"震災時に於ける朝鮮人問題” 朝鮮総督官房

2014年12月24日 | 歴史を尋ねる
 関東大震災をテーマとしているが、朝鮮人殺傷問題について、思わず深入りしてしまった。今回はこのテーマの纏め編としたい。工藤氏も何度も著書で述べているが、無辜の朝鮮人が命からがらの目にあわざるを得なかった例が少なくなかった。後で検討するように、相当の人数にのぼるだろう。しかし、恐怖心をはらむ状況が自警団側にもあった。過剰といわれても、町内と家族の身の安全を考えて怪しき振舞いの朝鮮人を難詰し、相手が反抗したり逃げたりすれば、暴力沙汰になってこれを抑え込む、いくら独立運動とはいえ、無差別の攻撃(たとえが放火、毒薬、爆発物など)であれば、その反撃はやむを得ない。ここでは、被害者がどの程度だったか、工藤氏の検証結果を知っておきたい。それから当時の調査報告書も見ておきたい。

 まず震災直後に東京及びその近郊にいた朝鮮人の総人口は約9,800人。そのうち習志野の陸軍廠舎や各警察署などに保護された朝鮮人は6,797人。保護収容したのは、神経過敏になっていた自警団から朝鮮人を隔離保護して、炊出しして握り飯を配給し、毛布を配り、傷を負っていた被災者には赤十字と軍医による看護を施した。朝鮮人はテントで雨露をしのげたが、被災した日本人の大多数は逆に野宿したり、仮小屋生活で食料の不足を辛うじて助け合い、便所もない生活を強いられていたことも忘れてはならないと、工藤氏。一方、戒厳令司令部は自警団による過剰防衛容疑の日本人367人を起訴した。この調査報告に基づいて、無辜の朝鮮人が殺害された人数は233人であると公表した。同時に朝鮮人と間違えられて殺害された日本人の数が57人、中国人4人も発表された。相当異常な状況に陥っていたことが分かる報告だ。9,800-6,798-233ー1,960(地震による直接の被害者:工藤氏推定)=810人がテロリストと見做されて殺害された大凡の人数。これが工藤氏の検証した結果の推定人数。うーむ、それにしても相当の人数にのぼる。英国秘密情報部による義烈団の活動メンバー50人としても、はるかに超えた人数である。

 政府による事件調査として「関東大震災と朝鮮人」(現代史資料)には、14編が掲載されている。その中で朝鮮総督官房外事課の調査報告書「関東地方震災時に於ける朝鮮人問題」がこのテーマを詳細に調べているので、見ておきたい。目次は以下の通り。1、震災の概況、2、朝鮮人殺傷の動機、3、各種の誤解に関する疎明、4、鮮人罹災者救済状況、5、震災当時の被殺鮮人の数、6、鮮人殺害の朝鮮に及ぼしたる影響。
 まず、第4項目の被殺鮮人の数の欄を見ておきたい。「自警団に殺害された鮮人の数は混乱の際であり死体は一般の死体と共に火葬に伏せられたから死因も弁別せず従って的確なる数を得ること困難であるが、朝鮮地方官憲で精密に調査した結果によれば圧死者焼死者被殺者及び行方不明者となった鮮人は総隊で832名である。鮮人の居住場所と焼死者の多かった事実に徴し自警団に殺害された者はその2~3割を超過することはあるまいと推定せられるのである。」 
 続いて、第二項目の朝鮮人殺傷の動機欄に移りたい。「今回の大惨事で驚心駭目殆ど為す所を知らざる時にあたり端なくも過激主義者と不逞鮮人の兇行が伝えられ人心頓に興奮し之に対抗して防衛と膺懲の為に立ちたる自衛団の行動が往々冷静の態度を失いたるものあり。更にこの事が海外に報道され常に排日的偏見を抱く徒は奇貨措くべしと為し事実を誇張して針小棒大に宣伝し或は見聞を虚構して浮説中傷を欲しい侭にし所謂一犬虚を吠え万犬実を伝えるが如き状態である。之が為穏健中庸の人士も又頗る判断に迷い我が国民性に疑惑を抱かせ、内鮮融和の上にも少なからざる影響を及ぼしている。」 当時から今日と似たような嘆きがあるものだ、大震災という大変な自然災害に遭遇した中で。従って事件の真相を明らかにし、その迷妄を一掃した、これがこの調査の目的であった。「まずもって一言言っておきたいことは、震災以前、内地人の脳裏に朝鮮人に対し迫害して快とする様な何等の反感も又憎悪の念もなかった。内地人の心理に通じない一部の外人や鮮人の間に今回の出来事を以て根深い根底があるものと考え、胸中に鬱勃たる民族的悪感情の暴発したるものの如くに論ずるものあるが、これは全く事実に立脚せざる誤った観察である。」「然らば何が故に昨秋の震災に際して変事が突発したか、何れの方面から研究しても一に彼の戦慄すべき流言蜚語の齎した結果に他ならない」「流言蜚語は主として朝鮮人の暴行という事柄であるが、その内容は既に世間周知の事であるが、凡そ吾人の最も嫌忌する種々の罪悪を好機乗ずべしとして不逞鮮人が敢行しつつあるということである。予て機会を窺っていた不逞鮮人等は震災の混乱に乗じ或は爆薬その他の材料を以て家屋に放火し或は井水に毒薬を投じ或は暴行脅迫を加え財物を略奪し婦人を凌辱し行人を殺傷し又多数集団して兇器を携えて襲撃を加えつつあるという情報が頻々として罹災者の耳に入り、惨禍に直面して呆然自失せる彼等をして名状すべからざる衝動を感ぜしめた彼等は殆ど絶体絶命の感をいだき天災と闘い人禍に抗すべく渾身の勇気を奮って起ち、自衛団を組織し婦女老幼を安全な場所に取り纏め、天人共に許さざる非人道的罪悪に対して飽くまでこれを膺懲し防遏すべしと期した。」これは報告書であるが、調査人は調査内容から想像の限りを尽くして、リアルに人心も含めて当時を描こうとしている。そして殺傷動機についてこう結んでいる。「直接の動機と認むべきものは一には流言蜚語の根元たるべき凶行が実際一部少数の鮮人に依ってなされたこと、二には一時警察力と一切の通信機関及び報道機関が停止し秩序の維持についても妖言の真否についても全く依るべき所が無かった、三には人心極度の亢奮である」

