「南京大虐殺のまぼろし」の実像 1

2023年01月30日 | 歴史を尋ねる

 昭和46年11月5日、朝日新聞に掲載された本多勝一氏の「中国の旅」の連載記事で、「ちょっと待てよ」と思ったのが切欠で、当時までに伝えられている南京大虐殺と日本人の残虐性について、事件の解明などは不可能だが、敢えて自分の眼で見た南京のイメージを綴ってみようと思い立った、と「南京大虐殺のまぼろし」の著者鈴木明氏はいう。自身のもつ平凡な常識とささやかな推理力と実行力だけで、関係者を訪ねて歩き、その状況を雑誌「諸君!」に分載していった。1983年出版の文春文庫版は絶版になって久しかったが、2006年ワック社より改定版として復刊された。東中野修道教授からは、日本軍の南京占領に関する先駆的研究であり、パイオニア的な役割を果たしている、と解説されている。今日まで南京大虐殺は四度浮上している、と。まず一度目は、南京陥落の数日後にアメリカの新聞記事「南京大虐殺物語」、そして7か月後に単行本「戦争とは何か」が南京大虐殺を描いて世界に知らせている。そして1941年にエドガー・スノーが「アジアの戦争」で、1943年にアグネス・スメドレーが「シナの歌声」で南京大虐殺に触れている。その間、中国国民党政府も、アメリカ政府も、日本を非難したことはなかった。二度目は、1946年に始まった東京裁判においてであった。東京裁判が始まるとアメリカ側は南京大虐殺「数万」という起訴状を読み上げ、それから二年半後に南京大虐殺二十万以上という判決を朗読し、その翌日、松井磐根司令官に対し南京大虐殺10万以上の責任を問うという判定を朗読している。こうして日本軍は南京大虐殺をおこなったと断罪され、松井大将はその責任を問われて処刑された。一方、同時期に行われた南京裁判では、南京攻略の時に熊本第六師団の師団長であった谷寿夫中将が三十万人虐殺のかどで、また当時毎日新聞が連載した百人斬り競争の記事を証拠に、二人の少尉が南京大虐殺のかどで処刑された。しかし、世界でも、日本でも、中国でも、南京大虐殺が話題にされることはなかった。
 それから四半世紀が経った日中国交正常化の1972年前後が三度目の浮上となった。日中友好が盛んに叫ばれ始めた昭和46年6月に朝日新聞の本多勝一記者が、未だ国交のなかった共産党独裁の中華人民共和国から入国を許され、約40日余りに亙って、日本軍から被害を受けたという人たちの声を集めながら、戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側からの視点から明らかにするという目的に立って取材を行った。それが「中国の旅」と題して朝日新聞に連載された。その中で、「南京大虐殺として知られる事件が私たち一般日本人に明かされたのは、戦後の極東軍事裁判であった。・・・南京で直接聞いた被害者たちの体験は、それまでに私が読んだ限りでの記録から想像していた状況をはるかに越えていた」と。しかし、この中国の旅に、鈴木明氏はちょっと待てよと立ち止まって、疑問を呈した。鈴木氏は言う。「かって日本中を沸かせたに違いない武勇談は、いつの間にか人斬り競争の話となって、姿を変えて再びこの世に現れた・・・昭和12年に毎日新聞に書かれたまやかしめいたネタが、34年の年月と日本、中国、日本という距離を往復して、朝日新聞に残虐の神話として登場したのである」  鈴木氏はこの問題をそのままにしておけば大変なことになると直感していたのだろうと、東中野教授は言う。本多氏が中国側からの視点からのみで書いたのに対して、鈴木氏は日本側の視点も入れて複眼的でなければ、と鈴木氏は日本軍将兵、従軍記者、従軍カメラマンを訪ね歩いた。その数、五十人を下らない。
 中国の旅が出た時、これは大変なことになるという鈴木氏の予感は当たった。日本の世論に大きな波を生んだ。1980年代には南京大虐殺が教科書に記述されるまでになり、南京大虐殺記念館も建設された。そして1997年にはアイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」が登場し、一気に南京大虐殺が世界中に広まった。これが第四の浮上だ、と東中野教授。 しかし教授はいう、南京大虐殺の津波が押し寄せた時、鈴木氏が訪ね歩いた思索のの結晶が堅固な防塁となって、その後いろいろな研究成果が生まれてきた。 ティンパリー編「戦争とは何か」は宣伝本であり、ティンパリー記者も国民党中央宣伝部の顧問であったことが鈴木氏自身によって突き止められ、南京大虐殺の源流はこの戦争プロパガンダ本と新聞記事の虚報であったことが、東中野修道教授の著書「南京事件--国民党極秘文書から読み解く」によって解明された、という。
 鈴木氏は言う。訪ね歩いた先の日本軍将兵が、「いま南京大虐殺というようなことが言われているが、私は日本軍が意図的に民衆や捕虜を大量虐殺したとは、とても考えられません。むろん私は見ても聞いてもいません」と話されるのを聞いて、意外であったと述懐する。だから、書名はまぼろしとした。謙虚にすべてを解明できたわけでないから、という訳だろう。しかし、相手が意図をもってプロパガンダしてきたら、それに対抗するのは中々難しい。精々矛盾点を指摘するぐらいしかないだろう。ましてや、国家間の問題となるとそう易々とは行かない。出来ることと言えば、日本側の問題提起した人たちが、もう一度見直してもらうしかないだろう、しかし、期待できない。まずはわれわれ自身が正確な情報を取得するのが重要だ。

