海軍の親ドイツ派、南進論者とスターリンの逆転サヨナラ満塁ホームラン

2018年12月28日 | 歴史を尋ねる
 吉田俊雄にとって、石川信吾は危険人物だった。あの第二次ロンドン軍縮会議を爆破(対米強硬策の意見書『次期軍縮対策私見』を海軍上層部に提出し、超大型戦艦建造を提言した。この私見は「独立国家間の軍備は均等であるべき」という内容で艦隊派の支持を受け第二次ロンドン軍縮会議の方針となった)した石川信吾大佐が、ひのき舞台に主役として登場した、と。ウキペディアによると、1941年(昭和16年)6月に、第一委員会は報告書『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』を提出した。その内容は、日独伊三国軍事同盟を堅持し、南部仏印に進駐し、米国の禁輸政策が発動された場合は直ちに軍事行動を発動するという趣旨のものであった。委員会を主導したのは石川と富岡定俊とされ、のちに石川は「(日本を)戦争にもっていったのは俺だよ」と発言している。
 
 「百害あって一利なし」と井上成美が決めつけた「海軍国防政策委員会」が15年12月、出来た。委員長は軍務局長岡敬純少将、委員に軍務局、兵備局、軍令部の課長以上を充て、「三国同盟条約によって転換された国策にもとづく海軍国防政策を活発に遂行するため、常務機関の事務連絡および相互支援に資するための中枢機関」と性格づけた。この委員会を発案した高田軍務一課長によると、「新設された軍務局第二課で国防政策を策定することになれば、課長を誰に持ってくるか、特別に重要である。当時の情勢から、二課だけでは不十分で、全海軍を挙げて陸軍に対抗する事務体制を整備しなくてはならない、それがこの委員会であった」 
 どうしても、陸軍に対抗できる政策を持たねばならない。米艦艇を迎え撃ち、艦隊決戦で勝つのが海軍の仕事であり、政治にかかわるのは仕事でない、と考えているだけでは、その間に日本がどっちに行ってしまうか分からない、という認識だった。吉田俊雄から云わせると、遅すぎた認識であった、と。そうだとすれば、満州事変以前から注意深くチェックとコントロールが必要であった。が、いまとなっては、陸軍が南進、開戦を主張しつづけるのを、どう食い止め、どう事態を収拾するかを考えねばならなかった。

 人事局はその二課長に矢牧大佐を充てようとしたが、本人が陸軍関係に知人もいないし、と断り、彼は興亜院政務一課長の石川大佐を推した。人事局担当課長島本久五郎大佐は、石川大佐は時々軌道を外れた行動をする、石川の性格からみて、二課長のような重要配置に置くのは危険だ、と考えた。ところが、軍務局長岡敬純から人事局長伊藤整一に、ぜひ石川をよこしてくれと強い要望が入った。それを聞いた島本は局長に反対具申、その旨、岡局長に回答したが、重ねて強い要望が来た。「人事局長は石川を嫌っているようだが、自分なら使って見せる、石川は陸軍のたくさんの者を知っているし、情報もとれる」 そういわれると、島本も折れざるを得なかった、と。ふーむ、人事局が懸念したことについて、岡は何ら答えていない、むしろ陸軍との癒着を言っているが、勢いに流されると、いうことか。

 吉田はいう。岡と石川は、同郷(山口県出身)で、同じ中学(東京・目黒の攻玉舎)の先輩後輩で、二人揃って親独派、熱心な南進論者でもあった。しかも、二人ともアメリカを体験していなかった。こうして日本のもっとも重要なときに、もっとも影響力の強い重要ポストに、アメリカを知らぬ同郷、同窓の先輩後輩がついて対米戦の是非を考えることになった。軍務局二課長となった石川大佐は、部下の英米担当課長柴勝男中佐に、「戦争必至の大局観をもって戦争決意を行い、対策を立てよ、」と、まだ16年6月頃の話ながら命じた。「海軍の事務当局の中で、開戦の原動力となったのは石川二課長だった」 そのころの関係者が、口を揃えてハッリキいうほどの急進派だ。なぜ、石川がかわれたのか。それは、石川は、海軍ではほかに誰もいないくらいの政治軍人であり、議論達者であった。陸軍の政治軍人たちと対等に話し合うことの出来るほとんど唯一の海軍軍人という希少価値を買われ、及川海相や豊田次官から重宝がられた。だから、第一委員会の中心的存在は、海軍省側は政策担当の石川二課長、軍令部側は富岡作戦課長であり、陸軍との連絡にもこの二人が主として当たった。

 この委員会が発足したのちの海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いた。海軍省内でも、重要な書類が回ってくると、上司はこの書類は第一委員会をパスしたものかどうか聞かれ、パスしたものは相当重視された。例えば永野総長は、第一委員会の結論を、みんな課長級がよく勉強しているから、おれは文句がないよといって、ハンコを押したと伝えられる。世上ややもすれば第一委員会が海軍の首脳部を振り回したのごとく伝えているが、岡軍務局長は、腑に落ちない書類や意見には、決して盲判を押す人ではなかった、という人もいるが、井上成美は、「あれは大佐が海軍を引っ張っているようなものだ。大佐は大佐の頭だけしかないんですよ」と言い切った。「岡は政治家気取りで陸軍にかぶれ、日本は東洋の盟主だなどとふりまわし、世界経済の中心は東京だ、などと言っていた。そして欧州戦争が始まってドイツの旗色が良くなると、バスに乗り遅れてはいけないなどと色気を出し、ついには太平洋戦争に突入させてしまった」と。後日、東京裁判で岡正純はA級戦犯になっている。

