国立銀行の行き詰まり

2012年06月30日 | 歴史を尋ねる

 渋沢栄一は明治6年(1873)井上大蔵大輔の辞意表明に続いて、自らも辞表を提出した。このとき旧知であった三井の総帥三野村利左衛門は渋沢に会って三井入りを勧めた。ところが渋沢はあっさりこの誘いを断った。当時三野村の側近が記録を残している。「現在民間には貴方ほどの人物はいない。私も三井を隠退する考えで居るから後任に貴方を推薦したいと思う。」と申し入れたが、渋沢は言下に断った。鹿島氏が推測するには、渋沢の実業界入りは、フランスで学んだ思想で士農工商という身分制度を打破し、官尊民卑の価値観を転倒し、産業によって富国強兵を成し遂げようとする「革命思想」び燃えていたという。

 大蔵省に居た時両者が対立したのは、三野村が大蔵省からバンク創設の許可を得て、東京海運橋(今の兜町近辺)に三井組バンクを創設しようとしていた明治5年の時であった。三井ハウスが落成のお祭気分で沸き返っていた時、突如井上、渋沢の使いがやってきて、その建物を三井、小野の共同銀行に譲れと言う。これを拒否すると、井上、渋沢は三井がやっていた為替方を廃止し、預かっている官金の即納を命じ「三井小野組合銀行」に大蔵省為替御用を命じる辞令を交付した。この豹変は先に触れた伊藤博文によるナショナルバンク構想が進行中で、その前の銀行設立を阻止する狙いであった。こうして三井・小野組による国立銀行構想が進展したのであった。そして渋沢が下野した時、三井・小野組から請われるままに、この国立銀行の総監という三井と小野組の行司役に就任した。第一銀行が50周年を迎えた時の渋沢の挨拶は次のようだったという。「役人の前でお辞儀上手が世渡りの最上位、利得というものは悪く言えばお世辞追従から生ずるもの、権利上から富が生じるなどとはあろう筈がないとという位の世の中であった。・・・しかも先例のない他人の資本を集めて、これを一つの会社として営利事業を経営するというので、明治5、6年頃に株式会社に熟練した人は日本には居ない、第一国立銀行の成立は如何に困難が伴ったか、今尚追想下さっても良かろうと思う。」

 明治7年10月創設間も内第一国立銀行に、双頭の株主の一方小野組が突如倒産の危機に瀕した。これは、明治初頭、三井組、小野組、島田組の三組に対して為替方を命じ、国庫金を無利子無担保で運用する便宜を与えてきた。廃藩置県後もこの体制は変らず、政府は府県の租税取扱を三組に委嘱していた。なかでも、小野組は幅広く業務を行い、巨額の預かり金を運用して大きな利益を上げていた。ところが井上、渋沢が下野して政府の方針が一転し、明治7年2月、為替方は預かり金の三分の一に相当する担保を提供することとされた。これだけでも大変なのに、10月預かり金と同額の担保提供を要求する通達が出された。この通達は小野組ばかりでなく三井組にとっても存立にかかわった。三井は三野村利左衛門の獅子奮迅の奔走で何とか担保差し入れが間に合い、破局を免れた。この措置は小野組を狙い撃ちした理不尽な措置であった。放漫経営で小野組の経営が危ないという認識が政府内、とりわけ大隈大蔵卿の耳に達した。元来三井組は保守的であったが、小野組は非常に進取的で実力以上に業務を拡大していたとの認識があったとしても、その影響は小野組にとどまらぬ。なお、謎が残っているようだ。第一国立銀行も連鎖倒産の危険があった。渋沢は小野組の実質的責任者古河市兵衛(のちの古河財閥の創設者)を呼んでひざ詰め談判を行なった。市兵衛は渋沢の話を聞き終えるとやおら懐から一枚の紙を取り出し、もっとも担保価値のある5点を箇条書きして、第一国立銀行に差し出すことを提案した。この時連鎖は免れた。

