ドイツへの傾斜

2017年01月23日 | 歴史を尋ねる
 司馬遼太郎の著書「この国のかたち」の中で、“ドイツへの傾斜”という項がある。日本近代史を専門とするアメリカ人が、どうしてそんなことになったのか、と質問があり、それに応えて司馬が経緯を述べている。
 
 江戸期、日本にとってオランダはヨーロッパ文明そのものだった。医学も化学もオランダ語によって知ったし、ペリー来航以来、幕府が長崎に設けた海軍教育機関もオランダ式であった。オランダ王国の政体も知られていて、土佐の小さな蘭学塾でさえ教材としてオランダ政体に関する本が使われ、若い坂本竜馬の開明思想にも影響を与えた。幕府は人文科学系の留学生をオランダに派遣した。留学生の西周はライデン大学で法学と哲学を学び、明治初年の文明受容のための日本語(対訳語)を沢山作った。
 が、維新の翌年という早い時期に、日本政府はオランダ医学を捨てた。政府の要路に物狂いしたように説いて回ったのは、相良知安(佐賀藩)と岩佐純(越前福井藩)という二人の蘭学者だった。彼らは現在の東京大学医学部の建設にあたっていたが、オランダ医学書の多くがドイツ医学書からの翻訳であることを知り、だからドイツ医学に転換すべきと主張した。それほどドイツ贔屓の二人でさえ、ドイツ語を知らず、また生のドイツ人を知らなかった。ふーむ、建国の混沌の中で、本物を見極め、変化を恐れない気持ちの高ぶりが垣間見える。ヨーロッパ文明を恐れていない。当時のサムライの心意気が伝わるエピソードだ。
 司馬は続ける。幕末に於ける日独関係は希薄で、わずかに万延元年(1860)プロイセン王国の小さい艦隊が江戸湾に入ってきたこと、条約が結ばれたこと、代理公使がやって来たぐらいのかかわりしかなかった。しかし、明治政府は二人の献策を入れ、すぐにプロイセンから二人の医学教授を呼んだ。東京着任、明治4年8月、日本が片思いのままドイツを選択した記念すべき年になった、と司馬氏。

 「幕府陸軍はフランス式であったが、明治政府はなぜドイツ式を選んだか」 単純に言えば、明治4年、在欧中の日本の武官は、プロイセン軍がフランス軍を破った、目の前で鼎の軽重を見てしまった。彼らはドイツ参謀部の作戦能力の卓越性と、部隊の運動の的確さを見、仏独の対比をした。その上プロイセンはこの勝利を基礎にして、連邦を解消しドイツ帝国をつくった。数年前明治維新を起こした日本人にとって強い感情移入をもった、と。
 憲法についてもそうだった、という。憲法をつくろうという機運は明治十年代からあり、様々な検討が行われたが、結局はドイツの後進性への親近感が勝った、と司馬氏は表現する。フランス憲法は過激すぎる、英国はわずかに大隈重信が推したぐらいだった。明治22年の憲法発布の時には、陸軍はまったくドイツ式になってしまっていた。ドイツ式の作戦思想が、のちの日露戦争の陸戦に有効だったということで、いよいよドイツへの傾斜が進んだ。法学や哲学、音楽も同様だった。やがて昭和期に入って、陸軍の高級軍人の物の考え方が、明治の軍人に比べ、はるかにドイツ色が濃くなった。あたかもドイツ人になったかのような自己(自国)中心で、独楽のように論理だけが旋回し、まわりに目を向けるということをしなかった。陸軍の正規将校の第一次培養機関は陸軍幼年学校だったが、ここでは、明治以降昭和のある時期までは英語は教えられず、ドイツ語が中心(他にフランス語、ロシア語)だった。陸軍が統帥権を根拠として日本国を壟断し始めるのは昭和十年前後だが、外征面でまずやったのは、外務省や海軍を押し切って、ヒトラー・ドイツと手を組むことだった、と司馬氏。更に「昭和軍事秘話」(同台クラブ講演集)から、当事者の話を紹介している。当時の日本陸軍のドイツへの異常な傾斜について、「当時、陸大を出てドイツに留学していない人は、有力部員、課員になっていない。だから日独伊三国同盟をつくったり、大事な時には、総長、次官、大臣、皆ドイツ留学組だった」 更に日本が敗れるまでの12年間の陸軍省と参謀本部のポストについた人の留学先を調べると、ドイツが一番多かった。

