昭和46年11月5日、朝日新聞に掲載された本多勝一氏の「中国の旅」の連載記事で、「ちょっと待てよ」と思ったのが切欠で、当時までに伝えられている南京大虐殺と日本人の残虐性について、事件の解明などは不可能だが、敢えて自分の眼で見た南京のイメージを綴ってみようと思い立った、と「南京大虐殺のまぼろし」の著者鈴木明氏はいう。自身のもつ平凡な常識とささやかな推理力と実行力だけで、関係者を訪ねて歩き、その状況を雑誌「諸君!」に分載していった。1983年出版の文春文庫版は絶版になって久しかったが、2006年ワック社より改定版として復刊された。東中野修道教授からは、日本軍の南京占領に関する先駆的研究であり、パイオニア的な役割を果たしている、と解説されている。今日まで南京大虐殺は四度浮上している、と。まず一度目は、南京陥落の数日後にアメリカの新聞記事「南京大虐殺物語」、そして7か月後に単行本「戦争とは何か」が南京大虐殺を描いて世界に知らせている。そして1941年にエドガー・スノーが「アジアの戦争」で、1943年にアグネス・スメドレーが「シナの歌声」で南京大虐殺に触れている。その間、中国国民党政府も、アメリカ政府も、日本を非難したことはなかった。二度目は、1946年に始まった東京裁判においてであった。東京裁判が始まるとアメリカ側は南京大虐殺「数万」という起訴状を読み上げ、それから二年半後に南京大虐殺二十万以上という判決を朗読し、その翌日、松井磐根司令官に対し南京大虐殺10万以上の責任を問うという判定を朗読している。こうして日本軍は南京大虐殺をおこなったと断罪され、松井大将はその責任を問われて処刑された。一方、同時期に行われた南京裁判では、南京攻略の時に熊本第六師団の師団長であった谷寿夫中将が三十万人虐殺のかどで、また当時毎日新聞が連載した百人斬り競争の記事を証拠に、二人の少尉が南京大虐殺のかどで処刑された。しかし、世界でも、日本でも、中国でも、南京大虐殺が話題にされることはなかった。
それから四半世紀が経った日中国交正常化の1972年前後が三度目の浮上となった。日中友好が盛んに叫ばれ始めた昭和46年6月に朝日新聞の本多勝一記者が、未だ国交のなかった共産党独裁の中華人民共和国から入国を許され、約40日余りに亙って、日本軍から被害を受けたという人たちの声を集めながら、戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側からの視点から明らかにするという目的に立って取材を行った。それが「中国の旅」と題して朝日新聞に連載された。その中で、「南京大虐殺として知られる事件が私たち一般日本人に明かされたのは、戦後の極東軍事裁判であった。・・・南京で直接聞いた被害者たちの体験は、それまでに私が読んだ限りでの記録から想像していた状況をはるかに越えていた」と。しかし、この中国の旅に、鈴木明氏はちょっと待てよと立ち止まって、疑問を呈した。鈴木氏は言う。「かって日本中を沸かせたに違いない武勇談は、いつの間にか人斬り競争の話となって、姿を変えて再びこの世に現れた・・・昭和12年に毎日新聞に書かれたまやかしめいたネタが、34年の年月と日本、中国、日本という距離を往復して、朝日新聞に残虐の神話として登場したのである」 鈴木氏はこの問題をそのままにしておけば大変なことになると直感していたのだろうと、東中野教授は言う。本多氏が中国側からの視点からのみで書いたのに対して、鈴木氏は日本側の視点も入れて複眼的でなければ、と鈴木氏は日本軍将兵、従軍記者、従軍カメラマンを訪ね歩いた。その数、五十人を下らない。
中国の旅が出た時、これは大変なことになるという鈴木氏の予感は当たった。日本の世論に大きな波を生んだ。1980年代には南京大虐殺が教科書に記述されるまでになり、南京大虐殺記念館も建設された。そして1997年にはアイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」が登場し、一気に南京大虐殺が世界中に広まった。これが第四の浮上だ、と東中野教授。 しかし教授はいう、南京大虐殺の津波が押し寄せた時、鈴木氏が訪ね歩いた思索のの結晶が堅固な防塁となって、その後いろいろな研究成果が生まれてきた。 ティンパリー編「戦争とは何か」は宣伝本であり、ティンパリー記者も国民党中央宣伝部の顧問であったことが鈴木氏自身によって突き止められ、南京大虐殺の源流はこの戦争プロパガンダ本と新聞記事の虚報であったことが、東中野修道教授の著書「南京事件--国民党極秘文書から読み解く」によって解明された、という。
