憲法改正作業とマッカーサー・ノート

2019年11月30日 | 歴史を尋ねる
 1月26日、マッカーサー元帥の誕生日であるが、総司令部が位置する第一生命ビルには、おりから日比谷公園で開催された共産党指導者野坂参三の帰国歓迎大会に集まった三万人の聴衆の歓声が響いたが、民政局次長ケーディス大佐はそれを皮肉な事象とは感じなかった。民政局の関心は、憲法改正問題に集中していた。日本の民主化を憲法で固定すべきだというのが、マッカーサー元帥はじめ総司令部の意向なのだが、日本政府、外務省、新聞或いは個人ルートを通じて承知する限りでは、日本側の憲法改正作業の動きは鈍い。「憲法改正については、日本側と我々との間には、思想よりセンスの差がある。センスの相違は理論では訂正できない」 総司令部は介入するほかない、という。日本の憲法は日本のものである。日本人が民主的憲法を自身でつくることが望ましい。だが、日本側にそれが出来ないとなれば話は別だ。「ジェネラル(元帥)に日本の憲法を改正する権限があるという覚書が作成できるか」「直ちに用意します」 ケーディス民政局次長はホイットニー局長の部屋で、民政局の憲法改正作業の分担を至急に決める、と述べた。
 その夜、松本国務相は総司令部にも知人のいる高木東京帝国大学教授の来訪を受け、「最小限の改革では問題か解決しそうにない。総司令部側の意向もご聴取になる方がいい」と勧告を受けたが、松本は「憲法改正はあくまで自主的にやるべきものと思う。日本にまかすとポツダム宣言も言っているのだから、どう決めてもいい。そのままでもいいくらいのもので、アメリカの意向を問い、打診する必要はないでしょう」と。

 1月30日、極東諮問委員会代表団が総司令部を訪れ、マッカーサー元帥と会見した。団長マコイ米陸軍少将は「総司令部が日本の憲法改正をどのように考え、どのような態度をとるのか伺いたい」と質問した。総司令部は全能機関で、日本の真の政府は占領当局であると考えたからであった。日本政府の法案は、①総司令部への事前提示➾②議場での米軍将校の審議監視➾③通過後の総司令部の承認➾④天皇の裁可➾⑤公布。その総司令部が国家の基本法である憲法に無関心である筈がない、と。そして日本の憲法改正問題は、極東委員会の権限事項であるから。一同が注視する中、元帥は「憲法改正問題は、極東委員会の設置を決めた1945年12月モスクワ協定によって、自分の手を離れた。しかし、憲法改正については、なにが行われるにせよ、出来上がった文書は日本人の製作だと日本人に考えさせる方策をとるべきだ」 銃剣で強制された憲法は銃剣が引かれた瞬間に破棄されるだろう。こういう元帥の言明は、憲法改正作業の中止ではなく、その開始を含意していた。

 2月1日、毎日新聞が、「憲法改正調査会の試案」を報道した。試案は憲法問題調査委員会の主流をなすもので、政府案の全貌が窺がわれ、とくに重大なる意義がある、と。内容は大幅改正の甲案に近く、捨てられた草稿であった。機密漏洩であった。松本烝治国務相は記者会見し、報道された試案は審議過程で作成された一案に似ているが、政府案ではないし、漏洩について内閣に責任はない、と。記者団から、政府は憲法第一~第四条を変更しない方針と聞くがそうなのか、と質問が飛ぶと、その通りと松本は即答、記者の間から、保守的だ、非民主的でないか、という声が湧き起った。統治権の主体を人民にせよと、このところ各新聞に掲載されている共産党その他の主張と同じ流行論であった。国務相の観察では、憲法に人民主権などと規定するのは、政体と共に天皇制という国体も変更できることになり、日本の将来を脅かす暴挙に他ならない、と。
 午後五時過ぎ、民政局統治課長ハッシー海軍中佐は、楢崎渡書記官長に電話、すぐに政府案を見せてもらいたい、と。結局、甲案の概要である「憲法改正の趣旨」と「政府起草の憲法改正に関する一般的説明」の英文資料を総司令部に届けた。通読したケーディス民政局次長は、とっさに日本側の保守性を指摘、天皇は神聖でなくなるだけで、天皇制は現憲法のまま残す、人権・言論の自由なども議会の立法の対象になっていて、憲法上の権利にはされていない。ケーディス民政局次長は、このような時代錯誤の改正案が総司令部の意向にそわないことを、日本側は理解出来ないでいるのだろうか、と首をひねった。ホイットニー局長は、日本側は改めてポツダム宣言に忠実でより純粋な改正案を作り直すのか、それともわれわれの憲法案を受諾するのか、いずれかを選ばざるを得なくなった、と。日本側に純粋憲法をつくる意思も能力もないのは明白だ、と。

