日本人をカモにした中国の対日外交と反日に系譜

2024年03月10日 | 歴史を尋ねる

 石平氏は中国の民主化運動に傾倒。北京大学卒業後、88年に来日、神戸大学院博士課程を卒業後、民間研究機関勤務後、執筆活動に入り、日本国籍を取得。山本七平賞も受賞。現在はユーチューブで活躍、その論説は明快。タイトルは氏の著書から借用した。このブログでもすでに、彼の主張を取り上げた。石平氏の鬱屈した主張をまず聞こう。二度目の引用となるかもしれないが、詫びずれずに、「1989年、留学のために日本の大学院に入り、中国近代史が日本でどのように書かれているか、興味を持った私は、日本の権威ある大手出版社から刊行された関連書籍を大学図書館から借りて色々と読んでみた。読後の感想はひとこと、『なんと気持ち悪い!』、そして唖然としてしまった。その理由は簡単だ。日本の一流知識人たちが書いた中国近代史のほとんどは、まさに中国共産党の『革命史観』に沿って書かれた、中国共産党への賛美そのものだったからである」「中国共産党シンパの日本の知識人が書いた、『中共史観の中国近代史』が広く読まれた結果として、今なお日本では、中国共産党に親近感や甘い幻想を持つ財界人や政治家が数多くいるように思う。私は、中国共産党を賛美する偽の『中国近代史』が日本国内で氾濫していることを、これ以上看過できない。嘘と偽りで成り立つ『中国共産党革命史観』を、この国から一掃しなければならない。そのために、自らの手で中国共産党史をまとめて、世に問うべきではないかと思ったのだ」と。 石平氏の主張に対して、正面から論争を持ち掛けた日本の中国近代史家は聞いていない、ただやり過ごしているのだろう。

 石平著「中国共産党暗黒の百年史」の中国近代史は次のように始まる。「中国共産党という政党が創建されたのは1921年7月1日のこと、この日こそ、中国史上と世界史に悪名を残すサタン誕生の日である。この中共という名のサタンを中国の地で生み落としたのはロシア人のソ連共産党、厳密にいえば、ソ連共産党が創設したコミンテルンである。コミンテルンの極東書記局が設立され、中国を含む極東地域で共産党組織を作り、暴力革命を起こさせるのが任務であった。こうして1921年、コミンテルン極東書記局の主導により、コミンテルンからの100%の資金援助で、陳独秀という共産主義に傾倒する知識人を中心に、上海に集まった13人のメンバーが、中国共産党を結党した。その時、現場にいて彼らの血統を指導・監督したのはコミンテルンから派遣された、ニコルスキーとマーリンという二人のロシア人である。中共は創立直後から、コミンテルンの方針に従い、煽動とテロによる暴力革命の実現を中国各地で試みたが、失敗の連続に終わり、勢力拡大も思惑通りいかなかった。当時の中国では、1911年の辛亥革命で樹立された中華民国が軍閥勢力を打倒すべく奔走していた。従って中国国内の革命勢力は、孫文と彼の作った国民党を中心に結集していたため、どこの馬の骨か分からない暴力集団の中国共産党は、本物の革命派から見向きをされなかった。
 中国共産党の不人気と無能に痺れを切らしたコミンテルンはやがて方針を転換し、孫文率いる国民党勢力を取り込むため、支援することにした。その目的は、民主主義共和国の建設を目指す孫文の革命を、ソ連流の共産主義革命に変質させ、中国革命そのものを乗っ取る事である」と。「その乗っ取り工作の先兵となるのが中国共産党であった。コミンテルンは国民党への財政支援や武器提供の見返りとして、孫文に一つの要求を突き付けた。中国共産党の幹部たちが共産党員のまま国民党に入り、国民党幹部として革命に参画することを受け入れよ、という要求だった。近代的な政党政治の原則からすれば、そんな要求は全くナンセンスで、あり得ない話だが、孫文はコミンテルンの支援をどうしても欲しかったため、このとんでもない条件を飲んでしまった。今から見れば、孫文が下したこの姑息な決断が、中国と世界にとっての大きな災いの始まりであり、国民党にとっては破壊への序曲となった。
 中国史上第一次国共合作と呼ばれるこの出来事は、1924年に起きたが、その内実は、コミンテルンに使嗾された中国共産党による、国民党への浸透工作、中国革命の乗っ取り工作である」と。