鈴木氏は言う。訪ね歩いた先の日本軍将兵が、「いま南京大虐殺というようなことが言われているが、私は日本軍が意図的に民衆や捕虜を大量虐殺したとは、とても考えられません。むろん私は見ても聞いてもいません」と話されるのを聞いて、意外であったと述懐する。だから、書名はまぼろしとした。謙虚にすべてを解明できたわけでないから、という訳だろう。しかし、相手が意図をもってプロパガンダしてきたら、それに対抗するのは中々難しい。精々矛盾点を指摘するぐらいしかないだろう。ましてや、国家間の問題となるとそう易々とは行かない。出来ることと言えば、日本側の問題提起した人たちが、もう一度見直してもらうしかないだろう、しかし、期待できない。まずはわれわれ自身が正確な情報を取得するのが重要だ。
この問題では当時の日本軍関係者の証言を収集しておきたい。まず、当ブログで既述したが、東京裁判での日本側関係者が出廷、以下のように証言したのでもう一度取り上げる。 『南京虐殺事件 当時松井軍司令官の下での中支那方面軍参謀・中山寧人陸軍少将、南京大使館参事官・日高信六郎、中支那方面軍法務部長・塚本浩治の三人が出廷、南京占領当時松井軍司令官のが執った慎重な行動、松井軍司令官の対中国人観、南京攻撃前中国側に降伏を勧告した事実、南京陥落後市内が無秩序になったのは中国側は外交官も官憲もことごとく市内から立ち去った事も大きな原因であった事、当時南京に設けられていた安全地帯には多くの中国正規軍が混入していた為、同所を正当は安全地帯として認める訳にはいかなかった事等、占領直後の南京市内の混乱状態を述べると共に、検察側立証のいわゆる南京大虐殺事件については、真っ向からこれを否定した。このうち、中山証人は検察側の反対尋問に答えて 、一般市民の虐殺事件 これは絶対にない。 俘虜の虐殺事件 これは安全地帯に武器を携行して侵入した中国兵を捜査し、逮捕し、軍法会議にかけて処罰したのが、誇大に報道されたものである。 外国権益に対する侵害 これは一部あった事は事実であるが、日支いずれの兵隊が行ったのかは、現在でも不明である。 婦女子に対する暴行 これは小規模な範囲で行われたのは事実であり遺憾であるが、世に喧伝されたような大事件は絶対にない、と。
検察側は証人には反対尋問は行わず、検察側提出証拠に依拠するとして、提出証拠の幾つかに裁判所の注意を喚起した。』
ここで検察側は証人には反対尋問を行わなかったということは、反論できる十分な証拠がなかった、ということだろう。検察側の提出証拠のみを強要する法廷戦略だった。結果は前述したように『南京大虐殺二十万以上という判決』だった。歴史的検証が行われての判決ではなかった、と言える。もう一つ重要な文書は、鈴木明氏がその著書で取り上げている、南京事件の首謀者として処刑された谷寿夫中将の申弁書(答弁書)を見ておきたい。南京戦犯拘置所にいた谷寿夫が国防部軍事法廷、廷長に提出した申弁書(昭和22年1月15日)である。
『被告は民国26年(昭和12年)8月中旬以降約5カ月間、第六師団長として北支及中支の広大長延なる地区に行動したるも、その期間専ら作戦に従事し、起訴状に提示された南京駐留一週間内における多数の殺人強姦財産破壊事項を、被告の部下の行為なりとなす論告は、本申弁書に以下陳述する各種の理由により、被告の絶対に認むる能わざる所なり。