 この問題では当時の日本軍関係者の証言を収集しておきたい。まず、当ブログで既述したが、東京裁判での日本側関係者が出廷、以下のように証言したのでもう一度取り上げる。 『南京虐殺事件 当時松井軍司令官の下での中支那方面軍参謀・中山寧人陸軍少将、南京大使館参事官・日高信六郎、中支那方面軍法務部長・塚本浩治の三人が出廷、南京占領当時松井軍司令官のが執った慎重な行動、松井軍司令官の対中国人観、南京攻撃前中国側に降伏を勧告した事実、南京陥落後市内が無秩序になったのは中国側は外交官も官憲もことごとく市内から立ち去った事も大きな原因であった事、当時南京に設けられていた安全地帯には多くの中国正規軍が混入していた為、同所を正当は安全地帯として認める訳にはいかなかった事等、占領直後の南京市内の混乱状態を述べると共に、検察側立証のいわゆる南京大虐殺事件については、真っ向からこれを否定した。このうち、中山証人は検察側の反対尋問に答えて 、一般市民の虐殺事件 これは絶対にない。 俘虜の虐殺事件 これは安全地帯に武器を携行して侵入した中国兵を捜査し、逮捕し、軍法会議にかけて処罰したのが、誇大に報道されたものである。 外国権益に対する侵害 これは一部あった事は事実であるが、日支いずれの兵隊が行ったのかは、現在でも不明である。 婦女子に対する暴行 これは小規模な範囲で行われたのは事実であり遺憾であるが、世に喧伝されたような大事件は絶対にない、と。
 検察側は証人には反対尋問は行わず、検察側提出証拠に依拠するとして、提出証拠の幾つかに裁判所の注意を喚起した。』
 ここで検察側は証人には反対尋問を行わなかったということは、反論できる十分な証拠がなかった、ということだろう。検察側の提出証拠のみを強要する法廷戦略だった。結果は前述したように『南京大虐殺二十万以上という判決』だった。歴史的検証が行われての判決ではなかった、と言える。もう一つ重要な文書は、鈴木明氏がその著書で取り上げている、南京事件の首謀者として処刑された谷寿夫中将の申弁書(答弁書)を見ておきたい。南京戦犯拘置所にいた谷寿夫が国防部軍事法廷、廷長に提出した申弁書(昭和22年1月15日)である。
『被告は民国26年(昭和12年)8月中旬以降約5カ月間、第六師団長として北支及中支の広大長延なる地区に行動したるも、その期間専ら作戦に従事し、起訴状に提示された南京駐留一週間内における多数の殺人強姦財産破壊事項を、被告の部下の行為なりとなす論告は、本申弁書に以下陳述する各種の理由により、被告の絶対に認むる能わざる所なり。
 被告はこれ等の暴行ありしを、見たことも聴きたることもなく、また目認目許せしこともなく、況や命令を下せしことも、報告を受けたることもなし。又住民よりの訴えも、陳情を受けたることもなし。此の事実は被告の率いる部隊が、専ら迅速なる作戦行動に忙しく、暴行等を為すの余裕なかりしに依る外、被告の部下指導の方針に依るものなり。即ち元来被告は中日親善の信念に基づき、内地出発当時の部下に与えたる訓示にも「兄弟国たる中国住民には骨肉の愛情を以てし、戦闘の必要以外、極力之を愛撫し俘虜には親切を旨とし、掠奪、暴行等の過誤を厳に戒めたる」に依る外、各戦闘の前後には機会を求めて隷下部隊に厳重に非違行為を戒め、常に軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものには厳罰を加えたるに原因す。故に被告は被告の部隊に関する限りこれ等提示された戦犯行為なきを確信す。
 尚、起訴状には被告を日本侵略運動中の一急進軍人なりと記述してあるも、被告の経歴その他に依り該当せざること明瞭なり。また南京に於いて中島部隊と共に南京大屠殺を発動せりと論ぜられあるも、被告の聞知する所にては南京大屠殺は、中島部隊の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事にして、その被害者に対しては真に気の毒の至りなるも、柳川軍方面の関係なき事項にして、即ち被告の部隊に関係なき事項なり。また従って中島部隊と共同して、暴行するが如きは有り得ざる事なり。被告に対する審判に於いては、何卒先ず右根本的事項を確認せられ度、尚詳細は以下申弁する所により判定煩わしたし』 以下の詳細は省略する。この申弁書に対する国民政府軍事法廷での判決文は 『国防部審判戦犯軍事法廷ーー南京大虐殺日本人首謀戦争犯罪者谷寿夫死刑判決書ーー民国36年3月10日   主文 谷寿夫は作戦期間中、共同して兵士をほしいままの行為を許し、捕虜と非戦闘員を虐殺させ、強姦、掠奪、財産毀損をなさしめた。死刑に処する。  事実 (前略)日本軍閥は我が首都を抗戦の中心と見做し、精鋭で凶暴かつ残忍な第六師団谷寿夫部隊、第十六師団中島部隊、第十八師団牛島部隊、第一一四師団末松部隊等を集結させ、松井石根大将の指揮下に共同して攻撃を加えた。そしてわが軍の頑強な抵抗に遭遇してこれに怒りを覚え、陥落後に計画的に虐殺を行い報復した。(中略)被害者の総数は三十万以上に達した。死体は地を覆い、悲惨はその極みに達し、状況は筆舌に尽くし難い』 南京では戦後間もない1945年11月に南京地方法院検察処により「大虐殺」を調査するための委員会が設置され、国民党機関、警察、医師会、弁護士会、慈善団体の紅卍会など、十四の機関の代表が参加した。聞き取り調査や資料収集が行われ、翌年2月、調査報告書が作成された。このあと47年2月から裁判が始まり3月には判決が出た。以上の経緯から、判決は最初から決まっていたと推定される。谷寿夫の申弁は検討すら行われなかった、との印象である。
 もう一つ、極東国際軍事裁判法廷判決文を見ておきたい。起訴事実は省略するが、判決文は次の通り。『判定(昭和23年11月12日朗読)「南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。(中略)日本軍人によって、大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、色々な国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この六、七週間の機関において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあった時に、12月17日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日間滞在した。(中略)かれは自分の軍隊を統率し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていたと共に、その権限を持っていた。その義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任があると認めなければならない」』 ふーん、「中国人は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市」というのは史実に反しているし、世界の人は分からないから、と巧みに前提をつくっている。さらに、「中立的証人の反対証言は、圧倒的に有力」と裁判所側が価値判断を押し付けている。それでも、国際軍事裁判では通用した。清瀬一郎氏がぼやくのもうなずける。

