「髪を金髪にして鼻を高くしても、日本人はヨーロッパやアメリカと同じ人種にはなれない。自分たちのルーツがどこにあるのか知るべきだ」 これは山東省青島で行われた国際フォーラムでの中国の外交部門の総帥、王毅氏の日本に向けた発言。日本もアジアの一員として西洋勢力に対抗できるよう、中国と力を合わせるべきだとの趣旨の発言だった。歴史とは不思議なもので、約100年前には、言葉は違うが、日本人が同様の趣旨の言葉を中国人に発し、共に西洋列強に対抗するために日支提携を実現しようと行動した人が沢山いた。王毅氏は長く駐日中国大使を務め、日本を知り尽くしている。これは中華思想に立った発言ではなく、現在日米蘭半導体サプライチェーン構築に向けての規制の動きを封じたいとの牽制が込められた発言と受け取れる。日本の実力を承知した上での、日本人に対するアピールだろう。王毅氏の苦しい屈折した発言である。言葉をそのまま受け取る必要はない。
後日、中国の公共放送は、中国の学生が海外の学生と討論する番組を企画、世界における中国の力を国民と世界にアピールするため、国内最高の名門・北京大学の学生が海外の名門大学の学生を論破しようとする内容だった。中国の学生が突然立ち上がり、「アジアは力を失っている。かって西洋諸国がアフリカ大陸を植民地化したように、アジアも西洋諸国の実質的な植民地へと堕落する可能性がある。日本・韓国・シンガポールなどのアジア諸国は中国に依存しながら急速に成長してきたが、彼らは恩を返すどころか、世界征服の野望を持つアメリカと手を握り、中国をないがしろにしている。アジア諸国は再び中国と力を合わせ、欧州連合のような新たな連合体を形成し、西洋勢力に対抗すべきだ」と。出席していた学生は事前にはアジア諸国の人権問題がテーマと聞かされていたので、どう発言すればいいか混乱したが、スタンフォード大学のアメリカ人学生キャシーが静かに立ち上がり「アジアが力を失っているという発言は半分間違っている。中国の半導体企業や不動産企業の多くが倒産の危機にあり、失業率も高い状況だが、それは中国だけの話だ。中国が力を失っているからアジアが力を失っているというのは間違いだ。私の父は日本人で、私自身も日本で10年以上生活し、現在も頻繁に日本を訪れているので、日本の現状を知っている。アジアの危機ではなく、中国が危機的状況なのだろう。」「多くの国が中国との積極的外交を避ける理由は、中国の行動を考えれば自然なことだ。中国は自らの望む結果を得るために、政府が貿易を武器にして振りかざしている。これは中国が他の国より上だという傲慢な態度による外交の結果で、更に中国は海外企業の著作権と特許を無断で使用し、中国のものだと主張している。長年このような外交をして来た中国に対し、諸外国が中国依存度を下げようとしているだけだ」と。これに対して中国人学生は立上り、「小国は大国と対等にはなれない。大国である中国がアジア諸国に与えた影響は計り知れないが、中国は寛大な姿勢で周辺国と共に成長するために援助を提供している。中国が危機的状況であることは確かだが、こういう時アジア諸国が力を合わせれば、世界の中心を再びアジアに戻すことが出来る」と。するとキャシーは、「貿易や外交は基本的には相互依存である。アジア諸国が経済的に中国に依存して成長したように、中国もアジア諸国に依存したからこそ成長した。大国中国は優れた中国人のお蔭ではなく、アジア諸国のお蔭だった。特に日本が1960年代に高度経済成長を経験し、大きな恩恵を受けた国はまさに中国だ。日本との主要な貿易パートナーとして位置づけられ今の中国が生まれた。それなのに中国は数多くの日本製品の輸入規制や尖閣諸島やビザ問題などの外交摩擦を引き起こし、恩を返していないではないか」と事実関係を淡々と述べ、最後に王毅氏の発言を取り上げ「髪を染めなくても、中国人になりたい人はいない」と。