 中国の歴史書を綴る場合、紀伝体と編年体と分かれたが、石平氏の記述方式は中国共産党を一個の人間に例えた紀伝体記述方式である。歴史を深く理解する為にはこの方式の方がベターである。編年体方式は歴史の表面に表れた事象の羅列に留まることが多く、歴史の裏面を知るには難しい。更に、ここでは中国共産党の歴史を知るのではなく、日本との関りについて、タイトルの内実に迫りたいと思う。石平氏は次のように記述する。
 中共の思惑にのった「国交正常化」
 「中国共産党政権が成立した1949年から1972年の23年間、共産党統治下の中国は、隣国の日本と、ほぼ無交渉の状態であった。その時代、日本は共産党中国を国家として認めておらず、国庫を結んでいたのは台湾の中華民国の方であった。そして、東西対立の冷戦時代において、日本はアメリカの同盟国として西側陣営に属し、共産主義陣営の中国とは対立関係にあった。共産主義国家・中国と国交断絶していた状態は、日本にとって決して悪くはなく、むしろ幸いだった。日米同盟に守られる形で日本は長期間の平和を享受でき、戦後復興と驚異の高度成長を成し遂げ、世界屈指の経済大国・技術大国となった。そして今振り返って銘記しておくべきは、日本の戦後復興も高度成長も、中国市場とは何の関係もなく、中国と経済的に断絶したまま達成できたことである。
 日本が共産党政権下の中国と初めて正式に関係を持ったのは1972年、中国政府は当時の田中首相を北京に招き、一気に国交正常化にこぎつけた。中共政権は一体なぜ、日本との国交樹立を急いだのか。その背景にあったのはもちろん、当時の中国とソ連との深刻な対立関係である。1949年に中共政権が成立すると、外交関係では直ちにソ連と同盟関係を結び、共産主義国家陣営に文字通り一辺倒の状態となった。1950年代を通じて、中国は一貫してソ連との同盟関係を基軸に、反米・反自由主義世界の外交政策を進め、共産国陣営の主要メンバーとして西側と厳しく対立した。だが1960年代に入ってから、状況は次第に変わっていった。
 共産主義国家陣営内の主導権争いで、毛沢東政権はソ連共産党とケンカを開始し、対立が徐々に深まった。60年代半ばになると、中共政権とソ連共産党政権は完全に決裂して、互いのことを共産主義の裏切者と罵り合うようになった。そして1969年、中ソの間で国境を挟んだ軍事衝突まで起きた(珍宝島事件)。両国はこれで、不倶戴天の敵対関係となったが、ソ連と敵対関係になった中国はソ連を盟主とする共産主義国家陣営からも当然破門となり、追い出された。同時に、中国は共産主義国家として冷戦中の西側陣営とも対立していた。まさに世界の孤児となり、史上空前の四面楚歌の孤立状態に陥った。しかも軍事大国だったソ連は、中国との長い国境線に100万人規模の大軍を配置して、いつでも中国側に攻め込む態勢をとっていた。これは外交面でも安全保障面でも、中共政権にとって政権樹立以来の最大の危機であり、政権崩壊につながりかねない。この危機的な状況を打開するため、1972年2月、中共政権は水面下での工作を周到に行った上で、当時のニクソン米大統領を北京に招き、米中対立の劇的な緩和を図った。
 一方のアメリカにも、中国に接近して強敵のソ連を牽制しようとする戦略的意図があったから、双方の思惑が一致して両国間関係は改善された。これで一気に、米ソ両大国と敵対する危険な状況から脱出したが、アメリカとの国交樹立までには至っていない。アメリカは民主主義陣営の盟主として、共産主義国家・中国との国交樹立までは、さすがに躊躇していた。そこで中国は、日米同盟の矛先をかわし、ソ連の脅威から自国の安全を守るために、日本との国交樹立に動き出した。ニクソン訪中から7か月後の1972年9月、中国は時の田中角栄首相を北京に招き、わずか数日間の交渉で一気に国交樹立を実現させた。そのために中国政府は「日本に対する戦争賠償の放棄」と「日米安保条約の容認」という二つの好条件を揃えて日本側に差し出した。自らの国際的孤立を打破して強敵のソ連と対抗するため、当時の共産党政権はそれほど日本との国交樹立を熱望していた。
