狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

2008-04-12 06:27:12 | ★集団自決

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戦時を知らない現在の視点で、沖縄の「集団自決」問題を見ると,

分かりにくいのは当時の肩書である。

防衛隊員は民間人でありながら軍に協力していたため最小限の武器弾薬を保持していた。

だが、そのため手榴弾の扱い等で後に誤解を生むことになる。

兵事主任や兵事係とは軍の地位ではなく村役場の職名であり、女性の兵事係もいた。

更に正規の軍人より軍人らしい言動をした民間人がいたり、軍人より「権力」を持った民間人がいた事実も判明してきた。

そうなると、従来の「残酷な軍人VS従順な住民」という構図を、もう一度考え直して見る必要があるだろう。

そして改めて問う。

艦砲射撃でパニック状態の座間味島で、

「軍命令」は誰が、誰に向かって下したのか。

                      ◇

座間味島では、確かに援護法以前から、《隊長命令神話》が風説としてありました。それはなぜでしょうか。

 住民の手記や宮村盛永氏の『自叙伝』などの資料をみますと、多くが「忠魂碑前での玉砕」に向けた集合命令を受けたことを証言しています。しかし、そこには命令の主体が書かれていません。ただ、多くの村民は、「忠魂碑前に集合し玉砕する」という命令を、軍命令と受け取り、それが後に風説のもととなったと考えられるのです。宮城晴美さんは『母の遺したもの』においてこう解説します。

「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令と思った。というのも、これまで軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからある。」

宮城初枝さんが「真実の歴史を残す為には此れから私のやるべきことが残っております。」として原告梅澤さんに宛てた手紙の中で、「忠魂碑前の集合は、住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。」と述べ、住民の誤解と村の方針のために虚偽に加担したことを梅澤さんに謝罪し、こう結びます。「お許し下さいませ。すべてが戦争のでき事ですもの」と。

 真実、玉砕命令を下したのは梅澤部隊長でも軍でもありませんでした。

 それを明らかにしたのが、まさに宮城初枝さんの勇気ある証言でした。その証言をもとにして娘の晴美さんが書いた『母の遺したもの』には、自決のための弾薬をもらいに行ったところ梅澤部隊長に「お帰り下さい」とはっきりと断られた助役の宮里盛秀氏らが、次にどういう決断をしたかが、こう語られています。

「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。

 盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」

 宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです。(原告準備書面(5)の要旨 第6回口頭弁論H18.11.10(金) -沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会

                                                 ◇

■師範学校出は村の誇り■

座間味島の「集団自決」の場合、村の三役である村長、助役、収入役そして校長までが自決した。

最後に本部壕で梅沢隊長と自決を巡って言い争ったという村のリーダーの中で唯一の生き残りといわれた女子青年団の宮城初枝氏も亡くなってしまった。

>「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。・・・・・・盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」

村役場の三役が村のリーダーであったように当時の学校の先生も村のリーダーであった。

現在の感覚で学校の先生といえば、反戦平和を叫ぶ日教組の連想から、軍隊や軍人とは対極の軍国主義とは縁遠い存在に考えがちだ。

当時、沖縄の最高学府であった師範学校を出た者は村の誇りであり、現在の大学卒などとは比べ物にならないほどの尊敬の的だった。

■師範学校は軍国主義の巣窟だった■

だが戦後日本の民主化のため、GHQ が軍国教育の温床として解体の第一の目標にしたのが、教員養成の師範学校制度だったという。

現在では測り知れない師範学校の雰囲気をウィキペディアは次のように説明している。

全寮制の師範学校の寮生活は悪名高き大日本帝国陸軍の内務班そのままで、上級生への絶対服従を植えつけるため下級生へのいじめ、しごきは日常茶飯事であり、古事記の記述を盲目的に正史として教えるなど教育内容にも問題が多く、その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、教え子を続々と戦地に送り続けてきたという批判が出たのである。かかる教育の結果として、いわゆる「師範タイプ」と称される、形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまっている教師を大量に生み出しており、このような「師範タイプ」の存在は戦前においても問題視されていた。

戦前の沖縄の教師は代用教員も多かったが師範学校を卒業した正規の教師は訓導と称し、訓導を輩出した出身地では「師範学校出」と呼ばれ村中の尊敬の的であった。

■座間味村のリーダーたち■

座間味島に米軍が上陸する日の前夜3月25日の夜、本部壕で梅沢隊長と村の指導者達が議論したことが知られているが、今年になってその場にいた人物の「新証言」があった。

 この証言をしたのは、座間味島在住の宮平秀幸氏(78)。昭和二十年一月、防衛隊員となり、本部壕(ごう)にいた梅澤隊長の伝令役を務めた人物である。宮平氏によれば、米軍上陸の前夜、昭和二十年三月二十五日午後十時ごろ、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役と国民学校の玉城盛助校長、宮城初枝・女子青年団長、村役場の宮平恵達さんが本部壕を訪問。野村正次郎村長は遅れて到着したという。(世界日報 3月3日)

