高槻成紀のホームページ

「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

もくじ

2015-03-07 23:59:04 | つながり
もくじ 制作中

<東北大学時代>
内山 隆:あの頃の高槻さん
黒沢 高秀:あの頃は楽しかったです!
沖田(仲尾)章子:いつでもどこでも高槻先生
今榮 博司:調査と歌と…そして人
須田 知樹:これからも

<東京大学時代>
樋口 広芳:高槻先生のこと
藤田 剛:金華山の院生実習で教員として学んだこと
岡田あゆみ 高槻先生への感謝を込めて
Carolina Galindez Silva: “Deer” sensei
Palitha Jayasekara: Retirement doesn’t mean the end of your active life. It just signifies another chapter and journey. Enjoy it !
Udayani Rose Weerasinghe: Happy Retirement Sensei!
五十嵐 知行:高槻先生から頂いた野外研究というプレゼント
富家(内海)有希 高槻研の思い出
石黒(霜田)真理子:高槻研究室での3年間
辻 大和 :東京大学におけるタカツキ・セイキの生態

<麻布大学時代>
伊沢 整 Perspective
山田 穂高:夢中の日々
瀧口 晴嵩:高槻先生の第一印象
海老原 寛:純粋な人
大津 綾乃 少年の瞳
奥津 憲人:高槻研 ×「伝える」
坂本 有加:読んで、出会って、教わって
嶋本 祐子:高槻先生のご退官に寄せて
鈴木(多田)青加:先生との思い出
藤本 彩乃:高槻先生の思い出
野口 なつ子:ふゆのさんぽみちでおもうこと
八木 愛:「何となく」がもたらした最高の出会い
神宮 理沙 きっかけ
杉浦 義文:高槻先生と研究室での思い出
海老名(山本)詩織:麻布の野生研だから経験できたこと
戸田 美樹:過去も今もこれからも
小森 康之:心配をかけて、褒められて
笹尾 美友紀 ヤセイはかぞく
安本 唯:まっすぐな高槻先生

<高槻先生を巡る人々>
大泰司 紀之 :『願えば叶う』をありがとう
Nicol, C. W. : ON THE RETIREMENT OF PROFESSOR TAKATSUKI, MY FRIEND TAKA
野口理佐子 アファンの森の木の下で~ニコルと松木と高槻先生
湯本 貴和:高槻成紀さんとの絆:日本の「動物と植物の相互作用」研究事始め
光明 義文:高槻先生との出会い
秋山 幸也:教育者と研究者の両立
植原 彰:高槻成紀さんと乙女高原
清水 海渡:高槻先生との出会い~自然科学の面白さを伝える~

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きっかけ 神宮

2015-03-07 23:28:55 | つながり

神宮 理沙

 2007年の夏、麻布大学のオープンキャンパスで配られていた1枚のチラシには、新しく設立された野生動物学研究室の紹介と、優しそうに笑う高槻先生が写っていました。そのチラシを何度も読み返しながら受験勉強し、もしこれで野生研に入れなかったらどうしようかと思いながら入学式を迎えたのを覚えています。
 その写真のイメージとは裏腹に、入学してから聞こえてくる高槻先生の「厳しい人」という噂にびくびくしながら野生研のドアをノックし、研究室を手伝わせて頂くようになり、そのまま野生研に入ることができました。
 先生と杉浦君と嵐山に調査に行き、斜面をぼてぼてと歩いている大きなガマガエルを発見した時のことです。反射的に捕まえようと手を出したら、「素手で触るもんじゃないよ」と注意をされてしまいました。それもそうだと思い眺めていると、なぜか先生は落ちていた棒切れでカエルをつつき始めました。怒ったカエルは「ぷうっ」と膨らんで威嚇するのですが、そんな可愛らしい仕草に3人で大盛り上がり。すると先生は「神宮さん、写真撮るからこっちに向けて!」と一言。私は杉浦君と顔を見合わせ、「あれ、触っちゃダメって今さっき言われたような…」とお互いの心の声が聞こえて笑ってしましました。私は野生研のそういう雰囲気がとても好きで、先頭に一番楽しそうな先生がいらっしゃって、その周りでわいわいがやがややっている学生たちがたくさんいる、そういう研究室だったと思います。
 高槻先生に、一番お礼を言わせて頂きたいことがあります。
 先生と初めて一緒に嵐山に行った日に、私の見ている世界はがらりと変わりました。林道を歩きながら次々と花の名前を教えてくださる先生の後を、メモを取りながら追いかけていったあの時、私は初めて嵐山にたくさんの花が咲いていることを知りました。1年生の時から2年近く毎月通っていたにもかかわらず、そこに沢山の種類の植物たちが次々花を咲かせていたことに、恥ずかしいことにちっとも気付いていなかったのです。嵐山に行くのはサークル活動の時だけで、年配の方や先輩達から木を伐ったり育てたりすることを教えられ、作業に手いっぱいでよそ見できなかったということもありましたが、それにしてもよくこんなに見えていなかったものだと自分でも衝撃的でした。7月の晴れた暑い日、今まで緑色一色だと思っていた森の中が本当に突然色とりどりになって、それから森に行くのがもっとずっと楽しくて魅力的なものになりました。
 それまで目を閉じて耳をふさいで歩いていたんじゃないかと思うくらいに、自分の意識次第で、鳥の鳴き声が聞こえ、生き物の足音が聞こえ、花々を行き交う虫たちの軌跡が見える。まだまだ様々なことに気付かずに通り過ぎてしまう事の方がずっと多いのだと思いますが、知らなければ、見ようと意識しなければ見えないものがこんなにあると野生研でのフィールドワークの中でたくさん教えて頂きました。
 先生がよくされていた「里山」の話がとても好きで、人が生活の中で手をかけてきた自然に興味を持ち始めたのも研究室に入ってからでした。卒論は先生にはわがままを言って嵐山でやらせて頂きましたが、テーマ決めの際に「なぜ嵐山?人工林?」と聞かれても何も答えられませんでした。けれど、人工林の中に咲いていたカシワバハグマの前でじっと座って待っていたら、マルハナバチが忙しそうに何度も何度も吸蜜にやってきました。本の中でしか知らなかった生き物たちの暮らしと戦略を自分の目で見ることができて、素直に感動しました。また、一度はお荷物だと放り出されてしまった森が、集まった人たちの手によって変わっていき、生き物たちのつながりが少しでも戻ってきていたことに喜びました。そしてそこが、特別なものが何も無くても、私たちのすぐ側にあって、地元の子供たちが鬼ごっこをしに来るような誰でもふらっと入れる普通の山だということがとても嬉しかったのです。野生研で、嵐山で卒論が書けて本当によかったと思っています。
 先生に教えて頂いたことがきっかけとなって、自分の中で変化したこと、感じたことがたくさんありました。野生動物学研究室で学ぶことができたことは、私にとって一生モノです。本当にありがとうございました。
(2012年 麻布大学卒業)

