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南イタリアのギリシャ都市②

2019-09-11 22:51:42 | 世界史

ギリシャ人はエーゲ海、地中海、黒海に進出し、多くの植民市を建設した。その中で、アナトリア西部の沿岸部と南イタリアの沿岸部は植民市の数が多く、人口も多かった。ギリシャから最も近いエーゲ海の島々のほとんどは小島であり、耕地がなく、人間が住むのに適さなかった。そのため、ギリシャ人にとってアナトリア西部と南イタリアが最も重要な植民地となった。

ギリシャ人最初にイタリアに来た場所は、イスキア島だった。イタリア本土を避けたのは、イタリアは未知の土地であり、原住民との接触、紛争を避けてるためだった。

 

 

 

 

イスキア島に来たギリシャ人は、エウボイア島のエレトリアとカルキスの市民だった。まだギリシャ人の植民活動は始まったばかりであり、ギリシャ本土の母市が成立してから数十年しか経過していない。ギリシャの歴史は始まったばかりである。

 

   

 

 

イスキア島のギリシャ人居住地について、前回書いたが、今回はイスキア島を調査した研究者の報告を紹介する。発掘調査した本人の言葉は説得力があり、イスキア島を拠点としたギリシャ人の交易活動を実感できる。彼らは交易範囲が広く、ギリシャ本土・植民市、フェニキア・シリア・エジプトと交易しており、イスキア島で発見された陶器や生活用具は8世紀後半の地中海の文化状況を語っている。この時期は古代文明の転換期であり、新しい時代を担うギリシャは生まれたばかりであり、ギリシャが新しい文明の中心となるのは、200年後である。

 

 

=======《ピテクサイ(イスキア島)》====

      Pithekoussai   

          Pen Museum

      By Giorgio Buchner

イスキア島はナポリ湾の沖にある。ナポリからは18マイル離れている。古代ギリシャ人はこの島をピテクサイ(Pithekoussai)と呼び、ローマ人はアエナリア(Aenaria)と呼んだ。紀元前1世紀後半の地理学者ストラボンによれば、ピテクサイ(イスキア島)の居住地はエレトリアとカルキスの人々によって建設された。エレトリアとカルキスはエウボイア島の主要な都市である。「ピテクサイの居住地は繁栄したが、内紛と噴火のため、住民の大部分が島を去った」。

ピテクサイの居住地が建設された時期について、ストラボンは「レランティン戦争の前だろう」と書いている。レランティン戦争(Lelantine War)とは、エウボイア島のエレトリアとカルキスが互いに争った戦争である。この戦争は紀元前710 年に始まり、 650年に終わったので、ストラボンの推定によれば、ピテクサイ居住地は紀元前710 年以前に建設された。またストラボンは「イタリアとシチリアのギリシャ都市の中で、クマエ(Cumae)が最初に建設された」と書いている。

紀元前1世紀後半のローマの歴史家リヴィウスは次のように書いている。

「カルキス人はクマエを建設する前に、ピテクサイ島に植民地を設立した」。

ピテクサイがクマエより先だとするリヴィウスの言葉は注目すべきだったが、客観性を重視する近代歴史学の立場からすれば、一人の証言をうのみにすることはできず、複数の証言の一致か、物的証拠が必要である。

近代の考古学研究により、クマエの成立は紀元前750頃であることが分かったが、ピテクサイの成立時期については何もわからなかった。

19世期末、地元の学者がイスキア島の遺跡を調査し、古代の町と墓地があった場所を特定した。それはモンテ・ディ・ヴィコ(Monte di Vico)岬からサン・モンターノ渓谷に至る地域だった。サン・モンターノ渓谷の近くにラッコ・アメーノ(Lacco Ameno)村がある。

 

 

 

1952 年、私はサン・モンターノ渓谷においてネクロ・ポリス(共同墓地)科学的な発掘調査を開始した。1961年までに、私は約数千平方メートルの区域を掘り返し、 730の墓を発見した。その大部分は紀元前87世紀のものだった。この期間、墓の造りは変化しなかった。火葬場と墓所は隣接していた。火葬の仕方はいつも同じで、まきを積んで点火し、遺体を焼いた。遺体と一緒に壺(つぼ)と装身具も焼かれた。焼却後、焼かれたものは墓所へ運ばれ、地面に積み重ねて置かれた。遺骨と壺などの焼却物の山の上に、焼却されないワイン用の水差しが置かれた。遺骨と焼却物の山の周囲を石で囲み、上部も石で覆った。こうして墓は直径1.5m- 4.5 mの石の山になった。このような墓の造り方は東ギリシャに見られるものである。さらに興味深いのは、これらの石塚はホメロスが語る墓に似ていることである。特にイーリアスに登場する人物パトロクロスの墓にそっくりなのである。ただし、パトロクロスは英雄であるが、ピテクサイの石塚に葬られたのは普通の人々であった。

焼却された遺体と壺(つぼ)の上に置かれた、焼却されなかったワイン用水差しについて、ホメロスの詩がヒントを与えてくれる。火葬の残り火を消すために、ワインをかけたのである。

 