討論会は結局中国政府の思惑と裏腹に、中国人学生らが論破される形で強制終了された。 以上は4か月前の「日本の出来事」ユーチューブ版の文字起しだが、中国脅威論が蔓延する日本人の中で、これだけのことを淡々と言葉に出来る人はどれだけいるのか。中国に対する事実に即した正しい理解をするのは難しい、一つは中国政府が発するプロパガンダの見極め、もう一つは他国の報道機関にまで及ぶ報道規制、自国に報道の自由に対する厳しい要求をする日本のジャーナリストも中国には形無し、中国のプロパガンダを丁寧に報道する姿勢は、日本人をビビらせる。その影響を受けていないのがキャシーなのか。そうした矛盾を歴史的に指摘したのは、黄文雄著「近代中国は日本がつくった」。その取っ掛かりに、加藤徹氏の「日中二千年 漢字のつきあい」を選んだ。
1、中国革命の根拠地は日本だった
腐敗した清国を転覆し、三百年近くにわたる中国統治に終止符を打たせたのが1911年の辛亥革命、それを推進した革命思想は日本で醸成され、発展し、そして中国へ発信された。その担い手が、若き清国の留学生たちだった。日清戦争後、「日本に学べ」を合言葉に日本に渡って来た留学生は、もともと祖国の改革と富強を志す者が多かった。日本に来てみた富国強兵の現実、そこで接した近代的な新知識は、彼らの若い情熱を一層刺激した。アヘン戦争後の洋務運動も清仏・日清戦争の結果で運動の失敗が証明され、その後の戊戌維新も挫折した。この失敗で日本に亡命した康有為、梁啓超のグループによる啓蒙活動が、留学生に影響を及ぼした。梁啓超のが1902年に東京で創刊した『新民叢報』は多くの留学生を立憲思想に目覚めさせ、「中国には家族の倫理はあっても社会倫理はない」という指摘は中国の倫理の本質を暴くものであった。胡適も梁啓超の文章を読んで血を沸かせない者はなかったと回想したし、郭沫若も毛沢東も『新民叢報』の熱心な愛読者だった。
また、日本人の強烈な民族意識の影響を受け、漢民族思想に目覚めて反清(反満州族)革命まで傾くものも多かった。華興会や光復会といった革命秘密結社の主力が日本に拠点を移すと、留学生に間で「革命を言わなければ時代遅れだ」とされるまでになった。また日露戦争に於ける日本の勇戦ぶりに励まされ、留学生たちの愛国主義、民主主義、その延長線上にある革命思想は尖鋭化するばかりだった。北一輝などは辛亥革命後、日本人の支那革命に対する貢献は、物的援助などより「日本の興隆と思想が与えた国家民族主義に存する」と言っている。中国人の民族意識の高まりは、アジア防衛の観点から日本人が期待したものであった。しかしそれがやがて反日・排日・悔日運動につながっていくのだから、日本にとって皮肉な話である、と黄文雄氏。
中国では昔から好い鉄は釘にせず、好男子は兵にならないといわれ、軍隊はたいてい匪賊のゴロツキ集団と決まっており、良家の子弟が入るようなものでなかった。そうした見方の根底には、「文」を重視するあまり「武」を軽視、軽蔑するこの国の伝統文化がある。かって武士が官僚であり知識人だった日本では、「文武両道」は最も理想的とされたが、中国は違った。今日中国人が思い描く戦前の日本軍がつねにゴロツキ集団であるのも、こうした伝統思想によるものだ、と。従って、日本軍が、虐殺、略奪は当たり前、という見方である。尚武の精神があるかないかが日中国賊の違いだと見た梁啓超は「尚武精神は立国第一の基礎である。今日、軍国民主義を取らない国は天地の間に立つことは出来ない」として、日本に学べと訴えている。中国人は生まれ変わった。辛亥革命の時、上海の前線で元留学生が率いる決死隊が、空銃を持って弾薬を奪いに敵陣に躍り込むという光景を目撃した北一輝は、「日本教育が排満興漢の原点であることは革命軍幹部を見れば分かる。彼らは日本思想を持っているから顔まで日本人そのものだ」と言っていた、日清戦争以来、支那人は臆病というのが固定観念だったからだ。現代の中国が批判してやまない戦前日本の軍国主義思想が、実は中国の近代国家建設を推進したとは、何とも皮肉な話だと、黄文雄氏。