 これまでは司馬氏であるが、ここからは岡崎氏である。
 といっても地理的に隔絶している両国にとって、同盟に必然性も実益もなかった。そこで契機になったのは、日独のあいだにソ連という共産国家が出現したことであった。世界共産主義運動を指導するコミンテルンは、1935年(昭和10)の夏、モスクワの第七回大会で、日独などに対する反ファシズム人民戦線戦術を採択した。のちにナチス・ドイツ外相となるリッペントロップが、駐独武官大島浩少将に、国際共産主義の脅威に対抗するための日独提携の話を持ち出した。リッペントロップは当時ヒットラーの外交顧問として特別事務所を構えてドイツ外務省の頭越し外交をやっていたが、大島に接触したのも個人的な功名心が動機になっていた。大島はベルリン二度目の勤務で、ドイツ語に堪能(幼少期から、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた)で、のちに駐独大使となって三国同盟を推進した陸軍きっての親独派であった。この交渉は、参謀本部から大島武官へ、大使館をバイパスして行われ、日独両外務省は約半年のあいだまったく気づかなかった。しかし日本の政府部内で正式に取り上げられた時には、もう協定は不可避という大勢だった。4月にはソ連・外蒙相互援助条約も公表され、コミンテルンの決議もあり、ソ連共産主義の脅威は現実のものと感じられた。当時広田弘毅内閣で新たな外相となった有田八郎は、国民の孤立感を緩和するため、薄墨色程度の協定ならばよいという考えであり、他の閣僚からも特に異議はなかった。

 外務省内では、東郷茂徳は英米に対する悪影響を考えて頑強に抵抗し、この協定と並行して英国とも政治的協定を結ぶという条件を陸軍に呑ませて、やっと了承した。それはヒットラーの願望でもあった。その年、リッペントロップが駐英大使として赴任する時、ヒットラーはイギリスと防共協定へ参加させてくれと言ったという。その時点で、ドイツにとって、日本との同盟などなんの役にも立たない。イギリスとの同盟こそ欲しかった。日本にとっても、極東の実力者は英国であり、英国との関係が最も重要であって、ドイツとの同盟はなんの意味もない。子飼いのリッペントロップの独走は許したものの、ヒットラーには見えていたし、東郷にも見えていた。三国同盟が出来ても、ヒットラーはアメリカとの戦争を避けることを最大の課題としていた。
 東郷は反共であること自体は悪いことではなく、戦後のNATO条約も同じことではないか、と極東国際軍事裁判に不満を漏らしている。東郷の主張するように英国とも話し合いのつく協定ならば純粋な反コミンテルン協定で有り得たが、日独協定はその後の経緯で、次第に反西欧同盟となっていった、と岡崎氏。しかしコミンテルンの決議は反ファシズムだから、英国の協力は難しい、夢のまた夢だっただろう。
 

昭和軍閥の系譜

2017年01月22日 | 歴史を尋ねる
 何回か軍部の動きについて触れたが、それでも全体像がよくわからないが、岡崎氏の著書に軍部の俯瞰解説があるので、整理して置きたい。
 明治以来海軍は薩摩藩が独占し、陸軍は薩長連合であったが、薩閥の大山巌、川上操六が派閥に恬淡として適材適所主義であったのに乗じて、山形有朋を中心とする長州閥が陸軍を独占した。昭和軍閥の起源は、長州閥に対する反抗から始まる。その起源の一つが、永田鉄山、岡村寧次など在ヨーロッパの陸士第十六期の少壮将校たちの盟約は長州閥打倒を目標とした。山県有朋の死後、長州閥は田中義一が継承、これを支えたのが岡山県出身の宇垣一成で、陸軍主流の後継者になった。
 これに対して反長州閥派は、薩摩出身の上原勇作を中心として陸軍のトップ人事をめぐってしばしば争ったが、田中、宇垣に抑えられていた。その流れの一部が皇道派となった。その意味で革新派の昭和軍閥は概して反宇垣派であるが、時流に乗ってイデオロギー的に武装した。革新派の少壮将校たちは軍の内部に種々の私的グループを作った。昭和3年に石原莞爾などが参加して出来た一夕会、同年に海軍中尉藤井斉が組織した王師会、5年に橋本欣五郎などが作った桜会などであった。これらは、大川周明、北一輝などと接触を持ち、時としては同士として交わった。陸士卒の西田税は、はじめは大川、やがては北の傘下に入る軍内の革新派の拡大をはかった。昭和6年、犬養内閣の成立に際し、宇垣朝鮮総督は陸相人選の注意書きを送った。その時皇道派に担がれている荒木貞夫と真崎甚三郎だけはダメだと、はっきり名指しで書かなかったことを宇垣の不覚だったと後日悔やんだ。

