番外編2 通貨が同種同量交換 日本側の事情

2011年12月28日 | 歴史を尋ねる

 オールコック著「大君の都」は、日英修好通商条約調印後の1859年オールコックが駐日総領事に着任して4年後に、一時帰国していた折、ロンドンで刊行された。当時読まれていたぺりーの「日本遠征記」、イギリス全権公使の随員による「エルギン卿遣日使節録」に対抗する気持ちもあった。この本を精緻に読み解くことによって、佐藤雅美氏の「大君の通貨」は出来上がっている。特に「大君の都」最終章(第39章)は日本の貨幣制度と通貨の問題をテーマにしているが、アーバスナットの指摘を受けて書き加えられたものと佐藤氏は推理する。オールコックはこの本をロンドンだけではなく、ニューヨークでも刊行させた。横浜でゴールドラッシュが始まったのち、オールコックは横浜の外国商人やオランダ居留者、現地に駐在している新聞記者から批判の集中砲火をひとり浴びたが、その批判はハリスにこそ向けられるべきだとの思いがあったのだろうと推理する。

 「大君の都」の中でオールコックは、通貨に関してアメリカ人の最初の議論がおかしいことに触れ、「事実と両方の陳述を注意深く考慮してみると、この問題に通じている人なら当然いえる結論は、日本人の議論の方が勝っており、彼等は当面の問題をかなり正確に理解していたということである。4年後にハリス氏が新しい条約の交渉をしていた時にも、日本人がこのときの決心を堅く守っていたなら、彼等もにとって、我われにとってもよかったであろう」と記している。しかし肝心の日本側の主張を書き忘れ、先を急ぐと、オールコックの記述を巧みに利用して、ことの真相に佐藤氏は迫る。確かにごり押しだといっても通商条約の条文に通貨の同種同量交換は書き込まれ締結されている。この間の経緯を次のように整理する。

 ペリーの一行(二人の主計官)に日本の通貨事情を説明したのは、二人の下田奉行支配組頭で、「天保一分銀は政府の刻印を打つことによって三倍の価値が与えられている通貨である。従って価値は三倍の重さのドルラルと等しい。そもそもドルラルは山出し銀や細工銀のようなもの。天保一分銀と重さで比較することは出来ない」といった。 このとき政府関係者、老中首座勝手掛老中も勝手掛勘定奉行も天保一分銀は代用貨幣であるという本質を知らなかった。知っていたのは勘定所の下っ端役人だけで、対応した組頭もその本質を知らない、ただ書状を口移しに述べた、この曖昧な態度が、ぺりー一行をいぶからせ、物価を三倍に吹っかけたとペリーに報告した。その後、日本側は、通貨について何らの調査もしなかった。

 ハリスは下田に上陸すると二人の下田奉行と海防掛目付の岩瀬忠震(ただなり)を相手に同種同量交換の正当性を説いた。岩瀬らはハリスの主張が正しいと思い、上申書を提出した。大目付グループの俊秀とうたわれている岩瀬が云っていることに間違いはないと、上申書を是とした。勘定奉行グループはなにやらおかしいと思いながら、同じく認めた。このグループに水野忠徳もいた。そして通貨の同種同量交換が下田協約の三条に盛り込まれた。その後、貿易筋の取調という名目で、水野と岩瀬は長崎に出かけオランダ、ロシアとの条約を結んだ。その過程で、水野は長崎の地役人から教えられ、天保一分銀の性質を知った。そしてオランダとロシアには一ドル一イチブという為替レートを盛り込ませた。その後岩瀬は代表交渉者となってハリスと通商条約の交渉を始めた。しかし五条に同種同量が盛り込まれた。それは時の総理、堀田正睦が通商条約の締結を急いだ、イギリスの中国沿岸での無法に、ことのほか畏怖したから、イギリスがやってくる前に、艦船を伴わないハリスと、よりよい条約を結ぼうと考えたからであった。堀田は岩瀬に、「ハリスに日本の通貨事情を教えないで、条約交渉に入るように」指示した。岩瀬は拒否したが、堀田は、開港に当たっては、一分銀の三倍の重さを持つ新一分銀を外国人用に鋳造するので不都合はない、と説明した。しかし、堀田は通商条約の勅許を得ようと上京して失敗。すぐに井伊直弼が登用され、岩瀬は井伊からパージされた。堀田から左遷された水野忠徳が井伊に登用され、外国奉行になった。