2、日本なくして孫文も辛亥革命もあり得ず
孫文は今日でも中国共産党からは「中国革命の父」、中国国民党(台湾)からは「国父」と称えられ、華僑を含む全世界の中国人から尊敬されているが、彼と日本との関係は極めて深く、その革命家生活四十年のうち、およそ三分の一は日本を活動拠点としていた。15歳でハワイに渡り、その後マカオで秘密結社「興中会」(幇会=チャイナ・マフィア)に加入、幇会は伝統的に「反清復明」「滅満興漢」という漢民族主義の結社で、その影響で孫文は革命へと傾いていく。そして無学の無頼漢集団の中で、知識人の彼は指導者となった。実際の生涯は、孤独な革命浪人で、十回蜂起して十回失敗し、三度政府を作って三度失敗した。辛亥革命も彼は一切関与していなかった。ただ他に有名人がいないとの理由だけで、三か月ほど中華民国臨時大総統に就任していたに過ぎない。1995年10月、日清戦争後の混乱に乗じ、孫文率いる興中会が広州で武装蜂起を計画、とはいっても、兵力は幇会と俄かに募られた市井の無頼漢の数百人という無茶なもので、たちまち発覚して弾圧された。そこで孫文は日本に逃れ、そこから米国、欧州へと革命宣伝の旅に出て、帰国途中、日本に立ち寄ると、日本には中国革命への同情者が多かった。そして民間志士から庇護と援助を受けることが出来たため、彼は日本という革命拠点を得た。彼は日本人同士を心から信頼した。再び広東での蜂起を計画して以来、辛亥革命、第二、第三革命に至るまで、資金も参謀も持たない彼は、それらを主に日本人に依存した。
孫文が日本をモデルにして来た自分の眼に狂いはないと確信したのは、日露戦争での日本の勝利を目の当たりにした時だった。滞在先の欧州から直ちに日本に戻った。ここで彼はアジアの勃興を期待し、そのリーダーとして日中が提携することを夢みた。孫文の革命思想は、腐敗した清朝を打倒し、西洋侵略勢力の中国からの駆逐を目指すものであった。そのためにも日中が連合すべきことを常に強調していた。中国革命同盟会の綱領にも、特に「中日の国民連合を主張する」の一条が掲げられている。孫文が日本を同文同種の兄弟国と信じ、日本人をアジアの先進民族と尊敬し、彼を支援する日本人志士の友情に感謝していた。
そのような孫文の親日感情を現代の中国人は事実と認めない。孫文の側近も務めた汪兆銘は、支那事変の時に日本と和平を結んだかどで、「民族の裏切者」「漢奸」として千古の罪人になっている。ところが、孫文は汪兆銘以上に「親日」で、日本政府の「二十一か条要求」を呑んだ袁世凱は中国では国賊扱いにされたが、同時期に孫文は、それと近い内容の「日中盟約」案なるものを、自ら進んで日本の外務省に提示し、日中提携を求めている。日本と組んで満州皇帝になった溥儀は「偽皇帝」として戦犯となったが、孫文は日本人に、満州の日本への譲渡を約束したこともある。もちろん、こうした事実を中国人はあまり語らないし、黙殺する。
3,なぜ中国人以上に革命を支援したか
宮崎㴞天は中国革命に最も貢献した日本人として、今日でも共産党からも国民党からも、中国人には高く評価されている人物だ。平山周は、東洋平和の確立には日支の提携が必要、そのためには清朝を覆滅しようと誓い合った宮崎の早くからの志士で、1931年、蒋介石の国民政府から陸海空軍総司令部顧問に招聘されている。二人は孫文に日本滞在を勧め、支援者として犬養毅を紹介した。当時小村寿太郎外務次官は、日清戦争直後の日清関係修復に不利だから孫文の滞留に反対したが、犬養は大隈重信外相に孫文の庇護を訴え、認めさせた。孫文は東京、横浜で居を構え、玄洋社の平岡幸太郎が生活費の援助をしている。また犬養の紹介で、玄洋社の頭山満という強力な支援者を得ている。
