【23章】
マケル・リキニウスが書いている。「翌年の執政官は前年と同一人物だった。ユリウスが三度目の執政官に、ヴェルギニウスは二度目の執政官になった」。ところがヴァレリアス・アンティアスと Q・トゥベロによれば、翌年の執政官は M・マンリウスと Q・スルピキウスだった。意見が分かれているマケルとトゥベロだが、リネン(亜麻布)の巻物の正当性を認める点で二人は一致している。古代の歴史家は翌年の最高官は執政官ではなく執政副司令官だったと書いている。これをマケルとトゥベロは知っていたが、リネンの巻物の記述を優先させた。マケル・リキニウスはリネンの巻物に書いてあることを迷わず受け入れるべきだとしている。トゥベロはリネンの巻物を絶対視していない。かなり昔の史実には、しばしば解決できない矛盾があり、この件もその一つである。
ローマがフィデナエを占領するとエトルリア人はパニックに陥った。ヴェイイは同じ運命になることを恐れ、ファリスク人の都市ファレリイは以前の戦争の結果を思い出し、戦々恐々となった。
(日本訳注意;ファリスク人はラテン人とエトルリアの中間に居住する小部族。ラテン人に類似した部族だったが、エトルリア化した)。
ヴェイイとファレリイは12のエトルリア都市に使節を送った。これらの都市は要請に応じ、ヴォルトゥムナ神殿においてエトルリア国家会議を開催すると宣言した。(日本訳注:ヴォルトゥムナ神殿はウンブリア州南西部のオルヴィエートの近くにあったと推定されている)
エトルリア都市連合との戦争が迫っていたので、元老院はマメルクス・アエミリリウスを再び独裁官に選定するよう命令した。P・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが騎兵長官に任命された。二つの都市との戦争ではなく、全エトルリアが相手だったので、通常の戦争の場合より熱心に準備がなされた。
【24章】
いつまで経っても戦争が始まらなかった。ヴェイイの援軍要請は断られた、と商人たちが伝えてきた。エトルリアの諸都市は次のように言って、援軍を断った。「ヴェイイが自分が始めた戦争なのだから、独力で戦うべきだ。裕福なヴェイイは我々を信用しなかった。困った時に我々に助けを求めるのは筋違いだ」。
独裁官は戦争で手柄を立てる機会を失った。独裁官の任命は不要だったことになってしまったが、彼は後世に伝えられる別の偉業を成し遂げたかったので、査察官の権限を縮小することにした。(査察官は人口調査と税の査定をする役人)
査察官の権限が大きすぎる、または任期が長すぎると、彼は考えたようである。独裁官は市民集会を開き、次のように述べた。「神々がローマの国外問題への対応を引き受け、危険を取り除いてくれたので、私は国内問題の課題に取り組みたい。私は市民の自由について話し合いたい。大きな権限を有する者の任期が短い時、市民の自由は安全である。大きな権限を有する役職でも、任期が短ければ有害にならない。ほとんどの高官の任期は一年であるのに、査察官の任期は5年である。何年もの間同じ人間の圧政のもとで暮らすことに、市民は不満を持っている。私は査察官の任期を8か月とする法律をつくりたい」。
翌日彼は市民の熱狂的な賛成を得て、法律を成立させた。彼は次のように述べた。「市民の皆さん! 私が高官の任期をいかに重視しているかを知っていただくため、私は今独裁官の任務を終了します」。
彼は査察官の任期を短縮しただけでなく、自分の職務も短期間で終了した。彼に賛同し、心から感謝する人々に送られて、彼は家に帰った。任期を大幅に短縮された査察官たちは非常に怒り、マメルクスを彼が所属する部族から追い出し、彼の資産額を8倍に評価し、市民権を奪った。マメルクスはこうした不名誉な仕打ちに悠然と耐えた、と伝えられている。彼は屈辱を受ける原因になった法律の成立を喜び、屈辱をあまり気にしなかった。貴族の指導者たちは査察官の任期の短縮に反対していたが、査察官がマメルクスを厳しく処罰すると、ショックを受けた。彼らは自分たちが査察官の処罰の対象になるかもしれないと恐れた。自分が査察官になれば安心だが、そうでなければ、絶えず恐れなければならなかった。ところが、市民が査察官に対して怒り、査察官は市民の暴力から逃げ回ることになった。査察官を市民の暴力から守る権威を持つ者はマメルクスだけだったったと言われている。
【25章】
