国家社会主義

2015年12月24日 | 歴史を尋ねる
 第一次大戦が戦後景気をもたらしたのも束の間、国民は好景気の恩恵に浴することもなく、最初は物価上昇、次いで大正9年後は殆ど慢性的な恐慌に喘いだ。昭和4年に始まった世界恐慌は日本にも波及、中小企業の没落、失業者の激増、ストライキの頻発となって、深刻な社会不安が生じた。最も打撃を受けたのは農民だった。台湾や朝鮮からの低廉な米の輸入並びに農産物価格の暴落は、農民を窮乏に追いやった。小作争議は頻発し、従来保守的であった農民の間に左翼勢力の浸透を見るに至った。全国組織を持つ最初の小作組合であった日本農民組合はマルキシズムの強い影響の下にあった。大正14年(1925)12月、農民労働党が結成されたが、共産主義者が牛耳っているとの理由で政府は即日これを解散させた。
 他方、都市労働者の困窮も農民と匹敵するものがあり、失業者の激増は、単に不況のみのよったのではなく当時進行中の企業の合理化によっても促進された。労働争議の内容も好景気にあった戦時中とは逆に賃金引下げ反対、首切り反対に焦点が置かれ、各地に失業者を中心とする騒擾も広がり、争議は暴力化の傾向を示した。しかも労働運動が、サンディカリズムおよびマルキシズムの影響下に発展していたため、政府は弾圧を以てのぞみ、また政党指導者、有産階級ならびに一般国民は労働者階級の台頭を不安と恐怖を以て見守ることとなった。しかも昭和3年(1928)2月の総選挙で度々弾圧された共産党が再建され、公然と選挙に活躍したことや、3月15日共産党を始め労農党、日本労働組合全国評議会、無産青年同盟等の左翼関係者が千数百名検挙されたことなどは、労働者階級の急進性を物語るものと世間一般に受け取られた。

 左翼勢力が台頭するのを見て憂憤の情を禁じ得なかったのが国会主義者であった。大正7,8年頃までの国家主義団体は政治的社会的プログラムを有することもなく、ストライキ破り等直接暴力を以て左翼労働農民組合に対決しようとするに過ぎなかった。しかし大正8年(1919)8月に猶存社が結成された後の国家主義運動は、対内的にも対外的にも急進的な現状打破を標榜し、資本主義と政党政治とを否定する方向で日本の再建を計ろうとして動き始めた。猶存社の指導には満川亀太郎、大川周明、北一輝があたったが、特に大川と北とは軍を中心とする国家改造運動の理論的指導者として重要な役割を果たした。北一輝は若くして中国に渡り、上海、武昌、南京等の各地において革命達成のために奔走した革命家であったが、大川の招きで帰国し、国家改造運動に専念することとなった。彼の著「日本改造法案大綱」は改造運動の経典として多くの青年将校ならびに民間革新家によって愛読された。大川周明は東大哲学科を卒業し、満鉄東亜経済調査局に在籍中近世植民政策の研究により法学博士を授与され、後に財団法人東亜経済調査局理事長の要職にあった思想家であった。大川は青年将校ならびに軍上層部と親密な関係を有し、彼らを通じて革新思想は軍内部にひろく浸透していった。

 北・大川らの国家改造運動の最終目標は、積極的に対外発展に乗り出す事の出来る強力な国家を確立することであった。資本主義は階級闘争をもたらし、政党政治は政争に明け暮れ、西洋思想は日本精神を弱めたと考えた彼らは、日本を再建するために天皇を政治的中心とした一種の民主制の実現を主張した。天皇と国民を直結し、国民の間の権利の平等を強調した。国民間の平等関係は、経済組織上の諸制限によって保障される。「日本改造法案大綱」は次の制限を提唱している。
1、日本国民一家の所有する財産限度は壱百万円。超過額は無償で国家に納付。
2、日本国民一家の所有する私有地限度は時価拾万円。超過地は無償で国家に納付。
3、私生産業の限度を資本壱千万円。超過する生産業は国家に集中し国家の統一的経営とする。
 北や大川が計画していた国家改造は国家社会主義的原則に基づいた。彼らは左翼の人と同じように、国民の社会経済正義の名において資本主義と政党政治を激しく批判した。しかし、対外面における左右の主張はかなり異なった。左翼が国家を超越した階級的連繋に現状を打破する行動源を求めたのに対し、右翼は国家的団結を重視した。国家主義者であった北や大川が国家権力の強化・発展を主張したが、社会主義者でもあった彼らは、資源の恵まれない日本を国際社会におけるプロレタリアと考え、日本の対外発展を国際社会の富の不均衡を是正する正当な行為であると説明した。北は著書の中で、「国家の発達の結果不法に大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対し戦争を開始する権利を有す。英国は全世界に跨る大富豪で露国は北半の大地主なり。・・・国内の無産階級の闘争を認容しつつ国際的無産者の戦争を侵略主義、軍国主義と考える欧米社会主義者は根本思想の自己矛盾である。・・・国内の分配より国際間の分配を決しなければ日本の社会問題は永遠無窮に解決できない」と、対外活動を起す事こそ日本の活路であると主張した。
 
 さらに北・大川らは、日本が国際的不平等を是正するために起こす戦争は、白人の支配下にあるアジア諸民族のための解放戦争であるとした。日本は「人類解放戦の旋風的渦心」として指導的役割を演ずるよう運命づけられており、中国に対する政策も西洋諸国の勢力をここから駆逐することにある。大アジア主義を標榜しながら、彼らは日本がアジア大陸に膨張することを否定しなかった。むしろ彼らは日本が大陸の一部を領有することにより、アジアの保全が確立出来ると説き、特に南満州は帝政ロシアから獲得したものであって、日中親善の建前からも返還する必要がないと主張した。以上の事実を総括して、緒方氏は次のように云う。「北・大川ら国家社会主義者の帝国主義は、国家主義、社会主義ならびに大アジア主義の融和統合されたものであり、その特徴としては、第一に国内の社会主義の実現は対外膨張と不可分であること、第二に膨張の結果生ずる利益の恩恵に国民大衆は浴する権利があること、第三に日本の膨張をアジア民族の解放と同一視したことである。事実、猶存社の結成後誕生した多くの国家主義団体は、対外膨張と国民の利益の二重目標を掲げている」

 北や大川が国家革新運動の発展に大きく貢献したのは、彼らの思想が対内的な経済危機と対外的な行詰まりに激しい不満を抱き、現状打破を願う人々に強く訴えたからで、同時に行動面においても革新運動を強力に展開させる構想を有していたからであった。歴史上の変革は常に高度に組織化された少数の精鋭によって達成されたと判断した北や大川は、革新運動の担い手を軍部に求めた。北は国家改造そのものを重視し、対外発展に乗り出す以前或いは同時にこれを完成しなければならないと考えたが、大川は対外危機によって国民感情を高揚させた上で国内改造を実現することを主張した。この相違によって革新運動を二分することになった。かくて大正12年猶存社は解散し、その後大川は大学寮、さらに行地社を中心に活躍をつづけ、北も一派をなし、革新陣営の中に相敵対する大川派・北派の二潮流が生じた。

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