吉田俊雄にとって、石川信吾は危険人物だった。あの第二次ロンドン軍縮会議を爆破(対米強硬策の意見書『次期軍縮対策私見』を海軍上層部に提出し、超大型戦艦建造を提言した。この私見は「独立国家間の軍備は均等であるべき」という内容で艦隊派の支持を受け第二次ロンドン軍縮会議の方針となった)した石川信吾大佐が、ひのき舞台に主役として登場した、と。ウキペディアによると、1941年(昭和16年)6月に、第一委員会は報告書『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』を提出した。その内容は、日独伊三国軍事同盟を堅持し、南部仏印に進駐し、米国の禁輸政策が発動された場合は直ちに軍事行動を発動するという趣旨のものであった。委員会を主導したのは石川と富岡定俊とされ、のちに石川は「(日本を)戦争にもっていったのは俺だよ」と発言している。
「百害あって一利なし」と井上成美が決めつけた「海軍国防政策委員会」が15年12月、出来た。委員長は軍務局長岡敬純少将、委員に軍務局、兵備局、軍令部の課長以上を充て、「三国同盟条約によって転換された国策にもとづく海軍国防政策を活発に遂行するため、常務機関の事務連絡および相互支援に資するための中枢機関」と性格づけた。この委員会を発案した高田軍務一課長によると、「新設された軍務局第二課で国防政策を策定することになれば、課長を誰に持ってくるか、特別に重要である。当時の情勢から、二課だけでは不十分で、全海軍を挙げて陸軍に対抗する事務体制を整備しなくてはならない、それがこの委員会であった」
どうしても、陸軍に対抗できる政策を持たねばならない。米艦艇を迎え撃ち、艦隊決戦で勝つのが海軍の仕事であり、政治にかかわるのは仕事でない、と考えているだけでは、その間に日本がどっちに行ってしまうか分からない、という認識だった。吉田俊雄から云わせると、遅すぎた認識であった、と。そうだとすれば、満州事変以前から注意深くチェックとコントロールが必要であった。が、いまとなっては、陸軍が南進、開戦を主張しつづけるのを、どう食い止め、どう事態を収拾するかを考えねばならなかった。
人事局はその二課長に矢牧大佐を充てようとしたが、本人が陸軍関係に知人もいないし、と断り、彼は興亜院政務一課長の石川大佐を推した。人事局担当課長島本久五郎大佐は、石川大佐は時々軌道を外れた行動をする、石川の性格からみて、二課長のような重要配置に置くのは危険だ、と考えた。ところが、軍務局長岡敬純から人事局長伊藤整一に、ぜひ石川をよこしてくれと強い要望が入った。それを聞いた島本は局長に反対具申、その旨、岡局長に回答したが、重ねて強い要望が来た。「人事局長は石川を嫌っているようだが、自分なら使って見せる、石川は陸軍のたくさんの者を知っているし、情報もとれる」 そういわれると、島本も折れざるを得なかった、と。ふーむ、人事局が懸念したことについて、岡は何ら答えていない、むしろ陸軍との癒着を言っているが、勢いに流されると、いうことか。
吉田はいう。岡と石川は、同郷(山口県出身)で、同じ中学(東京・目黒の攻玉舎)の先輩後輩で、二人揃って親独派、熱心な南進論者でもあった。しかも、二人ともアメリカを体験していなかった。こうして日本のもっとも重要なときに、もっとも影響力の強い重要ポストに、アメリカを知らぬ同郷、同窓の先輩後輩がついて対米戦の是非を考えることになった。軍務局二課長となった石川大佐は、部下の英米担当課長柴勝男中佐に、「戦争必至の大局観をもって戦争決意を行い、対策を立てよ、」と、まだ16年6月頃の話ながら命じた。「海軍の事務当局の中で、開戦の原動力となったのは石川二課長だった」 そのころの関係者が、口を揃えてハッリキいうほどの急進派だ。なぜ、石川がかわれたのか。それは、石川は、海軍ではほかに誰もいないくらいの政治軍人であり、議論達者であった。陸軍の政治軍人たちと対等に話し合うことの出来るほとんど唯一の海軍軍人という希少価値を買われ、及川海相や豊田次官から重宝がられた。だから、第一委員会の中心的存在は、海軍省側は政策担当の石川二課長、軍令部側は富岡作戦課長であり、陸軍との連絡にもこの二人が主として当たった。