 2月2日、外相吉田茂はホイットニー准将に電話した。外相官邸で総司令部側との憲法改正につての会談の申し込みで、ホイットニーからは期日を延期して2月12日にしようとの返事。総司令部憲法法案の策定日程方針を見ての期日指定であった。
 この日憲法問題調査委員会は総会を開き、午前中は松本私案を中心とした説明と解説、午後は質疑応答だった。午後は憲法の天皇条規に議論が集中した。軍事大権(第十一、第十二条)については、廃止の意見が続出した。すでに陸海軍は解体し、連合国側の日本非武装化の方針も明らかであるのに、なぜ軍事大権を残す必要があるのか、日本は再軍備を志向し、これまで通りの天皇政治を維持するつもりだ、民主化を拒否するのだといったあらぬ疑いを招くだけではないか。書記官長は、陸軍の元軍務局長吉積正雄中将その他の有力者の見解を伝えた。「第十一条は削る方がいい。残しておくと天皇制も吹っ飛んでしまう。平和国家一本鎗で行きたい、とのことです」 松本国務相は、憤然と弁論した。自分が考える今後の日本軍は、海賊予防や内乱鎮圧のための最小限度の国防力で、従来の外征能力を持つ陸海軍ではない。ただし、軍隊であるので、憲法に規定する必要があるだけのことである。天皇大権も議会の協賛によることになるのだから、軍隊も民主的軍隊になる。マッカーサーと交渉してダメだというなら、削らざるを得ない。しかし、交渉もせずに最初から削って立案することは、出来ない。軍なき国というものは、存在し得ない。列国に伍す能わずという事態を、あえて自ら作るなど、この松本には出来ぬ、と。
 宮沢俊義東大教授は発言した。置く置かないというのではなく、向こうの意向に関わらず、日本が生きるためには、平和国家という大方針を掲げる以外に道はない。軍隊の規定は残しておいても、どうせ形式的で、つつかれるだけだから、残して置かない方がいい、と。松本は憮然とし、寂しくもあった。宮沢教授の所論は矛盾している。自主性を強調しながら、総司令部に逆らうなと言っている。結局、向こうの意向の尊重ではないか。ポツダム宣言は、日本を滅亡させるつもりはないと明言している。他国の属領にするとも併合するとも言っていない。いずれ日本は独立国として国際社会に復帰するのである。占領と総司令部の支配も一時的なものにすぎない。憲法改正は、その独立復帰に備えるためのものである。独立国日本の最も重要な要件は、国体すなわち天皇制を維持するかどうかだが、国民の国体維持の信念に揺るぎはない筈だ。独立国である以上、自国の安全は自力で守られねばならない。すなわち、軍隊が不可欠になる。
 美濃部達吉東大名誉教授は、国務相の説はもっともだと、発声した。憲法を改正するには、日本が独立国たることを前提とすべきで、現在の状態のみに即することは出来ない。独立国を前提とする以上、軍の規定を置くことは当然である。これを削ることは、いつでも滅ばしてくれということを表明するに等しい、と。長老格の美濃部博士の掩護射撃で、一座のそれ以上の論議は封止され、委員会は終了した。

 2月3日は日曜日。松本委員会は休んだが、総司令部は休業せず、マッカーサー元帥も登庁した。准将は大佐に黄色い草稿用紙を手渡した。大佐は憲法改正についてガイドラインを要請していた、その回答だった。このガイドラインはマッカーサー・ノートと呼ばれ、憲法改正に関する「四原則」であった。
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幣原喜重郎の戦争放棄論

