





2020.3.3
<はじめに>
高尾山でチラホラ、シカの情報が聞かれるようになった。裏高尾で数年前から地道にセンサーカメラで宿を撮影してきた「高尾の森を守る会」の山崎勇氏たちのデータによると、この数年でシカの撮影数がうなぎ登りに増えている。またアオキなどの食痕も2019年の冬から春にかけて急に増えている(図1)。
裏高尾は高尾山の文字通り「裏山」であり、シカが高尾山に入って増えれば大変なことになるので、気になっている。
それで山崎さんに「シカの糞があったら分析しますから送ってください」とお願いしていたのだが、なかなか見つからないとのことだった。食痕は目に見える形で残るから、シカが低密度でも目立つが、糞は意外に見つからず、糞虫に分解されるので特に夏には見つけにくいということはあるが、それにしても不思議な感じがあった。そうした中でようやく4月11日に一つだけ見つかったというので送ってもらった。また10月になり、台風後の10月31日に5つの糞サンプルが得られた。また11月14日にも5サンプルが得られた。現状では道路が荒れて、歩行も困難な状態にある。
<方法など>
糞は1回の排泄分で、そこから10個を採取してもらった。分析法などは他の報告と同じのでここでは省略するが、要するに糞をふるいの上で洗って、糞中に残った植物片を顕微鏡でのぞいて識別し、内容ごとにどれだけ含まれていたかを表現する方法である。
<シカの食性の一般的傾向>
4月11日といえばようやく春の新緑が出始めで、シカにとってはまだ食物が乏しい時期である。多くの場所でシカ糞中には繊維など支持組織や判別不能の不透明な破片が多い。ただしササがある場所ではササが多く出ることがある。またイネ科や枯葉も出てくることが多い。イネ科には早めに芽生えたものもあるし、前年のものが枯れたものもある。
夏は糞虫の分解のためサンプルが得られなかった。10月はまだ夏とさほど違いがない。多くの場所でイネ科が増えることが多い。11月になると草本類は枯れ、落葉樹の落葉が進むから常緑低木やササへの依存が高まることが多い。
<結果>
裏高尾でどうだったかというと、4月の例では全体に5割ほどが葉以外の支持組織で、葉は4割ほどであった(図2)。支持組織では繊維が39%、稈(イネ科の茎)・鞘(イネ科の葉を支える薄い組織)が14%で、両者
でほぼ半分を占めた。葉が4割ほどというのはこの時期としては悪くない値だが、注目されるのは常緑広葉樹が27%もの高率を占めていたことである。そのほとんどはアオキと識別されたが、これは現地で観察したアオキの食痕の多さとも対応する(図1)。なお、ササは現地にはアズマザサがところどころにあるが、4月の糞からは全く出現しなかった。
10月の組成ははっきりした違いがあった。イネ科が16.3%に増加した。これと連動することだが、イネ科の稈・鞘が45.1%と半量近くを占めた。これに対して常緑広葉樹が23.3%から6.3%と大幅に減少した。また繊維が34.6%から17.9%に減少した。なお10月にもササは全く検出されなかった。
11月には大きな変化があった。イネ科の葉はほとんど出なくなり、アオキを主体とする常緑広葉樹が31.9%にもなった。イネ科の葉は出なくなったが、稈は32.1%も検出された。なお1例であるがササの葉が微量検出された。
12月の結果は基本的には11月と同様といえる。つまりアオキを主体とする常緑広葉樹は34.1%とほぼ同レベルで、そのほかもよく似ていた。強いて言えば単子葉植物が減り、双子葉植物が増えたことである。これはシカが大量に落ちた広葉樹の落ち葉を食べたためと思われる。単子葉植物は特定できないが、イネ科ではなく、ユリ科と思われるもので、これらが枯れて、シカは青木と落ち葉を主体に食べるようになったものと思われる。
<考察>
4月はわずか1例であるから結論めいたことは控えるが、現在の裏高尾ではまだシカの密度は低いものの、急速に増えつつあり、この冬にアオキに対する食圧が急に高くなった。そのことに対応するようにこのシカの糞にもアオキの葉が多く検出された。シカはアオキを好んで食べ、かつて房総半島ではシカが増えるにつれてアオキが激減し、今ではシカがアクセスできない崖の上のようなところにしか残っていない。裏高尾や高尾山にはまだたくさんのアオキがあるが、このままシカが増えれば確実にまずアオキが減少する。
その段階ではそのほかのさまざまな植物に食痕が目立つようになり、一部の低木類は盆栽のような形状になる。その次の段階では「デイア・ライン」 といって「シカが作ったライン」ができるようになる。これは高さ2mくらいのシカの口が届く範囲の植物が失われ、それ以上にだけあるために、あたかも刈り取りをしたようになる状態のことを言う(図3)。
この段階になると、林の下にはシダなど一部のシカが好まない植物がかろうじて生えているだけのような状態になる。