 「一部の鮮人が兇器を持ち掠奪その他の暴行を演じ婦人を凌辱し爆薬その他の材料を携行し放火を図りその他怪しむべき行動のあったことは被害者目撃者の斉しく認るところである混乱無秩序の間に行われたるが故に之を逮捕して正式に法廷に訴えることが出来ず、巧みに姿を画して免れ或は自警団の手に依りて捕えられ或は即座に処分せられ又証拠の如きも震災のために消滅したので大部分は之を検挙でき無かった。法廷における正式裁判の少なきを以て凶行の事実を否認せんとするの論は机上の空論である」

  報告書は鮮人罹災者救済状況も詳細に記録している。1、官吏の派遣、2、鮮人傷病者の救護、3、朝鮮人学生の救護、4、労働者の救護、5、救護打切り後の措置、6、帰還朝鮮人の救護、7、安否通報、8、罹災鮮人遺族に対する慰藉(830名に200円/一人の弔慰金)。最後に、各地官民及び朝鮮総督府の周到な救護と同情とにより鮮内鮮人の昂奮せる感情も漸次緩和せられ、「不祥事の真相が略了解せられ一般に彼の場合何としても致し方なし已むを得ぬ事態であったということが判り鮮内は平穏無事に経過したことを祝福したい」と結んでいる。

朝鮮独立運動と社会主義運動

2014年12月22日 | 歴史を尋ねる
 歴史問題がクローズアップされる中で「韓国近現代史辞典」が1990年ソウルで発行された。この本を底本に「朝鮮韓国近現代史辞典」が日本評論社からで出版され、2006年第二版が発行された。李光植、朴垠鳳、李鐘任、金容権の各氏で、分担執筆している。1919~1953年は朴垠鳳が担当。関東大震災は次のように解説されている。「1923年9月1日、日本の関東地方を襲った大地震。13万世帯の家屋が全壊し、45万世帯が焼け出され、死亡者と行方不明者併せて14万名に達した。翌日、成立した第2次山本内閣は戒厳令を発し、事態収拾に立ち上がったが、混乱はさらに深刻化した。治安維持に過敏になった官憲は朝鮮人と社会主義者たちが暴動を起したという噂を組織的に撒き散らした。被災地住民の一部は「自警団」を組織し、軍隊・官憲とともに朝鮮人を無差別逮捕・殴打・虐殺した。この事件で多数の朝鮮人が虐殺されたが、死者の数は約200名(日本の司法省調査)、約2700名(吉野作造調査)、6000名以上(金承学調査など)と諸説あり、正確な数は今も不明である。震災の被害総額は65億円と算定され、復旧のために多大な資金と膨大な人力が傾注されたが、無実の朝鮮人数千名を虐殺した日本軍警と民間自警団による残虐行為は、歴史上拭うことの出来ない汚点として残され、その償いはいまだ行われていない。」 ここでは流言蜚語も姿をかえ、軍、官憲、自警団による虐殺となっている。こうした史実を聞かされれば、誰しも怒りが込み上げてくるだろう。歴史的事実も国を超えると一層複雑化する。「なぜ近現代史を専門にする知識人たちは、「朝鮮人虐殺」数字を根拠もなく膨大なものにし、国家テロに立ち向かう自警団や治安部隊を「ウルトラナショナリズムの異様な突出」(大江健三郎)と短絡的に捉えてきたのだろうか」と工藤美代子氏は嘆いている。ここでは、上記辞典などを参考に、当時の運動の活動状況を見てみたい。

 大韓民国臨時政府(臨政) 3・1運動後、祖国光復のために、臨時に上海に組織・宣布された政府 1919年。日本の統治に組織的に抵抗するための組織の必要性を感じた独立運動家たちが上海に集結した。フランス租界地に本部を設け、各道代表人30人が集まり、憲章10か条を採択、閣僚を発表した。総理は李承晩、更に臨時憲法を制定し、李承晩を臨時大統領に選出し内閣を組織したが、財政的困難や思想的分裂が活動の大きな障害となった。パリ講和会議では、朝鮮の独立に冷淡であり、ソ連も高麗共産党の分裂以降、臨政への関心を低下させた。政府と名乗りながら独自の軍隊も持たず、独立戦線を統一的に掌握もしていなかった。統一した組織を作るための国民代表会議が23年上海で開かれた。しかし会議は改造派と想像派に分裂し、名実ともに独立運動の指導機関に改造する主張が臨政の実権を握ることになった。こんな騒動の中なので、日本への活動も大きいものではなかったと考えられる。

 義烈団 臨政が内紛に陥り、混迷を深めている中、爆弾・暗殺闘争を敢行し、独立戦線で注目を集めている組織があった。金元鳳率いる無政府主義組織の義烈団である。1919年吉林省で創設され、朝鮮総督府高官・日本軍首脳・親日派巨頭・スパイなどを暗殺し、権力機関・国策会社など日帝主要機関を破壊対象と定めた。その綱領は「駆逐倭奴」「光復祖国」「打倒階級」「平均地権」であった。20年義烈団は本部を北京に移し、23年1月には「朝鮮革命宣言」を公にした。20年釜山警察署の爆破をはじめ、密陽警察署・朝鮮総督府・東洋拓殖などの爆破を敢行し、また田中義一暗殺未遂事件も起こしている。工藤美代子氏はこの一味が暗躍したと推定している。
  