番外偏 幕末通貨(為替)戦争

2011年12月23日 | 歴史を尋ねる

 緻密な時代考証でその時代を正確に描写する佐藤氏の著書に驚かされるが、どうしてもはずせない「大君の通貨」で、西欧との遭遇でいかに当時の日本の通貨と経済が未曾有の混乱を起こしたか振り返っておきたい。

 佐藤氏は幕末日本が開港したとき、横浜で小判が大量に流出した、それは日本と西欧との金銀比価の違いから生じたもので、日本人の無知のせいだと説明されるが、かねて疑問に思っていたテーマをものにして、新田次郎文学賞を貰った。初版本が出たのは、プラザ合意((1985)の前年であったのも、その後の日本の資産バブルとその崩壊は、歴史は繰り返すというのか何か象徴的である。佐藤氏の著書風に登場人物を前もって紹介しておきたい。ラザフォード・オールコック:英国の医師上がりの外交官、初代駐日外交代表。タウンゼント・ハリス:米国商人あがりの外交官、日本修好通商条約の調印者。水野筑後守忠徳:通貨問題でオールコック、ハリスと相対した幕府の外務官僚。ジョージ・アーバスナット:英国大蔵省吏員、通貨の権威あるコンサルタント。

 幕府はオールコックのの勧めもあり、開港延期問題でイギリスに使節を送ることにした。その時、使節団はしつこく「イチブ(天保一分銀)を回収して、1・5倍の重さの半イチブを流通させることにつき、条約締結国の承認をとりつけること」という訓令を要求した。オールコックは一件書類を添えてイギリス大蔵省に提出、意見をもとめた。ジョージ・アーバスナットは「日本の通貨問題に関するレポート」を大蔵大臣に提出していた。そして、「結論から申し上げると、通貨に関しては日本側の主張が正しかったようです。日本における通貨の混乱は、これはすべて日本側の意向を無視した外交団のごり押しに原因があります。あなたやアメリカ公使がとった行為は十分非難されるに値するものです」「日本政府はあなた方に、日本は金本位制、コバング(小判)本位制をとっていて、銀貨イチブはコバングの補助貨幣であるといった。わが造幣局で調べた結果、一コバングは四ドルに当たる。したがって一ドルは一イチブ。確かに重さで比較するとドル貨の三分の一になるが、イチブは政府の刻印を打つことによって、三倍の価値が与えられる通貨だった。武力を背景に威力をかけられたのでしょう、一ドル三イチブでしぶしぶ両替した。日本側が極端に両替制限をするのは当然のことだった」「あなた方外交官も三分の一で日本の商品を買い、日本人を使用していた。どうしてそのことに気がつかなかったのでしょう」 この辺は佐藤氏の意見でしょうが、外国商人がドル銀貨を持ち込んでは金貨を大量に持ち出したのは、ハリス、オールコックが非難さるべきで、更にハリス自身も利殖していた事実も判明しているようだ。

更に佐藤氏はアーバスナットの説明を借りて次のように言わせている。「日本政府は宮殿の焼失を機にイチブ両替をストップした。ところがあなたは訓令に違反してまで日本政府を脅しつけた、そして不合理な為替レートを復活させた。続いてアメリカ公使が金価格を引き上げるよう迫った。しかし日本側はあなた方に回答してきているように、本位貨幣である金貨の価格を引き上げると、その分物価が上がるからと、引き上げなかったが、あなたが脅しつけたあとにわかに姿勢が変わり、受け入れた。そして金価格は三倍、物価は急騰した。価格を転化する手段を持たない支配階級、武士(サムライ)は物価上昇による生活苦に悩まされつづけた。この怒りはどこに向けられるでしょう、開国と貿易、それを許可した日本政府、及び条約締結国に向けられる」 「大君政府は歳入のかなりをイチブを発行することによりまかなっていた、金価格を引き上げることは、それを失う。物価が暴騰がし終わり、物価調整が終われば、イチブを発行していたことによる益金、歳入はなくなる」 佐藤氏は徳川幕府崩壊の一つに上げている。