2019年11月24日 | 歴史を尋ねる
 松本国務相も、パージ指令が憲法改正に関係があることを痛感していた。「憲法問題調査委員会」では、東京帝国大学教授宮沢俊義が策定した甲案(大幅改正)と乙案(小改正)が出来上がっていたが、両案にあきたらなかった松本は自案を作成し、これで三案がそろった。松本は1月7日、天皇に説明した際、「以上の結果によりまして、立法はもとより行政も、議会に基礎を置く内閣によって、国民的議会的民主主義が完全に発揮されるものと考える」と述べた。しかし、政治顧問アチソンが指摘するように、天皇が統治権の総覧者であるという第一条~第四条には手を付けず、わずかに第三条の神聖を至尊、第十一条陸海軍を軍と変えただけで、統帥大権は存続させていた。また、国民の兵役の義務は役務の義務にする、といった調子で、実質的改正より表現的改正に留まる印象を受けた。
 松本は内閣改造が行われた翌日、1月13日、ある種の危機を感じた。この日総司令部は総選挙施行に関する指令を政府に通達したが、この指令にあわせるように日本共産党指導者野坂参貳の帰国であった。指導者野坂はマスコミの寵児になり、博多から東上する列車内で、名前を発音しやすい「参三」に改めると発表し、「愛される共産党」を訴え、社会変革は考えていない、天皇制も日本人が受け入れていることも事実であると語った。獄中から解放された他の共産党指導者たちの攻撃的で一本調子の姿勢に比べれば、中国共産党仕込みかもしれないが、一味も二味も違う、広範な各層にも耳障りの良い、柔軟なアピールであった。この夜内閣改造による新閣僚の親任式が行われたが、その取材に集まった報道陣よりも、代々木の共産党本部に殺到した記者の方が多かった。「日本の政治の胎動は永田町から代々木に移った観があった」とは朝日新聞の描写であるが、党本部に到着した指導者野坂は、さっそく深夜の幹部会議にのぞみ、党の新路線を決定した。焦点は天皇制に置かれ、これまでの天皇を戦争犯罪人視する方針を捨て、天皇の政治権力の剥奪だけが政治目標にされた。この路線変更は、巧妙な政策だと児島襄。総選挙目当てであることは、容易に理解できる、と。

 政治顧問アチソンは大統領あての報告書で次のように述べていた。「日本におけるソ連と共産主義に対する恐怖と嫌悪は、一般的である。日本国民は、共産主義者が余りに教条主義的かつ急進的であり、とくに天皇に対する立場でそうであることを嫌っている。私が会った日本人の大多数は、共産主義者が日本の支配勢力なることを望んでいない」と。だが、野坂路線は、その日本人一般が眉をひそめる天皇に対する姿勢を変更した。当時、社会主義、共産主義、民主主義などの区分を承知する国民は少なかった。天皇問題がその差異の基準であるとすれば、新路線によって、共産主義もまた民主主義だという解釈が生まれかねない。「愛される共産党」などという表現は、女々しいとの印象を与えようが、民主的な新味と受け止める者も多い筈だ。何事も新生が叫ばれる環境であれば、新人の登場を促す「パージ指令」とも連動して、総選挙での共産党の大量進出も予想される。その結果は、新国会およびその後の政治情勢がどう変わり、憲法がどのように処理されるか、予断を許さない。手遅れにならないよう、総選挙の前に憲法を安心できる形に内定しておくべきである、と松本国務相は決心した。

 「憲法問題調査委員会」での改憲スケジュールは、4月総選挙、特別議会で貴族院令の改正、両院の面目を一新した臨時議会で憲法改正案を審議、が委員会の腹案だったが、客観的情勢はとても8,9月までの遷延は許されないとして、松本は①2月10日、改正案を総司令部に提出。2月中に承認。②枢密院審査約三週間、③3月下旬に総選挙、④4月中旬の特別議会で改正案可決、を考案した。しかし総司令部民政局は、もっと早い憲法改正を希望していた。主な理由は、1月9日に来日した「極東諮問委員会」の存在だった。同委員会は、対日戦勝連合国の日本占領に対する管理機構であった。構成国は、米、英、仏、中、豪、フィリピン、カナダ、ニュージーランド、オランダ、インド、それにソ連の十一か国。極東委員会に改組され、対日理事会も設置された。その主要任務は①日本管理に関する政策、原則、規準の決定。②連合国最高司令官の政策実施に関する審査。③参加国が合意した事項の審議。ここまでくると、委員会は名目的存在ではなく、総司令部の上位に位置する日本管理機構であった。日本の民主的改革を永続化させるためには、その改革を盛り込んだ憲法改正が必要となるが、極東委員会が憲法改正に介入する権限を持つとすれば、米国の企図に合致しない改正が行われ、日本の米国型民主化が損なわれる可能性が生じる。その事態を避ける為のは、極東委員会が活動する前に、憲法を適切に改正してしまえば良い。ホイットニー准将は「元帥は日本の改革を永続化する憲法改正を終えて、2,3年後に帰国したい意向だ。たとえ憲法改正が総司令部の強い示唆による場合でも、日本側の立法化の手続きがあれば日本国民も受け入れやすい」と。