被告はこれ等の暴行ありしを、見たことも聴きたることもなく、また目認目許せしこともなく、況や命令を下せしことも、報告を受けたることもなし。又住民よりの訴えも、陳情を受けたることもなし。此の事実は被告の率いる部隊が、専ら迅速なる作戦行動に忙しく、暴行等を為すの余裕なかりしに依る外、被告の部下指導の方針に依るものなり。即ち元来被告は中日親善の信念に基づき、内地出発当時の部下に与えたる訓示にも「兄弟国たる中国住民には骨肉の愛情を以てし、戦闘の必要以外、極力之を愛撫し俘虜には親切を旨とし、掠奪、暴行等の過誤を厳に戒めたる」に依る外、各戦闘の前後には機会を求めて隷下部隊に厳重に非違行為を戒め、常に軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものには厳罰を加えたるに原因す。故に被告は被告の部隊に関する限りこれ等提示された戦犯行為なきを確信す。
尚、起訴状には被告を日本侵略運動中の一急進軍人なりと記述してあるも、被告の経歴その他に依り該当せざること明瞭なり。また南京に於いて中島部隊と共に南京大屠殺を発動せりと論ぜられあるも、被告の聞知する所にては南京大屠殺は、中島部隊の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事にして、その被害者に対しては真に気の毒の至りなるも、柳川軍方面の関係なき事項にして、即ち被告の部隊に関係なき事項なり。また従って中島部隊と共同して、暴行するが如きは有り得ざる事なり。被告に対する審判に於いては、何卒先ず右根本的事項を確認せられ度、尚詳細は以下申弁する所により判定煩わしたし』 以下の詳細は省略する。この申弁書に対する国民政府軍事法廷での判決文は 『国防部審判戦犯軍事法廷ーー南京大虐殺日本人首謀戦争犯罪者谷寿夫死刑判決書ーー民国36年3月10日 主文 谷寿夫は作戦期間中、共同して兵士をほしいままの行為を許し、捕虜と非戦闘員を虐殺させ、強姦、掠奪、財産毀損をなさしめた。死刑に処する。 事実 (前略)日本軍閥は我が首都を抗戦の中心と見做し、精鋭で凶暴かつ残忍な第六師団谷寿夫部隊、第十六師団中島部隊、第十八師団牛島部隊、第一一四師団末松部隊等を集結させ、松井石根大将の指揮下に共同して攻撃を加えた。そしてわが軍の頑強な抵抗に遭遇してこれに怒りを覚え、陥落後に計画的に虐殺を行い報復した。(中略)被害者の総数は三十万以上に達した。死体は地を覆い、悲惨はその極みに達し、状況は筆舌に尽くし難い』 南京では戦後間もない1945年11月に南京地方法院検察処により「大虐殺」を調査するための委員会が設置され、国民党機関、警察、医師会、弁護士会、慈善団体の紅卍会など、十四の機関の代表が参加した。聞き取り調査や資料収集が行われ、翌年2月、調査報告書が作成された。このあと47年2月から裁判が始まり3月には判決が出た。以上の経緯から、判決は最初から決まっていたと推定される。谷寿夫の申弁は検討すら行われなかった、との印象である。
もう一つ、極東国際軍事裁判法廷判決文を見ておきたい。起訴事実は省略するが、判決文は次の通り。『判定(昭和23年11月12日朗読)「南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。(中略)日本軍人によって、大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、色々な国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この六、七週間の機関において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあった時に、12月17日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日間滞在した。(中略)かれは自分の軍隊を統率し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていたと共に、その権限を持っていた。その義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任があると認めなければならない」』 ふーん、「中国人は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市」というのは史実に反しているし、世界の人は分からないから、と巧みに前提をつくっている。さらに、「中立的証人の反対証言は、圧倒的に有力」と裁判所側が価値判断を押し付けている。それでも、国際軍事裁判では通用した。清瀬一郎氏がぼやくのもうなずける。