 ところで幕府側の通貨政策を主張していたのは水野筑後守忠徳であった。日本は金本位制、日本の銀貨は刻印を打って通用させている金貨の代用通貨だと主張したのは彼であった。そして同種同量の条約内容に対抗するため、二朱銀貨まで作って用意していた。しかしオールコック・ハリスに猛然と反対されすぐに引き下げる運命となった。このときの外国事務係老中は間部下総守詮勝で通貨に暗く外交にも暗かった。そして、外国人殺傷事件の機に乗じて、初動捜査に誤りがあるとして水野を激しく責め、水野の罷免を要求した。間部はハリスの進言を受け入れて水野を更迭した。通貨問題も職掌外となった。横浜の本格的な小判流出、ゴールドラッシュはこうしてはじまった。


別子銅山売却騒動

2011年12月23日 | 歴史を尋ねる

 「たかだか十万両くらいのはした金に目がくらみおって」 宰平は吐き捨てるようにいったと、佐藤雅美氏の著書は続く。明治2年(1869)広瀬は義右衛門から宰平と自ら改名した。その由来は「これ亦、幸に人を主宰するの任に当らは、能く公平に万般に事物を処決裁断せんとの心契に外ならさりしなり」といっているそうだ。住友グループのトップになった時の心境のようであるが、今はまだ、その前年である。

 目がくらんだというより、当主の友親も、本店の幹部連中も、みんな借金に疲れきっていた。大名貸しは焦げ付き同然、累積資本はマイナス、このところの損益は春以来のごたごたでやはりマイナス、毎日金策に走り回っていた。そこへ、5月突如「銀目停止(ぎんめちょうじ)」という、大坂の経済界を根底から揺るがす、金融政策の変更が行われた。京・大阪では丁銀・豆板銀などの秤量銀貨を使用していた。今後、丁銀・豆板銀などの使用を禁ずるというのが、「銀目停止」である。当時、大阪は高度に信用制度が発達していた。商人は現金を手許に置かず、信用を得るため両替屋、いまの銀行に預けた。代りに預り手形を貰った。仕入代金などの支払は預り手形を流用した。振出手形を切った。取引のある両替屋へもっていけば、現金にしてもらえる。言葉は手形だが、いまの小切手に近い。この手形は持ち運びに便利、兌換紙幣のように使われていた。やがて残高以上の手形の発行を始める。大坂の両替屋が紙幣(手形)を発行し、信用を創造していたといえる。銀目停止は、長年かかってつくりあげたこの信用制度を一挙に叩き壊してしまう、制度変更だった。日本銀行金融研究所の「貨幣の散歩道」では、「貨幣制度の統一を狙いとして、金貨による貨幣単位の統一を目的として実施されたのが銀目停止。これは、銀建て取引の廃止および銀建てによる既往貸借契約の金貨単位への書換を求めるものであったが、恐慌心理が働いて大坂の金融界をパニックに陥れた」とある。具体的にはとりつけ騒ぎにあって、両替屋は軒並み、ばたばたと店を閉じた。

 そんな折、銅会所の地役人をしていた男から「どや、別子銅山を十万両でうらへんか」と話を持ちかけてきた。この話を本店幹部は大番頭の源兵衛、卯兵衛を通さず、24歳の当主友親に話をあげた。渡りに船と話にのった。そこへ京から引きあげてきた宰平が本店幹部に面談した。埒が明かず、源兵衛、卯兵衛を引っ張り出して、当主も入れての大会議、といっても今様でなく、佐藤雅美氏の腕の見せ所、結論としては当主に源兵衛、卯兵衛の二人で相談し遠慮なく申し述べよとの書面で手渡し、全員が誓約書を出すことで決着、別子銅山の存続が決まった。新政府になっても今度は鉱山局の足枷が着いていたが、いずれ、自由に商いが出来るようになるだろう、それまでの辛抱やと言い聞かせながらの再スタートであった。