 裁判の実態はそうであったが、史実を追いかけていきたい。まずは南京攻略戦の道程を整理して置きたい。当時、中国には在留邦人が九万人いた。そのうち三万人が上海に、上海から重慶に至る揚子江沿いの各都市(重慶、宜昌、沙市、漢口など)に三万人、そして青島に二万人いた。盧溝橋事件の後情勢が緊迫するにつれて、在外邦人の安全が問題となった。出された結論は、揚子江沿岸の邦人は日本に引き揚げさせる、青島と上海の邦人は現地保護という方針であった。しかし現地の空気が険悪化したので青島邦人も帰還となる。漢口からも最後に残った1600人が8月7日に引き揚げた。すでに漢口の日本租界周辺には約二万の中国軍が集中して、危険な状況だった。その前日、上海の日本人も租界への退避命令だ出された。上海と揚子江沿岸の共同租界の防衛には、各国が数千人単位の軍隊を駐屯させて防衛に当たったが、日本は海軍が担当した。揚子江は上海から重慶までかなり大型の軍艦が往来できる。揚子江に軍艦を航行させる権利を、英、米、仏などが先鞭をつけ、日本は日清講和条約以後であった。
 8月7日 軍幹部を集めた会議で蒋介石は開戦を決意(米イリノイ大、イーストマン教授、米中華民国近代史研究の第一人者)
 8月9日夕:大山中尉虐殺事件発生、この事件が伝わると、海軍は陸戦隊の増派を決定
 8月10日海軍の要請もあり、居留民保護のため二個師団の派遣(派遣軍の上陸は八月末予定)
 8月11日大本営を設け、作戦・指揮の最高責任者は蒋介石
 8月12日中国軍二個師団が共同租界の外にあった日本海軍陸戦隊本部を取り囲むように布陣
 8月13日中国軍は陸戦隊本部北側付近で攻撃を開始、陸戦隊も応戦
 8月14日中国空軍は旗艦出雲を始め付近の日本海軍艦船を爆撃、逸れた爆弾がフランス租界に落下爆発
 8月15日日本海軍航空隊が南京上空に現れ空港を爆撃した、同日南昌の飛行場も爆撃した。爆撃目標が飛行場や軍事施設に限られていたが、理論上戦略爆撃を行ったのは日本が最初だった。南京だけは火薬工場、兵器工場、軍官学校、参謀本部、警備司令部などをくり返し爆撃、南京の外交団は南京市内に非爆撃地域の設定  を申入れ、日本は受け入れた。
    蒋介石を陸海空軍の総司令官として、大本営が設置され、全国に総動員令が下された
 8月21日中ソ不可侵条約並びに秘密協定締結(軍事物資の提供、技術者の派遣等)
 8月23日松井大将を総司令官として、第三師団、第十一師団が上海に到着
 9月10日新たに第九、第十三、第一〇一の各師団が参加決定(当ブログでは「これは日独戦争だ」参照)
    中国の提訴を受けた国際連盟は理事会を招集、顧維鈞は連盟が必要な行動をとるよう求めた訴状を総長に提出、理事会は諮問委員会に付託。
 9月23日大場鎮を総攻撃、第九師団正面の敵がようやく退却を始めた。
 9月27日委員会で顧維鈞は日本の行動を侵略的であると認定するよう再三に渡って主張、英国など慎重派は、これに賛成しなかった。
 10月1日日本は日中間の紛争を国際的に処理することを拒否
 10月6日国際連盟総会決議で、日本を条約違反と断定したが制裁措置には触れなかった、米国が強硬態度に転じたのはこの時期だった。
    米大統領ルーズベルトはシカゴで演説、侵略国を伝染病に例え、隔離すべきだと訴えた。また国務長官ハルは声明を発表、「日本の行動は国際関係を規律する原則に違反し、九カ国条約と不戦条約に抵触する」と決めつけた。
 10月26日要衝大場鎮を攻略して、上海はほぼ日本軍の制圧下となる
     しかし大損害を被っての戦闘で、最終的には死傷者四万一千余(戦死10,076、戦傷31,866)と日露戦争に於ける旅順戦以来の大損害となった。中国軍の死傷者は約40万とみられている。11月5日、三個師団からなる第十軍が上海南方60キロの杭州湾に奇襲上陸して、中国軍の背後を断つ作戦に出た。これで中国軍は一気に崩壊し、南京方面に向けて潰走した。結局日本軍は合計25万人を投じて、60万の中国軍を潰走させた。
    松井司令官は疲労した将兵を条件に南京攻略は無理という考えだったが、総崩れとなった中国軍を見て、この調子で一気に南京を落とせば、より有利な講和が結べると、攻略論賛成に廻った。
    当時密かに駐中ドイツ大使トラウトマンによって和平交渉がもたれていた。11月2日、七つの条件で停戦を申し入れた。蒋介石はトラウトマンの仲介による和平提案を受け入れず、抗戦を続けているので、戦争終結のためには策源地の南京占領が必要であるとの意見が強まった。11月28日、参謀本部は南京攻略の決定を下した。12月2日、蒋介石・トラウトマン会談、ブラッセルでの九か国会議も頼りにならないと、蒋介石は停戦の労をとるようトラウトマンに依頼した。しかし日本軍司令部が南京攻撃命令を出したのは12月1日であった。
 11月3日九カ国条約国会議が開幕、参加したのは日本を除く調印国と非調印国ソ連の十九カ国。15日対日宣言を採択『日中間の現在の敵対行為は、すべての国の権利と物質的利益に強い影響を及ぼし、全世界に不安をもたらした。各国代表は双方が停戦に同意し、解決をはかる見込みがあると信じており、中国代表もまたその用意があると言っている。それにもかからわず、絶対に討論に応じないという日本の態度は了解できない。日本があくまで、他の条約調印国と相反する見解を持するならば、各国は日本に対して、共同して対応することも考慮せざるを得ない』 この宣言は中国を満足させるものでなかった。24日の最後の会議で、顧維鈞は会議が不満足に終わったことの抗議した。この記事は蒋介石秘録からの引用であるが、蒋介石は上海での劣勢を国際会議各国の援助を求めていたが、果たせず南京からの撤退を決めたのだろう。日程的に符合する。それでも揺れ動いて、トラウトマンとの会議で停戦の労を申し出たのだろう。
 11月12日蒋介石は南京死守を決定
南京へ、南京へと日本軍が急進撃していた頃、南京では蒋介石をはじめ何応欽参謀総長、徐永昌軍令部長、李宗仁第五戦区司令官のほかドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンなどが集まって、南京防衛をどうするかについて協議、包囲されると長くは守れない、南京を放棄して無用な犠牲を作らないようにというのが、大方の意見だった。一人唐生智将軍が、敵とトコトン戦い、南京を死守すべきだと主張、それを受けて蒋介石は唐将軍を南京防衛軍司令官に任命、南京死守が決定された。中国の戦法は「堅壁清野」であった。城壁の周囲を焼き払って清めてさえおけば、敵は飢え果てて降参するから、戦わずして勝利が転がり込んでくる、という戦法だった。中国では赤眉の乱の記録を初出とする堅壁清野が二十世紀の半ばまで続いた。日本軍が句容を占領したのが合図となって、中国軍部隊による南京郊外の「焼き払いの乱行」がはじまった。「湯山から南京に至るあらゆる建物に火が放たれ、村落はすべて焼かれた。次いで南門周辺や下関の諸設備にも火が放たれた。中国軍指導部は、軍事上の要請と説明した。日本軍に利用されそうなものは、樹木・竹やぶに至るまで一掃された」と。
 11月16日蒋介石は南京放棄をひそかに決定し全官庁の撤退を命じた。
 11月17日非戦闘員の為の安全地帯を作る目的で、南京にいる欧米人が国際委員会を結成した。上海での安全地帯設営の成功に刺激され、南京安全地帯構想が進行
 11月19日国民政府国防最高会議で、首都を南京から重慶に移すことを正式に決定した。
 12月7日蒋介石が宋美齢と共に南京から飛行機で脱出、他の高級官僚もそれに従い脱出、挹江門を除いて全城門が閉じられた。中国兵が挹江門から逃げようとすれば、中国軍の督戦隊が射殺した。人的移動は不可能になり、唐生智司令官はすべての非戦闘員は安全地帯に避難せよと命令する。
 12月8日日本軍は「南京全体が要塞 中立地帯不可能」と発表、安全地帯は承認しないが尊重すると付言。
 12月8日日本軍は南京郊外に到着
 12月9日飛行機から中国軍に対する降伏勧告文を投下『江寧の地は中国の旧都にして民国の首府なり、明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集し、さながら東亜文化の精髄の感あり、日軍は抵抗者に対しては峻烈にして寛恕せざるも無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり、しかして貴軍にして交戦せんとするならば南京は勢い必ずや戦果を免れ難し、しかして千載の文化を灰燼に帰し十年の経営は全く泡沫とならん』と。
   同日、蒋介石に対して休戦協定案が南京安全地帯国際委員会から持ち掛けられたが、蒋介石に拒否された。   
 12月10日中国軍の軍使は現れなかった。13時頃より総攻撃が開始された。
 12月12日形勢絶望とみて唐生智司令官は部下を見捨てて逃亡
 12月13日南京は陥落した。中国軍は混乱の中を城外に敗走する結果となったが、中国軍督戦隊による中国兵の殺害も多発、逃げ切れない兵士が軍服を脱いで安全地帯に隠れる、後に摘発され処刑されるケースがかなり生じた。しかし、南京城内での戦闘そのものは殆ど起こらず、安全地帯以外には人を見ずというのが日本軍入場時の実情だった。城外では脱出した部隊と日本軍の間で激しい戦闘がいくつも起こったが、城内はほぼ平穏となった。