 イギリスが、火のついたように「極東危機」を叫びたてていた頃、山本連合艦隊、嶋田支那方面艦隊の二人の長官から、申し合わせたように、及川海相に懸念を申入れて来た。二月半ばから末にかけてのことだった。「仏印に武力を使うと、英米の動きからみて、事態は意外に早く急転直下する心配がある。仏印、蘭印などに武力進出するのは危険だ」と。及川は、武力行使を考えていないと回答した。しかし、この問題で、陸海軍の間に不信感が燃え上がった。陸軍が武力使用を主張してやまないのに、海軍は、南方に武力を使えば対米開戦になる、米海軍が極東に進出して、日本の国防が危うくなったとき以外は武力を使わない、という。その海軍の非戦主義に、陸軍が憤慨した。口先だけで対米戦を唱え、予算をとって自分の軍備をしているだけで、海軍は対米戦をやる決意はない、と。戦争をしないための軍備という概念は、陸軍には通用しない。
 天皇の軍隊は、作戦だけを考えていればよい。戦えと大命をいただいたら、その時こそ、生命を国に捧げて戦い、最後の一兵になるまで戦い抜いて国を護ればよい、と心に決めてひたすら訓練に熱中してきた、それがここで問われようとは思いもよらぬことであった、吉田はこう推察する。

 松岡外相が、三国同盟にソ連を加え、その力を背景にアメリカと交渉し、日本の主張を飲ませようというのが、松岡の外交戦略であった。まずドイツに行ってヒトラー、リッペントロップと会い、対英作戦の真相を聞き、ソ連と国交を調整し、4月いっぱいで中国と全面和平をはかり、それから南に打って出る。この四か国の力をフルに活用して、舞台を整え、一気に南進し、同時にアメリカとも話し合う。それが松岡の狙いだった。16年3月中旬、松岡は東京を発ち、ヨーロッパに向かった。このころのドイツは、イギリス上陸作戦の目途が立たず、一方独ソ戦準備が密かに進めていたが、日本に向かってはそんなことはおくびにも出さず、早くシンガポールを攻略してくれと盛んに催促していた。ドイツの実情は、東京には分かっていなかった。松岡はみずから現地の実情を捉えたつもりでいながら、その実、ドイツの対英進攻は不可能であるとか、独ソ間が一触即発の状態にあるという情報は、ふしぎなくらい掴んでいなかった。
 モスクワでの会談は3回に亙ったが進展はなかった。4月12日朝、松岡は陸海軍武官を集め、「これからスターリンに会って、日本に引き返し、その足でアメリカに渡って交渉する」とそれだけ話すと、スターリンに挨拶に行った。スターリンは別れの挨拶をする松岡にストップをかけた。モロトフに目配せして、書類をもってこさせた。それには松岡が提示し、ソ連が応諾しなかった不可侵条約を中立条約に仕立て直し、不可侵条約の意味を含ませて、双方の面子を立てた条約案が書かれていた。松岡は夢かと喜んだ。それ以上に、翌日の調印式でみせたスターリンの喜色満面の顔の方が、もっと印象的であった、と。いつも不機嫌な顔しかみせないスターリンが、上機嫌で、先に立ってこまごまと気を配り、シャンパングラスをテーブルに自分で運ぶやら、自分で片づけるやら、自分でボーイに命じてナイフ、フォークをもってこさせるやら、自分でみんなの椅子を直すやらしたという。「突然のことで何もありませんが、やってください。……私はあなた方とおなじ東方人です。英米に気を許したことはありません」と、駐在武官たちにも愛想がよかった。サインを乞うと、スターリンは喜んで紙切れにサインした。「山口さんへ、スターリンより。善良なる記念のために」 この時、シャンパンを干しながら、スターリンが松岡に言った。「これで日本人は、南へ安心して出れますね・・・」 それだけではなかった。松岡一行がシベリア鉄道に乗り込んだモスクワ駅に、異例も異例、スターリンとモロトフが見送りに来た。発車時刻が来ても、鶴の一声で発車を待たせ、車内に入って松岡を抱擁するやらなにやら・・・。
 日ソ中立条約は、まぎれもないスターリンの逆転サヨナラ満塁ホームランであった、吉田は言う。彼はそれによって日本軍の矛先を南に向けさせて後顧の憂いを絶ち、大軍をヨーロッパに集めてドイツに勝った。そして日本の敗戦が決定的になると、不延長を通告、条約有効期間九カ月を余す20年8月8日、突然、日本に宣戦布告、満州、千島、樺太を掌中に収めた。
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井上成美の「新軍備計画論」とABCD包囲網

2018年12月22日 | 歴史を尋ねる
 昭和16年1月に入ると事態の進行は慌ただしくなり、同時に緊迫度を加えた。駐米大使野村吉三郎海軍大将が、ワシントンに向け東京をたったのは、1月23日だったが、ルーズベルト大統領はそれよりも前の1月16日、太平洋方面の戦略に対する一般命令を発した。彼はすでに、陸海軍統合会議を大統領が指揮掌握することに制度を改め、参謀総長にマーシャル大将、作戦部長にスターク提督を任命し、参戦への準備を整えた。この態勢を日本は終戦まで取れなかった。そしてこの一般命令に基づき、対日作戦計画である「レインボー五号計画」の検討と起案が始まり、3月27日までには完成して参謀本部の決裁を受け、更に陸海軍長官の承認を受けて本極まりとなった。その一般命令の要点は、「日本とドイツが同時にアメリカを攻撃してくる可能性は、現在のところ20%だが、いつかは100%になるだろう。これに対するレインボー計画を発動しても、準備の数か月かかるのでは現実に合わない。現有兵力で即時に行動を起こす必要がある。この現実的手段でもっとも重要なのは、対日政策と対英武器援助の問題である。アメリカ自身のために補充すべき兵器、装備を整えるには八カ月のリードタイムがあることを念頭におくべきである。というのは、イギリスは少なくとも向う六か月は持ちこたえうるし、そのあと枢軸国が西半球に出てくるにはさらに二カ月の準備期間が必要だから。太平洋では守勢的態度をとり、ハワイに艦隊基地を置く。フィリピンにいる米艦隊は強化しない。米アジア艦隊司令長官には、フィリピン基地にいつまで踏みとどまるか、いつ後方基地ないしシンガポールに後退するかを専決する権限を与える。海軍は、日本都市の爆撃を行う可能性を考慮せよ。・・・対英武器援助に全努力を傾けること、これによってアメリカを参戦させようとするドイツの企図を阻止し、イギリスを支援する」
 大統領が対日戦争を考え、国務・陸軍・海軍の三長官と参謀総長・作戦部長を集めて戦略方針を指令したのが、16年1月だったことは意味が深いと、吉田俊雄。

