司馬遼太郎の著書「この国のかたち」の中で、“ドイツへの傾斜”という項がある。日本近代史を専門とするアメリカ人が、どうしてそんなことになったのか、と質問があり、それに応えて司馬が経緯を述べている。
江戸期、日本にとってオランダはヨーロッパ文明そのものだった。医学も化学もオランダ語によって知ったし、ペリー来航以来、幕府が長崎に設けた海軍教育機関もオランダ式であった。オランダ王国の政体も知られていて、土佐の小さな蘭学塾でさえ教材としてオランダ政体に関する本が使われ、若い坂本竜馬の開明思想にも影響を与えた。幕府は人文科学系の留学生をオランダに派遣した。留学生の西周はライデン大学で法学と哲学を学び、明治初年の文明受容のための日本語(対訳語)を沢山作った。
が、維新の翌年という早い時期に、日本政府はオランダ医学を捨てた。政府の要路に物狂いしたように説いて回ったのは、相良知安(佐賀藩)と岩佐純(越前福井藩)という二人の蘭学者だった。彼らは現在の東京大学医学部の建設にあたっていたが、オランダ医学書の多くがドイツ医学書からの翻訳であることを知り、だからドイツ医学に転換すべきと主張した。それほどドイツ贔屓の二人でさえ、ドイツ語を知らず、また生のドイツ人を知らなかった。ふーむ、建国の混沌の中で、本物を見極め、変化を恐れない気持ちの高ぶりが垣間見える。ヨーロッパ文明を恐れていない。当時のサムライの心意気が伝わるエピソードだ。
司馬は続ける。幕末に於ける日独関係は希薄で、わずかに万延元年(1860)プロイセン王国の小さい艦隊が江戸湾に入ってきたこと、条約が結ばれたこと、代理公使がやって来たぐらいのかかわりしかなかった。しかし、明治政府は二人の献策を入れ、すぐにプロイセンから二人の医学教授を呼んだ。東京着任、明治4年8月、日本が片思いのままドイツを選択した記念すべき年になった、と司馬氏。
「幕府陸軍はフランス式であったが、明治政府はなぜドイツ式を選んだか」 単純に言えば、明治4年、在欧中の日本の武官は、プロイセン軍がフランス軍を破った、目の前で鼎の軽重を見てしまった。彼らはドイツ参謀部の作戦能力の卓越性と、部隊の運動の的確さを見、仏独の対比をした。その上プロイセンはこの勝利を基礎にして、連邦を解消しドイツ帝国をつくった。数年前明治維新を起こした日本人にとって強い感情移入をもった、と。
憲法についてもそうだった、という。憲法をつくろうという機運は明治十年代からあり、様々な検討が行われたが、結局はドイツの後進性への親近感が勝った、と司馬氏は表現する。フランス憲法は過激すぎる、英国はわずかに大隈重信が推したぐらいだった。明治22年の憲法発布の時には、陸軍はまったくドイツ式になってしまっていた。ドイツ式の作戦思想が、のちの日露戦争の陸戦に有効だったということで、いよいよドイツへの傾斜が進んだ。法学や哲学、音楽も同様だった。やがて昭和期に入って、陸軍の高級軍人の物の考え方が、明治の軍人に比べ、はるかにドイツ色が濃くなった。あたかもドイツ人になったかのような自己(自国)中心で、独楽のように論理だけが旋回し、まわりに目を向けるということをしなかった。陸軍の正規将校の第一次培養機関は陸軍幼年学校だったが、ここでは、明治以降昭和のある時期までは英語は教えられず、ドイツ語が中心(他にフランス語、ロシア語)だった。陸軍が統帥権を根拠として日本国を壟断し始めるのは昭和十年前後だが、外征面でまずやったのは、外務省や海軍を押し切って、ヒトラー・ドイツと手を組むことだった、と司馬氏。更に「昭和軍事秘話」(同台クラブ講演集)から、当事者の話を紹介している。当時の日本陸軍のドイツへの異常な傾斜について、「当時、陸大を出てドイツに留学していない人は、有力部員、課員になっていない。だから日独伊三国同盟をつくったり、大事な時には、総長、次官、大臣、皆ドイツ留学組だった」 更に日本が敗れるまでの12年間の陸軍省と参謀本部のポストについた人の留学先を調べると、ドイツが一番多かった。
これまでは司馬氏であるが、ここからは岡崎氏である。