 抗日武装独立闘争 3・1運動以後、満州間島地方や沿海州で展開された民族独立をめざす抗日武力闘争を云う。20年代に入って議政府・参議府・新民府の3府に分かれて活動を展開。統一戦線の為合作を試みたが統一に至らず、韓族総連合会と革新議会は韓国独立軍を結成して満州北東部一帯で活躍し、朝鮮革命団と朝鮮革命軍は南満州で活躍した。辞典の内容は突っ込みが不足しているが、日本側データによれば、尼港事件の赤軍パルチザン4,300人のうち朝鮮人が1,000人を占めていた。日本軍の撤退を受けたシベリアは、ソヴィエト共産党によって掌握され、日本との関係修復のため、独立を目指す朝鮮人パルチザンは武装解除された。1923年以降、共産主義青年組織を立ち上げ、朝鮮半島内で共産党が結成されたが、満州に亡命する者もあり、取締の緩やかな満州で活動が活発化した。

 社会主義運動 初期の社会主義思想は日本への留学生を通じて朝鮮国内に入ったが、彼らを中心に無産者同盟会・北風会・火曜会・ソウル青年会などの社会主義団体が組織され、青年・学生・知識人の間に急速に拡大した。25年火曜会系を中心に朝鮮共産党が組織された。

 黒涛会 21年日本で組織された在日朝鮮人の最初の社会主義団体。朴烈・金若水は無政府主義者大杉栄・岩佐作太郎の影響を受け、元鐘麟・権照国は社会主義者の堺利彦の影響下にあった。黒涛会は無政府主義を主張する朴烈らと共産主義を主張する金若水らとの路線対立により解散、朴烈らは黒友会を組織した。9月3日戒厳令直後の東京淀橋警察署に朴烈と愛人金子文子が連行された。朴烈は後日、爆弾を以て皇太子をはじめ日本の実力者を殺害する計画を持っていたと尋問に答えている。甘粕憲兵大尉が大杉栄を連行殺害したのは9月16日であった。

 既存の刊行書籍では上記が精々だが、WEB上では最新の情報が掲載されている。特に震災時影響力を行使した義烈団のSIS情報は強烈である。朝鮮日報に掲載された記事だ。
 “義烈団の規模と活動状況を記録した英国秘密情報部(SIS)の秘密文書が、2013.2.28韓国で公開された。文書は英国立公文書館が管理していたものを韓国の国家記録院が収集し、2010年から保管してきたものだ。SISの極東支部が作成し、本国に送った1923年8月の報告書は、義烈団が約2000人のメンバーで構成される朝鮮人の秘密結社であり、朝鮮と日本にいる日本人官吏を暗殺することを目的にしていると記録している。報告書は「1カ月前、義烈団のメンバーの1人が中国・青島にいるドイツ人の作った爆弾160個を保有していたが、うち100個が朝鮮に運び込まれた。現在約50人余りのメンバーが東京で活動中だ」などと詳細に記述している。”


流言蜚語という歴史的事実の成立過程

2014年12月18日 | 歴史を尋ねる
 みすず書房現代史資料(6)「関東大震災と朝鮮人」は、当時の資料を収集・編纂しているが、編者が姜徳相氏と琴秉洞氏であるところがユニークである。姜徳相氏の専門は朝鮮近現代史、朝鮮独立運動。在日韓人歴史資料館館長。「韓国強制併合100年共同行動」日本実行委員会共同代表。「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」役員。従って、本の構成をみると関東大震災にかかわる朝鮮問題で、目次を挙げると、例えばズバリ「第二部 流言と虐殺」となっている。しかし選ばれた資料は当時の一次史料なので、当時を振り返る貴重なデータとなっている。その中からいくつか拾って垣間見えるものを整理したい。

 警視庁が当時の「大正大震火災誌」の中で、“朝鮮人保護事務の概要”を取り纏めている。事件は全て流言蜚語と片づけ、罹災地の警戒及び避難者の救護上に非常なる障碍を生じたるのみならず、延て朝鮮統治上に及ぼしたる影響も亦甚だ多く、誠に聖代の一大恨事たりと概記している。正力官房主事著名の指示書も掲載されており、先の後藤新平の指示に従ったシナリオ作りに精を出したのだろう。更には太平洋戦争末期に、正力松太郎が警視庁で行なった講演の記録
http://1923archives.blogspot.jp/2014/09/blog-post_6.html
も残されているが、正力氏も1944年当時であり、徹底して流言で押し通している。戦後に於いても語らないところを見ると、歴史を冒涜したくないとの判断だろう。従って、後藤新平の管轄下にない部署の記録で当時の事態を確認しておきたい。

 臨時震災救護事務警備部打合せ(9月3日決定事項)1、宮城、赤坂離宮その他官邸の警備並びに重要官公庁の警護(軍隊及び警察に於いて既に厳重なる警護をしている)、2、各避難地の保護取締 (適当なる軍隊並びに警察官を配置し取締を講じているが、なお一層周到を期することに努める)、3、市街及び一般民衆の保護取締、(市の周囲並市内枢要の場所に検問所を設け、軍隊及び警察を配置し、容疑人物の尋問を行い、容疑すべき人物は、警察官署に引渡し取調べを為す、危険物件を妄りに携行する者は之を領置すること、警邏巡察は頻繁に行い以て査察取締の周到を期す)、4、一般朝鮮人の保護 (朝鮮人にして容疑の点なき者は保護する方針を取り、適当な場所に集合避難せしめ、容疑のある鮮人は悉く警察または憲兵に引渡す)、5、要視察人の取締、(要視察人危険なる朝鮮人その他危険人物の取締について、警察官及び憲兵は充分の視察警戒を行うこと)、6、民衆自衛団の統制、…13、鉄道に依る旅客の取締、(地方に向って避難する者に対し無賃乗車の方法を採り、東京に来ようとする者は公務の為の者を除くほか、その乗車を拒絶すること)、14、東京又は横浜に来らんとする者の阻止方法、 警備部長。
 上記警備体制は、検問所の設置、容疑者の尋問など、災害時の警備体制としては違和感がある。このときの警備体制は日本が経験してきた大地震発生時のものとは相当異なる警戒警備体制がとられてる。単なる流言蜚語でここまでの警戒はしない。しかも不逞鮮人がいないとは少しも触れてないし、むしろ第4項目はそんな事態を窺わせる。
 