 そこまで内部の事情を知らなかった犬養は、順当な人事であり、軍の若手にも評判の良いと聞いている荒木を陸相に指名した。陸相に就任するや荒木はたちまち宇垣派を閑職に追いやり、省内を皇道派で固めた。しかも当時、荒木の人事を非難する声は内外にまったくなく、荒木がその弁舌で説く革新思想は喝采を受けた。時代はすでに政党政治を去り、革新派の専権を求めていた。政友会が三百議席を占めながら、政党政治は犬養の死をもって終わったのも、この時流のゆえである、と岡崎氏。荒木はその訓話の中で、「最近問題となっている青年将校たちは維新の志士のようなものである。その位は低いが志操は高く、憂国の情は燃えている。それに対して上級の軍人は、藩の家老がお家大切と務めるだけで国全体のことを憂える志操に乏しいような憾みがある。まずこの点を反省して全軍の結束を固めねばならない」と。これでは下剋上を奨励して、命令順守の軍規をなくせと言っているようなもので、その結果、陸軍大臣室には、大尉中尉が臆面もなく出入りし、新年に私邸に訪れた青年将校が一杯機嫌で「どうだ荒木、一杯やらんか」を杯を差し出すのを、無礼を咎めず「ヨシヨシ」と受け、それを見た者が不愉快さに堪えかねて席を辞したほどであったという。こうした機嫌取りは、やがて青年将校たちが荒木に維新断行を迫るようになる。しかし武力による蹶起となると、今度は荒木は抑える方に回る。ここに至って青年将校たちの間では「荒木ではダメだ。口舌の徒に過ぎない」ということになり、過激な自主的行動に走るようになる、と。

 統制派は自ら名乗った名ではなく、皇道派が彼らが敵対する勢力に名づけたものであった。革新という目標については、皇道派と違わないが、それは一部将校のクーデターによらず軍全体の一糸乱れぬ力を背景として、陸軍大臣を通じて閣議で実行させるという考え方であり、永田鉄山、東条英機などがその中心であった。当初つくられた行動計画案は青年将校の異見を反映した暴力革命案であったが、永田、東条のコンビが官僚的統制力を発揮して、憲法体制のままで、国家革新を実施する方式に変えてしまった。また、国家革新はすべての政策にわたるので職業軍人だけでは作れない。そこで各省の革新官僚と結んで政策を作成した。これに参加したのは岸信介、和田博雄などであった。皇道派の青年将校たちは、クーデターまでは実行しても、そのあとの計画を持たなかったが、統制派は、政党政治を脱する革新中央集中体制の具体的な将来構想を持つに至った。これが、やがて東条英機の戦時内閣に実現につながった、と解説する。

 犬養暗殺後も荒木は皇道派の支持で留任するが、病気で辞職した。後任の林銑十郎は満州事変時の越境将軍として、皇道派に期待されたが、林は皇道派の派閥人事に批判的で、永田を軍務局長に任じ、皇道派一掃を決意し、昭和10年7月に真崎甚三郎教育総監の勇退を求めた。真崎は抵抗したがついに罷免され、後任の渡辺錠太郎は天皇機関説の排撃や国体明徴運動にも批判的で、就任の記者会見で、軍人は軍務に専念すれば足ると述べ、二・二六事件で真っ先に乱射乱撃を浴びて惨殺された。真崎罷免の直後から、林、永田を糾弾する扇動文書が各所に配送された。8月、西田税の文書を読んだ相沢三郎中佐は福山市から上京し、永田を軍務局長室で惨殺した。永田を惜しむ声は多い。人間的に東条より一回り大きいとされた永田が軍を指導していれば、その後の各局面で東条と違った結果となったと想像されているから、と。
 昭和11年2月26日、第一師団第一、第三連隊を中心とする将校と兵約1500名は、斉藤実内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を射殺、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、岡田啓介首相邸では誤認して義弟を射殺、牧野伸顕と西園寺公望に対して未遂に終わった。首相官邸、警視庁を占拠した反乱軍は蹶起の趣旨を明らかにし、種々の要求を出したが、その中には宇垣、西園寺公望の即時逮捕、荒木の関東軍司令官任命、陸相による昭和維新の実現があり、皇道派の流れをくむクーデターであることは明白であった。参謀本部作戦課長の石原莞爾は断乎たる処置を主張したが、陸軍省は反乱軍を穏便に帰隊させる方針を取った。反乱軍は、兵を原隊に返し、将校は陸相官邸に自首して縛についた。3月から開かれた陸軍軍法会議は、青年将校17名および北と西田の死刑を宣告したが、同調者であった真崎以下は無罪となった。