ピテクサイの共同墓地から、紀元前8世紀に造られた壺(つぼ)が多数発見され、ピテクサイ居住地が紀元前8世紀に成立したことは確実になった。これらの壺はギリシャで造られ、輸入されたものと、ピテクサイの居住者がそれらをまねて造ったものがあった。クマエで発見されたツボより古いものがあり、ギリシャ人が最初に来たのはクマエではなく、ピテクサイであることがわかった。ピテクサイ居住地の成立時期は紀元前750年より古いことは間違いない。

ピテクサイの初期の墓で発見された埋葬品の数は驚くほど多く、それらは多くの異なった地域、しかもかなり遠くの地域から輸入された。この点は一般的なギリシャの都市国家の墓と違っている。ピテクサイで発見された陶器の大部分は輸入されたが、ピテクサイで造られた陶器もある。それらは初期コリント様式の形と装飾を模倣したものである。ギリシャの原産地から輸入された初期コリント様式の陶器のほうが丁寧に形づくられ、きれいに装飾されている。コリント様式の陶器はギリシャ世界で人気があり、エーゲ海、地中海、黒海のギリシャ都市に輸出された。

コリント産の陶器のほかに、エウボイア島で造られた陶器も輸入された。またアテネ、ロドス島、キクラデス諸島、アルゴスなど、ギリシャ各地から、幾何学文様の陶器が輸入された。イタリア本土から輸入されたものもあった。例えばエトルリア産の、2重らせん模様が刻まれた小さなアンフォラや、アプリア産の、幾何学文様の壺(つぼ)である。

さらに驚くことに、近東やエジプトからの輸入品も少なくなかった。小さな香水瓶(びん)が、シリアから輸入された。瓶(びん)の上部の細い部分は女性の顔の形をしており、際立っ特徴を示している。この芸術的な小瓶(びん)は発見数が少なく、ピテクサイでの発見は貴重である。タルスス(アナトリア南東)と新ヒッタイトの町ジンジリ(Zinjirli)で発見されているが、かなり壊れた状態で発見され、復元困難である。ピテクサイで発見された小瓶(びん)は復元できた。

 

    

 

 

紀元前8世紀の墓から39個の印鑑が発見されている。これらの印鑑は珍重され、印鑑としてだけでなく、魔除けやお守りとして用いられた。これらはイスキア島で造られたものではなく、シリアやキリキアから輸入されたものである。シリアとキリキアはヒッタイトの影響圏にあり、こうした印鑑はヒッタイトで広く用いられ、ギリシャ各地に輸出された。イタリアの場合イスキア島で39個、エトルリアで4個、クマエで1個発見されている。

イスキア島のギリシャ人はコガネムシの形をした印鑑を、お守りとして身に着けた。この印鑑は60個発見されている。イスキア島以外にクマエでも発見されているが、イスキア島に比べ数が少ない。大部分がエジプトのデルタ地帯で製作されたもので、アモン神への祈願の言葉が刻まれている。これらのほとんどの製作時期がわからないが、運よく我々は制作時のファラオの名前が刻まれているコガネムシ印鑑を発見した。それは第24王朝のファラオBocchoris (Wahkare)であり、彼は紀元前720 年ー 715年にエジプトを統治した。このコガネムシ印鑑は2歳半の女の子の墓に収められていた。

(訳注)原文にはイスキア島で発見されたコガネムシ印鑑の写真が掲載されていないので、ウウィキペディアの

「Scarab (artifact)」に掲載されている、エジプトのコガネムシ印鑑の写真を転載する。

 

 

 

2歳半の女の子の墓を建てた人物は比較的豊かだったに違いなく、特徴のある数個の陶器も納められていた。地元で造られたワイン用水差しや、外国産の壺(つぼ)である。外国産の壺は複数あり、5つの異なる地域から輸入された。そのうちの4個は有名なコリント様式である。

これまでギリシャ陶器の年表は西地中海のギリシャ植民地での発見を基礎に作成されたが、イスキア島での発見は含まれていなかった。2歳半の女の子の墓における発見は、ギリシャ陶器の作成年代を、より正確に特定することに役立った。

ギリシャ本土からイスキア島は遠く、場所もわからないへき地であり、文明世界の最果ての前進基地だった。しかし紀元前8世紀にそこに住んでいた人々は本土に劣らず、文明化されていた。

最後に、イスキア島における重要な発見をつけ加えたい。この珍しい発見により、イスキア島の住人が美術と文学を理解していたことがわかった。

8世紀末イスキア島では後期幾何学文様の壺(つぼ)が造られていた。

 

 

発見された壺の表面には線や図形の代わりに大小の魚が描かれている。しかも魚と魚の間に、逆さまの船と複数の人間が描かれている。よく見ると、人間の一人は大きな魚に襲われている。幾何学文様という形式に制約されながら、船の難破という劇的な場面を表現している。このツボはギリシャ中心部の後期幾何学文様形式の最上位のツボと肩を並べる。

船の難破が描かれた壺より、さらに重要な発見があった。それはロドス島で造られたカップであり、・・・・・・・

(以下省略。前回後半の「ネストールのカップ」参照)

 

================(Giorgio Buchner終了)

 


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