裁判の実態はそうであったが、史実を追いかけていきたい。まずは南京攻略戦の道程を整理して置きたい。当時、中国には在留邦人が九万人いた。そのうち三万人が上海に、上海から重慶に至る揚子江沿いの各都市(重慶、宜昌、沙市、漢口など)に三万人、そして青島に二万人いた。盧溝橋事件の後情勢が緊迫するにつれて、在外邦人の安全が問題となった。出された結論は、揚子江沿岸の邦人は日本に引き揚げさせる、青島と上海の邦人は現地保護という方針であった。しかし現地の空気が険悪化したので青島邦人も帰還となる。漢口からも最後に残った1600人が8月7日に引き揚げた。すでに漢口の日本租界周辺には約二万の中国軍が集中して、危険な状況だった。その前日、上海の日本人も租界への退避命令だ出された。上海と揚子江沿岸の共同租界の防衛には、各国が数千人単位の軍隊を駐屯させて防衛に当たったが、日本は海軍が担当した。揚子江は上海から重慶までかなり大型の軍艦が往来できる。揚子江に軍艦を航行させる権利を、英、米、仏などが先鞭をつけ、日本は日清講和条約以後であった。
8月7日 軍幹部を集めた会議で蒋介石は開戦を決意(米イリノイ大、イーストマン教授、米中華民国近代史研究の第一人者)
8月9日夕:大山中尉虐殺事件発生、この事件が伝わると、海軍は陸戦隊の増派を決定
8月10日海軍の要請もあり、居留民保護のため二個師団の派遣(派遣軍の上陸は八月末予定)
8月11日大本営を設け、作戦・指揮の最高責任者は蒋介石
8月12日中国軍二個師団が共同租界の外にあった日本海軍陸戦隊本部を取り囲むように布陣
8月13日中国軍は陸戦隊本部北側付近で攻撃を開始、陸戦隊も応戦
8月14日中国空軍は旗艦出雲を始め付近の日本海軍艦船を爆撃、逸れた爆弾がフランス租界に落下爆発
8月15日日本海軍航空隊が南京上空に現れ空港を爆撃した、同日南昌の飛行場も爆撃した。爆撃目標が飛行場や軍事施設に限られていたが、理論上戦略爆撃を行ったのは日本が最初だった。南京だけは火薬工場、兵器工場、軍官学校、参謀本部、警備司令部などをくり返し爆撃、南京の外交団は南京市内に非爆撃地域の設定 を申入れ、日本は受け入れた。
蒋介石を陸海空軍の総司令官として、大本営が設置され、全国に総動員令が下された
8月21日中ソ不可侵条約並びに秘密協定締結(軍事物資の提供、技術者の派遣等)
8月23日松井大将を総司令官として、第三師団、第十一師団が上海に到着
9月10日新たに第九、第十三、第一〇一の各師団が参加決定(当ブログでは「これは日独戦争だ」参照)
中国の提訴を受けた国際連盟は理事会を招集、顧維鈞は連盟が必要な行動をとるよう求めた訴状を総長に提出、理事会は諮問委員会に付託。
9月23日大場鎮を総攻撃、第九師団正面の敵がようやく退却を始めた。
9月27日委員会で顧維鈞は日本の行動を侵略的であると認定するよう再三に渡って主張、英国など慎重派は、これに賛成しなかった。
10月1日日本は日中間の紛争を国際的に処理することを拒否
10月6日国際連盟総会決議で、日本を条約違反と断定したが制裁措置には触れなかった、米国が強硬態度に転じたのはこの時期だった。
米大統領ルーズベルトはシカゴで演説、侵略国を伝染病に例え、隔離すべきだと訴えた。また国務長官ハルは声明を発表、「日本の行動は国際関係を規律する原則に違反し、九カ国条約と不戦条約に抵触する」と決めつけた。
10月26日要衝大場鎮を攻略して、上海はほぼ日本軍の制圧下となる
しかし大損害を被っての戦闘で、最終的には死傷者四万一千余(戦死10,076、戦傷31,866)と日露戦争に於ける旅順戦以来の大損害となった。中国軍の死傷者は約40万とみられている。11月5日、三個師団からなる第十軍が上海南方60キロの杭州湾に奇襲上陸して、中国軍の背後を断つ作戦に出た。これで中国軍は一気に崩壊し、南京方面に向けて潰走した。結局日本軍は合計25万人を投じて、60万の中国軍を潰走させた。