 新政府は財政基盤の強化に迫られ、貨幣素材の金銀銅、とりわけ金銀の確保を重要課題とし、幕府の直山だった佐渡金山と生野銀山を官営にして、経験者や技術者を集めた。宰平もそんなひとりとして召集がかかり、役人になった。新政府は鉱山技術者兼鉱山学校教師としてお雇い外国人コアニーを雇った。コアニーは生野を視察して、各種機械を発注した。宰平は住友と二束のわらじを履いていたが、鉱山司に詰めていると、新政府の鉱業政策や銅政策の変化は手にとるようにわかった。明治2年2月、太政官布告が達せられ、銅は原則自由採鉱と自由販売を認めた。つづいて銅の輸出も認めた。更に、精錬も大坂まで運んで精錬する必要もない、今で云う一気に規制緩和であった。宰平は別子に戻ると、日本の採鉱技術はそれまで槌(つち)と鏨(たがね)であったが、火薬の使用を始めた。明治4年生野に各種機械が据え付けられると、その機械の稼動状況を宰平はつぶさに確かめた。役人を辞任した後、別子の改革に、外人鉱山技師を雇い入れて、近代化プランを作成させた。しかし当時実行するだけの金がなかった。宰平はしずくがたまるように金のたまるのを待った。不要不急のものは従来のもので間に合わせ、和洋折衷、和洋混淆、別子銅山の近代化は泥臭く進むこととなった。

 住友中興の祖といわれる広瀬宰平は、ワンマンで気性が激しかったといわれ、乱世にふさわしい経営者といわれているそうだが、別子銅山の再生は、あせらず、粘り強く、石橋を叩いて渡るような手堅い経営者でもあった。


長崎御用銅の廃止と銅山御預り

2011年12月18日 | 歴史を尋ねる

 佐藤雅美著「幕末住友役員会」の力を借りて、幕末激動期の住友の苦闘を追いかけることとしたい。ペリーがやって来た、プチャーチンがやって来た、ハリスがやって来た、幕府の官僚陣は彼等がやってくるたびに、緊張し、身構えた。目的は交易にあるだろうことは容易に想像がつく、「何」を求めてか?「国土の筋骨」である「銅」に違いない、交易をはじめれば間違いなく銅を抜き取られる、幕僚陣はそう考え、身構えた、と佐藤氏は云う。この時代、日本の大砲は鉄ではなく、銅を素材としていた。軍需素材として銅は欠かせない。具合悪いことに、長崎ではオランダ人と唐人に輸出品として銅を売り渡している、求められれば拒みにくい、ならばどう振り分けるか、幕府は大真面目に悩んだ、プチャーチンが長崎にやって来たから、幕府官僚陣の江戸ー長崎間の往来は頻繁になった。よく見ると、銅を不当に安く売り渡している。こんな不当な交易はやめさせなければならない。

 安政4年(1857)オランダを相手に和親条約の追加条約を締結、銅の原則輸出禁止条項を盛り込んだ。そして長崎会所の対蘭貿易は終止符を打った。対中貿易は、太平天国の乱で中国側の貿易商が没落、こちらも事実上終止符を打っていた。幕府が五ヶ国と通商条約を結んだのは、オランダと追加条約を調印した翌年、安政5年(1858)で、銅の原則輸出禁止条項が盛り込まれた。しかし産業革命による各種技術進の進歩で、世界の産銅量は飛躍的に伸びつつあった。アメリカやイギリスは驚異的に産銅量を増やし続けている。製造コストも安い。日本の開港後の貨幣価値の見直しで、銅器・銅製品の買いあさりはなくなった。慶応2年(1866)江戸の勘定所から長崎御用銅廃止の沙汰を住友は受け取った。更に買請米(別子銅山は米を全量買い求めねばならない、住友は幕府に要請して別子銅山用に毎年六千石の幕領米の支給を受ける許可を得た。その後代銀は何度か改変があり、幕領地の時価となったり割り引いてもらったりした)も御差し止めとの達し。米が減らされれば休山に追い込まれる、それまでも長州征伐時、米を減らされて休山の危機に追い込まれたこともあった。別子銅山の責任者だった広瀬宰平はその都度奔走した。銅山に於いて生活するもの凡そ五千。