 では日本はどんな戦争準備をしていたのか。高木惣吉少将は、「大本営で陸海軍が揉みに揉んだすえ、『帝国国策遂行要領』をつくって対米英支蘭(ABCD)同時作戦を辞せず、と一致したのが16年9月2日、9月6日の御前会議では10月下旬を目標に戦備を整えるというものの極力外交交渉に努める方針であった。米英支蘭四か国と開戦を決めたのは12月1日の御前会議であったが、それはハル・ノートを突きつけられたからであった。日米の戦争決意と戦備のスタートを比べると、日本は10カ月も遅れていた。とくに海軍は開戦を決意するまでにいたっていなかった。
 水深12メートルの真珠湾内でも無事に走る魚雷の発射訓練は、9月から10月。40センチ主砲砲弾を爆弾に改装する作業も、そのころから手掛け、南雲機動部隊が出港するまでにようやく間に合った事実からみても、日本の対米判断がどんなに希望的で、戦備がどんなに泥縄式であったか、弁解の余地がないほど明らかだ。裏返して直言すれば、海軍は戦争をしたくなかったのである」と。
 豊田貞次郎海軍次官は、「三国同盟に反対しないが、日米戦争は極力避けるのが海軍の一貫した方針だった」 伏見宮も、軍令部総長として三国同盟締結に賛成するとき、「本同盟締結せらるるも、なし得る限り日米戦争はこれを回避する様万全を期すること」と。つまり、海軍は、海軍省、軍令部ともに判断を誤り、三国同盟を結んでも日米戦争は避けられるものと考えていたのであった、と吉田俊雄。

 当時の外交はどうであったか。松岡外相はさらに楽観的であった、いや、大気焔をあげていた、と吉田。「近頃の外相は外交事務に没頭して、外交政策を忘れている。自分は、国家の政略を指導する外交らしい外交をやって見せる」 そしてその外交の基調を、「力による平和維持」「国際間の働きを巧みに利用する外交」「戦争にもっていかずに日本の国策を遂行する外交」いわゆるパワーポリティックスに置いた。松岡と近かった石川信吾は、彼の外交戦略を説明する。「三国同盟の力を背景として日ソ中立条約を結び、日独ソ伊の連鎖をもって英米との力の均衡を打ち立て、これによって、知那事変を無意義なものにしないようにしながら、日米間の妥協を図り、余勢を駆って欧州戦局の収拾に乗り出そうとした」と。
 松岡一流の外交理念と行動に引き回されたのは日米交渉と日蘭交渉であった。日米交渉は既述済であるが、ここでは日蘭交渉をとりあげる。
 ヨーロッパでドイツ軍がオランダに侵入した結果、オランダ人は反独感情を強くした。その反面、イギリスに亡命したオランダ政府とオランダ人が、イギリスによってきわめて丁重に遇せられていることを見て、イギリスに深く感謝し、この大戦をイギリス、アメリカと共に戦い抜こうとする意欲が盛り上がった。そのドイツと手を結んだ日本に、蘭印政庁が心を開くわけはなかった。それ以上に、日本はオランダ人の性格を見損なっていた。オランダ人は、干渉や圧迫に強く反発するインデペンデントな民族性を持っている。松岡外相はそんなことには無頓着で、大東亜共栄圏に入るべきだとか、共栄圏の民族は日本の指導に協力すべきとか議会で演説し、外務次官もまた亡命オランダ政府を無視するような言明をしたりして、蘭印側を反発させ、交渉を困難にした。アメリカの締め付けも強かった。日蘭会商の打ち切り声明は6月17日。事態は急転直下。日米戦争を避けたいと、陸軍の考えに憤慨していた海軍も、石油が蘭印から手に入らないことが分かった以上、じっとしていられなかった。

 先の図上演習では「石油が輸出禁止になったら、少なくとも四、五か月以内に蘭印を押さえなければ、海軍は戦えなくなる」と結論されていた。航空本部長の席で、情況を研究し、現状を調べた井上成美中将は、戦艦の時代はもう去って、戦争方式が変わって来たことを確認した。そう痛感した矢先、軍令部から次期軍備計画(第三次ビンソン案に対抗するもので、国力ギリギリの計画、完遂できるかどうか微妙なしろもの)案を受け、驚いた井上は、会議の席で一石を投じた。石というより爆弾だった。「これは、明治の頭で昭和の軍備を行おうとするもの、ただ量的にアメリカと競争しようとする愚案である」として、年来考えて来た「新軍備計画論」を及川海相に提出した。1月30日であった。要旨は、
 1、日米戦争で日本がアメリカに敗れないようにすることは、軍備の整え方次第で可能だが、日本がアメリカを屈服させることは出来ない。潜水艦と飛行機が発達したため、海上国防に大革命をもたらし、旧い時代の開戦思想では決められない。
 (1)アメリカは潜水艦を飛行機と共同させ、日本の物資封鎖を図る。海軍の海上交通確保戦は主要な作戦となる。
 (2)日本は本土直接防衛のため、多数の潜水艦と飛行機を配置する。飛行機と潜水艦の活躍で、米主力艦は西太平洋に来攻できず、艦隊決戦は起こらない。日米戦争の主作戦は基地攻略戦であり、この成敗には国運が掛かる。
 (3)制海権は、潜水艦のある限り、絶対のものはなくなる。
 (4)日米戦は持久戦となり、彼我ともに新しい打つ手がなくなる。
 (5)速戦即決は実現可能性がない。速戦決戦兵力を整備しようと焦ると、その弱点を突かれ、破れる危険がある。
 2、海軍軍備の整備に必要な要件
 (1)海上補給路を確保するための兵力を整備する。
 (2)前線基地と作戦部隊への補給線を確保するための兵力を整備する。
 (3)敵艦隊を西太平洋に侵入させないため、飛行機・潜水艦などを整備する。
 (4)以上のため、優秀な航空兵力で制空権を確保し、多数の潜水艦、軽水上艦艇および有力な機動部隊を準備する。
 (5)米水上艦艇と海上補給線破壊のための遠距離行動用潜水艦を整備する。
 (6)敵基地攻略用兵力を整備する。
 要するに、優秀な飛行機、潜水艦、護衛艦、機動水上部隊を整備するする必要があり、なかでも飛行機と潜水艦は絶対に必要で、それを十分に持てば、ほかの兵種は減らしてよい、という。あとから考えると、太平洋戦争の様相をほとんど誤りなくイメージした、的確な見積もりであったが、軍令部は、それまで艦船決戦一本やりできた兵術思想とあまりにもかけ離れているという理由で握り潰した。そればかりか、半年後に第四艦隊の長官に祭り上げ、中央から敬遠した。