 船橋(千葉)送信所関係文書(電文:当時震災地と他地区を結ぶ通信は海軍省船橋送信所か、横浜港内の船舶無線を利用する以外になかったが、政府の通信文はすべて船橋を経由して打電された)
1、(9月3日午前8:15)各地方長官宛 内務省警保局長 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し(以下略、前記事で記載済)」、
2、(9月3日)台湾総督府総務長官宛 尾間秘書官出 「一日正午より大激震あり、今尚続く。激震と同時に市内各区のい火災起り、焼失家屋約三十万と死者一万、火猶やまず。此の火災に乗じ不逞鮮人多数集合して暴行を始め、検束せられたるもの数千、今夜戒厳令を布かる。台湾より出張員皆無事」 
3、(9月6日午後3:20)外務大臣発 在米大使、在上海総領事、等宛 「大地震後間もなく東京横浜の市内各地に火を発し中には放火の疑いあるものあり、右は不逞鮮人が日本の不穏分子と共謀の所為なりと伝えられ、加えるに強盗及び暴行を働く不逞鮮人の横行あり、昂奮せる市民をして恐怖憤怒の極みに達せしめ、市民は各自武器凶器を携帯して昼夜自衛に努めるが、その結果鮮人及び日本人にして殺害せられたるもの東京神奈川地方にて数十人に上る見込みなり、(以下略)」
 上記は電文のごくわずかであるが、震災後に起こった事態を何とか伝えたいとしている内容である。3の外務大臣発の電文も、最後に「本件貴地新聞等に表はるる虞ある場合は、勿論裁量により適宜公表せられ差支えなし」と締めくくっている。単なる流言蜚語でここまでの電文にはならない。深読みすると謀略活動に対処せよとも読み取れる。

 「震災の為陸軍の執りたる処置、第5号」(戒厳令の主体となった陸軍の記録だが、内容は事後報告書の体裁で、やや臨場感にかける)
 「変災の突発に際して第一にすべきは救護と警備なり。不慮に備え、秩序を保持しなければ、救護も出来ない。政府は臨時震災救護事務局を設けて、極力救護に努めると同時に、陸、海軍及び警察官憲をして警備を厳にせしめ、市民また、崛起して自衛の策を講じたり。(中略)二日午後、東京付近に於いて鮮人暴動の流言あり。就中東京西南部、及び船橋方面に於いては、鮮人大挙襲来の報を伝え、各地の民衆自警団を組織し、処々に殺傷事件を生起す、しかし猛火は炎焔天を焦し、悽愴の気帝都に満つ。当時横浜付近は、災害遥かに東京の上に出て、全市悉く焼野と化し、市民は飢渇に瀕するのみならず、鮮人暴挙の風説ありて、混乱名状すべからず、乃ち横浜派兵の議を決し、同夜習志野より急遽帰京したる騎兵一聯隊を、横浜に急行せしめ、更に歩兵一中隊を、翌三日駆逐艦により同地に向はしむ。(中略)是より先、千葉県、埼玉県方面は、房総半島南部を除き、震動比較的軽微なりしも、二日夕以来、帝都付近の避難民、続々両県下に溢れ出ると、交通の途絶したるとより、流言蜚語忽ち伝わり、船橋付近に至りては、二日夜より三日に亘りて、已に殺傷事件を惹起し、中仙道方面又漸次騒擾波及の兆しあるを以て、四日、勅令を以て、両県下も同じく戒厳地域に入る」
 後半、千葉埼玉における殺傷事件は、確かに流言蜚語による混乱に近いかもしれないが、当初の殺傷事件は、「民族独立のために手段を選ばないとする朝鮮人テロリストの襲撃から家族や町内を守る正当防衛だ」という工藤美代子氏の指摘が的確ではないか。ただ、上海における大韓民国臨時政府の動向との関連が解明されないと確かなことも言い切れない。その後の事実関係は、この事件を朝鮮独立運動の謀略活動に利用している事実と捕えられた鮮人が自白した内容である。「東宮殿下御成婚の当日に一斉に暴動を起す事を牒合して爆弾等をひそかに用意していたがこの震災で一斉に活動をしたのだ」と云う。「又二日には之に関する協議会さえ開く予定であった」(青木繁太郎談 「北海タイムス」9月7日)

 

「朝鮮人を救え」 後藤新平

2014年12月12日 | 歴史を尋ねる
 二日夜からは山本権兵衛新内閣である。水野廉太郎に代って内務大臣に就任したのは後藤新平だった。一方で勅令の裁下を得た森岡東京衛戌司令官は、地方からも師団の出兵を要請、東京府全域、神奈川県全域、更に千葉、埼玉まで戒厳区域を拡大した。そのため関東戒厳司令部が設置され、福田雅太郎陸軍大将が司令官に、参謀長には阿部信行陸軍少将が任命され、戒厳態勢はひとまず整った。新体制の確立と共に、朝鮮人襲来への警告と取締は一旦強化された。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。鮮人の行動に対して厳密なる取締りを加えられたし」(発信人 警保局長後藤文夫)。だが、事態は意外な方向に展開を見せ始める。いきなり「鮮人を迫害するな」という総理大臣談話が発せられ、自警団の武装解除が命ぜられる大転換が起こった。一線の警官や自警団にしてみれば、驚愕を隠せないだろう。後藤の舵取りによって予想外な方向転換が始まったと、工藤美代子氏は渾身の調査結果を披露する。

