでございます…」と、軍令部総長(当時は伏見宮博恭王)が上奏。無条約時代に入っても、昭和二十年頃までは対米七割ないし八割、つまり対米一国作戦では必勝の確算を持つことがと判断した。たしかにその頃米海軍は、昭和9年に成立した第一次ビンソン案で、軍縮条約の限度までの建艦を進めていた。それを横にらみしての軍令部の判断だった。ところが実際には、米海軍は第二次、第三次ビンソン案を成立させ実行した。日本海軍はどう焦り、もがいても、国力、生産力、技術力の格差のため追いつけなくなった。その結果、日米の海軍力の差が開きすぎて、作戦計画が立てられない窮地に追い込まれた。
 誤判断はこわい。しかもその誤りを、開戦の一年前になるまで、誰も気づかなかった。陸軍が取り返しのつかぬ方向に走っていくのを遠目に見つつ、海軍は少しでも実戦力を高めようとひたすら猛訓練に熱中していた、と吉田はシニカルに語る。彼があちこちで指摘するように、情報を軽視した当時のすがただったのだろう。

 そのころ、ソ連は第一次五カ年計画が終わって国防力を飛躍的に増大させ、さらに引続き第二次五カ年計画に入っていた。昭和7年頃から極東兵力を増強し始め、昭和8年からはソ満国境全域にわたって永久築城地帯をつくり、昭和9年からは航空部隊の強化をすすめ、とくに南部沿海州方面に目立って多数の重爆撃機を配備してきた。北から迫る脅威に対抗することを建軍以来の伝統的使命とする陸軍にとって、これは軍の存在価値に関わる重大問題だった。
 参謀本部の意を受けた大島浩駐独陸軍武官はドイツ・ナチ党のリッペントロップに会い、日独間協定についての話合いを始めた。昭和10年6月頃であった。日独のどちらかがソ連と戦争状態に入る場合、他の締結国はソ連の戦争遂行を実質的に容易にする様は方策は取らないという趣旨の協定だった。ただ、参謀本部は政府にも海軍にも、ひとことも話さなかった。海軍が知ったのはドイツの仲介者が来日に、友人の海軍省副官に話したからだった。そうするうちに、陸軍は日独交渉を外務省に移してきた。正式ルートに乗ったので、永野海相は抗議した。「海軍としてはドイツに好意を持っているが、政治的に日独が提携するのは現状では良くないと考えている。この時期にイギリスを無視してドイツに対することは考えられない」と。日独防共協定に正面切って反対しにくい理由の一つは、前年夏、モスクワで第七回コミンテルン大会が開かれ、「反ファシズム人民戦線戦術に関する決議」で、当面の敵を「日独ファシズム」に絞り、一切を上げてこの「日独ファシズム」打倒に集中することに決定していた。第二は、日本海軍の中の対独感情が変わってきたことであった。ワシントン軍縮会議の時にイギリスが日英同盟を破棄した後は、技術供与も拒否するようになった。困り果てたあげく、ドイツから技術援助を受けようとしていた。それは第一次世界大戦の終わり、戦利品としてドイツの潜水艦を受け取ったが、調べてみると、技術と工作の水準が何から何まで日本を越えていた。そのほか、大砲、砲弾、火薬、飛行機、光学機械などにわたり、世界のトップをゆく科学技術に度肝を抜かれた。逆に言えば、そのくらい日本海軍の科学技術水準は低かった。それから日本海軍は、一気にドイツに傾斜した。

