高槻成紀のホームページ

「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

調査と歌と・・・そして人 今榮

2015-03-07 20:23:46 | つながり
今榮 博司
 私が高槻先生と初めて言葉を交わした時のことは、今でもはっきりと覚えている。東北大農学部で開催された、宮城教育大学の伊沢先生による新世界サルに関する講演を聞きに行った時、私を見つけてくださって「こういうことに興味あるの?今度よかったらシカの調査に来ない?」と誘ってくださったのだ。私が大学3年の秋だったと思う。
 それをきっかけに岩手県五葉山でのシカの調査に何度も同行させてもらったし、研究室にも入れてもらい、金華山で卒論を書くことにもなった。私にとってはそれらが野生生物調査の原体験であり、今の国際協力コンサルタント(自然環境保全)としての仕事の原点ともなっている。それは、調査体験という意味だけではなく、現場で地元の人の話をきちんと聞くこと、現場調査に大学内外からいろんな人が参加することを当然のごとく受け入れること等の、研究以前に一人の人として現場と向き合う姿勢を教わった、という意味が多く含まれていると感じている。
 五葉山での調査には、研究室の人たちに加え、岩手大学クマ研関連の人たち、日本野生動物植物専門学校の学生さんたち、新潟にある米国の大学の分校に赴任していた米国人研究者ともご一緒させてもらった。公民館で同じ釜の飯を食い、調査で汗を流し、スーパーで食材を買い込んで皆で料理をした。夕食後は調査結果のとりまとめや翌日の打合せ、そして時々宴会になり、当時はやっていたWinkの「さびしい熱帯魚」を振り付きで歌うクマ研の人の物まねに大笑いした。調査で初めて会う人たちであってもすぐに打ち解け、人と人とが高槻先生を中心につながっていく、その感覚が不思議で且つ心地よかった。
 金華山での調査では、シカの生体捕獲による調査に多くの方々が参加した。シカの研究者のみならず、動物園の獣医師、日本獣医畜産大学の学生さんたち、日本野生動物植物専門学校の学生さんたちが多数いる中で、私を含む研究室の人間は決して主催者ではなかった。強いて挙げるなら高槻先生が主催者だったろうが、参加者全員をまとめるという感じではなく、高槻先生を中心にして参加者全員が緩やかにつながり且つ能動的に各自が動くので、まとめなくてもスムーズに事が進んだという感じがした。これもとても不思議な事であった。金華山のユースホステルの広間で卒論発表をさせてもらったのも、研究室で発表するのとは全然異なる異種格闘技のような緊張感があったが、一緒に現場調査をしている仲間と議論を共有するという、仲間に入る通過儀礼を全うしているような誇らしげな気持ちがどこかにあったのも覚えている。
 私は大学卒業後、青年海外協力隊→フリーター→英国での修士課程と変遷し、その後また日本で時間の余裕がかなりあった頃、高槻先生と一緒にスリランカに行かせて頂く機会を得た。2000年11月のことで、高槻先生のところで研究していたスリランカ人博士課程学生の現場調査に同行させてもらう、というものであった。私は完全な部外者であり、そんな私を受け入れてくれた高槻先生と当のスリランカ人学生に深く感謝するとともに、その懐の大きさに恐縮せざるを得ない。


2000年11月 スリランカ・キャンディ. 後列左から2番目今栄、その右パリタ、前列左から沖田、ローズ、高槻

 初めて訪れるスリランカでは、見るもの聞くもの食べるもの全てが新鮮であった。調査現場のシンハラージャ森林保護区のロッジでは、シンハラージャの生き字引と言われるマーティンさんとそのご家族、近くの農家の人とその娘さんたちと交流する機会もあった。ある夜は日・スリランカアカペラ大会となり、調査チームのガイド役を務めてくれたジャナカさんがスリランカ代表として美声を披露してくれ、日本代表は高槻先生が千昌夫の「北国の春」、そして私も松山千春の「恋」で続いた。熱帯雨林の奥深く、漆黒の闇の中で皆が集まるロッジのダイニングルームは、ポツンと光る蛍のようなものだっただろう。歌声も光も森の中でゆらゆらと揺れていただろうその間、そのダイニングルームには何とも言えない微笑みの空気がふんわりと満たされていたように思う。
 歌といえば、このエピソードも忘れることができない。東北大学理学部生物学科では、年度末に研究室対抗のかくし芸大会が開催されることになっており、私が4年の時には研究室の先輩や同輩とバンドを組むことになった。シカ調査の試料が山積みになっている実習室は研究棟から少し離れていたので、そのバンドの練習をするには好都合であった。日が暮れてから研究室仲間とギター等の楽器を抱えて、実習室で作業されていた高槻先生に「うるさくしてすみませ~ん」と断りつつ、「Daydream Believer」や「When the Saints go marchin’ in」の練習をした。その横で、高槻先生は黙々と作業されていた。翌日、実習室に行って同じように練習を始めようとすると、高槻先生が「昨日考えたんだけどさ~」と言い出したので、やっぱり実習室で練習するのはまずかったかなと身構えていると、
「あの部分はこういうコードにした方がいいと思うんだ」
 とギターを持ち出したので、皆ずっこけた。そんなわけで高槻先生にもバンドに入ってもらい、かくし芸大会当日は大いに受けたし、我々もとても楽しかった。普段まじめでとても堅そうな研究室の教授にもとても喜んでもらえた。
 その教授は、その後の飲み会で酒が入って思わず本音が出たのか、「生物学なんかどうでもいい。一番大事なのは自分の人生だ」と力強く語っていた。そんなことを言うような人とは全く思わなかったのでびっくりしたが、研究室という縁で集まった仲間が立場や年齢を超えて一緒に歌を楽しむのをその教授はご覧になって、我々が「よく学びよく遊ぶ」を実践していると感じてくれたのではないかと思う。意図していたわけではないだろうが、そのキーパーソンの一人は間違いなく高槻先生であったろう。高槻先生にとっては、研究も歌も人生を豊かにするものの一つであり、それを気負いなく心から楽しむ姿が様々な人を惹きつけ、それらの人々と緩やかにつながってきたのだろう。そしてその根底には、人を年齢や立場で区別することなく、一人一人に対して真摯に向き合うリスペクトがあると思う。いや、そのリスペクトは人に向けられているだけではなく、自然やその自然と地元の人たちのつながり、そして日常が根底から覆される自然の脅威までをも含んでいると思う。
 そういう学びを言葉ではなく行動を共にして得られたことは、私の大学時代の貴重な財産であり、そういう財産を得られたことを非常に幸運に思う。
(1992年 東北大学卒業)

演奏のときのようすは沖田さんの原稿にあります(高槻)。
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