 極東諮問委員会代表団が来日した二日後、国務省は総司令部に「SWNCC(国務、陸、海三省調整委員会)」政策文書「228」を通達した。「天皇の権限の縮小、統帥権の廃止、国務大臣の文民性、議院内閣制、議会の予算統制権、地方自治の強化、基本的人権の拡大、・・・」 SWNCC228は、この要項を内容とする憲法改正を日本側に誘導することを期待し、併せて同文書の公表の禁止、日本側への指示は最後の段階にすること、同文書を極東委員会に送付することを付け加えた。極東委員会の発足は2月下旬ごろ、それまでに憲法改正を完了すべき、ケーディス民政局次長はホイットニー准将に進言、同意を得た。

 1月24日、憲法改正に格別重要な意義を持つ日、幣原喜重郎首相はマッカーサー元帥を訪ね、憲法に戦争放棄を規定する旨を発議した、と言われている。ホイットニー准将は彼の著書で、「幣原は、新しい憲法を起草するにあたって、戦争と軍備を永久に放棄する条項を加えることを提案した。これによって日本は自国を軍国主義の再生から擁護できるし、警察のテロ行為を防止できる。最も懐疑的な自由世界に対しても、日本の平和決意の強力な証拠となると、幣原はいった」と。マッカーサー元帥も昭和26年5月、解任された翌月の上院軍事外交合同委員会で、同様の趣旨の証言をしている。マッカーサー元帥は立ち上がり、この老人と握手し、彼に向かい「それこそが、講じ得る最も偉大な建設的措置の一つだと考える」と、言わずにはおれませんでした、と。だが、日本側には、米国側の主張を裏付ける記録は見当たらないし、幣原の手記も談話も伝えられていない。
 双方の回想は、明確に食い違う。はたして憲法に戦争放棄条項を規定することが話題になったのか、なったとしても首相がいい出したのか、それとも元帥の方が・・・。総司令部は、一様に、戦争放棄はマッカーサー元帥の提案であった、という。「元帥と幣原首相との会議には、通訳も不要であり、誰も同席しなかった。私はホイットニー将軍から聞いたが、その時は、将軍は、これは元帥のアイデアだと言っていた」民政局局員リゾー大尉は証言する。対日理事会代表のシーボルトは、「戦争放棄をいい出したのはマッカーサーであり、幣原首相はその意外な内容に当惑した。マッカーサーは、当時は、出来るだけ早く1、2年で占領を終えたいと考えていた。そこで、日本を再び米国の脅威にならぬようにするため、侵略戦争をしないと憲法に明記させれば、その保証となり、使命も達成されると考えた、と思う」と。日本側の反応も否定的である。憲法改正を担当する松本国務相も、首相に戦争放棄、軍備撤廃といった発想がなかったことは、総司令部に提示した改正案にそれが含まれていないことからも明白だ、と言っている。
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「総司令部当局談」は「介入と指導」を強化する決意

2019年11月16日 | 歴史を尋ねる
 「当局談」は、額面通りとすれば、もう指令は発出しない、あとは日本政府に任す、という占領終結宣言に似た意味に解釈されるが、それは誤解だった。総司令部民政局は、日本側の総選挙準備を知ると、順序が違うと判定した。改正選挙法は新機軸の内容を含むが、立候補者は恐らく現議員や官吏、団体役員であろう、そのほとんどが「トウジョウ将軍の一味」である以上、民主的成果は期待できない。選挙母体を清掃しない選挙法改正は、無意味である、ポツダム宣言第6項は日本の軍国主義勢力の永久除去と規定されている、これらの規定に関する指令は、まだ発せられていない。民政局は、今こそ政官界の清掃を断行すべきだと決意し、政治顧問G・アチソンも、総選挙の前に日本社会の「非ナチ化」が先決だ、と賛成した。局長C・ホイットニー准将は、少なくとも奏任官以上の官吏の公職追放指令を準備すべく、法規課長に起案を急がせた。『AP』電は、民政局の動きのスクープであり、総司令部の選挙日程の発表禁止措置も、そい言った事情によっていた。日本側は一切知らなかった。12月31日、総司令部が修身、地理、歴史の教科書を廃止する覚書を伝えた。同日、総司令部は占領軍宿舎二万戸の建設を要求した。費用は約百億円、昭和二十年度の歳入の75%に相当し、紙幣発行で賄うのだからインフレ激化は必至だった。児島襄は言う、まさに日本財政を些事とみなす印象を与える、と。