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Perspective

2015-03-07 23:03:23 | つながり
伊澤 整

 高槻先生が退官されるにあたり、先生から学んだことと、現在それがどのように活かされているかをお話したいと思います。
 先生から学んだこととは、「視野の拡大・縮小」です。これは、大学の講義を通して学んだとも言えますが、「先生とのお散歩」と卒業研究を通して主に身についたと思っています。
前者の「お散歩」は、研究予定段階でフィールド調査を行った「小山田、神明谷戸」の体験のことです。先生はすたすたと、まるで「ハイキング」が主目的であるかのごとく歩いていました。しかし、時折何の前触れもなく立ち止まり、独り言のように周囲の植物を説明していました。もちろん、研究の最適地を探すことが主目的でしたが、この「説明」が机上の生態学という学問を実地に適用・応用するきっかけとなり、生物に興味を持つことの本質をここで学ぶことができたと思っています。
 普段、「名もない」動植物に対して、好意的という抽象的な感情しか抱いていませんでした。しかし、名称の由来・分布域・現在の生息数という先生の説明によって、その「抽象的な感情」が「具体的な興味」に変化しました。学校教育における「勉強」に縛られて、興味の持ち方を忘れていたことに気付いたのです。生態学の考え方が面白いという、ただそれだけの理由で野生動物学研究室に所属していましたが、目の前にある動植物から各地域における分布の仕方、そしてそこに生息する動物たち、その結果として眼前に広がる景観とスケールを、ミクロからマクロまで拡大・縮小する視野を持つきっかけを頂きました。客観的に見て、その先生の説明は「独り言」のように(実際に独り言だったかもしれませんが…)思われました。ところが、私個人にとっては、動植物に対して興味を持つ、本当の意味での出発点になったと今は思います。
 そして、後者の「卒業研究」でも「視野の拡大・縮小」を学ぶことができました。同学年の研究内容は、里山(昆虫、鳥、哺乳類)・上水・害獣対策・鹿と東京郊外を中心とした同一圏内の研究であり(鹿はこれに漏れますが…)、人間と動物の共生という共通項によって地域の一体化だけではなく、個々の研究内容をうまくつむぎ合わせたものでした。基礎的な学問領域ではありますが、生態学とは何なのかを非常にわかりやすく理解することに役立ったと思っています。私の担当は、里山における中・小型哺乳類がどのような群落を利用したのかを、赤外線センサーカメラで撮影した写真から考察するものでした。しかし、私一人の研究では、有意な結果が出ず、共同研究として人生の友である倉田氏が研究した昆虫との相関性を足し合わせることで何とか形になりました。卒業論文として形になっただけではなく、哺乳類と昆虫という行動圏の全く異なる二つの動物を比較することで、単に「群落」として扱っていた場所をより縮小あるいは拡大することができ、ヒト目線という主観からそれぞれの動物たちの視点という客観に見方を改めることができました。
 現在、私は塾講師という仕事をしています。目の前の生徒に教えること、日々の仕事に追われる毎日で、どうしても視野が狭くなりがちな状況です。もうすぐ、受験という一つの目に見える結果が出ます。実際に試験を受ける生徒たちだけではなく、彼らを指導してきた我々講師たちにもこれまでの結果が表面化するため、お互いに短期的な物の見方、つまり視野がもっと狭くなります。
 ただ、受験というのはあくまで一つの「過程」であり、その後には色々な人生が待っています。人生における目標の多くは可視化できませんが、勉強というのはそれらの人生を豊かにする「手段」だと思っています。彼らも我々もその「手段」が後の人生にどのように役立つのかはわかりません。授業をしている時、目の前の課題をクリアする必要はありますが、彼らには私の授業をどのように役立てることができるか?受験をただの結果とするのではなく、その子にとって過程を充実させるにはどうすれば良いか?それらを考えるために、「視野を広げる」ことが非常に重要です。塾とは、受験に合格する結果を求められる場所・学校の成績を上げる場所、とここ最近もしくは以前から、短期的な結果を求められるものであると考えられているようです。しかし、勉強を目的化するのは、せっかく時間と体力を使って取り組んでいるのに非常にもったいない。その後の人生に良い影響を与えるという長期的な、せめて次のステップである高校で役立つという中期的な視点に立って日々授業に立つよう心掛けています。研究室に在籍していた時期に多くのことを学ばせて頂きました。けれども、その中でもやはり前述した通り、「視野の拡大・縮小」が血肉となって活かされていると実感しています。
そして最後に、研究を通して素晴らしい出会いに感謝しています。私達は研究室発足の2期目にあたりますが、もう少し早く生まれていたり、入学していたりしたら、今の同期・先輩・後輩・高槻先生・南先生には出会うことができず、今の自分は存在しません。
 私の高槻先生の印象は、大学人に多いのかもしれませんが、「仕事」としてではなく、「日常生活」の延長上として日々の授業や研究をされていたというものです。退官されても、所属する場所が変わるだけで、本質的には何も変わらないと思いますが、体に気をつけて、退官後も元気に朗らかに日本の生態学に対して目を光らせて頂きたいと思います。

追伸 中学受験科の国語の授業で、先生の文章が出てきました。驚きと共にヒトと動物の共生のあり方について拙く教えながらも、大学時代のことを懐かしく思いました。
(2010年 麻布大学卒業)
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金華山の院生実習で教員として学んだこと

2015-03-07 22:33:36 | つながり
藤田 剛

 高槻先生が東大に在籍されていた時代には、いろいろなことでお世話になりました。そして、そのあいだに起こった、たくさんのことを思い出します。
 その中でも、ぼくにとっての一番は、大学院生向けの野外実習を金華山島で行った際に、ご一緒してくださったことです。金華山での実習は、秋の中頃、10月か11月の秋にたしか3年間行い、その最初の年、高槻先生はすべての日程を一緒してくださいました。今でもこの5日間は、長く担当してきた実習の中でもとくにたくさんの思い出が詰まった実習のひとつです。
 金華山は、房総でサルを追いかけていた学部生時代から、訪れてみたかった憧れのフィールドでした。シカやサルの個体数や分布のデータが長年にわたって記録されている。しかも、個体ごとの行動の観察も、個体群全体の動きを追跡することもでき、その動物の食べものになる植物の側の情報も同じようにしっかりと蓄積されている。個体レベルから群集まで動物と植物の関係を調べるのに、日本、いや世界でも最高のフィールドのひとつ、といった内容のうわさ話を何度も耳にしていたからです。
 そして、そのフィールドを立ち上げた総元締め(?)の高槻先生と一緒に金華山に入れるのですから、これほど嬉しいことはない、と思ったことを今も覚えています。そして、張り切って、事前に一度下見をしたのですが、そのときに、実習のサポート役を担ってくれた当時修士2年の石黒真理子さん (当時は霜田さん) が、ちょうどぼくが金華山に着いた頃、調査中に頭に怪我をしてしまい、病院へ行くためすぐに本土へとんぼ返りすることになったことも、今となってはよい思い出です。ご存知のとおり、霜田さん無事でしたし、その翌日に金華山へもどったときは、嬉しさ倍増でした(霜田さんは、その人柄もあって、先生と並ぶ実習参加者の人気者になり、うやましかったことも思い出しました)。
 さて、実習本番。実習の最初に、まる1日を使って金華山の山歩きをしました。先頭をきって歩く高槻先生の姿を頼もしく感じたのは確かですが、とくに、踏み固められた林道沿いに生えた小さな芽のようなイネ科の草本をみただけでいとも簡単に種名を教えてくださったことに、本当に驚きました。自分もいつか、こうなりたいと強く思ったのを覚えています。
参加者の中には、天野達也くん (現ケンブリッジ大) や天野麻里さん(当時は武田さん。現モーガンスタンレー)、西原昇悟くん(現保全生態学研究室) がいました。当時の学生たちは、実習期間中に実に豪快に飲んで騒いで、でも一生懸命に実習に参加してくれたと思っています。そんな学生たちのあいだに自然に入って楽しみ、無理をせずに、適当なところで抜けて休むというやり方も、先生から密かに学びました。そして、休むことを考えない学生たちは睡眠不足もあって、だんだんと弱って(?)いったのですが、そんな姿を余裕をもって見ることもできました (参加していた皆さん、もしこれを読んでいたらごめんなさい)。
 実習は、グループに分かれて自分たちでテーマを見つけ、自分たちで方法を考えて調べそれをまとめて発表する、という流れでした。その山場である全グループの発表が終わったあと、ぼくはそれぞれの発表へのコメントを一通りしてから、どのグループも全体的によかったみたいな、ちょっと差し障りのないコメントをしました。しかし、高槻先生はちがっていました。「ぼくは、自分の好みをはっきり言うよ。このグループが面白かったなあ」とお気に入りのグループの着想と結果の面白さを説明されました。このとき、教育というか、自分の意見を人に伝えることとの、本質を教わった気がしました。これは、今もことある度に思い出す、大切なエピソードです。
 そうそう、当時森圏管理に所属していた津田吉晃くんが、はるばる運んできたギターの腕も披露してくれました。そして、打ち上げで先生が、ファックスで送ってもらった楽譜を見ながら、ギターを弾きながら歌ってくださったこともよく覚えています。のちに研究室や専攻のイベントでは恒例になった高槻先生のギターと歌は、この津田くんのギターが始まりだったと記憶しています。そういう意味で、高槻先生の人生に少しだけ潤い(?)を加えるきっかけに関係できたことも、嬉しく思っています(勘違いでしたら、申し訳ありません。内緒にしておいてください…笑)。
 その後の実習でも、辻大和くん(現京都大学)や黒江美紗子さん(現九州大学)、 吉原佑くん(現東北大学)たち、高槻先生門下の院生が頼り甲斐のあるサポートをしてくれました。これも、先生からいただいた間接的な恩恵でした。実習のことは、これくらいにしておきます。
 最後に、先生のギターと歌で、一番うれしかったのは、樋口先生の最終講演のあとのパーティの時だったことをお伝えしたいと思います。たしか、山口由里子さんの本職の歌(これも凄かったですね)のあとに、本当にうれしそうにギターをかかえた高槻先生が登壇して、気の利いたお話で笑いをとってくださったとき、全体の場がすっと和んだことが印象的でした。そして高槻先生の歌に続いてみんなが歌いはじめた瞬間、高槻先生の人間力みたいなものを実感しました。そのときの、幸せな気持ちも、ぼくにとっては大切な思い出のひとつです。
 金華山島を中心に進めて来られた高槻先生のフィールド研究の大きな業績とそれに取り組む先生の後ろ姿は、先生の元を巣立っていった多くの学生や院生たちにとって大きな目標になっていると、思っています。その先生が退官されるのは寂しくないと言えば嘘になりますが、それよりも、これから先生が何をされるのか、その期待の方がずっと大きいことも確かです。
 高槻先生、退官おめでとうございます。
(東京大学大学院農学生命科学研究科)

金華山の実習にギターをもってきている学生をみて、「何を考えているんだ、この馬鹿たれ」と思って叱ってやろうと思っていました。しかしいっしょに山を歩くとなんとなく仲間意識が湧くもので、話を聞くと津田君は音楽の道と研究の道を迷ったほどの才能のもちぬしで、ギターを毎日さわらないと腕も耳も鈍るということでした。それで私も納得して、叱るのはやめましたが、最後の打ち上げのときにそのギターを独占していたのは私でした。その年の学生の忘年会に呼ばれて津田君のミニセッションをして大いに受けました。彼は私がどのコードで初めても耳で聞いてハイポジションで伴奏してくれました。私は歌には「マ」が一番大切だと思っていますが、私が少しテヌート気味に終わって次のフレーズに移るとき、心の中で「このマで初めてくれると理想的なんだけど」と思っても、たいがい微妙にずれるものですが、津田君は本当にぴったしでした。彼とのセッションは実に説明不要の「歌心」が伝わるものでした。「歌は音程ではない、心だぜ!」(高槻)。