 二・二六事件の後、粛軍は後任広田内閣の課題であったが、それは軍の政治関与を糺す方向ではなく、軍内の皇道派に対する統制派の完全な勝利という形をとった。そして軍は粛軍の名を借りて軍部大臣現役制の復活だった。大正初め護憲運動でやっと現役制を廃し、原敬の時には原総理による文官の海相兼任まで達成した政党政治の営々たる努力は、簡単に無に帰した。このとき寺内陸相は「現役制を復活しないと辞職した将軍たちがいつまた復活してくるかわからないから安心して粛軍が出来ない」との訴えに、閣議はさしたる議論もなくその要求を認めた。その翌年、広田内閣の後任に宇垣が大命を拝した時、陸軍の反対で陸軍大臣が得られず、宇垣は組閣をあきらめた。数か月前の改正さえなければ、陸相は宇垣が兼任すればよかった。そして宇垣が総理であれば、その夏の盧溝橋事件がそのまま大戦につながる可能性は小さかった。昭和史にはいくつもの決定的な節目があるが、軍部大臣現役武官制を復活させた広田内閣の決定はその一つの重大な節目であった、と岡崎氏はいう。

トラウトマン駐華ドイツ大使による仲介

2017年01月15日 | 歴史を尋ねる
 ローズベルトの隔離演説から一気に対米との太平洋戦争まで及んだが、もう一度支那事変当初に戻って、当時を振り返りたい。昭和12年7月7日から2カ月後、中国は事件を国際連盟に提訴し、連盟はこれを九か国条約会議に移した。日本政府はこれに参加しなかったが、広田外相は関係閣僚の了承を得て、英米仏独伊の大使を個別に引見して、九か国条約会議不参加の理由を説明し、日本を被告の地位に置くような干渉を排除するが、第三国の好意的な斡旋は受諾する意向を伝えた。仲介の申し出はまず英国からあったが、英国の対中援助などを巡って日本国内に反英感情が強かったこともあり、陸軍が反対した。陸軍はもともとドイツに仲介の役割を与えたい意向であり、裏から武官を通じてドイツの乗り出しを要請し、結局、トラウトマン中華大使による斡旋を受諾することになり、諸事は駐日ディルクセン大使を通じて連絡することになった。
 11月2日にディルクセンに提示した案は、満州については触れず、北支の行政権を和平成立後南京に委ねる、という基本的な考え方では従来の案を変わらず、内蒙古に自治政府樹立、上海の非武装地帯拡大等の若干の条件が付加された程度だった。これをトラウトマンが蒋介石に伝えたところ、白崇禧は「これだけの条件だとすると、何のために戦争しているのか」といい、他の列席者もこれに同意したと岡崎久彦著「重光・東郷とその時代」で解説する。蒋介石も、これを談判の基礎とすることに同意しつつ、「戦争がこのように激しい最中に調停が成功するはずはないから、ドイツが日本に停戦を慫慂するよう」希望した。ふむ、さすがに蒋介石は深い判断力をお持ちだ。

 参謀本部では、中国側のメンツを立てて講和交渉を導くために、停戦ではないが、南京の前で一方的に兵を止めて交渉に入る「按兵不動:兵を按(おさ)えて動かざる」の策が提案された。しかし、提案者である戦争指導課の堀場一雄は、「作戦当局と激烈なる論争に入りしも、作戦当局はこの方策に対する熱意に乏しく、戦勢を主張するのみで、奔馬を停止するの術を弁えず」出先の軍は一番乗りを競って南京を攻略してしまった。ふーむ、岡崎氏が解説する当時の軍部の議論の場の実体は、組織を経験した人間からすれば、不思議な光景に映る。当然それぞれの課は、それぞれの立場で主張するのは当然だろう。従って、部長とか本部長とか、その上位者が大局判断をするのが本来だ。しかしこうした議論の場に上位者の顔が見えてこないのが不思議だ。或いは、上位者の顔が見えるように下位者も議論を進める必要がある。堀場氏のその後の解説が空しいのも、その為だ。
 尚堀場は、南京占領の結果、上海苦戦の反動、訓練不十分なる応召兵に介在等により一部不軍紀の状態を現出し、支那敗残兵および不良民の乱暴も加わり、南京攻略の結果は十年の恨みを買い、日本軍の威信を傷つけたと記しているそうだ。先に触れた石射猪太郎も、各領事館からの現地報告に接して日記に記していた。「上海からの来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが紅軍か。日本国民民心の退廃であろう」として、もっとも目立った暴虐の首魁は一人の元弁護士の某応召中尉であり、部下を使って宿営所に女を拉致し来たっては暴行を加え、悪鬼の如く振舞った、と書いてあるそうだ。この事件は海外に大々的に報道され、日本の評価を落とし、中国人の抗戦意欲をますます固めた。