 続いてもう一つの危機が迫った。それは紙幣銀行のナショナル・バンクを模範にとりながら、実態をヨーロッパ的なゴールド・バンク、金本位の兌換銀行にしたことであった。当時の日本の金貨保有高は微々たるもので、市場において金貨が高くなると、銀行の紙幣はすぐに兌換されて便利な金貨引出口となった。銀行が金の出口を拵えたようなものであった。創業近辺は良かったが、明治8年初頭から金の引換が多くなった。その理由の一つは貿易収支の不均衡、もう一つは余りの多くの政府紙幣が存在していることであった。

 


国立銀行(ナショナルバンク)の設立

2012年06月18日 | 歴史を尋ねる

 廃藩置県は徳川の幕藩体制に対して決定的な終止符を打った第二次革命であったが、渋沢栄一は経済上のクーデターでもあったことを説明していると鹿島氏は云う。「廃藩置県の布告を発する場合にもっとも注意をする事は、その頃諸藩に行なわれていた藩札の引換法に関する布達である。仮に廃藩後の藩札の引換を拒むとしたら、竹槍蓆(むしろ)旗の騒動を見るに至るは必然。もしまた前もって引き換えるという時にはたちまちその価格が騰貴し僥倖の利を射る者が多くでて幣竇(へいとう:抜け穴)を造る虞れがあるから、藩札引換の布達は廃藩の布告と間髪を容れざるもの、当日は休日であったが特に出勤して備えた」と渋沢の著書にある。単なるセットというよりも、密接な因果関係だった。「井上馨大蔵大輔から廃藩の布告と藩札引換の方法を同時に発表しなければならぬと、改正係に交換方法の具体案に就いて調査を命ぜられ、私は二三日の間は殆ど不眠不休で処分案を立案し井上大輔の手許に差し出した」 ではその内容はどんなものか。「各藩の金穀の取締から負債の現在高、藩札の発行高、租税徴収の方法及び各種事業の跡始末を包含し、又公債証書発行については諸藩の負債を借入れ年度によって区分を付け、旧いものは廃棄せしめ、新しいものは政府から公債を付与することとした」 渋沢のやったことは、各藩ごとの年度別バランスシートを細大漏らさず作成し、比較的新しい藩の負債の金額を確定、これを金庫に現金がない政府が肩代わりして、公債証書を発行することとした。この公債はフランスに居た時実物を取扱ったものであった。今は国庫が空っぽでも、いずれは償還できる財源もでてくるだろう、しかも利息付だから、与えられた方でもうれしいに違いない。かくて公債という打ち出の小槌で、廃藩置県の混乱は殆んど起こらずにすんだ。

 ところで渋沢は大蔵省で通貨・金融政策の実務担当者となって最大の問題は、幕府時代に発行された金貨・銀貨並びに藩札、明治政府となって発行された太政官札、これに偽の金貨・銀貨及び贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的な責任者となった井上馨と渋沢のコンビは次のような手順で乗り切ろうと考えた。先ず国家の歳入を正確に算定した上で、各省から出された予算を検討する。この際、歳出を出来る限り節約して、余剰金を作るように努める。これを正貨準備金にすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することが出来る。「入るを計って出ずるを為す」予算原則の確立と通貨混乱解決の金融政策は結びついていた。そのため、大隈に代わって大蔵卿となった大久保利通が陸海軍の予算執行を迫った時、渋沢は断固として反対意見を述べ、一時大阪造幣局に転任の措置がとられた。大久保が米欧使節団として出発すると、渋沢は大蔵少輔事務取扱となり、かねてからの懸案であった国立銀行創立の条例制定であった。この国立銀行に関して中央銀行(兌換券)とナショナルバンク(紙幣銀行)の折衷案でいくこととし、「銀行から資本金の六割に相当する政府紙幣を上納させ、同額の銀行紙幣を発行するが、銀行は資本金四割の準備金を持って紙幣の兌換をする定め」とした。この制度は不換紙幣の消却、金融の疎通という一石二鳥の効果を期待した。正金準備高が25%のアメリカナショナルバンクよりもむしろイギリスのゴールドバンクのシステムに近いシステムとなった。やがて渋沢は野に下って、自ら定めた正金準備高の多さに泣くこととなった。


