日本からの近代文化輸入が中国の文明開化をもたらす

2023年12月03日 | 歴史を尋ねる

 隋と唐から伝えられた制度、文物、典籍(仏教・儒教の経典)が日本人に与えた衝撃の大きさは計り知れないものがあり、それは明治の文明開化期における「西洋の衝撃」に匹敵するほどだったと言える。だから日本人の多くは明治以降、西洋の文化や価値観をあらゆる事柄の基準、尺度に用いようとしながら、その一方で中国文化を崇拝する抜きがたい心理が昔から強い、と黄文雄氏。そのような大きなスケールを伴う日中間の文化交流は明治時代、中国で言えば清末、中国が日本の文化的恩恵を大々的に受けた。中国は日本から近代文化(主に西洋文化、中国では当時これを「新学」とも呼んだ)を輸入し、中国に文明開化をもたらした。。
 文化交流はまず文献の交流から。中国の研究者によれば、清代の中国で最も早い時期に紹介された日本の書物としては、漢文で書かれた寺門静軒の「江戸繁盛記」と頼山陽の「日本外史」。この時期の中国の知識人の日本に対する関心は、近代化にはさほど向いていなかった。しかし日清戦争の敗戦で、自国が弱体であり、自らが世界の趨勢の取り残された「井の中の蛙」だったかを思い知らされ、日本経由で海外事情に関する書物が次々と翻訳、出版されるようになった。「西学を考究するには翻訳が第一義である。訳書を百万の学徒に供し、国家に貢献させる」とは、西洋文明の摂取を急ぐ中国の開明派知識人の共通認識だった。外国文化・近代思想を学ぶには、まずは外国の本の翻訳である。
 日本に渡って来た清国留学生の多くが、上陸先の長崎で受ける最初の衝撃は、そこかしこに見られる学童の姿だったらしい。「日本の学校の多さは、我が国のアヘン館の如し。その学生の多さは我が国のアヘン吸飲者の如し」と記録しているが、教育の普及が日本の進歩、発展の淵源であることを彼らは見て取った。そして新聞や刊行物の普及、どこにでもある書店、民衆の読書習慣なども、非識字者だらけの国からきた彼らには、強いショックを与えた、と黄氏。彼らを駆り立てたのは、日本で受けた文化的なショックであり、祖国の近代化建設や啓蒙への情熱だった、と前の項でも述べた。
 この頃、彼らが日本語版を翻訳し、中国人に紹介した西洋の思想的大家にはモンテスキュー、ルソーなど多数だ。ダーウィンの種の起源も翻訳され、進化論が初めて紹介された。その他にもアリストテレス、アダム・スミス、バクーニンなどの著書も紹介された。日本人では福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、中江兆民、幸徳秋水、などの著作の翻訳が歓迎された。 中国人の関心は、日本人がいかにして西洋文化を取り入れたか、である。福沢諭吉の著作は何点か翻訳出版されたが、もっぱら旧弊の打破を訴えた彼の啓蒙思想が注目された。加藤弘之の著作も多く出版されたが、社会進化論は魯迅はじめ、多くの中国青年に多大な影響を及ぼしている。政治学、哲学、倫理学、法学、歴史学、社会学の本など広範にわたって翻訳された。王暁秋著「近代中日文化交流史」によると1850年~99年の50年間に刊行された翻訳洋書は英国人の著作が最多(51%)だったが、1902年~04年のわずか3年間で533点に上り、そのうち日本人の作品が(60%)と最も多く、第2位の英国人は11%、英米独仏併せても、25%だった。 譚汝謙編「中国訳日本書籍総合目録」の統計では、1896年~1911年にかけて翻訳された日本の著作は958点、その内訳:科学249点、技術243点、歴史・地理238点、政治・法律194点、語学133点、教育76点、軍事45点、経済44点、哲学32点・・・と続いている、と。このような文化運動がなければ、清末の改革運動や辛亥革命後の民国建国といった近代化の動きはあり得なかった、と黄文雄氏は説く。ウーム、その運動や革命に携わった中国人のバックボーンをこの文化運動がつくったという意味だろう。
 製紙術と印刷術は中国人が発明したと言われるが、中国で近代出版業が勃興したのは日本書の翻訳が盛んになってからだ。上海の商務印書館は1897年の設立時から日本の印刷機や活字を導入し、品質の高さで定評があったが、のちに日本の金港堂と提携し、事業の近代化を推し進めた。この出版社は、編集顧問として日本人を雇うと共に、十数人の日本人印刷技師を招いて印刷技術を学び、印刷量が中国一の大出版社となった。
 留学生によって翻訳された日本の出版物として注目されるものに学校の教科書があった。中国では1905年の科挙制度廃止と日本の学制を模した新式の学堂(学校)教育の導入で、多くの日本留学経験者が教壇に立つことになった。そして新しく採用された教科書の多くも日本のものだった。教科書訳洲輯社を設立し、日本の中学校の教科書を中心に翻訳して、本国の新式学校に広めている。同社が出版したものには「物理易解」「初等幾何」「平面三角形」「中等物理学」「中等科学」「中等動物学」など様々だった。後に中国革命同盟会で孫文に次ぐナンバー2になった黄興も、湖南編訳社を創設し、各レベルの教科書や参考書を翻訳して全国に広めている。
 中国での自然科学の知識は、これら学校教科書を通じて広められた。それまで中国では自然科学というものがほとんど発達していなかった。樊炳清が翻訳した日本の教科書で、「近世博物教科書」「普通物理学」「新編小学物理学」「近世科学教科書」は20世紀初頭の中国で」普遍的に採用されていた。笵迪吉は他の留学生たちと上海で会社を設立、そこで理系の教科書や大学生レベルの参考書を中心に百点近くの翻訳を行っている。
 日本スタイルの教科書が、科挙制度廃止後の中国の教育の近代化に大きく貢献した。清末の全国の学堂(学校)で普遍的に使われた後、辛亥革命後にも多くは継続採用された。ことに内容に政治的要素のない自然科学系の教科書は、表紙に共和国教科書との文字が入れられ、大部分は使用が続いた。日本の教科書を通じて中国の人々にもたらされたものは知識だけではない。日本人の文化的感性や思想的影響も計り知れないほど大きいものだったに違いないと、黄文雄氏は言う。