 12月13日の南京占領に先立って、12月7日はディルクセン大使から、中国側は日本側の条件を基礎として交渉の用意があるので、それで話を進めてよいか確認を求めて来た。外、陸、海三相会議は、前の条件に小さな修正を加えただけで、再確認した。ところが翌朝、陸相の杉山元が広田のところに来て「ドイツの仲介を断ることにしたい、総理も同意した」という。部下の突き上げのままに、一度した約束を翻した。「あきれ果てたる大臣どもである」(石射の日記) 石射が経緯を調べてみると、陸軍は割れていたが、外務省、海軍省が協力して陸軍の説得に当たり、ようやく政府大本営連絡会議で和平条件案を確定することとした。この会議の模様を、石射は次のように回想している。

 原案を忠実に支持したのは米内海相と古賀峯一軍令部次長のみ。次々に条件が加重された。華北の行政権を南京に返す原案は、華北を特殊地域化する要求に変り、塘沽等の諸協定の解消も撤回され、戦費の賠償も付け加えられた。ただの修正ではない。対中国の国家戦略の百八十度転回であった。しかし近衛も広田も会議のあいだ一言も発しないで成り行きに任せた。石射は溜まりまねて、一官僚として自らの意見を述べる資格のない立場を忘れて、「このような条件が加重されるのでは中国側はとうてい和平に応じない」と発言したが、まったく無視された、と。
 12月22日に広田から修正案を受け取ったディル大使は、これではまとまる見込みがないと嘆息しつつ、中国側への伝達を約した。会議が終わって日暮れて、首相官邸を出た傷心の石射の目に映ったものは、折から南京陥落を祝賀する大提灯行列だった、と。

回り道 ジョセフ・グルーの日記「門戸開放・機会均等の原則」

2017年01月10日 | 歴史を尋ねる
 昭和14年(1939)5月、グルーは五か月の休暇を貰いアメリカに帰国した。その間日本の朝野を揺るがす大事件が、立て続けに三つ勃発した。ノモンハン事件と独ソ不可侵条約と第二次大戦勃発であった。ノモンハン事件は、満蒙国境沿いのノモンハンで、日満連合軍とソ蒙連合軍が国境侵犯をめぐって激突した事件であった。戦闘の評価について日本軍の惨敗であったかのように語り継がれてきたが、ソ連崩壊後の情報公開で、ソ連側の人的被害も大変大きかったが、その数値はソ連邦の秘密主義により伏せられていた。これにより、陸軍の対ソ北信論の矛先が鈍った。また、独ソ不可侵条約は日本にとって驚天動地だった。対ソ防共という旗印のもとに日本と提携をはかろうとしたドイツが、不倶戴天のソ連と組んでしまった。日本外交は方向を見失い、首相の平沼騏一郎は欧州の情勢は複雑怪奇という言を残して総辞職した。そしてその直後の9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告、第二次大戦が始まった。このとき日本は独伊との三国提携から離脱することが出来たが、日英同盟廃棄以来、国際的孤立に悩んでいた日本はしばらく静観することにした。
 久しぶりに祖国アメリカの空気を吸ったグルーにとって意外だったのは、第二次大戦が始まった時のアメリカの世論が意外に冷めていたことだった。1917年にドイツに宣戦布告した時とは様子が違った。アメリカはあくまでも傍観者として局外中立を保ち、戦争に巻き込まれまいとする反戦論が圧倒的に強かった。アメリカは孤立主義に回帰していて、ドイツに対する憤激など見られなかった。

 祖国での休暇を終えて10月東京に帰って来たグルーは日米協会で演説し、支那における門戸開放・機会均等の原則論を再三にわたって日本国民に訴えた。日本は世界市場で門戸開放の恩恵に浴し、利益を得ているのに、なぜ支那の市場を閉鎖しようとするのか、支那でのアメリカの経済活動と人絹は日本の軍事行動によって大幅に制限されている。直ちにこれを改めて平常に復帰させよ、と。だがこの頃になると、日本の世論は多くの国民が東亜新秩序論を支持し、グルーの説く旧態依然たる原則論には納得しなくなっていた。これは九か国条約と東亜新秩序という、相容れない二つの原則論の対立といってよいと、福井雄三氏は著書で説く。グルーの日本は世界市場で門戸開放の恩恵に浴しという指摘は、当時の実情と異なる、当時世界恐慌の不況の中で各列強はブロック化を推し進め、日本は世界市場から締め出しをくっていた。
 