 この井上とは別のところで、連合艦隊長官山本五十六大将は苦悩していた。連合艦隊には、「戦策」という、艦隊戦闘マニュアルがあり、艦隊戦闘の方策を細かく規定していた。しかしここまで航空が発達し、強力になった以上、主力部隊が接近する以前に航空部隊によって攻撃を受け、大損害をこうむり、シナリオ通りの艦隊決戦は現実に起こり得なくなるだろうと見た。この点、山本の認識は井上の認識と一致した。昭和15年6月、大飛行機隊による対戦艦部隊電撃訓練で、これでは戦艦も浮いておれんな、と戦艦乗りを嘆かせる事態が起った。航空主兵論者の山本が、これを見て喜んだのは勿論だが、彼はこれで飛行機でハワイを叩くヒントを得た。この時点から南雲部隊による開戦劈頭の真珠湾空襲にいたる経緯があるが、ここでは省略されている。

 16年1月~3月、日米関係はピリピリするほど緊張していた。ハル国務長官が、はじめて日本を名指しで議会で非難すると、松岡外相は「満州事変は、彼の云う様に文明破壊の第一歩ではない。アングロサクソンが東亜の現状維持を計ろうとすることへの反撃である・・・大東亜共栄圏、新秩序の建設は、八紘一宇の理想にもとづくもので、アメリカがこれを理解できないからといって、放棄する訳にはいかない・・・アメリカの国防の第一線は、どうやら中国を含めたアジア全体と西太平洋の南洋諸島にあるようだ」 大見得を切る松岡外相に、反米親独に傾いていた世論が大喝采したが、ハルは翌日闘志をむき出して声明を出した。その雰囲気はもう外交の場のやり取りではなかった。アメリカの対日輸出禁止品目は、着実に増やされていた。石油はアメリカが戦争準備が出来るまで触れずにいたが、そのほかは一つ一つ増えていった。
 このころ、イギリス側から「極東危機」説が流され、異様な切迫感が極東方面に走った。実は、15年の秋ごろ、タイが仏印に向かって失地回復を要求し、それがエスカレートして両国軍の戦闘にまで発展、南方作戦のための足掛かりとなる軍事基地を探していた日本陸軍が、これに飛び乗り、日タイ軍事同盟を結ぼうと目論んだ。仏印は、なかなか条件を飲まず、業を煮やした陸軍は、武力による仏印威圧に乗り出そうとした。南部仏印進駐を狙う考えが、それと共に頭をもたげた。及川海相は、いつも通り慎重論で、強く反対した。だが、ここでも対案となる政策を持っていなかったから、迫力を欠いた。結局、南支警備を担当する艦隊から、重巡戦隊(4隻)と一個水雷部隊を派出して作戦行動に備えた。
 「シンガポール危うし」と見たイギリスが、なりふり構わずアメリカ太平洋艦隊のシンガポール回航を訴えた。それでもアメリカは、シンガポールに艦隊を回さなかった。オーストラリア、ニュージーランドに巡洋艦隊部隊を派遣するにとどめ、英蘭軍事代表と共にシンガポールに集まり、三国が対日戦に突入すべき限界を申し合わせた。いわゆるABCD包囲陣が、軍事の面で出来上がった。
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山本連合艦隊長官主催の図上演習

2018年12月17日 | 歴史を尋ねる
 そのころの話(1940年9月25日)、日本の外交に致命傷を与える事態が起った。アメリカ陸軍通信隊情報部のフリードマンが、日本外交暗号(97式欧文印字機を使った極めて機密度の高い暗号)解読に成功した。本格的な正確な解読に成功したのである。それ以後、アメリカ政府首脳は、かれらが「マジック」と呼ぶ解読により、日本の指導者が外交的に何をしようとしているか、何を考えているか、出先外交機関の長とどんな交信をしているか、手に取るように知ることとなった。しかし、日本はそのことをまったく知らず、終戦まで同じ暗号を使って交信していたのだから、事態は深刻であった。ほとんどがアメリカ政府に筒抜けとなり、ルーズベルト政権は、日本の腹の中を正確に知って、それに対応する手段を適時適所に打ってくるようになった。
もう一つは、イギリスがアメリカを欧州戦に引き込もうと躍起になっていた。駐米イギリス大使を通じて、ないしチャーチル首相からルーズベルト大統領に宛てた親書などで、百方手を尽くした。英米海軍参謀の段階では、作戦協力について話を進めていた。11月、ルーズベルトは、圧倒的多数で大統領三選を果たした。これまで彼がとって来た参戦に至らない範囲でイギリスを支援する政策が、国民大多数の支持を受けた。