この委員会が発足したのちの海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いた。海軍省内でも、重要な書類が回ってくると、上司はこの書類は第一委員会をパスしたものかどうか聞かれ、パスしたものは相当重視された。例えば永野総長は、第一委員会の結論を、みんな課長級がよく勉強しているから、おれは文句がないよといって、ハンコを押したと伝えられる。世上ややもすれば第一委員会が海軍の首脳部を振り回したのごとく伝えているが、岡軍務局長は、腑に落ちない書類や意見には、決して盲判を押す人ではなかった、という人もいるが、井上成美は、「あれは大佐が海軍を引っ張っているようなものだ。大佐は大佐の頭だけしかないんですよ」と言い切った。「岡は政治家気取りで陸軍にかぶれ、日本は東洋の盟主だなどとふりまわし、世界経済の中心は東京だ、などと言っていた。そして欧州戦争が始まってドイツの旗色が良くなると、バスに乗り遅れてはいけないなどと色気を出し、ついには太平洋戦争に突入させてしまった」と。後日、東京裁判で岡正純はA級戦犯になっている。
イギリスが、火のついたように「極東危機」を叫びたてていた頃、山本連合艦隊、嶋田支那方面艦隊の二人の長官から、申し合わせたように、及川海相に懸念を申入れて来た。二月半ばから末にかけてのことだった。「仏印に武力を使うと、英米の動きからみて、事態は意外に早く急転直下する心配がある。仏印、蘭印などに武力進出するのは危険だ」と。及川は、武力行使を考えていないと回答した。しかし、この問題で、陸海軍の間に不信感が燃え上がった。陸軍が武力使用を主張してやまないのに、海軍は、南方に武力を使えば対米開戦になる、米海軍が極東に進出して、日本の国防が危うくなったとき以外は武力を使わない、という。その海軍の非戦主義に、陸軍が憤慨した。口先だけで対米戦を唱え、予算をとって自分の軍備をしているだけで、海軍は対米戦をやる決意はない、と。戦争をしないための軍備という概念は、陸軍には通用しない。
天皇の軍隊は、作戦だけを考えていればよい。戦えと大命をいただいたら、その時こそ、生命を国に捧げて戦い、最後の一兵になるまで戦い抜いて国を護ればよい、と心に決めてひたすら訓練に熱中してきた、それがここで問われようとは思いもよらぬことであった、吉田はこう推察する。
松岡外相が、三国同盟にソ連を加え、その力を背景にアメリカと交渉し、日本の主張を飲ませようというのが、松岡の外交戦略であった。まずドイツに行ってヒトラー、リッペントロップと会い、対英作戦の真相を聞き、ソ連と国交を調整し、4月いっぱいで中国と全面和平をはかり、それから南に打って出る。この四か国の力をフルに活用して、舞台を整え、一気に南進し、同時にアメリカとも話し合う。それが松岡の狙いだった。16年3月中旬、松岡は東京を発ち、ヨーロッパに向かった。このころのドイツは、イギリス上陸作戦の目途が立たず、一方独ソ戦準備が密かに進めていたが、日本に向かってはそんなことはおくびにも出さず、早くシンガポールを攻略してくれと盛んに催促していた。ドイツの実情は、東京には分かっていなかった。松岡はみずから現地の実情を捉えたつもりでいながら、その実、ドイツの対英進攻は不可能であるとか、独ソ間が一触即発の状態にあるという情報は、ふしぎなくらい掴んでいなかった。
モスクワでの会談は3回に亙ったが進展はなかった。4月12日朝、松岡は陸海軍武官を集め、「これからスターリンに会って、日本に引き返し、その足でアメリカに渡って交渉する」とそれだけ話すと、スターリンに挨拶に行った。スターリンは別れの挨拶をする松岡にストップをかけた。モロトフに目配せして、書類をもってこさせた。それには松岡が提示し、ソ連が応諾しなかった不可侵条約を中立条約に仕立て直し、不可侵条約の意味を含ませて、双方の面子を立てた条約案が書かれていた。松岡は夢かと喜んだ。それ以上に、翌日の調印式でみせたスターリンの喜色満面の顔の方が、もっと印象的であった、と。いつも不機嫌な顔しかみせないスターリンが、上機嫌で、先に立ってこまごまと気を配り、シャンパングラスをテーブルに自分で運ぶやら、自分で片づけるやら、自分でボーイに命じてナイフ、フォークをもってこさせるやら、自分でみんなの椅子を直すやらしたという。「突然のことで何もありませんが、やってください。……私はあなた方とおなじ東方人です。英米に気を許したことはありません」と、駐在武官たちにも愛想がよかった。サインを乞うと、スターリンは喜んで紙切れにサインした。「山口さんへ、スターリンより。善良なる記念のために」 この時、シャンパンを干しながら、スターリンが松岡に言った。「これで日本人は、南へ安心して出れますね・・・」 それだけではなかった。松岡一行がシベリア鉄道に乗り込んだモスクワ駅に、異例も異例、スターリンとモロトフが見送りに来た。発車時刻が来ても、鶴の一声で発車を待たせ、車内に入って松岡を抱擁するやらなにやら・・・。