 9月3日の新聞が「不逞鮮人各所の放火」、続く4日付けでは「三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫いらずを投下せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した」という具合に市民に警戒心を厳重にさせる報道を指揮してきた内務省の方針がガラリ一変した。最初の異変は「東京朝日新聞」の4日付手書き号外で、「武器を持つ勿れ、朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当にいじめてはならぬ、市民で武器を携えてはならぬと戒厳令司令官から命令を出した」と。ほぼ同じ内容が翌朝他紙にも掲載された。こうした司令部からの記事が流れる一方で、扱いは小さいが依然として朝鮮人襲撃のニュースは出回っていた。それがぴたりと止んで急転回し、朝鮮人襲来記事を流布すれば処罰するとまで言い出したのは9月7日からだった。前日三大緊急勅令が公布された。①暴利取締勅令(生活必需品に対する暴利取締り) ②支払猶予の緊急勅令、 ③流言浮説取締令勅令、「出版通信等の方法をもってするを問わず暴行騒擾その他生命身体もしくは財産に危害を及ぼすべき犯罪を煽動し安寧秩序を紊乱するの目的を以て治安を害する事項を流布しまたは人心を攪乱するの目的を以て流言浮説をなしたる者は」処罰する内容であった。一方一般朝鮮人への保護具体策がとられた。市内に残留する朝鮮人を千葉県習志野、下志津の兵舎に収容し衣食住を安定させ、彼らを救援することが4日朝の閣議でまず決定された。それに基づいて山本首相名による「告諭」記事が5日の新聞に告知するなど、急転直下の方針転換が計られた。「驚くな、慌てるな、鮮人を迫害するな、今次の震災に乗じて一部不逞鮮人の妄動ありとして鮮人に対し頗る不快の感をいだくものありと聞く。鮮人の所為若し不穏に亘るに於いては、速やかに取締の軍隊または警察官に通告してその処置にまつべきものなるに、民衆自らみだりに鮮人に迫害を加えるが如きもとより日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず諸外国に報ぜられて決して好ましいことに非ず。(略)各自の切に自重を求むる次第なり」

 後藤新平は帝都復興院総裁として後に復興計画に奮闘する。後藤の入閣は、参謀長格と誰もが思った。だが後藤に託された大きな役割は、水野の武張った朝鮮政策から経鼻方針を転換することであった。国体=摂政宮の安全を維持するのが自分の使命だと後藤は腹を決めていた。5日付けで赤池濃に代って警視総監に就任したのは湯浅倉平の記者会見がそのすべてを言い表している。赤池時代には考えられなかった発言と工藤氏。湯浅警視総監は卓上に二個の握り飯と福神漬けを置き、水道の水をすすって鮮人暴行の浮説を慨嘆して云う。「この未曾有の惨状に対して罹災民の狼狽することは然ることながら、鮮人暴行の風声鶴唳に殆ど常軌を逸した行動に出づる者のあったとは遺憾千万である。爆弾を携えているというので捉えてみればリンゴであったり(略)その他数えてみれば噴飯すべきもの多く、誠に大国民の襟度から見て諸外国に対しはづかしい次第である」と。次いで警視庁は朝鮮人が誤解を解くために奉仕活動を始めたと新聞に書かせる。
 後藤は震災時すでに66歳であった。これまで桂太郎内閣で二度にわたり逓信大臣、寺内正毅内閣で内務大臣、今度は二度目の就任だった。彼が残した業績は数知れない。台湾総督府時代のインフラ整備、経済政策。満鉄時代のインフラ整備、大連都市計画。東京市長も経験済み。その後藤が打ち出した内務省方針は、朝鮮人を救うこと、自警団の武装解除だったから、当時警視庁官房主事の正力松太郎は我が目を疑った。これでは市民の生命の安全を保障できないと後藤に噛みついた。後年裏話を工藤氏の父親に話していたらしい。「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのまま引き下がらないだろう。必ずその報復が来る。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあったら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」 38歳の正力は百戦練磨の後藤のこの言葉に感激し、以後、顔には出さずに「風評」の打消し役に徹した。

民族の大量移入と抗日運動家

2014年12月11日 | 歴史を尋ねる
 原敬首相の温和な対応や齋藤實総督の環境改善政策、インフラ改善などが始まっても抗日運動家たちがおさまることはあり得ない。運動にはロシア革命によって自信を得た社会主義者たちが背後に張り付いていたと工藤美代子氏。「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」は相当の確信を以て書かれている。まずは在日朝鮮人の人口推移、明治42年790人、明43年(日韓併合)、大正5年5,638人、大8年(3・1運動)28,272人、大12年(震災)80,617人、大13年120,238人、昭和2年175,911人、昭16年1,469,230人、昭19年1,936,841人(内務省警保局統計)。日本統治が始まった成果として医学の普及や衛生観念の改善が進み、人口そのものが大増加したことが流入増の要因の一つ、更に農業以外に生活手段を持たない朝鮮住民の移住をもたらす結果となった。大正に入って日本が抱えざるを得なくなった難問であった。大正6年(1917)のロシア革命による社会主義の勃興に続いて大正8年の春、朝鮮半島を席巻した三・一独立運動の嵐は日本内地への流入を否応なく促進した。労働運動指導者と民族主義者、底辺の労働者、学生が一体となって日本を運動拠点に定め、朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指したからだ、という。ここで工藤氏は大正9年から12年の震災までの日本における朝鮮人の事件を新聞記事として追っている。流言の前に何が起こっていたかの検証だった。尚、この欄で不逞鮮人(ふていせんじん)という当時の言葉を使っているが、この用語は排日鮮人に対して用いられた用語である。今村鞆によると、「排日鮮人」という語を伊藤統監が嫌って公文書に表記することを禁止したため、警務局の誰かによって造られたとウキペディアはいう。当時の新聞では頻繁にこの言葉が使われている。

 工藤氏は当時の新聞を紐解きながら、具体例を挙げている。例えば、「15万円強奪の不逞鮮人の片割れ、神戸にて捕える」(朝鮮北部、間島で起こった現金強奪事件、当時民族独立運動の拠点とされ、社会主義者が中軸で活動資金調達が目的)、「首相邸を襲うとした鮮人の大陰謀露顕ー爆弾数個と陰謀書類」、「在阪鮮人の宅に爆弾数個」「変名して早大に入り、上海・間島方面と連絡を取る」。上海には三・一暴動で容疑を掛けられた者が半島から脱出し、フランス租界内に「大韓民国臨時政府」を樹立していた。首班は李承晩である。この亡命活動家たちは、現金強奪で資金を作り、密航して爆弾を運び、東京や大阪市内でテロに向けての謀議を重ねていた。内務省主導による内定捜査も必死だった。「不逞鮮人崔の自白から判明した事実」(独立運動派はヴェルサイユ会議関係者や米国上院議員との接触で独立支援を取り付けようとしたものの不調。そこで活動家は、過激な運動に鞍替えしたことが特高の調査で分かっていた。)「総督府投弾の犯人は田中大将を狙撃した男」(震災の年に入れば彼らの活動は一層激しさを増した)「大仕掛の武器密売、拳銃一万挺、挺弾90万発」こうした組織的抗日運動には国民の大多数が緊張を感じただろう。こうした事件が起きている中に大震災が発生した。