 陥落後も南京に数日間残っていた新聞記者やカメラマンは五人であった。シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド・スティール、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン、パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン、英国のロイター通信のL・C・スミス、アメリカのAP通信のイェイツ・マクダニエル。また、董顕光副部長は命を受け上海から南京に赴き、対外文書宣伝の重要性を察し、国際宣伝処を設置、中央宣伝部の直属部署として、工作活動を開始した。党副部長は彼らと会い、個別に朝食取ったと言っている。そのダーディン特派員が12月22日のニューヨーク・タイムズで次のように記している。『中国軍司令部は、たとえ数千人といえども、南京防衛軍が渡河して撤退できるとは考えていなかった。南京攻略戦の期間を通じ、河にはわずかなジャンク船とランチのほかは、輸送手段がなかったことからも、それは明らかである。事実、当然の帰結ではあるが唐生智司令官と配下の師団司令官が攻撃前に語っていた、中国軍は撤退を一切考慮していないという言葉は、中国軍司令部の偽りない真意を述べたものであった。防衛軍司令官部は彼らが城壁で囲われた南京に包囲されることを十分承知していた。ねずみ捕りの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らを捕えて木っ端微塵にするような状況を進んで置かれることを選んだわけは、中国人を感動させるように英雄的に振る舞いながら、日本軍の南京占領を出来るだけ高価なものにしようと意図していたことであることは疑いない』 しかし『この事柄の不名誉な部分はと言えば、防衛軍司令官部が、先に披露した意図を遂行する勇気に欠けていたことである。日本の部隊が南西の城壁の破壊に成功した時、下関の出口はまだ閉門されておらず、日本軍の快進撃と日本軍艦の接近に怖じ気づいた唐将軍とごく少数の側近は、配下の指揮官と指揮官のいない部隊を絶望的な状態のまま残して、逃走した。この逃走について、部下たちに何の説明もなかったことだろう』
 12月27日の東京朝日新聞は「唐生智司令官銃殺さる 首都南京放棄の責任糾弾」と題して南京特電26日発と報じた。中央宣伝部の作成した宣伝本『戦争とは何か』にも、フィッチ師が「唐将軍は最近処刑された時来ました」と記している。ところが、唐将軍は処刑されていなかった。1966年の香港で出版された書物によれば、唐将軍は1949年に国民党を捨てて共産党に走り、戦後も共産党政権下で湖南省副省長などを歴任している。なぜ、虚報が流されたのか、なぜ蒋介石は背信行為を犯した唐生智将軍を処刑しなかったのか、何故将軍は敵前逃亡しながら不問に付されたのか。その答えは東中野修道教授が追いかけている。紙面の都合で次回に報告したい。

 