1898年秋、孫文は革命支援を願い出たのが内田良平だった。浪人界の巨頭とされた内田は、叔父平岡浩太郎の感化を受け、21歳で朝鮮での東学党の乱が起こるや直ちに呼応し、天祐俠というグループを組織して朝鮮各地を転戦、その目的は日清戦争を誘発し、清国の勢力を朝鮮から駆逐することにあった。日清戦争後、三国干渉で遼東半島をロシアに取られると、単身シベリアを横断してロシアの国情をつぶさに調査し、対露戦争の勝利を確信して、開戦を唱えた。内田は「支那の革命は必要だが、まずは日露戦争を待つべきだ。そうでなければロシアが革命の混乱に乗じて支那の領土を侵略する恐れがある」と諫めた。だが孫文は「黄河以北をロシアに取られても大したことはない。日支が提携すればシベリアまでも取り返すことが出来る」「革命の目的は満人王朝打倒であり、実現したら満州は日本に譲り渡す」と。これは内田の対露防衛構想と全く合致するものだった。内田の心は動いた。内田は孫文の申出に協力を約束、以降内田は孫文の最も戦闘的な同志として、日本人志士を指導しながら中国革命を支援していく。
1905年、中国革命同盟会が東京で発足したが、この在日革命派グループの大同団結にも日本人志士たちが深く関わった。この年孫文と黄興を引き合わせ、団結を促したのが宮崎滔天と末永節だった。末永は内田良平と沿海州でロシア帝国の転覆工作に従事していた志士で、内田と共に孫文を支援していた。
4、辛亥革命を推進した日本人志士たち
1911年10月10日、長江中流の武昌に駐屯していた清朝の最精鋭部隊、新軍(新建陸軍)の革命運動を支持する将校の反乱に始まる辛亥革命は、大勢の日本人志士が欣喜雀躍して参加している。日本人で革命一番乗りは大連から駆け付けた末永節で、その直後に現地入りした黄興と共に戦闘に加わり、また革命軍のため外交問題の処理に当っている。黄興は萱野長知に打電、日本人志士の来援を要請、日本人志士が漢陽の前線に加わった。陸軍中佐大原武慶も武昌蜂起時、革命軍の黒幕になって滞在しており、挙兵が起こると幕僚となって作戦の立案に参加。湖北陸軍の顧問として現地にいた寺西秀武中佐も革命軍を指揮した。このように革命戦最初の戦闘では、大勢の日本人が主導的役割を果たし、ドイツ軍艦が清政府軍を支援したことから、漢口の外国人は「これでは日独戦争だ」などと評した。
内田良平の黒龍会の壮士、豪傑たちも、辛亥革命で大活躍した。内田は黒龍会から先ず北一輝を上海に送った。更に黒龍会から壮士が送り込まれ、東京に残った内田は、日本政府の革命への干渉を排除することだった。日本における反中国革命の先鋒は元老山縣有朋で、軍の出兵も計画していた。革命による共和革命の思想が日本に流入することを懸念、当時の西園寺内閣も静観を装っていたが、革命は歓迎していなかった。そこで内田は革命支援(妨害中止)の説得工作を開始した。内田は政府、軍部に遊説活動を行っている。要路に示した主張は「支那改造論」によって明らか。①日本は列国を指導して支那の共和政治建設に協力させ、支那分裂を回避する。②清の皇帝に、世論を鑑みて政権を支那に返還させ、共和政治建設に同意させる。③日本は清の皇帝と革命党との間の調停者となり、すみやかに戦闘を停止させる。清の皇帝は奉天に退き、永遠の尊厳を伴う待遇を受けさせる。
