渋沢栄一は明治6年(1873)井上大蔵大輔の辞意表明に続いて、自らも辞表を提出した。このとき旧知であった三井の総帥三野村利左衛門は渋沢に会って三井入りを勧めた。ところが渋沢はあっさりこの誘いを断った。当時三野村の側近が記録を残している。「現在民間には貴方ほどの人物はいない。私も三井を隠退する考えで居るから後任に貴方を推薦したいと思う。」と申し入れたが、渋沢は言下に断った。鹿島氏が推測するには、渋沢の実業界入りは、フランスで学んだ思想で士農工商という身分制度を打破し、官尊民卑の価値観を転倒し、産業によって富国強兵を成し遂げようとする「革命思想」び燃えていたという。
大蔵省に居た時両者が対立したのは、三野村が大蔵省からバンク創設の許可を得て、東京海運橋(今の兜町近辺)に三井組バンクを創設しようとしていた明治5年の時であった。三井ハウスが落成のお祭気分で沸き返っていた時、突如井上、渋沢の使いがやってきて、その建物を三井、小野の共同銀行に譲れと言う。これを拒否すると、井上、渋沢は三井がやっていた為替方を廃止し、預かっている官金の即納を命じ「三井小野組合銀行」に大蔵省為替御用を命じる辞令を交付した。この豹変は先に触れた伊藤博文によるナショナルバンク構想が進行中で、その前の銀行設立を阻止する狙いであった。こうして三井・小野組による国立銀行構想が進展したのであった。そして渋沢が下野した時、三井・小野組から請われるままに、この国立銀行の総監という三井と小野組の行司役に就任した。第一銀行が50周年を迎えた時の渋沢の挨拶は次のようだったという。「役人の前でお辞儀上手が世渡りの最上位、利得というものは悪く言えばお世辞追従から生ずるもの、権利上から富が生じるなどとはあろう筈がないとという位の世の中であった。・・・しかも先例のない他人の資本を集めて、これを一つの会社として営利事業を経営するというので、明治5、6年頃に株式会社に熟練した人は日本には居ない、第一国立銀行の成立は如何に困難が伴ったか、今尚追想下さっても良かろうと思う。」
明治7年10月創設間も内第一国立銀行に、双頭の株主の一方小野組が突如倒産の危機に瀕した。これは、明治初頭、三井組、小野組、島田組の三組に対して為替方を命じ、国庫金を無利子無担保で運用する便宜を与えてきた。廃藩置県後もこの体制は変らず、政府は府県の租税取扱を三組に委嘱していた。なかでも、小野組は幅広く業務を行い、巨額の預かり金を運用して大きな利益を上げていた。ところが井上、渋沢が下野して政府の方針が一転し、明治7年2月、為替方は預かり金の三分の一に相当する担保を提供することとされた。これだけでも大変なのに、10月預かり金と同額の担保提供を要求する通達が出された。この通達は小野組ばかりでなく三井組にとっても存立にかかわった。三井は三野村利左衛門の獅子奮迅の奔走で何とか担保差し入れが間に合い、破局を免れた。この措置は小野組を狙い撃ちした理不尽な措置であった。放漫経営で小野組の経営が危ないという認識が政府内、とりわけ大隈大蔵卿の耳に達した。元来三井組は保守的であったが、小野組は非常に進取的で実力以上に業務を拡大していたとの認識があったとしても、その影響は小野組にとどまらぬ。なお、謎が残っているようだ。第一国立銀行も連鎖倒産の危険があった。渋沢は小野組の実質的責任者古河市兵衛(のちの古河財閥の創設者)を呼んでひざ詰め談判を行なった。市兵衛は渋沢の話を聞き終えるとやおら懐から一枚の紙を取り出し、もっとも担保価値のある5点を箇条書きして、第一国立銀行に差し出すことを提案した。この時連鎖は免れた。
続いてもう一つの危機が迫った。それは紙幣銀行のナショナル・バンクを模範にとりながら、実態をヨーロッパ的なゴールド・バンク、金本位の兌換銀行にしたことであった。当時の日本の金貨保有高は微々たるもので、市場において金貨が高くなると、銀行の紙幣はすぐに兌換されて便利な金貨引出口となった。銀行が金の出口を拵えたようなものであった。創業近辺は良かったが、明治8年初頭から金の引換が多くなった。その理由の一つは貿易収支の不均衡、もう一つは余りの多くの政府紙幣が存在していることであった。