 1898年戊戌政変で中国を脱出した梁啓超は、軍艦大島で亡命先の日本に向った。その時艦長から見舞いとして政治小説「佳人之奇遇」を渡された。明治期の大ベストセラー、西洋から東洋を防衛するとの、大アジア主義を吐露した小説で、各国の独立運動家や亡命者もぞろぞろ登場する。内容は漢文調だから、梁啓超は難なく読めたようだ。すっかりこの作品、あるいは政治小説というものに魅せられ、さっそく翻訳に取り組んでいる。日本の政治小説は自由民権運動と共に登場して盛んになり、運動の衰亡と共に姿を消した。梁啓超は政治小説の著者が大政治家で登場人物に自分の政見を語らせている点に注目し、中国の国民の頭に入れさせる手段としては最も効果的だと考え、「佳人之奇遇」をはじめ日本の政治小説を翻訳出版し、中国の知識人の関心を集めた。
 中国語に翻訳された日本文学が広く読まれるようになるのは1920~30年代、魯迅や郭沫若、郁達夫らが日本の文学作品や文学理論を大量に翻訳してから。当時の代表的文学団体も、みな「日本留学帰り」が主流だった。「中国の文壇の大半は日本留学生が築いたものだ」と郭沫若。 魯迅は1902年から留学生活は7年に及ぶ。仙台医学専門学校に通っていたが、そこの授業で見た日露戦争の場面で、ロシアに通じた中国人が日本軍に処刑される場面で、同胞の処刑を無表情に眺めている中国人群衆の姿に衝撃を受けた。この時彼は「医学を学んで中国人の病気を治療したいと思っていたが、一つの国家の民族は、いかに健康であっても思想上の覚醒がなければだめだ。民族を覚醒させ、国民思想を改造するためには文芸で啓発しなければならない」と思うに至り、医学を捨てて文学を取ることを決意した。東京に戻った魯迅は独逸学協会学校に入るとともに、創作や外国作品の中国訳に取り組んだ。更に弟と共に英・独語作品を大量に翻訳し本国に輸出した。また魯迅が翻訳した日本の小説、詩歌、論文も60編を超えた。
 郭沫若も九州帝国大学医学部を卒業したが、彼も「医者は少数の患者を治すだけだ。祖国を覚醒させるには新文学を創造するしかない」と考え、医者ではなく文学者となった。帰国後、彼は北伐軍の政治部副主任になり、その後南昌蜂起に加わったため、蒋介石に追われて1928年、日本に亡命。約十年間千葉で著作活動に打ち込んだ。支那事変で抗日戦線に参加し、戦後は全人代常務委員会副委員長、中国科学院長、中日友好協会名誉会長などを歴任している。
 翻訳された日本の書物が中国の青年たちのもたらしたものは、西洋思想、または日本的西洋思想だった。それには啓蒙思想や近代哲学、自由民権思想だけでなく、社会主義思想も含まれた。中国で最初に翻訳された『共産党宣言』は、幸徳秋水と堺利彦の共訳の日本語訳を基にしたものだった。この日本語訳や、幸徳秋水などの社会主義者との接触から社会主義に目覚めた清国留学生は多い。中国における初期の社会主義は、当時の日本人の学説を抜きにしては語れないものだった。中国語訳された幸徳秋水の著作としては、「廿世紀之怪物帝国主義」「社会主義広長舌」「社会主義真髄」「基督抹殺論」などがある。ことに1901年に著した「廿世紀之怪物帝国主義」は中国で初めて紹介された反帝国主義の理論書であり、それが中国人に与えた思想的影響は大きかったと言われる。訳者は自立軍蜂起に参加した趙必振。彼が翻訳した福井准造著「近世社会主義」と幸徳の「社会主義真髄」は、清末の時代では社会主義学説のバイブルのようなものだった、と黄氏。

