道草 佐々木到一の見た支那兵

2015年04月28日 | 歴史を尋ねる
 佐々木到一は日本陸軍の軍人。陸軍きっての中国通で、蒋介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にもよく理解を示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行った事でも有名。孫文の作戦参謀をやり、蒋介石には、軍隊を改造しないかぎり中国は近代国家になれないと直言した。また、毛沢東の著書「湖南省農民運動の視察報告」(1927)の最初の邦訳者で、類まれな支那体験をして生きた人物である。この佐々木は多くの資料と著書を残している。彼の著作、手記などから田中秀雄氏は著書「日本はいかにして中国との戦争に引きずる込まれたか」を書いている。この著書を参考に、当時の支那兵の実態を垣間見ておきたい。

 佐々木の知る支那兵はみなひどかった。陸軍大学校を卒業後の1918年、佐々木は青島の守備隊に配属された。その時兵要地誌作成のため、青島から北京を経由して、袁世凱の故郷である河南省の彰徳、それから省境の山を越えて、山西省の省都太原まで行った。山西を支配する閻錫山とも会った。ロバに荷物を積んでの大旅行で、治安が悪いためにパスポートには行先の官憲の保護を請う旨が書かれている。すると保護と称して巡警が、あるいは兵隊がついてくる。最初に約束した賃金にほかに酒手を法外に要求し、飯を勝手放題に食って、その勘定をこちらに突き付けてくる。彼はシベリア出兵では満州やウラジオストックに滞在した。ソ連国境に日本軍と東三省の軍隊が共同して配置されていた。一中隊全部がしばしば武器を持ったまま逃亡する。上官を殺し、そのまま馬賊に豹変する。
 孫文が革命のために使おうとしていた軍隊も同じだ。孫文が広東に復帰してきた時、すでに雲南や広西の軍閥が競って地盤を設定し、金蔓にありついていた。見入りのいいのは賭博場や阿片館だった。孫文の政府は財政上の実権が殆どなかった。しかし戦争なら金を出せと彼らは云う。困り抜いて財政統一会を作った。軍閥の私有する財産を政府に戻させ、改めて交付し直そうとした。しかし政府の手に返還してきたのはほんの少しであった。この傭兵軍隊に何度となく軍人精神講話を聴かせた。佐々木も立ち会ったが、咳ひとつせずに聞かせるほど孫文の威令は大きかった。その時はかの三民主義に目覚めたかのような軍閥の親分が、すぐに元の木阿弥になって、略奪、虐殺の本領を発揮する。
 広東市内の映画館に兵隊が只で入ろうとした。それを番人が止めた。兵隊は一応引っ込んだが、しばらくすると将校の指揮する一隊が現れて、映画館のあるデパートの窓ガラスを片っ端から叩き割り、商品を残らず強奪した。デパート側が折れ、その軍隊は映画館の入場料の一割を付加税として召し上げることができるようになった。佐々木の住まいの前が運河だった。その入口に雲南軍が徴発した船を設置し、往来する貨物船から税金を取り始めた。佐々木は毎日観察した。一か月一船一元というシステムだったが、領収書は同じでも取立料が三日目から二元となって五日目から二・五元となった。値上げ分は役得として現場の役人が懐にねじ込んだ。