 慶応4年1月7日、宰平の下に急飛脚、幕府の兵が鳥羽伏見で薩州を主力とする兵に敗れたとの報、幕府が倒れれば銅座がなくなり、直売り、自由販売が出来る、儲けは桁違いに増える・・と思ったが、吹所にある銅蔵はすべて薩州の市中見回り隊に封印された。通貨の発行権は幕府にあったが、薩摩藩はせっせと天保銭を鋳造していた。 それ故に、大小砲器の製造、修理、砲台の建設も、聊かも差支えなかったとの文書も残っている。この時期の住友の経理内容は、焦げ付き同然の大名貸しを別にして、累積資本はほぼゼロ、年度の損益もほぼゼロという状態だったという。しかも銅座に売り上げた銅代金が入金しての話。薩摩に続いて、銅山は土州(土佐)の支配下になった。「土州少将当分御預り別子銅山出張所」の表札が立った。責任者は河田元右衛門(のちに川田小一郎の名乗る、三菱の創業を助け、日銀初代総裁となる)。広瀬宰平は河田にお目通り願って、別子銅山の開坑の経緯を説明、幕府の直山でないこと、今のままでは五千人の住民が路頭に迷うことを訴えた。広瀬は河田の銅山見聞に付き添いながら、河田から幾度となく岩倉具視の名前が出た、住友の願の筋は京に行くことに誘いがあった。すぐさま鷹藁源兵衛に相談して、朝廷宛永代請負のため、永代冥加金として精銅を献納、同様に土州にも献納、更に岩倉に金子を贈る。早速岩倉は宰平に会うことを約束、土州からの意見書は自ら銅山を運営することとなっていたが、新政府の銅政策は幕府の銅政策を踏襲する太政官布告が示達された。


別子銅山の不振と金融業の行き詰まり

2011年12月14日 | 歴史を尋ねる

 鷹藁源兵衛と広瀬宰平のヒソヒソ話はまだ続いた。「わしらはお上、御公議のためにも働いている。御公議はオランダとの交易はやめられぬ。それは海外の風聞を仕入れる唯一の窓口がなくなってしまう。オランダの交易船が年一回入港してくるたびにオランダ風説書を出させている。そのほかに西土(西洋)の珍しいものにも触れたい」「世の中がひっくり返って、自由に交易ができるようになると、えろう儲かることになりまんな」

 源兵衛が住友家本店の副支配役に登用されたのは天保6年(1835年)38歳の時であった。別子銅山ははげ山であった。台風や暴風に見舞われるとひとたまりもない。鉄砲水で住居や施設があっという間に流される。膨大な薪炭を必要としたが、失火で一挙に燃えてしまうこともあった。坑内湧水と天災人災で、産銅量も思わしくない。天保8年には大塩平八郎の乱が起こり豪商が軒を並べる船場の北が戦火に焼かれた。住友の店舗も類焼し、住友の経営は行き詰まった。天保10年、源兵衛は本店の最高責任者に登用された。あくる11年、源兵衛は銅山改革案をまとめ、誰でも考える賃金カットに経費削減、御用銅定数減の願い出、これに休山を覚悟し、捨て身で願い出た。この間別子銅山は赤字続きで、住友第一の家産どころか、金食い虫になってしまっていた。

