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敗戦国日本が分断されず、なぜ朝鮮が分断されたのか

2020年10月22日 | 歴史を尋ねる

 日本では歴史的テーマとしてほとんど取り上げられることはないが、分断国家、韓国では大変重要なテーマである。敗戦国ドイツは分断されたが、敗戦国日本はなぜ分断を免れたか。筋違いにも朝鮮が代りに分断された、と。韓国、北朝鮮の人が言うのは分かるが、日本の高名な歴史学者、和田春樹東京大学名誉教授は、「日本の本土のアメリカの単独占領と朝鮮の分割占領と千島のソ連占領とは、ワンセットで決まったのであり、切り離せないものなのである。日本が単独でアメリカに占領されるという事態になったのは、朝鮮が分割占領されたが故であり、千島がソ連に占領されたが故である、考えてみれば、朝鮮の分割占領の犠牲の上に、アメリカによる日本の単独占領があったということは明らかである」と。明らかでないから、明らかであると強弁している。ここでは、分断が生まれる経緯を、具体的事実関係に遡って、見るしかない。ウィキペディアに頼るのが一番、「連合軍軍政期(朝鮮史)」が扱っている。

 朝鮮は1910年から朝鮮総督府が統治する日本領朝鮮となる一方、一部の朝鮮人朝鮮独立運動を行っていた。これに対し、当時の国際社会日韓併合条約による韓国併合を承認する一方、一部の国々は独立運動団体・関係者への支援・取り込み工作を行っていた。その為、1941年大日本帝国第二次世界大戦へ参戦する時点で、中華民国大韓民国臨時政府光復軍を財政・人的に後援し、ソビエト連邦元東北抗日聯軍の朝鮮人将兵を取り込んで日本との戦闘を想定した民族旅団を編成していた。大戦の戦局が連合国側の優勢となった1945年、カイロ宣言で「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ自由独立ノモノタラシムル」ことを宣言した1945年2月ヤルタ会談で米・英・ソ連首脳はソ連対日参戦に関する極東密約(ヤルタ協定)を締結し、その中で戦後朝鮮を当面の間連合国四ヶ国(米・英・華・ソ)による信託統治下に置くことを取り決めた。1945年8月9日、ヤルタ協定の基づいてソ連は対日参戦を行い満洲国及び朝鮮・咸鏡北道へ侵攻を開始する。8月14日に日本政府はポツダム宣言を受諾し降伏する旨を連合国側に通告するが、ソ連の侵攻は9月2日日本が正式に降伏するまで続き、満州南樺太千島列島及び朝鮮半島北緯38度線以北(北朝鮮)を占領するに至った。8月13日、アメリカの駐モスクワ特使ポーリと駐ソ大使ハリマンは、ソ連が朝鮮半島に野心を持っていることを理由に、朝鮮及び満州の速やかな占領をトルーマン大統領に建議した。しかし、8月14日に日本政府からポツダム宣言受諾の通告を受けた時点で、既にソ連は満州と朝鮮北部に進駐を開始しており、主力がフィリピンにあるアメリカ軍を両地域へ即時投入することは非現実的との理由から、この提案は黙殺された。ただし、朝鮮半島をうやむやのうちにソ連に占領されるのを防ぐため、国務・陸軍・海軍調整委員会は「北緯38度線で米ソの占領地域を分割する」という案を策定し、8月14日にトルーマン大統領の承認を受けた。この案はソ連に提示され、8月16日に同意の返答を受けた。8月17日には一般命令第一号によって『38度線以北の日本軍朝鮮軍)は赤軍(ソ連軍)に、以南はアメリカ軍に降伏する』ことが決定された。  

 朝鮮総督府は政務総監の遠藤柳作が治安維持のために朝鮮人への行政権の委譲を決め、朝鮮独立運動家呂運亨に接触を図っていた。そのため、玉音放送を聞いた呂運亨はその日のうちに安在鴻らとともに朝鮮建国準備委員会(建準)を結成し、組織的な独立準備を進めた。その後、9月2日に日本政府が降伏文書に調印(正式に日本が降伏)したのを受け、呂運亨は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和国の建国を9月6日に宣言した。だが、建準は独立の方針を巡って右派民族主義者)と左派共産主義者)が対立して混乱した上、当時中国で活動をしていた大韓民国臨時政府関係者も「朝鮮の正統な政府」としての自負から朝鮮人民共和国への協力を拒否した結局、アメリカ及びソ連は朝鮮人が自主的に樹立した政府に対して一切の政府承認を行わず。

