新潟県の父子が山で消息を絶って10日が過ぎていますが、依然として消息は不明ままになっているようです。
過去の遭難事例をみると10日以上が経過したあと生還した人もいますが、今回は子ども連れなので絶望なのでは???
将来ある子どもことを考えると言葉を失います。
今日の記事はこの遭難事故とは関係ない、タカ長の山への思いです。
登山に死は付きものだ、と言ってしまえばそれまでですが、、、、、
若いころの登山を思い返してみると、自分たちの登山のすぐそばに「死」があったから登山が充実し、登山が面白かった、という側面は確かにあります。
きつい思いをしながら山に登っても、、、、こと安全面に関して、 そこに、、自宅周辺を散策する程度しかスリルが無かったとしたら、その登山は充実したものになりません。
少なくとも若いころの登山は、すぐそばに死が口を開けているから面白いし、その口に落ちないために全身全霊を傾けて山を向き合っているところに登山の意味があるのだと思われます。
しかし、山で死んではいけません。何があっても死んではいけません。
タカ長の山歴など人さまに誇るものは一つもありませんが、、、、それでも若気の至りと言えば若気の至りですが、、、、
今になって思えば、、、、一歩間違えればあの世へ一直線、、、というような登山をした経験はあります。
その時は真摯に山に向き合っていたつもりですが、、、、そこで一歩間違わなかったのは自分の実力だと考えるのは間違い、それは思い上がりであることも分かっています。
それは神か仏の加護があったからこそ、、、、タカ長がやってきたようなささやかな登山でも、、、、そこには人智をを超えた世界があるのです。
もしあの時、何かが少し狂っていたら、、、、
哀れタカ長の人生は20代で終わっていたかも分かりません。
もし、20代で人生が終わっていたら、、、、
その後の山人生はありません。仲間たちと雲のわきあがる尾根を歩くともありません。
そして、、、、
仲間たちと歩く高齢者登山の楽しさを知ることもできませんでした。
幸いなことに一歩間違うこともなく、後期高齢者になっても登山を継続できているのは、、、、お蔭さま、、、何かの助けがあったからだと実感しています。
お蔭さまで、、、、何はなくても友だちには恵まれ、、、、
時には先日のように、バラの花さく庭に招かれ、、、、
手作りのバラジャムを頂きながら談笑する時間を頂くこともあります。
バラの花の下でのひと時、、、、
このような至福の時間を仲間たちと共有できるのは、人生の午後の時間、それも夕暮れに近い時間を生きているものの特権みたいな気がします。
このような日々の小さな幸せ、、、、、。早く死んでしまってはこの幸せを知ることが出来ません。
山には危険があるから登山が面白い、、、、という側面は確かにあります。
でも、何があっても山で死んではいけません。
過去には山での死を美化するような風潮があったように記憶していますが、、、、、そのようなことは山を愛する人がすることではありません。
山はそこがどんなに小さな山でも何らかの危険はあります。
そのことを片時も忘れないで登山を継続してゆきたいと考えています。とりあえず90歳まで、、、、、。
過去の遭難事例をみると10日以上が経過したあと生還した人もいますが、今回は子ども連れなので絶望なのでは???
将来ある子どもことを考えると言葉を失います。
今日の記事はこの遭難事故とは関係ない、タカ長の山への思いです。
登山に死は付きものだ、と言ってしまえばそれまでですが、、、、、
若いころの登山を思い返してみると、自分たちの登山のすぐそばに「死」があったから登山が充実し、登山が面白かった、という側面は確かにあります。
きつい思いをしながら山に登っても、、、、こと安全面に関して、 そこに、、自宅周辺を散策する程度しかスリルが無かったとしたら、その登山は充実したものになりません。
少なくとも若いころの登山は、すぐそばに死が口を開けているから面白いし、その口に落ちないために全身全霊を傾けて山を向き合っているところに登山の意味があるのだと思われます。
しかし、山で死んではいけません。何があっても死んではいけません。
タカ長の山歴など人さまに誇るものは一つもありませんが、、、、それでも若気の至りと言えば若気の至りですが、、、、
今になって思えば、、、、一歩間違えればあの世へ一直線、、、というような登山をした経験はあります。
その時は真摯に山に向き合っていたつもりですが、、、、そこで一歩間違わなかったのは自分の実力だと考えるのは間違い、それは思い上がりであることも分かっています。
それは神か仏の加護があったからこそ、、、、タカ長がやってきたようなささやかな登山でも、、、、そこには人智をを超えた世界があるのです。
もしあの時、何かが少し狂っていたら、、、、
哀れタカ長の人生は20代で終わっていたかも分かりません。
もし、20代で人生が終わっていたら、、、、
その後の山人生はありません。仲間たちと雲のわきあがる尾根を歩くともありません。
そして、、、、
仲間たちと歩く高齢者登山の楽しさを知ることもできませんでした。
幸いなことに一歩間違うこともなく、後期高齢者になっても登山を継続できているのは、、、、お蔭さま、、、何かの助けがあったからだと実感しています。
お蔭さまで、、、、何はなくても友だちには恵まれ、、、、
時には先日のように、バラの花さく庭に招かれ、、、、
手作りのバラジャムを頂きながら談笑する時間を頂くこともあります。
バラの花の下でのひと時、、、、
このような至福の時間を仲間たちと共有できるのは、人生の午後の時間、それも夕暮れに近い時間を生きているものの特権みたいな気がします。
このような日々の小さな幸せ、、、、、。早く死んでしまってはこの幸せを知ることが出来ません。
山には危険があるから登山が面白い、、、、という側面は確かにあります。
でも、何があっても山で死んではいけません。
過去には山での死を美化するような風潮があったように記憶していますが、、、、、そのようなことは山を愛する人がすることではありません。
山はそこがどんなに小さな山でも何らかの危険はあります。
そのことを片時も忘れないで登山を継続してゆきたいと考えています。とりあえず90歳まで、、、、、。
本日の山に関する思いのこもった記事のこと全面的にそのように思います。
何時までも素晴らしい登山ができますよう願っています。
おかしな高齢者が事故を起こしたのならモノ申しますが、、、、、。
子どもがいるので言いにくいのですが、あのお父さんには「山をなめるな」と言いたいです。
どんな山にも危険があり、事故を起こす確率をゼロにすることは出来ないので、山には真摯に向き合いたいと考えたいと思います。
その上でとりあえず90歳まで歩くつもりですが、、、、最近は疲れやすくなったのでどうなることやら???