 源兵衛は銅座(幕府)を相手に値上げ交渉を始めた。それでも地売銅の買上価格よりまだ低い。銅座はすげなく願書をさしもどした。すると「お聞き届けなきうえは、やむをえず休山よりほか方策これなく・・・」と源兵衛は勝負にでた。銅座はたじろいだが、無視した。源兵衛はあくる年、御用銅定数減、諸手当の下付、御用銅の値上げに付帯条件をつけて願い出た。休山となれば、稼人の引き払い費用として8000両を貸与であった。時あたかも天保改革の真っ最中。「商品の値段はすべて二割以上引き下げ、賃金、利息、家督銀、細工手間、手伝い日雇等、みなこれに準ず」との触れがでたばかりだった。徳川250年、素町人の分際で、幕府、公儀に大胆不敵な要求を突きつけた者はほかにいないと佐藤氏はいう。立て続けに、幕府が管理を委託している松山藩に一万両の拝借を願い出た。そして、ついに休山願を出した。幕府もしぶとかった。休山はまかりならぬとの達し。源兵衛も進退きわまった。値上げの嘆願を銅座に出しながら、銅山の稼手には合理化案を提示、のめないものは勝手次第で離散も結構とのぎりぎりの遣り繰り。

 一方住友の両替店も乱脈経営で帳簿を整理すると巨額の借金、年内に返済を迫られた金や利息も巨額に膨れ上がり、その始末に住友当主友聞(ともひろ)の次男を帳切(経営から引かせる)、本店からの資金で応急手当。江戸で札差業を営んでいた浅草米店が「天保の無利息年賦返済令」で借金棒引きに合い、一挙に赤字に転落。住友はいたるところで火を噴き最悪の事態を迎えた。源兵衛は逆鱗に触れるのを承知で、二十か条に及ぶ意見書を旦那(友聞)若旦那(友視)宛てに提出した。意見書を提出したあと、源兵衛は病を理由に引きこもった。友聞はにわかに荒れだした。そして遂に源兵衛は友聞に隠居を進めた。友聞はきかなかったが、再度源兵衛は本店の閉鎖、隠居がいやなら別宅に転居の申し出。長い反目のうちに、友聞は隠居を承諾、源兵衛も隠居の沙汰、そして銅買上価格の値上げが承認された。


長崎会所

2011年12月10日 | 歴史を尋ねる

 今は住友グループの歴史を辿っているが、長崎会所が何者であるかわかっていないと、この章は良くわからなくなるので、先に調べておきたい。江戸時代、江戸・大坂・堺・京都・長崎の5ヶ所の商人間で糸割符制度(幕府は1604年、御用商人茶屋四郎次郎を主導者として京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせ、その糸割符仲間に輸入生糸の価格決定と一括購入を許した)が行われ「糸割符仲間」が組織され、生糸の買い付け、配分を行った。その後、鎖国実施などによる貿易制度の変化により、糸割賦会所、市法会所、割符会所と改称を経て1698年、長崎会所となったという。鎖国時には大いに利益を上げ、権勢をふるったが、1853年の黒船来航により開国したことで、長崎の外国貿易における地位が下がり、それとともに会所の地位も下がった。そして1870年に長崎税関へ移管されることで役目を終えた。

 佐藤雅美著「幕末住友役員会」のサブタイトルは「生き残りを賭けた二人の企業戦略」とあるが、この二人とは、幕末の混乱期に必死に住友を守った鷹藁源兵衛と別子銅山を守り抜いた広瀬宰平である。小説では「汐見橋の出会い」の章で、二人がヒソヒソ話で、住友から安く買い上げた御用銅をオランダに更に安く売っているのはなぜかという疑問を、宰平が源兵衛に訪ねる場面だ。 「御用銅の買上価格と丁銅(国内用)の払下価格とではかなりの差がある。銅座は丁銅払下価格よりはるかに安い価格で御用銅を買い上げている。ところが長崎では、その御用銅をオランダに考えられない安さで売っている。中国に売っている半値で。」これに対して源兵衛は「銅座は勘定奉行、長崎奉行、大阪町奉行の支配を受けているが、大阪はせいぜい抜銅の監視だけ。勘定奉行も江戸から役人が派遣されてきているが、飾りのような存在。実質的に銅座を取り仕切っているのは、長崎奉行支配下の長崎会所から大阪に来ているものたち」「長崎会所とは」「長崎の地役人が、長崎奉行の支配を受けてオランダ人と唐人を相手に交易する役所だ」 官の支配を受けて民(長崎会所の地役人たち)が行なっている半官半民の、第三セクターのような貿易機関だと佐藤氏は解説する。「長崎会所が銅座を支配する目的は」「交易用の代り物(輸出品)である御用銅を確保するため」 銅の産出量が細って、銅は「俵物・諸色」といった海産物に、輸出品の主役はゆずったが、それでも主要輸出品であった。俵物・諸色は中国料理の材料となったが、オランダ人に対しての輸出新は一貫してこの御用銅であった。