国家改造の作戦本部「改正局」

2012年06月16日 | 歴史を尋ねる

 ここに鹿島茂著「渋沢栄一」という本がある。そのまえがきにドラッカーの言葉をのせている。「明治という時代の特質は、古い日本が持っていた潜在的な能力をうまく引き出したことだが、それは渋沢栄一という人物の生き方に象徴的に表されている。渋沢はフランス語を学び、ヨーロッパに滞在し、フランスやドイツのシステムを研究した。そうしたヨーロッパのシステムを、すでに存在していた日本のシステムに、うまく適合させた。」「渋沢のもう一つの功績は、一身にして立案者と実行者を兼ねて、事業を推進した。渋沢は思想家とも行動家との一流であった」 そして鹿島氏は渋沢が現れて弱肉強食原理の原初的資本主義を回避させることが出来たがために、日本資本主義は一気にテイクオフしたと、やや誇大な表現を使っているが、隅っこに置きながら彼の足取りを追いかけたい。

 渋沢の建議で発足した改正局は、各省庁を横断し、かつ超越する特別の権限を持つ組織であった。渋沢によって引き抜かれた前島密の回想録に「改正局は民部大蔵両省の間に設置された特別局で、大隈、伊藤の顧問局と見るべき所で、行政上の諸規則改正の按に就き、各員の意見を問い、或は立案せしめる。故に局員に一定の業務なく、随時その能力を以って事に当たる。而して大隈、伊藤両氏も出席して、放胆壮語一つも尊卑の差を置かず、胸襟を開いて時事を討論せり。余は心に喜び、頗る愉快に感ぜり」 抜擢された元幕臣たちと幹部が直接議論する、国家改造の作戦本部となった。当然周りからは不平不満が噴出したが、こうしたクレームを大隈は抑えた一方、渋沢らは財政、金融、地方行政、殖産、駅逓などの難題を解決していった。大きく整理すると、①租税を米納から金納に代えること、②鉄道の敷設、③貨幣制度、公債制度及び銀行制度。

 先ず以って火急を要するのは通貨制度、公債制度、銀行制度など金融制度の確立、伊藤少輔が芳川顕正と福地源一郎を随行してアメリカに行くこととなった。このアメリカという選択が思わぬ論争を政府内部に引き起こすこととなった。帰国後伊藤はアメリカのナショナル・バンク(国の定める基準に応じて設立される私立の国法銀行)を行ないたいと主張したが、イギリスの銀行を見聞して来た吉田清成は、英国のイングランド銀行は中央銀行で、日本でもまず中央銀行から設立すべき、そうしなければ必ず金融の不一致を生ずると主張。伊藤は統一も必要であるが、事物は先ず成立し発展してから初めて統一するものである、今日はアメリカに倣って国立銀行を設立し、これによって不換紙幣を兌換せしむるのが必要という。この対立はもう一つの側面を持っていた。それは、銀行券を発行するに当たって、銀行は金を準備し、それに見合った紙幣を発行するゴールド・バンクとする正貨兌換論者だったのに対し、ナショナル・バンク論者は、正貨兌換には正貨を準備する時間が掛かる、差し当たっての課題は、市中に出回っている各種の不換紙幣を消却することだから、正貨兌換によらずナショナル・バンクの銀行券で不換紙幣を回収するほうが先だという。この論争は決着がつかず、そうしているうちに明治4年7月の廃藩置県が全国に布告された。