護民官は繰り返し市民集会を開き、執政官の選挙を妨害しようとした。もう少しで暫定国王が任命されるところまでもめた末に、護民官は翌年の最高官を執政副司令官とすることに成功した。平民の努力に報いるため、護民官は平民が執政副司令官に当選するよう運動したが、一人も当選しなかった。選ばれたのは全員貴族だった。 M・ファビウス・ヴィブラヌス、M・フォリウス、L・セルギウス・フィデナスが執政副司令官になった。この年は疫病が流行し、市民の活動が停滞し、市内は静かだった。二人の神官が神々の怒りをなだめ、疫病を追い払うために神聖な書物に書かれていることをあれこれ試したが、市内と郊外の両方で死亡率は高いままだった。人間だけでなく動物も死んだ。耕作者である農民が死んだので、飢饉が予想された。トウモロコシの買い付け人がエトルリア、ポンプティン人の地域(ラテン地域のティレ二ア海沿岸地方、アンティウム以東)、クマエ(ナポリ湾にあるギリシャ都市)、そしてシチリアにまで派遣された。
翌年の最高官について、執政官にすべきだという意見はなく、執政副司令官に決まった。執政副司令官に選ばれたのは L・ピナリウス・マメルクス、 L・フリウス・メドゥッリウス、Sp・ポストゥミウス・アルブスだった。彼らは全員貴族だった。彼らは全員貴族だった。この年は疫病が終結し、食料が備蓄されていたので、飢饉も終了した。ヴォルスキとアエクイはそれぞれの国会で戦争について話し合った。エトルリアもヴォルトゥムナの神殿でローマとの戦争について話し合った 。エトルリアは戦争を一年延期すると決めた。ヴェイイはこの決定に反対し、「フィデナエと同じ運命になる」と述べたが、エトルリアの議会は閉会し、翌年まで開かれなかった。一方ローマでは、護民官が相変わらず自分たちの地位を高めようと画策したが、対外関係が平和だったので彼らの努力は失敗した。しかし彼らは護民官の建物で秘密の計画について話し合った。平民から軽蔑されるようになった、と彼らは嘆いた。
「何年も執政副司令官が選ばれているが、選ばれるのは貴族だけで、平民は一人も執政副司令官になっていない。我々の祖先は平民のための高官に貴族だけが選ばれないよう配慮したものだ。貴族がとって護民官を取るに足らない役職とみなすだけでなく、平民までも護民官を見下すようになった」。
別の護民官は次のように述べた。「高官の選挙で平民が落選するのは、貴族が悪賢い選挙運動をするからだ。貴族による脅しや懇願がなくなれば、平民は自分たちの階級の人間に投票するだろう。平民が団結すれば、地位と権力を獲得できるだろう」。
貴族が選挙を悪用しないように、秘密会議は次の決定をした。「候補者はが白いトーガ(長衣)を着用することを禁ずる法律を制定する」。
我々の時代の人間にとってこの決定は小さなことに見え、議論に値しないと思える。しかしこの決定は貴族と平民の間の恐ろしい戦いを引き起こした。護民官は法律の実現に成功した。護民官は希望を失いかけたが、平民の支持により、勝利した。護民官が調子に乗らないように、元老院は翌年の最高官は執政官と決定した。
【26章】
元老院が厳しい決定をしたのは、ヴォルスキとアエクイが突然軍隊を進めた、とラテン人とヘルニキ族が報告してきたからである。翌年の執政官はT・クインクティス・キンキナトゥスとグナエウス・ユリウス・メントだった。T・クインクティスはルキウスの息子であり、ポエヌス(フェニキアの)という俗称だった。間もなく戦争が始まった。ヴォルスキとアエクイでは、市民に対し最も強制力のある「神聖な法律」のもとに徴兵が実施され、両軍はアイギドゥス山(アルバ湖の東)に終結した。それぞれが陣地を設営し、防御を施した。両軍の動きがローマに知らされると、市民の間に警戒感が高まった。ヴォルスキとアエクイは何度もローマに負けていたが、これまでにない真剣さで戦争を始めようとしていたのに対し、ローマは従軍するはずだった市民の多くを疫病で失っていた。元老院は独裁官の任命を決定した。
しかし邪悪な執政官がこれに反対し、元老院で繰り返し論争を始めたので、大問題になった。数人の著者によれば、この二人の執政官がアルギドゥス山で敗れたために、独裁官が任命されたのだという。とにかく以下の点で、ほとんどどの著者が一致している。
「二人の執政官は何事においても意見が合わなかったが、元老院に反対し、独裁官の任命に反対することでは一致した」。
ところが、戦場から次々に送られてくる報告により、元老たちは戦況のさらなる悪化を知った。このような状況にあっても、執政官は元老院の命令に従うことを拒否した。この時、国家の最も高い役職を立派に務めたクイントゥス・セルヴィリウス・プリスクスが発言した。