そうなると昆虫や小動物にも大きな影響が出るようになるだけでなく、雨が降ると直接土壌を叩くため、表土流失が起きる。これは防災的な問題にもなる。現実に丹沢では土壌流失が深刻であるし、奥多摩では大規模な土砂崩れが起き、水源林の関係者はシカによる植物の喪失が原因だと解釈しておられる。
夏は糞が得られなかったが、10月はイネ科とその支持器官である稈・鞘が増えた、このことは森林の淵や林道などにイネ科が増えることを反映していると考えられる。アオキを含む常緑広葉樹と繊維が大きく減少したが、繊維は木本類の枝を食べたことを示唆するから、シカが低木類を食べなくなり、イネ科にシフトしたことを強く示唆する。11月になると、予想していたようにイネ科は減少して常緑広葉樹の葉が大幅に増えた。現地でもアオキの食痕が目立つ。今後、アオキなどの常緑低木への影響がさらに強くなる可能性が大きく、注視していきたい。
<手遅れにならないために>
今後も高尾山周辺のシカと植生の状況を注意深く観察するとともに、糞分析などもおこない、どういう状態にあるかを見極める必要がある。これまで各地のシカ対策で失敗してきたのは、シカ侵入初期に楽観して対策をとらなかったために、気がついたら手遅れになったというパターンである。しかし、歴史的価値、観光的資源としての意味が大きい高尾山では手遅れということは許されない。関係者に危機感を喚起する上でも、客観的なデータの蓄積は重要な意味を持つであろう。
1)共通の地図を持参する。
調査後、地図と記録用紙をスキャンして責任者に送る。できない場合はコピーを郵送する。
ツリバナの食痕 ミヤコザサの食痕 ミズキの樹皮はぎ
シカの糞
2019年5月27日
高尾山に迫るシカ – 侵入初期での現状把握の試み -
高槻成紀・石井誠治
要約
奥多摩から拡大しつつあるシカが裏高尾まで侵入した。シカの影響が大きく、歴史的遺産であり観光地でもある高尾山の森林への影響が懸念される。シカ対策が後手に回らないうちに緊急調査を行う必要があると考え、FIT(森林インストラクター東京)の協力を得て、2019年5月に高尾山一帯を調査し、以下の結果を得た。現時点ではシカの影響はほとんどなく、ササには痕跡がなかったが、アオキは53カ所のうち17カ所(32%)で弱いながら痕跡があった。また足跡が2カ所、糞が1カ所で確認された。シカが生息することが確認されたこと、現時点で影響が弱いことの記録が取れたことの意義は大きい。今後シカの影響を注視する必要がある。
はじめに
全国各地でシカ(ニホンジカ)が増加して、農林業被害だけでなく、自然植生にも強い影響が出るようになった。東京都においても、奥多摩に少数いたと思われるシカが1990年代から徐々に増加し、分布を拡大している。奥多摩では森林の植物が減少し、マツカゼソウ、オオバノイノモトソウ、マルバダケブキなどシカが食べない草本類が目立つようになっている。シカは拡大傾向があり、御嶽山では名物のレンゲショウマへの被害を懸念して群落を柵で囲うなどの対策が立てられている。檜原村への影響も進み、三頭山でもササが減少するなどの影響が出ている。
裏高尾の小下沢(こげさわ)にて10年間ほどセンサーカメラで野生動物を撮影している「高尾の森を作る会」の記録によれば、2015年くらいからシカの撮影数が急激に増加しているという。また2018年の早春にはほとんど気付かなかったアオキへの食痕が2019年の早春に突然急増した。
このような状況を考えるとシカは高尾山の足元まで迫っていることが懸念される。著者の一人高槻はこれまでシカの研究をしてきたが、その経験によると、シカの影響が出始めた段階では、シカの姿を見ることはほとんどなく、糞などの痕跡を発見することもほとんどないため、一般の登山者は全く気付かない。しかし経験者が注意深く観察すれば、植物の葉にシカの食痕が発見される。特にササやアオキなどの常緑植物があると、冬の植物が乏しい時期にはシカが食べる確率が高くなるので、これらに着目すると気づくことができる。
高尾山の森林は歴史的にも自然破壊を免れたことがわかっており、また人気のある観光地でもあり、多数の来訪者がその自然を楽しんでいる。その意味では高尾山の森林は観光資源であるといえる。したがって、高尾山にシカが入った場合、深刻な影響が懸念される。
これまでの各地で起きたことを考えると、シカが新天地に侵入するときは、まず少数のオスが見られる。これはシカが生長し、成熟年齢に達しつつある頃になると、メスは母親のもとにとどまるが、オスは母親の元を離れるからである。そして、その後のメスが定着する。この段階になるとシカ密度が高くなり、子供が定着する。植物への影響も強くなって、木本類の枝折りが目立つようになり、アオキなどが減少したりするようになる、次の段階ではその影響が明らかになり、一部の植物が減少し、有毒植物やとげ植物が目立つようになる。さらに高密度になると、樹皮はぎが目立ち、ササがあれば減少し、低木類が盆栽状になり、シカの足跡や糞などがよく見られるようになる。こういう状況になると雨が降った場合に表土が流出し、ひどい場合は土砂崩れが起きるようになる。現にシカが多い奥多摩では大規模な土砂崩れが起きたし、丹沢山地でも至る所で大小の土砂崩れが起きている。