貨幣の散歩道

2012年06月11日 | 歴史を尋ねる

 明治4年の新貨条例は金銀貨による幣制の統一を目標としていたが、貨幣素材不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造高は計画を大幅に下回った。その代わり政府紙幣や国立銀行券などの不換紙幣が大量に発行された。一方で藩札や古金銀貨の整理回収なども計られ、明治9年後のまでインフレが発生することもなかった。ところが、明治10年の西南戦争は、事態を一変させた。政府は戦費調達のため紙幣・国立銀行券を増発した。その結果大インフレが発生し東京では米価が4年で倍増し、一方で貿易赤字が増大し正貨準備の減少を招いて、為替相場の下落でさらに物価を高騰させるというインフレスパイラルに陥り、社会不安が増大した。財政運営を担当していた大隈大蔵卿は、生産基盤の充実を通じて通貨の安定を図るべきとの立場で、紙幣収縮提案を退けた。そして外債発行で調達した正貨を元に紙幣交換を提案したが一蹴され、明治14年10月に失脚した。新たに大蔵卿に就任した松方正義は、インフレ収束を狙いとして、増税、歳出削減という緊縮財政措置を果断に実施し、余剰紙幣の回収を図った。その結果、インフレは鎮静化したが、こんどは深刻なデフレに見舞われることとなった。この紙幣整理の過程で、明治15年10月ヨーロッパ先進国の中央銀行制度に倣って日本銀行が設立されたと、日本銀行金融研究所貨幣博物館「貨幣の散歩道」で概説している。この設立の狙いは、紙幣の濫発を防止すると共に通貨価値の安定を図るためには、紙幣の発行権限を政府から独立させるとともに、兌換銀行券の一元的な発行制度を整備することが重要だという認識であったそうだ。日本銀行の創設は貨幣制度の統一、兌換制度の確立を図る上での制度的基礎を形成し、その後の日本経済の近代化を金融取引面から支えることになったと、高らかに謳っている。この創設の散歩道はいかなる道であったか、もう少し掘り下げてみたい。

 この散歩道はどうしても渋沢栄一、大隈重信、松方正義と辿りたい。大分道草を食うこととなるが、もう一度さかのぼって、当時の雰囲気を確かめておきたい。尊王攘夷の志士であった渋沢栄一は幕末徳川昭武の随員としてフランスに滞在し、徳川幕府が瓦解して帰国した後、蟄居恭順の意を表して静岡に引きこもった敗軍の将徳川慶喜の下で商法会所を立ち上げ、静岡藩の財政を立直しつつあったとき、明治政府への仕官の話が舞い込んだ。断固断るべく上京して大隈重信邸を訪問した時の有名な問答が残されている。大蔵大輔大隈は渋沢の断りの話を聞いておもむろに「今日の状態を例えて云えば、神代の時代に八百万の神々が集まって相談しているのと同じで、衆知を集めて新しい政治を行なおうとする時である。君はフランスにも洋行し、財政上の知識にも長じているから、政府に加わって創成の建直しに尽力して貰わねばならぬ。小さな藩に尽くすよりも、この方が国家の為どんなに意義あるか知れぬではないか。静岡藩から役に立つ人間が中央政府に入ったとなれば慶喜公も肩身が広い訳だし、慶喜公としても君を政府に推挙する事は誠意を披瀝することにもなるから、取りも直さず慶喜公に対しても忠義の道を果すことが出来る」「君は実業を以って身を立て、殖産興業の為に一身を捧げるということであるが、その根本が定まらなければ、到底殖産興業の成果を期す事が出来ない。今は創業の時代であって、先ず第一に理財なり、法律なり、軍備なり其の他教育、工業、商業とか、拓殖等の制を定める必要があり、大蔵省の仕事について云えば、貨幣制度、租税の改正、公債の方法、合本法の制定、駅逓の事、度量衡の制度を初めとして、是非とも確立しなければならぬ諸制度が頗る多い。これ等の根本が確立しなければ、到底実業の発達を期することは出来ない。従って先ず政府に入って、これ等を確立することが、君の主張する実業の進歩を計る上からもむしろ急務ではないか。」 これに対して渋沢は「本当に諸制の改正を計ろうとするには、先ず第一に省内に改正事務を専務とする局を設けて、有為の人材を集め、調査研究せしめて、これを実施するという事にしなければならぬと考えられます。」 大隈「幸い君の意見もある事だから、速やかにこれを設ける様に取り計らうこととしよう。」