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戦争はどこで起こったか、誰が主導したのか 2

2023年01月15日 | 歴史を尋ねる

『一般的には盧溝橋事件が日中戦争の始まりとされている。しかし事件そのものは小さな紛争であり、本格的な戦争の始まりといえないものだった。従って、盧溝橋事件が上海に飛び火した、という表現は不正確だ』と、茂木弘道氏は言う。『日本軍は、事件のあと停戦協定を結んだが、停戦協定を破り続ける中国軍の不法行為を抑えるために内地三個師団、関東軍の一部を北支に派遣し、平津地区(北平、天津など)を制圧したが、進出の限界を保定に置いていた。しかも8月5日に中国側に画期的とも言える内容の和平提案をすることにし、9日には最初の日支の会談が行われることになっていた。だから8月13日に起こった上海の中国軍の攻撃は、盧溝橋事件の延長のような形で飛び火したという性格のものではない。これは蒋介石が日本との本格戦争を決断したことによる攻撃で、新たな大事件というべきものであった』と茂木氏は主張する。出先の部隊による武力行使でなく、国家の方針に基づき全面的な武力攻撃を行うのが国際法上戦争と見なされる、と。宣戦布告があったかどうかは決定的な要因ではない。1937年8月13日、上海において蒋介石政権の正規軍三万が総動員体制の方針の下、居留民保護のために駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃を開始した。これが日中戦争の始まりと正式には考えるべきだ、ライシャワーもそう言っていると茂木氏は言う。
 国家の方針に基づき全面的な武力攻撃を行うのが国際法上戦争と見なされる、確かに当時日本では日中戦争と言ってなかった。事変と言っていた。しかし、東京裁判の冒頭陳述で清瀬一郎は『日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具えて、8月13日には全国的の総動員を下命し、同時に大本営を設定、自ら陸、海、空軍総司令という職に就いた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四方面(南方方面)に分けてこれに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備した』と述べている。清瀬は暗に戦争を開始したのは蒋介石政権、中国側だよと指摘していたのだ。この清瀬の深い指摘に、日本の史家も気づいていなかったのではないか。

 ここのところを、蒋介石秘録はどう伝えているのか。「戦火はさらに上海に飛び火した。主役を演じたのは日本海軍である。海軍は、まず盧溝橋と「同じ手口で、開戦の口実を作ろうとした。7月24日、上海駐屯の日本海軍陸戦隊は突然、隊員の宮崎貞夫が中国人に連れ去られたと称し、上海市政府や共同租界工部局に調査を求め、閘北一帯で厳戒態勢に入った。中国の保安隊も警備を強化し、双方のにらみ合いは三日に及んだ。一触即発の緊張の中で、27日長江で溺れかかった日本人を中国船が助け上げた。この男が連れ去られたと言われた兵であった。宮崎はこう供述した。「軍規に違反して遊びに出たが、後で処罰が怖くなり、密かに長江を遡り投身自殺を図ったが死にきれなかった」と。日本はみずからの軍の恥をさらす事件でさえ、開戦に結び付けようとした。北平方面で、日本軍が一斉攻撃にはいった翌日の7月28日、日本政府は漢口から上流の日本人居留民に対し、引き揚げ命令を出した。あきらかに全面戦争を予期しての措置であった。日本の艦艇に警護された最後の引き揚げ船が上海に到着したのは8月9日であったが、この日、いわゆる大山中尉事件が発生した。午後五時、大山中尉は斉藤一等水兵に運転させ、警戒線を強行突破して飛行場に向かった。軍事施設をスパイしようとしたのである。保安隊が停車を命じたが、彼らは命令を無視して発砲、保安隊一人を射殺、このため保安隊は反撃し、二人を射殺した。事件は上海市長を通じて上海総領事に通告され、外交交渉によって処理するという約束の下、日中の話し合いが始まった。だが第三艦隊司令官は事態の悪化を理由に臨戦態勢を敷いた。長江から黄浦江にかけて三十隻を超える艦艇が展開し、陸戦隊三千人を上陸させた。すでに日本軍は陸戦隊本部を中心に約八十か所に陣地を構築中であった。兵員は在来の陸戦隊三千二百人、新たに上陸した陸戦隊三千人に加えて在郷軍人三千六百人、その他艦上の動員可能なものを含め約一万二千人と推定された。一方、中国軍は1932年第一次上海事変の停戦協定によって、市内には保安隊・警察隊などが治安維持に当り、正規の戦闘部隊は駐留していなかった。時々刻々と増強される日本軍に対抗するため、8月11日、中国軍は京滬警備総司令・張治中指揮下の第八十七師、第八十八師の両師を上海郊外に配置した。この二個師はいずれも第一次上海事変で日本軍と激戦をかわした筋金入りの部隊である。すでに上海周辺では、日本の再侵略に備えた防禦工事が1935年から始まっていた。一帯を縦横に走る無数のクリークを利用して、上海市を遠巻きにするような形で、陣地が構築されていた。13日、ついに日中両軍は衝突した。午前9時15分、陸戦隊の一小隊が中国軍に向けて発砲した。この時は二十分で収まったが、午後四時ごろ、ついに全面的な戦闘に入った。黄浦江上に待機していた日本の軍艦も一斉に砲火をひらき、上海市街を艦砲射撃した。ここに約百日に及ぶ上海防衛戦が始まった」と。ふーむ、蒋介石に当時上がってきた情報はこうだったのか、蒋介石が今のこの段階で正当性を敢えて主張するのか、行間から読み取ることは出来ないが、重要なことを語っていない。

 1937年8月31日付けのニューヨークタイムズは次のように報じている、と。上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々な会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後の数日間、兵営の中から一歩も外に出さなかった。8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこう見ている。「七月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては、意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれた。中国軍は外国人の居住地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるように思えた」(ハレット・アベンド上海特派員)
 茂木弘道氏は言う。ニューヨーク・タイムスの記事の通り、戦争を仕掛けたのは明らかに中国側だった。上海の共同租界には日本人が三万人余り居住し、製造業、商業などに携わっていた。海軍陸戦隊二千二百が租界の居住民保護に当っていた。中国軍が停戦協定を破って、租界の外側の非武装地帯に大量に潜入してきたことが察知されたので、急遽約二千の増援部隊を集めた。上記記事の増援部隊はこの二千の陸戦部隊を指している。8月9日、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊、大山中尉と斉藤一等水兵を惨殺した。攻撃されたので反撃したと自軍の保安隊員の死体を持ち出したが、弾痕から、中国側のものであることが明らかになった。上海にいた記者も確認している。租界を包囲する中国正規軍はドイツ軍事顧問団の訓練を受けた精鋭部隊八八師を主体に三万を超えていたが、13日から攻撃を始め、14日には航空機を含む一斉攻撃をかけてきた。この攻撃が本格戦争に展開していった。いずれにしても、戦争を仕掛けてきたのは、明らかに中国側であり、日本は望まない戦争に引きずり込まれたというのが歴然たる史実だ、と。   