 しかしこの国交正常化は日本にとってどんなメリットがあったのか。前述のように、1972年までに二十数年間、日本は中国との関係を断絶したまま、長い平和と安定を享受できたし、中国市場と無関係に戦後復興と高度成長を見事に成し遂げていた。しかも、当時の日本は中国のように国際的に孤立していたわけでもなく、ソ連を含む世界の主要国のほとんどと国交を結び、概ね良好な関係にあった。ならば日本は何のために、共産党政権の中国と国交を結ばねばならなかったのか。この問題について、当時の日本の政治家も、後世の専門家も、誰一人として明確な答えを出していない。田中角栄を含む当時の日本の政治家や外交官僚はただ日中友好のムードに流されて、なんとなく、中国と国交正常化して良かったと思っていただけだろう」と石平氏はきびしい。確かに当時はあの支那事変の負の遺産を清算したいという気分はあった。共産党中国というよりは、中国と。しかしその中国は台湾の中華民国が引き継いでいた。その中華民国を切り捨てて、共産政権と国交を開いた。率直に言えば、共産党中国をそれほど恐れて居なかった、それより巨大な人口を持つ国家を認知した方が、地政学的に安全だと、時の政府は考えたのかな。その後の両国の経緯を見て、石平氏は言う。
 「今から見れば、1972年の日中国交正常化の正体は、まさに中共政権による、中共政権のための国交正常化であった。その時から約半世紀にわたる、中国共産党による日本の利用と、日本叩きの始まりに過ぎなかった」と。

 日中友好の甘言で資金と技術を騙し取った鄧小平
 「田中訪中の1972年当時、中国は文化大革命の最中であった。中国は完全な鎖国政策を取っていたため、国交が樹立されてからもしばらく、日中間で目立った往来や交流はなかった。やがて1976年に毛沢東が死去すると、数年間の権力闘争を経て中共政権の実権を握ったのは共産党古参幹部の鄧小平であった。現実主義者の彼は最高実力者の座に就くと、毛沢東時代晩期に崩壊寸前だった中国経済の立て直しを何よりの急務とし、中国経済を成長路線に乗せることを至上命題とした。そのために開発開放路線を唱え、強力なリーダーシップで推進していった。
 改革とは要するに、毛沢東時代に出来上がった計画経済のシステムに改革のメスを入れ、資本主義的競争の論理、市場の論理を導入することである。それによって、中国経済の活力を取り戻そうとした。
 開放とは、毛沢東時代の鎖国政策に終止符を打ち、中国を世界に開放することだ。その最大の狙いは、外国の資金・技術を中国の導入することだ。経済を成長させるには技術・資金・労働力の三つの要素の投入が必要である。当時の中国には労働力はいくらでもあったが、肝心の技術と資金がない。そこで鄧小平は、開放路線の実施によって先進諸国から技術と資金を導入する方法を考え出し、実行に移した。その時、鄧小平たちが技術と資金を導入する国としてまず目をつけたのは、近隣の経済大国・日本である。
 日本は今でも世界有数の経済大国・技術大国であるが、1970年末の時点では世界での存在感は今よりもっと大きかった。日本には、鄧小平が喉から手が出るほど欲しい技術と資金がいくらでもあった。それを中国に引っ張ってくるために、鄧小平たちは日中友好という心にもないスローガンを持ち出して、日本の政界と財界、そして日本国民を篭絡する戦略をとった」と。 籠絡(ろうらく)する: 巧みに手なずけて、自分の思いどおりに操ること。「甘い言葉で—する」  石平氏がなぜここで籠絡する戦略と言い切っているのか。
 「中国はまず、1978年8月に「日中平和友好条約」の締結にこぎつけた。その上で、この年の10月22日から29日までの8日間、鄧小平は事実上の中国最高指導者として初めて、日本を正式訪問した。8日間にわたる長旅の日本訪問で、鄧小平は尖閣問題の棚上げを表明した。歴史問題にもいっさい触れないことにした。彼は極力、日本のマスコミと国民の好感を買うよう努めた。その一方で鄧小平は、あらゆる場面で日本の産業技術への興味を示し、日本の政界と財界に対して、中国の近代化への支援を求めた。訪問の期間中、鄧小平は日本の産業を代表する新日鉄・日産・松下の3社を見学したが、新日鉄の君津製作所を見学した際、工場の設備や技術について詳しく尋ね、その場で日本側に対し、中国人労働者の受け入れと中国に投資して同じような工場を建設するよう要請した。中国側にとって、鄧小平訪日は想定以上の目的を達成し、大成功に終わった。