 「あの戦争は親独派が始めたものだ」と海軍要路にいたものが、戦後、異口同音に言うのも、ドイツ派とされる人たちが、いずれも第二次大戦でのドイツの勝利を信じて疑わなかったからだ、と。ドイツが勝てば、日本の描いていた思惑がすべて成り立つ。さらにヨーロッパで勝利を収めたドイツが勢いを駆ってアジアに進出し、片っ端から要地を押さえる心配も出て来た。その前に資源地帯と戦略要点を占領しておかないと、と考え出した。日独防共協定は十一年十一月、ベルリンで調印された。
 永野という人は、制度の改革には闘志を燃やすが、残念ながら、とかく尻切れトンボになってしまった。学校制度改革では、軍令部次長に転出すると、元の木阿弥に近くなったし、今度の制度調査委員会も、広田内閣が総辞職して永野が海相去ると、これまた宙に浮いてしまった。
 昭和12年1月、政友会長老浜田国松代議士と寺内陸相の間で、「腹切り問答」が突発した。議会制度刷新を条件に広田内閣に入閣し、政党出身閣僚をわずか四人に抑え込んだ陸軍代表寺内大将は、陸軍の独裁的行状を痛憤する超ベテラン浜田代議士とのっぴきならない問答に至り、広田首相は二日間の停会を奏請して事態の収拾を図った。永野はこの1月から無条約時代に突入し、新時代に対応するため、海軍が知恵を絞った最初の大型予算を本議会に提出していた。議会が解散したら予算成立が大幅に遅れる。遅れたら国運に関わると、悲壮な決意で永野は調整に駆けずりまくった。しかし永野の動きを見た陸軍省軍務局は、すばやく打ち壊しにかかり、永野の寺内訪問を阻止した。広田も窮して総辞職に至った。永野の奔走は成らなかったが、後任の海相に米内光政を当てたこと、山本五十六を次官に据え、井上成美を中央に引き寄せた。人事面では、後世に名を残す三人を抜擢したことは、日本の運命にとっても貴重であった。

 
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海軍大臣永野修身 海軍と陸軍と

2018年10月08日 | 歴史を尋ねる
 永野海相は就任まもなく、「海軍政策及制度研究調査委員会」設置を決裁した。当時の海軍は、艦隊決戦に勝つための作戦研究ばかり熱中して、戦争研究はしなかった。サイレント・ネイビーという、小さな、内向性の閉鎖社会に閉じこもり、海軍以外の事物には口も出さず、何の興味も示さずに来た。それが、ここにきて、陸軍の行動が、捨て置けないほどの重大性を帯びて来た。海軍がこれにコミットし、軌道修正しないと、日本がどちらに引っ張っていかれるか分からない。その危機感の産物が、この委員会構想であった。海軍省軍務局が、満州事変以来急に政治的発言力を増した陸軍との折衝に振り回され、手元の仕事がすっかり停滞した。さらに参謀本部作戦課長に栄転してきた関東軍の石原莞爾大佐が、石原構想を掲げ、国防方針までも石原色に塗り替えようとする、これになんとか対抗しなければならなくなった。
 石原参謀は、満州事変を仕掛けた人物、それに成功したので声望が高まり、栄転というより凱旋したという方が当たっていた。「陸軍の対ソ軍備は不十分である。対ソ軍備に重点を置いて、まず北方の脅威を排除しなければならぬ。そのために、海軍と国防国策を一致させ、満州国の育成を強化し、中国と提携する。北方の脅威を排除した後、挙国一致し、東亜団結して、世界最終戦である対米戦争にあたる」 海軍はとびあがった。「軍備というものを、まるで誤解している。陸軍は、戦争することばかり考えている。軍備は、民族の安全を保障するためのものだ。備えを中止するわけにはいかん」 戦争するための軍備と、生存保障としての軍備、その二つの考え方の相違、言ってみれば、ドイツとイギリスの戦争観の違いが、弟子同士の間で表面化した、と吉田俊雄はいう。これには前段があった。