 東アジア史を語るうえで、ユン・チアンの書いた『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を外すことは出来ないだろう。石平著『浸透工作こそ中国共産党のすべて』でユンについてちょっと触れたが、『マオ』は十余年にわたる調査と数百人に及ぶ関係者へのインタビューに基づいて書かれたもので、日本も含む世界各国に及んでいる。日本に触れる部分はかなり正確なので、上海における日中の確執について、マオの調査結果に耳を傾けよう。
 「1937年7月7日、北京近郊の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突した。日本軍は7月末には華北の二大都市、北京と天津を占領した。蒋介石は宣戦布告しなかった。少なくとも当面は、全面戦争を望まなかったからだ。日本側も全面戦争を望んでいなかった。この時点で、日本には華北以遠に戦場を広げる考えはなかった。にもかかわらず、それから数週間のうちに、1000キロ南方の上海で全面戦争が勃発した。蒋介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった。日本は1932年の休戦合意に従って、上海周辺には海軍陸戦隊をわずか3000人配置していただけだった。八月中旬までの日本の方針は、進駐は華北のみとするというものであり、上海出兵には及ばないと明確に付け足すことまでしていた。ニューヨークタイムズの特派員で消息通のH・アーベンドはのちに回想する。『一般には日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は非常に少ない兵力しか配置しておらず、18日、19日には長江のほとりまで追い詰められて河に転落しかねない状況だった』 アーベンドは、交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画の存在に気づいた。アーベンドの読みは当っていたが、読み切れなかったのは、計画の首謀者が蒋介石ではなく、ほぼ間違いなくスターリンだった、という点である。7月、日本が瞬く間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにも及ぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。すでに前年から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期に渡って冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ、上海で全面戦争を起して日本を広大な中国の中心部に引きずり込む、ソ連から遠ざける、手を打ったものと思われる。
 冬眠から目覚めたスパイは張治中という名の将軍で、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官だった。張治中は1925年当時、黄浦軍官学校で教官をしていた。学校はソ連が資金と人材を提供して設立した士官学校で、モスクワは国民党軍の高い地位にスパイを送り込もうという意図を持っていた。張治中は回顧録の中で、中国共産党に入党したいと周恩来に申し出たが、国民党の中にとどまって密かに中国共産党と合作してほしいと要請された。盧溝橋事件の発生当時、京滬警備司令官という要職にあった張治中は、日本に対する先制攻撃に踏み切るよう蒋介石に進言した、それも上海における先制攻撃だった。上海には日本の海軍陸戦隊が少数駐屯しているだけだった。蒋介石は耳を貸さなかった。上海は中国にとって産業と金融の中心で、ここを戦場にしたくなかった。しかも上海は蒋介石政権の首都南京に近く、日本に攻撃の口実を与えないために、上海から部隊や大砲を遠ざけたほどだった。
 七月末、日本軍が北京と天津を占領した直後、張治中は蒋介石に重ねて電報を打ち、開戦に先手を取るよう強く主張した。張治中が執拗に主張を繰り返し、日本軍が上海攻撃の明白な動きを見せた場合にしか攻撃しないと言うので、蒋介石はその条件付きで承諾を与え、攻撃開始については命令を待つように釘を刺した。しかし、8月9日、上海飛行場で張治中は精選した部隊によって日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵が射殺された。さらに、一人の中国人死刑囚が中国人の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。攻撃許可を求める張治中に対し蒋介石はこれを却下し、13日朝、張治中に対して一時の衝動に駆られて戦争の口火を切ってはならない、今一度検討したうえで計画を提出するように命じた。翌日、張治中は「本軍は本日午後5時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次の通り」と蒋介石に迫った。14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。張治中は総攻撃を命じた。しかし蒋介石は今夜は攻撃を行ってはならない、命令を待てと張を制した。持てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本艦船が上海を砲撃し日本軍が中国人に攻撃を始めた、と虚偽の記者発表を行った。反日感情が高まり、蒋介石は追い詰められた。翌8月16日、蒋介石はようやく翌朝払暁を期して総攻撃を行うと命令を出した」「蒋介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蒋介石の戦争遂行を支援する動きに出た。8月21日、スターリンは南京政府と不可侵条約を結び、蒋介石に武器の提供を始めた。中国はライフル以外の武器を自国で製造することが出来なかった。スターリンはソ連からの武器購入代金として蒋介石に2億5千万ドルを融通し、航空機1000機、戦車、大砲を売却し、加えて相当規模のソ連空軍を派遣した。さらに数百人の軍事顧問団を中国に派遣した。この後4年に亙って、ソ連は中国にとって最大の武器供給国であったのみならず、事実上唯一の重火器、大砲、航空機の供給国であった」「モスクワは戦局の展開に喜んだ、とソ連外相はフランス副首相に認めている。また、張治中と接触したソ連大使館付き武官とソ連大使は直後に本国に召還され処刑された。蒋介石は上海事変の勃発に怒り、落胆し、張治中の正体に疑いを持ち、9月に司令官の職を解いた。しかしその後も蒋介石は張治中を使い続け、1949年に国民党政府が台湾に逃れたあと、張治中はもう一人の大物スパイと同じく、共産党政権下にとどまった」  マオの記述は詳細に亙るが、いくら取材でもそこまで分からないだろうと云う部分もあり、全面的にその通りという事も出来ないし、南京虐殺にしても巷で言われる内容をそのまま書き込んでいるので、その信憑性を慎重に判断する必要があるが、大局的な見方は取材に基づいた記述だろう。ただ、『スターリンは国民党軍の中枢で長期に渡って冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ』という文言はやはり書き過ぎだろう。スターリンはさすがにそこまで目が届かない。むしろ考えられるのは、周恩来だろう。毛沢東の伝記であるので、周恩来の実像はあまり出てこない。そして蒋介石の役割も史実を振り返ると、過小評価しているので、蒋介石の実像が出ていない。むしろ、清瀬一郎や茂木弘道氏の見方が実像に近いと思われる。そうは言っても、日中戦争にソ連が演じた役割は、過小評価すべきでない。むしろこの視点はもう少し掘り下げられるべきだろう。ユン・チアンはもう一つ貴重なコメントを残している。『張作霖爆殺は一般的に日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという』  