 寛文の「貨物市法」、貞享の「貞享令」、正徳の「正徳の新令」などの貿易統制令を発令してからの貿易に対する幕府の基本認識は「国土の筋骨たる金、銀、銅を抜くとられ、なんの益にもならぬ奢侈品を輸入するもの」であった。そのため幕府はしばしば貿易縮小策をとり、長崎貿易の船数と額を圧縮した。相次ぐ圧縮令に素直にしたがっていれば、長崎という町は次第にさびれていた筈なのだが、そうはならなかった。圧縮令が出るたびに、長崎会所は例外規定を設けたり、輸出品の単価を圧縮したり、通貨の改鋳による値上げ分をスライドさせなかったり、船数制限は、大型船に切り替えてもらったりして、実質貿易量を維持しようとした。御用銅の価格設定はこの典型例で、幕末まで一度も改定されなかった。輸出品の単価を圧縮したと同じように長崎会所は、中国人やオランダ人が持ち込んでくる輸入品の単価も圧縮した。したがって一般商人を相手に競売に付すと、落札価格は風船玉のように膨らんだ。その価格を見て後世の歴史家は膨大な利益を上げたように見る人がいるが、輸出の赤字分を差し引かねばならない。すると普通の姿に戻るが、それでも長崎の繁栄は築かれた。

 こうした話を源兵衛から聞いて宰平は長崎奉行、長崎会所、銅座の下に住友があって、その管(くだ)をとおして、住友から不当に安く銅を吸い上げている構図が理解できた。「長崎の町はえろう繁華やと聞いとります。その繁華は、わしらの犠牲の上に成り立っている」「俵物・諸色という海産物をつくっとる浦々の人たちもおんなじじゃ」 確かにヒソヒソ話となる筈だ。

 


第三のメタル

2011年12月08日 | 歴史を尋ねる

 戦国時代、日本人は天下取りのため、生き残りのため、数え切れないほどの合戦を繰り返して、エネルギーを燃焼させた、あのすさまじいエネルギーの源泉の一つに金銀があったと、「幕末住友役員会」の著者佐藤雅美氏は云う。日本の金銀をもとめてやって来た中国人や南蛮人(主にポルトガル人)がかわりにもたらしたものや技術があったから、戦国時代の日本人のエネルギーは一層活性した。その代わり日本からは金銀、とりわけ産出量の多かった銀が流出することを意味した。江戸時代初期はゴールドラッシュがおき、日本は膨大な金銀を産出した。したがって当時は一方的な金銀の流出に誰も気にとめなかった。そして鎖国を完成させた頃、日本の産金銀量は急速に細った。しかし江戸の初期から中期にかけて絹織物の需要が大変高かった。将軍から武士並びにその婦女子、町人でも豊かなものは中国産の生糸を原料とする絹織物を着た。一方的な金銀の流出防止を目的として幕府は貿易統制令を相次いで施行した。そんな幕府にとって思いがけなかったというか、金銀にかわる第三のメタルが登場した。それが銅であったと佐藤氏は言う。