 支那事変が勃発・拡大する中、グルーが一時帰国中の1939年(昭和14年)7月26日、 ローズベルト政権のコーデル・ハル国務長官が日本の堀内謙介駐米大使をワシントンの国務省に呼び、「日本の中国侵略に抗議する」として本条約の廃棄を通告した。阿部内閣の野村吉三郎外務大臣はジョセフ・グルー駐日アメリカ大使とのあいだに暫定協定締結を試みたが成功せず、通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に失効した。これにより、日本はアメリカから輸入する物資は重大な制限下に置かれ、この時点では石油は禁輸されていなかったが、日米の緊迫した情勢の下で、先々の予断は許さない。アメリカから石油の輸入がストップされれば、日本は支那事変を続行できなくなる。石油を手に入れるためには、南進して蘭印の油田を手に入れるか、あるいは北進してソ連を攻撃し、ソ連領樺太のオハ油田を手に入れるか、岐路に立たされた。
 1939年9月ドイツ軍がポーランド侵攻、宣戦布告はしたものの、にらみ合いの状態が続き実際の戦闘が行われないという、奇妙な休戦状態が半年間も続いた。均衡が破れたのは1940年4月、ドイツ軍が中立国のデンマーク・ノルウェーに侵攻してからであった。沈黙のにらみ合いは一瞬にしてくずれ、ドイツはオランダ・ルクセンブルグ・ベルギーに進撃、難攻不落とうたわれたフランスのマジノ要塞をあっという間に突破、ドイツ軍の電撃作戦により、英仏連合軍をダンケルクの港から追い出し、6月にはパリ占領、フランスは降伏した。最後に残ったイギリスも連日ドイツ空軍の爆撃に曝され、いまや風前の灯火だった。このドイツの凄まじい快進撃に日本は沸き返り、独ソ不可侵条約でドイツの意図が分からなくなって、外交を見失っていた日本は、再びドイツに急接近する動きが高まった。ドイツと組んで、ヨーロッパ列強の東南アジア植民地を手に入れようというのであった。
 オランダがドイツに征服されれば、オランダ領インドネシアの地位はどうなるのか。4月ヨーロッパで、「オランダがドイツに占領されればアメリカが蘭印を保護するだろう」という報道が流れた。この直後、日本の有田外相は、「蘭印の現状と地位がいかなる形で変更されることになろうと、日本はそれを平然と手を拱いて見ていることは出来ない」と公式声明を発表した。これに対してハル国務長官は「アメリカもまた蘭印の運命に関心を抱いている」という声明を発した。

 昭和15年(1940)7月、第二次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外相に就任すると、松岡はローズベルト大統領にメッセージを送った。
 「大統領閣下、あなたが抱いておられる世界平和維持に関する終生の希望と関心を、私もまた同様に分かちもっております。しかしながら世界が間断なく進化し、変化し、成長しつつある以上、平和は現状の墨守によっては維持されぬことを、私は了解するにいたりました。国際連盟規約第十九条は、その加盟各国がこのような進化と変化した事情に応じるための調整を規定したものです。連盟はこの規約を履行する勇気に欠けているがゆえに失敗しました。世界には新秩序がもたらされなければなりません。世界平和はわれわれがこのような進歩と変化に適応することにより達成されるのです」
 松岡のメッセージに対して、ローズベルトは次のように答えた。
 「真に永続的な世界の平和は、秩序ある処置と公平にして正当なる取り扱いによる以外成就することは出来ない。すなわちすべての国に対して合法的な権利が尊重されなければならない。このような方法による変化は健全であり、合衆国は満足してこれを認める」

 このローズベルトのメッセージには、東亜の平和は九か国条約の厳守によってのみ可能だ、の示唆が言外に読み取れると福井氏は記す。ヨーロッパで第二次大戦が始まってすでに一年近くたち、東亜の情勢が風雲急を告げているこの時点で、なおかつ九か国条約の原則とその正当性に固執するローズベルトの態度は、頑なを通り越して一種の時代錯誤、杓子定規と言ってもよい。アメリカがここまで原理・原則にこだわり東亜に介入したのなら、なぜそれを戦後の国際政治においても貫徹しなかったのか。アメリカが九か国条約に固執したのは、支那におけるアメリカの経済的権益が、支那事変での日本軍の軍事行動によって侵害されている、というのがその理由だった。アメリカは支那で自国の権利を守るために、巨額の国富を費やし日本と4年間も戦った。そこまでして追い求めた戦争目的が、日本を倒した後果たして達成されたのか。答えは否である、と福井氏。