 

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戦争はどこで起こったか、誰が主導したのか 1

2023年01月08日 | 歴史を尋ねる

 中華人民共和国は事ある毎に日本との抗争を侵略戦争と非難し、台湾領有を植民地支配として論難する。しかし、中華人民共和国は1949年に誕生したのであり、支那事変当時の抗争相手国名は中華民国であり、実質的な統治政権は蒋介石政権であった。中華ソビエト共和国は1932年4月26日、中央政府の名により日本に宣戦布告し、1935年8月コミンテルンの「反ファッショ人民統一戦線」の指令に従い抗日救国宣言を発しているから、日本軍の行為は戦闘行為であり侵略とは言えない。日本を占領した米軍を侵略とは言わない所以と同じである。ただ蒋介石政権は終始日本軍の行為を侵略行為として、国際連盟や米国などにその非をアピールしていた。それは蒋介石政権の周到な戦略だったが、その主張はどこまで正当性があるのか。まずは蒋介石秘録から、蒋介石の主張に耳を傾けたい。

「盧溝橋事件の発生・経過は、7月8日、廬山で秦徳純らから報告を受けた。『日本軍は盧溝橋で挑発に出た。準備が未完成の時に乗じて屈服させようというのか。それとも宋哲元に難題を吹っ掛けて、華北を独立させようというのか。日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時だろう』 9日、現地で協定が結ばれたが、国民政府は南京の日本大使館に覚書を送り、『如何なる協定であろうとも、中央の同意がない限り無効である』と通告。さらに14日、協定細目が調印された。 18日蒋介石は『最後の関頭演説』を行い、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。日本軍の作戦遂行は極度の秘密が保たれていたが、中国側が得た情報によれば、すでに八個師団、約十六万人が北平、天津に向けて集結ないし輸送中であった。譲歩に譲歩を重ねた中国軍現地軍も、それまでの現地交渉がまったく無益であったことを思い知らされた。宋哲元も、日本軍の言う地方的解決のむさしさを悟らざるを得なかった」と。
 蒋介石はここで盧溝橋事件を日本の挑発と決めつけている。さらに現地解決協定を無視している。さらに十六万人の集結も誤認識であった。前回も触れたが、蒋介石のところに上がってくる情報はどこまで正確だったのか。清瀬一郎は東京裁判冒頭陳述で「1937年7月7日の盧溝橋における事件発生の責任はわが方にはない。日本は他の列強と1901年の団匪議定書(義和団事件の北京議定書)によって兵を駐屯せしめ、また演習を実行する権利を持っていた。またこの地方には日本の重要なる正常権益を有し、相当多数の在留者(1901年当時日本人の北京周辺の居留民は3万3千人)を持っていた。もしこの事件が当時日本側で希望したように局地的に解決されていれば、事態はかくも拡大せず、したがって侵略戦争ありや否やの問題には進まなかった。それゆえに本件においては中国はこの突発事件拡大について責任を有すること、また日本は終始不拡大方針を守持し、問題を局地的に解決することに努力したことを証明する。近衛内閣は同年7月13日『陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針を堅持し、全面的戦争に陥る如き行動は極力これを回避する。これがため第二十九軍代表の提出せし11日午後八時調印の解決条件を是認してこれが実行を監視する』と発表している。しかるにその後中国軍の挑戦は止みません。郎防における襲撃、広安門事件の発生、通州の惨劇等が引き続き発生した。中国側は組織的な戦争態勢を具えて、7月12日には蒋介石氏は広範なる動員を下令したことが分かった。一方中国軍の北支集中はいよいよ強化された。豊台にあるわが軍は中国軍の重囲に陥り、非常なる攻撃を受けた。そこで支那駐屯軍は7月27日、やむを得ず自衛上武力を行使することに決した。書証及び人証によってこの間の消息を証明する。
 それでも日本はやはり不拡大方針を取ったが、蒋介石氏は逐次に戦備を具えて、8月13日には全国的の総動員を下命し、同時に大本営を設定、自ら陸、海、空軍総司令という職に就いた。全国を第一戦区(冀察方面)、第二戦区(察晋方面)、第三戦区(上海方面)、第四方面(南方方面)に分けてこれに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備した」
 清瀬一郎は公式の場でここまで言及しているが、日本史の専門家で清瀬氏の主張を取り上げた事例にお目にかかれない。不思議な事だ。