「護民官の諸君! 最悪の事態となった。共和国は危機にあり、元老院は諸君に一肌脱いでもらいたいと願っている。護民官の権限で、執政官に独裁官を任命させてほしい」。
これを聞いて、護民官は自分たちの地位を高める絶好の機会が来たと思った。彼らはよく考えてみると言って、その場を去った。間もなく、護民官全員の一致した考えが発表された。「執政官は元老院の決定に従うべきである。執政官が国家の最高権威である元老院の全会一致の決定に従わないなら、我々護民官団は執政官を投獄する」。
執政官の二人「護民官に処罰されてもかまわない」と言った。「処罰される、まして投獄されるなら、普通の市民にとってこれほど恐ろしいことはない。もし執政官が護民官によって処罰されるのを許すなら、元老院は国家の最高官の権威と特権を否定し、執政官の地位を護民官の下に置くことになる。これは元老院自身の忌まわしい降服だ」。
こう言いながらも、最後に執政官は元老院の命令に従うことにした。しかし執政官の二人は誰を独裁官にすべきかについて意見が合わず、くじを引き、T・クインクティウスが勝った。彼は自分の義父、A・ポストゥミウス・トゥベルトゥスを独裁官に任命した。ポストゥミウスは厳格で毅然とした司令官だった。独裁官は L・ユリウスを騎兵長官に任命した。徴兵令が出され、戦争の準備が始めれた。合法な職業と、そうでない職業が停止された。兵役免除の請願を認可する際の審査は終戦まで延期され、不適格な市民も召集に応じた。ローマはラテン人とヘルニキ族に対し、軍隊の提供を命令した。どちらの民族も積極的に命令に応じた。
【27章】
戦争の準備は驚くべき速さで完了した。執政官の Gn・ユリウスはローマに残り、首都防衛を担当することになった。騎兵長官の L・ユリウスは突発的な戦況に備え、予備の部隊を指揮することになった。彼の部隊にはもう一つの任務があった。前線への供給が不十分で、作戦が遅れることがあり、彼の部隊は必要な物資を確実に前線に届けることだった。
激戦が予想されたので、独裁官は大神官 A・コルネリウスが用意した誓いの言葉を述べた。「もし我々が勝利したら、祝祭として大競技会を開催します」。独裁官はローマ軍を二つに分け、一方を自分が指揮し、他方を執政官クインクティウスに任せた。ローマ軍は敵の陣地に向かった。ヴォとルスキとアエクイはそれぞれ陣地を築いていたので、ローマ軍も陣地を二つ築いた。どちらも敵の陣地から1600メートル離れていた。独裁官の陣地はトゥスクルムに近く、執政官の陣地はラヌヴィウムに近かった。二つの戦場で、両軍はいつでも戦闘を開始できる近さで対峙した。ローマ軍が陣地を築いた時から小競り合いが始まっていた。ローマ兵の一歩も引かない様子を見て、独裁官は満足した。これらの小競り合いによって、ローマ兵は勝利への自信を持ったようだった。敵はまともに戦っても勝ち目がないと考え、全兵力を投入して執政官の陣地に夜襲をかけることにした。深夜に突然叫び声が響き渡り、見張りの兵と陣地内の兵士を驚かせた。別の陣地にいた独裁官も目を覚ました。素早く対応しなければ危なかった。執政官は独裁官に劣らず冷静で、腹が座っていた。彼は陣地の門の守備兵に援軍を送り、残りの兵を陣地の各所に配置した。独裁官の陣地は攻撃されなかったので、独裁官は余裕を持って対策をとることができた。副将軍のポストミウス・アルブスが援軍を率いて、執政官の陣地に向かった。一方独裁官はわずかな兵を率いて執政官の陣地から少し離れた場所に向かい、それから敵を背後から襲った。もう一人の補佐官 Q・スルピキウスは独裁官の陣地に残り、陣地の防衛にあたった。M・ファビウスが率いる騎兵は夜が明けるまで戦闘に参加しなかった。暗い中で、騎兵が混乱した戦場を動き回るのは難しかった。他の将軍に真似ができない、慎重な采配をしたうえで、独裁官は大胆な決断をした。敵の全軍が攻撃に出ていて、彼らの陣地には少数の守備兵しかいなかった。M・ゲガニウスは残りの兵士を引き連れて、敵の陣地を攻撃した。敵の守備兵は冒険的な攻撃に出かけた仲間を心配しており、自分たちに降りかかる危険を予想せず、自分たちの安全に備えていなかった。彼らは陣地の内外に見張りを置くことさえしなかった。彼らは不意に攻撃され、気付いた時には敗北していた。ゲガニウスは敵の基地を占領したという合図に煙を上げ、独裁官はこの事実を全軍に知らせた。