 アメリカは蒋介石の国民党政権に対して、天真爛漫ともいえるほどの過度の幻想を抱き、莫大な援助を行って抗日戦を煽ったが、さすがに戦争末期になると、そのでたらめな実態にはほとほと愛想を尽かし、今度は逆に毛沢東を美化し始める。大戦後四年間に及んだ支那大陸の国共内戦にも介入することなく放置し、支那大陸の共産化を許してしまった。その魔手が朝鮮半島に及ぶに至って、アメリカはようやく事に重大さに気づいた。何のことはない、アメリカは結局、戦前の極東で日本が果たしていた反共の砦としての役割を、自ら背負い込んだだけであった、と福井氏は結ぶ。大戦を大きく俯瞰する人には、このことに気づいた人は多いだろう。キッシンジャーも秘かにこの矛盾には気づいていると思う。

回り道 ジョセフ・グルーの日記「アメリカ人の支那贔屓」

2017年01月05日 | 歴史を尋ねる
 1937年7月7日、盧溝橋にとどろいた一発の銃声は、日本を支那大陸の果てしない泥沼に引きずり込む端緒になった。事変直後の日本の対応を見れば、現地駐屯の日本軍は単なる小競り合いとみて、拡大を防ぐため現地処理すべく、三度にわたる休戦協定を結んだ。この三度にわたる休戦協定はすべて支那側によって破られた、と福井氏は言う。(蒋介石秘録の日本側コメントによると、「東京の陸軍中央は、当初事件を小規模な局地紛争と判断し、8日夜、参謀総長は事件の拡大を防止し、すすんで兵力を行使することを避けよと現地に電命した。現地軍も9日朝の幕僚会議で、不拡大、現地解決の方針を確認した。しかし、関東軍をはじめ、参謀本部第三課、陸軍省軍事課などは、強硬論を唱えた。陸相・杉山元も、9日の閣議で内地から三個師団の増援を要求したが、時期尚早として見送られた。陸軍中央では不拡大派と拡大派の間で議論が続いたが、10日になって、中国軍が北上を開始したとの情報が入ったため、不拡大派が折れ、三個師団増援の方針が決まった」)
 確かに、7月8日の蒋介石の日記には、日本が挑戦してきた以上、いまや応戦すべき時であろうと記しているし、9日、四川にいる何応欽に対し、全面戦争に備えて軍の再編に着手するよう命令し、第二十六路軍総指揮・孫連仲に対して、中央軍二個師団を率いて、保定あるいは石家荘まで北上するよう指示、山西省の太原、運城方面の軍を河北省石家荘に集結させるよう指示した。同時に、軍事各機関には、総動員の準備、各地の警戒態勢強化を命じた。10日、国民政府は日本大使館に対し文書で抗議、同時に全軍事機関の活動を戦時体制に切り替えるための緊急措置がとられた。

 この事件の推移に対して、福井雄三氏は「蒋介石が手ぐすねを引いてこの事変を待ち望んでいたかが察せられる。支那側の態度は戦争したければいつでもしようではないかという、挑発以外の何ものでもない」とコメントしている。続いて、このような自信は根拠のないものではなかった、と。国民党は当時、225万人の将校と兵士からなる198個師団を擁していた。この巨大な軍隊にさらに、国共合作の結果、20万人の共産党の戦力が加わった。これに対して日本の軍事力は、平時体制で30万人の将校と兵士から成る、わずか17個師団というちっぽけなものだった。さらに国民党は、飛行機や機関銃、戦車など膨大な数の近代兵器を装備しており、外国人指導教官がその使用方法を教えていた。とりわけドイツのゼークト将軍の意を受けたドイツ軍将校が、国民党軍に戦術を授けていた。この時点で国民党軍は、日本に戦争を仕掛けても負けることはないと、互角の自信をいだいていたようだ、とは福井氏の弁。先に触れた蒋介石の「最後の関頭演説」を行った7月18日の日記には、「政府が和戦に対する決意を表示する時がついに来た。他人は危と思うかもしれないが、私は安である。すでに決心は定まった。安危、成敗をはかるべき時ではない。日本に対する最後の取るべき方法は、ただこれだけだ。国民に告げる書はすでに発せられた。あとはひたすら応戦あるのみだ。もう、あれこれ考えることはない」 ふーむ、福井氏が考えるほどは自信があるわけではない。自国の将来を展望して、ここは勝負に出るしかないと、悲愴の覚悟といった方が真実に近いか。ただ、むざむざと負け戦をしようと考えた訳ではない。蒋介石なりの戦略を以て臨もうとしたのだろう。福井氏は蒋介石を次のように考察する。

