野口 理佐子
「学者の言うことなんて、オレはあてにしねえ!」と、ありとあらゆる名のある方々を蹴散らしてきたアファンの森の松木に「あの先生は、他の学者とは違うな」と言わせたのが高槻成紀先生です。
長野県黒姫にあるアファンの森に高槻先生が初めてお越しいただいたのは、2009年の初夏でした。作家C•Wニコルが日本の自然の崩壊を憂い、放置された里山を1986年から自ら買い取り、「日本本来の美しい森を取り戻したい」という思いを実践している場所です。その思いを実際にカタチにした松木は、15の時から山に籠もり、炭焼きをして生計を立ててきました。お米とお味噌だけを持って、たった一人で数ヶ月山に籠もり木を伐り、炭を焼くという暮らしの中から、自然と対峙して“生きる”ために知恵を体得してきた強者です。松木の好奇心は人一倍強く、飽く無き探究心で自然のスゴさを見つめてきました。そんな松木が一番嫌うのが、自分の専門分野のことしか興味を持たない研究者でした。いわゆる論文を描くためだけの研究。「それが何の役に立つんだ」松木はいつも研究者にその問を投げかけていました。
ところが高槻先生は、森に入ると少年のように心を踊らせながら目を輝かせ、植物、昆虫、動物すべてに興味と敬愛の意を注ぎ、地面を這いつくばっているではありませんか! 松木は、直感的に高槻先生の凄さを見抜いたのでしょう。初対面で意気投合し、ある意味ライバル心のようなものも芽生え、その後、高槻研究室としてアファンの森に定期的に調査にこられてから、二人の押し問答は、果てしなく意義深い生態学のお話に発展していたと思われます。
言い換えれば、松木のような偏屈で古くさく人の話を聞かない、研究者からすれば大変厄介な存在である人物であっても、敬愛する野生動物の1種のように興味を持って尊敬し愛してくださる、それこそ高槻先生が単なる学者ではない所以だと思います。
C•Wニコルが目指していたアファンの森づくりは、森林生態系の再生でした。人のためではなく、あらゆる生き物のための森づくり。そのために財団法人を設立してから、科学的な視点で調査をすることが、元来調査マンであったニコルからの命題でした。松木が施してきた伝統的な森林整備の手法が、科学的に森の生態系にどのように寄与してきたのかー。とは言え、資金が潤沢にあるわけでもなく、興味を抱いて下さった生物調査者の方々に、種のリストを出してもらうという調査に留まっているような現状でした。ニコルをはじめとするアファンの森財団が知りたいのは、森林整備と森の生態系の回復の関係、「命の環」が取り戻せているかどうかということ。
そんな悩みに直面していた時、高槻先生が救世主の如く現れてくださいました。もともとニコルとは、30年くらい前にシカに関する番組を一緒に作られたというご縁が引き寄せてくれたのでしょうか、高槻先生の研究テーマでもある「リンク」は、まさしく「命の環」。生きものと生きものの繋がりや関係を一つ一つ紐解く作業を熱心な研究室の学生たちと共に取り組んでくださいました。時には一つの花に訪問する昆虫を永遠に待っていたり、時には木の上の巣箱を覗いたり、地面に落ちているクルミを誰が食べているのかを調べたり……。その姿はまるで森の妖精と会話をしているかのようでした。
まさに“森との対話”。私達アファンの森財団にとって最も必要な“森と対話する”ということを体現しながら、科学的な視点や手法を教えていただきました。その功績は将来にわたり、アファンの森財団にとって非常に意味のある大きな布石となりえます。
高槻先生は、生物と生物のリンクについて、人と生物が対話をするということはどういうことなのか、そしてその対話の仕方も教えてくださり、尚かつ人と人のリンクも繋いでくださいました。それは、アファンの森財団と麻布大学の学術交流協定というカタチあるものとして実を結んでいます。忘れもしない2010年3月、アファンと学術交流協定を締結式に併せて行ったシンポジウムでは、麻布大学に200名の方がお越しになり、ニコル、松木、高槻先生の絶妙なトークは、抱腹絶倒の笑いあり、涙あり、感動がありと参加者の方から絶賛されました。
また、ニコルが日頃「机で仕事をするのではなくフィールドで仕事をしろ」と現場へ出る大切さを訴えていたのと同様に、高槻先生は何より学生や研究者がフィールドに出て学ぶことの必要性をアファンの森で実践されました。森で、みるみる成長していく学生たちを見ていると、次の世代に繋ぐというリンクも創られていると実感します。