 アメリカ政府の対日政策は、漸進的ながら的確な布石を打ち、日本の締め付けを強め、基礎産業に大きな打撃を与えていた。ただ、石油だけは手を触れなかった。石油の輸出を止めると、すぐにも日本軍が蘭印に殺到することを読み、それだけは触れずに残してあった。まさに膺懲的、政治的禁輸の貌が歴然としていた、と吉田俊雄。致命傷を与えないようにしながら、日本が不法行為をするたびに懲罰を加え、それをエスカレートさせれば日本も怯えて悔い改めてくるだろう、日本が強い態度をとるのは、虚勢にすぎない、と呼んでいた。甘さをみせると、日本はつけあがる、というのがハル国務長官の対日観であった。しかしそのころの日本人には逆効果を生んだ。不遜なる米国が、また日本を徴発してきたと受取り、反米感情が更に燃え上がった。
 一方、松岡外相の対米観は、輪をかけて極端だった。彼はアメリカ西部のオレゴン州で、13歳のころから苦学しながら青年時代を送った。オレゴン州は20世紀初めにかけて、東洋人移民が多く、人種差別による排斥運動がしばしば起った。そんな渦中に生活して、彼は独特の対米観を得た。「アメリカ人に対するときは、どんなに相手が強そうに見えても、こちらに理があれば譲ってはならない。殴られたら殴り返さねばならない。一度でも威圧に屈したら、二度と頭を上げることは出来なくなる」と。個人的経験は貴重だが、個人の経験は場所と人が限られる。アメリカは広い。西部と東部、北部と南部では気質が違う。松岡は、一つの地域の事情で全体を推し量るヘイスティ・ジェネラリゼイション(早合点・軽率は概括)をやってしまった、と吉田。「毅然たる態度をとらねばならぬ」とは松岡外相の口癖だった。彼は三国同盟にソ連を加えた四国の力でアメリカに対抗し、大東亜共栄圏から英米勢力を駆逐し、アメリカによる米州ブロック、ドイツによる欧州・アフリカブロック、ソ連によるソ連・中近東ブロックに対してアジアブロックをつくろうと考えた。気宇は壮大だが、アメリカについて判断を誤り、イギリスを過小評価、ドイツを過大評価し、日本についても国力と軍事力を過大評価していた。彼の壮大なはずの構想は、独ソ戦で一瞬に吹き飛んだ。
 昭和15年のクリスマスも終わった29日、ルーズベルト大統領はラジオの「炉辺談話」で重大な声明をした。「アメリカの将来の安全は、イギリスの存亡にかかっている。アメリカとしては、いま、あらゆる手段を尽くしてイギリスを助ける方が、何もせずに見ているよりも、はるかに戦争に巻き込まれる恐れが少なくなる」と説き、有名な「アメリカは民主主義国家の兵器廠とならねばならぬ」と訴えた。ただこの演説では、日本について一言も触れなかった。しかし重大な声明とは、中立国である筈のアメリカが、交戦国の一方の為に兵器廠になる決意をしたことは、国際法に照らせば、すでに中立国ではありえない、正式な参戦こそしないが、すでに中立の立場を捨て、戦争に事実上参加した、と吉田はいう。

 その一カ月前(11月下旬)、海軍は山本連合艦隊長官の主催する図上演習を行った。三国同盟にいたる過程で、親独派と云われる中堅海軍士官(局長、部長クラスも怪しかった)が時流に乗って走ったあげく、いまになってアメリカの締め付け禁輸に遭い、困ったり怒ったりしている。そこへドイツの電撃戦でヨーロッパ情勢が急変した。それを見て、いまこそ南方作戦に打って出て、シンガポールと蘭印を占領し、入手できなくなった原料資材や石油を押さえるべきだといい立てている。その連中に、南方作戦は具体的にどんな様相になるか、図上演習で分からせようとすることであった。その結果、南方作戦の容易でないことが目の前に浮かびだして、参会者の肝を冷やさせた。山本はその直後、伏見軍令部総長官に結論と所見を報告した。
 「アメリカの戦備が大きく遅れたり、イギリスの対独戦がよほど不利になったりしない限り、蘭印作戦をはじめると、早いうちに日米開戦必至となり、イギリスも敵に加わり、結局、蘭印戦は対蘭、米、英数か国戦争となる公算がきわめて大きい。少なくともその覚悟と、十分な戦備を整えた後でなければ、南方作戦をはじめてはならない。蘭印作戦の目的は、その資源の獲得にある。平和的手段でこれを解決できないのは、米英がこれをバックアップしているからである。米英が戦わないと分かれば、蘭印は日本の要求を受け入れる筈である。蘭印作戦を始めねばならぬ情況に入るということは、対米英蘭数か国作戦となって当然なわけである。」
 「南方作戦は中国作戦などと違い、国運をとしての戦争で、また長期戦になるから、まず大義名分をとくに明らかにすること(長期にわたって国論の統一、戦線の士気を保ち続けるには、正義に戦いでなければならぬ)、第二に作戦目的と作戦手段をわかり易いものにすること(開戦後に政治的駆け引きをしなければならないようでは、大作戦は出来ない)、第三に協同する陸軍部隊は精兵であり、陸海軍中央協定は明確で、疑いをいれる余地が全く無いようにすること(作戦に重大な食い違いが生じないよう)」
 以上は山本報告の総論だけに抜粋だが、総長も「まったく同感」の意を示し、大義名分のくだりでは、「満州事変や日華事変のような不十分なことではいけない」と発言された。この図上演習はバスに乗り遅れるな足を浮かせた人たちに、はじめて事の重大さを覚らせた点で、大きな警鐘を鳴らしたことになり、また、軍備にもよほど努力を重ねなければ南方作戦などできるものではないと教えたことにもなった。

 吉田はいう。ルーズベルト大統領が炉辺談話で、事実上の戦争介入を表明したころ、日本では「もし南方作戦に手を付けたら、たいへんなことになるぞ」 だからやめろ、と山本が警告していた。・・・まだ参戦どころか、戦争への準備も気構えも出来ていなかった。
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海軍大臣 及川古志郎 三国同盟締結