「集団自決」当時の座間味島には少なくとも二人の「師範学校出」がいた。

学校長や教頭は師範学校卒の訓導の肩書が必要であったので玉城盛助校長も師範学校卒。

だが、もう一人の「師範学校出」の人物・教頭の名が何故か座間味島の証言から欠落しているのが不思議だ。

玉城校長は「自決」して亡くなっているが、教頭は生き残り戦後も沖縄で著名人として活躍している。

勿論戦争体験者の全てが証言をするとは限らないので、戦後自分の体験を一切語らない人もいるだろう。

だが、この人物は『鉄の暴風』の取材も受け「伝聞証言」をしているくらいだから自分の体験を一切語らないというのも不可解である。

宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです

梅澤隊長に「自決するな」と断られた野村村長、宮里助役、宮平収入役そして玉城校長たち村のリーダー四人は、

その後どこかで相談の上自分らの判断を「軍の命令」として村内に指示した・・・。

その四人は自らも「集団自決」を行って全員死亡した。

そして村のリーダーの1人教頭は戦禍を生き残り、沖縄タイムスの取材を受け“渡嘉敷島”の証言をした。

■「参謀長」と呼ばれた男■

ここで、「いわゆる「師範タイプ」と称される、形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまった師範学校出身の人物像が浮かび上がってくる。

座間味島で「参謀長」と呼ばれた民間人がいた。

勿論沖縄守備軍で司令官の牛島中将を補佐する第三十二軍の参謀長は長勇中将であり、座間味島に参謀長がいるはずはない。

しかし、当時の座間味島には戦隊長の梅澤少佐より10歳ほど年上で彼に勝るとも劣らないほどの発言権を持ち「参謀長」と呼ばれる民間人がいたのだ。

昨日のエントリーで紹介した座間味島の語り部・宮城恒彦氏の著書『潮だまりの魚たち』の中に次のようなくだりがある。

教頭先生は参謀長

(略ー飲み水を求めて日本軍の参謀本部になっていた友人の家の水場に、証言者がそれとは知らず水を汲みに行ったときの様子を次のように記している。)

「誰だ!何しに来た」

突然、陰から怒鳴られました。 びっくりして、立ちすくんでいるトメの前に、1人の日本兵が銃剣を突きつけるようにして歩み寄って来ました。

「何の用で来たか」

「水を汲みに来ました」

「参謀長の許可がなければ駄目だ

「子供たちが飢えて、壕の中で水を待っているのです」

「駄目だ」

「この急須一杯分でいいのです。 近くの水は腐ってどうしても飲めないのです」

「駄目だといったら、駄目だ」

「どうかお願いします」

トメはとうとう泣き出しそうな声になりました。

二人のやり取りの声を聞いてか、家の奥の方から軍服で身を固めた男の人が出てきました。

「何事だ!」

兵隊に声をかけながら近寄ってきました

「先生!」

トメはその人に飛びついていきました。 村の学校の教頭先生だったのです。

「なんだ、トメか、どうした」

「水を汲みにきたのです」

「必要な分はいくらでも持って行きなさい」

恩師に会って、「ほっ」としたトメは水を飲むのも忘れて先生に話しかけました。

「元気ですか。 奥さんたちはどうしていますか」

「手榴弾を渡しているので、おそらくは今頃は『玉砕』して、死んでしまったでしょう」

「うちのタケ坊も空襲でなくなりました」

「そうか立派に戦死したか」

ひんやりした星月夜の下で、しばらく二人の会話が淡々と続いていきました。 急須に水を満たして、先生にお礼を言ってから帰ろうとしたら、先生はすでに家の中に姿を消していました。 

入り口に銃を右手に支えて立っていた日本兵は、さっきとはうって変わって、トメが門を出る時、声をかけてくれました。 

「最後まで頑張ってください。 必ず友軍が助けにきますから

その声は空しく夜空に消えていきました。
(『潮だまりの魚たち』宮城恒彦著 112-113頁)
  
■軍人より軍人らしい民間人■

軍服で身を固め、「参謀長」と日本兵にも呼ばれる民間人。

それまで村人に強圧的だった日本兵もこの人物の鶴の一声で人が変わったように態度を軟化させる。

そして、軍人以上に軍人らしく軍服で身をかためた民間人は、次のような発言をしている。

「手榴弾を渡しているので、おそらくは今頃は『玉砕』して、死んでしまったでしょう」

「そうか立派に戦死したか」

彼を教頭先生と知る者でなければ軍人と見まごう言動だ。

これまで考えられていた「軍国主義的・軍人VSそれに怯える民間人」といった構図が崩れ去るような場面である。

「参謀長」と呼ばれた軍服姿の教頭先生は銃剣を構えた日本兵より「権力」を持っていたのだ。

ここで、先ほど述べた、戦後GHQが軍国主義の温床だとして解体の目標にした師範学校卒のいわゆる「師範タイプ」と称される教員の姿が脳裏に浮かんでくる。

謎はさらに続く。

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