日ソ中立条約は、まぎれもないスターリンの逆転サヨナラ満塁ホームランであった、吉田は言う。彼はそれによって日本軍の矛先を南に向けさせて後顧の憂いを絶ち、大軍をヨーロッパに集めてドイツに勝った。そして日本の敗戦が決定的になると、不延長を通告、条約有効期間九カ月を余す20年8月8日、突然、日本に宣戦布告、満州、千島、樺太を掌中に収めた。
「百害あって一利なし」と井上成美が決めつけた「海軍国防政策委員会」が15年12月、出来た。委員長は軍務局長岡敬純少将、委員に軍務局、兵備局、軍令部の課長以上を充て、「三国同盟条約によって転換された国策にもとづく海軍国防政策を活発に遂行するため、常務機関の事務連絡および相互支援に資するための中枢機関」と性格づけた。この委員会を発案した高田軍務一課長によると、「新設された軍務局第二課で国防政策を策定することになれば、課長を誰に持ってくるか、特別に重要である。当時の情勢から、二課だけでは不十分で、全海軍を挙げて陸軍に対抗する事務体制を整備しなくてはならない、それがこの委員会であった」
どうしても、陸軍に対抗できる政策を持たねばならない。米艦艇を迎え撃ち、艦隊決戦で勝つのが海軍の仕事であり、政治にかかわるのは仕事でない、と考えているだけでは、その間に日本がどっちに行ってしまうか分からない、という認識だった。吉田俊雄から云わせると、遅すぎた認識であった、と。そうだとすれば、満州事変以前から注意深くチェックとコントロールが必要であった。が、いまとなっては、陸軍が南進、開戦を主張しつづけるのを、どう食い止め、どう事態を収拾するかを考えねばならなかった。
人事局はその二課長に矢牧大佐を充てようとしたが、本人が陸軍関係に知人もいないし、と断り、彼は興亜院政務一課長の石川大佐を推した。人事局担当課長島本久五郎大佐は、石川大佐は時々軌道を外れた行動をする、石川の性格からみて、二課長のような重要配置に置くのは危険だ、と考えた。ところが、軍務局長岡敬純から人事局長伊藤整一に、ぜひ石川をよこしてくれと強い要望が入った。それを聞いた島本は局長に反対具申、その旨、岡局長に回答したが、重ねて強い要望が来た。「人事局長は石川を嫌っているようだが、自分なら使って見せる、石川は陸軍のたくさんの者を知っているし、情報もとれる」 そういわれると、島本も折れざるを得なかった、と。ふーむ、人事局が懸念したことについて、岡は何ら答えていない、むしろ陸軍との癒着を言っているが、勢いに流されると、いうことか。
吉田はいう。岡と石川は、同郷(山口県出身)で、同じ中学(東京・目黒の攻玉舎)の先輩後輩で、二人揃って親独派、熱心な南進論者でもあった。しかも、二人ともアメリカを体験していなかった。こうして日本のもっとも重要なときに、もっとも影響力の強い重要ポストに、アメリカを知らぬ同郷、同窓の先輩後輩がついて対米戦の是非を考えることになった。軍務局二課長となった石川大佐は、部下の英米担当課長柴勝男中佐に、「戦争必至の大局観をもって戦争決意を行い、対策を立てよ、」と、まだ16年6月頃の話ながら命じた。「海軍の事務当局の中で、開戦の原動力となったのは石川二課長だった」 そのころの関係者が、口を揃えてハッリキいうほどの急進派だ。なぜ、石川がかわれたのか。それは、石川は、海軍ではほかに誰もいないくらいの政治軍人であり、議論達者であった。陸軍の政治軍人たちと対等に話し合うことの出来るほとんど唯一の海軍軍人という希少価値を買われ、及川海相や豊田次官から重宝がられた。だから、第一委員会の中心的存在は、海軍省側は政策担当の石川二課長、軍令部側は富岡作戦課長であり、陸軍との連絡にもこの二人が主として当たった。
この委員会が発足したのちの海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いた。海軍省内でも、重要な書類が回ってくると、上司はこの書類は第一委員会をパスしたものかどうか聞かれ、パスしたものは相当重視された。例えば永野総長は、第一委員会の結論を、みんな課長級がよく勉強しているから、おれは文句がないよといって、ハンコを押したと伝えられる。世上ややもすれば第一委員会が海軍の首脳部を振り回したのごとく伝えているが、岡軍務局長は、腑に落ちない書類や意見には、決して盲判を押す人ではなかった、という人もいるが、井上成美は、「あれは大佐が海軍を引っ張っているようなものだ。大佐は大佐の頭だけしかないんですよ」と言い切った。「岡は政治家気取りで陸軍にかぶれ、日本は東洋の盟主だなどとふりまわし、世界経済の中心は東京だ、などと言っていた。そして欧州戦争が始まってドイツの旗色が良くなると、バスに乗り遅れてはいけないなどと色気を出し、ついには太平洋戦争に突入させてしまった」と。後日、東京裁判で岡正純はA級戦犯になっている。