北朝鮮の国家建設の場合はどうであったか。1946年1月から米ソが朝鮮での信託統治実施を巡って共同委員会を開く中、北朝鮮では全体を統括する朝鮮人の行政機関として2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が設立され、1947年2月20日には正式な行政機関として北朝鮮人民委員会に再編成された。その後、10月20日に米ソ共同委員会が最終的に決裂すると、人民委員会は11月18日に第3次会議を開催し、憲法制定委員会を樹立して北朝鮮独自の憲法制定に着手した。

1948年に入り南朝鮮単独で総選挙を実施する動きが起きると、人民委員会は南朝鮮労働党を通じて選挙の妨害活動に出た。だが、5月10日南朝鮮単独総選挙が強行されたため、人民委員会は南側単独の新政府に対抗する別個の政府樹立を急いだ。8月25日、南北朝鮮を対象とした代議員選挙を行って最高人民会議を設立し、9月3日には朝鮮民主主義人民共和国憲法が公式採択された。そして、9月9日に金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣布されて、社会主義政権が発足した。10月12日にソ連の承認を受けることでソ連軍政は終結した。結局は、ソ連軍政下の国家建設であった。

南朝鮮の建国の場合はどうであったか。1945年12月、ソ連のモスクワで開催されたモスクワ三国外相会議にて、朝鮮を米・・ソ・4か国の信託統治下に最長5年間置くことが決定された。だが、東亜日報が『ソ連、信託統治を主張 アメリカは即時独立を主張』と誤報したことで、信託統治に反対(反託)する大韓民国臨時政府系の右派(民族主義派)と信託統治に賛成(賛託)する呂運亨ら左派(社会主義派)との対立が激化した1946年1月7日李承晩が信託統治の反対声明書を発表、その直後から京城にて開催された第一次米ソ共同委員会は反託派の扱いを巡って米ソが対立したため同年5月8日に無期限休会となった。事態を打開しようと中道左派中道右派による左右合作運動が行われたが、左右両派から暗殺などのテロによる妨害を受けて運動は瓦解した。米ソ対立を受けアメリカ軍政は共産主義勢力への取り締まりを強め、46年5月8日南朝鮮警察朝鮮共産党本部ビルを捜索させ、党員による朝鮮銀行100圓券の大量偽造が発覚したと5月15日に発表した。アメリカ軍政はこれを機に共産党の非合法化に転じ、9月には朴憲永などの指導者に逮捕状が出たため、朴憲永は北朝鮮臨時人民委員会が樹立されていた北朝鮮に越北し、平壌から南朝鮮労働党(南労党)を指導して右派との抗争を行わせた1946年10月1日大邱府で南労党の扇動を受けた南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起し多数の犠牲者が出た(大邱10月事件)。この頃から、南朝鮮では南朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や南朝鮮警察による共産勢力取り締まりが苛烈になり、極右団体の西北青年会による白色テロも公然と行われた。

信託統治問題をめぐって1947年5月から第二次米ソ共同委員会が開かれたが、10月20日に再び無期限休会となった。そのため、米国は米ソ共同委員会での問題解決を一方的に断念し、朝鮮独立問題を国際連合に移管した。米国は「国連の監視下で南北朝鮮総選挙を実施するとともに、国会による政府樹立を監視する国連臨時朝鮮委員団を朝鮮に派遣する」という提案を国連総会に上程可決された。これを受けてUNTCOKは翌1948年1月に朝鮮入りし、南朝鮮で李承晩金九など有力政治指導者との会談や総選挙実施の可能性調査などを行なった。UNTCOKは1948年2月20日に国連小総会へ「国連臨時朝鮮委員団が『任務遂行可能な地域』(南朝鮮)での単独選挙実施案」を提出、賛成多数で可決された。国連の議決により、5月10日にUNTCOKの監視下で南朝鮮単独で総選挙が実施されることが決定したが、それは新政府の統治が南朝鮮のみに限定され、朝鮮の南北分断が固定化されることを意味していた。そのため、朝鮮の即時独立を主張する反託派も、南朝鮮単独政府の樹立を認める李承晩(韓国民主党)派と南北統一政府樹立にこだわる金九(大韓民国臨時政府)派に分かれ、このような政治的対立から南朝鮮は騒乱状態となりストライキや主要人物の暗殺が相次いだ。