松井司令官は疲労した将兵を条件に南京攻略は無理という考えだったが、総崩れとなった中国軍を見て、この調子で一気に南京を落とせば、より有利な講和が結べると、攻略論賛成に廻った。
当時密かに駐中ドイツ大使トラウトマンによって和平交渉がもたれていた。11月2日、七つの条件で停戦を申し入れた。蒋介石はトラウトマンの仲介による和平提案を受け入れず、抗戦を続けているので、戦争終結のためには策源地の南京占領が必要であるとの意見が強まった。11月28日、参謀本部は南京攻略の決定を下した。12月2日、蒋介石・トラウトマン会談、ブラッセルでの九か国会議も頼りにならないと、蒋介石は停戦の労をとるようトラウトマンに依頼した。しかし日本軍司令部が南京攻撃命令を出したのは12月1日であった。
11月3日九カ国条約国会議が開幕、参加したのは日本を除く調印国と非調印国ソ連の十九カ国。15日対日宣言を採択『日中間の現在の敵対行為は、すべての国の権利と物質的利益に強い影響を及ぼし、全世界に不安をもたらした。各国代表は双方が停戦に同意し、解決をはかる見込みがあると信じており、中国代表もまたその用意があると言っている。それにもかからわず、絶対に討論に応じないという日本の態度は了解できない。日本があくまで、他の条約調印国と相反する見解を持するならば、各国は日本に対して、共同して対応することも考慮せざるを得ない』 この宣言は中国を満足させるものでなかった。24日の最後の会議で、顧維鈞は会議が不満足に終わったことの抗議した。この記事は蒋介石秘録からの引用であるが、蒋介石は上海での劣勢を国際会議各国の援助を求めていたが、果たせず南京からの撤退を決めたのだろう。日程的に符合する。それでも揺れ動いて、トラウトマンとの会議で停戦の労を申し出たのだろう。
11月12日蒋介石は南京死守を決定
南京へ、南京へと日本軍が急進撃していた頃、南京では蒋介石をはじめ何応欽参謀総長、徐永昌軍令部長、李宗仁第五戦区司令官のほかドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンなどが集まって、南京防衛をどうするかについて協議、包囲されると長くは守れない、南京を放棄して無用な犠牲を作らないようにというのが、大方の意見だった。一人唐生智将軍が、敵とトコトン戦い、南京を死守すべきだと主張、それを受けて蒋介石は唐将軍を南京防衛軍司令官に任命、南京死守が決定された。中国の戦法は「堅壁清野」であった。城壁の周囲を焼き払って清めてさえおけば、敵は飢え果てて降参するから、戦わずして勝利が転がり込んでくる、という戦法だった。中国では赤眉の乱の記録を初出とする堅壁清野が二十世紀の半ばまで続いた。日本軍が句容を占領したのが合図となって、中国軍部隊による南京郊外の「焼き払いの乱行」がはじまった。「湯山から南京に至るあらゆる建物に火が放たれ、村落はすべて焼かれた。次いで南門周辺や下関の諸設備にも火が放たれた。中国軍指導部は、軍事上の要請と説明した。日本軍に利用されそうなものは、樹木・竹やぶに至るまで一掃された」と。
11月16日蒋介石は南京放棄をひそかに決定し全官庁の撤退を命じた。
11月17日非戦闘員の為の安全地帯を作る目的で、南京にいる欧米人が国際委員会を結成した。上海での安全地帯設営の成功に刺激され、南京安全地帯構想が進行
11月19日国民政府国防最高会議で、首都を南京から重慶に移すことを正式に決定した。
12月7日蒋介石が宋美齢と共に南京から飛行機で脱出、他の高級官僚もそれに従い脱出、挹江門を除いて全城門が閉じられた。中国兵が挹江門から逃げようとすれば、中国軍の督戦隊が射殺した。人的移動は不可能になり、唐生智司令官はすべての非戦闘員は安全地帯に避難せよと命令する。
12月8日日本軍は「南京全体が要塞 中立地帯不可能」と発表、安全地帯は承認しないが尊重すると付言。
12月8日日本軍は南京郊外に到着