2018年12月08日 | 歴史を尋ねる
 及川古志郎大将が海相として着任した翌日(9月6日)、中国で作戦中の日本軍警備部隊が、誤って国境を越え、北部仏印に踏み込んだ。そしてフランス軍守備隊長の警告を受けると、誤りを認め、すぐに引き返した。これより前、仏印の現地には、西原一策陸軍少将を長とする陸海合同の交渉機関があった。仏印当局もこの機関を認め、ようやく日本軍の仏印平和進駐への合意が成立するまでに漕ぎつけていた。そんな時に偶発事件で、仏印当局は重大な協定違反だとし、現地交渉を打ち切ると通告してきた。そして、交渉は東京とヴィシー政府との外交交渉に移されたが、仏印当局は仏印にいる英米外交機関からの牽制にも引きずられた。

 9月14日、北部仏印進駐の大命が下りず、大本営は色を失った。結局木戸幸一内大臣のとりなしで、大命が発せられたが、過早な発砲を禁ずる条件を付けられた。統帥部(参謀本部と軍令部)と政府8陸海軍省、外務省)は、フランス政府と交渉し、武力を使わない、平和進駐を決めた。しかし、参謀本部第一部はこれに承服しなかった。あくまで武力進駐によらねばならぬと考えていた。第一部長富永恭次少将は、作戦指導のため現地に到着、豹変して、主戦論を唱える南支那方面軍に作戦準備を急がせ、居留民の引き揚げを強行し、仏印当局にタイムリミットを設けた過大要求を突きつけ、武力進駐に向けての情況を強引に作っていった。
 9月18日、アメリカはグルー大使に、平和的手段以外で仏印に圧迫を加えることは認めないと、抗議させた後、23日にあらためて声明。25日には中国に2500万ドルの借款を与え、26日(日独伊三国同盟調印の前日)屑鉄と鉄鋼の対日輸出を禁じた。

 近衛文麿は組閣時、陸海外の三相候補者を私宅に集め、世界政策として、三国同盟締結、日ソ不可侵条約の締結、蘭印交渉、仏印進駐、アメリカの干渉排除、大政翼賛会の創設、国家総動員法の発動を挙げ、結局開戦につながるシナリオを、第二次近衛内閣成立の当初にすっかり書き上げたものであった、と吉田俊雄は厳しい。松岡を外務大臣に据えた不明を指摘するが、病床の松岡のもとに日米開戦の報を携えた斎藤良衛に、「日独伊三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったと今更ながら痛感する。僕の外交が世界平和の樹立を目標としたことは、君も知っている通りだが、世間からは僕は侵略の片棒かつぎのように誤解されている。僕の不徳と致すところだが、まことに遺憾だ。ことに三国同盟は、それでアメリカの参戦を防止し、世界戦争が起ることを予防し、世界平和を回復し、国家を安泰に置こうとしたものが、事ことごとく志と違い、こんどのような事態の遠因と考えられるに至った。それを思うと、死んでも死にきれない」と嗚咽した、と。吉田は指摘する。冷静で、客観的、科学的な国力(戦力)の分析を怠り、蜃気楼を現実のものと誤って、それを判断の基礎とした結果であった、と。さらに筆者が付け加えれば、就任して瞬く間に大論争のテーマに結論付けた裏には、第三者の意見に真摯に耳を傾けない、自己中心的な思い込み(ルーズベルトと米国に対する不正確な理解、更にはチャーチル、スターリンなども)があったことも、病床の松岡を責めた事だろう。

 近衛は組閣を前に、興亜院政務部長の鈴木貞一に言っている。「平沼、阿部、米内三内閣の政情不安の根本原因は三国同盟問題だった。これを推進するのは陸軍であり、陸軍の主張を容れなければ政情は安定しない。いきおい三国同盟の方向を認めざるを得ないだろう。それが政治家としての常識的感覚である」 近衛首相の目指す所も、国運の興隆を考えるよりも陸軍に同調して三国同盟を締結し、安定内閣をつくることであった。米内内閣とは180度の方向転換である。及川古志郎海相が着任し、翌6日、四相会議にはじめて出席したのは、このような雰囲気の中であった。「独伊ソ三国の勢力と結び、それをバックとして新政策をとろうとする点は、いちおう分かる。しかし日独伊三国同盟を結べば、対英米戦争を誘発する恐れがあるから、慎重の上にも慎重に考慮しなければならない。ことに、締結国が戦争に入ったら日本は自動的に参戦しなければならぬという義務を負うのは絶対反対である」及川はこのような腹案で会議に臨んだ。温厚で、口下手で、ボソボソとしか物が言えない東北人の及川には、雄弁家の松岡や東條を論駁したり、主張をかれらに徹底させることは、容易でなかった。しかも、就任翌日のことで、それまでの知識や経験の蓄積もなく、前任者と十分な事務引継ぎも出来ず、かれらの意図する三国同盟の本質について十分に検討する余裕もなかった、と吉田。彼はその日の四相会議に提案された「軍事同盟交渉に関する方針案」に対して、原則的に、同意する、と答えた。
 原則的になどという、慎重を期した意味合いの留保は、松岡たちには通用しなかった。四相会議で了解を得たとして、すぐにスターマー公使との会談に入った。スターマーの持ってきた条約案は、ドイツでアメリカと戦争を始めると、日本は条約によって自動的にアメリカと戦争しなければならない。新任の豊田貞次郎海軍次官は条約案を自動参戦拒否の観点から、その個所を修正して松岡私邸に赴き、密談した。松岡は自動参戦の問題を条約の本文から外すと条約そのものが弱くなるから、新しく付属議定書と交換文書をつくり、その中で参戦は各国政府の自主的判断によるという趣旨の規定にする、と妥協を求めた。さらに日ソ間の関係改善も引き受けた、とも言った。それまで「海軍としては研究したいから」と言って回答を留保してきた及川は、「そういうことになれば、これまで海軍が反対してきた理由はすべてなくなった」と、胸を開いた、と。
 しかし、現にイギリスと戦っているドイツと同盟すれば、イギリスを支援しているアメリカと敵対することになる。なぜそれを思わなかったのだろうか、と吉田。吉田ならずとも、もうすでに米国が膺懲的強硬措置を実行している、この段階でも反対する理由がなくなったとは、明らかに情勢判断の誤りが出ている。しかも、米内などは自動参戦問題という限定した捉え方ではなかったはずだ。ドイツ、イタリアと手を握ることの是非、それが日米関係に与える影響はどうか、といった同盟そのものに対する評価、海軍としてどうしても譲ることの出来ないそのような核心は何処に消えたのか、と吉田は嘆く。