石平氏の手元には、人民日報運営の「人民網日本語版」が2008年12月3日に、鄧小平訪日30周年記念に掲載した回顧記事があるが、次のように総括している。『鄧小平氏の訪日後、中国では日本ブームが沸き起こった。多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれた。中日政府による会議も相次いで行われた。官民の各分野・各レベルの交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展した」 このブログでも取り上げた清朝末期での中国人留学生が大勢日本に押しかけたときのことを想起させる。現在はすっかり忘れられた日中間の交流は繰り返し起こっている出来事だ。しかもどれも中国側からの要請で起きている。しかし石平氏の引用した新聞記事は日本語版である。中国版ではどうなっているのか。中国版で触れられていなければ、籠絡する戦略の裏付けの一つになる。
 「人民日報記事に言う両国の協力は急速に発展したとは、日本が朝野にあげて資金と技術を中国に注ぎ込んでいったことを意味する。実際、鄧小平訪日翌年の1979年から、中国に対する政府開発援助(ODA)が日本政府によって開始され、経済成長を促すインフラ整備のため、大量の資金が中国に流れた。さらに、鄧小平自らが訪問した新日鉄や松下電器をはじめ、多くの日本企業が競って中国進出を進め、中国国内で投資を始めた。投資すれば当然、資金と技術を持っていくことのなる。
 結局、当時の日本政府と日本人は、日中友好という世紀の甘言と歴史問題や尖閣問題を巡る鄧小平の善隣友好姿勢にまんまと騙されて、中国が喉から手が出るほど欲しがっている資金と技術を鄧小平の懐へ注ぎ込んだ。中国はそれを利用して産業の近代化を図り、ボロボロの経済を立て直して成長の軌道に乗せることが出来た。しかし鄧小平は日本からの資金と技術の提供に、本心から感謝したか。もちろんしない。鄧小平は本当に歴史問題も尖閣問題も忘れたかといえば、もちろん忘れていない。1982年6月、日本の文部省の歴史教科書検定で華北侵略が華北進出に改訂されたとの報道が出ると、中国政府は早速外交問題にして日本政府に圧力をかけた。そして日本の歴史教科書の記述が近隣国に配慮しなければならないという近隣諸国条項を事実上、日本に強いた。
 1985年、戦後政治の総決算を掲げた当時の首相、中曽根康弘が8月15日に靖国神社への公式参拝を行うと、中国政府はまたもや、日本の内政問題であるこの一件を政治問題化して、あらゆる手段を使って日本側への圧力を強めた。その結果、中曾根康弘は翌年からの公式参拝を取り止め、自ら掲げる戦後政治の総決算は最初から頓挫することとなった。
 日本を利用すべき時は思う存分利用し、叩くべき時は思い切って叩く。鄧小平はによって開発されたこの老獪にして横暴な日本対処法はその後、中共政権の対日外交の常套手段となった。」 巧みに手なづけて、自分の思うどうり操ること。ここまでの経緯を紐解くと、確かに籠絡するという言葉が残念ながら当てはまる。

「1989年6月に中国では天安門事件が発生、中共政権は戦車部隊まで動員し、民主化を求める学生や市民に対し、大規模な虐殺を断行した。これで中国は世界中から激しい批判の嵐に晒され、国際的に完全に孤立した。アメリカを中心とする西側諸国は中国への制裁を実施し、海外からの投資が完全にストップした。89年、90年の経済成長率はそれぞれ4%台まで落ち込み、実質的なマイナス成長となった。このままでは、中国は国際社会から孤立したまま、経済崩壊という最悪の結末を迎えることになりかねない。人権抑圧に反発する西側諸国は、経済面だけでなく、首脳らの訪中も取りやめるなど制裁の幅を広げていた。当時の中国指導部にとって、こうした対中制裁網を突破するため、どこかに風穴を開けることが緊急の課題となっていて、まさに生き残りをかけた最優先任務だった。彼らが目をつけたのは、西側先進国の中で中国の外交工作にもっとも弱く、中国にもっとも利用されやすい日本である。