 「朝鮮人が襲撃してくる」という流言蜚語と言われている事態は横浜に端を発した。発生当初は政府も新聞も「朝鮮人が襲撃する」と危険を呼びかけていたが、三日も立つとがらりと態度を豹変させた。「朝鮮人が虐殺された」という説に最も指導的な役割を担ったのは吉野作造博士だった。そして工藤氏は吉野説の非論理性を、詭弁とまで言っている。関東大震災時につくられた自警団は朝鮮人の来週に備えたものではなく、日本の長い間の習慣であった。消防関係者、成人男子、トビ職などが在郷軍人を主軸に各町内に作られた。町内への延焼や火事場泥棒、不良行為などから家族を守るため、夜回りの当番などを決めていた。そこへ「不逞鮮人の集団が三隊に分かれて六郷川を渡って来襲してきたが、その中には銃を肩にしている者もいる」とか「道路沿いの井戸に毒薬を投げ込んでいる」という風説も流れた。これらの流言は各町村を大混乱におとしいれ、竹槍等を用意して半鐘を乱打して警戒にあたった。大森警察署は連絡を受けて署員を偵察に走らせるが、裏付ける事実はないと報告、目撃者が数多くいるのになにをそんな悠長なことを云っているのかと住民側に突き上げられる。地獄とも思える大震災、大火災の打撃を受けていた市民や自警団にも心理的な混乱は起こっていただろう。しかし社会主義者と抗日民族主義者が共闘して、天災に乗じ思いを遂げようとした輩がいたからだと工藤氏。そうした事実(花火工場を襲撃した朝鮮人一団との遭遇、工厰の火薬爆発、各所に放火、不審火など)を裏付けるような記事・体験談などを記録している。

 二日朝に至って各所に広がる朝鮮人暴動の流言は政府首脳をおびやかした。とくに水野内務大臣と赤池総監は、三・一独立運動直後に朝鮮総督府の政務総監・警務局長の要職にあり、独立運動の弾圧にあたった経験を持っているだけに、人一倍朝鮮人の圧政に対する報復を恐れたに違いないと国民の歴史「民本主義の潮流」は語っている。いずれにせよ、水野たちの主張が通り、東京衛戌司令官は戒厳令を政府に要請した。時間的余裕が無いので特例の緊急詔勅の裁可を仰ぎ、戒厳令の一部施行が先行実施された。
 

3・1独立運動とウッドロウ・ウイルソン大統領

2014年12月08日 | 歴史を尋ねる
 アメリカ大統領ウイルソンは、第一次大戦が終結する前から、戦後の構想を考えていた。連合国の一員であったロシアが国内の革命のために連合国から脱落し、ロシア革命を率いたボルシェビキのレーニンとトロッキーは、帝政ロシア時代の秘密文書などを暴露した。連合国の英・仏・日が如何に帝政ロシアとの間で、戦後の植民地の再分割などについて不当な取り決めをしているかを暴いてしまった。日本関連では、山東半島の旧ドイツ権益や南洋諸島について、戦後日本のものになると、英・仏・伊などの諸国との間で密約が結ばれ、確認されていた。こうした状況を目にしたウイルソンは、連合国の戦争目的を改めて理想化しなければ世界の人々を幻滅させる、ボルシェビキの理想に負けるとの危機感にとらわれた。その結果が1918年1月の年頭教書で、ウラジミール・レーニンの平和に関する布告に対抗して戦後の世界はこうあるべきとの理想、ウイルソンの「十四か条」だった。その箇条の中で最も有名なのが、民族自決主義だ。ただウイルソンの念頭にあった地域は、ロシアがドイツと講和を結んだ結果ドイツに譲渡したポーランド、中立が侵害されたベルギー、ルーマニア、セルビアなどであった。民族自決が認められなければ、これらの地域が再び世界戦争の発火点になることを恐れたと、加藤陽子氏は著書でいう。ウイルソンは第一次大戦前に獲得した英・仏などの植民地に対して適用することは考えていなかった。ウイルソンと共にアメリカ外交を担っていたランシング国務長官は、その12月の日記に「この宣言はダイナマイトを積んでいる。決して実現されない希望を呼び起こす」と書いているように、世界各地の植民地の人々に大きな希望を抱かさせた、と。

 大きな希望を抱い地域の一つが、日本統治下の朝鮮だった。これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京府東京市神田区のYMCA会館に集まり、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)。これに呼応して朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ行動計画を定めた。三・一運動の直接的な契機は高宗の死であった。彼が高齢だったとはいえ、その死は驚きをもって人々に迎えられ、様々な風説が巷間でささやかれるようになる。その風聞とは、息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺されたなどといったものである。実際のところは不明であるが、そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運と重ねられることでナショナリズム的な機運が民衆の中に高まったことが、運動の引き金となったと、ウキペディアはいう。当時朝鮮軍司令官であった宇都宮太郎の日記では、独立運動の要因を、日本が無理に強行した併合に求め、併合後の朝鮮人への有形無形の差別に起因すると書いている様だ。
 三・一運動は、まさにパリで講和会議が開かれている最中に起こった事件であった。日本の朝鮮支配は他の列強などの植民地支配に比べても残酷なのではないかということが、パリ講和会議やワシントンの上院で議論され始めた。このような事件を起こした日本が、新たに委任統治領などを持ってよいかも議論された。パリ講和会議で結ばれたヴェルサイユ条約では結果的に日本の要求はすべて盛り込まれた。しかし、政治上・経済上の問題よりも、精神的な面で日本に大きな傷を残したと加藤氏は云う。