イギリスが、火のついたように「極東危機」を叫びたてていた頃、山本連合艦隊、嶋田支那方面艦隊の二人の長官から、申し合わせたように、及川海相に懸念を申入れて来た。二月半ばから末にかけてのことだった。「仏印に武力を使うと、英米の動きからみて、事態は意外に早く急転直下する心配がある。仏印、蘭印などに武力進出するのは危険だ」と。及川は、武力行使を考えていないと回答した。しかし、この問題で、陸海軍の間に不信感が燃え上がった。陸軍が武力使用を主張してやまないのに、海軍は、南方に武力を使えば対米開戦になる、米海軍が極東に進出して、日本の国防が危うくなったとき以外は武力を使わない、という。その海軍の非戦主義に、陸軍が憤慨した。口先だけで対米戦を唱え、予算をとって自分の軍備をしているだけで、海軍は対米戦をやる決意はない、と。戦争をしないための軍備という概念は、陸軍には通用しない。
天皇の軍隊は、作戦だけを考えていればよい。戦えと大命をいただいたら、その時こそ、生命を国に捧げて戦い、最後の一兵になるまで戦い抜いて国を護ればよい、と心に決めてひたすら訓練に熱中してきた、それがここで問われようとは思いもよらぬことであった、吉田はこう推察する。
松岡外相が、三国同盟にソ連を加え、その力を背景にアメリカと交渉し、日本の主張を飲ませようというのが、松岡の外交戦略であった。まずドイツに行ってヒトラー、リッペントロップと会い、対英作戦の真相を聞き、ソ連と国交を調整し、4月いっぱいで中国と全面和平をはかり、それから南に打って出る。この四か国の力をフルに活用して、舞台を整え、一気に南進し、同時にアメリカとも話し合う。それが松岡の狙いだった。16年3月中旬、松岡は東京を発ち、ヨーロッパに向かった。このころのドイツは、イギリス上陸作戦の目途が立たず、一方独ソ戦準備が密かに進めていたが、日本に向かってはそんなことはおくびにも出さず、早くシンガポールを攻略してくれと盛んに催促していた。ドイツの実情は、東京には分かっていなかった。松岡はみずから現地の実情を捉えたつもりでいながら、その実、ドイツの対英進攻は不可能であるとか、独ソ間が一触即発の状態にあるという情報は、ふしぎなくらい掴んでいなかった。
モスクワでの会談は3回に亙ったが進展はなかった。4月12日朝、松岡は陸海軍武官を集め、「これからスターリンに会って、日本に引き返し、その足でアメリカに渡って交渉する」とそれだけ話すと、スターリンに挨拶に行った。スターリンは別れの挨拶をする松岡にストップをかけた。モロトフに目配せして、書類をもってこさせた。それには松岡が提示し、ソ連が応諾しなかった不可侵条約を中立条約に仕立て直し、不可侵条約の意味を含ませて、双方の面子を立てた条約案が書かれていた。松岡は夢かと喜んだ。それ以上に、翌日の調印式でみせたスターリンの喜色満面の顔の方が、もっと印象的であった、と。いつも不機嫌な顔しかみせないスターリンが、上機嫌で、先に立ってこまごまと気を配り、シャンパングラスをテーブルに自分で運ぶやら、自分で片づけるやら、自分でボーイに命じてナイフ、フォークをもってこさせるやら、自分でみんなの椅子を直すやらしたという。「突然のことで何もありませんが、やってください。……私はあなた方とおなじ東方人です。英米に気を許したことはありません」と、駐在武官たちにも愛想がよかった。サインを乞うと、スターリンは喜んで紙切れにサインした。「山口さんへ、スターリンより。善良なる記念のために」 この時、シャンパンを干しながら、スターリンが松岡に言った。「これで日本人は、南へ安心して出れますね・・・」 それだけではなかった。松岡一行がシベリア鉄道に乗り込んだモスクワ駅に、異例も異例、スターリンとモロトフが見送りに来た。発車時刻が来ても、鶴の一声で発車を待たせ、車内に入って松岡を抱擁するやらなにやら・・・。
日ソ中立条約は、まぎれもないスターリンの逆転サヨナラ満塁ホームランであった、吉田は言う。彼はそれによって日本軍の矛先を南に向けさせて後顧の憂いを絶ち、大軍をヨーロッパに集めてドイツに勝った。そして日本の敗戦が決定的になると、不延長を通告、条約有効期間九カ月を余す20年8月8日、突然、日本に宣戦布告、満州、千島、樺太を掌中に収めた。