このように、シカ侵入の初期段階では、一般の登山者が気づく段階では対策が極めて困難なため、楽観視されがちであり、そのため対策が後手に回ることが多い。しかし、高尾山の場合は森林の重要度と、裏高尾でシカが急増しているという状況を考えれば、対策が後手に回ることのないよう、緊急に対策をとる必要がある。
このような状況を鑑み、シカ調査経験の長い高槻が調査マニュアルを作成し、高尾山と周辺で森林について調査経験の豊富なFIT(森林インストラクター東京)の会長を長く務めた石井がメンバーの協力を得て2019年5月に緊急な調査を実施した。
方法
調査マニュアルを作成し、記録してもらった。
シカ影響調査の内容
シカの影響は初期段階では普通の人が気づかないほど弱く、一部の枝先が食べられる程度であることが多い。密度が高くなると、徐々にはっきりわかるようになり、ササがあれば食痕が見られるようになり、低木が盆栽状になり、食痕も見つけやすくなる。更に進むと、多くの植物が少なくなって、シカの食べない有毒植物などが目立つようになり、更に高密度になるとシダや有毒植物が残る程度になる。
高尾山周辺ではまだシカが侵入しつつある段階で低密度なので、影響も見つけにくいが、それだけにこの段階で記録しておくことが後で重要になる。
そこで記録の仕方を提示し、それに沿って一貫した記録を取ることにした。こちら
そのマニュアルにしたがって、図1ルートを歩き、記録をとった。調査は2019年5月に行なった。
結果
上記のルートを歩き、合計53地点で記録をとった。
シカの糞は高尾山の北側で1カ所、足跡は2カ所で確認された(図2)。このような直接的なシカ情報は現状では限定的であった。
図2a シカの糞、足跡を発見した地点
図2b シカの糞(左)と足跡(右)
ササ(主にアズマネザサ)への食痕は認められなかった。
3) アオキへの食痕
アオキには食痕があった。食痕があった場所は高尾山の北(中央高速近く)、高尾山の西側、南西側と薄く、広く見られた。食痕記録は「僅かにある」が13例、「いくつかある」が4例で、合計で全体の32.1%であった。ただし「たくさんある」はなかった。
図3 調査ルート(黄色の線)とアオキに対するシカの食痕の有無
青は食痕なし、赤は食痕あり。
図3b アオキに対するシカの食痕
その他ハナイカダ、イタドリなどにも食痕が認められた(図4)。
図4a ハナイカダ(左.地点33)とイタドリ(右、地点39)の食痕
考察
越冬期にササやアオキなど常緑植物へのシカの採食圧が強くなることを利用して、食痕の発見に努めた結果、ササには食痕が認められず、アオキは53地点中17箇所(37.1%)で観察された。ただし、その程度は弱かった。シカの直接的な痕跡としては足跡と糞が記録されたが、全体からすればごく少なかった。
今回、シカの影響がほとんどない段階でデータが取れたことは非常に重要である。多くの事例では、影響が強くなってから調査が行われるため、それ以前の状況がわからない。しかし、今回はそのデータが取られたことから、今後、高尾山でシカの影響が強くなった場合に、その規模と速度を読み取れることができる。
今回の記録からは現時点では高尾山一帯へのシカの影響は弱いと言えるが、シカが生息していることは確実である。特に高尾山頂から1.5kmほどの場所で糞が観察されたことは懸念される。現状ではシカによる植物への影響は目立たず、一般の人は気づかないレベルである。しかし、これまでの多くの事例で知られるように、影響が見られるようになると一気に強いものになり、対策は手遅れになりがちである。高尾山の森林の価値を考えれば、手遅れにならないように、すぐに対策に着手すべきである。
同時に十分な体制を整えて現状把握の基礎調査も進める必要がある。今回の予備調査は高尾山一帯をよく知り、植物にも馴染みのあるメンバーによって行われ、貴重な記録が取れた。マニュアルにはほぼ適切であり、特に記録を取る地点を地図上で確認して撮影する方法は記録集計する上で有効であった。またメモを取るだけでなく、痕跡を全て撮影し、その場所を特定することも有効であった。
この記録の仕方は調査の前に実習を行うことで確実性を確認した。今後は同じ方法で、さらに広範な人材の協力を得て詳細な記録を取ることを推奨する。シカの影響は刻々と変化し、現在の高尾山一帯では文字通り前線の変化の大きい段階にある。そのことを考えれば、こうした調査の重要性と緊急性は非常に大きいと言える。
謝辞
調査は以下のFITのメンバーの協力を得て行なった。
佐々木哲夫、箭内忠義、山口 茂、浜畑祐子、横井行男、平野裕也、小早川幸江、長谷川守、遠藤孝一、高氏 均、宮入芳雄、谷井ちか子、臼井治子、中川原昭久
これらの皆様に御礼申し上げます。