 日本陸海軍の協調が、必ずしもうまくいかなかったことについて、米内は終戦三か月後、米国戦略爆撃調査団の質問に、「私は、根本的なものは、陸軍と海軍の教育方針の相違にあったと思います。陸軍は、十五歳に達しない少年から軍隊教育を始めています。そんな若者の時代から、戦争以外のことは何も教えなかった。広い国際的な視野についての教育に欠けていた。そこに、陸軍将校と海軍士官の考え方に根本的な相違が生じたと信じます。その結果、当然の帰結として、陸軍将校の眼界が馬車馬のように狭くなり、海軍士官ほど広い視野で物事を見ることができなくなります」「政治的影響力についていえば、それは決定的に陸軍の方が強力でした。陸軍は、われわれには分析したり測定したりできない、ある圧力を持っていました」と回想。石原莞爾陸軍中将も、「幼年学校の教育は、おそらく貴族的・特権階級的な雰囲気で、その上、閉鎖的、かつ排他的、独善的なものであった」と述懐する。
 13歳から14歳で陸軍幼年学校に入り、幼年学校3年間、陸軍予科士官学校2年間、そして士官候補生として各師団に分かれて配属され、隊付勤務約6ヶ月、終わって陸軍士官学校に入り約1年10ヶ月を、陸軍初級将校になるための教育に費やす。幼年学校を出ると予科士官学校に入り、そこで一般中学4年修了者で入学試験にパスした者たちと合流するが、幼年学校出身者はわれわれが主流だと自負し、満州事変以来、中央、現地軍の要職にあって活躍した将校たちは、主流派が多数を占めていたという。

 海軍では、海軍兵学校3カ年を終わると少尉候補生になって内海航海、つづいて遠洋航海に出る。帰ってくると、連合艦隊の観戦に配乗して実務練習。終わって少尉任官。
 比較して大きな違いは、陸軍は社会をほとんど知らぬ13、4歳の少年期から約7年間も、世間とは全く絶縁された特別の環境、雰囲気の中で、軍人教育、訓育という特殊な教育を続けた事である。海軍の場合は、それが社会を余計に知った17,8歳から始まり、期間も3年余りで、内地航海、遠洋航海を7,8カ月、その間に日本各地からオーストラリア、ニュージーランド方面、南北アメリカ方面、地中海、ヨーロッパ方面のうちどの方面かの国々を巡り、国際社会と日本について、膚で感じるように学ばされる。二十歳を越えたばかりの青年たちにとって、日本という国を代表する軍服を着た外交使節として、その国と礼砲を交換しながら訪れる感激、未知の国々の未知の人々の家庭に招かれて、美しい善意にひたる感動は、筆紙に尽くしがたいものがあった、と吉田。
 海軍が草創期から模範としたのは、イギリス海軍であった。教官として来日したアーチボルト・ダグラス海軍少佐は、「士官である前に紳士であれ」というイギリス海軍士官教育方針を兵学校教育に導入した。紳士であるための人間教育が大切だ、と力説した。
 そして陸海軍の将校たち、海軍でいえば軍令部、海軍省、連合艦隊の重要ポスト、陸軍でいえば参謀本部、陸軍省、現地軍の重要ポストのほとんど全部を、海軍大学校、陸軍大学校の卒業生が占めた、では海大、陸大はどんな教育、どんな人物を作り上げたか。