 これ以後、アメリカははっきりと日本を敵に回した政策をとり始める。日本が何かすると、アメリカは敵意を見せてすぐにカウンターパンチを打ってくる。それを見て日本が次の手を打つ。たちまちアメリカが打ち返す。そんな危険のシーソーゲームの行きつく先は、戦争である。1940年5月、ヒトラードイツは、電撃戦によってわずか一カ月半の間にヨーロッパを席捲し、フランスを征服、イギリスと対峙した。ルーズベルトは参戦にならないギリギリの瀬戸際まで踏み込み、全力を挙げてイギリス支援に乗り出す。そこへ、降伏したフランス艦隊をドイツが手に入れようという情報が流れる。アメリカ艦隊はあらかた太平洋に回しているので、アメリカはドイツの米本土攻撃に備える。しかし、イギリス海軍がフランス基地を攻撃してフランス艦隊を情け容赦なく撃沈、動けなくしてしまったことで状況は一変。イギリスの危機は9月末までには回避できる目途が立った。ロールスロイスのエンジンを積んだスピッツファイアがイギリス本土空襲に来るドイツ空軍機を撃墜破し、撃退した。ドーバーを渡る上陸作戦は、すでに挫折していた。イギリスを直接撃つ有効な手段を失うと、ヒトラーはソ連を討つ決心をした。幕僚に八か月後の独ソ開戦を予告し、準備を急がせた。ドイツにとって、アメリカを欧州戦争に参戦させないことが、重要な局面になった。そんな時、ドイツの勝利を夢見て、日本が三国同盟を結んだのだった。松岡外相は、このころ、これにソ連を加えた四国の力を背景にして対米外交をすすめて、アメリカの脅威を断とうと目論んだ。スターマーが日ソ国交調整の仲介者になろうと申し出たのを信じた。悲劇的な情況判断の誤りだった。
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海軍大臣 吉田善吾 軍部大臣現役制

2018年12月04日 | 歴史を尋ねる
 天皇の米内への御信任が厚く、内大臣に「米内内閣をなるべく続けさせたい」とどれほど希望されていようと、武藤軍務局長らは倒閣の手をゆるめなかった。「バスに乗り遅れるな」かれらの口を衝いて出ると、妙に説得力をもった。ヨーロッパの火の手を見て、はじめは半信半疑で、やがては何か確信を植え付けられたように、人が走り、グループが走り、群衆が走った、当時の世相を吉田俊雄はこう描写する。ソ連を対象に、共産主義からの防衛を目的とした三国同盟が、いまでは英米を対象にした色彩を濃くしたものに変貌した。三国同盟が、シンガポール、ジャワへの南進と絡めて論じられた。ドイツから送られてくる情報は、あすにもドイツの対英上陸作戦が始まるように思われた。大島駐独大使は、情報を操作して、ドイツに不利な情報を日本に送らせなかった。その上、ドイツ高官たちの言葉は口移しのように伝えてくるが、その現場にいって、自分の目で確かめた上で報告しようとはしなかった。結果として、大島大使が意図した以上に、ドイツに対する不利な情報は日本には送られなかった。ドイツが上陸用舟艇の整備が出来ないことをふくめてすでに対英上陸作戦の戦機を逃したこと、フランスが崩壊すればイギリスは戦意を失い脱落すると考えていたヒトラーの判断が外れたこと、ドイツ空軍は数でこそイギリス空軍よりも優勢であったが、実際はイギリス空軍に勝てない状況は、日本には伝えられなかった。日本の世論は、陸軍とマスコミのいら立ちにあおられ、一人一殺を合言葉に動き出した極右の不気味な気配を感じながら、それでも早く米内内閣が倒れないと日本はバスに乗り遅れるのではないか、と思った、吉田俊雄はこう記す。

 米内内閣が7月16日、総辞職に追い込まれるまでの間に、アメリカは痛烈なパンチを打ち込んで来た。英米との友好回復を志しながら、その相手からパンチを食うのは皮肉であるが、その点アメリカも、米内内閣の性格を十分見届けていなかった。グルー駐日大使の意見具申などを無視して日本をヒトラーと同列に置き、ヒトラーの意外な成功に刺激されて、感情的な拒絶反応を起した、と吉田。5月1日、ヒトラーが西部戦線で攻撃命令を発し、大戦果を挙げてイギリスを追い返して孤立させると、ルーズベルは5月7日、対日艦隊決戦の演習を終えた太平洋艦隊をハワイに駐留させると発表、日本の南方進出を牽制した。
 6月14日、第三次ビンソン案(海軍拡張案)が成立、つづいて7月11日、両洋艦隊法案が上下両院を通過した。これは、ドイツがフランス艦隊を接収、その勢いでアメリカを攻撃してくるという噂が流れ、米国民も議会もヒステリー状態になった。たまたま議会で第三次ビンソン案を説明していたスターク海軍作戦部長が、予定にもなかった両洋艦隊法案(ドイツにも日本にも勝つことを目的とした天文学的数字の海軍大拡張案)を提案、アッという間に満場一致で可決された。海軍の場合、大海軍主義を唱えて一世を風靡した、マハン提督の思想がアメリカ海軍で信奉されたが、そのころアメリカに留学中であった秋山真之少佐(日本海軍兵術思想の開祖)に受け継がれ、日米海軍は同根であり、同一線上にあった。大統領になる前から無類の海軍好きであったルーズベルトの思考方法と行動様式も、マハン風であり、海軍流であった。ハワイに太平洋艦隊を常駐させて睨みを利かせ、日本の武力南進を牽制しようとしたのも、のちの話になるが、プリンス・オブ・ウェールズとレバルスをシンガポールに進出させて、日本の南進を抑止しようとチャーチルが決断したのも、マハン的であった、と。そして、両洋艦隊法は、昭和21年までの7年間に、主力艦(戦艦)35隻、空母20隻、巡洋艦88隻、駆逐艦378隻、潜水艦180隻、合計701隻。軍用機25,000機を次々に完成させていこうとするもので、日本にとって、月日が経てばたつほど不利になる計算だった。
 対米劣勢を補助艦艇にも押し付けられた日本海軍は、悲憤の涙をのんだロンドン軍縮会議後、心の平衡を失い、統帥権干犯問題などという政治問題に巻き込まれ、かけがえのない海軍の良識を何人も切り捨てるようなつまらない結果を招いた。第一次大戦は化学の戦争、第二次大戦は数学と物理学の戦争であると二つの戦争の性格を捉えた、のちの太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督の客観性と科学性が必要であった。しかし日米海軍の格差は極めて大きかった。ところが、陸軍は奥の手を出し、軍部大臣現役制を盾に取った陸軍大臣の単独辞表提出、後任を陸軍は出さないという強硬手段をとり、米内も内閣を投げ出した。
 