12月9日飛行機から中国軍に対する降伏勧告文を投下『江寧の地は中国の旧都にして民国の首府なり、明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集し、さながら東亜文化の精髄の感あり、日軍は抵抗者に対しては峻烈にして寛恕せざるも無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり、しかして貴軍にして交戦せんとするならば南京は勢い必ずや戦果を免れ難し、しかして千載の文化を灰燼に帰し十年の経営は全く泡沫とならん』と。
同日、蒋介石に対して休戦協定案が南京安全地帯国際委員会から持ち掛けられたが、蒋介石に拒否された。
12月10日中国軍の軍使は現れなかった。13時頃より総攻撃が開始された。
12月12日形勢絶望とみて唐生智司令官は部下を見捨てて逃亡
12月13日南京は陥落した。中国軍は混乱の中を城外に敗走する結果となったが、中国軍督戦隊による中国兵の殺害も多発、逃げ切れない兵士が軍服を脱いで安全地帯に隠れる、後に摘発され処刑されるケースがかなり生じた。しかし、南京城内での戦闘そのものは殆ど起こらず、安全地帯以外には人を見ずというのが日本軍入場時の実情だった。城外では脱出した部隊と日本軍の間で激しい戦闘がいくつも起こったが、城内はほぼ平穏となった。
陥落後も南京に数日間残っていた新聞記者やカメラマンは五人であった。シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド・スティール、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン、パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン、英国のロイター通信のL・C・スミス、アメリカのAP通信のイェイツ・マクダニエル。また、董顕光副部長は命を受け上海から南京に赴き、対外文書宣伝の重要性を察し、国際宣伝処を設置、中央宣伝部の直属部署として、工作活動を開始した。党副部長は彼らと会い、個別に朝食取ったと言っている。そのダーディン特派員が12月22日のニューヨーク・タイムズで次のように記している。『中国軍司令部は、たとえ数千人といえども、南京防衛軍が渡河して撤退できるとは考えていなかった。南京攻略戦の期間を通じ、河にはわずかなジャンク船とランチのほかは、輸送手段がなかったことからも、それは明らかである。事実、当然の帰結ではあるが唐生智司令官と配下の師団司令官が攻撃前に語っていた、中国軍は撤退を一切考慮していないという言葉は、中国軍司令部の偽りない真意を述べたものであった。防衛軍司令官部は彼らが城壁で囲われた南京に包囲されることを十分承知していた。ねずみ捕りの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らを捕えて木っ端微塵にするような状況を進んで置かれることを選んだわけは、中国人を感動させるように英雄的に振る舞いながら、日本軍の南京占領を出来るだけ高価なものにしようと意図していたことであることは疑いない』 しかし『この事柄の不名誉な部分はと言えば、防衛軍司令官部が、先に披露した意図を遂行する勇気に欠けていたことである。日本の部隊が南西の城壁の破壊に成功した時、下関の出口はまだ閉門されておらず、日本軍の快進撃と日本軍艦の接近に怖じ気づいた唐将軍とごく少数の側近は、配下の指揮官と指揮官のいない部隊を絶望的な状態のまま残して、逃走した。この逃走について、部下たちに何の説明もなかったことだろう』
12月27日の東京朝日新聞は「唐生智司令官銃殺さる 首都南京放棄の責任糾弾」と題して南京特電26日発と報じた。中央宣伝部の作成した宣伝本『戦争とは何か』にも、フィッチ師が「唐将軍は最近処刑された時来ました」と記している。ところが、唐将軍は処刑されていなかった。1966年の香港で出版された書物によれば、唐将軍は1949年に国民党を捨てて共産党に走り、戦後も共産党政権下で湖南省副省長などを歴任している。なぜ、虚報が流されたのか、なぜ蒋介石は背信行為を犯した唐生智将軍を処刑しなかったのか、何故将軍は敵前逃亡しながら不問に付されたのか。その答えは東中野修道教授が追いかけている。紙面の都合で次回に報告したい。