 平時は日本の兵隊の様に練兵などなく、ただほったらかしにされる。賭博が彼らの最も好むところだ。これを上官が奨励する。当然負けが込む者が大勢出てくる。不満だ。この憤怒を戦争に駆り立てる切っ掛けとする。元々一般社会からの脱落者が多く、性格上、彼らは自暴自棄の心理状態になりやすい。戦時は意外に逃亡兵が少ないという。行軍がある。馬に乗った指揮官は慰労などしない。強度の疲労は怒気をはらむ。戦場での逃亡は処刑である。後退すれば、自らに銃を向けた督戦隊が待ち構えている。前を向いても後ろを向いても地獄だ。指揮官はこの自暴自棄の心理をうまく利用して、敵に向かわせる。こうして運よく生き延びた老兵は、出動の命令が来ると、歓喜の表情を表す。勝利の後の掠奪という恍惚的体験が忘れられぬからだ。
 支那の軍隊が町に入ると、第一日目は銭を奪い、二日目は女を漁る、三日目から賭場を開く。四日目以降に指揮官が指揮官らしいことを始める。騒擾を禁ずるなどの布告が出るのは騒擾が終わった後のことだ、と。支那軍に軍紀は存在しない。これは服従を基本とする。しかし支那軍では直属の将校とその護兵(従卒)を除けば、その他の上級者に敬礼しない。将校は部下の意を迎えなばならない。そうして聯隊の単位から腐敗悪事が拡散し、広まることになれば、これを阻止することは難しい。軍隊が一省を支配するとなれば、腐敗は省全体に拡大することになる。兵卒は土匪から農村・農民を守らねばならぬ。しかし彼らは匪賊と結託する。大商人は身の安全のために軍閥の長に上納する。
 以上は朱執信という国民党員の本「兵的改造與其心理」で、支那兵の心理と軍隊構造を理解するうえで佐々木は非常に参考になったと云っている。朱は「化兵為工」、兵隊を人並みの労働者に教育し直す。まず悪事を知り尽くした老兵を聯隊規模から追放する。練兵と職業訓練を同時に行う。兵役が終わったときには兵隊は見事な職能者となって社会に旅立つ。佐々木はこれは理想論だという。結局、徴兵制度が確立された統一国家が出来なければ軍隊の改造は無理だということだった。

 佐々木の「支那陸軍改造論」を見てみたい。支那の軍隊は傭兵制度である。支那の兵は社会の落伍者を集めたものである。一般社会で飯にありつく見込みのなくなった者が隊伍に入るのである。一般人の最賎業視する職業である。しかも貧窮者を収容して徒食させる一種の社会政策実施機関というべきものである。軍閥が兵を養うことは、一面猛獣を飼うものであるが、この猛獣が一度野に放たれて民を残害するに至れば、民は最早軍閥と没交渉という訳にはいかなくなる。軍閥が銀行・商会等の資産家の団体に賦課金を命じ、これに応じることは掠奪との惨害を免れる手段となる。支那の軍閥は辛亥革命の遺物である。今日支那不統一の最大原因は軍閥の無自覚と我欲とであるから、彼らが自己の頭脳を改造し私兵的軍隊を改造して、国軍の完成に向って努力すれば、統一の曙光もそこから認められる。第四革命の必要と強力なる革命軍の編成に思いをめぐらす者がいる。革命の機運は刻々醞醸しつつある。武力は依然革命遂行に当たって重要なる役割を勤めるだろう。こうして佐々木は広東にできた黄埔軍官学校に注目する。佐々木が支那軍の改造を可能なりと信ずるは、この事実に基づいて主張するのである。

 1928年1月、蒋介石が国民革命軍総司令に復職。佐々木は総司令部に従軍を申し入れ許可され4月、北伐が再開され北伐軍と共に従軍した。総司令部は日本側との衝突が起こりそうになった場合の連絡役を佐々木に期待した。前年とこの年と二度に渡る日本軍の山東出兵で、中国側の敵愾心が高まっており同年5月、日本軍と国民革命軍が武力衝突(済南事件)。佐々木は両軍の使者となって停戦の折衝にあたるが途中、中国兵に捕らえられ暴兵と暴民にリンチされる。蒋介石の使いに何とか救出されたが、佐々木の中国観に大きな変化が起こったとされる。状況報告のため帰国。佐々木の発言が革命軍の肩を持つような記事に捏造された新聞記事で出たり、暴行を受けながら、おめおめ生きて帰ってきたと卑怯者、売国奴あつかいをされた。このため転地療養を命じられるが、田代皖一郎支那課長から戻って欲しいと要請を受け南京に戻る。しかしこれ以降、中国側が佐々木との接触を断った。蒋介石は済南で佐々木を見舞った時、日本軍の行動に強い不信の念を表明し、日本軍との提携の望みはなくなったと語ったという。
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-11-16 04:23:58
クソ以下のジャップヒトモドキ
戦犯管理所で19年で寛大な処置してやったのにこの有様
所詮洗脳されたジャップヒトモドキ戦犯猿死滅しろ

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