世代の繋がりという点では、社会と自然の繋がりも文化的側面からもその重要性を提唱されました。自然の情景から生まれた叙情歌「ふるさと」や「春の小川」などから、変貌した日本社会が失ったものの大きさを書籍として出版され、世に残すというカタチで繋げていただきました。
高槻先生は、生物―人―組織―社会―自然―文化―世代すべての繋がりを取り戻す、ということの重要性を肌で感じ、無意識に突き動かされていらっしゃるかのように拝見します。
そのことが、どれだけこの日本の状況に必要なことか…。
悠久に流れる時の中で、C•Wニコルと松木信義が出会い、そこに科学的な視点を持った高槻成紀先生に加わっていただいたこと。この奇跡の三人が、アファンの森の木の下で、共にこの森の行く末を考え、ここから日本の未来に想いを馳せているという瞬間に立ち会えたこと、その喜びは計り知れません。
この奇跡の三人の成果は、100年後200年後のアファンの森が、自ら後世に語ってくれることでしょう。
高槻先生、これからも益々アファンの森から様々なリンクの発信をお願い致します。
(一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団)
松木さんは筋金入りの「山の人」です。すぐれたハンターによくあるように、観察眼が鋭く、合理的に考えます。ただ、それだけでなく相当ヘソが曲がっています。あらゆる生き物を愛しているくせに、「食えない草などあってもしょうがねえ」という表現をします。いろいろ体験談をして「で、おらがどうしたと思う?」とくるので、私が「うーむ、さあー」と考えていると、「そんなこともわからねえのか」と遠慮がありません。私が困っているとニヤニヤしながら、話が核心に達する時は眼光が鋭くなります。最初にアファンに行った年の春から夏にかけて、私がいくつかの植物を見つけて、それらは松木さんが知らなかったものでした。その辺りからどことなく雰囲気が違ってきて「お茶でも飲んで行くか?」と「松木小屋」に誘ってくれるようになりました。若い頃の話を聞くのが楽しみでした。
「学者の言うことなんて、オレはあてにしねえ!」と、ありとあらゆる名のある方々を蹴散らしてきたアファンの森の松木に「あの先生は、他の学者とは違うな」と言わせたのが高槻成紀先生です。
長野県黒姫にあるアファンの森に高槻先生が初めてお越しいただいたのは、2009年の初夏でした。作家C•Wニコルが日本の自然の崩壊を憂い、放置された里山を1986年から自ら買い取り、「日本本来の美しい森を取り戻したい」という思いを実践している場所です。その思いを実際にカタチにした松木は、15の時から山に籠もり、炭焼きをして生計を立ててきました。お米とお味噌だけを持って、たった一人で数ヶ月山に籠もり木を伐り、炭を焼くという暮らしの中から、自然と対峙して“生きる”ために知恵を体得してきた強者です。松木の好奇心は人一倍強く、飽く無き探究心で自然のスゴさを見つめてきました。そんな松木が一番嫌うのが、自分の専門分野のことしか興味を持たない研究者でした。いわゆる論文を描くためだけの研究。「それが何の役に立つんだ」松木はいつも研究者にその問を投げかけていました。
ところが高槻先生は、森に入ると少年のように心を踊らせながら目を輝かせ、植物、昆虫、動物すべてに興味と敬愛の意を注ぎ、地面を這いつくばっているではありませんか! 松木は、直感的に高槻先生の凄さを見抜いたのでしょう。初対面で意気投合し、ある意味ライバル心のようなものも芽生え、その後、高槻研究室としてアファンの森に定期的に調査にこられてから、二人の押し問答は、果てしなく意義深い生態学のお話に発展していたと思われます。
言い換えれば、松木のような偏屈で古くさく人の話を聞かない、研究者からすれば大変厄介な存在である人物であっても、敬愛する野生動物の1種のように興味を持って尊敬し愛してくださる、それこそ高槻先生が単なる学者ではない所以だと思います。
C•Wニコルが目指していたアファンの森づくりは、森林生態系の再生でした。人のためではなく、あらゆる生き物のための森づくり。そのために財団法人を設立してから、科学的な視点で調査をすることが、元来調査マンであったニコルからの命題でした。松木が施してきた伝統的な森林整備の手法が、科学的に森の生態系にどのように寄与してきたのかー。とは言え、資金が潤沢にあるわけでもなく、興味を抱いて下さった生物調査者の方々に、種のリストを出してもらうという調査に留まっているような現状でした。ニコルをはじめとするアファンの森財団が知りたいのは、森林整備と森の生態系の回復の関係、「命の環」が取り戻せているかどうかということ。