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高槻研での想い出 内海有希

2015-03-07 22:28:50 | つながり
富家(内海)有希

 高槻先生、ご退官おめでとうございます。
 私が高槻研に在籍したのは、修士の二年間だけでしたが、高槻先生には大変お世話になりました。
まずは植物の名前など全く知らなかった私に、シカフンだらけの芝生に一緒に這いつくばってくださり、たくさんの草の名前を教えてくださいました。
 それまで山道を歩いても、ただ頂上に着くことを目標に歩き、周りの木や草はせいぜい風景としてしか見ていなかった私でしたが、高槻先生と一緒に歩き、木の名前、草や花の名前を教えてもらうことができ、また名前だけではなくその名前の由来や季節による変化なども話していただけて、全く違った目で周りの植物を見ることができるようになりました。今でも仕事で山に行き先生に教えていただいた草や花に出会うと、懐かしく思います。

金華山の桟橋で. 左から岸、著者、カロリーナ、高槻

 また、実験に使う道具を手に入れられず困っていると、先生自らホームセンターに連れて行ってくださり、道具の一つ一つを一緒に選んでくださり、金華山への配送についての手配まで、本当に何から何まで教えてくださいました。今思うと一人で何も出来なかった自分が恥ずかしいですが、そんな学生にもいやな顔をせず丁寧にご指導くださった高槻先生には感謝の気持ちでいっぱいです。
 そんな先生のお人柄もあってか、高槻研は大変アットホームな研究室でした。先輩方も留学生のみなさんもとてもフレンドリーで、研究の事についてたくさんのアドバイスをくださったのはもちろんのこと、研究を離れても一緒に登山をしたり、誰かの誕生日には材料を買ってきてみんなで料理をしてパーティをしたのもとても楽しい思い出です。
 特に留学生のみなさんが作ってくださった、レストランでは食べられない各国の家庭料理の味は今でも忘れられません。
 そんなパーティの時には高槻先生はよくリコーダーの演奏をしてくださいました。修了の際にはそれぞれの修了生に短歌をプレゼントしてくださったり、研究だけではない豊かな人生を歩まれていることを感じました。
 退官され、研究にまたそれ以外のいろいろな分野に、今後ますます豊かな人生を過ごされることと思います。これからもお元気で、ますますのご活躍をお祈りいたします。
(2001年 東京大学大学院修士課程修了)

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少年の瞳 大津

2015-03-07 22:25:58 | つながり
大津 綾乃

 高槻先生、今まで長い間、野生動物の研究、学生への指導をされてきたことと思います。私はその多くの学生の一人として、麻布大学で高槻先生に出会え、野生動物学研究室で学べましたこと、とても感謝しております。
 高槻先生と初めてお会いしてから8年ほどですが、その中でも特に強い印象を受けたエピソードがあります。それは、2009年のモンゴルでの調査の時のことです。ブルガンというところ(ウランバートルから車で8時間くらい)で協力者のチョロンさんの家にホームステイをしながら訪花昆虫の調査を1週間ほどしておりました。そこは、モンゴルの中でも比較的水が豊富にあり、林が点在し草原にはお花畑が広がり、マルハナバチやハエ、ツリアブやチョウなど多くの昆虫が花々を行き交っている、とても美しいところでした。そこでの調査は、100 mの直線ラインを引き、その線を中心として両側幅1 mの間にどんな昆虫がどんな花を訪れているか写真と共に記録に取っていくというものでした。一日に3度ほど、時間を決めて調査を行い、そのほかの時間には、糞虫トラップを仕掛けるなど他の調査を行ったり、合間の時間には周りを散策したり、地元の方と話しモンゴル語を教えて頂いたりと楽しい時間を過ごしていました。調査の数日目、モンゴルや調査に少しずつ慣れてきた頃、調査も一段落したため家に帰り、調査メンバーと林に近いお花畑を歩いていたときです。いきなり、そばにいた高槻先生が「〇〇だ!」と声をあげ、捕虫網を持ち(ほかの荷物はかなぐり捨て)、猛ダッシュをして30 メートルくらい先で網を激しく一回、体ごと螺旋を描きながら回転して、何かを捕まえました。何拍か遅れて先生のもとへ行くと、とてもキラキラとした瞳で捕まえた昆虫を見せて下さいました。その蝶は小さな頃からのあこがれだったとのこと。
 その先生の姿は私にとって強い印象となって残っていたのですが、なぜずっと忘れられないのか、当時はよくわかりませんでした。今回、先生の御退官にあたって文章を書くことになり、もう一度思い出して、その理由について考えてみようと思いました。そうして考えてみると、その時の先生の姿に、ただそのチョウだけを純粋に追いかける、少年の頃の先生を見たような気がしたのだと気付きました。私も小学生の頃は、いろいろな生き物を実際に見たり、触ったり、生き物とのつながりを持っていたのに、中学、高校と少しずつ距離ができ、大学で生き物について学んでいくうちに、生き物との直接的なつながりを疎かにしてしまっていたのかもしれない、と思いました。先生がこんなにも自然や生き物に対して、純粋に向き合って研究している、ということを無意識のうちに感じ取り、そこに強い印象を覚えたのかもしれません。
 常に、生き物に純粋に向き合う高槻先生のもとで研究ができたこと、その姿勢を学べた事、本当に嬉しく幸せに思います。麻布大の教授を退かれても、いつまでもキラキラとした瞳で自然と純粋に向き合う、そんな先生の姿を思い描き、これからの更なるご活躍をお祈りしております。
(2013年 麻布大学大学院修士課程修了)


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東京大学におけるタカツキ・セイキの生態

2015-03-07 22:24:27 | つながり
辻 大和

 筆者は東京大学総合研究博物館において、タカツキ・セイキ(ヒト成獣♂、以下タカツキと略す)を間近で観察する機会に恵まれ、2000年から2007年にかけての8年間、彼の行動データを収集した。これらの情報は、大学人としての彼の軌跡をたどる上で貴重な知見と考えられ、また彼を対象に調査を実施しようとする読者にとって有益と思われるので、以下に報告したい。

 基礎生態:タカツキは11時過ぎに研究室に出現し、業務をこなした後、19時ちょうどに帰宅するという習性をもっている。季節変化および経年変化はないようである。休日の生態は長らく不明だったが、ここ数年ブログにプライベート写真が公開され、ある程度の推測が可能となった。研究室では常に机に向かっていたが、飲み会の前に部屋でこっそりギターを練習していたという目撃情報もある。カリントウを好むらしい。還暦を過ぎたおじさんだがニンジンが嫌い。収集癖が強く、とくに頭骨をずらっと並べるのが好き。筆まめである。達筆なので、学生向けのコメントの解読には特殊スキルを必要とする。女子学生のかくし撮りが趣味。お茶を飲んだカップを机に置きっぱなしにして出張し…以下略。
 教育者としてのタカツキ:勘違いや忘れ物の頻度は同世代の教員に比べ有意に高く(p < 0.001)、研究室のマネジメントには同僚ないし学生のフォローが不可欠となる。当時の研究室ではどちらかというと無愛想であり、冗談が通じない(ように見えた)ため、新入生のうちは、居心地の悪さを感じたものだ。研究指導は厳しく、研究計画の根本にかかわる『つうこんのいちげき』を繰り出す。その際の言い方がきついので、筆者はタカツキへの不信感を募らせ、不平をこぼしてばかりの時期があった。このような教育・指導が彼なりの優しさだとわかったのは、大学院も博士課程になってからのことだ。筆者が部屋のドアをノックしたときに不機嫌な顔をしたこととか、方向性に行き詰まったときに突き放したことは一度もなかったことに気づいた。フィールド調査においても、日中こそ厳しい叱責が飛ぶが、夜のミーティングでは、その日に撮影した調査風景の写真の上映会を行って、参加者の雰囲気を和ませようという、さりげない心配りをしていた。グサッとくるコメントは、長い目で見れば的確で、かつ本質をついたものである場合が多かった。教育者としてのタカツキについてもう一点、特筆したいのは、情報処理の圧倒的なスピードである。メールに対する返信は5分以内、論文原稿のコメントはだいたい3日もあれば送り返してくれた。緊張感のあるやりとりを通じて、論理的な思考法を叩き込んでもらった。大学に職を得て、自らが学生の提出するレポートや投稿論文の原稿の手直しを引き受ける立場になったとき、筆者はその凄さとありがたみを理解した。
 哺乳類研究者としてのタカツキ:研究に対して常にストイックである。「長く続けることで見えてくるものがある」「自然と謙虚に向き合う」「科学の知識は多くの人が共有するもの」などの、ぶれない信念をもっており、また実践している。たとえ学生が相手でも、まず向こうの意見を聞き、フェアに議論しようとする、健全な科学的精神をもつ人である。学術論文だけでなく、一般向けの本も書く。文章は簡潔明瞭で、ところどころに優しさやユーモアが感じられ、読了感が心地よい。タカツキの著書を読んで研究の道を志した学生がいるというのも、うなずける。しばしば若手への苦言を呈するおじさんだが、それも含めて、問題を提起する勇気がある。スリランカの津波孤児支援のための「ぞうさん基金」、震災で傷ついた東北の人々の心を励ますための「がんばれナラの木」活動に代表されるように、口だけではなく自らアクションを起こせる研究者だ。第一級の研究者としての近寄りがたさと、周りがついついサポートしたくなる親しみやすさ、という二面性が、タカツキの特徴であり、魅力なのだと思う。
 * * * *
 高槻先生、30年を超える長い教員生活、どうもお疲れ様でした。今後は、ご自身の興味のおもむくまま、今まで以上に研究生活を楽しんで下さい。研究対象に正面から向き合う精神と、周囲に対する優しさを、私も受け継いでいけたら、と思います。
(2007年 東京大学大学院博士課程修了)</font>
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高槻研究室での3年間 霜田真理子

2015-03-07 22:21:40 | つながり
石黒(霜田)真理子

 大学4年生から修士を卒業するまでの3年間を高槻研究室で過ごさせていただきましました。
研究のテーマは、卒業論文ではニホンジカの採食群落の季節変化について、修士論文ではメスジカの授乳の負担が採食行動に及ぼす影響についてというものでした。東京と金華山島を行き来したあの3年間から、気が付けばもう15年!思い返してみると、沢山の経験をさせていただいた3年間でした。
 高槻先生に初めてお会いしたのは大学3年生の終わり。研究室に入ることが決まり、ご挨拶に行った時です。当時の私は「アフリカに行って、ゾウとかライオンとか、何か大きい動物を観察したい!」という夢を持っていました。生態学の知識はゼロ、フィールドワークがどんなものかも全く知らずに。そんな私に先生は、「スリランカでゾウを研究している留学生もいるし、チャンスがあれば可能かもしれないよ。まあ、まずはニホンジカがいいと思うよ。」とおっしゃいました。内心「シカ、ちょっと地味だな…。」などと思ったのを覚えています。けれども、ここから貴重な経験がつまった3年間が始まったのです。

<金華山でのフィールドワーク>
 高槻研究室での3年間で一番印象に残っているのは、何と言っても金華山でのフィールドワークです。ニホンジカの観察のため、春・夏・秋・冬の年4回、それぞれ2、3週間ずつを金華山で過ごしました。フィールドワークも山小屋での生活も、何もかもが初めてで、ゼロからのスタートだった私は、色々な方にお世話になり、助けていただきました。
調査の間は山小屋に宿泊したのですが、そこで一緒になった方々には、本当に色々なことを教わりました。調査対象も所属も経歴もいろいろでしたが、楽しい事つらい事を共有し、まさに同じ釜の飯を食べ、狭い山小屋でワイワイと過ごす時間は、貴重で濃密な時間でした。
 そして、金華山での一番の師匠は、何と言ってもシカでした。長い時間シカを眺めて過ごす中で、色々なことを感じました。それはここには書ききれませんが、特に印象に残っている出来事があります。初めての調査の時の事です。調査方法を一通り教えてくれた高槻先生が東京に帰られ、あとは一人でやるしかない!と、少々心細く思いつつ私は一人でシカを探していました。けれども、下手な山歩きでは歩いても歩いてもシカを見つけられず、見つけてもすぐ逃げられるの繰り返し。あきらめて、積もった落ち葉に日が当たる場所を見つけ、ゴロンと横になりました。しばらくすると、ざくざくと落ち葉を踏む音が聞こえてきました。見ると1頭の立派なシカが、こちらをチラチラ見ながら、落ち葉の下を鼻先で探りながら近づいてきました。そして、私からたった5mほどのところに座り、反芻を始めたのです。今思えば大した事ではないのですが、その時の私には衝撃でした。必死で追いかけた時は逃げたくせに!こんなに近くに座っちゃうの!?
 「観察するぞ!」などと意気込んでいるのは私だけで、シカは全く違う世界を淡々と生きているのだ、ちょっとその様子を見せてもらえばいいのだ、と漠然と感じ余計な力が抜けました。冬の柔らかい日差しの下、シカと並んで休憩するのは何とも言えず気持ちがよく、「大変でも頑張れるかも…。」と思えた出来事でした。

<東京の研究室で>
 金華山から東京の研究室へ戻るとデスクワークが待っています。
東京での思い出と言えば、高槻先生の厳しい原稿チェックです。文章の内容や構成はもちろん、句読点の位置から図表の色使いまで、返された原稿にはいつもびっしりと先生の書き込みがされていたのを覚えています。この経験は就職してから非常に役立ちました。伝えたい事を自分の中ではっきりさせ、わかりやすいよう順を追って説明するという基本的な事を、しっかりと教えていただきました。先生はお忙しい時でも、どんな原稿も丁寧に読んで下さり、根気強く指導してくださいました。社会に出てみると、そのように指導してくれる人はもちろんおらず、とても貴重な経験だったと思います。きっとこの文章にも先生の鉛筆書きが入ることでしょう…。
 そして、もう一つ高槻研究室で学び社会に出て役立ったことは、人とのコミュニケーションが大切だということです。私の学生部屋はいくつかの研究室の学生が共同で使っていました。そのため、違う分野の学生も交えて、シカ肉パーティーやカレーパーティーをしたり近くの居酒屋へ行ったりし、そこで色々なことを話しました。それぞれが苦労や悩みを持ちつつ研究に取り組んでおり自分も励まされました。先輩方はいつでも相談に乗ってくれ一緒に悩んでくれました。積極的にコミュニケーションを、などと考えなくても自然とできていたことですが、社会に出て仕事に追われる毎日を過ごしていると、ついつい他人無関心になり、黙々と自分の仕事をしていると気付き、これではいけないと思うことがよくあります。

<最後に>
 今回この文章を書くにあたり、高槻研究室での事を色々思い出しました。修士を終えて就職する時、「研究ではない道に進むことになったが、ここで学んだことを忘れないで、新しい場所で10年間は頑張ってみよう」と思ったのを覚えています。気が付けばもう15年。今あの時の気持ちを忘れず生活できているかと思うとドキッとしてしまいます。私は仕事の忙しさに追われすぎていないか。気持ちの余裕がなくなっていないか。今回はそのことを考えるいい機会になりました。
最後に、私には2人の息子がいます。二人とも生き物が大好きです。特に長男は、「2泊3日ひたすら虫採りキャンプ!」などというスパルタ(?)キャンプに参加したり、「サメの名前だけでしりとりしよう!」と言ったりする少々オタク系の少年です。将来息子が研究者になり、アフリカへの調査旅行へついて行く日が来るかも…、などと密かに思っている私です。
(2002年 東京大学大学院修士課程修了)

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高槻先生から頂いた野外研究というプレゼント 五十嵐

2015-03-07 22:19:57 | つながり
五十嵐 知行

 高校生の時に、アフリカで獣医として働きたいという夢を持ち、アメリカの大学に留学することを決めました。アメリカでは、ロッキー山脈のふもとにある大学に入学し、獣医学部入学を目指しました。何とか、獣医学部に入学することはできましたが、都会の大学に移り、今度は、アメリカの東海岸で勉強することになりました。環境の変化についていけずに、アメリカでは、獣医師になる目標を途中で断念してしまいました。帰国後、何をやりたいかを考えていた時に、アメリカで経験したロッキー山脈での野外調査の手伝いや大学での野外調査の楽しさが忘れられずに、野生動物の野外調査をやりたいと考え、高槻先生のいる野生動物学研究室を受験することに決めました。その当時は、野生動物の研究を出来ると考えただけで嬉しくなりました。高槻先生はいろいろなことを教えて下さりました。共同で野外調査をすることや関係機関から許可をもらうことなどから人とのかかわりの大切さや、野外研究からは、地味な作業が大切なことも学びました。助成金をもらい、自立して、自分で研究をやるということも学びました。いろいろな機会を与えて下さった高槻先生ですが、特に印象に残っていることがあります。
 それは、大学院入試の面接の時の、高槻先生の目の輝きでした。質問をしている時に、身を乗り出して、目がキラキラ輝いているように見えました。少し驚いてしまうほどでしたが、自分が面白いと思ったことをやったことがある人が持つような目の輝きだったのかなと今思います。大学院の研究生活では、原始林の中に身を置き、研究することができ、太古の自然や動物の息づかいを感じることができました。今、野生動物が直面している大きな問題は、もしかしたら、人間がいなかったら、引き起こされていなかったかもしれないと考えると、人間の責任を感じずにはいられません。自然保護の考えを体で学んだ大学院生活でした。現在では、野生動物とは縁のない業種で働いていますが、休みの日に地域の環境保護のボランティアグループで、川の調査のお手伝いをしたり、趣味として、野鳥観察をしたりしています。そんな細々とした野生動物との関わりを続けている生活で、大学院での野外研究は、今も輝いています。
(2001年 東京大学大学院修士課程修了)
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Happy Retirement Sensei!

2015-03-07 22:15:44 | つながり
Udayani Rose Weerasinghe

I am so sorry that I cannot be at your retirement party in person. I would really love to be able to attend, but it is not possible at this point in time. It’s my pleasure and honor to write a few things to express my deep gratitude to you and your family and to say how much I love you all.
It was 1996, I still remember the time I got a letter from you telling that I was accepted as a Monbusho scholarship student to your laboratory, and also how you welcomed me as a Ph.D student to your laboratory. At the first meeting, I realized how kind and gentle a Professor you are. From then until we left from Japan you always opened your office door for us whenever we needed your advice, help or wanted to discuss something with you. Your mentorship, friendship, trust, and faith in me made all the difference in my research life and life in Japan. Not only did I learn about different analysis, research activities, temperate plants and animals, but also learned Japanese culture, traditions, useful things for daily life and uncountable things from you. Thank you for your understanding and being not only a supervisor for me, but also a close friend and a family member. You gave unstintingly
of your time and energy for directing my Ph.D research work at Wasgomuwa National Park in Sri Lanka. Both
Wasgomuwa and Post-Doctoral study field at Nakoudojima, Bonin Islands were hard and inconvenient but
memorable researches in which I never would have succeeded without your great support. All the work we did together in Sri Lanka at Wasgomuwa National Park (with lots of danger and wild animals), Sinharaja world heritage site (in one of the world few remaining undisturbed rain forests with giant trees) and the feeding trial of the
elephant “Bande” at Kandy were hard, but successful. I really appreciated your visits to Sri Lanka to supervise and help me and Palitha during the period when Sri Lanka was recognized as being an unsafe place to visit due to
terrorist activities.
I never thought that I would meet such a rare teacher with great research experience with both plants and
animal research, and more than that teacher with great humour. Thank you very much for your efforts to create a nice, joyful and peaceful laboratory environment. Can you remember lunch times in your room, cooking
different foods, parties, discussions and field visits together with Hashimoto-san, Ueda-san, Jiang-san, Ito-san and all other colleagues? I always enjoyed being in your laboratory with all the colleagues.
Many of the lessons you taught me, about clarity of thought and expression, I now use in my working place,
where I am mainly dealing with urban catchments-environment conservation.
Me and my family never forget from my first week in Japan until we leave how you, Tomoko-san (I missed her
very…..much), Mikie-san, Yumiko-san and Chieko-san (Nangi) treated us kindly and were always with us in
both happy and sad times. I thank you and your family for your kind loving friendship and great support to me
during and after both pregnancies.
Dear Sensei, thank you very much for your time and dedication to the field of wildlife ecology/conservation for many years. Thank you very much for your continuous guidance, encouragement, valuable advice, kind direction and help of all kind. There are no words to thank you sufficiently. We wish to see you again in Perth, Sri Lanka
or in Japan. You, Tomoko-san and family are welcome here at any time. Good luck for you in the future, for your health and all your work! I wish you a happy fulfilling retirement!
(2000年 東京大学大学院博士課程修了)


先生、退職おめでとうございます
ウダヤニ・ローズ・ウェーラシンハ

 先生の退職記念パーティーに出られなくてほんとうにすみません。ぜひ出たかったのですが、時間的に無理なので失礼します。先生とご家族に、お礼を表すために少し書かせてもらいたいと思います。
 1996年に先生から文部省の奨学生に選ばれたので、研究室に博士課程の学生として受け入れたいというお便りをいただいたのを今でも覚えています。初めてお会いしたとき、先生が親切でやさしい教授であることがわかりました。そのときから日本を去るまでのあいだ、アドバイスをもらいたいときや先生が話をしたいときはいつでも部屋のドアを開けていてくださいました。先生の指導力、友情、信頼、誠実さのおかげで、私の研究生活と日本での生活はまったく違うものになりました。私は分析法、研究活動、温帯の動植物を学んだだけでなく、日本の文化、伝統、日常生活で必要なものなど数え切れないものを先生から学びました。私を理解してくださり、指導者であるだけでなく、親友として、家族のようでいてくださってありがとうございます。学位研究のスリランカのワスガモワ国立公園とポスドクでの小笠原媒島での研究のために時間とエネルギーを割いてくださいました。野外調査はきびしく、不便なものでしたが、忘れがたいもので、先生の支援なしには私は成功しなかったと思います。ワスガモワ(たくさんの危険もありました)で、シンハラージャ(巨樹がある世界遺産の原生林)で、キャンディで「バンデ」という名前のゾウを使って採食実験も、すべて一緒にし、うまくいきました。当時テロリストがいて危険とされていたスリランカに、私と夫のパリタのために来てくださったことを感謝しています。
 私は動物も植物も研究経験があり、それ以上にユーモアのある先生に会えるなんて思ってもいませんでした。研究室をすてきえ、たのしく、のどかな環境になるようにしてください、本当にありがとうございました。橋下さん、上田さん、ジャンさん、伊藤さんたちと先生の部屋でお料理を作り、パーティーをし、議論をしたこと、調査に行ったことを覚えてますか?みなさんといっしょあの研究室にいたのはいつも楽しかったです。
 先生は考えをはっきりさせなさいと教えてくださいましたが、今年の水系環境保全を扱う職場でそれが役立っています。
 私も家族も日本に行った最初の秋から日本を去るまで、知子さん(とても会いたいです)、美樹枝さん、夕美子さん、千映子さんが雨の日も風の日も支えてくださいました。私が妊娠し、出産したときにお世話くださいました。
 先生、長いあいだ野生動物の生態学や保全学に尽力されたことを感謝します。常に導き、元気付け、アドバイスをいただき、方向づけをしていただきました。お礼のことばもみつかりません。(いま私たちがいる)パース、スリランカ、日本どこでもいいですが、会いたいです。いつでもいらしてください。これからもお元気でお過ごし下さい。ご退職おめでとうございます。(高槻訳)

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アファンの森の木の下で~ニコルと松木と高槻先生

2015-03-07 22:02:15 | つながり
野口 理佐子

 「学者の言うことなんて、オレはあてにしねえ!」と、ありとあらゆる名のある方々を蹴散らしてきたアファンの森の松木に「あの先生は、他の学者とは違うな」と言わせたのが高槻成紀先生です。
 長野県黒姫にあるアファンの森に高槻先生が初めてお越しいただいたのは、2009年の初夏でした。作家C•Wニコルが日本の自然の崩壊を憂い、放置された里山を1986年から自ら買い取り、「日本本来の美しい森を取り戻したい」という思いを実践している場所です。その思いを実際にカタチにした松木は、15の時から山に籠もり、炭焼きをして生計を立ててきました。お米とお味噌だけを持って、たった一人で数ヶ月山に籠もり木を伐り、炭を焼くという暮らしの中から、自然と対峙して“生きる”ために知恵を体得してきた強者です。松木の好奇心は人一倍強く、飽く無き探究心で自然のスゴさを見つめてきました。そんな松木が一番嫌うのが、自分の専門分野のことしか興味を持たない研究者でした。いわゆる論文を描くためだけの研究。「それが何の役に立つんだ」松木はいつも研究者にその問を投げかけていました。
 ところが高槻先生は、森に入ると少年のように心を踊らせながら目を輝かせ、植物、昆虫、動物すべてに興味と敬愛の意を注ぎ、地面を這いつくばっているではありませんか! 松木は、直感的に高槻先生の凄さを見抜いたのでしょう。初対面で意気投合し、ある意味ライバル心のようなものも芽生え、その後、高槻研究室としてアファンの森に定期的に調査にこられてから、二人の押し問答は、果てしなく意義深い生態学のお話に発展していたと思われます。
 言い換えれば、松木のような偏屈で古くさく人の話を聞かない、研究者からすれば大変厄介な存在である人物であっても、敬愛する野生動物の1種のように興味を持って尊敬し愛してくださる、それこそ高槻先生が単なる学者ではない所以だと思います。

 C•Wニコルが目指していたアファンの森づくりは、森林生態系の再生でした。人のためではなく、あらゆる生き物のための森づくり。そのために財団法人を設立してから、科学的な視点で調査をすることが、元来調査マンであったニコルからの命題でした。松木が施してきた伝統的な森林整備の手法が、科学的に森の生態系にどのように寄与してきたのかー。とは言え、資金が潤沢にあるわけでもなく、興味を抱いて下さった生物調査者の方々に、種のリストを出してもらうという調査に留まっているような現状でした。ニコルをはじめとするアファンの森財団が知りたいのは、森林整備と森の生態系の回復の関係、「命の環」が取り戻せているかどうかということ。
 そんな悩みに直面していた時、高槻先生が救世主の如く現れてくださいました。もともとニコルとは、30年くらい前にシカに関する番組を一緒に作られたというご縁が引き寄せてくれたのでしょうか、高槻先生の研究テーマでもある「リンク」は、まさしく「命の環」。生きものと生きものの繋がりや関係を一つ一つ紐解く作業を熱心な研究室の学生たちと共に取り組んでくださいました。時には一つの花に訪問する昆虫を永遠に待っていたり、時には木の上の巣箱を覗いたり、地面に落ちているクルミを誰が食べているのかを調べたり……。その姿はまるで森の妖精と会話をしているかのようでした。
 まさに“森との対話”。私達アファンの森財団にとって最も必要な“森と対話する”ということを体現しながら、科学的な視点や手法を教えていただきました。その功績は将来にわたり、アファンの森財団にとって非常に意味のある大きな布石となりえます。
 高槻先生は、生物と生物のリンクについて、人と生物が対話をするということはどういうことなのか、そしてその対話の仕方も教えてくださり、尚かつ人と人のリンクも繋いでくださいました。それは、アファンの森財団と麻布大学の学術交流協定というカタチあるものとして実を結んでいます。忘れもしない2010年3月、アファンと学術交流協定を締結式に併せて行ったシンポジウムでは、麻布大学に200名の方がお越しになり、ニコル、松木、高槻先生の絶妙なトークは、抱腹絶倒の笑いあり、涙あり、感動がありと参加者の方から絶賛されました。
 また、ニコルが日頃「机で仕事をするのではなくフィールドで仕事をしろ」と現場へ出る大切さを訴えていたのと同様に、高槻先生は何より学生や研究者がフィールドに出て学ぶことの必要性をアファンの森で実践されました。森で、みるみる成長していく学生たちを見ていると、次の世代に繋ぐというリンクも創られていると実感します。
 世代の繋がりという点では、社会と自然の繋がりも文化的側面からもその重要性を提唱されました。自然の情景から生まれた叙情歌「ふるさと」や「春の小川」などから、変貌した日本社会が失ったものの大きさを書籍として出版され、世に残すというカタチで繋げていただきました。

 高槻先生は、生物―人―組織―社会―自然―文化―世代すべての繋がりを取り戻す、ということの重要性を肌で感じ、無意識に突き動かされていらっしゃるかのように拝見します。
そのことが、どれだけこの日本の状況に必要なことか…。

 悠久に流れる時の中で、C•Wニコルと松木信義が出会い、そこに科学的な視点を持った高槻成紀先生に加わっていただいたこと。この奇跡の三人が、アファンの森の木の下で、共にこの森の行く末を考え、ここから日本の未来に想いを馳せているという瞬間に立ち会えたこと、その喜びは計り知れません。
 この奇跡の三人の成果は、100年後200年後のアファンの森が、自ら後世に語ってくれることでしょう。
高槻先生、これからも益々アファンの森から様々なリンクの発信をお願い致します。
(一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団)

 松木さんは筋金入りの「山の人」です。すぐれたハンターによくあるように、観察眼が鋭く、合理的に考えます。ただ、それだけでなく相当ヘソが曲がっています。あらゆる生き物を愛しているくせに、「食えない草などあってもしょうがねえ」という表現をします。いろいろ体験談をして「で、おらがどうしたと思う?」とくるので、私が「うーむ、さあー」と考えていると、「そんなこともわからねえのか」と遠慮がありません。私が困っているとニヤニヤしながら、話が核心に達する時は眼光が鋭くなります。最初にアファンに行った年の春から夏にかけて、私がいくつかの植物を見つけて、それらは松木さんが知らなかったものでした。その辺りからどことなく雰囲気が違ってきて「お茶でも飲んで行くか?」と「松木小屋」に誘ってくれるようになりました。若い頃の話を聞くのが楽しみでした。

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Retirement doesn’t mean the end of your active life.

2015-03-07 22:01:12 | つながり

Retirement doesn’t mean the end of your active life. It just signifies another chapter and journey. Enjoy it !

Palitha Jayasekara

I am struggling to start to write this, I am sorry, I could not start. Want to have a brake, mmm what should I
do, have a cigarette? , no I don't smoke, then have a coffee, mmm good idea. Ok let me have a coffee to collect my mind to write this. I am going to the back yard to drink my coffee, it is too hot and it's steam covers the
lenses of my glasses.
I am walking place call Karangini National park, 2000km north of Perth, in Pilbara bio region. My colleagues
are nowhere near me, Vehicle is two kilo meters away from me. I am carrying four litres of water in my back
pack, my two-way radio is attached to my back pack. GPS in one hand and my plant collecting bag and data sheet in the other. So hot here, not many big trees but lots of grasses. From time to time Kangaroos come and greet me and hop away, on one occasion I got stuck to a giant spider web, the spider looked at me to understand who this giant animal might be, stuck to his web. I can see caves, wanted to have a quick look !! shhhh aboragene
paintings!!! in some places very strange feelings, I could not work here, someone watching me, who? Nobody is close to me, but I feel someone is watching, Ok I know this area must be a grave yard of aborigines, there are a
lot of spirits surrounding me and asking me to leave the place. OK don't worry I am going. However it seems all are happy, because I am trying to save their habitats from mining. Trying hard to find rare plants, and animal
habitats, as many as possible, to persuade the government not to mine this area. I am so tired, I want to have a brake, sitting in the shade. Wanted to have a drink, but water got warm and don't fancy drinking it, but I have to drink otherwise I will die of dehydration. The beautiful landscape take my tiredness away, I can see rolling hills and above that beautiful sky. When I am looking at the sky, I suddenly remember our isolated Japanese soldier
(Igota san) and min min (Sato san). Why I remember them, it is strange, OK I know now, I remembered Igota
san's presentation on deer migration, and I remembered min mins red colour truck got bogged in the forest
because our wagon was bogged on the way to the field. Oh, I can’t stop, every one in the Takatsuki lab to come to mind one by one, oh my God, my face fills with much of laughter and is also full of sadness. I didn't see them for the last eight years. Really!! But I didn't realize, because we remembered them a lot. I am asking confused
question, have eight years passed without seeing them? I don't know when I will see them again then what is the point to keep them in my heart, leave them. I am asking myself again, can you leave them? I am having sad
again, no no I couldn't. We were good friends and a kind of family. What makes us to so close? Is it a difficult
question to answer… No it is because of Prof Takatsuki or our sensei’s that attitude makes us so close. He led
the way and we followed. He always wanted to have a good relationship with his students and this inspired us
greatly. When someone was in trouble he helped by leaving his work, and inside the lab, when someone is got
stuck, every one helped because we were a tight unit.
Sometimes our friends asked what makes your laboratory so friendly. My answer to them is, my Prof is so
friendly and he stimulates everyone in the lab.
Now I can remember many things about him. I first met him in Sri Lanka back in 1997. From that day until June 2008 we had a good time. He is not only my Prof, but some time he acted as elder brother or father figure. Sensei is behind me through all the difficult as well as happy times. Thank you very much for educating me academically and personally.
Life has moved on and we all selected different paths, we have children and now our priority is to give them
the best education. Therefore it is difficult to keep in touch through social or other media as frequently, as we
would wish however, even if we didn't meet you or our colleagues for the last eight years we still remembered
all with deep gratitude. Why?? The answer is simple, it is because of you, it is not because of Prof Takatsuki. It is because of you sensei!! Your presence, your guidance and your supervision inspire us to do better. A Sensei like you is simply irreplaceable. No one can ever replace your position in my heart.

Happy Retirement for you!!!
(2001年 岐阜大学大学院博士課程修了)


引退は活動の終わりではなく、人生の第2の章であり旅ですよ、楽しんでください

パリタ・ジャヤセカラ


 どう書き始めたものか、すみませんが、始められません。一服して、ウーム、タバコでも吸うかな。いや、私はタバコは吸わないのだ、コーヒーか、そいつはいい。そうだ、そうして考えをまとめてから書こう。裏に出てコーヒーを飲もうとするが、暑くて、湿気でメガネが曇ってしまう。
 私はカランギニ国立公園というパースから2000kmのピルバラ生物保護区を歩いている。誰もおらず、車は2km離れたところにしかない。4リットルの水を背負い、ラジオをバッグにつけている。片手にGPS、もう片手には植物採集バッグとデータシート。ひどい暑さだ。木はまばらで草が多い。ときおり、カンガルーがやってきて、私にあいさつをしては、立ち去る。ときどき、巨大なクモの巣にとらえられるが、そのクモは「この大きな動物はなにものだ」と私を見ている。洞窟が見えるので、ちょっと覗きたい‼︎シーッ、ところどころにアボリジニーの絵画がある!妙な気分だ。誰か見ているみたいで、仕事にはならない。誰だ?そばには誰もいない。でも誰かが見ているような気がする。ああ、ここはアボリジニーの墓地なんだ。魂がまわりにたくさんあって、ここにいるなと言っているような気がする。わかった、行くよ。でも、私はここが鉱山開発されるのから守るので、すべてはハッピーのようだ。鉱山開発しないよう政府を説得するために、珍しい植物や動物の生息地をできるだけ多くみつけよう。
 すごく疲れたので一休みして日陰で休みたい。ドリンクが飲みたいが、水はあったまっていて飲む気がしない。でも飲まなきゃ脱水症になってしまう。
 すばらしい景色が疲れを取り去ってくれる。波打つ丘とその上の美しい空。その空をみていたら、突然日本兵(伊吾田さん*)とミンミン(佐藤さん)のことを思い出した。なんで思い出したんだ?変じゃないか。そうだ、私は伊吾田さんのシカの移動についての研究発表を思い出したのだ。それにミンミンの赤いトラックが林でスタックしたのを。というのも私たちのワゴンもスタックしたから。
 あれ?止まらない。高槻研の面々がみんな思い出される。オーマイゴッド!ゲラゲラ笑いたくなり、同時に悲しくもなった。8年間も会っていない。そうなのだ。でもそうは思っていなかった。みんなのことをたくさん覚えているもの。
あれ、なんだかよくわからないことを自問している。8年も会わないでいただって?今度いつ会えるかなあ。どうすれば忘れられないでいるかなあ。自問する、忘れられるかい?また悲しくなる。そんなことできやしない。我々は親友だ、家族みたいなもんだ。
 なんであんなに仲良くなれたんだ?むすかしい質問かなあ。いや、それは高槻先生の姿勢が私たちを仲良くさせてくれたんだ。先生が導いてくれ、私たちは従った。先生は学生によい関係をもってほしいと思っておられたから、私たちは力をもらった。誰かが困ったら先生は自分の仕事はやめて助けてくださったし、研究室でだれかが行き詰まったら、みんなが助けた。がっちりまとまっていたもの。
 別の留学生に、君の研究室はなんでそう仲良しなのかと訊かれた。私は答えた。先生がフレンドリーで室生を刺激してくれるからと。
 
 いま先生のことをいろいろ思い出す。先生に初めて会ったのは1997年のスリランカだった。その日から2007年の6月まで、楽しい時間を過ごした。先生は教授であるだけでなく、ときに兄貴のようだったり、父のようでもあった。センセイはいいときだけでなく、つらいときも、いつも私の後ろにいてくれる。教育についても、研究についても、個人的にも感謝しています。
 人生は進み、私たちは異なる道を選び、子供もいるので、よい教育をさせたいと思います。だから思ったようには連絡をとったりはできず、8年も先生にも仲間にも会っていませんが、とても感謝しながら覚えています。どうしてかって?簡単です、先生のおかげです。タカツキキョウジュだからではないですよ。あなただからです!あなたの存在、導き、指導が私たちをよくふるまうよう力づけてくれるんです。あなたのようなセンセイはほかにいません。私の心の中であなたの位置の代わりになれる人はいません。
退職おめでとうございます!

* パリタさんはローズさん(U.R. Weerasinghe)さんの夫君で、岐阜大学大学院でスリランカ熱帯雨林の動物による種子散布の研究をおこないました。文中に出て来る伊吾田氏は現在酪農学園准教授で、シカの狩猟についての研究をしています。坊主頭だったので、パリタさんは日本兵みたいだといっていました。佐藤喜和氏も現在酪農学園准教授で、ヒグマの研究をしています。(高槻)


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“Deer” sensei

2015-03-07 21:57:15 | つながり
Carolina Galindez Silva

  How to start writing about so many memories?
  When I think about my time in Japan, not only doing my Master’s but living there, lots of great things come to my mind. And I think that’s the beauty of it, that it wasn’t just studying, it was living the real Japanese style of life. This made me feel very lucky because not many foreign students had that opportunity.
  Almost as soon as I landed in Japan, I went to Hokkaido! An amazing trip that was! I remember sitting at the top of a mountain looking at the trees dressed in beautiful reds and greens. It was Autumn, so pretty! I also visited Wakayama and other places. Takatsuki-sensei, you were always thoughtful about us getting to know your country. You opened the door, not only of your office, but also your home and your heart. That is something that I will always be grateful for. And your family, oh your family! So lovely! They were so warm to me, they let me in.
I was very lucky to be part an amazing group of students. One thing that I value about the Japanese culture is the camaraderie; everyone helped each other at all times. And we had so much fun together! We could always count on each other. Japan is a great country, and you are a very good ambassador of its culture.
  Some moments that come to my mind as I write (not in chronological order at all) are:
• When we played the flute, and I played the flute and you the guitar (at a party in the lab).
• In one of the field trips (to Wakayama perhaps), when we woke up each morning we whistled “Top of the world” by The Carpenters, it was a sign that we were awake and it was time to get up. I remember I smiled every time. It was a great way to get out of the futon. I actually bought the cd in a second-hand shop after that.
• When you realised that I could speak Japanese. We always communicated in English so you couldn’t notice that I was learning my way through the language. One day, in a completely different scenario in the field, I said “toriaezu” and you were so surprised that you had to tell everyone around about it. I felt shy, but in a good way.
• On Kinkazan singing and dancing (me) to La Bamba. You played the guitar as well.
• “Takadanobaba, Takadanobaba desu”.
• When I first met your family, we had cherry tomatoes as part of dinner and one of mine jumped across the table when I tried to grab it with the chopsticks. That was a bit of an embarrassing moment that then I could laugh about.
• You telling other students to call to my home phone while I was away so they could hear my message on the answering machine in Japanese and in Spanish, you always liked the sound of Venezuelan Spanish, you said it was musical.
• Outside Starbucks when I was about to leave Japan. It was very hard to say goodbye.
You were not the conventional Japanese supervisor in the sense that you didn’t keep a distance and hierarchy with your students. I always felt fortunate that you liked having lunch with us and enjoyed being around people of so many different cultures. One thing that I didn’t get you to do was to dance with me ha ha. It would have been awesome. We still have time though (-:
You have always been supportive. You were there to discuss topics related to the thesis and to any other things as well. You made sure I was fine. You cared about me and my family; that meant a lot to me. For example, you always asked if everyone back home was doing well. And when my mum and sister went to visit, you couldn’t wait to meet them. I thought that was very sweet. You arranged a visit to a park (can’t remember the name of the place); they were sooo jet lagged, but that didn’t stop them from having a great time.
As a supervisor you were marvelous! And even better than as a supervisor you were and still are as a friend. You’re a very kind person with a great heart. I love that you’re a romantic, I feel connected because I’m one too. It’s been wonderful that we have kept in touch for almost fourteen years now since I left Japan. I wish you a very happy retirement and I hope we can meet again sometime in the future.
A warm Venezuelan hug from me to you (-:
Love, Caro
(2001年 東京大学大学院修士課程修了)

「Deer」 センセイ
カロリーナ・ガリンデス・シルバ
 あんなにたくさんの思い出についてどう書き始めようかな。
 日本での時間のことを考えると、修士研究だけでなく、生活のこと、たくさんのことが思い出されます。そしてあれは美しいもの、研究だけでなく、まさに日本式の生活をしたことだったのだと思います。私は幸運だったと思います。というのはそういう留学生は少なかったからです。
 来日するとすぐに私は北海道に行きました。驚くべき旅でした。山頂で赤や緑に装った木々を山頂で座って見ていたのを思い出します。季節は秋で、実にきれいでした。和歌山やほかの場所にも行きました。
 高槻先生、あなたはいつも私たちが日本のことを知るように配慮してくださいました。あなたはドアを-部屋だけでなく、ご家庭の、自分の心のドアを-あけていてくださいました。それは私がいつも感謝していることです。それにあなたのご家族-ああ、あのご家族!本当に素敵な!-みなさんいつも私にやさしく迎えてくださいました。
 驚くべき学生たちの仲間であったことは実に幸運でした。私がすばらしいと思う日本文化のひとつは仲良しだということ。つねにお互いに助け合いました。それにいっしょに楽しかった!いつもお互いを数え合えました。日本は偉大な国であり、あなたはその文化の最高の大使です。
 思い出すときのことを書きます(時系列とは限らないけど)
・ (研究室のパーティーで)二人でリコーダーを吹いたとき。私がリコーダーを吹いてあなたがギターを弾いたとき
・ 最初の野外旅行(たぶん和歌山)のとき、毎朝起きるとカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」の口笛を吹いたこと。あれが「起きているよ、もう起きよう」という合図。いつも笑っちゃった。あれはフトンから出るよい方法でした。あのとき、中古の店でCDを買っちゃった。
・ 私が日本語を話せるとあなたが気づいたとき。私たちはいつも英語で会話していたから、あなたは私が日本語で生活の勉強をしているのを知らなかった。ある日、野外でまったく違う状況で私が「とりえず」と言ったものだから、あなたはびっくりしてまわりのみんなにそのことを教えた。私ははずかしかったけど、(実は日本語が話せると伝える)いい方法だった。
・ 金華山で私が「ラバンバを」歌って踊った。あなたはギターを弾いた。
・ 「タカダノババ、タカダノババデス*」
・ 初めてご家族に会った時、夕食にミニトマトが出たのですが、私のミニトマトがピョンとテーブルの向こうに飛んで、私がお箸でつまもうとしたんです。ちょっとあせりましたが、笑うことができました。
・ あなたが学生に私のところに電話するようにいったら、録音から私の日本語とスペイン語のメッセージが聞こえました。あなたはベネズエラのスペイン語が音楽を聞くようだと好きでした。
・ まさに離日するというとき、スターバックの店の外で「さよなら」がうまく言えなかった。

 あなたは因習的日本の指導者ではありませんでした。学生とも距離を保たず、見下すようなこともありませんでした。あなたが昼食をともにし、異なる文化の人と仲良くするのが好きだったのは、私にとって幸運だったといつも感じていました。してもらえなかったのは、一緒にダンスすること、ハハハ。ひどいんじゃない、まだ時間はあるけど(-:
 あなたはいつも世話をしてくださった。研究やそのほかいろいろなことを話してくださいました。おかげで自分が大丈夫なのだと確かな気持ちになれました。私と家族にもよくしてくださいました。たとえば留学生が帰国してもよくやっているか訊いてくださいました。ママと姉が来日することになったらあなたは待ちきれませんでしたね。とてもかわしいと思った。あなたはいっしょに公園(名前は忘れたけど*)準備をしてくれました。ママと姉はすーっごく時差ボケになっていたんですが、それにもかかわらず、すばらしい時間になりました。
 あなたは指導者として最高でした!指導者として以上に、友人として最高です。とても親切で大きな心の人です。ロマンチックなところも好き、私もロマンチストだからつながりを感じます。日本を去ってから14年も経つのにずっと連絡をとってくださいました。
 ご退職おめでとうございます。いつかまたお会いしたいと思います。
 ベネズエラ式のあったかいハグを(-:

* カロリーナさんはベネズエラからの留学生で、我が家に下宿してくれたので、いっしょに西武新宿線で通いました。高田馬場というアナウンスの響きがなんとなくおかしいので、どちらからともなく「タカダノババ」といって笑うことがあり、今でも文通の文章の中に突然「タカダノババ」と書いたりします。文中で出て来る公園は小石川植物園(高槻)

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高槻先生のこと 樋口

2015-03-07 21:54:47 | つながり
樋口 広芳
 私が高槻先生に初めてお会いしたのは、1994年の中頃のことである。東京大学大学院に新設される研究室の、私が教授、高槻先生が助教授として採用されることが決まった頃だ。場所は、東京の有楽町の喫茶店だった。私が誘ったのだが、初めて顔を合わせたとき、ああ、この人となら一緒にうまくやっていかれそうだ、と感じた。温厚で気負いのない人柄が、一目で見てとれた。
 高槻先生のことは、この時に会う前からもちろん知っていた。金華山のシカと植生との関連について長年にわたって生態研究を行なっておられ、その仕事は広く知られていたからだ。また、横浜国立大学の教育学部にいらした遠山三樹夫先生からも話をうかがっていた。高槻先生と遠山先生は、年齢はだいぶ離れていたが、ともに植生学、植物学、生態学を専門にしており、東北大学理学部に所属していた経緯がある。ついでながら、遠山先生は私の高校時代の学級担任でもあった。
 高槻先生と私は、東京大学時代、農学生命科学研究科の、当初は応用動物科学専攻・野生動物学研究室、のちに生圏システム学専攻の生物多様性科学研究室に所属していた。高槻先生は途中から総合研究博物館に異動されたが、その後も、兼坦として研究室の運営に携わってくださった。この間、学生の指導のあり方、講義内容の検討、研究の方向性、新技術の開発と利用、学会大会の開催など、さまざまなことをめぐって高槻先生と話し合い、議論した。高槻先生はいつも、どんな問題にも真剣に取り組み、相手の意見をしっかりと聞いた上で、自分自身の意見をきちんと述べられた。ややこしい議論になる可能性のあった問題もいくつかあったが、常に裏表のない、すっきりとした意見を述べられるので、対応はむずかしくなかった。
 高槻先生は学生の面倒見がよく、学生に慕われていた。研究はシカにかかわる生態研究を柱とし、ほかに国内外の哺乳類の生態研究にもかかわっておられた。柱としてのシカの生態研究は、宮城県の金華山などでの個体群研究、植物群落とのかかわりについての研究だった。高槻先生の研究の特徴は、じっくりと対象と向き合うこと、長期間にわたって観察を継続することだ。シカをめぐる長期の生態研究の成果は、2006年、大著『シカの生態誌』(東京大学出版会)としてまとめられた。今日、期間限定の特定の研究プロジェクトが広く行なわれる中にあって、高槻先生のこうした研究の内容とスタイルは異色であり、後世まで高い価値を持ち続けるものと思われる。
 私は、鳥の渡り研究などは20年以上にわたって行なっているが、ほかにおもしろいと思った大小さまざまなことがらにも取り組んでいる。この点で研究のスタイルは高槻先生とかなり違っていると言える。が、どちらも研究を楽しみながら続けているという点では共通している。また、研究成果とそこから導き出されることがらをいくつかの一般書として出版している点でも共通している。高槻先生の書かれたものを拝見すると、自身で、あるいは学生や共同研究者とともに苦労しながらも楽しく研究していること、またそれを楽しみながら書いていることが、それとなく、あるいはしっかりと伝わってくる。幸せな人生を送っておられることがうかがわれる。
 高槻先生は音楽にも造詣が深い。送別会、祝賀会などのいろいろな場面で、ギターとともに歌を披露される。人の生き方、時代の移り変わりなどをテーマにした歌を披露されることが多い。最近では、ご自身でお撮りになった多数の写真をパワーポイント上で展開しつつ、それに合わせて歌われる。いろいろな興味、関心がうまくかみ合っており、見ていて、聞いていて心地よい。
 高槻先生は、退職後、どのような時間を過ごされるのだろうか。私は東京大学を定年退職して3年になるが、以前とあまり変わらない生活を送っている。慶應大の特任教授という立場で、講義や研究も、学生や国内外の研究者との交流も続けている。学内の会議にはほとんど出る必要がない、学生の卒論や修論・博論の指導も正規には行なわなくてよいなど、心身ともにリラックスした状態が続いている一方、ちょっと物足りないところもある。が、より自由になった分、執筆活動、生きものや自然の観察や撮影などにより多くの時間を費やすことができている。退職後の生き方としては、なかなかよいものだと思っている。高槻先生は、家族と過ごす時間をより多くもたれるのだろうか。でもたぶん、やはり自然や生きものの観察や撮影、執筆活動、仲間との交流などに、より多くの時間を使われることになるのではないだろうか。また、自由な発想から、自然と音楽とのコラボレーションにかかわるような新しい試みをされるのではないだろうか。
高槻先生らしい有意義な時をすごされることを願いたい。
(東京大学名誉教授/慶應義塾大学特任教授)

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まっすぐな高槻先生 安本

2015-03-07 21:43:56 | つながり
安本 唯

 まだ高槻先生のことを講義でしか知らない大学二年生のとき、私は高槻先生はとにかく厳格な先生、というイメージを持っていました。正直なところ、「厳格な先生だからこれから先きっと何かあったときには怒鳴られたりもたくさんするのだろう」と覚悟して入室しました。しかし研究室に入室すると、イメージしていた先生とは大きく異なっていました。いつも穏やかで、想像以上におしゃべりで、たまに冗談も言ったりととてもお茶目な先生でした。特にお子さん、お孫さんのことを話しているときの高槻先生は本当に嬉しそうな素敵な笑顔で、その表情を見るだけで私もつられて嬉しくなりました。
 高槻先生は自然のこと、植物のこと、動物のことが本当に本当に大好きで、「知りたい。明らかにしたい。」という強い思いで常に走り続けている先生です。野外へ出ると「これは〇〇いう特徴があって…」「それは××だから面白いんだよね」「この植物の名前は実は〇〇から来ていて…」というように、何か一つ見つけるたびに面白いエピソードをお話してくださりました。先生がするお話はいつも面白いので、調査に行くのが毎回楽しみでした。
 先生の強い信念は野外だけではなく室内にいるときも同じです。研究の進み具合や進め方について相談をしに行くと、いつも真剣に話を聞いて考えてくれます。また、勘違いをしていたり間違えた理論を持っているとすぐに教えてくれます。豊富な知識や経験がある先生は、たくさんの角度から物事をとらえて、正しい方向へと導いてくれました。私は話をまとめるのが苦手なので同じことをぐるぐると話していたように思いますが、どんなに忙しくても高槻先生はいつも親身になって話を聞いてくれました。
 高槻先生は研究室にいないときも、常に走り続けています。夜に突然電話で「これはこう調べたら面白いのではないか」「この前のデータはこうまとめてみたらどうか」という提案を何度もしていただきました。最初は驚きましたが、研究室から離れてもまっすぐに走り続けている先生ならではの行動だと思いました。
 野生研に入って高槻先生との思い出はたくさんありますが、中でも印象に残っているのは通学途中の出来事です。麻布大学のある矢部駅へは、八王子からは横浜線で20分程度かかります。高槻先生も私も同じ方面で、通学途中に偶然一緒になることが何度もありました。先生は移動中の電車内でもいつもパソコンに向かっていましたが、私が気付いて挨拶をするとパソコンをしまい、研究のことはもちろん、日常のちょっとした話題も面白おかしくお話してくれました。教授と室生の距離はもっともっと遠いものだと思っていたので、分け隔てなく接してくれることがとても嬉しかったです。
 実は私は必修教科の試験に落ちてしまい、進級できるかどうか危うい時がありました。進級がかかっている試験当日の朝も、高槻先生に偶然会ったのですが、そのときも緊張やプレッシャーでいっぱいな私を励ましてくれました。「誰にだって得意なものもあれば、不得意なものもある。学生がたくさんいるのに、たった一つの試験で良いか悪いか評価してしまうのはよくないと思うな。それはともかく、今日は頑張って。君はいつも真面目に頑張っているから、今回もきっと大丈夫。そんなに思いつめたような顔をしないでまっすぐに試験に臨めばよい。」と、坦々とお話してくれました。そのとき私は本当にその言葉に励まされて、なんだか泣きそうになってしまいました。今でも、そのときの高槻先生の優しいお言葉に感謝しています。
 私の中で、研究室での出来事は印象的なことばかりで、大学時代の大部分を占めています。高槻先生との思い出、高槻先生に関するエピソードは本当にたくさんありますが、書ききれないので心の中に大切にしまっておこうと思います。野外に出たら高槻先生のおもしろいお話を、悩んだり迷ったりしたときには高槻先生のまっすぐな考え方や優しいお言葉を思い出して、これから歩んでいきたいです。
 最後になりますが高槻先生、本当にどうもありがとうございました。退官後も変わらずまっすぐな先生とまたお会いできるのを楽しみにしています。
(2014年 麻布大学卒業)

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