 昭和21年元旦、東京をはじめ各地の食糧難は冬を迎えて苛酷さを増し、十二月下旬全国都道府県会議が政府に建議、「(政府の対策不十分のために)遂に今日の飢餓的悲惨事を誘致し、当路に対する怨嗟の声は巷間に充満する。今、これを覆す施策が無ければ、国家倒壊の危機を招来することを憂う」と。正月らしい雰囲気はなく、「門松も国旗もなくて年を越し」と重光葵が詠めば、新聞は「荒涼たるお正月」と表現した。この日の新聞にマッカーサー元帥の声明が掲載された。「新年と共に日本に新しき暁が訪れた・・・軍国主義、封建主義、心身に加えられた強権による規制。これらの枷(かせ)は取り除かれた。日本の大衆にとっては、今や自ら統治する権利があり、また、すべて自らなすべきことをなさねばならぬ事態に目覚めることが必要である」と。天皇の詔書も、併載された。「朕は汝等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生じるものに非ず」。いわゆる天皇の人間宣言であった。総司令部民間情報局員H・ヘンダーソン中佐が発案し、学習院英語教師R・ブライスが手直しした英文を、首相秘書官福島慎太郎が和訳し、文相がチェックした後、天皇の意向で冒頭に五カ条御誓文を加え、早大教授川田瑞穂が詔書に仕上げた。つまりは、日本民主化の一環として天皇の神格を自ら否定させる総司令部工作だった。総司令部は国体の根幹に手を付けるつもりではなかろうか、との感想をさそった。

 1月4日、総司令部は、「望ましからぬ人物の公職よりの罷免排除に関する覚書」を政府に伝達し、その実行を指示した。一般に「公職追放指令」と呼ばれ、総選挙に焦点をあて、その被選挙資格を限定する狙いのものであった。同時に、「パージ指令」とも呼ばれ、軍国主義者をパージ(粛清)するためでもあるので、対象者は広範だった。ア、戦争犯罪人、ロ、職業陸海軍職員、ハ、極端なる国家主義団体・暴力主義団体または秘密愛国団体の有力者、二、大政翼賛会・翼賛政治会および大日本政治会の活動における有力分子、ホ、日本の膨張に関係する金融機関並びに開発機関の職員、へ、占領地の行政長官、ト、その他の軍国主義者および極端な国家主義者。個々の細かい審査基準は論争があり、該当か否かの判定は日本側に委ねられたが、総司令部が特定の指定の可否の権限を留保した。とにかく日本の「非ナチ化」が必要だとされ、その後パージの範囲が拡大され、昭和23年5月までに、201,815人が追放された。ドイツの418,000人に比較すれば約半数だが、この間パージの嵐を避けるため、国民の間には密告、偽証、中傷、裏切り、阿諛などの風潮が瀰漫し、一般化する傾向さえ示した。パージは、日本国民性を変えたとまで言われている、と児島襄。ふーむ、この辺に触れた文献にはお目にかかれない。その後の時代的背景を知る者としては、なんとなく想像できるが・・・。児島襄はこうも言う。この種の現象が目立ったのは後日の事で、パージ指令は発出時、大きな衝撃を国民に与えた、と。「無血革命は来りぬ」と、朝日新聞はパージ指令の政治的効果を指摘した。