アメリカ軍政・韓国民主党の単独政府樹立強行の動きに対して、1948年3月12日には独立運動家の金九金奎植金昌淑趙素昻らが南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表し、同じく南部単独選挙に反対する北朝鮮人民委員会と協調する動きを見せた。また、同年4月3日には単独政府の樹立を認めない済州島民や左派勢力などによる済州島四・三事件が起きるが、アメリカ軍政は南朝鮮国防警備隊・警察・西北青年会などの右翼を朝鮮半島から送り込んで反乱住民の鎮圧を図った。その際、鎮圧部隊による島民虐殺が多発したため、少なくない島民が難を逃れようと日本へ密航して在日韓国人となった。1948年5月10日、UNTCOKの監視下で、600人を超えるテロ犠牲者を出しながらも、南朝鮮では制憲国会を構成するための総選挙が実行された。制憲国会は李承晩を議長に選出し、7月17日制憲憲法を制定した他、大統領選挙で李承晩を初代大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。それら準備を経て、1948年8月15日に李承晩大統領が大韓民国政府(大韓民国第一共和国)の樹立を宣言、実効支配地域を38度線以南の朝鮮半島のみとした大韓民国の独立とともに公式的にはアメリカ軍政が廃止された。ただし、アメリカ合衆国政府による韓国の独立承認は遅れ、大韓民国政府承認の批准案がアメリカ合衆国議会で可決されたのは1949年1月のことであった。

 韓国(大韓民国)誕生には、歴史家であっても、顔を背けたくなるような凄惨な、激しい抗争の経緯があったのだ。日本による朝鮮併合前の李朝時代の抗争に似ている。アメリカ軍政もこの争いには辟易しただろう。ただはっきりしていることは、和田春樹氏の言う『朝鮮の分割占領の犠牲の上に、アメリカによる日本の単独占領があった』というのは、歴史的事実の曲解である。むしろ進んで分断を選んだ、と言えなくもない。その要因は、ソ連が対日参戦に踏み切った時、満州と朝鮮北部に進駐しており、ソ連が朝鮮半島に野心を持っていた証左で、日露戦争前のロシアの野心の蒸し返しである。この事実関係を無視して、日韓問題を論じると、相互に行き違いを生じるのは火を見るより明らかであろう。

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互いにまことに遥かであると嘆息するほかない。

2020年10月12日 | 歴史を尋ねる

 タイトルは幕末・明治維新直後の日朝関係についての、司馬遼太郎のコメントである。李朝朝鮮の誇りは、儒教という文明主義の国であることだった、と。前王朝の高麗朝は仏教を尊んだ。それを滅ぼした李朝は、明に勃興と共に興り、五百二十年近く続いた。仏を廃し、儒教に変えた。親へのつかえ方、祖先への祭祀、血族の順序や尊卑貴賤という身分制を固守すること、そのための形式こそ大切だった。特に李朝儒教は、中国よりも形式に厳格で、そのためにはつねに他を論難し、つねに自他を正し、ときに咆哮しなければならなかった。「礼は国の幹なり」という様に、人倫の秩序を守るための基本であり、上下の差別を重んじ、自他の差を服装や儀礼で装飾化することであった。差別が国の幹であった。国際関係も礼で律する。李朝朝鮮の国王にとって北京の皇帝は本家の当主であり、自らは身を屈して分家であることを守った。西洋風の属国ではない。

