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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

金城氏は罪の巨塊か

2008-11-27 07:39:00 | ★集団自決

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 ◆「軍の命令」という思惑  

沖縄を占領していた米軍は、沖縄を日本から分断して、永久占領を目論んでいた。そのため沖縄人宣撫のために発刊されたのが『鉄の暴風』であり、同書は米軍のプロパガンダの役目を担っていた。『鉄の暴風』に山城氏の体験談が記載されなかったのは、太田氏と山城氏の夫々の思惑が合致したからではないか。その思惑は、更に次の三つの思惑に分けられる。    

〈米軍の思惑〉  
米軍にとって、山城氏の体験談を記載することは、「残虐な日本軍」の印象を県民に植え付けるのが目的の『鉄の暴風』の主旨にそぐわなかった。  

〈島の思惑〉  
戦後、村の助役として戦後補償に奔走したとされる山城氏は、「援護法」を集団自決の犠牲者全てに適用させたかったが、実際は軍命令ではなく村のリーダーのパニックによる誘導が原因だった。
 
〈加害者と被害者の思惑〉
集団自決といっても、座間味島の場合、手榴弾による自決者は暴発による犠牲者が数名だけで、他は農具等による殺し合いが主であり、自決を「手伝った人」も多くいた。そして生存者の中には、自らが被害者であり、また、加害者の立場に立たされた人が多くいた。  

この三つの思惑を見事に一致させる唯一のキーワードが「軍の命令」である。「軍の命令」さえあれば、自決の「手伝い」をした生存者は、贖罪意識のいくらかは救われる。そして現実的な問題として、「援護法」を自決した住民へ適用させるという思惑と、米軍の『鉄の暴風』発刊への強力な思惑が一致して、山城氏の体験証言は、以後、永久に闇に葬られることになる。  

山城氏はその後、島を出て、新聞社編集長を経て、テレビ会社に入社し、マスコミ業界を歩みつづけ、沖縄テレビの社長にまで上り詰めるが、大田記者とどのような約束があったのか、彼は一切自分の体験を語ることはなかった。  

ここに「残虐非道な日本軍の命令による集団自決」という神話が誕生する。「軍の命令」さえあれば、八方丸く納まったのだ。( 『証言を阻む南の島の呪縛』) 

                   ◇

そう、「軍の命令」さえあれば、すべてがうまくいっていた。

ある時期までは、二人の元隊長が、その(軍命)の汚名を甘んじて受けていたから。

高名なノーベル賞作家が、大手出版社を通じて全国的に、

元隊長を「ペテン師」「者」と罵倒するまでは。

 

ここに最も「軍の命令」が必要な男がいる。

親兄弟や他人を含む十数名以上の大量殺人を犯した男は、

「まず救いの道をキリスト教の信仰の道に求め、ついで責任を全面的に他者へ押し付ける方法を模索した。」(『現代史の虚実』)

責任を全面的に押し付ける相手として「悪逆非道の日本軍」ほど適したものはない。

集団自決の当事者で「軍の命令」が一人歩きをはじめる背景にはいろんな思惑が複雑に入り組んでおり、真相の解明を困難にしている。

自分の犯した罪の贖罪をキリスト教に、そして責任転嫁を軍に求めた金城重明氏の心の軌跡を、

現代史家・秦郁彦氏が『現代史の虚実』で詳述しているので、関連部分を抜粋して以下に引用します。(太字強調は引用者)

                    ◆

金城氏は1929年、渡嘉敷島の阿波連集落に生まれた。家族は両親、二つ違いの兄、妹と弟の6人で、うち4人を集団自決で失っている。
島の小学校高等科を終え、16歳1ヵ月だた重明少年は3月23日、阿波連の住民たちとともに7kmの山路を歩いて自決現場へ集まった。その後に起きた事態の詳細と解説は、彼が1970年マスコミに初登場していらい、そのつど微妙に食い違う。(略)

「軍からやっと自決命令が下った」ので、まず手榴弾を使った家族単位の自決が始まったが、数が少なく不発が多かったので棍棒、カマ、クワ、カミソリを使った殺し合いに移行する。本人も目の悪い兄と一緒になって母と妹をなぐり殺したあと号泣しているところへ、ある少年から「こんな犬死するより、米軍に切り込んで死のう」と誘われ、その気になった。だが途中で兵士や島民の生き残りに出会い、死ぬのをやめたというのが、あらましの筋書きである。(略)

しかし「集団自決」の生き残りとして内外マスコミ寵児となっていた金城牧師は、沖縄原理主義の運動家として進む以外に加害者責任から逃げる道はないと思い定めていたのだろうか
家永裁判で集団自決は「軍隊の存在と誘導」が原因で「直接的な命令は不必要」と宣言した金城氏は、07年6月2日の那覇シンポジウムでは「日本軍の強制・命令・抑圧」だとエスカレートさせていく。
それから三カ月後の9月10日、大江裁判の那覇出張法廷で金城牧師は支援デモ隊の先頭で気勢をあげてから出廷したが、松本・徳永両弁護士の鋭い反対尋問を浴びた。尋問記録は規則により11月に解禁されたので、要所を抜き出し質疑(QとA)の形で紹介しよう。