 「史実を世界に発信する会」主宰の茂木弘道氏はそのブックレット「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!」で次のように解説する。盧溝橋発砲事件の四日後の7月11日に中国第二十九軍副軍長秦徳純と日本軍北京特務機関長松井久太郎との間で締結された現地停戦協定に明確に書かれている。『一、第二十九軍代表は日本に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任をもってかくの如き事件の惹起を防止することを声明す。二、中国軍は豊台駐屯日本軍と接近し過ぎ、事件を惹起し易きをもって、盧溝橋付近永定河東岸には軍を駐屯せしめず、保安隊をもってその治安を維持す。三、本事件は、いわゆる藍衣社(蒋介石直属の情報工作、テロ組織)、共産党その他抗日各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、将来これが対策をなし、かつ取り締まりを徹底す。』  協定だから、一方だけの言い分ではない。この協定を日本の圧力で結ばせた、などという論は現実を無視した暴論だ。二十九軍は宋哲元率いる北支を支配する十五万の軍で、対する日本の支那駐屯軍は5600人と極少数。圧倒的な力にものを言わせる理不尽な停戦協定などと押し付けることなどできない。しかし、その後中国側はこれは無かったと強弁しているが、秘録から押すと、蒋介石の指示によると言える。協定文書が厳然と存在している。さらに細目協定作りの作業も行われた。19日成立している。
 茂木氏はさらに続ける。そもそも日本が攻撃を行う理由がない。たった5600の駐屯軍が十五万の二十九軍に攻撃をかけるなどあり得ない。(さらに事件当時、支那駐屯軍司令官田代皖一郎は病床にあり、7月12日新たに香月清司中将が司令官に任命された事実もある。司令官の不在状況で意図した戦闘などするわけもない) 日本軍の国内、満州、朝鮮、中国に駐屯する全勢力はおよそ二十五万。これに対し中国軍は二百十万。内50万はドイツ軍事顧問団の指導で装備・訓練とも近代化を進めていた。さらに日本の最大の仮想敵国は当時のソ連で160万の大戦力を有し、内およそ40万が極東に配備されていた。このような状況で、日本が北支で戦端を開くなどという愚かなことを行う筈もないし、そのような理由も計画も皆無だった。しかし、当時の中国では日本に対する主戦論が圧倒的に優勢で、都市の住民は日本との戦争を熱望し、勝利を確信していた。当時の中国で発行されていた新聞各紙を見ればその様子は一目瞭然だという。そして茂木氏は北村稔・林思雲著『日中戦争:戦争を望んだ中国、望まなかった日本』を紹介している。当時の主戦派には、一つは過激な知識人・学生・都市市民。二つ目は中国共産党。三つ目は地方軍閥。共産党と軍閥は過激な世論を味方として、蒋介石政権に対する立場を有利にしようという狙いもあり、主戦論を唱えていた。特に共産党は抗日を最大の政治的武器として使っていた。
 停戦協定第三項には二十九軍も誰が発砲したか具体的につかんでいなかったが共産党が怪しいと云う事を察知した文章になっている。徹底抗戦を叫び続けた共産党が衝突事件を起こそうとするのは当然だが、その他に深刻な事情があった。実は共産党は当時窮地に追い込まれていた。たしかに、西安事件により蒋介石は共産党攻撃を中止し、共産党との協力関係を作ることを約束した。しかしその後、蒋介石は次々に厳しい条件を共産党に突き付け、半年後の37年6月頃には国共決裂寸前となっていた。エドガー・スノーは「1937年6月には蒋介石は、再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた」と。この窮地打開のために共産党は謀略大作戦を決行した、と茂木氏。共産党は、第二十九軍の中に副参謀長の張克俠を筆頭に参謀に四人、宣伝副処長、情報処長、大隊長他大量に党員を潜り込ませていたことは、今では中国で出版されている書籍によって明らかになっている、と。『浸透工作こそ中国共産党の全て』という石平氏の著作を紹介した。これは表に出ている共産党の謀略の数々を具体的に挙げているが、これらの事例から、同様な事件が盧溝橋に起こってもおかしくない、といえる。
 さらにこれを起こしたのは100%明らかな証拠があると、茂木氏。「発砲事件の翌日八日に、共産党は延安から中央委員会の名で長文の電報を蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府関係、軍隊、団体などに発信した。共産党の公式史で「七八通電」として特筆されている。さらに同日に同種の電報を毛沢東ら軍事指導者七名の名前で蒋介石、宋哲元等に送っている。日本軍は、八日午前五時三十分に初めて反撃を開始した。それまでは盧溝橋域などで交渉していたのであり、相次ぐ発砲に対して、対抗する体制を整えつつあったが、この時までは全く反撃の発砲をしていない。当時の通信事情から八日に初めて発砲による反撃があったのに、八日にこの情報を手に入れて、経過を含む長文の呼び掛け文を公式電報として作成し、中央委員会の承認を得て、全国に発信するなどという作業は絶対不可能。唯一可能なのは、事前に準備していて、筋書きを作り、その通りにことが運んだことを確認して、正式文に仕上げた場合だ。実は、実際に準備していた、その証拠がある。支那派遣軍情報部北平支部長、 秋富重次郎大佐は『事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」(成功した)と3回連続反復送信していた」(産経新聞平成6年9月8日夕刊)で述べている。その時は分からなかったが、その後盧溝橋での謀略成功を延安に報告する電報だった。早速延安では電文つくりが行われ、八日の朝、日本軍が反撃を開始したのを確認してこの長文の電報を各地に大量に発信した。盧溝橋の銃撃事件を引き起こした犯人は中国共産党に他ならない」と。11日に結ばれた停戦協定は中国側、中国軍自体、あるいは不明者により再三にわたり協定破りを行った。郎防事件、広安門事件といった大規模な中国軍による停戦違反攻撃が起きるに至って、一貫して不拡大方針を取ってきた日本政府は、7月27日内地三個師団派遣を決定し、28日、二十九軍に開戦通告を発した。エドガー・スノーは6月の共産党の大苦境は、日本軍が引き起こした盧溝橋事件によって救われたと述べている。日本軍が一斉侵攻を行った事実はないが、共産党はそれを望んでいたと云う事をスノーの文章は図らずも暴露している、と茂木氏。蒋介石が剿滅作戦を放棄せざるを得なくなったことを喜んでいるが、さらに進んで日本軍を戦わせることが彼らの本当の狙いだった。 
  盧溝橋事件後に出されたコミンテルン指令は、1,あくまでも局地解決を避け、日中全面衝突に導かなければならない。2,右目的貫徹の為あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって中国の開放を裏切る要人は抹殺してもよい。3,下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、国民政府をして戦争開始の已む無きに立ち至らせねばならない。4,党は対日ボイコットを全中国に拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ。5,党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならない。この指令は1937年7月に出されたもので、後に興亜院政務部「コミンテルンに関する基本資料」から茂木氏が引用している。ここから読み取れることは、共産党の苦境打開という直接的な狙いのほかに、日本軍と蒋介石軍との間の本格的戦争を引き起こすことが真の狙いだった。これにより日本軍の力が削がれ、ソ連の安全確保という目的が達成できると同時に、日中両国の疲弊・共倒れをもたらすことによって、共産党の勝利を実現しようという長期的な戦略だった。コミンテルンの世界戦略とそれを推進した中国共産党のこの最終目標は、その後1949年に実現した。

 世界を、歴史を、巨視的に見ていくと、意外な筋書きが見えてくる。日本軍も蒋介石軍も手玉に取られていたと見るのは情けないが、「成功了」の電文を見ると、両軍が筋書き通り行動したことになる。日本の真珠湾攻撃も筋書き通りとすると、二度にわたって、日本は操られたことになる。日本国内でのゾルゲ事件もこうした筋書きに比べると、かわいいものである。日本では謀略をあまり大きく取り上げないが、その怖さは石平氏の著書で十分読み取れる。

 

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