そんな悩みに直面していた時、高槻先生が救世主の如く現れてくださいました。もともとニコルとは、30年くらい前にシカに関する番組を一緒に作られたというご縁が引き寄せてくれたのでしょうか、高槻先生の研究テーマでもある「リンク」は、まさしく「命の環」。生きものと生きものの繋がりや関係を一つ一つ紐解く作業を熱心な研究室の学生たちと共に取り組んでくださいました。時には一つの花に訪問する昆虫を永遠に待っていたり、時には木の上の巣箱を覗いたり、地面に落ちているクルミを誰が食べているのかを調べたり……。その姿はまるで森の妖精と会話をしているかのようでした。
まさに“森との対話”。私達アファンの森財団にとって最も必要な“森と対話する”ということを体現しながら、科学的な視点や手法を教えていただきました。その功績は将来にわたり、アファンの森財団にとって非常に意味のある大きな布石となりえます。
高槻先生は、生物と生物のリンクについて、人と生物が対話をするということはどういうことなのか、そしてその対話の仕方も教えてくださり、尚かつ人と人のリンクも繋いでくださいました。それは、アファンの森財団と麻布大学の学術交流協定というカタチあるものとして実を結んでいます。忘れもしない2010年3月、アファンと学術交流協定を締結式に併せて行ったシンポジウムでは、麻布大学に200名の方がお越しになり、ニコル、松木、高槻先生の絶妙なトークは、抱腹絶倒の笑いあり、涙あり、感動がありと参加者の方から絶賛されました。
また、ニコルが日頃「机で仕事をするのではなくフィールドで仕事をしろ」と現場へ出る大切さを訴えていたのと同様に、高槻先生は何より学生や研究者がフィールドに出て学ぶことの必要性をアファンの森で実践されました。森で、みるみる成長していく学生たちを見ていると、次の世代に繋ぐというリンクも創られていると実感します。
世代の繋がりという点では、社会と自然の繋がりも文化的側面からもその重要性を提唱されました。自然の情景から生まれた叙情歌「ふるさと」や「春の小川」などから、変貌した日本社会が失ったものの大きさを書籍として出版され、世に残すというカタチで繋げていただきました。
高槻先生は、生物―人―組織―社会―自然―文化―世代すべての繋がりを取り戻す、ということの重要性を肌で感じ、無意識に突き動かされていらっしゃるかのように拝見します。
そのことが、どれだけこの日本の状況に必要なことか…。
悠久に流れる時の中で、C•Wニコルと松木信義が出会い、そこに科学的な視点を持った高槻成紀先生に加わっていただいたこと。この奇跡の三人が、アファンの森の木の下で、共にこの森の行く末を考え、ここから日本の未来に想いを馳せているという瞬間に立ち会えたこと、その喜びは計り知れません。
この奇跡の三人の成果は、100年後200年後のアファンの森が、自ら後世に語ってくれることでしょう。
高槻先生、これからも益々アファンの森から様々なリンクの発信をお願い致します。
(一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団)
松木さんは筋金入りの「山の人」です。すぐれたハンターによくあるように、観察眼が鋭く、合理的に考えます。ただ、それだけでなく相当ヘソが曲がっています。あらゆる生き物を愛しているくせに、「食えない草などあってもしょうがねえ」という表現をします。いろいろ体験談をして「で、おらがどうしたと思う?」とくるので、私が「うーむ、さあー」と考えていると、「そんなこともわからねえのか」と遠慮がありません。私が困っているとニヤニヤしながら、話が核心に達する時は眼光が鋭くなります。最初にアファンに行った年の春から夏にかけて、私がいくつかの植物を見つけて、それらは松木さんが知らなかったものでした。その辺りからどことなく雰囲気が違ってきて「お茶でも飲んで行くか?」と「松木小屋」に誘ってくれるようになりました。若い頃の話を聞くのが楽しみでした。
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