 アメリカは大戦後の誕生した国際連盟に、アメリカ議会の反対で加わらなかった。ウイルソン大統領は会議期間中、アメリカに帰国して、モンロー主義的なアメリカ議会に対し、連盟は決して宣戦や講和の権限などアメリカの主権にかかわる問題について、議会の権限を阻害するものではないと説得に努めた。この時アメリカ議会がとった方法は、アメリカの世論に訴えることだった。ここに日本と三・一運動が取り上げられた。ウイルソン大統領が進めているヴェルサイユ条約は中国を犠牲にして山東半島に対する日本の要求をすべて呑んだ不当な条約である。日本は山東を植民地と同様に支配するだろう。だが、日本の植民地支配というものは朝鮮で起こった三・一独立運動によって明らかなように、非常に苛酷なものである。このような過酷な植民地支配を中国本土に及ぼそうとしている日本に対し、日本をヴェルサイユ条約調印国とするため、ウイルソンは日本に妥協したのである。このような批判がアメリカ議会でなされていることを知った日本側は、衝撃を受けた。パリ講和会議で日本側が負った衝撃や傷は深く重かったと、加藤氏は著書「それでも、日本人は戦争を選んだ」でこの項を結んでいる。

猛火の中の親任式

2014年12月07日 | 歴史を尋ねる
 大正12年8月24日、時の首相加藤友三郎が急死した。加藤はワシントン会議時、海軍相・海軍大将で日本全権代表となった人である。前年の6月、高橋是清内閣が立憲政友会の内紛に基づく閣内不統一で瓦解したのを引き継いでの組閣だった。高橋内閣はわずか半年足らずでの降板であった。しかも震災の1年10か月前、大正10年11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺されるという事情が背景にあった。そのあとを継いだ高橋是清が半年で瓦解とあっては国民に政治不安が広がっていた。そんな中でまたまた加藤首相の病死とあって、大正12年の夏、国政は極めて不安定、政治への不信は頂点に達していた。加藤友三郎の葬儀の準備が進んでいる一方で、次期首相として海軍大将山本権兵衛に二度目の大命が降下した。8月28日午後である。西園寺公より御下問に対し山本権兵衛を奏薦した結果、徳川侍従長が山本邸を訪問、聖旨を伝えた。その結果山本伯は赤坂離宮に伺候、摂政宮殿下に拝謁、後継内閣組織の大命を拝し、数日間の御猶予を乞うて御前を退下したと当時の新聞は伝える。この間、8月25日からは臨時首相として前内閣の外相内田康哉が任命され任命され急場をしのぐ緊急避難措置がとられていた。

 組閣の準備に取り掛かっていた山本権兵衛は、組閣のため芝の水交社に平沼騏一郎を呼び込んで話し合っている時に震災に遭遇した。かくして組閣交渉はずれ込み、明けて9月2日、新内閣の閣僚がようやく決まり親任式の準備に入った。親任式は赤坂離宮へ山本が参内、午後7時から夕闇迫る帝都に黒煙が上がるのを眺めながら行われた。余震が襲ってくる中で、庭のあずまやで親任式が行われたという。震災対策内閣の顔ぶれは、首相、外務大臣に山本権兵衛、内務大臣後藤新平、大蔵大臣井上準之助、陸軍大臣田中義一、海軍大臣財部彪、逓信大臣犬養毅、司法大臣平沼騏一郎といった顔が揃った。時代は労働力不足という問題を抱え、併合した朝鮮半島からは大量の朝鮮人が流入していた。又ワシントン会議でのアメリカの強硬姿勢によって、大正12年4月からは、「石井・ランシング協定」(中国における日本の特殊権益を保障するもの)が廃止され、日本の権益が大幅に削減されたばかりであった。そこへ起きたのがこの関東大震災であった。火焔の中に聞けば、朝鮮人が大挙して襲ってくるという。9月3日の東京日日新聞には「不逞鮮人各所に放火」、「鮮人、至る所めったぎりを働く」といった記事が登場、国民の前に明らかになった。震災時「流言蜚語による朝鮮人虐殺」の文字は時々目にするが、もう少しこの事件について立ち入っておきたい。

 工藤美代子氏が著書「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」で述べているように、震災前の背景を理解しておく必要がありそうだ。私のブログでも日韓併合へ至る経緯は取り上げたが、併合後には触れていないので、工藤氏の著書を参考に整理しておきたい。日韓併併合は明治43年(1910)、大正8年(1919)3月1日、京城中心部の公園でキリスト教、仏教、天道教など各派の代表33人が「朝鮮独立宣言」を読み上げることから騒ぎは始まった。この宣言に刺激されて数千人規模の学生、労働者が市内で過激なデモ行進をしながら独立万歳を叫んで、警備する日本側官憲と衝突を繰り返す事態となった。学生・労働者はデモや投石にとどまらず、官公庁・警察などを襲撃し、火を放つ暴徒と化した。さらに在留邦人の生命も危険にさらされた。運動は全土に拡大し、警察側の死傷者も多数を数えるに至った。違法デモには厳しい弾圧を加えることになった。これが5月まで続いた。逮捕、被疑者は12,668名、起訴されたもの6,417名、死刑、無期懲役になったものはいない。懲役3年以上10年程度の判決が中心という軽微な刑の申し渡しでこの事件そのものは終息に向かった。しかし国外へ逃亡した被疑者である運動家たちの数は計り知れない。独立運動の中心人物は上海にいったん上陸し、満州の間島(現中国吉林省東部で、ロシア・北朝鮮と向い合う一帯)で武装闘争の再起を図っていた。またある一群は密航者となって日本へ潜入して時期の到来を待った。朝鮮各地に燃え広がった暴動に対して、日本国内の反響は様々だった。多くの新聞は暴動に対して批判的であったが、朝鮮問題に影響を持っている学者や政治家の間では、政府の武力行使の行き過ぎを批判する論調も起きた。吉野作造は武断統治の失敗だと批判し、朝鮮総督府の政策転換を求める論文を雑誌中央公論などに発表した。原敬内閣が武力による統治に限界を感じ、朝鮮人の待遇改善を掲げる融和政策を取り始めたのはそうした世論の影響もあったと工藤氏はいう。

