小作争議の勃発

2012年11月24日 | 歴史を尋ねる

 小作争議の始まり  京都府南桑田郡は農民運動の発祥の地である。大正8年(1921)10月には小作人大会(約800人が参加)が開かれ、それを契機に続々と小作組合が作られていった。この地の地主の日記には「一昨日と昨日夕方二回にわたり、小作人が小作料の減免を申し入れてきた。色々とやり取りしたが、どうも小作人の態度が横柄になり、こっちの言い分も聞かず、、頑固で困った。それで仕方なく減免を認めたが、床に入ってから色々考えると、何んとも不愉快で寝付かれなかった」と、記してあった。南桑田郡は農業生産力が高い地域であった。農民分化も進んでおり、小作地率も6割と非常に高かった。更に保津川を下れば京都市であり、都市的な思想や考え方がいち早く入ってくる地域でもあった。大正11年(1922)に設立された日本農民組合(日農)へも加盟し、初期日農の有力な地盤であった。昭和3年(1929)2月の初の普通選挙で、労働農民党の候補者がこの地で当選したことは有名である。とういえ、小作組合に参加していた農民の要求は、国家組織や社会制度の変革を求めるような政治的なものではなく、もっと素朴な経済的社会的要求であった。小作料の減免や自作農化への欲求であり、日常生活の安定や農村社会での社会的地位の向上であった。農民組合指導者が高度な政治的要求を掲げるようになると、一般小作組合員との溝はしだいに大きくなっていった。南桑田郡の日農組織も3・15事件(1928)で弾圧を受けるが、それ以後、農民は日農組織からしだいに離れていった。

 地主小作関係の拡大    日本で地主小作制度が拡大した要因は、前にも触れたように足腰の強い小農経営を基盤に小作制度が成立したというが、もう一つは農民同士の強い信頼関係、地主からすれば、小作人に土地を貸しても、小作人は村のルールに従い、ちゃんと小作料を納入してくれる、滞納しない、小作地を荒らさないという関係があったからだという。そして地主小作関係が拡大していく制度的枠組みは、地租改正による近代的土地所有権の確立と地租の金納への移行であったという。土地の売買譲渡が自由(土地の商品化)になり、米価の上昇が地主・自作の利益(可処分所得)を増大させる構造をもたらした。土地投資の便益が増したということらしい。明治6年の小作地率は27%、地租改正を経て松方デフレ最中の明治16年36%、明治25年40%、明治45年45%と拡大していった。

 小作争議の全国的動向   小作争議は第1次大戦から起こり始め、1920年台には一気に増加した。1920年代の争議の特徴は、①集落を範囲とした集団的小作争議が主流、②小作料減免が中心的な要求内容、③西日本を中心に展開した。1930年代の特徴は中頃のピークに向けて、①土地争議は個別的小作争議が主流となった、②土地取上げへの抵抗(小作継続)を要求する争議が中心、③東北を中心に東日本に舞台が移った。発生原因から見た争議のタイプは、集団的小作料減免争議、小作継続を要求する個別労働争議、土地返還に関わる条件をめぐる争議、生活防衛的争議など。特に集団的小作料減免争議は日本独特の農民運動だったと坂根氏はいう。他のアジア諸国で見られる農民暴動と違い、日本の場合整然とした運動であった。

 政府の対策   小作争議の発生は当時の重要な農政上の課題となった。第一の対策は土地制度改革の方向であった。内容は小作概念を設定し、民法の規定を小作人に有利な方向に修正する内容であった。しかし委員会の内部資料が新聞にすっぱ抜かれ、地主側の猛烈な反対が巻き起こった。その結果、小作立法は棚上げされ、小作調停法が制定された。第二の対策は、自作農創設維持事業であった。自創事業は小作人が政府の低利資金を借り入れて、耕作している小作地を地主から買い取るという事業であった。この事業は小規模なちっぽけな事業となり、小作争議対策としては効果はきわめて限定的なものになった。