 江戸時代、朝鮮国王から江戸の将軍に対し、前後十二回、通信使が派遣された。1716年の通信使の製述官申維翰の紀行「海游録」によると、紀行文の中で「この島は一州県にすぎない」「対馬の当主は、わが国の藩臣である」と。小中華という架空の真実の中で生きる儒教の徒の申維翰は、日本人に対し、人という文字を使わない、人とは文明人のことで、不特定の人々をさすとき、群衆といわず群倭という。対馬藩の警備人のことを禁徒倭、様々な人々という場合、諸倭という。くどいほどに差を明らかにする。申維翰の用法では、倭とは人間の形をとっているものの内容は野蛮人であるという意である、と司馬遼太郎はコメントする。ところが、その群倭が明治維新という革命を起した。維新前年、最後の将軍徳川慶喜は、政権を朝廷にもどした旨、対馬藩を介して朝鮮に通告した。長い書簡だったが、応答はなかった。礼とは日本語の礼儀や行儀という互敬的な作法ではない。二世紀にわたって外交関係があった徳川家の当主慶喜に対し、返事もしなかったところに、礼の持つ滑稽感があると司馬遼太郎。シリアスな国家間の問題に置き直すと滑稽感とは言っていられなくなる。それが維新後の書契問題(既述済)であろう。維新成立早々の9月、新政府は対馬藩の通じ、その旨の書を送った。これも無返答だった。その年の11月、ふたたび書を送った。返書はなかった。明治3年2月、今度は三人の使者が釜山の倭館へ行った。外交関係の役人だった。今度は釜山の地方官が会った。維新の事情を告げ、善隣の方針を述べた。が、李朝政府から応答はなかった。明治6年5月、釜山の倭館の門壁の告示文が張り出された。倭が洋服を着始めたのはけしからん、と。「其の形を変じ、俗を変える。これすなわち、日本の人というべからず。無法の国と言うべし」 隣国がやった起死回生の明治維新も、礼の輪の中で片づけられた、そして司馬遼太郎の冒頭の嘆息に繋がる。

 欧米諸国の東アジア進出に危機意識を抱き、明治維新を成し遂げた人々にとって、嘆息ばかりしてはいられなかった。西郷隆盛の征韓論、江華島事件、壬午事変、甲申事変を経て福沢諭吉も脱亜入欧と長嘆息、ついには日清戦争、さらに日露戦争。その先に日本による朝鮮併合へと進んでいった。19世紀後半から20世紀初頭、極東アジアは朝鮮問題を中心に事件が重なった。その後の歴史を紐解くと、「互いにまことに遥かである」と嘆息していればよかったか、明治の日本人は行動を起してその解を求めたが、現在の韓国の人はその時どうすれば良かったか、未だ解答を出していない。そして当時の日本を非難するが、実際は李朝朝鮮がその(自主独立の方策)解答を延ばした結果が、南北に分かれた国家になった、と歴史は解答を出している。長年、朝鮮半島の歴史や政治を研究してきた筑波大学大学院教授の古田博司氏は「韓国に対しては『助けない、教えない、関わらない』を『非韓三原則』にして日本への甘えを断ち切ることが肝要」と説く。日韓が地政学的に隣国という関係にありながら、これも一つの現代版嘆息だ。相当重症である。再度登場してもらうが、古田氏の嘆息の内容について、触れておきたい。

 韓国人は自分たちがかっては文明的に卓越していたと主張する。しかし日本で7世紀後半から8世紀にかけて、万葉集、古事記、日本書記が編まれ、平安末期には源氏物語絵巻など四大絵巻が完成する国風文化が花開いたが、朝鮮半島ではそのような証拠はない。半島ではようやく12世紀に正史「三国史記」、13世紀に「三国遺事」が登場するが、唐や日本と同様の律令が統一新羅で編纂・施行したことはなかったというのが現在の有力説、また高麗時代の史料の殆ど残されていない、李朝実録が丸ごと残ったのは日本が朝鮮に入り、史料保存に努めた結果だ。李朝時代の文芸にしても、主人公がシナ人、場所もシナ大陸と言ったものがほとんどだという。歴史上の朝鮮は、中華文明に対する他律的文化しか持っておらず、国風文化はついに育たなかったと古田氏。李朝漢文は四六駢儷体という易しい漢文が主体で、高度な文化内容を展開するには無理があった。経済は明朝初期の反商業政策を受け継ぎ、流通は主に粗放な市場と行商人が担っていた。農村には村界がなく、流民化した民が食える村に集まっては有力者の下でとなって生活していた。彼らは五百年間の貧窮の中に閉ざされていた。独自のハングル文字を作り上げるまで、この国の言語を表記する体系は漢文しかなく、新羅語、百済語、高句麗語、高麗語がどのような言語だったか、分からない。以上から、古田氏は具体的には語っていないが、韓国の歴史を記述するにあたって、具体的事実を語る文献がない、ということだ。古田氏は35年間、朝鮮研究をやってしまったが、晩年となり韓国に読むべき古典や近代文学がなく、脾肉の嘆をかこっている。日本人は簡単に想像できないが、言葉通りだと、由々しき事態、みんな勝手な解釈をし始めるのではないか。