 中国で社会主義思想が本格的に広まっていくのは、1918年のロシアの十月革命以降だ。1921年7月にはコミンテルンの指導で中国共産党も創設される。創設当時の党代表12人中、陳独秀、李大釗、李達、董必武、李漢俊、周仏海の6人は日本留学組。李大釗は中国最初のマルキストと言われるが、彼は1913年に渡日し、早稲田大学で政治経済を学んだ。靖国神社の遊就館で、山のように積み上げられた日清戦争での鹵獲品を見てショックを受け、中華民族の開放を志すようになった。吉野作造や美濃部達吉などの影響で民主主義思想を研究する一方、幸徳秋水の著作や安部磯雄(社会民主党の創立者)の講義からも強い影響を受け、結局は共産主義への道を進んだ。1915年「二十一か条条約」問題で日本帝国主義や袁世凱政権に反対する運動を巻き起こし、帰国した。
 同じく政治経済学科には近代農民運動の先駆的存在である澎湃も、1918年から学んでいた。この年、留学生の間で起こった「日中陸軍共同防敵軍事協定」の反対運動に熱心に取り組んだ。また浅沼稲次郎らが学内で作った建設者同盟や堺利彦の宇宙社などにも参加し、社会主義者として日本の警察のブラックリストに載るまでになった。その後、京都大学教授の河上肇と会って以降、彼は河上に傾倒する。帰国後の1924年、共産党に入党、南昌蜂起などで活躍した。
 周恩来も日本で共産主義に目覚めた一人だ。救国の念に燃えて日本へ来た彼は、在学中に十月革命の報に触発され、京都帝国大学の河上の講義を聴講に行き、ついでに学長に入学の願書まで提出している。帰国は19年。彼のかばんには河上の著書が埋まっていた、と。

 日本は中国古典籍の宝庫だった。明治維新後に日清間の往来が始まると、その事が再び中国人に知られることとなり、失われた典籍の逆輸入が行われ、それらは中国における学術研究の空白を大きく埋めることになった。日本が中国から輸入した仏典籍やその他の書籍の多くは寺院で保存された。戦乱の際でも多くの寺院は破壊から免れ、また寺院も蔵書を大事に管理した。紙質を選んだり、土蔵で火災から守るなど、保存方法には細心の注意を払った。文化というものに対する信仰心や愛惜の念が、中国の古典を守り続けた。
 本国で失われた書籍を探し求め、清国の学者が大挙日本に押し寄せたのは1880~90年代である。清国初代の駐日公使黄遵憲は日本人が典籍だけでなく中国では貴重な経巻、書画なども多数所蔵していたことに驚喜すると共に、千五百年前の墨跡が鮮やかなままであるなど、保存状態の良さにも驚嘆している。二代目公使黎庶昌も、中国では見られなくなった典籍の多くが日本で残されていたことを喜び、楊守敬と共に2年間をかけてそれらを選び、「古逸叢書」として日本で出版した。そこには26種、計二百余巻が収められている。日本に滞在した楊守敬は、中国で散逸した典籍の調査、収集にあたり、日本の蔵書家たちの協力を得ながら最初の一年足らずで三万巻以上を購入している。これらは本国の学術研究に大きく貢献した。なお、明末の種族主義的色彩が濃厚なため、清朝では発禁にされていた著書などは、清国留学生にとって反満革命の入門書となった。彼らは日本の図書館で写し取り、本国で広め、漢民族主義の啓蒙に大きく役立った。