 まず海大。兵学校の江田島移転の年に創設された。創設にあたり、イギリス海軍のジョン・イングルス大佐を教官として招いた。海大は、将官になるための登竜門として創設され、陸大のように参謀を養成するところではない。学校、学生の管轄が海軍大臣の所轄で、陸大は参謀総長の統轄下にあった。陸大の学生は、それまで陸軍大臣の管理を受けていたが、陸大に入ると自動的に参謀本部の人間になり、人事もそっくり参謀総長が引き取り、掌握する。参謀ははっきりしたエリート・グループを作り、昇進して指揮官に任じられるまでは、大部分が参謀をやらされ、ドイツ陸軍流の参謀部、統帥部の独立のすがたが、思想的にも制度的にも確立されていた。海軍はイギリスの学んだので、参謀はあくまでも指揮官に対する補助者であり、スタッフはラインに干渉してはならないと考えた。ラインにアドバイスするが、命令はしない。平戦時を問わず、いつも指揮官先頭で、東郷平八郎連合艦隊司令長官は、戦艦戦隊の一番先頭に立って全艦隊を引っ張った。自ら現場の第一線、敵から最も狙われる、従って敵がもっともよく見える位置にいて情況を判断し、適宜適切に命令を全軍に発し、戦勝を勝ち取る。だから海軍では、指揮が部隊の末端まで行き届く、部下に勝手な行動はさせないし、また部下もしない。命令系統、指揮系統をやかましくいい、静粛を大事にするのは、確実、正確、迅速の命令や号令を伝え、行動を起し得るような環境づくりをするためであった。海軍は寡黙であることが尊重され、世間からサイレント・ネイビーなどと言われたのは、しゃべり上手は軽薄である、寡黙こそ重厚、としつけられた。ただこの沈黙が、陸軍要路のエリートたちと向き合い、おなじテーブルについて議論をたたかわせねばならなくなった時、日本を開戦に導く因子をはらんだ。
 海大では、そんな空気のなかで、入学試験をパスした少佐、または大尉から、真面目で職務に精励する勤務優良な者を選んで学生にした。教育機関は2年間、大学校教官も豪傑肌の大言壮語組や個性の特に強い者は選ばなかった。カリキュラムを見ると図上演習と兵棋演習による作戦研究と演練に費やされた。作戦研究ばかりに偏りがちであった。なぜそんなことになったか。当時日本海軍は世界第一の先進海軍であったイギリス海軍のすぐれた技術(造艦、造兵、造機の技術と海軍の経営・管理技術、作戦研究のプログラム)を、どん欲なまで吸収した。しかし、イギリス海軍をそのようにあらしめているイギリス国、イギリス国民に対しての歴史的位置づけ、風土、国是といった、バックグラウンドを見落としていた。イギリス海軍は、長い歴史の中で、国民から深く信頼され、敬愛され、政治家も国防と国運の隆盛を得るために海軍の果たすべき役割の重要性をよく承知していた。だからイギリス海軍は、戦闘技術を磨き、作戦研究に没頭してさえすればよかった。海軍は国土の保全と共に、海外との通商が確保されていなければならない。そのためには制海権の確保の維持、確保のための経費を進んで負担した。海洋国民であった。日本海軍は、時間的、空間的に広い視野から存在理由を考え、国土と海上交通を確保する海軍政策を明確に打ち出すわけではなく、艦隊決戦で敵に勝つ一点張りであった。更に明治15年に出された政治に関わらずとの勅諭、シーメンス事件での海軍への批判であつものに懲りてなますを吹く状態だった。

 次は陸大。陸軍はドイツ(プロシヤ)に範をとった。ドイツは陸軍国だった。考え方は軍国主義的、武力戦中心主義的であった。イギリス海軍の場合と違って、いつも陸軍は自分の存在を主張していなければならず、いつも政治的態度をとっていた。戦略の研究、計画、実施は、軍人が独占して国民に渡さなかった。この点でも、自由主義的空気のなかで、政治家や国民が海洋政策や海上戦略についてオープンに論議を戦わせたイギリスの場合と違っていた。そして、日本陸軍の兵術思想をさらにユニークなものにしたのが、明治18年来日したドイツ陸軍参謀少佐クレメンス・メッケルであった。メッケルは近代ドイツ陸軍の父と云われた参謀総長モルトケ将軍の後継者、と目された傑出した参謀将校であった。メッケルは、さっそく陸軍の軍制をドイツ式に改めた。モルトケ将軍の打ち立てた新しい参謀制度を取り入れ、陸軍省、教育総監部、参謀本部ぼ三本柱とし、モルトケが強く主張してドイツ政府と対立していた統帥部の独立を、日本で実現するための軌道を敷いた。
 メッケルの戦術教育の核心は、「最後の勝敗を決するのは精神である」という精神第一主義で、「人間の作ったもので絶対に破られない防御陣地はない」とする攻撃型戦術であり、のち、日清、日露両役を勝ちえた斬新有効な戦術でもあった。メッケルの流れをくむ陸大教育は、太平洋戦争中も続けられた。なかでも陸軍参謀の気質、能力を決定した戦術教育は特筆に値した。陸大の戦術教育では、教官対学生の討論が重視された。原則に立ち、情況を与え、その情況と原則から指揮官としての決心と処置とを導き出し、その過程で学生の判断力と応用能力を錬磨する、さらに教官と学生が一対一で黒白がつくまで徹底的に突き詰めていく。教官は、いくらでも情況を困難なものに出来るから、この一対一は白熱するとすさまじいものになる。学生は脳細胞を総動員して必死に抵抗する。どんなに追い詰められても、即座に正しい決心と処置が得られなければならない。「苛酷な戦場で、耐ええないような困難な情況に逢っても、指揮官たるもの、心理を動揺させてはならず、冷静沈着、思考力、判断力、実行力にいささかも狂いがあってはならない」 陸大はこの戦術教育を終戦まで力を入れていた。
 このような教育を受け、抜群の成績を挙げた、優秀で議論達者の陸大出身者が、中央や現地軍司令部に参謀職として顔を揃えたのだが、その結果はどうだったか。二度にわたって陸大の校長をした飯村穰中将は、「メッケルの学風を尊重するにやぶさかではないが、振り返って見ると、一つの弊風を残した。それは、白を黒と言いくるめる議論達者であることを、意思強固なりとして推奨したのではないか。そして、わが国の伝統である以心伝心などは、はっきりしないと排斥された。私はこの陸大の、弁護士養成のためのような教育に疑問を持ち、武将は聞き上手になるべきであり、議論上手になってはいけないと、常々思っていた。私は、議論上手を陸大で養成した結果が陸海軍の疎隔となり、幾多の小英雄を輩出して大東亜戦争の開戦ともなり、敗戦の一因になったと見ている。実直ではあるが頑固なドイツ人の気風ややり方を、そのまま日本の風土に移し植えた陸大に、その禍根があったのではないか」