 近衛内閣は7月22日成立した。大命降下から五日もかかったので、それだけ難産だった。九年前、軍事国家建設を担う人たちが満州事変をはじめ、三年前に日華全面戦に突入、更にドイツと手を結び、アメリカ経済圏に入ることによって生存し得ている日本の基本条件を忘れてアメリカを敵に回した。ヨーロッパを侵略席捲し、激しいユダヤ人迫害をするナチと手を組んだのがキメ手になった。それに対するアメリカの膺懲的締め付けが、しだいにエスカレートし、それが日本の弱点を狙って打ち出されるものだけに、日本にとっての危険度は致命的であった。この時、ヨーロッパ戦局を横目に焦りに焦っていた陸軍は、日本の歩むべき道を決めた「情勢の推移に伴う時局処理要綱」をつくり、海軍事務当局とも打ち合わせて成分とし、陸海軍の総意である、これによって政治を、と政府に突きつけるものであった。しかし米内内閣は倒れ第二次近衛内閣に代わった。
 要綱の内容は、インド以東、豪州、ニュージーランド以北の太平洋地域に大東亜共栄圏を確立し、英米圏から脱した自給態勢を打ち立てる。その機会は、いまを外したらほかにない。ドイツがヨーロッパで大戦果を挙げているいまがチャンス、バスに乗り遅れるな思想だった。この共栄圏を手に入れると、思い通り、英米圏から得ていた原材料が代わって得られ、製品が輸出でき、日本の生存が確保できるのか、その共栄圏は、独伊と軍事同盟を結べば、英米ソを敵に回してもうまく建設できるのか、そんな現実的検討は、精神至上、作戦優先、即時南進開始の声にあおられて、消されてしまった。

 吉田海相が辞任したのは15年9月5日だった。原因は過度の心労と疲労だった。三国同盟に反対に代表される海軍良識の最後の砦として時流に抗してきたが、米内海相の時と違って、次官、軍務局長に相談相手がなく、一人で国運を左右する決断をしなければならなかった。当時興亜院の政務部長、鈴木貞一(陸軍)が、石川信吾(海軍)興亜院政務部第一課長に、海軍の三国同盟に対する腹はどうなんだと、打診してきた。大臣にあって確かめましょう、と個人的に吉田海相に会う(9月3日)こととした。彼は三国同盟問題に対する諸方面の動きを開陳し、「もし海軍大臣の腹が三国同盟反対を決めておられるなら、陸軍を向こうに回して大喧嘩をやらねばなりません」 もっとも辛いところを衝かれた吉田は「この際、陸軍と喧嘩するのはつまらないよ」と力がなかった。石川はたたみかける。「それでは三国同盟に同意することになるのですか」「しかし、対米戦争の準備がないからな」 石川は「ここまでくれば、もはや理屈じゃなくて、何をとるかの決心の問題であります。大臣の腹一つと思います」 吉田は「困ったなあ」と呟くと、そのまま頭を抱えて、テーブルにうつぶせになった。石川は、その晩、吉田大臣は苦悩の余り倒れて入院された、と書いている。

 8月27日、近衛内閣は蘭印に特派使節を派遣することを閣議決定した。海軍の考えている平和的、経済的な南方進出の方針にそう、重大使命を帯びた特派使節であったが、その外交交渉方針の内容は、常識を外れていた。そして、特派使節には松岡外相の推す小磯国昭陸軍大将を充てることに内定した。小磯は使節を引き受ける条件として、陸軍二個師団と軍艦を用意してもらいたいという。蘭印が云うことを聞かないときは実力行使して保障占領する。その間中央の指示を待つのは間に合わないから訓令を受けておきたい、と。さすがに東條陸相もあきれた。近衛はあとで吉田に電話をかけて、軍艦を出してもらえないか、と打診があった。吉田は即座に断った。首相ともあろうものが、そんな目的のために軍艦を使おうとしている、軍艦は国土の延長であり、他国に侵入すれば、それだけで戦争を仕掛けたことになる、と。
 結局、小磯は引き受けを渋り、入れ替わりに、商工大臣小林一三を大臣のまま使節として派遣することにした。訓令案を閣議にかけた時、またひと悶着が起きた。蘭印が大東亜共栄圏の一員であるにも関わらず、日本に対して要求に応じないのはまことに不都合千万で、断じて黙過できない、という文言などが並べられていた。吉田は外交は所轄外であるが頑張った。蘭印の油がもっとも欲しいのは海軍だった、が。吉田にしてみれば、海軍部内に目が離せないだけでなく、政府にも目が離せなくなった。
 
 9月4日、吉田は病院で辞表を書いた。吉田の推薦によって、急遽横須賀鎮守府から及川古志郎大将が大臣として着任したのは、翌5日であった。

 
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