Q 軍の強制があった、という記述の削除を求めた文科省の検  定意見をどう思うか。

A 集団自決の体験者が軍の強制、命令があったと証言している。歴史教育の本質を否定してはならぬ。

Q 金城さん自身は、手榴弾を配布されたか。

A 私と同年輩の仲間は、誰ももらっていない

Q 自決命令は誰から聞いたか。

A 誰ということもなく噂が出た。村長が天皇陛下万歳と叫んだ。それが自決命令という認識なんですよ。

Q あなたは1995年の自伝で初めて万歳三唱のことを書いている。 なぜか。

A いや、とくに理由はない。

Q 村長の万歳を直接に聞いたのか。

A 聞いた。 強烈に残っている

Q 聞いているのに、書かなかったり、書いたりということか。

A そう言われたら否定できない。

Q 手榴弾での自決者は何人ぐらいか。

A 10人ぐらい。 死んだ人はいなかった。

このあたりまでは語り部として手慣れた応答ぶりを見せ、あやふやな部分も記憶にないとか後で知ったとか器用に切り抜けているが、核心部分に入ると空気は一変する。次に進もう。

Q 金城証人が手をかけたのは家族だけではありませんね

A はい。

Q (手記を読み上げ)これは証人がしたことに間違いありませんか。

A まあ、はっきりは覚えていませんが、まあ、事実だろうとおもいます。

Q あなたとお兄さんの重栄さんに米軍への切り込みを誘った少年は、山城盛治さんではありませんか。

A いえ、違います。

Q 村史に出ている山城さんの体験談はご存知ですよね。

A はい。

Q (読み上げて)ゴボウ剣で子供は背中から刺し殺し、子供は肉は薄いもので向こう側まで突き通るのです。 女の人は上半身裸にして左のおっぱいを自分で上げさして刺した。 私は後ろから支える役でしたと書かれているが、「三人一組で、一人は今大学の先生」というのは証人のことじゃないんですか。

A 間違いないと思います。

Q 間違いないと言われたんですよね。

A はい。

Q 殺したり、殺そうとした人の数は何人くらいになるんですか。

A ・・・・・

Q 覚えていないですか。

A わかりません。

Q 二人や三人じゃないですよね。

A はい。

ここで見かねたのか、裁判長が「この人の傷をそうえぐることを、必要以上にされるんであれば制限します」と口を挟む。 弁護人は不服そうだったが、証人から「私は自分の意志で殺したのではなく、軍の命令によって死を遂げ・・・」という弁明を引き出して尋問は終わった。

金城牧師は「罪の巨塊」か

長々と金城牧師の証言と尋問を紹介したのは、今や沖縄原理主義の象徴的存在に祭り上げられている彼の心の軌跡をたどることで、いつの間にか集団自決が政治的争点にシフトしていった契機をさぐりたいからである。(略)

彼はまず救いの道をキリスト教の信仰の道に求め、ついで責任を全面的に他者へ押し付ける方法を模索した。家永裁判の意見書で彼は「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」というマタイ福音書の一節に出会い、それを「一人の人間の命は全世界より重い」と解釈して、それが「生きる原点」になったと述べている。
ところが曽野綾子氏から、聖書の命はギリシャ語のブシュケーだから「永遠の命」(魂)のことで「金城先生の聖書解釈は間違っている」と指摘されるや、「その通りであります」とあっさり屈してしまう。 ちなみに「全世界より重い」の名文句は、ハイジャック犯の脅しに屈した福田赳夫首相(当時)の造語らしく、金城牧師はそれを借用したのではないかと私は疑っている。 おそらく金城氏が最も悩んだのは、被害者十数名以上と噂されている「犯行」のあと、いちはやく米軍に投降し生きのびた事情の釈明であったろう。
牧師はいまだに真相のすべてを告白しておらず、大江裁判でも裁判長の温情で追及を免れた。
聖書の誤読はやむをえない動機からだとしても、数十年にわたり日曜礼拝で説教されてきた信者の被害はどうしたらよいのだろう。(『現代史の虚実』秦郁彦著 2007年)

                   ◆

「集団自決」の生き残りとして内外マスコミ寵児となっていた金城牧師は、沖縄原理主義の運動家として進む以外に加害者責任から逃げる道はないと思い定めていたのだろうか

戦争という特殊な状況下での金城氏の「犯罪」を戦後表立って咎めるものはいなかった

だが、左翼の先頭に立って「軍命令」を主張する活動家となり、講演会や出版活動にとどまらず、裁判の証人にもなって「軍命令」を主張するとなると、当然彼の言動は批判の目に晒される。

金城氏は法廷での証人尋問の後、講演会で次のように強弁している。

「原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」と。

そして法廷では、「(自決命令は)だれというともなく噂」だったといっておきながら、

琉球新報記事では「軍隊なしに集団自決は起こり得なかった。命令がなかったという意見があること自体おかしい」と発言を翻している。(琉球新報 2008年2月6日)

そもそも、軍の命令の証拠とされる「手榴弾の配布」も法廷証言では、

「手榴弾で死んだ人は一人もいなかった」となっているではないか。

金城牧師の口から真実が語られることはないのだろうか。

 

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現代史の虚実―沖縄大江裁判・靖国・慰安婦・南京・フェミニズム
秦 郁彦
文藝春秋

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