 そしてもう一つ、と吉田俊雄は話を進める。決定的な問題は、陸軍は作戦目標を対ソ戦に絞って重点形成をしており、陸大も対ソ戦法の研究に余念がなかった。真面目に対米戦争を意識したのは昭和15年ごろ、近衛内閣が対米交渉に入った時代であった。対米戦の重点である物量戦、航空戦に対する研究は必ずしも充分でなかった、にもかかわらず、対米英戦争開戦を主張し、煮え切らぬ海軍を叱咤し続けたのはなぜか、吉田は疑問を提起する。議論達者な陸大出たちにまくし立てられ、白を黒と言いくるめられて、口下手で議論下手の、寡黙を尊び、サイレント・ネイビーをモットーとしてきた海大出が、どう対応したか、対応し得たか、海軍がカウンター・バランスとして、どこまでの強力なチェック機能を発揮することが出来たであろうか、と吉田はいう。
 そう考えると、海軍の中にも構造的なものではないとしても、海大出が多数を占める中央に、情況的な問題があった。海軍では海大出もそれ以外でも人事は海軍大臣が握っており、参謀将校というマークはつかない。ところが現実問題として、海大出には赤レンガ(霞が関の海軍省・軍令部の建物)が多かった。昭和17年11月、海軍省人事局長が「これでは海軍全般の戦力発揮がうまくいかない」と、前線の作戦部長に人材を急いで出せと局員に命じた。また、「計画人事」によって軍令、軍政どちらも同じ人物をくり返し配員して色をつけすぎ、そのために視野を狭くさせ、軍令は軍政知らず、軍政は軍令を知らない一知半解のスペシャリストを作ってしまった。中将、大将になり、世界の中に日本、日本の中の海軍を見る視点から判断しなければならないにも関わらず、依然として狭い視角から見、海軍を見て日本を見ず、日本を見て世界を見なかったスペシャリスト大将、狭視野大臣が居たのも、原因はそんなところにあった、と吉田俊雄。もう一つの問題は、海軍省軍務局、軍令部作戦部といった日本の進路を決定する最重要部局の中心的ポストに、同じような性格性向、意識見解を持つ者が集まったこと、ともいう。米内・山本・井上三羽烏の重石がとれると、親独派になった海軍中堅どころがたちまち圧力を強め、上司を突き上げて親独政策に引っ張り込み、三国同盟締結、対米強硬策、仏印進駐を手始めとする南進政策、対米英開戦にまで行ってしまった。そして、それを阻止し、あるいは軌道修正をしなければならぬ上司―――大臣、次官、軍務局長は、サイレント・ネイビーの申し子のような寡黙、口下手な学者か頭脳明晰で情況適応力にすぐれた官僚軍人であったりして、米内、山本、井上のような不退転の哲学も信念も重量も、持ち合わせていなかった、と。

 

 
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