内田の構想は滅満興漢の革命を認めながらも、満州の地において清朝の潜在的な主権を認めて日本の保護下に置き、そこに日満蒙鮮支の五族協和圏を打ち立てようとするものだった。黒龍会が革命を支援して中国の新生を願ったのは、列強に対抗するために日支提携を実現するという東亜戦略があった。なお「支那改造論」は日本では多くの識者の支持を得た。そして上海で翻訳され、全中国の革命党員に配布され、内田良平の名は瞬く間に広まったものの、後年日中関係が悪化してからは、満蒙侵略の急先鋒として憎まれることになる。
このほか、武器弾薬の不足に悩む革命軍は特使を内田の下に送った。内田は革命支援を決めていた三井と借款交渉を行い、内田対三井の名義で三十万円の借款を成立させ、これで陸軍払下げの大砲、小銃、弾薬を購入した。こうした経緯から、中華民国臨時政府が樹立された直後、内田は新政府の「外交顧問」を委嘱された。
漢陽が陥落する二日前、萱野長知は二通の電報を打った。一通は「早く帰って事態の収拾を。黄興、黎元洪だけではだめだ」と、米国滞在中の孫文に帰国を求めたもの。もう一通は「革命が成功しても人物がいないので、誰か来てほしい」とする、日本の頭山満、犬養毅に宛てた来援要請だった。孫文は自分の出る幕がなかったので、面子が立てられるよう、米国から欧州へと資金集めの旅をつづけた。これに対し、頭山、犬養らは上海に渡り、革命支援本部を設けた。「玄洋社の頭山満」といえば、政財界に対して隠然たる影響力を持ち、伊藤博文でさえ怖がったいたほどの人物、戦後玄洋社は右翼的国家主義的な団体などと簡単に片づけられているが、明治から昭和にかけ、国会開設要求運動、不平等条約反対運動、対清・対露戦争の推進といった歴史に名を残す活動を展開、また大アジア主義によるアジア各国の独立支援といった興亜運動でも知られる。頭山は後々まで、アジア各国の独立運動指導者から尊敬を受け、「アジアの巨人」とも呼ばれた。中国革命に対しては「日本と支那は夫婦同然」との信念の下、日支提携を核としたアジア建設という構想から支援を惜しまなかった。その彼が上海に入ったというだけで、日本政府の反革命的動きに対する大きな牽制になった。
当時大元帥になっていた黄興は、このアジアの巨人の来訪を心から喜び、日本政府の動向について三時間に及ぶ協議を行った。その後帰国した孫文も、頭山、犬養の手を取って、感激のあまり泣き出したという。
革命政府=中華民国臨時政府の樹立後、頭山と犬養は中国を代表する政治家で、当時北の袁世凱、南の岑春煊とも称された前四川総督岑春煊(しんしゅんけん)と面会し、孫文との提携を求めている。それは孫文、黄興、宋教仁らだけで新政権を担うのはあまりにもにも無理があるとの判断からだった。岑春煊は承諾したものの、孫文の方が清の元大官との協力を拒絶したため実現しなかった。この大局をわきまえない孫文の姿勢に、頭山と犬養は大きく失望したという。なお岑春煊は「犬養は見識が高邁で、言論は一つ一つ要点を押さえた真の政治家である。頭山は気象雄大で、これを豪傑の士というのだろう」と、大いに二人を称賛していた。
1912年元旦、南京における中華民国臨時政府樹立の前後から、資金が欠乏していた革命派側には、革命の大敵である北京の袁世凱と和解、合流し、新政権を延命させようとの空気が蔓延していた。そのような妥協的な雰囲気の中、日本人志士たちは相変わらず、ある意味では中国人以上に革命戦争に熱中していた。この頃、袁世凱軍の増派を警戒する黄興は、その阻止を日本人同志に要請した。そこで金子克己、岩田愛之助ら七人は、いっそ袁世凱を暗殺してしまおうと考え、清国政府のお膝元である天津へ嬉々として向かった。岩田愛之助はその後右翼の大物となる人物で、彼の作った愛国社から浜口雄幸首相を狙撃した佐郷谷留雄を出している。この当時岩田は漢陽の戦闘で負傷し入院中だったが、この決死行を耳にするや、爆弾を携えて駆け付けた。七人が天津に到着すると、彼らの計画はすでに敵側の知るところとなり、袁世凱は手荒なことを中止させよと日本公使に泣きついている。