 古田氏はさらに言う。日露戦争ののち、南満州鉄道株式会社が生まれると、白鳥庫吉は後藤新平を説いて満鉄東京支社の中に満鮮歴史地理調査室を設けさせ、満韓の歴史や地理の研究を始めた。ここで養成された人々はやがて日本の東洋史学・朝鮮史学の中心的人物となるが、ここではじめられたのは朝鮮史研究ではなく満鮮史研究であった。朝鮮史は朝鮮民族の主体的発展の歴史ではなく、満州を含む大陸史の一部に吸収された。戦後、他律性史観の元凶と批判された福田徳三は、1902年夏朝鮮を旅行し、朝鮮の実情を見聞し、資料を収集して書かれた「韓国の経済組織と経済単位」という論文を発表、「もともと所有権がない。売買という現象がないのは当然である。韓国においては、土地に対する権利の移転は旧文記ならびに新文記と称する書類の授受をもって行われる。長期間継続する実際の使用収益を根拠とする証券の意味である。韓国の農業の技術の極めて幼稚であること、その収穫の甚だ寡少であること、ともにその最大根本の原因は所有権の存在しないことである。商業もまた同じ。韓国には商人が存在しない。ただ定期に各所で輪番に開かれる市とこの市に出入りする行商と生産者または消費者とがあるだけ。ただ、京城、平壌、開城その他の重要な都邑の地については商廛と商人がある。これは小売商ないし御用商人である」と深い知見を窺がい知ることができる、と。

 戦後の朝鮮史研究は、左派学者の幻想や虚構を糧として出発した。韓国の左派学者の歪曲史観に相変わらず加担する日本の左派学者も健在である。和田春樹東京大学名誉教授は、「重要なことは、新しい歴史認識をもって、日韓条約第二条の対立を解決すること、つまり日本側の解釈を棄て、韓国側の解釈を採用すること、併合条約は当初より無効であったと認めることによって、韓国民の認識への同調をあらわすことである」と。これは韓国が国家の正統性を確立するため、日韓併合条約を無効とし植民地時代を歴史上から抹殺するという、最後の手段に同調を表明するものである。しかし、2001年11月、韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援の下、アメリカのハーバード大学・アジアセンター主催で国際学術会議が持たれた。韓国側は日本による朝鮮併合の不法論を国際舞台で確定したかった。韓国側はいかに日本が不法に朝鮮を併合したかということを主張したが、国際法の専門家のケンブリッジ大学J・クロフォード教授が強い合法論を行った。「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではない」と主張、韓国側はこれに猛反発し反論したが、同教授は「強制されたから不法という議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」と一喝。また、日本による韓国併合は、それが英米をはじめとする列強に認められている以上、どのような大きな手続き的瑕疵があり、被併合国の主権者の意思にどれほど反していたとしても、当時の国際法慣行からすれば、無効ということは出来ない、と。

 

 

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戦後の朝鮮半島

2020年10月10日 | 歴史を尋ねる

 当時日本人は敗戦の虚脱状態の中で、進駐軍の到来、政治の混迷、食糧の確保など自らの生活の追われ、戦後の極東アジアがどうなっていくのか皆目わからない、注意を向けることさえ覚束ない時を過ごしていた。日本の戦後史を語るとき、朝鮮半島がどうだったかは見落としがちになるが、現在の極東アジアを考えるとき、まさしくこの時が出発点になっている。中国大陸の国共両党の攻防をすでに見て来たが、もっと身近な朝鮮半島はどうであったか、ここで振り返っておきたい。