といっても地理的に隔絶している両国にとって、同盟に必然性も実益もなかった。そこで契機になったのは、日独のあいだにソ連という共産国家が出現したことであった。世界共産主義運動を指導するコミンテルンは、1935年(昭和10)の夏、モスクワの第七回大会で、日独などに対する反ファシズム人民戦線戦術を採択した。のちにナチス・ドイツ外相となるリッペントロップが、駐独武官大島浩少将に、国際共産主義の脅威に対抗するための日独提携の話を持ち出した。リッペントロップは当時ヒットラーの外交顧問として特別事務所を構えてドイツ外務省の頭越し外交をやっていたが、大島に接触したのも個人的な功名心が動機になっていた。大島はベルリン二度目の勤務で、ドイツ語に堪能(幼少期から、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた)で、のちに駐独大使となって三国同盟を推進した陸軍きっての親独派であった。この交渉は、参謀本部から大島武官へ、大使館をバイパスして行われ、日独両外務省は約半年のあいだまったく気づかなかった。しかし日本の政府部内で正式に取り上げられた時には、もう協定は不可避という大勢だった。4月にはソ連・外蒙相互援助条約も公表され、コミンテルンの決議もあり、ソ連共産主義の脅威は現実のものと感じられた。当時広田弘毅内閣で新たな外相となった有田八郎は、国民の孤立感を緩和するため、薄墨色程度の協定ならばよいという考えであり、他の閣僚からも特に異議はなかった。
外務省内では、東郷茂徳は英米に対する悪影響を考えて頑強に抵抗し、この協定と並行して英国とも政治的協定を結ぶという条件を陸軍に呑ませて、やっと了承した。それはヒットラーの願望でもあった。その年、リッペントロップが駐英大使として赴任する時、ヒットラーはイギリスと防共協定へ参加させてくれと言ったという。その時点で、ドイツにとって、日本との同盟などなんの役にも立たない。イギリスとの同盟こそ欲しかった。日本にとっても、極東の実力者は英国であり、英国との関係が最も重要であって、ドイツとの同盟はなんの意味もない。子飼いのリッペントロップの独走は許したものの、ヒットラーには見えていたし、東郷にも見えていた。三国同盟が出来ても、ヒットラーはアメリカとの戦争を避けることを最大の課題としていた。
東郷は反共であること自体は悪いことではなく、戦後のNATO条約も同じことではないか、と極東国際軍事裁判に不満を漏らしている。東郷の主張するように英国とも話し合いのつく協定ならば純粋な反コミンテルン協定で有り得たが、日独協定はその後の経緯で、次第に反西欧同盟となっていった、と岡崎氏。しかしコミンテルンの決議は反ファシズムだから、英国の協力は難しい、夢のまた夢だっただろう。
江戸期、日本にとってオランダはヨーロッパ文明そのものだった。医学も化学もオランダ語によって知ったし、ペリー来航以来、幕府が長崎に設けた海軍教育機関もオランダ式であった。オランダ王国の政体も知られていて、土佐の小さな蘭学塾でさえ教材としてオランダ政体に関する本が使われ、若い坂本竜馬の開明思想にも影響を与えた。幕府は人文科学系の留学生をオランダに派遣した。留学生の西周はライデン大学で法学と哲学を学び、明治初年の文明受容のための日本語(対訳語)を沢山作った。
が、維新の翌年という早い時期に、日本政府はオランダ医学を捨てた。政府の要路に物狂いしたように説いて回ったのは、相良知安(佐賀藩)と岩佐純(越前福井藩)という二人の蘭学者だった。彼らは現在の東京大学医学部の建設にあたっていたが、オランダ医学書の多くがドイツ医学書からの翻訳であることを知り、だからドイツ医学に転換すべきと主張した。それほどドイツ贔屓の二人でさえ、ドイツ語を知らず、また生のドイツ人を知らなかった。ふーむ、建国の混沌の中で、本物を見極め、変化を恐れない気持ちの高ぶりが垣間見える。ヨーロッパ文明を恐れていない。当時のサムライの心意気が伝わるエピソードだ。
司馬は続ける。幕末に於ける日独関係は希薄で、わずかに万延元年(1860)プロイセン王国の小さい艦隊が江戸湾に入ってきたこと、条約が結ばれたこと、代理公使がやって来たぐらいのかかわりしかなかった。しかし、明治政府は二人の献策を入れ、すぐにプロイセンから二人の医学教授を呼んだ。東京着任、明治4年8月、日本が片思いのままドイツを選択した記念すべき年になった、と司馬氏。
「幕府陸軍はフランス式であったが、明治政府はなぜドイツ式を選んだか」 単純に言えば、明治4年、在欧中の日本の武官は、プロイセン軍がフランス軍を破った、目の前で鼎の軽重を見てしまった。彼らはドイツ参謀部の作戦能力の卓越性と、部隊の運動の的確さを見、仏独の対比をした。その上プロイセンはこの勝利を基礎にして、連邦を解消しドイツ帝国をつくった。数年前明治維新を起こした日本人にとって強い感情移入をもった、と。