 現議員の少なくとも百人以上は追放規準に当てはまり、とくに翼賛議員が多い日本進歩党は、総裁町田忠治をはじめ幹部のほとんどが総倒れだった。日本側はマッカーサー元帥を見ること恰も救世主の如く日本国民を救助してくれるものと誤認し、人道主義を唱える米軍は、食糧輸入も許可してくれるだろう、貿易も再開してくれるだろう、戦前の日米関係の回復もすぐだと考える国民も増えた。然しながら、米軍は飽くまで冷厳なる理屈通りに行動した、日本を救うものは、マッカーサー元帥に非ず、単に日本国民、大和民族のみであることを銘記すべきである。国民自身が、戦勝国の援助を俟たず、自力で国家救済する意気と努力を持たなければ、日本は滅亡する以外にない、と重光元外相は手記した。
 政府もショックを受け、狼狽した。幣原内閣の文民閣僚は11人、うち、追放該当者は5人と見られた。安全と思われるのは幣原首相、吉田茂外相、芦田均厚相だけ。吉田外相が民政局長C・ホイットニー准将に面会、閣僚の追放延期は出来るか、追放の範囲はどこまでか質問したが、ゼネラルは指令の忠実な履行を期待している、とにべもない返事。法制局長官もG・アチソンを訪問、①総辞職、②更迭による一部改造、③首相以外の全閣僚の入替。長官は③を支持する、自由公正な総選挙を実施できるのは幣原以外にいないと説明。しかし幣原は年末に引いた風邪で肺炎を起こし、マッカーサー元帥に送られたペニシリンで解放に向かったが、離床できない。指令をうけた人たちに辞職を求めるのは、その人たちに罪があると見做すことになり、これは忍び難いと総辞職を選択した。だが、閣僚たちは反対した、総辞職は無用の混乱を政界に誘発させ、差し迫った総選挙、憲法改正に悪影響を及ぼす、と。首相は決心を変更し、内閣改造でパージの波を乗り切ることにした。

 パージ指令は総選挙のほかに憲法改正とも密接に関係していた。顧問アチソンは指令が発出された1月4日、長文の報告をトルーマン大統領に打電した。
 これまでの三か月半の占領は予想以上の成果を上げ、本日、官僚の非ナチ化指令により、日本の民主化の基礎的準備が完了した。成果の要素として、①天皇によるポツダム宣言受諾、②旧指導者に対する国民の不信と嫌悪、③保守層を含む国民の降伏条件履行の意思、④大新聞の日本民主化の熱意。おかげで、旧式の議会と幣原内閣に対する国民の支持が失われる一方、他方では総司令部の指示が歓迎される現象がみられる。「いまや、わが軍は史上最も人気のある占領軍になっている」と。だが、日本の改造はなお不十分である。特に最も重要な天皇制を中核とする憲法が、まだ手付かずのままである。天皇制こそが日本民主化の焦点であるが、米国の採るべき方針は、①理想策:我々が長期間にわたって大兵力の占領軍を維持し、日本国民に衣食住の手段を与え経済的に自立させ、不測の事態に対処する用意があれば、天皇を戦争犯罪人として裁き、天皇制の完全廃止を助成する積極的政策を採用できる。②現実策:右の用意が出来なければ、我々は出来ることを行い、日本人が自分で運命を切り開く枠組みを与えて引き揚げ、その後は結果がどうであれ、日本人だけに任せることにする。「私は前者が最良案だと考える。私は天皇は戦争犯罪人だと思うし、日本が真に民主化されるためには天皇制は消滅すべきだ、という私の意見に、変わりはない」 だが、米軍の急速な復員を含む各種の情況は、①案よりも②案の採用を余儀なくさせている、とアチソンは指摘する。
 日本国民の圧倒的多数は天皇制の保持を望んでおり、日本人は感傷的だが深く根を下ろした感情として、天皇との関係は父と子の間柄のようなものだと考えている。もし、われわれが引き続き天皇を利用することを決定するならば、天皇は逮捕されないという何らかの免責を与えられるべきであり、また、降伏条項の遂行のために天皇の在位が必要である旨を、通告すべきである。さらに、アチソンは「近い将来に日本は憲法の十分かつ自由化改正を行うことが重要だ。日本側は、憲法第一ー四条に触れない改正を計画しているようだが、この部分こそが日本の国家哲学の基礎であり、われわれが戦った神国日本の礎石であり支柱である」日本の民主化を法的に固定するには、憲法の改正が不可欠である。
 総司令部は、パージの次は、天皇制の改革を含む憲法の民主化に取り組む、と児島襄は跡づける。
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