 韓国が建国されたのは、1948年8月。北朝鮮が建国を宣言する一カ月前だった。1945年8月、日本の降伏前からソ連軍が朝鮮半島に進軍し、北部地域の占領を始めていた。朝鮮半島をソ連の占領から守るため、アメリカ軍が朝鮮半島南部に入り、半島をソ連とアメリカで分割統治することをソ連に提案、ソ連はこれを受け入れた。北緯38度線で南北に分割された。韓国は北朝鮮に対するコンプレックスがあった、と池上彰氏。金日成はつくられたヒーローだったが、日本支配に対抗して旧満州で日本と戦ったことは事実であり、韓国も北朝鮮同様に自ら独立を勝ち取ったという建国神話をつくらざるを得なかった、と。それを知る重要な文献が、大韓民国憲法の前文、「悠久の歴史と伝統に輝く我々大韓民国は三・一運動で成立した大韓民国臨時政府の法統を継承し」という文章で、大韓民国は日本の支配に反対する人々の運動から始まった大韓民国臨時政府の正統性を受け継いでいる国だ、という意味だった。しかし、この臨時政府は名ばかりの組織で、その運営費用はすべて中華民国政府が出していたので、独立した組織だとは言えない。ヨーロッパの事例を見ると、オランダやフランスなどはナチスドイツの指揮下に入ると、自国を追われた政権は、イギリスに移り亡命政府をつくった。これら亡命政権は、国を追われたリーダーたちが再び自国を取り戻すために作戦を立てたり、本国との連絡をとったりするためにおかれたもの、イギリスの全面的支援を受けることなく、自主的に運営していた。大韓民国臨時政府は、日本が統治している朝鮮半島の人々との間に、なんの連絡手段もなく、上海に逃げた一握りの人たちが勝手に大韓民国臨時政府という名前を使ったに過ぎなかった。その後、日中戦争が1937年に始まり、日本が上海を攻めると、国民党政権と共に重慶に逃げた。臨時政府は光復軍という軍隊を持っていたが、その実態は200人ほど、その維持費は全部中国政府が出していた。また光復軍も日本軍とたたかったことがない。ところが憲法には、大韓民国は日本の統治に反対してつくられた臨時政府を受け継いだ国だと、書いている。北朝鮮は、日本と戦って連戦連勝の将軍が国をつくった、と言っており、韓国も負けずに建国神話として探し当てたのが、大韓民国臨時政府だということになったと、池上氏は時々厳しい指摘をする。

 大韓民国建国にあたってリーダーに選ばれたのが、李承晩だった。1875年生まれ、朝鮮併合前の大韓帝国時代で、アメリカ人宣教師がつくったミッションスクールに入学、キリスト教徒になった。韓国初の日刊紙の記者として活動中、皇帝を譲位させる陰謀に加担したとして逮捕、投獄され、1904年日露戦争の特赦で出獄、アメリカに渡った。プリンストン大学で博士号を得て帰国するが、朝鮮半島は日本に併合されていたため再び渡米、大韓民国臨時政府が上海にあった頃、臨時政府の大統領に推挙された。しかし、仲間たちとうまくやっていくことが出来ず、臨時政府から追い出され、アメリカに戻った。朝鮮半島に戻ったのは、日本が降伏した後の、1945年10月だった。すでに70歳であった。李承晩はアメリカの大学に通い、キリスト教徒、アメリカ人と同じ民主主義的な考え方を持っているだろうと、アメリカが支援をした。韓国では民主的な選挙が行われ、選挙で選ばれた国会議員が大統領を選ぶという間接選挙を経て、李承晩は大統領になった。ところが、1950年5月に行われた第2回国会議員選挙では、李承晩に反対する勢力が国家議員の多数を占めた。そこで、李承晩は国民による直接選挙で大統領を選ぶ方法に変更する憲法改正案をつくったが、そのとき朝鮮戦争が勃発、大混乱の中で反対派の国会議員を次々と逮捕、憲法改正を実現した。1952年8月、国民による大統領選挙が行われ、圧倒的多数で再選された。さらに終身大統領を目指して憲法改正案を通し、朝鮮戦争真っただ中、長期政権への道を開いた。

 北朝鮮は1948年9月建国された。建国の父は金日成、しかし金日成は本名ではない。金成桂といった。日本による韓国併合は1910年、その2年後に生まれた。金成桂の両親はクリスチャン、当時の平壌はアメリカ人宣教師によるキリスト教教育が盛んだった。父親は民族主義団体に参加して逮捕され、出獄後は満州に逃れて医者を続けた。金成桂は一時、母親の故郷で過ごしたが、15歳のとき満州に移る。4年後の1931年、満州事変が起り、満州国が出来た。金成桂は抗日運動に関わったが、満州で抗日運動をする朝鮮人の多くは、中国共産党に入党していた。金成桂は白頭山のふもとで抗日運動を続けたが、日本の治安部隊に追われ、1940年10月、ソ連へと逃げ込んだ。ソ連は対日戦争を念頭にいずれ朝鮮半島を攻めることを想定して、ソ連軍の中に朝鮮人部隊を作り、ハバロフスクの近郊に野営地を置いていた。金成桂はソ連軍の兵士となり、大尉として朝鮮人部隊を率いるようになった。日本敗戦後、朝鮮半島の北部はソ連の支配下に置かれた。そこで目をつけたのが、朝鮮人部隊の隊長だった金成桂だった。この時、抗日の英雄「キムイルソン伝説」を利用した。日本が朝鮮半島を統治していた時、日本軍と勇敢に戦い続けているキムイルソンという伝説的な将軍がいる、そんな話がまことしやかに語られ、朝鮮半島に広まっていた。都市伝説のようなものだった。金日成の公式伝説には、1919年3月1日、朝鮮半島に抗日独立運動が起る、そのとき、金日成は運動の先頭に立って朝鮮の人たちを指導したといわれている。金成桂は1912年生まれ、そのときまだ7歳。しかし北朝鮮の金日成の公式の伝説には、そう書かれている、と。