明治14年政変と三菱批判

2012年06月03日 | 歴史を尋ねる

 初期三菱の経営多角化は、公業としての郵便汽船三菱会社やそのための兼業禁止規定と事業実態とのズレが目立つようになって、この組織をどう動かしていくかの問題が生じてきた。明治10年代前半、岩崎弥太郎の最後の8年間は、この問題への対処が課題となった。そしてその最大のものは会計方式の整備と兼業事業の分離独立などの組織改革であった。そしてそれは、財閥が持株会社を頂点とする子会社を統括する、階層的な本社・子会社関係の原型、萌芽と呼ぶことが出来るものであったと、武田晴人氏はいう。具体的には大きな資産となっている船舶について減価償却の導入、諸投資先の部門別の経営状態の把握、奥帳場の成立。さらに弥太郎の経営のあり方を特徴付けたのは人材の登用であった。福沢との関係では慶応義塾出身者、また東京帝国大学から技術者や実務者らの登用、さらに特徴的だったのは外国人の多さであったという。これは船員を中心とした熟練技術者並びに海上保険契約などで外国人船長・機関長が必要とされた。

 こうして岩崎弥太郎の事業は拡大を続けたが、明治14年の政変を期に足元が揺さぶられることとなった。批判の最初は明治11年「三菱会社岩崎兄弟の経営法に関する非難」であったが、背景は政府が外国と競争させるために三菱一社に保護政策の力を注いだことでもあった。そういう事業経営のあり方そのものに対する批判が、政治抗争と結びついてしまった。明治14年、民権運動が高まるなかで、政府内部では大隈重信のイギリス型立憲君主制構想と伊藤博文など薩長派のプロシア型君主制的政体構想とが対立していた。大久保利通暗殺後の政府は、大久保の下で実務を担当していた大隈重信に委ねざるを得なかった。薩長閥からすると、肥前藩出身の大隈が政権を握っているのは面白くない。その最中に、薩長派に属していた北海道開拓使長官黒田清隆が彼の息のかかった政商五代友厚らに北海道の財産を安く払い下げようとした。この情報が漏れて自由民権運動の人々が徹底的に政府を追及し始めた。諸説紛々だが、在野の勢力を利用して政権内部で主導権を確立させようとしたと大隈が疑われ、薩長派がクーデターを敢行、御前会議が開かれ大隈重信が罷免された。大隈はこれまで一貫して三菱の海運業を保護する立場に立って政策を推進してきたと考えられていた。黒田らが「大隈を排撃するのは、まず三菱をきるべし。具体的な措置として三菱にあたえられた保護命令を撤回すべきである」と主張した。こうして伝聞情報では、岩崎弥太郎は大隈や反政府運動家の資金源であり、開拓使官有物払下を妨害していると警視庁内偵書でも書かれたという。

明治15年明治政府は三菱に対し第三命令書を交付して改善を求めることになった。①商品売買の兼業禁止、②払下代金の皆済まで船舶の所有権に制限、③2万2000トン以上の海運隊を維持、④大修繕の準備金として公債を政府に預ける、⑤経営監督の強化などであった。さらに政府は三菱に対抗して共同運輸を設立。三菱攻撃の急先鋒であった品川弥二郎は、「国家的事業を個人に任せておくから悪い。海上権を三菱から奪わねばならぬ」と、井上馨らを動かして共同運輸設立にこぎつけたという。設立発起人は当時の有力企業家の出資・協力を糾合した。時はデフレ政策のため荷動きが減少気味のところ、両社は厳しい価格競争を強いられ、両社とも赤字を計上する事態に至った。明治18年両社が死闘を繰り返している時に岩崎弥太郎はこの世を去った。さらに弔い合戦の様相を帯び、競争状態の先行きを心配して、打開策を模索する動きもでてきた。政府に対して不屈の抵抗を続けようとした弥太郎とは違って、弟の弥之助は政府との協議にも応じ、共同運輸との話し合いも柔軟な対応を示し始めた。共同運輸の社長交代を期に両社が話し合い合同交渉を開始、明治18年9月日本郵船株式会社の設立が許可された。