小作争議の始まり 京都府南桑田郡は農民運動の発祥の地である。大正8年(1921)10月には小作人大会(約800人が参加)が開かれ、それを契機に続々と小作組合が作られていった。この地の地主の日記には「一昨日と昨日夕方二回にわたり、小作人が小作料の減免を申し入れてきた。色々とやり取りしたが、どうも小作人の態度が横柄になり、こっちの言い分も聞かず、、頑固で困った。それで仕方なく減免を認めたが、床に入ってから色々考えると、何んとも不愉快で寝付かれなかった」と、記してあった。南桑田郡は農業生産力が高い地域であった。農民分化も進んでおり、小作地率も6割と非常に高かった。更に保津川を下れば京都市であり、都市的な思想や考え方がいち早く入ってくる地域でもあった。大正11年(1922)に設立された日本農民組合(日農)へも加盟し、初期日農の有力な地盤であった。昭和3年(1929)2月の初の普通選挙で、労働農民党の候補者がこの地で当選したことは有名である。とういえ、小作組合に参加していた農民の要求は、国家組織や社会制度の変革を求めるような政治的なものではなく、もっと素朴な経済的社会的要求であった。小作料の減免や自作農化への欲求であり、日常生活の安定や農村社会での社会的地位の向上であった。農民組合指導者が高度な政治的要求を掲げるようになると、一般小作組合員との溝はしだいに大きくなっていった。南桑田郡の日農組織も3・15事件(1928)で弾圧を受けるが、それ以後、農民は日農組織からしだいに離れていった。
地主小作関係の拡大 日本で地主小作制度が拡大した要因は、前にも触れたように足腰の強い小農経営を基盤に小作制度が成立したというが、もう一つは農民同士の強い信頼関係、地主からすれば、小作人に土地を貸しても、小作人は村のルールに従い、ちゃんと小作料を納入してくれる、滞納しない、小作地を荒らさないという関係があったからだという。そして地主小作関係が拡大していく制度的枠組みは、地租改正による近代的土地所有権の確立と地租の金納への移行であったという。土地の売買譲渡が自由(土地の商品化)になり、米価の上昇が地主・自作の利益(可処分所得)を増大させる構造をもたらした。土地投資の便益が増したということらしい。明治6年の小作地率は27%、地租改正を経て松方デフレ最中の明治16年36%、明治25年40%、明治45年45%と拡大していった。
小作争議の全国的動向 小作争議は第1次大戦から起こり始め、1920年台には一気に増加した。1920年代の争議の特徴は、①集落を範囲とした集団的小作争議が主流、②小作料減免が中心的な要求内容、③西日本を中心に展開した。1930年代の特徴は中頃のピークに向けて、①土地争議は個別的小作争議が主流となった、②土地取上げへの抵抗(小作継続)を要求する争議が中心、③東北を中心に東日本に舞台が移った。発生原因から見た争議のタイプは、集団的小作料減免争議、小作継続を要求する個別労働争議、土地返還に関わる条件をめぐる争議、生活防衛的争議など。特に集団的小作料減免争議は日本独特の農民運動だったと坂根氏はいう。他のアジア諸国で見られる農民暴動と違い、日本の場合整然とした運動であった。
政府の対策 小作争議の発生は当時の重要な農政上の課題となった。第一の対策は土地制度改革の方向であった。内容は小作概念を設定し、民法の規定を小作人に有利な方向に修正する内容であった。しかし委員会の内部資料が新聞にすっぱ抜かれ、地主側の猛烈な反対が巻き起こった。その結果、小作立法は棚上げされ、小作調停法が制定された。第二の対策は、自作農創設維持事業であった。自創事業は小作人が政府の低利資金を借り入れて、耕作している小作地を地主から買い取るという事業であった。この事業は小規模なちっぽけな事業となり、小作争議対策としては効果はきわめて限定的なものになった。