 1945年10月14日、平壌で開かれた日本支配からの解放を祝う祝典で、金日成こと金成桂は初めて市民の前に姿を見せた。伝説の将軍キムイルソンを一目見ようと集まった人々で、8万人収容するスタジアムが埋まった。登場した金日成の姿を見て、みんな驚いた。誰もが白髪の老将軍が現れると思っていた。そこに現れたのが33歳の若者、朝鮮語もたどたどしかった。その集会に参加して、その後北朝鮮から逃げた人の証言によると、聴衆の間からキムイルソンの偽者だという声が上がり、大騒ぎになった。周りを警備していたソ連軍兵士が空に向かって銃を撃ち、騒ぎを収めた、と池上彰氏は「池上彰の世界の見方 朝鮮半島」の中で解説している。金日成はソ連の後押しで北朝鮮の最高指導者に据えられ、自分の実力ではなく、その地位に就いた。実力も経験もない金日成は、日本の統治下で戦っていた歴戦の勇者の上に立たなければならない、コンプレックスを感じたはずだと池上氏。朝鮮半島や中国で日本軍と戦ってきた勇者たちに対し、アメリカ軍のスパイだ、韓国のスパイだと決めつけて、次々とライバルを粛清。身の危険を感じて、中国やロシアに逃げた人もいる。結局、金日成はソ連から一緒にやって来た自分の仲間以外は、みんな粛清してしまった。ここからさらに歴史の偽造が始まる。伝説の将軍金日成は歴戦の勇士でなくてはならない。そこで、朝鮮半島に留まり、白頭山の山中で日本と戦い続けたという神話を捏造した。金成桂の息子はユーラだったが、北朝鮮に戻ってきて金正日という朝鮮名をつけた。そして金正日は白頭山の秘密基地で生れた。さらに朝鮮半島が日本の支配下に置かれている間、金日成は戦い続け、その戦歴は10万回日本軍とたたかった、すべて勝った、と。ソ連によってトップに据えられたリーダーは、次々とライバルを粛清し、偽りの伝記をつくることによって、自分の権威を維持するしかなかった、と池上氏はコメントする。

 

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留用された日本人

2020年10月07日 | 歴史を尋ねる

 前回の蒋介石の日記に、共産軍に日本人捕虜三万人が参加していた、という記述が気になり、事実関係を当たることにした。今回の表題は、日中国交正常化三十周年を機に企画された、NHKハイビジョンススペシャルセレクション番組のネーミングから頂いた。この番組のサブタイトルに「私たちは中国建国を支えた」と。

 1949年10月1日、30万人が喜びに沸き立つ北京・天安門広場。毛沢東は高らかに中華人民共和国の建国を宣言した。その直後、人民の前に初めて勇姿を現した中国空軍機に、人々は驚嘆の声を上げた。内戦を陸軍だけで戦い抜いてきた共産党にとって、空軍創設は悲願であり、建国と同時にその快挙を成し遂げたことは誇りですらあった。しかし、この創設に関わったのが留用された日本人だった事実は、あまり知られていない。

