資本主義は江戸で生れた

2010年06月09日 | 歴史を尋ねる

 本タイトルは2002年に日経ビジネス人文庫から発行された本の名前である。著者は現在東京都水道局職員部労務課長である鈴木浩三氏で、1995年に刊行された「江戸の経済システム」を加筆修正したものである。「江戸時代から現代まで、日本人は過酷な市場原理に支配された社会で生きてきた。江戸時代には、通貨の変動相場、為替取引、信用取引や投機、市場金利など、基本的には現代と変わらない市場取引の機能が高度かつ全国的に繰り広げられていた。まだアメリカが植民地であった時代から、我が国には固有の先進的な市場経済システムが存在していた。日本人のDNAには過去400年以上にわたる市場経済システムの経験が、しっかり組み込まれている」 多少センセーショナルな書き方であるが、江戸時代の個々の事象を見ていくと、頷かされることが多々ある。

 カネは天下の回りものー貨幣経済の勃興。判りやすい、確かにこの言葉は落語にも良く出てくる江戸時代の江戸っ子のせりふだ。庶民まで行き渡っているお金の様子が目に浮かぶ。幕府、諸大名を問わず武家階級の主な収入は領地からの年貢米、これを換金・銀して得た貨幣で領国と江戸の経費、家臣への給料のすべてをまかなった。これが米本位経済とも言われ幕藩体制の基盤だった。大名や旗本の現金収入は大阪の米市場で換銀されたほか、旗本の役職手当と御家人層の給与は、浅草米蔵で現米で受け取ったものが、蔵前の札差の手を経て現金化された。一方、家康江戸入府から70年、江戸は天下普請に伴う大需要が発生し、商工業が大きく発達した。さらに参勤交代や大名の江戸在府制度など、たえず有効需要を発生させた。これらの取引に伴う貨幣需要も旺盛であった。天下の台所といわれた大阪や長崎などの幕府直轄都市、各大名の城下町も事情は同様、さらには農村部にも浸透していった。武士階級の収入は米であったが、消費生活は貨幣で支払う構造が出来上がった。

 もうひとつ特徴的なのは、江戸時代のはじめから金・銀・銭の三貨制による貨幣経済が成り立っていた。同じ財貨でも場所によって金建ての取引もあれば、銀建てになることもあった。その上金遣い経済圏の江戸でも、財貨の種類によって支払い手段の貨幣の種類が異なる場合もあったし、階層によっても異なる貨幣を使った。つまり、一物多価現象が成立していたのが江戸の経済構造の特徴であった。そして幕府は頻繁に金・銀・銭の交換比率を一定に保つよう公定するが、すぐに時々の相場で変動するのが常であった。

 江戸時代の政治・経済史の中で享保・寛政・天保の三大改革が有名で、無条件で肯定的な評価をする場合が多い。この改革の共通点は農村の活力を高めて年貢を増加させる農政重視と貨幣経済発達の原動力だった商品流通や経済活動に対する引き締めであった。したがって、三大改革の経済政策は幕藩体制維持のためであり、米以外の商品作物の生産や都市の商工業の発達を通じて成長を続ける貨幣経済に対する保守派の巻き返しともいえる。


徳川政権の終焉

2010年06月07日 | 歴史を尋ねる

 江戸の支配制度の根幹は、主従制と領主制だと云う。家臣は主君へ忠誠を捧げ、主君は家臣へ知行(土地支配権)、或いは俸禄を授ける関係で、知行を受けた武士は、知行地の領民に対し領主として君臨し、年貢の徴収や紛争の解決にあたった。このような主従制と領主制の結合した支配制度を持つ社会を、封建社会と呼んでいる。封建社会では、主従関係にある武士同士が結合してピラミッド状の支配組織を作りあげた。この結合関係は一方できわめて危うい性格を持つ。忠誠心は本来、特定の個人と個人の間で成立するもので、豊臣秀吉恩顧の大名達の忠誠心を実子の秀頼が相続できなかったように、忠誠関係の相続は、親子間での相続の場合ですら困難を伴った。秀吉や家康のようなカリスマ的指導者が作り上げた支配組織は、主君の死で忠誠の対象を失い、支配組織そのものが存亡の危機に直面する。

 徳川家綱が数え11歳で七代将軍になったときも幕府は大きな危機に直面する。だが、すでに家光のときに官僚機構の整備が進み、幕府の支配機構は「家」で構成される組織へと転換していた。「家」による組織では、忠誠の対象が将軍個人から徳川「家」へと変わることで代替わりの危機を克服できるようになっていた。支配組織における地位や知行が「家」として相続され、主君の「家」に対して忠誠を尽すべきであるという考えが浸透した。そしてまた、支配組織ばかりでなく、職業や社会的地位が個人ではなく「家」によって相続され、秩序づけられている社会を、身分制社会と呼ぶ。

 さて、田沼意次の台頭、それに変わって松平定信の登場、さらに定信の突然の失脚、安永・天明・寛政の中央政治は目まぐるしく変動する。その事情について明らかにする典籍はほとんど残されていない。しかし田沼意次と松平定信の歴史的事実を基礎に、その後に起こった諸般の現象を総合して、田沼意次の復権に尽力した後藤一朗氏は以下のように推測する。

 家康の時代に作られた尾張・紀伊・水戸の三家も、吉宗が作った田安家・一橋家・清水家の三卿とも、ともに将軍の血筋を守るためである。三家のほうは万石の領土と一万前後の家臣、一国一城の大名であった。ところが三卿の方は江戸城内の田安門・一橋門・清水門のかたわらに住まいし、10万俵の扶持米が支給されるだけで家臣はなく、家計は幕府の職員が来てまかなうという自主性の薄いものであった。宗家の血筋に異変があった時は、三家よりも優先して世嗣候補を出せることにはなっているが、そのことがないかぎり、永久に日陰者で終わる家柄であった。従って将軍の座を狙ったのは単なる名誉欲ではなく、生きがいであった。その中でも一橋家の当主治済(はるさだ)は策謀家で、田安家の定信を養子に出させて、吉宗が寵愛した9代家重・10代家治の後を受けて一橋家の家斉を11代将軍に送り込むことに成功した。さらに一橋治済は養子縁組によって、徳川・田安・清水・松平などの姓を名乗らせながら、みな乗っ取っている。徳川幕府は15代続いたといわれているが、実は10代で断絶し、あとの天下は側流の一橋家に奪われ、一橋幕府に替ったと後藤氏は云う。

 江戸の支配体制の根幹である主従制・領主制は徳川家の跡継ぎ問題が陰をさして揺らぎ、経済社会の進展に幕藩体制も対応が充分できず、トップの顔の見えない徳川幕府の官僚体制だけでは時代の変化に対応しきれなくなったのが幕末ではなかったか。

追記:11代将軍家斉は、田沼意次の改革を潰すことにより、幕府財政立て直しの最後のチャンスを崩壊させた、老中ばかりでなく、側用人までも名門出としたことにより、有能な行政官を幕府首脳に登用することが出来なくなった、引退後も12代家慶(いえよし)を飾り物の将軍として大御所政治を行い側近の佞臣達に幕府政治の専横を許し、幕府財政を破綻させた。また、家斉死去のあとの家慶は老中の水野忠邦に天保の改革を開始させるが、改革に対する抵抗が強まると、たちまち忠邦を罷免してしまった。