 20年まえは600トンだった輸出銅は、貞享令が施行された1686年ごろは3000トン台となった。ピーク時の元禄10年(1697年)年には5300トンに達し、この年の産銅量は6000トンで、世界一だったといわれている。幕府は翌元禄11年、前年の輸出銅量を基準に中国人とオランダ人に毎年同量を売り渡す約束をした。しかし産銅量はその頃がピークで、幕府は早速、輸出銅の集荷に汲々としなければならなくなった。輸出銅集荷機関として幕府は元禄14年銅座を設けた。以後二度にわたって銅座の改廃を繰り返し、第三次に至ると銅座は座がつくものの、幕府の純然たる銅管理機関となり、幕府の銅管理機構はがっちりと整備された。

 住友は戦国末期、銅吹屋業(精錬・加工)からスタートし、銅輸出貿易業、輸入貿易業、銅山経営業、不動産賃貸業、両替業、江戸での札差業と経営を多角化していった。とは云うものの中心は銅関連事業で、いずれの事業においても住友は重きをなしたそうだ。しかし住友の銅関連事業は幕府の銅管理機構に組み込まれ、銅輸出業者としてはその地位を失い、たてまえは民営だったものの、実質は悪条件を強いられつづける幕府の単なる下請業者に引きずりおろされた。当時日本の銅山は、別子、秋田(藩営)、南部(藩営)の三山で、産出銅は割り当てられたが、買上価格は銅座が一方的にきめた。この三山の銅は御用銅といわれ、この買上価格は極めて安かった。したがって別子銅山の損益は天保年間、赤字を余儀なくされた。


南蛮吹き

2011年12月03日 | 歴史を尋ねる

 「蛮」という漢字は、部首に「虫」を用いて、人ではないことを示した。現在でも、「野蛮」「蛮族」「蛮行」などの熟語が、粗野であるという意味が込められている。16世紀、ポルトガルとスペインが、インドから東南アジア一帯を経て、交易を日本にまで伸ばしてきた。これらの国と日本との貿易(南蛮)が始まると、貿易によってもたらされた文物を「南蛮」と称するようになった。やがて、本来は人に対する蔑称であった「南蛮」が、異国風で物珍しい文物を指す語として使われるようになった。同時に、人に対する呼び名としては南蛮人という言葉が生まれた。住友初代・政友と共に住友繁栄の礎を築いた、銅職人・蘇我理右衛門は、1591年、わずか19歳の青年のとき、泉州堺にて貴金属を多く含む粗銅の地金から金銀を取り出す方法を南蛮人から伝授され、これが南蛮吹き(灰吹法)と呼ばれた。

 日本国内の鉱石から精錬された銅はかなりの量の金銀を含んでいたが、それまで日本にはこれを銅から分離する技術がなかったため、古くからこの技術をもつ明やヨーロッパといった大陸諸国の商人は日本から安く購入した銅から大量の金や銀を取り出して利益を得ていた。粗銅から灰吹法で金銀を取り出す南蛮吹きは、まず銅を鉛とともに溶かしてから徐々に冷却し、銅は固化するが鉛はまだ融解している温度に保つ。すると銅は次第に結晶化して純度の高い固体となって上層に浮かび、金銀を溶かし込んだ鉛が下層に沈む。この融解した状態の鉛を取り出して、骨灰の皿の上で空気を吹き付けることによって金銀を回収することが可能になり、安価な粗銅の形での海外流出が止んだ。

 政友と理右衛門は涅槃宗を通じて絆を強め、政友の姉が理右衛門に嫁いで、住友家の家督が危うくなると、理右衛門の長男友以を養子に出し、住友家二代目に据えた。友以は17歳で分家して、銅精錬と銅製品販売の店を開業し、泉屋住友家を起こした。更に水運と精錬に必要な水に恵まれた大阪に進出、近世住友の本拠となった。最盛期には、百数十人の職人が働き、日本を代表する精錬所となった。併せて、大阪の同業者にも南蛮吹きの秘法を伝授、大阪に多くの同業者が誕生した。また、当時日本を代表する施設だとして、オランダ商館長らも訪れ、オランダ・中国などとも銅交易を通じて、更に糸、反物類や砂糖、薬種その他の輸入品の販売まで手掛けた。また、産銅の山を求めて、あちこち手掛けていたが、遂に1690年、別子銅山の発見につながった。