 現代中国語は日本製の漢語で成り立っていると、黄文雄氏。これは前々回の項『漢字と日本人』の趣旨と似ているが、ニュアンスは違う。加藤徹氏の言う『中国人は、19世紀末から、猛烈な勢いで日本漢語を吸収した。これは、中国人の都合だ。日本人の方が中国人より優れていた、という訳ではない。言うまでもなく、中国語に入った日本漢語は、すでに立派な中国漢語だ、もはや日本語ではない』ことは、その通りかもしれない。しかし、前回と今回の項で見て来た、歴史的経緯が背景にあったことも事実である。加藤氏は文化交流を否定的に捉えているが、大きな括りで言えば、留学生が翻訳をする過程で、日本漢語を使わざるを得なかった。漢字で構成された複合詞であり、使い勝手が良かったからであろう。中国人の都合と言い切るのは、余りにもプロセスを省略し過ぎているし、漢字が表意文字という点を考慮すれば、日本人と中国人の間で、考え方を共有する部分がうまれる可能性があると、もっと積極的に考えるべきではないか。ただ、現時点でその点にスポットライトが当たらないのは、国家体制の仕組みが違って、歩み寄れない部分があるからではないか。筆者は表意文字の漢字の持つ力について、年齢を重ねてみると、そう感じている。残念ながら、中国が共産主義体制下では無理かな。
 黄文雄氏は言う。1911年の「普通百科新大詞典」の凡例に「わが国の新詞(新造語)の大半は日本から輸入されたものだ」と書かれているが、実際今日の中国語も、日常の生活用語から政治、制度、経済、法律、自然科学、医学、教育、文化の用語に至るまで、日本語からの「借り物」の単語で満ち溢れている。中国人の近代的生活は日本語の上に成り立ち、営まれていると言っていい、と言い切る。まあ、借り物というのは、共通の漢字を使っているから、言い過ぎだが、共通の漢字を使っているのだから、こんなことがあっても不思議でない。それが表意文字の優れたところだと思う。以下、黄氏の言説を聞きたい。
 新名詞(新造語)は、複合詞の他に、中国式の「式」、優越感の「感」、新型の「型」、必要性の「性」、出発点の「点」、人生観の「観」、文学界の「界」、生産力の「力」、使用率の「率」等々、そうした言葉が付く多くの単語も、もとは日本語であり、その数は限りない。数詞の屯、糎、粍、哩なども用いられている。更に訓読の単語「入口」「出口」「市場」「広場」「取消」「手続」「場合」「見習」「大型」なども取り入れているという。また外来語の当て字「倶楽部」「瓦斯」「浪漫」をそのまま取り入れた例もある。また「関于」(~に関して)、「由于」(~によって)、「認為」(~と認める)、「視為」(~と見なす)などは日本語を翻訳する過程で便宜的に生み出され、定着した。日本単語の導入で複合詞が大幅に増加し、硬直性の強い中国語の表現の豊かさ、緻密がもたらされたことは、中国古典の文章と現代中国語を比較すればすぐにわかるという。日本語的な語感が中国語に加わった。中国では日本語の訳本が市場に充満して学校でも用いられ、学術界でも一世を風靡した。中国の文体は少しづつ変化し、それが新しい文体として文壇や知識青年に重んじられ、この国に根付いた。この新文体を積極的に推奨していたのが梁啓超で、だから新文体は「啓超体」と呼ばれた。

 清末の日本視察団がしばしば感心したのが、平仮名、片仮名であった。初代駐日公使黄遵憲などは、「天下の農工、商人、婦女子が、みな文字に通じるようにした」と、日本人の仮名の発明を絶賛し、中国にも文字改革が必要だと主張した。実際、日本の仮名を参考に漢語の「拼音(ほうおん)」(表音文字)を作り出したのが王照であった。王照は戊戌維新で皇帝の海外行幸を上奏するなど、急進的な姿勢で名を挙げ、維新挫折後は梁啓超と日本に逃れた。東京で王照を保護したのは、日本の代表的言論人、陸羯南であった。1900年に帰国した後は西太后から赦免され、日本の仮名の研究に打ち込み、そこで開発したのが「官話合成(拼音)字母(文字)」である。今日中国で使われている拼音はローマ字だが、王照の「官話合成字母」は、みな漢字の一部分を使ったもので、六十二の字母で構成された。この言文一致の拼音は、全国の言語の統一、共通語の制定にも重要だった。「もっぱら読書の力がなく、読書の暇がない者のために作った」とされる拼音には、教育改革の指導者的存在だった呉汝綸が賛意を示した。彼も日本の教育視察中、仮名の効用に着眼した一人だった。また、官話合成字母を発表した時に序文で、王照は、外国は言文一致により教育を普及させているのに対して、中国では文人と大衆が別の世界に住んでおり、後世の文人は保守的で文字を言語と共に変化させていない、などと批判している。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中国の近代化は日本文化の受... | トップ | 日本に学んだ清朝末期「黄金... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史を尋ねる」カテゴリの最新記事