 外交的孤立の突破口を開けるため、中共政権は盛んに対日外交工作を行った。天安門事件翌年の1990年11月、外交担当の副首相だった呉学謙は天皇陛下の即位の礼への参列のため日本を訪問し、与党自民党と野党の要人たちと続々と会談を行った。外交工作の結果、呉学謙訪日の直後に、日本政府は天安門事件後に凍結していた第三次円借款の再開を決め、西側諸国野中で最も早く、率先して中国への経済制裁を解除した。そして1992年4月、今度は共産党総書記の江沢民が日本を訪れた。彼の訪日の最大にして唯一の目的は、当時の宮澤喜一内閣を相手に、天皇訪中を実現する工作の大詰め作業であった。江沢民と中共政権はこの工作の成功に国運のすべてをかけていたが、結果的に彼らの必死の工作が功を奏し、1992年10月、日中関係史上初の天皇訪中が実現した。
 江沢民と中共政権は、この外交上の成功から何を得たのか。時の中国外相の銭其琛が2003年に出版した回顧録の中で、『日本は中国に制裁を科した西側の連合戦線のなかで弱い部分であり、自ずから中国が西側の制裁を破る、もっとも適切な突破口となった』『天皇訪中が実現すれば西側各国が中国との高レベルの相互訪問を中止した状況を打破できるのみならず、日本の民衆に日中善隣友好政策をもっと支持させられるようになる』『この時期の天皇訪中は、西側の対中制裁を打破する上で積極的効果があり、その意義は明らかに中日両国関係の範囲を超えていた。この結果、欧州共同体が制裁解除を始めた』
 そのために、中共政権は国を挙げて天皇訪中を熱烈歓迎した。党総書記の江沢民自身が先頭に立って日本中の親中政治家やチャイナスクールの外交官を動かし、対日工作を必至に展開した。工作によって実現した天皇訪中は、最初から最後まで中共政権の党利の画策されたもので、まさに中共による中共のための政治的イベントに過ぎなかった。その結果はすべて、中共政権の望む通りの展開となった。天皇訪中以来、中国は日本を突破口にして西側の制裁網を打ち破り、国際社会への復帰をみごとに果たした。状況が安定してからは、中国への諸外国からの投資は以前よりも格段に増え、ふたたび、中国経済の高度成長の起爆剤となった。そして、天皇訪中の1992年から2021年までの30年間、中国は史上最大にして最長期間の高度成長を成し遂げ、日本を抜き去って世界第二位の経済大国となった。高度経済成長の上に成り立つ中国の軍事力と外交力の増強は、日本の安全保障を脅かす、現実の脅威となっている」

 「天皇訪中から6年も経った当時、中国は天安門事件以来の疲弊した国内経済の立て直しにある程度成功し、当時のアメリカのクリントン政権ともよい関係を構築して、国際的立場はかなり強くなった。日本に対する立場がすでに優位になったと思った江沢民は、日本訪問中、いたるところで歴史問題を持ち出し、激しい日本批判を行った。中国を大いに助けたこの日本の地において、彼は終始一貫、威圧的・横暴な態度を貫いた。恩を仇で返すという言葉を地でいく、あるまじき言動であったが、日本人としてもっとも許し難いのは、天皇陛下主催の宮中晩餐会での江沢民の無礼千万の振る舞いであった。宮中晩餐会の礼儀に沿って、ホスト役の天皇陛下をはじめ、男性の出席者全員がブラック・タイの礼服を着用していた。ところが、江沢民一人だけが黒い人民服を身に着けて厳しい表情で臨席し、天皇陛下に対する非礼の態度を露わにした。そして晩餐会でのスピーチで江沢民は、日本軍国主義は対外侵略の誤った道を歩んだ云々と、天皇陛下の前で公然と日本批判を行い、日本国と天皇陛下の両方を侮辱した」「日本人にとって大きな屈辱だったこの光景こそ、1972年の国交樹立から始まった日中関係の基本的性格を象徴的に表したものである。約半世紀もの間、日本という国は、いつも中共政権に利用されて中国を助けた後、噛みつかれて深い傷を負う羽目になった」と石平氏は日本人以上に憤っている。日本人をカモにしたというタイトルも納得いく経緯である。いったいこれは何に起因しているのだろうか、これは我々自身への課題でもある。

 石平氏は言う。石平氏が記述した衝撃的な真実から再度、中国共産党の邪悪な本質を認識していただきたい、そして日本が今後、中国共産党が支配する中国とどう向き合っていくべきか、真剣に考えて頂きたいと結んでいる。では日本の現状はどうなのか、中国共産党にきちんと日本側の考えを正確に伝えることで評価の高かった、中国がもっとも恐れる男と異名を持った元駐中国大使、垂秀夫氏の見解を東洋経済オンラインでのインタビュー記事で聞こう。
 1、日中関係の課題は?