【28章】
明るさが増し、視界がはっきりしてきた。ファビウスの騎兵隊は攻撃を開始し、執政官の部隊も前進を始めた。敵の兵士は動揺した。独裁官は別の方角から敵の予備の部隊を攻撃した。ローマ兵の突然の叫び声を聴くと、敵はすぐに反撃の体制をとった。独裁官は馬から飛び降り、ローマ兵の最前線を動き回った。包囲された敵は敗北を待つだけの集団となってしまい、戦争を始めた代償を支払うことになりそうだった。しかしこの時一人のヴォルスキ兵が大声で仲間を叱責した。「無抵抗で、防戦しようともしない。お前たちは槍の的か。なぜ戦争を始めた。戦争を始めたのはローマではない、お前たちだ。平時には騒ぎを起こし、戦時には愚図だ。ここで無気力でいたらどうなるか、わかっているのか。神様が助けてくれるのか。神様が危険なこの場所から連れ出してくれるのか。神様に頼っても無駄だ。道を切り開くのは自分の力だ。俺の後について来い。両親、妻、子供たちのいる家に飛んでゆきたいなら、俺に続け。道をふさいでいるのは壁や柵ではない。敵の武器だ。それを突破するののは、自分の武器だ。勇気さえ出せば、敵と互角だ。諸君は必死だから、有利だ。必死なことは最大で最後の強みだ」。
こう叫んだ兵士、ヴェッティス・メッシウスは戦場にとどまった。彼は庶民の家に生まれたが、実績により注目されるようになった。言い終わると、彼はまっすぐ前へ突進した。彼の仲間は再び掛け声を上げて後に続いた。ヴォルスキ兵が襲い掛かったのは、ポストゥミウス・アルブスの複数の大隊(大隊は4個百人隊)が重層の陣形を組んでいる場所だった。ポストゥミウスの部隊は押されて後ずさりした。独裁官が駆けつけて、ここが戦闘の焦点になった。ヴォルスキ軍の運命はメッシウスの肩にかかっていた。戦場の至る所で兵士が負傷し、死んでいた。ローマ軍の司令官や副将軍も負傷していた。ポストゥミウスは投石により頭蓋骨が割れ、戦場から離脱していた。独裁官は肩を負傷し、ファビウスは腿を射貫かれ、矢は乗馬にまで達していた。執政官は腕を切り落とされた。これらの人々は戦場にとどまった。
【29章メッシウスと勇敢な兵士の集団は死体の山を超えて突き進んだが、徐々に押し戻されて、自軍の陣地に来てしまった。彼らの陣地はまだ占領されていなかった。ヴォルスキの残りの部隊も陣地に押し戻されてきた。ローマの執政官は、逃げ惑う敵を追って陣地の柵まで来ると、陣地を攻撃し始めた。独裁官は反対側から陣地に迫った。陣地の攻防はこれまでの戦闘に劣らず、熾烈だった。執政官が軍旗を柵の中に投げ入れたので、ローマ兵は軍旗を敵に渡すまいとして、柵を超えて陣内に殺到したと伝えられている。柵が倒され、陣内が戦場になると、敵兵は武器を捨てて降服した。陣地の占領後、敵の兵士は奴隷として売られたが、指導者たちは免除された。戦利品の一部はラテン人とヘルニキ族から奪われたものだったので、持ち主に返却された。残りの戦利品は売却された。執政官が陣地に残り、独裁官はローマに帰還し、職を辞した。
輝かしい勝利をもたらした独裁官の思い出に暗い影を
落とす事実が、いくつかの著作で語られている。独裁官の息子が手柄を立てるチャンスに飛びつき、命令に違反し、持ち場を離れた。息子は勝利に貢献したが、独裁官はこれを許さず、息子の首をはねた。しかし私はこの話を信じる気になれない。こう思うのは私だけではない。このように残酷に権力を行使するのはマンリウスにはふさわしいが、ポストゥミウスにふさわしくない。マンリウスはこのような厳格さを見せた最初の人物であり、冷酷な人物とみられても仕方がない。マンリウスは「尊大な」という呼び方もされている。ポストゥミウスは否定的な呼称を与えられていないない。
執政官 C・ユリウスは勝利を記念してアポロの神殿に奉納した。執政官のどちらが奉納するかは、くじを引いて決めなければならないが、ユリウスは同僚の帰還を待たずに奉納した。クインクティウスは非常に怒り、部隊を解散してから、元老院に抗議した。しかし元老院は取り合わなかった。
この年は偉大な勝利によって記念すべき年となったが、当時ローマに関係ないように見えた事件が起きた。シチリアで騒動が起こり、対立する片方の応援にカルタゴが軍隊を派遣した。後にカルタゴは強大な国家になるが、当時はまだシチリアに進出しておらず、これがシチリアへの最初の関与となった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます