高槻成紀のホームページ

「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

ふゆのさんぽみちでおもうこと 野口なつ子

2015-03-07 21:30:17 | つながり

野口 なつ子

センダンのたねをひとつ、見つけました。

つい立ち止まって、空を見上げ、どこから運ばれて来たのかなぁとぼぉっと考える…。

こんな風に、たったひとつのたねからいくつもの疑問やストーリーを考えることにおもしろさを感じるようになったのは、高槻先生と出会ったからです。

もうひとつ、センダンのたねを見つけました。

センダンのたねを見つけた今、先生方や仲間たちのことが思い浮かびます。大学の守衛室の近くのセンダンの木、カキの木の下で拾ったセンダンのたね、そこから野生動物学研究室での日々が思い出されます。

高槻先生、卒業してから早いもので4年の月日が経ちましたね。相変わらず、私は下を向いて歩いています。下を向いて歩くといいものがたくさん見つかるんですよ。いいものを見つけると、懐かしい思いになってスキップしたい気分になるんです。

こんな思いに耽るのは、大学生活が充実していたからだと思います。大学に通えたこと、無事に卒業できたこと、仲間ができたこと、さらに学ぶ環境や人に恵まれていたということ。当たり前のことがどんなに幸せだったか、今となってようやくわかった気がします。生きる幸せ、食べる幸せ、休む幸せ、遊ぶ幸せ、学ぶ幸せ、いろいろな幸せが私を取り囲んでいたのですね。その幸せを与えてくれたのは、周りの人や自然だったんだなぁと。4年後の今、ようやくその幸せを感じ、私は今、ちょっと多めの幸せを感じています。

卒業してからの4年間も、楽しいことばかりでした。…といっても、日本を離れている間は辛いこともありました。そんなときはあるビデオを見ていました。そのビデオは、私たちが卒業するときに卒業するメンバーが先生方や在校生へ送った歌のビデオです。このビデオを何度も何度も繰り返し聞きました。日本でも頑張っている仲間がいる、この仲間がいるからきっと大丈夫、と自分に言い聞かせると不思議と前向きな気持ちになれたのです。そんな仲間に出会えたのも高槻先生がいたからこそだと思っています。

あなたの“恩師”は誰ですか?

若い人にそう質問したら、何人の人が答えられるでしょうか。

「恩師と呼べる人はいないかぁ…。」なんて言葉が返ってきそうですよね。

でも私にはいます。ちょっと恥ずかしいので内緒にしておきますが、私には恩師がいます。どうしてその人のことを恩師と思えるのか、それはとにかく感謝しているからです。なぜでしょうか。
野生動物に興味があって研究室に入ったものの、気づけば植物の虜になっていました。植物を観察することにおもしろみを感じると、外を歩くのがこんなにも楽しくなるんですね。そんな毎日を過ごしていると、気づけば自然の見方や物事の考え方が変わっていった気がしています。今、自然の中に身をゆだねると心が穏やかにやさしくなるのは、自然をちょっと違う見方で見られるようになったからだと思います。遠くから見る大自然、迫力があって壮大できれいですよね。でも近くで見る1枚の葉は、もっときれいだと思うんです。太陽の光に透かしてみれば、その美しさに心打たれるでしょう。私にとって魅力的なのは大自然を構成している小さないきもの、ひとつひとつです。

そんなことがおもしろいと思える人間になれたこと、小さなことでも感動できる感性を養えたこと、このことが私にとって一番誇れること、また自分の好きなところでもあります。こんな人間に育ててくれた人が、まさしく私の恩師です。

高槻先生、私は先生と出会ったことで自分がどんな人間か、何が好きで何をしたいのかわかった気がしています。大げさかもしれませんが、先生との出会いが今の私を作り上げたと思っています。

今、先生や仲間のことを想い、この文章を書いています。とってもいい気分です。こんな気分になれたのは、まぎれもなく先生のおかげです。高槻先生、今までありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします。
(2011年 麻布大学卒業)

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「何となく」がもたらした最高の出会い 八木

2015-03-07 21:27:54 | つながり

八木 愛

 せっかくなので、高槻先生とのエピソードのうち何か面白いものを…と考えましたが私と高槻先生、麻布大学野生動物学研究室(以下、野生研)との出会いという点に着目して書かせていただきたいと思います。多くの方が書きそうな話題なのと大して面白くない個人的なお話で大変恐縮ですが、出会えたことそのものが私にとって最も重要なエピソードのひとつなのです。
 私が大学を選ぶところから話は始まります。実は私が麻布大学を選んだのは明確な目標があったわけではなく、実は「何となく」という直感めいたものでした。高校3年生の頃、何となく動物、とくに野生動物の勉強がしたかった私はどこの大学に行くか悩んでいました。この頃は爬虫類のことは好きでも、研究をしたいとか、大学を出た先のことなどは何も考えていなかったので、野生動物の研究室がある、できれば関東の、近場の大学が良いなぐらいしか思っていませんでした。色々調べている内に、麻布大学にちょうど野生動物学研究室が新設されるということを知りました。そう、野生研は私が入学した年にできたのです。私は「これだ!!」と直感しました。これまた何となくで、何の根拠もないのですが「新しくできた研究室だからきっと色々できるのではないか」と思ったのです。大変失礼ながら、その時は高槻先生のことを全く存じておりませんでした。
 その後無事に入学することができた私は、早速掲示板に「第1回野生動物学セミナー」というお知らせを発見しました。このセミナーは野生研主催で、誰でも参加できるものでした。「これは行くしかない!!」と、入学式で仲良くなった同期の大津綾乃さんと一緒に、このセミナーに参加しました。
 わくわくしながら参加したものの、当時の私には内容が難しく何を言っているのかさっぱりでした。そして、初めて高槻先生お見かけしたのです。研究って何だか難しそうだと思ったのと同時に、先生がちょっと怖そう!!!と感じたことだけは未だに覚えています(すみません)。この時の高槻先生は顎にも髭を蓄えておられたので、より怖い印象があったのだと思います(重ね重ねすみません)。それでもめげずに、翌月の第2回のセミナーにも参加しました。この時のことは比較的覚えているのですが、この日初めてセミナー後の懇親会に参加したのです。講演者の方にどうしても質問をしたくて、参加したのだったと思います。今思えば、人見知りの私がよくぞ頑張ったな、と自分を褒めたいくらい。そしてこの時に初めて高槻先生と会話をしたのだと思います。内容までは覚えていませんが、少なくともこの時私は「あ、高槻先生って思ってたより全然怖くない」と思ったのでしょう(ギター演奏が理由ではありません)。これ以降セミナー+懇親会にほぼ毎回参加するようになり、高槻先生と多く関わることになっていったのでした。
 そして大学1年生の秋、初めて金華山のシカ調査に参加することになりました。というのも、高槻先生は「興味のある学生は例え研究室生でなくとも、研究室の主催する調査にどうぞ参加を」、と門を大きく開いてくださったからです。そう、「新しい研究室だからきっと色々できるだろう」という入学前の私の予感がここで的中したわけです。毎年の金華山調査のほか、解剖と骨格標本づくり、そして大学祭の展示と3年生で研究室に所属する前から様々な活動に参加させて頂きました。また、これらの活動の中で大好きな仲間たちとも出会えたのです。
 大学1年次から大学院を修了するまでの間、私は今までの人生の中で最も濃い日々を過ごし、たくさんの大切なことを高槻先生と野生研から学びました。
 正直に言って、勉強があまり好きではない私には研究は向いていなかったかもしれません。それでも、哺乳類がメインの研究室で大好きなカエルの研究をさせて頂いたことに一番に感謝を申し上げたいです。カエル繋がりで大学外にも新たなネットワークができました。そして、里山をフィールドにしたことで、日本の自然に向き合うようになり、自分のやりたいこと、将来のビジョンが少しずつ見えてくるようになりました。これらはすべて、今の仕事につながり、活かされています。また、研究や、自然のこと以外にも教わったことはたくさんあります。研究室というある意味での共同生活の中で、メンバーと協力して何かを行なうこと、誰かのために何かをすること、メールの書き方などなど…細かいことをあげたらキリがないですが、これらも今現在活かされています。
 「何となく」という直感から始まった大学生活・研究室生活でしたが、私の中では最も充実した、忘れることのできない日々となりました。大学までの進路をすべて直感で決めたという、他の人から見れば考えなしと言われてしまいそうな道を歩んできましたが、大学入学から大学院修了までの6年間は私の人生に多大な影響を与えたことは間違いありません。まさに最高の出会いでした。時にはつらいこと、不満に思うこともありました。しかしそれらもすべて含めて、私の中で良い経験になり、私を成長させてくれました。高槻先生には本当に感謝しております。
 来年度から、研究室に伺っても高槻先生がいらっしゃらないというのはとても寂しいですが、野生動物に関わる仕事をしている以上、お会い出来る機会はたくさんあると思いますので、その時は生きものやその他様々なお話をしたいと考えています。6年間お世話になりました。井の頭公園にお越しの際はぜひお声がけください。
(2013年 麻布大学大学院修士課程修了)


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高槻先生の思い出 藤本

2015-03-07 21:26:00 | つながり

藤本 彩乃

 早いもので、私が麻布大学野生動物学研究室を卒業して4年が経とうとしている。学生時代の記憶は薄れつつあるが、研究室で過ごした時間は本当に楽しかった。宮崎から上京し、一人暮らしをしていた私にとって、研究室のメンバーは、大切な研究仲間であるとともに家族のようでもあった。もちろん、高槻先生は一家の大黒柱。みんなで研究室の大きなテーブルを囲んで、昼ご飯を食べたり、誕生会をしたり、真面目に議論したり。あの空間は、かけがえのないものだ。
 他の研究室の学生は、高槻先生のことを気難しそうと話していたように思う。実際のところ、それも間違ったイメージではないと思うのだが(職人気質みたいな感じだと思う)、高槻先生の近くで過ごしていると、それ以上に人情味あふれるところやチャーミングなところが見えてくる。
 どうしても忘れられない光景がある。モンゴルに行っていたとき、昼食だったか、打ち合わせだったかで皆でしゃがみ込んで話していると、先生が唐突に立ち上がり、猛ダッシュし始めたのだ。あの後ろ姿。靴もきちんと履いていなかった気がする。何事かと驚いたのだが、子供の頃からあこがれていた珍しいチョウを見つけて、捕まえようとしてのことだった。同じようなことは、滞在中に幾度となく起こり、最後には、先生が突然走り出しても特に驚かなくなってしまった。なんと言うか、少年のようだ。
 高槻先生は少年みたい、という表現は誰かが言っていたことのような気がするのだが、本当にその通りだと思う。それは、このエピソードのように何かをしている最中に、急にスイッチが入って没頭する姿のことだけではない。研究に対する考え方だったり、人との付き合い方だったりが、子供のように純粋でまっすぐなのだ(これは決して悪口ではなく、褒め言葉です!)。
 おそらく、先生は私たちを指導しながらも、ずっと対等に向き合って下さっていた。とてもありがたいことだ。当時は、それを深く考えずにいたが、先生のそのような姿勢を本能的に感じ、先生にも研究にも自分自身にも誠実でないといけないという緊張感が常に私の中にあった。これは研究だけでなく、仕事や人に対して、これからも大事にしていきたい。
 とうとう高槻先生が退官される。ご自身も実感が湧かないと言われていたが、私もだ。卒業してからも研究室に遊びに行くと、先生は仕事の手を止めて下さり、テーブルでお菓子をつまみながらお互いの近況報告をする。そうしているうちに、学生も集まってきて、自分の研究の話を聞かせてくれる。先生からのアドバイスが入ることもある。私が学生だった時からある風景だ。あの空間から高槻先生の姿がなくなってしまうことは、なかなか想像できないし、想像するととても寂しい。しかし、きっと南先生や残った後輩たちが、高槻先生の作り上げた研究室の良い伝統を引き継いで、また素敵な研究室を作ってくれると信じている。
 最後になりましたが、高槻先生、これまで本当にお疲れさまでした。私は、先生の研究室に入れてとても幸せでした。できればまた、一緒にモンゴルで調査できる日を夢見ております。
(2011年 麻布大学卒業)

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高槻先生の思い出

2015-03-07 21:24:21 | つながり

藤本 彩乃

 早いもので、私が麻布大学野生動物学研究室を卒業して4年が経とうとしている。学生時代の記憶は薄れつつあるが、研究室で過ごした時間は本当に楽しかった。宮崎から上京し、一人暮らしをしていた私にとって、研究室のメンバーは、大切な研究仲間であるとともに家族のようでもあった。もちろん、高槻先生は一家の大黒柱。みんなで研究室の大きなテーブルを囲んで、昼ご飯を食べたり、誕生会をしたり、真面目に議論したり。あの空間は、かけがえのないものだ。
 他の研究室の学生は、高槻先生のことを気難しそうと話していたように思う。実際のところ、それも間違ったイメージではないと思うのだが(職人気質みたいな感じだと思う)、高槻先生の近くで過ごしていると、それ以上に人情味あふれるところやチャーミングなところが見えてくる。
 どうしても忘れられない光景がある。モンゴルに行っていたとき、昼食だったか、打ち合わせだったかで皆でしゃがみ込んで話していると、先生が唐突に立ち上がり、猛ダッシュし始めたのだ。あの後ろ姿。靴もきちんと履いていなかった気がする。何事かと驚いたのだが、子供の頃からあこがれていた珍しいチョウを見つけて、捕まえようとしてのことだった。同じようなことは、滞在中に幾度となく起こり、最後には、先生が突然走り出しても特に驚かなくなってしまった。なんと言うか、少年のようだ。
 高槻先生は少年みたい、という表現は誰かが言っていたことのような気がするのだが、本当にその通りだと思う。それは、このエピソードのように何かをしている最中に、急にスイッチが入って没頭する姿のことだけではない。研究に対する考え方だったり、人との付き合い方だったりが、子供のように純粋でまっすぐなのだ(これは決して悪口ではなく、褒め言葉です!)。
 おそらく、先生は私たちを指導しながらも、ずっと対等に向き合って下さっていた。とてもありがたいことだ。当時は、それを深く考えずにいたが、先生のそのような姿勢を本能的に感じ、先生にも研究にも自分自身にも誠実でないといけないという緊張感が常に私の中にあった。これは研究だけでなく、仕事や人に対して、これからも大事にしていきたい。
 とうとう高槻先生が退官される。ご自身も実感が湧かないと言われていたが、私もだ。卒業してからも研究室に遊びに行くと、先生は仕事の手を止めて下さり、テーブルでお菓子をつまみながらお互いの近況報告をする。そうしているうちに、学生も集まってきて、自分の研究の話を聞かせてくれる。先生からのアドバイスが入ることもある。私が学生だった時からある風景だ。あの空間から高槻先生の姿がなくなってしまうことは、なかなか想像できないし、想像するととても寂しい。しかし、きっと南先生や残った後輩たちが、高槻先生の作り上げた研究室の良い伝統を引き継いで、また素敵な研究室を作ってくれると信じている。
 最後になりましたが、高槻先生、これまで本当にお疲れさまでした。私は、先生の研究室に入れてとても幸せでした。できればまた、一緒にモンゴルで調査できる日を夢見ております。
(2011年 麻布大学卒業)

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高槻先生のご退官に寄せて 嶋本

2015-03-07 21:22:13 | つながり
嶋本 祐子
 ご退官、誠におめでとうございます。
 高槻先生との思い出は、卒業研究と修士研究の調査地であったアファンの森に詰まっています。調査中やデータ分析をしている時の寡黙で冷静な姿とは異なり、森にいる時の高槻先生は昆虫少年のように輝いた目をしており、あらゆる生きものに感動し、その感動の理由や生態の面白さを教えてくださいました。いつの間にか道なき道を行き、何かを拾い、写真を撮り、時には軽快に虫捕り網をふりかざす高槻先生。共同研究をした同級生の野口さんと一緒に、最初はひたすらに後ろを歩き、高槻先生の拾ったものをサンプル袋に詰めていたのですが、いつのまにか一緒に感動し、自分自身もどこかに吸い込まれるように歩いて、色々と拾うようになっていました。生きもの目当てに出かけてばかりいた小学生の頃の気持ちが、戻ってきたようでした。強い感動や興味を発信する方は周囲の感性を変えていくと、高槻先生からいただいた刺激により身をもって感じたことで、自分も感動を伝えられる人になっていきたいと強く思うようになりました。至らなさに反省してばかりではありますが、この想いは今も変わらずあり、私の原動力となっています。
 また、研究活動とは関係なくなってしまいますが、高槻先生との思い出を振り返る中で欠かすことができないのは、音楽です。卒業が近づいてきたある時、謝恩会で歌おうと高槻先生からお誘いがあり、実験室でこっそり練習する日々を送り、目が回りそうな程の緊張で当日歌ったこと*。研究の相談させていただいた後に、それと同じくらいの時間をかけて音楽のお話をしたこと。当時は高校時代からコーラスを続けていたこともあり、音楽が好きだったので、高槻先生とのそのようなお話しができることも楽しく、良い時間でした。
 修了後もアファンの森の職員として長野で働いていたため、高槻先生や研究室の学生さんと連絡を取ることは多々あり、研究室は変わらず身近な存在でした。調べても答えがわからなかった事などをメールで質問させていただいた際には、快くご助力くださいました。
 研究室に所属した3年生から、修士課程修了までの4年間のご指導、就職面でのサポート、また私事でご心配やご迷惑をおかけした際にも親身にご理解いただくなど、大変お世話になりまして、ありがとうございました。心より感謝しております。退官なさっても、高槻先生はいつまでも野外で生きものに向き合われ、研究活動を続けられることと思います。ご迷惑でなければ、またぜひご一緒させていただき、学ばせていただけましたら幸いです。今後もご健康で、益々ご活躍されることを、心よりお祈りいたします。
(2013年 麻布大学大学院修士課程修了)

*嶋本さんは高校時代に合唱部にいたということで歌は本格的です。謝恩会のときに「未来へ」をいっしょに歌いました。実習室で練習するときは、バレると恥ずかしいので台車にギターをおいて、被いをしていかにも実験道具でも運ぶふうにして運びました。当日はとてもうまかったので、そんなに緊張していたとは知りませんでした(高槻)。

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高槻先生の第一印象 瀧口

2015-03-07 21:20:15 | つながり
瀧口 晴嵩

 私は麻布大学の獣医学科に入学し、学部生3年生のときから3年以上高槻先生のお世話になりました。本来なら獣医学科の研究室に所属するのですが、私の強い希望で高槻研に入れさせていただいたのです。高槻先生の第一印象は、「自分よりずっと年配なのに対等に話をしてくれるやさしい生き物好き」でした。なにかやわらかい感じと、話のしやすさで先生の下で勉強をしてみたいと思うようになりました。
 とくに3、4年生のときでしょうか、その第一印象から私はよく先生とお話をさせていただきました。いつでも先生はすぐに私の話に聞き入ってくださり、ご自分の作業を放ったらかしてまで、なにも知らない学生の話の相手をしてくださいました。逆に私が忙しくても、「瀧口くん、これを見てよ!」と話しかけてくださいました(笑)。それは付き合ってやっているという感じではなく、本当に学問に没頭して夢中になっているようでした。
 第一印象は当たっていましたが、高槻先生にはほかに気づいていなかった特徴がありました。それは学問に対して極めて厳しいということです。ゼミや研究発表の場で先生は一切の甘えや曖昧さを許しませんでした。常に、おもしろいことを学術的に解明していくことに全力投球されていました。役に立つか?に観点をおく議論が一般的である世の中で、純粋に学問そのものを扱う生き様をまざまざと見せつけられた3年間でした。結局私は、熟考の末研究の道に進まなかったわけですが、高槻先生から学んだ精神は私の奥深くに根強く残っているのです。私がまだまだ小さいときからそうやって、多くの人が高槻先生の影響を受けてきたのでしょう。私はその一員になれた事を誇りに思っています。
 高槻先生、本当に長い間おつかれさまでした。先生は私にとってとても偉大な存在でした。そして先生との3年間は決して忘れません。
(2012年 麻布大学卒業)

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先生との思い出 多田青加

2015-03-07 21:18:40 | つながり
鈴木(多田)青加

 先生との出会いは、金華山でのシカの調査でした。調査の説明を聞いた時には、シカを捕まえること、またその方法にも驚いた事を覚えています。しかしあの捕らえ方がシカに負担が少なく、人間のリスクも抑えられる方法だということは、実際の調査でよくわかりました。
 「動物が好き」という気持ちだけで入学してきた私にとって、先生の調査や里山歩き・授業は自分の価値観が大きく変わる機会でした。
 一番心に刺さっているのは、先生が幼少期に見た動物園のゾウの話です。それまで動物園が好きで、希少動物の繁殖など、その個体にばかり注目していました。でも実際は、野生動物は野生下に棲むべき生き物で、個体ばかりでなく、その環境に注目することに気づかされました。
 野鳥研究部を通じ、鳥の世界に魅了された私は社会人になった今、日本野鳥の会を通じて野生動植物と触れ合っています。学生時代の授業を見返しながら、観察会の盛り上げに奮闘しています。
今までの人生で一貫して野生動植物との触れ合いを楽しんでいられるのは、先生のご指導があったからです。本当にありがとうございます。
 最後に、モンゴルまで連れて行っていただき、貴重な経験をさせて頂いたこと、深く感謝いたしております。どれも生涯忘れることのない楽しい時間です。
 先生と松田聖子さんの曲を共演したのも懐かしく、恋しいです…
 異常気象や情勢の不安定なご時世になりましたが、どうぞご自愛ください。
(2011年 麻布大学卒業)

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高槻先生と研究室での思い出 杉浦

2015-03-07 21:14:51 | つながり
杉浦 義文

 私が高槻先生と初めて会ったのは、麻布大学の入学試験の面接会場であった。高校生のころに高槻先生の代表的な著書である「野生動物と共存できるか~保全生態学入門~」を地元の図書館でみつけたことがきっかけでこの先生のもとで勉強したいと思い、麻布大学の受験を志した。
 面接会場にいた先生は、特徴的なひげを手でさすり、目を伏せて受験生の志願書と思われる書類を眺めていた。高校生の私からすると、これが世界を股にかける大学教授か…見た目もマタギのようだ…と、その迫力に圧倒された記憶がある。ここでその時の面接の話題でもだそうかと思ったが、気づけばその時から7年近く時間が経過しており、隣にすわっていた受験生がホッキョクグマの話題をだした時に先生に論破され泣きながら面接をしていた記憶しか残っていない。つまり、先生の第一印象は、「怖い」の一言であった。
 そんな第一印象ではあったが、いざ入学し野生動物学研究室の扉をたたくと、先生はとても気さくで、研究室への入室は3年生からでありながら、1年生の時から積極的に研究室の活動へ誘っていただいた。研究室でのはじめての活動は、交通事故で死んでしまったタヌキの頭骨標本作製であった。タヌキの頭骨標本作製は、鍋で肉がぼろぼろと崩れるようになるまでぐつぐつと頭を煮込み、それをクリーニングするというものであるが、はじめて体験したタヌキの頭が煮込まれた匂いがなんとも強烈で、今夜は肉料理や煮物は食べることができないなと考えながら作業していた。タヌキの頭骨は、基本的に胴体から外して煮込んでいるが、たまに外す部分を間違えて頭に第一頸椎(環椎)がくっついていることがある。作業をしながら、「あ、これが環椎か」と眺めていると作業の様子を確認しにきた先生が私のみていたタヌキの環椎に気づき、「いや~実に芸術的な形をしているよね」とコメント。正直、これも7年近く昔のことなので、詳細なことは覚えていないのであるが、骨というものに対して芸術的(美しいだったか?)というコメントがでてくることに、非常に驚いたことだけは覚えている。馬やチーターが疾走する姿をみて美しいという人は何人もいるだろうが、骨、しかも首の骨にこのような視点を持てる人はそういないのではないだろうか。
 そんな先生が一番いきいきしていたのは、骨を見ている時でも、素晴らしい論文を読んでいる時でもなく、フィールドに出ている時だ。研究室では、毎年3月に宮城県にある金華山に生息するニホンジカの生息状況調査をおこなっていた。もちろん、この調査に私も1年生のときから参加させていただいており、島内のシカの数を数えるセンサスを行う際に先生とペアを組んで島の北部を歩くことになった。先生はもともと植物からシカの影響を研究されていたので、植物に詳しいことはもちろんであるが、冬場で周囲の枯れ草や落葉と同じような色になっているシカを遠くにいても瞬時に発見し、頭数、性別、幼獣か成獣かまで識別されていた。さらに「何かありそうな気がするな」と先生がいうと、その先にはシカの死体があり、その野生的な勘(実際には嗅覚と経験によるものだが)に感動し、当時フィールドワーク初体験の私の目には、入学前の怖い大学教授ではなく、まさにフィールドワーカーというべき姿の先生がうつっていた。
 金華山をはじめ、その後も牡鹿半島やアファンの森など入室前からさまざまなフィールドを経験させてもらったが、私も卒業研究のテーマを決める時期がやってきた。そのころ、たまたま野生動物保護管理事務所(通称WMO)の姜さんから房総半島で捕獲されたキョンの死体がサンプルとして提供されていた。私は、地元が千葉県であったため、地元に貢献すべく千葉の野生動物の研究をしたいと思っていたので、ぜひキョンの研究をさせてほしいと申し出た。先生からは、GOサインがでたのであるが、ここではじめて先生と口論となった。当時の私は、とにかく地元は野生動物問題で溢れているので、少しでも貢献したいという地元愛に基づくものが研究の動機の大半を占めていた。そんな私に、「しっかりとなぜ“千葉の”キョンの研究をするか考えなさい。“地元が好きだから”では、地元の野球チームを応援するのと変わらんぞ。」とアドバイス(当時はそのように受け取ることができずすみません)をいただいた。これに対し、少し熱くなってしまった私は林床植物への影響が~とかニホンジカとの競合が~と付け焼き刃的な反論をしたのだが、案の定、論理の弱さをつかれ木っ端微塵にされたのであった。私はこれまで気持ちの赴くままに動いてきた性分であったので、論理的な思考を持つということが苦手であったが、この先生との討論をきっかけに「研究」とはどういうものかを教えてもらい、なんとか卒業論文を書き上げることができた。
 今では、高槻先生から紹介していただき卒業研究でも大変お世話になったWMOで毎日野生動物の保全と人間との共存のため働いている。高槻研で学んだことは、単純に「野生動物を守っていく必要性」といった教科書的なものだけでなく、野生動物を含む自然の素晴らしさに気付けるような感性を持てるようになったことだと思う。私は仕事柄、農業被害があるが故に野生動物を憎んでいる人に多く出会う。だが、そんな人にこそ高槻先生のように自然の素晴らしさを伝えられるような人間になりたいと思う。
 高槻先生、長い間お疲れ様でした。
(2012年 麻布大学卒業)

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心配をかけて、褒められて 小森

2015-03-07 21:12:25 | つながり
小森 康之

 今年度を以て退官されることになっておられる高槻先生との思い出を書く機会を頂き、どんな内容で書いていくか、久々の執筆で上手く書けるか不安もあった。今回は研究室生活の中で先生に心配をかけたことを省みつつ、数は少ないものの頂いた評価について思い出して過去を振り返りたい。
 研究室に所属してから卒論完成まで、私はスロースターターな性格が災いして、おそらく事あるごとに先生を心配させていたと思っている。他の同級生たちとは違って、3年生開始の時点では卒業研究のテーマが定まっておらず、春から秋の中頃までアファンの森でカエルを探しつつ課題を模索していた。結局、テーマはシンプルにカエルの食性と決まったのが秋の終わり頃であり、その間どうなるものかと思ったのは、おそらく私だけでなく先生も随分と気になされていたことと思う。翌年、調査シーズンが到来して気合を込めて調査に赴くも、予定していたカエルの胃内容物がどういうわけか採取できず、研究が頓挫しかけた時もまた心配をかけて申し訳なかった覚えがある。幸い7月に入る頃に活路を見出したから良かったものの、調査中に電話をかけて調子を訊ねて来られたあたり、うまくいっているのか気にしていたことと存じる。
 調査も佳境に差し掛かったころ、記念にと爬虫両棲類学会にポスター発表することを決めたはいいが、ポスターの作成に着手したのがなんと大会1週間前。内容なんて1カ月も前に分析し終えていたことをまとめるだけなのに、急ピッチで作業に取り掛からなければならなかった。この時高槻先生は怒ることもなく根気よく私のポスター作りに向きあって頂き、大会2日前に無事完成するにいたった。
 調査が終わりなんとかデータが集まったのも束の間、今度は分析に手間取り何度も食性プログレスに再提出を繰り返す羽目になった。元々要領が悪く、自分の中で物事を理解するのに最低でも4回は同じことをしないと吸収できない性質もあって、思うように作業が進まず、同級生たちから大幅に遅れていた気がする。集めたデータを解析し終えたのが1月の初め頃。就活が難航していたとはいえ、我ながら遅すぎる進展具合に、先生に対する不甲斐なさも人一倍であった。
 このように散々高槻先生には手間をかけさせた思い出が私にとって印象深くはあるが、一方で研究室生活の中で先生から褒めて頂いたこともまた忘れがたい記憶となって生きている。研究室の機関誌オブザベーションでの投稿の際、2回ほど「とても良く書けていました」と評価をしてもらい、特に4年の12月に投稿した時には、わざわざ全体メールで私の文章を紹介して「小森君ありがとう」と締めくくられているのを見て、正直かなり照れながら年末を終えたものであった。確かに小学生の頃より作文は得意であったし、オブザベーションの原稿は題材が決まればノリノリで楽しく書いていた覚えがある。その上でここまで良き評価を頂いたので嬉しさもひとしおだった。
 また、先述したように卒論執筆時相当四苦八苦して進展が遅かったのだが、なんとか結果を書き終えたらその後はサクサク進み、「ダークホースのような追い抜き」などと揶揄されたこともあった。私としてはそこまで大したことはないと思ったものだが、それまで手を焼かせたこともあり意外な評価に少なからず驚いたこともまた事実であった。
 そして迎えた卒論発表会。研究発表が終わった後に先生から頂いたコメント「彼はカエルだけでなく、様々な生き物について精通していました。そんな彼だからこそ出来た研究だったと思います。」は、これ以上ない褒め言葉であった。私は幼い時より本などを目にしながら様々な動物のことを知り、広く浅く知識を得ていたが、人生の中でそれが活かされたことは殆どなかった。そんな私にとってこのコメントは単純な性格ながらいたく感動を与えた。
 大学を卒業して研究室を去った今、私は猛禽類や多くの動物の飼育をしつつ来場者に紹介する仕事に就いている。訳があって一人きりで動物を扱う羽目になり、勉強や努力不足な感じは否めないが、研究室生活で得た反省点を以てより良い仕事をこなせるように少しずつ取り組んでいる。特に一番の欠点であるスロースターターな性格は、仕事全般において大きな障害となるので、辛い作業から逃げないようにすることが肝心だと学んだ。ただ考えるだけだと限界はあるが、やりながら考えれば出来ないことは滅多にないということも調査や先生の叱咤激励から得た私なりの教訓であり、どうにか仕事を乗り切っている。技術や知識不足は、持ち前の動物に対する好奇心や読書力を更に伸ばして挑んでいきたいと思う。
 改めまして高槻先生、在学中散々手間をかけさせてすみませんでした。そして私にとって最大限の賛辞を頂き、ありがとうございました。先生から頂いたお褒めの言葉を励みにして、社会の中で力強く活躍できるようにがんばりますので、退官後もいつまでも明朗かつ活発であり続けて下さい。
(2014年 麻布大学卒業)

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麻布の野生研だから経験できたこと 山本詩織

2015-03-07 21:08:56 | つながり
海老名(山本)詩織

 麻布に入学したら、野生の研究室に入ることを決めていた。
しかし、今まであまり話したこともない人たちと同期になること、まして授業では厳しめな高槻先生の研究室の室生になることに、少しの不安を抱いていた。
 そんな不安を跳ね除けるように、金華山島での実習を通し、私たちA08のメンバーはすぐに仲良くなり、卒業し社会人になった2015年現在も変わらず仲睦まじくやっている。先輩や後輩にいたっても、温厚な人ばかりで和気あいあいと生活を共にできていたと感じている。
 授業では厳しく見えた先生は、案の定研究熱心でまじめな厳しい人だった。たまに、シカの角を頭の左右にかかげてシカのポーズをするなど、お茶目なところもあったりする。そのおかげで、私も物怖じせずに先生と研究について相談したり、アドバイスをいただくことができたのだろう。
 大学院まで進み、アジアゾウの食性を調べるために、まさかの海外はマレーシアに行くことになった。ずっとテーマにしてきた「絶滅危惧動物の保全」の勉強をもっと深める機会を得ることができたのは、私の人生の中で大変貴重なこととなった。学部生の時にスリランカへ研究補佐をしに行き、アジアゾウについては少し学んでいたが、まさかマレーバクを当時研究していた私が、その何倍もあるゾウのウンチをかき集めることになるとは、テーマをいただく寸前まで夢にも思っていなかった。
 そんなマレーシアの熱帯林では、せまりくるカやヒルと闘いながら、目の前に生い茂る木々をナイフで切りすすめていったり、滝で水浴びをしたりと、ターザンみたいなワイルドな生活を送っていた。これもなかなかに味わえない体験だろう。汗と泥まみれで集めたゾウのウンチを、シェアハウスに持ち帰り、中腰になって洗い続ける作業もなかなかにないことだった。1ヶ月の予備調査と2ヶ月の本調査の中で、現地のスタッフやボランティアで来ていた諸外国の人たちと交流を深められたのも、研究の成果だけではない得難いものだった。肝心の野生のゾウは3、4回くらいしか見られなかったが、2週間滞在していた高槻先生はその中の1、2回を共にしているので、かなりのラッキーマンだと思う。
 こんな貴重な機会を与えてくれた先生には本当に感謝してもし足りないくらいで、卒業・修了まで研究に厳しくも優しくアドバイスしてくれ、こんなに面倒を見てくれる先生はいないと、周りの生徒には逆に羨ましがられたくらいだった。「検定や文章の作り方がなってない」と怒られ、「これでもか~!」と負けずに論文の校正を重ねたことが今ではいい思い出である。
 卒業をして約1年、つい先日には同期の海老名健とご縁あっての結婚式で、高槻先生に挨拶のスピーチをしていただいた。先生のことだから、ギター片手に歌でも歌うのかしら?と思っていたのだが、意外にも教授らしく真面目なスピーチだった。出版した本の宣伝が入ったのは、やはりお茶目だなぁと思ったが、大切な時にこうして恩師にお祝いをしてもらえてなんとも有難いことだった。先生の教え子同士で結婚したのは、私たちが初めてというのもなんだか照れくさいが嬉しかった。
 そして今度は先生の麻布大学卒業(?)という門出のときである。お返しとは言わないでも、こうしてお祝いすることができて、嬉しく思っている。最後に心からの感謝を込めてメッセージを送りたいと思う。

高槻先生、長い間本当にお疲れ様でした!
 バクとゾウを今まで以上に好きになり、深く学べたのも先生のおかげです。
これからも植物と動物と歌を愛する、お茶目な先生でいてください!
体に無理のない、健康で平和な毎日をお過ごしください。

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☆おまけ☆
海老名 健
 2年間という短い間でしたが大変お世話になりました。そして結婚式では楽しいスピーチをありがとうございました。今後も機会がありましたら、嫁ともどもよろしくお願いいたします。

(2014年 麻布大学大学院修士課程修了)

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夢中の日々 山田

2015-03-07 21:06:48 | つながり
山田 穂高

 高槻先生の研究室には学部3年次から4年間所属しました。フィールドに出て野生動物を研究した日々は、今思い返しても他ではできない貴重な経験でした。そしてその勉強の時間を通じて、はじめて自分自身とも向き合ったように思います。
 入室してすぐのころは様々なことが初めてづくしでした。卒論のデータをとった金華山をはじめ、先生に連れられて多くの場所に行き、野生生物の姿や痕跡を追いました。同じ研究室の同期や後輩も気がいい人たちが多く、毎日が楽しかったです。研究も順調とはいえなかったかもしれませんがやりがいはとても感じていて、将来は研究者になろうと息巻いていました。
 しかしいざ論文を書いたり、発表したりとなるとそううまくはいきませんでした。唯一でわかりやすい正解というものがなく、今の自分の実力で意見を出すしかない。そしてそれを誰かの評価にさらして、ときには傷つきながらも自分の作品である研究を高めていく。そんな修行めいた時間であり、人生で初めてのことだったと思います。当時は無我夢中でそれほど冷静ではいませんでしたが、この経験を通じて自分がどれほど弱くて、閉じこもった世界で生きてきたかを痛感しました。どうすればよいのかと途方にくれながらあれこれと試していました。
 などと書いてしまうと苦しいことだったようですが、周囲の温かいアドバイスや支えもあり執筆を終えるととても達成感がありました。本当に助け船を出してくださった方々には感謝しています。成長といえるかはわかりませんが、この研究室での悩みぬいたときを通じて自分のなかで価値観や考え方などが大きく変わりました。それは何となく大学生活を過ごしていたらなかったことだと思います。
 いま振り返ると学生の頃の自分は本当に未熟で幼くて、もっとやっておけばよかったと後悔することもたくさんあります。ですがよくわからないながらももがいていた過去があるからこそ、今目の前のことやこれからのことに真剣に向き合うことができるように思います。研究室での4年間は少し苦い思い出ながらも、楽しく大切な日々であり、その出会いや経験をこれからの糧として歩んでいきたいです。
(2012年 麻布大学大学院修士課程修了)

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読んで、出会って、教わって 坂本

2015-03-07 21:03:08 | つながり

坂本 有加

 高槻成紀先生、御退官おめでとうございます。長年にわたり御指導を頂きましたこと、心より御礼申し上げます。
 私が野生動物の研究を志すきっかけとなったのは、先生の著書『野生動物と共存できるか』でした。この本が発行された当時、私は高校3年生でした。学校の図書室の新書案内で見かけ、とても気になったのですぐに借りに行きました。あとはもう夢中で読みました。こんな世界があるのかと思いました。そしてその世界に私も入るのだと決めましたが、進学先は野生動物の勉強ができるならどこへでも、というつもりでした。無事合格した麻布大学へ入学すると、まず動物応用科学概論という講義がありました。動物応用科学科の先生方から研究内容や自己紹介を聞くのですが、何回目だったでしょうか、野生動物学研究室の先生のお話を聞いていると、その先生も麻布大学に来たばかりとのことでした。そして、「私が今まで書いた本は、…」と、スライドが切り替わりました。スクリーンには、見覚えのある、ツキノワグマの絵が印象的なあの本が映っていました。『野生動物と共存できるか』。「え?あの本の人?」本当に驚きました。先生が麻布大学へ赴任されたまさにその年、そうとは全く知らない私は入学したのでした。そして4年間はあっという間に過ぎ、卒業した後も、先生にはお世話になりっぱなしです。なんだか卒業した気がしていませんが、今までの思い出を少し書いてみようと思います。

<学生の観察>
先生は研究室のお茶飲みテーブルの空間を大切にされていて、そこは私たちにとっても居心地がよく、テーブルを囲んでお弁当を食べたり、お菓子を食べながらお喋りをしたりして過ごしました。私たちは先生とお茶を飲んだり、歌についてお喋りをしたりしました。そんな時に先生は、学生のことをよく観察されていたようです。ある日、学生同士でお喋りをしていたら、瀧口先輩から「坂本さんは本当におもしろい時にだけ笑うよね」と先生が言っていたよ、と聞きました。まったく自覚はなく、見られていることも知らず、どう返せばよいのかも分からず、ちょっと恥ずかしかったことを覚えています。

<学生生活最良の2週間>
3年生の夏に、モンゴルでの調査に同行させて頂きました。先生や大津さん、藤本さんたちのお手伝いとして奮闘した2週間は、学生生活最良の時間となりました。『野生動物と共存できるか』にはモンゴルのモウコガゼルやタヒのことが書いてありました。本で読んだ風景、広い空の下、乾いた空気の中に自分がいて、しかも先生と一緒に来ていて、ペアを組んで訪花昆虫の調査をしていたのです。なんとも不思議な気持ちでした。忘れてはいけないのがモンゴルの人たちとの出会いです。皆さんとても親切で、何度も助けて頂くうちに、研究は一人ではできないことを実感しました。お別れの挨拶をした時には、そのことを痛いくらいに感じました。そして、こうした人とのつながりを先生が長年大切にされてきたことを理解しました。さて帰国が迫る頃、採集した糞虫の管理について問題が起きたので、宗兼さんと二人で先生の部屋を訪れました。今思えば「相談」に行けばよかったのに、それまでの経緯から、私は「抗議」に行くような態度をとっていました。だいぶケンカ腰だったのではないかと思います。それでも先生は私たちの話を聞いてくださり、問題は解決されました。今でも思い出すたびに、あの時の私はなんて生意気だったのだろうと反省しています。

<秘かな楽しみ>
先生は文章を書くのが早く、メールの返信も早いです。きっと、そうしないと追いつかないほどの仕事が、次々と控えているからだと思います。先生の仕事を溜めない姿勢を尊敬しています。その分、と言っていいのでしょうか、メールには誤変換が紛れていることがありました。文脈から本当の言葉を読み取ることが、私の秘かな楽しみでありました。レポートや、大学祭のポスター原稿に手書きで添削して頂くこともありました。これもたまに読めないものがあって、(特に漢字が難しいのですが)室生と協力して判読するのもまた楽しみでした。私は先生の字を判読するのが、他の人よりちょっと得意だと思っています。

<宝物>
熱心に研究に取り組まれる先生の姿から、生き物を研究することの面白さ、そして科学の面白さを知ることができました。研究室で過ごした日々を始めとして、大学に入ってよかったと思うことは沢山あります。その中で、科学的な視点を持つことができたことも私の宝物だと思っています。データの読み方が分かるようになると、物事の捉え方が変わり、世界の見え方が変わってくるようでした。そして自分の視点を持つことができたと感じました。まだまだ未熟な私は、科学について語るだけの経験が足りないと感じています。これからも科学的な視点という宝物を大切に磨いていきたいと思います。
先生、長い間お疲れ様でした。これからもお体にお気を付けてください。
(2011年 麻布大学卒業)

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過去も今もこれからも 戸田

2015-03-07 21:00:29 | つながり

戸田 美樹

 東京を離れて、南アルプスの麓、早川町に来てもうすぐ2年が経ちます。
 自然に囲まれた今の生活は、自分にとても合っていて、とても楽しい毎日を送っています。
 高槻先生との出会いからも、もう6年も経つと思うと、時の流れは本当に早いものです。
始まりは高校3年の時。動物園で働きたいから、動物関係の大学に進もうと漠然と考えていた頃、麻布大学で行われた講演に参加しました。たしかオープンセミナーみたいなものだった気がします。その時、ちょうど高槻先生の講義がありました。大教室で、モンゴルのタヒの調査の話を聞き、私もこんなことができたら面白そう!と思い、麻布大を受験することを決めました。調査の目的などの研究の醍醐味など全く理解しておらず、テレビでしか見たことのない大自然の中で、野生の生きものを調べる、という行為に興味を持っただけだったのですが、この時の私には、大きな衝撃だったのです。
 その講演後、地元の図書館で高槻先生の本を借りて、「野生動物と共存できるか」を読んで、樋口さんのアホウドリの保全の話を読んで、「私も野生動物を絶滅から救いたい」なんて考えていました。
 そして、推薦入学の試験を受けて、みんなよりも一足先に決まった進学先。なんと面接官は高槻先生でした。先生は全く覚えていらっしゃらないでしょうね。
 大学に入る頃までは、大それた将来を想像していた私ですが、大学1年、2年の生活を経て、研究室に所属してからは、卒業研究はそっちのけで、森の中をほっつき歩いていました。高槻先生にとって、好き勝手やっているし、いうことは聞かないし期限は守らないし、困った学生だったことと思います。
 4年に入って、ようやく研究にちょっとずつ向き合い始め、自分の研究のテーマに様々な生態学の要素が含まれており、面白味を感じるようになりましたが、研究に向き合うのが遅かったなぁ、と今はくちびるを噛む思いでいます。
 ただ自然を歩き回ることは、どんな立場にいてもできることで、自然に対して様々な切り口から疑問を持ち、それを突き詰めて考えることは、研究室に所属しているからこそできたことです。そして、様々な切り口を持つために、まず自然についてたくさん勉強しなければならなかったのですね。今になってようやく、その順序に気が付きました。
 そして大学を離れた今、大西さんや山田さんと一緒にいるおかげで、高槻先生を忘れることはありません。特に、大西さんには、私が自然への視点で行き詰っている時には必ず「高槻さんの話が面白いのはなんでか」、「高槻さんと一緒に森を歩きたいと思うのはなぜか」と問われます。
 高槻先生の自然の知識と視点と想い、先生の話には、その全ての根っこがしっかりとあるから、一緒に自然を歩きたくなるのです。そう考えると、私の目標とするガイドさんは、高槻先生なのかもしれません。
自然に身を置いてからは、毎日の自然とのふれあいの中で、疑問に思ったことをちょっとずつ勉強したりしていると、「これをこんな風に調べてみたいなぁ」と、研究室にいるうちに必要だった視点に、遠回りしながら辿り着いてきている気がしています。
 なにはともあれ、遠くにいても、大西さんや自然を通して、いまだに高槻先生に教わっていることがたくさんあるのです。この場を借りて、改めてお礼を言わせてください。今、私がこの道を歩んでいるのは、高槻先生に出会えたからだと思っています。
 そして、早川での高槻先生のお話は、自然の話だけには留まりません。学生時代、調査で私が車から席を外している間に、先生が私のカメラのデータを勝手に見ていた事件(覚えてますか?)など、私たちの笑顔の種になっていることは内緒の話です。
(2013年 麻布大学卒業)

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純粋な人 海老原

2015-03-07 20:58:12 | つながり

海老原 寛
「野生生物の保護がしたい!」と意気込んだ小学生時代の私。大学に入るときまでその気持ちは変わっていなかったが、このときは生き物のことを本当の意味で知らなかった。そのことに気付くことができたのは、麻布の野生研に入ったからだった。
 初めて高槻先生を知ったのは、麻布で定期的に開催している「野生動物学セミナー」だった。定期的にとは言っても、高槻先生が麻布に来たのは私の入学と同じ年だったので、そのときはまだ試験的なものであったのかもしれない。まだ1年生で研究とはなにかもよくわからず、先生と話をする勇気もなかった私は、その場で関わりを持つことはなかった。それから数か月後、高槻先生が希望者を募って、大学近くの谷戸を散策するというイベントがあった。友達に紹介をしてもらった私はそのイベントに参加し、初めて高槻先生と行動を共にすることになる。高槻先生のはじめの印象は、まったく覚えていない。それでも、植物や虫のことを楽しそうに話す、先生の顔は鮮明に覚えている。
 その活動をきっかけにして、私は研究室に通うようになった。金華山でのシカの捕獲調査に参加したり、様々な動物の解剖や標本作りをしたり、当時は高槻先生と一緒に辻大和さんが一緒に麻布におられたので、サルが好きだった私は辻さんの作業を手伝いに行くことも多かった。参加するのに勇気を振り絞っていた野生動物学セミナーにも毎回通うようになり、懇親会の食事の準備までするようになっていた。ニンジンやトマトが嫌いな先生用に、わざわざそれらを避けて料理を取り分けたのもいい思い出である。ちなみに、そのときの言葉で記憶に残っているのは、「ナス科は毒があるから食べない!」という名言(!?)である。今は食べられるようになったようだ(笑)。学祭で展示をおこなったこともいい思い出である。「ホンモノを見せる」という信念の下、ロードキルで死んでしまった中型哺乳類の頭骨を並べた展示は、標本を作るところから自分たちでおこなった自信作となった。何も知らない大学1年生だった頃からたくさんの経験をさせていただき、私はどんどん野生生物の世界に惹かれていった。
 3年生になって正式に研究室生となり、結局は修士まで高槻先生の下で研究をすることになっていた。最初提示された研究テーマの中にサルのテーマはなかったが、サル好きな私のことを理解してくれ、サルの研究をさせてもらった。学年は変わっても今までのようなイベントは数多くあったので、やっていることはそう変わらなかった。変わったことといえば、本格的に「研究」というものに携わるようになったことで、そこで先生の厳しい面を今までよりも見るようになる。ゼミでの意見や日常の議論など、頭を抱えることが多くなった。先生は自分で「自分は厳しい」と言うし、私も先ほど厳しいと書いたが、実は私は、高槻先生が厳しいと思ったことは一度もない。ただ単に、いつでも事実をひたむきに求めているだけなのだと思っている。そんな姿勢は学ぶ部分が多かった。しかし、そう思えば思うほど、自分には到底できないことなのだということもわかった。先生は本当に純粋なのだと思う。純粋だからこそ、くもりのない眼差しで生き物を見つめることができる。そして、純粋だからこそ、事実をひたむきに求めているのだと思う。
 私は今、野生動物に関わる仕事をしている。結局、大学生活の6年間も高槻先生の下で過ごしたが、その環境から離れて改めてわかった財産がたくさんある。まず、「しっかり観察する」ということ。ホンモノをしっかり見ることは、仕事上でも不可欠なことであるし、なにより楽しい。また、様々な哺乳類はもちろん、植物や虫などすべての生き物に対して興味を持てたということも、大きな財産となっている。現在の日本は野生動物による社会問題であふれており、私の会社では、その中でもシカとサルの仕事が多い。幸い、シカが専門の指導教官の下でサルの研究をしていた私にとっては、大学時代からの財産を生かすことができる環境となっている。シカやサルの仕事では、個体をよく観察する力が必要になるし、植物の知識も大いに役立つ。観察力も植物の知識もまだまだ未熟であるが、学生時代に少しでも意識していたことが大きな力となっている。これらは高槻先生の下で学ぶことができたからこそ身についたことであり、とても感謝している。
 高槻先生が退官するということは、生態学にも日本の自然環境にも大きな影響があると思う。高槻先生がいなくなれば、これほどシカと植物の関係をしっかり研究する人がいなくなってしまうからだ。日本はシカによる植生被害が大問題になっており、シカの研究者が必要不可欠となっている。しかし、これは私の印象であるが、シカをどう減らすかとか植生をどう守るかとか、そのような研究ばかりがあふれているような気がする。もちろん、この手の研究の多さがシカの大問題を表しているということにもなるのだが、これでは、生物学としてのシカの研究がおもしろくなくなっていってしまう。シカと植物の関係をしっかり観察して、シカという動物を理解していくような環境がないと、そのような人材が育っていかないのではないか。そして、そのような人材を育てることができるのが高槻先生だけだったのではないかと。「シカのことが知りたい」という純粋な気持ちで研究をしていくということが、本当の意味での研究の面白さだということがわからなくなっていってしまうのではないだろうか。
 高槻先生は退職をしてしまうが、きっとこれからも研究者として生きていくのだろうと思う。むしろ大学の仕事がなくなって、今までより精力的に研究活動に没頭するのではないかとさえ思っている。先生がいるうちにできる限り多くのものを吸収していきたい。そうして得た知識や技術、感覚を自分のものにして、さらには次世代につなげていくことが、一番の恩返しなのではないかと考えている。
(2013年 麻布大学大学院修士課程修了)

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高槻研 ×「伝える」 奥津

2015-03-07 20:55:17 | つながり
奥津 憲人

 私は今教員として働いている。動物園の飼育員や自然科学の番組作成に興味を持った時期もあったが、教職に就こうと決心したのは高槻先生と出会ったからだ。
 私が高槻先生と出会ったとき、高槻先生は「教育に興味がある」とおっしゃっていた。大変失礼なことだが、私は、大学教授は研究者であるため「教育」に強く関心を持っている方はそうそういないと思っていた。だからこのことは私にとって衝撃であった。そして同時に嬉しかった。教職に就こうと考えていた当時の私にとって、自分の選ぶ道を肯定してくれたような気がした。だからこそ、私は高槻先生の下で学びたいと思った。
 私が教職に就くことを決心したのは、野生動物学研究室で研究の「面白さ」だけでなく、「伝えることの大切さ」を感じたからだ。もともと生物のことが好きだった私は、野生動物の研究をし、生態などを知ることに魅力を感じていた。そして、野生動物学研究室で活動を続けて行く中で、面白さだけでなく、知ったことや解明したことを「伝える」ことの重要性を強く感じるようになった。研究を続け、何かを解明することはもちろん重要である。しかし、その解明したことを人に伝えるということは、まるで研究結果に息を吹き込むように、その意義をさらに高めるとても重要なものであると感じたのだ。
 それを最も強く感じたのは、大学3年時に「日の出町谷戸沢廃棄物広域処分場生態モニタリング調査報告会」で講演をしたときである。私が卒業研究の舞台としていた「日の出町谷戸沢廃棄物広域処分場(以下、谷戸沢処分場)」は、東京のごみを埋め立てているごみ処分場の跡地であった。ごみの埋め立ては10年以上前に終わっており、廃棄物の上にシートや土をかぶせ、自然環境を回復させる取り組みがおこなわれ、現在では絶滅危惧種を含め様々な動植物が生息している。しかし「処分場」という施設の性質上、地元住民の中には谷戸沢処分場の存在に対して強く反対する方もいるようだった。そんな中、私は卒業研究について、谷戸沢処分場で長期にわたっておこなわれてきた生態モニタリング調査の報告会で講演をする機会をいただいた。この講演は私にとって初めて大人数の前でおこなう講演で、とても緊張したのを覚えている。報告会当日、会場には「処分場反対派」の方も聴衆として参加しているということを耳にした。そのことで私はさらに委縮してしまい、結果的には非常に粗末な講演だったように思う。講演の最中に聴衆の一人から「もう少しゆっくり話してほしい」と言われてしまうほど、上手くいかなかった。私は深く落ち込むとともに、「伝える」ことの難しさを痛感した。ところが終わってみると、とても驚くことが起きた。終了後に参加者に話を聞いてみると、処分場に反対していた方からも「大学生がこういった場所を利用して研究をすることはいいことだ」「報告会をやってよかった」という肯定的な意見をいただいたというのだ。このとき、私は「伝える」ことの重要性を強く感じた。私の研究は、人間の管理と野生動物との関係を調べたものであり、社会に伝えて活用しなければ何の意味もないものだ。うまく伝わっていないかもしれないが、誰かに伝えようとしたことで研究に意義が生まれたように思えたのだ。そう思ったのは、私が保全に関して研究をしていたからだろう。保全は地元住民の協力が不可欠である。だからこそ、今まで反対していた方が私たちの取り組みを評価して下さったことは、とても意味があると思った。また、それと同時に、私はとても嬉しくなった。自分の説明で、もちろん他の方々が素晴らしい講演をされたからだとは思うが、そういった考えをしてくれるということは、ムズかゆいような気持ちと同時に、達成感があり、実に楽しいものだった。だからこそ私は研究する立場ではなく、「伝える」立場である教職に就こうと決心した。
 今私は教員として、改めて伝えることの難しさを感じている。生徒にとって、私が伝えることは人生に関わる。その責任は大きく、どんなことを伝えたらよいのか日々頭を悩ませている。また、全員が関心を示すわけではないということも難しさの一つだ。しかし、だからこそ「面白い」と感じる部分がある。どのような生徒に育っていくのか、どのような人生を歩むのか、どのような社会にしてくれるのか、そんな想像しながら生徒たちと向き合うことは、とても面白い。正解はなく、ゴールもないことであるが、大きなやりがいを感じている。
 野生動物学研究室で学んだことは、どれも今の私にとって不可欠のものだ。自然に対する興味のもちかたやその調べ方。ただ調べ、知るだけではなく、その成果を伝えることの重要性。そして何より、教員という職業を選べたこと。どれも高槻先生に出会えたからだ。高槻先生の下で学べたことを、とても幸せに思います。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
(2011年 麻布大学卒業)
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