憲法についてもそうだった、という。憲法をつくろうという機運は明治十年代からあり、様々な検討が行われたが、結局はドイツの後進性への親近感が勝った、と司馬氏は表現する。フランス憲法は過激すぎる、英国はわずかに大隈重信が推したぐらいだった。明治22年の憲法発布の時には、陸軍はまったくドイツ式になってしまっていた。ドイツ式の作戦思想が、のちの日露戦争の陸戦に有効だったということで、いよいよドイツへの傾斜が進んだ。法学や哲学、音楽も同様だった。やがて昭和期に入って、陸軍の高級軍人の物の考え方が、明治の軍人に比べ、はるかにドイツ色が濃くなった。あたかもドイツ人になったかのような自己(自国)中心で、独楽のように論理だけが旋回し、まわりに目を向けるということをしなかった。陸軍の正規将校の第一次培養機関は陸軍幼年学校だったが、ここでは、明治以降昭和のある時期までは英語は教えられず、ドイツ語が中心(他にフランス語、ロシア語)だった。陸軍が統帥権を根拠として日本国を壟断し始めるのは昭和十年前後だが、外征面でまずやったのは、外務省や海軍を押し切って、ヒトラー・ドイツと手を組むことだった、と司馬氏。更に「昭和軍事秘話」(同台クラブ講演集)から、当事者の話を紹介している。当時の日本陸軍のドイツへの異常な傾斜について、「当時、陸大を出てドイツに留学していない人は、有力部員、課員になっていない。だから日独伊三国同盟をつくったり、大事な時には、総長、次官、大臣、皆ドイツ留学組だった」 更に日本が敗れるまでの12年間の陸軍省と参謀本部のポストについた人の留学先を調べると、ドイツが一番多かった。
これまでは司馬氏であるが、ここからは岡崎氏である。
といっても地理的に隔絶している両国にとって、同盟に必然性も実益もなかった。そこで契機になったのは、日独のあいだにソ連という共産国家が出現したことであった。世界共産主義運動を指導するコミンテルンは、1935年(昭和10)の夏、モスクワの第七回大会で、日独などに対する反ファシズム人民戦線戦術を採択した。のちにナチス・ドイツ外相となるリッペントロップが、駐独武官大島浩少将に、国際共産主義の脅威に対抗するための日独提携の話を持ち出した。リッペントロップは当時ヒットラーの外交顧問として特別事務所を構えてドイツ外務省の頭越し外交をやっていたが、大島に接触したのも個人的な功名心が動機になっていた。大島はベルリン二度目の勤務で、ドイツ語に堪能(幼少期から、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた)で、のちに駐独大使となって三国同盟を推進した陸軍きっての親独派であった。この交渉は、参謀本部から大島武官へ、大使館をバイパスして行われ、日独両外務省は約半年のあいだまったく気づかなかった。しかし日本の政府部内で正式に取り上げられた時には、もう協定は不可避という大勢だった。4月にはソ連・外蒙相互援助条約も公表され、コミンテルンの決議もあり、ソ連共産主義の脅威は現実のものと感じられた。当時広田弘毅内閣で新たな外相となった有田八郎は、国民の孤立感を緩和するため、薄墨色程度の協定ならばよいという考えであり、他の閣僚からも特に異議はなかった。
外務省内では、東郷茂徳は英米に対する悪影響を考えて頑強に抵抗し、この協定と並行して英国とも政治的協定を結ぶという条件を陸軍に呑ませて、やっと了承した。それはヒットラーの願望でもあった。その年、リッペントロップが駐英大使として赴任する時、ヒットラーはイギリスと防共協定へ参加させてくれと言ったという。その時点で、ドイツにとって、日本との同盟などなんの役にも立たない。イギリスとの同盟こそ欲しかった。日本にとっても、極東の実力者は英国であり、英国との関係が最も重要であって、ドイツとの同盟はなんの意味もない。子飼いのリッペントロップの独走は許したものの、ヒットラーには見えていたし、東郷にも見えていた。三国同盟が出来ても、ヒットラーはアメリカとの戦争を避けることを最大の課題としていた。
東郷は反共であること自体は悪いことではなく、戦後のNATO条約も同じことではないか、と極東国際軍事裁判に不満を漏らしている。東郷の主張するように英国とも話し合いのつく協定ならば純粋な反コミンテルン協定で有り得たが、日独協定はその後の経緯で、次第に反西欧同盟となっていった、と岡崎氏。しかしコミンテルンの決議は反ファシズムだから、英国の協力は難しい、夢のまた夢だっただろう。