 敗戦の翌年4月から始まった中国からの日本人の集団引揚げは、1948年8月15日、葫蘆島からの高砂丸を最終船として終了した。この時点で、旧満州に残されていた日本人は6万人以上といわれ、奥地で暮らしていて帰国船に間に合わなかった民間人、残留孤児や婦人、抑留された軍人などと考えられていた。しかし、残された者の中に、敗戦後すぐに共産党軍から要請を受け、革命に参加した日本人たちがいた、その数は八千人とも一万人ともいわれ、多くは旧満州で働いていた技術者であり、職域は鉄道、医療、工場など多岐に亘った。帰国を目の前にしながら好むと好まざるとにかかわらず残留することになり、戦後八年以上も中華人民共和国建国の協力者として働いた。中国では彼らを国際友人と呼び、日本では留用者と呼ぶ、と。NHK取材班は、主として東北地区の中国共産党に協力した或いはさせられた留用者の声を取材して、番組を構成している。しかし当時の国民党支配地域と共産党支配地域を含む留用者問題の全般に対する学術的研究はいまだに空白状態だと、鹿 錫俊氏は研究ノートで指摘している。要因として、中国側の政治的原因として、国共両党とも、かっての敵国人を中国の内戦協力者として使用することは恥ずべきことであった。互いに留用の事実を非難し、双方ともその真相を封印したままであった。日本側に事情として、東西冷戦と日中間の国交断絶状態の中、中国共産党への協力者として、警察にもマークされた。自己防衛のため中国での経歴を言わずにしていた。また台湾では国民政府は長年その閲覧を禁止していたし、大陸では人民解放軍に流用された日本人資料を秘密にし、文化大革命期に散逸されたものもあった。さらには中国人研究者も日本人研究者も留用問題の研究をタブー視してきた、と鹿氏は解説する。

 比較的全貌を理解しやすいのは、ソフトバンクオンラインに連載された松本利秋氏の記事:「日本人が知らない「終戦」秘話[1](https://online.sbcr.jp/2015/07/004082.html)「中華人民共和国建設に協力させられた2万の留用日本人」が良い。事実関係や背景も含めて、よく纏まっている。ただ残念ながら、蒋介石が言う、日本人捕虜三万人が参加していたという、事実関係は不明のままだ。共産軍側を非難するプロパガンダかもしれないが、かといって、蒋介石がやみくもに言っているとも思われない。ここでは大東亜戦争メモランダムとして、山下輝男氏が掲載している「第七十四話 建国と友好に寄与した被留用日本人」を参考に、データ的なものを掲載しておく。

1、復員・引揚げ政策:軍人はポツダム宣言9条に基づき、復員することになっていた。まず武装解除と降伏文書調印が必要で、南京で降伏調印が行われた。100万を超える日本軍人は帰還までの間各種労務に従事しながら待機した。一方、一般邦人について9条は触れていないが連合国軍の人道的取扱いによって帰還することができることになっていた。しかし、350万を超える在外一般邦人(中国49万、満州155万、台湾34万、関東州22万)には連合国の命令がなく、混迷した。日本政府は600万人もの引揚者による国内の混乱を恐れもあり、原則として海外在留者は現地定住を方針とした。しかし、米中の送還責任者は日本人の長期定住を懸念した。日本の影響力維持を恐れる米、財政負担を懸念する中国の考え方があり、定住方針は事実上挫折した。居留民の早期返還の一方、技術者や医療関係者の留用が国民政府によって強く望まれた。日本資産の接収のみならず、技術力をも建国に活用しようと、連合国の全ての日本人引揚げ決定はあったが、中国の強い要望で日本人技術者に限り残留が許されることになった。

2、留用者数: 台湾:台湾経済を考慮して、家族を含む2.7万人。 旧満州:1万6700人余り、旧厚生省発行「援護50年史」によると中国共産党側だけで留用者は家族を含めて3万5千人は下らないと推定。国民党が留用した日本人は約4万5千人。共産党側の統計(東北のみ):武器をつくる部署に約千人、衛生部に約七千人、鉄道や工場に約三千人など、少なくとも計2万3千人を留用。

3、特異な事例:国民党系の閻錫山の勧めに従い、山西省日本軍第一軍の多くの将兵が除隊し、閻錫山軍に合流。 元関東軍第四錬成飛行隊の林弥一郎少佐とその部下は、共産党軍の空軍創設養成受諾、NHK番組の冒頭シーンに繋がる。

4、日赤による被留用日本人帰国活動:林少佐の帰還が認められず、また被留用者の日本帰還の心情を察した日赤は帰国に向けて活動を起した。1953年3月から1958年まで帰国事業が続いたが、このうち200人が内戦や事故で帰らぬ人となった。

 

 

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