 北京で発生した事変は上海に飛び火し、第二次上海事件となった。国民党軍はドイツから受けた軍事教練の成果を活かし、頑強に抵抗して日本軍を苦しめた。上海に飛び火したことは蒋介石にとって思う壺だった。後戻りできない泥沼に日本を引きずり込むことに成功したから。あとは日本軍を大陸の奥へ奥へと引きずり込み、長期にわたる消耗戦を強いればよい。日本との和平など、一切応じる必要はない。夷を以て夷を制すの戦略で、日本と対立している列強を巻き込んで日本と戦わせればよい。蒋介石はアメリカの国民感情が支那贔屓であることを知っていた。彼の妻、宋美齢は浙江財閥の娘でアメリカに知己も多く、彼女のロビー活動を通じて、世界中に徹底した反日の情報宣伝活動を展開させた。
 アメリカ人の支那贔屓という点では、グルーも例外ではなかった。彼は9月、広田外相と面会し、日本軍の南京空襲計画を非難し、広田に次のように釘を刺した。

 歴史を忘れないようにした方がよい。政府も国民もスペインとの戦争を欲しなかったが、メイン号が爆破されたとき、もはやなにものも戦争を止めることが出来なかった。また、アメリカとその他の国々で、日本に対する反感が日一日と高まりつつある。アメリカ人は忍耐強いが、もし海外における権益が侵され、名誉が害されれば、アメリカ外交に重大な影響が出る。日本人は口を揃えて、日本は自衛のために支那と戦っているというが、日本は現に支那の土地で戦っているではないか。これがどうして自衛と言えるか。アメリカ人は昔から支那に同情的だったし、それはいまも変わっていない。さらに言えば、アメリカ人の国民性は本能的に弱者に味方したがる、と。

 ここで福井雄三氏は面白い理屈を展開している。日本が戦っている戦場が支那の土地だから、自衛戦争でなく侵略戦争だ、というグルーの指摘は、恐るべき論理の飛躍である。そんなことを言えば、ベトナム戦争はどうなるのか、グルーの論法をそのまま用いれば、ベトナム戦争こそアメリカによる侵略戦争だ。当時の南ベトナムはアメリカの傀儡であった。19世紀末以降アメリカを衝き動かしてきたきた国家意思のもとに、アメリカは時と場合によって自分に都合よく使い分けられるダブルスタンダードを推進に、それを他国にも強いて来た。1938年10月、支那事変中最大の激戦だった武漢作戦で日本軍に敗れても、蒋介石は和平に応じず、更に奥地の四川省重慶に立てこもり抗戦を続けた。この武漢作戦を以て大規模な戦闘はほぼ終了した。武漢と広東を失い重慶政権は出口を失い、経済的打撃を受け、反撃する力もなかった。散発的にゲリラ戦が生じる程度であった。この時期ヨーロッパではミュンヘン会議が行われ、英仏が妥協する形で会談が収束し、アメリカの関心は支那大陸に向かった。11月、グルーは外相・有田八郎に次のように意思表明した。
 「アメリカはいまだかって支那を搾取しようとしたことはなく、またいかなる種類の勢力範囲を獲得しようとしたこともない。門戸開放と機会均等は、アメリカ建国以来の対外政策の根本原理である。私は繰り返し、この両原則が支那で守られるよう日本政府に協力を求めてきたが、いまだそれは実現していない。この点に関し、日本は即刻全面的に協力すべきである」
 世界市場がブロック経済で閉ざされている中で、支那大陸だけを門戸開放・機会均等にせよというのは、日本にとって踏んだり蹴ったりである。支那に最大の利害関係をもつ日本としては、到底受け入れられない。当時日本の直面している最大の死活問題であった。東亜における最大のライバルは、アメリカではなくイギリスだった。当時日本の最大輸出品の綿製品は、支那大陸でイギリス製品を駆逐し、東南アジアを席捲し、英領インドまで販路を拡大しつつあった。イギリスは高関税をかけ、日本製品の締め出しをはかったが、大恐慌後のブロック化が進む中で、日本を袋小路に追い詰めることになった。アメリカが支那に有する権益は微々たるもので、アメリカにとって死活問題ではなかった。

 1939年初頭、グルーは日記に「1939年ほど不吉な状態で明けた年は現代歴史でもまれである。全体主義国家と民主主義国家とがそれぞれ急速に戦争配備に結合しつつあり、もう一つのハルマゲドンが地上に起こる可能性が多い。危険な年になるであろうし、楽観主義が許されるとは私には見受けられない」と記した。