明治期農業の諸問題

2012年11月23日 | 歴史を尋ねる

 産業組合の設立   金融面や流通面の保護政策として、産業組合が設立された。明治33年(1900)に施行された産業組合法は、信用・購買・販売・生産の四種事業を認めた。組合員からの貯金と資金貸付、肥料・農具など産業用品や日用品の購買事業、米穀など農民の生産物を販売する事業、農業用機械類などを組合員利用させる事業である。この中で先行的に設立が進んだのは信用組合であった。対人信用に基づく貸付を通して、地主・高利貸商人から生産農民を守るという目的を持っていた。信用組合の基礎は対人信用であった。信頼関係が高い農村社会でないと信用組合の成立は難しい。日本的「村」社会が存在した近代日本農村は、他のアジア諸国、地域と違って順調に進んだという。また、明治中後期の農業経済を見ると、自作や小作の農業経営費の中で肥料代は七割を占めていた。当時肥料を高く売りつけ、農産物を安く買い叩く肥料商や米穀商による農民収奪が問題になり始めた。これへの対策として、購買組合、販売組合が設立された。

 自給率の低下   この時期の農業問題の焦点は、「離村問題」と米穀自給率の低下であった。自給率の低下は、帝国主義下の一朝有事における食料確保に関わっており、国防上の重要問題であった。更に外米輸入の増加は更なる貿易収支の悪化であった。米穀自給率は、明治中期頃から100%を下回り始めた。金本位制に移行した明治30年(1897)を画期にして、以後一貫して米穀輸入国へ転じた。その原因は人口が増加し、かつ一人当たりの米穀消費量が急速に増大したことにあった。人口は明治前期3700万人が、明治24年4000万人、明治44年5000万人、大正15年6000万人、昭和15年(1940)7200万人に達した。また一人当り米穀消費量は明治前期100とすると昭和期には140にまで拡大した。一つは農村の混食が変化し、もう一つは都市人口の増加であった。米穀生産量も急速に拡大し人口増大を上回ったが、これに一人当り米穀消費量が加わって、結局恒常的に米穀輸入国に転じざるを得なかった。この自給率低下は食料安全保障と正貨確保という新たな問題を明治政府に突きつけた。

 食料自給圏(アウタルキー)の形成   明治38年(1905)日露戦争時米籾関税(15%)が始まった。これは輸入関税により国内米価を維持しようとする地主的勢力と、輸入関税を撤廃し、商工業発展を目指す勢力との激しい議論が展開された。結果移入税が廃止され通常は朝鮮・台湾両植民地米を最優先で国内無税で移入し、不足分は輸入税を課した外米で手当てすることとした。そのため、その後は国内農業生産の振興と植民地米の増産が重要な食料政策上の課題となった。

 農村からの労働力流出と農業労働生産性の上昇   明治期、農業戸数は550万戸、農業就業者数は1400万人とほぼ一定で、一戸当りの耕地面積はむしろ1.3倍の増加した。明治以降、都市化・産業化が急進展し、工場用地や宅地・道路・鉄道敷設などへの転用が進み、かなり農業潰廃が進行したにもかかわらず、それを上回る開墾・干拓・埋立・荒地復旧がなされたことを示している。米の生産量は、反当収量が明治初年100とすると、大正前期で149と大きく伸びた。従って農業労働生産性はほぼ2倍に伸びていたという。


明治期の農業

2012年11月10日 | 歴史を尋ねる

 明治政府は当初西洋農業の直接的な導入を試みていた。欧米の大型農機具をはじめ、作物や畜類などが政府によって輸入され、その定着のために、試用・展示・試作・貸与などが行われた。また、札幌農学校や駒場農学校を設立するとともに、外国人教師を招き、西洋農学による農業指導者の養成が行われた。しかし、このような西洋農業の直接的な移植の試みは、日本の実情との違いが大きく、一部を除き定着しなかった。こうした状況を踏まえ、伝統的な在来技術がしだいに見直されていった。全国の老農を集めて開催された明治14年(1881)の全国農談会と大日本農会の創設は画期となった。以後、老農の伝統的な在来技術を基礎としつつ、学理あるいは非合理な所を排除し、次第に体系的な技術が形成されていった。これを明治農法というようだ。肥料の多投と耐肥・多収性の品種の導入、その栽培環境の整備だと「日本農業史」は要約している。

 近代日本の農業生産力の発展は、土地生産性の伸びに、単位労働当りの耕地面積の伸びがプラスする形で実現したが、明治農法の形成と普及は、肥料感応的な耐肥・多収性の品種の導入により、明治期の土地生産力を押し上げることになった。米作の反当収量は明治農法が普及した時期に大きく伸びているが、最初は農民の手で優良品種を見つけ、後に農事試験場で選抜された品種が選ばれた。肥料については、有機肥料がが中心で、幕末から明治にかけて金肥は魚肥が代表格であった。北海道のニシンが代表的であった。日露戦後になると大豆粕が圧倒的となり、第1次大戦後は硫安製造技術が進展し、昭和期に入ると硫安に代替が進んだ。