大震災当時の所感 警視総監 赤池濃

2014年12月06日 | 歴史を尋ねる
 当時の惨禍の実態・社会的混乱をリアルに想像するのは大変難しい。濛々たる大火の煙の光景、避難民によって埋まった宮城前広場、4万2千体を算する本所被服廠跡、横浜山下河岸などの写真でその幾許かを想像するしかない。みすず書房の現代史資料「関東大震災と朝鮮人」に当時警視総監であった赤池濃の雑誌「自警(大正12年11月号)」の所感記事が掲載されているので、これをを参考に当時の状況を見てみたい。
 第一震で、官舎日本館は半ば潰れた。船のように揺れている室内で制服をつけ、直ちに宮中に参内して摂政殿下の御機嫌を奉伺した。概況を奏上し、帰途四辺の光景をみて余は千緒万端、この災害は至大、至悪、或は不詳の事実を生ずるに至るべきかと憂えた。総監室に入れば内務省より2課長が来りて手伝うという。警視庁幹部と共に協議を始めたが余震がひどく、玄関前の堀端で臨時本部を設けたものの火が次第に猛烈となり、再度日比谷公園に移り、更に第一中学校に転じた。当時火は既に四方に発し、帝都を挙げて一大混乱裡に陥らん事を恐れ、国家の全力を挙げて治安を維持し応急の処理をなすべきと思い、内務大臣に戒厳令の発布を建言した。多分午後2時ごろであった。
 当日多数の人は昼食を成さざる故店頭に食料品を得んと殺到している報告を受け、警察に提供を受けて略奪暴動の発生を防ぐべきを命令した。刻下の急務中の急務は一に食料の供給にあり、これを善くすれば無事であるがもしこれを誤れば暴動を惹起すべし。古来各国の暴動は概ね食料騒動即飢餓より端を発している。陸軍省に対し、市内の食糧市場、食料倉庫、同店舗を護衛することを依頼した。余は早く情報を集めんとするも電話なく、交通機関なく、僅かに自動車、オートバイ、自転車と騎兵とによって各署との連絡を取るのみであった。

 夜に入り第一中学校に帰ったが猛火益々兇焔を逞しく天為に赤く、列風砂塵を飛ばし炎を煽り凄惨の気天地に満ちて居った。加えて余震が度々起こり人は安んぜず断末魔の時期の到来するがごとき思いて、夜宮城前を歩み見れば避難の人陸続として来たり。眼前この光景に接して、この際は人心を安定せしめるが絶対の急務なりと感じ、中央気象台に人を派遣して、今後余震はあるも、激震は無しとのことを確かめ、直ちにこれを口頭とビラをもって緒方に宣伝せしめた。また鳩首会談の結果、この際行政執行法により米穀の徴発を為す事を決した。当時余の最も痛心措く能はざりしは飢餓より生ずる悲鳴であり、失望より生ずる直接行動であった。この非常特別の事実に際して尋常の縄墨(規律)を以て事を律する事は出来ない、今や宮城前に集まるもの30万人、上野、芝、靖国神社境内二集まるもの5万乃至10万人である。これらの人々が食物を口にせず飢えを叫ぶ時、大錯乱・大混乱の時において何事が勃発するか予知できない、百難を排しても此の大衆に食料を与えねばならない、水を飲ませねばならない、これは臨機の措置如何に繋っている。政府は翌二日戒厳令と徴発令を発した。各警察官は非常の覚悟を以て米穀の所在を探知し蒐集に努め、警視庁に米俵が山積する様になった。夜より炊出しを為して罹災者を救ったのみならず、市役所その他にも交付して応急に対応した。

 今回の警戒救護に際しては、宣伝の効能顕著なるものがあった。人は極度の驚愕、極端の恐怖に襲われるいるので善悪を論ぜず、何事も聞かんとして居る、殊に悪害、不快、不詳の事の如きは之を嫌いながら尚聴かんと欲し、聴けば之を信じるの傾きがある。従って流言蜚語が行われ易い。当時警視庁は有益だと信じる資料は直ちに謄写してオートバイ、自転車を飛ばして諸処に掲示し、大声又はメガホンで伝えた、例えば「大阪より米60万石来るから安心せられよ」「青山、四谷、牛込方面は震害少なし、この方面に避難せよ」「余震はあるが大地震は無いから安心せられよ」「朝鮮人の大部分は温良従順なる故之を迫害し乱暴する事なき様注意せられ度し」の如き、又安全な避難地や救護所、その他の所在を指示する等、各種の宣伝を行う宣伝隊は精力尽瘁するほど活躍した。こうした努力で三日以後に至って市民の大部分は大いに希望を前途に繋ぎ明るい心地になった。

 当時最も遺憾とせるは不逞鮮人暴動の騒ぎであった。余は二日は午後より閣議や赤坂離宮や災害地巡視で外出し、帰庁せるは午後九時ごろ、その時鮮人二千名二子の渡しを通過し、又市中にて諸処暴動を為せる報を聞いた。その瞬間余は、大部分の鮮人が団結連絡して組織ある暴動を為すが如きは断じて無いと思った。それらの悪徒に対しては飽くまで検挙すべし、同時に大多数の鮮人は之を保護すべきを告げた。官房ではその夜二時頃より、朝鮮人の大多数は温良なる故之を迫害し乱暴せられぬ様注意あり度旨のビラを三万枚印刷し三日払暁五時より市内各所の撒布貼付した。併し鮮人暴動の流言は隼の如く全都に拡がりその伝播力の迅速なること信憑力の絶大なること只驚く外はなかった。且つ又不詳の事も耳にした、余は衷心より憂慮し早速三日内務大臣に報告し、意見を具陳し且つ閣議に出て総理大臣並びに各大臣にも同様なことを述べた。これが総理大臣の告諭の出た訳であった。