5、打ち破られた「中国覚醒」の幻想
南京の革命政府と袁世凱の北京政府とが合体し、袁世凱に臨時大総統の座を譲り渡すという妥協が伝わると、頭山満、犬養毅、内田良平らは一様に反対し、北伐を主張した。内田ら大アジア主義者が孫文の革命を支援したのは、列強の侵略になす術を持たない腐敗堕落した清国政府を打倒し、新政権を打ち立て、日本と共にアジアの富強を図ろうという孫文の主張に共鳴したからだった。しかし彼らの目には、袁世凱はそのような理念をとても解せる人物に映らなかった。しかも袁世凱は、日本は満州を奪おうとしているとして、革命派の反日ナショナリズムをたきつけるなど、日本人から離反させようともしていた。当時、内田は宋教仁と桂太郎との会見をセッテイング、山縣有朋を通じて日本政府を動かし、袁世凱に圧力をかけて革命派を間接的に支援する手筈だった。しかし宋教仁は渡日に延期を重ねるうち袁世凱側によって暗殺された。これで内田の計画は沙汰やみになった。
こうして政権は北京へと奪い去られ、内田は激怒した。「敵と内通するとは、支那古来の易姓革命と何ら変わらない。アジア開放という崇高な人道的使命を分担させられるかのような期待を抱きつづけたことは誤りだった」として、長年の革命支援を打ち切ることにし、多くの日本人志士たちもこれにならった。しかし、反袁世凱の武装蜂起となった第二革命(1913年)の戦いが起こるや、ふたたび大勢の日本人が孫文を支援するため中国に渡って活躍した。再び敗れて日本へ落ち延びた孫文や黄興の生活や活動に対しても多大な援助を行っている。
6、「同種同文」幻想に陶酔する日本人の危うさ : 黄文雄氏の分析
日本人志士たちは、孫文の満州譲渡の公約を信じ、あるいは新中国樹立による日中提携とアジア防衛に期待を寄せ、中国の革命支援に心血を注いだが、そのような国家戦略的な動機だけでは、彼らの行動は説明しきれない。なぜなら彼らは、あたかも我がことのように活動に従事し、挺身していたからだ、と黄氏。日本人志士たちが中国の亡国的惨状に心から同情していたのは事実である。頭山満にしても内田良平にしても、彼らの中国人への同情心や連帯感の根底には、同じアジア人としての、特に「同文同種」の親近感があった。そこで燃え上がったのが、苦境に陥った兄弟を助けるという義侠心だった。それに加え、士族出身である彼らの「義を見て為さざるは勇なきなり」「弱きを助け強きを挫く」「身を鴻毛の軽きに致す」といった武士道精神が大きく作用していた、と分析する。そして言う。黄氏の見たところ日本人は同文同種という言葉の響きに陶酔しがちな気がする、と。戦前だけに限らず、戦後の日本人にしてもそれは言える。そのような言葉に酔って、中国という国に対し無批判にロマンを感じたり、憧れたりする傾向がみられる。だが果たして、日中は本当に同文同種と言えるのだろうか、と。両国は同じアジアの国、漢字文化圏、儒教文化圏に属しているとよく言われる。しかしじっさいには、日中の文化や民族性には驚くほど隔たりがあり、同種と括るにはほど遠いものがある。つまり、幻想である、と黄文雄氏は言う。実際あの国へ行き、あの国の人々と深く交わるまではなかなか抜け出す事の出来ない、日本人の根の深い幻想なのだ、と。確かに、戦後の日中国交正常化以降、日本では異常な日中友好フィーバーが巻き起こったが、その後の経緯は皆が知るところで、最近の世論調査では中国に親しみを感じない人々が大多数である。これは同文同種の幻想から解き放たれたという。その通りだろう。しかしこの欄では、中国脅威論も払拭したいと考えている。もっともっと中国の実像を見ていきたいのだ。