 耐肥・多収性品種の導入は肥料の大量投入を前提としているが、それと同時に土壌の深耕が必要となる。深耕は畜力と犂、畜力は湿田の乾田化を必要とする。そので、明治農法の普及は田区改正と灌漑排水の整備とが必要となってくる。土地改良は耕地整理法を中心に推進された。明治32年に耕地整理法が制定され、土地改良事業が推し進められた。あわせて、土地を担保に土地改良資金を融通する日本勧業銀行・農工銀行が設立された。このような土地改良事業の推進は、系統農会の組織化や産業組合法の施行とともに、進められた。政府が推し進める農業技術を農民に普及するルートが系統農会であった。明治32年、農会法が成立し、町村農会ー郡農会ー都道府県農会ー帝国農会という系統農会組織へと作りあげていった。政府による日露戦争前後の農事改良も、警察取締り的強制措置を背景に推進されて、サーベル農政とも呼ばれた。こうした強制的な農事改良は、一部に反発を招いたが、結果的には短期間で比較的高い成果をもたらした。


農業・農村問題の登場

2012年11月09日 | 歴史を尋ねる

 これまでの日本の主要産業は農業で、特に米つくりは花形産業であった。だから先に見た大地に刻まれた土木事業や水利施設は米作適地をいかに拡大するかの歴史でもあった。しかし時代を一気に明治末まで飛ぶと、農業は深刻な社会問題になったということである。夏目漱石は、明治45年(1912)、長塚節の長編小説「土」で序文を書いて、農村の悲惨さ、憐れな百姓の生活を知るよう訴えかけている。当時具体的には何が問題になっていたのか、再度木村茂光編「日本農業史」を参考に辿ってみたい。
 第一は日露戦争を前後する増税であったという。政府は莫大な日露戦争の戦費調達のために、大量の国債(外債)を発行するとともに、大増税を行った。明治37年、38年と地租率を引き上げ、間接税を増徴・新設した。一人当たりの租税負担率を明治24年100とすると、明治45年は266と急激に増大した。これが農民疲弊・農村疲弊の基本的原因であったと本書は云う。第二は、農村経営の持つ生来の不安定さだあった。農村の家計は田畑の収穫高とその価格水準に大きく左右される。米価は物価上昇分を調整すると日清戦争頃から米騒動頃までの20年ほどは低迷を続けた。これが農村疲弊のもう一つの原因であった。第三は都市文化の農村への浸透と若者の年への流出であった。向都熱、教育熱による若者の都市への流出が、農村疲弊・人材枯渇として問題視されるとともに、都市・商工業との対抗的図式が強調され、被害者として語られることが多くなったと云う。このような時代状況を受けて、農こそは国の基であり、国家元気の源泉であり、優秀強兵の給源地であるといった、農本主義的な主張が目立って強くなっていった。学会でも、日本農政学と呼ばれる農本主義的色彩の強いグループが、有力な潮流として登場してきた。

 農業・農村の行き詰まりから、「離村問題」が朝野の耳目を集めつつあった。「農業史」は次のような背景説明をしている。明治期の農業生産高の伸びは、明治中期で1.4%、明治後期で1.8%であった。これに対し製造業生産高の伸びは、明治中期で4.5%、明治後期で3.7%とかなり高く、大正期に入ると更にその格差は拡大した。農工間の不均衡な成長が進展していた。農業生産高の伸びとしては大きいほうであるが、それ以上に製造業生産高の伸びがはるかに大きかった。明治初期農業部門は生産総額の6割を占め、就業者も7割以上が農林業で、農業立国であった。農業部門はかっては非農業部門をサポートする側にあったが、次第に非農業部門にサポートされる側に移していかざるをえなくなる。この問題は今日に至るまで農業の基本問題で、その最初の噴出が、日露戦後の「離村問題」・「中小農保護問題」であった。これに対し、当時の政府は農業政策を積極化させ、これまでの生産政策的農政から小農保護を目指した社会政策的農政への転換を図っていった。