 「日中関係の基礎は経済交流と人的往来だ。とくに私は人的往来、なかでも中国から日本への人の流れに注目している。いま中国人が日本に大勢来ているが、私はこれを近代史で3回目の「日本ブーム」ととらえている。アリババ創業者のジャック・マー(馬雲)氏などの有名人も日本に生活拠点を持っていることが知られている。この現象を、歴史を踏まえて観察することが必要だ。国の将来を悲観して、多くの中国人が海外に渡っている。行き先としてはアメリカ、カナダ、オーストラリア、シンガポールなどが候補になってきたが、いまは日本が一番ホットになっている。
 2、習近平の統制を嫌っている人たちは、日本をどう思っているのか?
 1989年の天安門事件の際に、日本はまっさきに制裁を解除した。そのことが共産党に塩を送ったという印象があるので、体制に距離を置く知識人は日本に関心を失っていた。
 私は2002年に胡錦濤政権が成立したころから、中国の先行きを考えるうえで「民主主義」と「法の支配」が決定的に重要になると思っていた。そこで私は継続的に知識人を日本に招いて、現実の日本社会を見てもらうようにした。そのなかには、国会議員の選挙を視察した人もいた。与党と野党それぞれの候補の演説風景を見たり、選挙カーやポスターをめぐるルールなどを知ることで、「民主主義」がどのように運営されているかを理解したようだ。当時の安倍晋三首相が応援演説している際に握手した人は、大いに感動していた。「アジアに民主主義と法の支配がここまで定着している国があった」ということで、彼らにとっては「日本を再発見した」という思いだったろう。東日本大震災の際の日本社会の秩序ある対応に感動している人も少なくなかった。
 3、日本を知ってもらう事で中国の変化を期待するという事か?
 中国をどう変えるかは、あくまで中国人が決めることだ。しかし中国が「民主主義」と「法の支配」を尊重する方向に変わっていくなら、それは日本にとってもいいことだ。そうした変化の担い手とのつながりをもっておくのは大事だろう。いま日本に富裕層が多く来ているというのは大きなポイントで、彼らは今後中国が変化していくうえで重要な役割を担う可能性がある。現在の台湾の与党である民主進歩党はもともと体制外の活動家の集まりだったが、台湾の企業家たちがスポンサーになったことで政党として成長した。

 中国の変化を待つ、これが従前から共産中国に対して取って来た日本のスタンスではなかったか、その結果が石平氏の各種指摘であり、習近平政権の日中戦争にまつわる三つの国家記念日、7月7日の「抗日戦争勃発記念日」、9月3日の「抗日戦争勝利記念日」、そして12月13日の「南京大虐殺犠牲者追悼日」を2014年2月の全人代で法案を採択した。中国の変化を待つという消極的な政策はお蔵入りだ。その間、国が動いた。日本が前面に立つようで立たないでいられる、対中国包囲政策が安倍政権の時に実行された。「TPP」結成であり、「自由で開かれたインド太平洋戦略」であり、自由や民主主義、法の支配といった基本的価値を共有する日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みのクアッドなどである。背後にはトランプ政権の時に始まった対中貿易政策もある。巨視的な見方は次回に回そう。

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