狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

集団自決控訴審判決は不当判決である!

2008-11-01 08:13:28 | ★集団自決

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今朝の沖縄タイムス朝刊一面の大見出し。
 
元戦隊長側の控訴棄却
 
「真実相当」と認定
 
命令は「学会通説」
 
原告の敗訴であるが、
 
当日記は不当判決と認識する。
 
沖縄タイムスの見出しは、「控訴棄却」だけは事実だが、
 
カッコ付きながら「真実相当」も「学会通説」も事実ではない。
 
タイムス得意の印象操作の見出しである。
 
法廷においては「真実相当」と「真実」は別の概念であるが、見出しは故意に二つの概念を同一に印象操作している。
 
正確に記すなら、「真実相当性」と認定、が正しい。
 
ちなみに「真実相当性」とは、例え真実ではなくとも、真実と信じる相当の理由があること、であり「真実」であることとは別の法概念である。
 
                    *
 
この裁判は、被告側が「沖縄ノート」、「太平洋戦争」で「集団自決は元戦隊長の命令である」と断定的に記述し、
 
それによって原告が名誉を毀損されたとして、出版の差し止めと謝罪を求める名誉毀損回復の訴訟である。
 
したがって、争点は「命令の有無」という歴史認定の問題と、
 
それによって名誉が毀損されたかという個人の問題、
 
更には出版の差し止めの当否という公共の問題「に論点が分かれる。
 
そして出版差し止めと名誉毀損は「表現の自由」という別の概念にも関わってくる。
 
 
昨日のエントリーで、このように書いた。
 
梅澤、赤松の両元隊長が集団自決命令をくだしていなかったとしても、原告敗訴はあり得ることである。

つまり裁判所の「真実相当性」の判断いかんにより、名誉毀損が退けられることがあるのだ。

「命令説を信じるに足る相当の理由」で出版したのであれば、

判決の時点で、著者や出版社が違法性を問われることはない。(名誉毀損は成立しない)

つまり原告、被告が最大の問題にしている「軍命令」がなかったとしても、原告敗訴はありうるのだ。≫

まさに筆者が危惧したことが判決に表れてしまった。

原告、被告が最大の争点にした「隊長命令」について判決はこう認定した。

両元隊長による自決命令について、今年3月の1審判決に続いて「証拠上断定できず、真実性の証明があるとはいえない」と認定した。≫

自決命令は

①証拠上断定できない⇒断定する証拠はない

②真実性の証明があるとはいえない⇒真実であるという証明は出来ない

「(隊長命令に)真実の証明があるとはいえない」としながらも「真実相当性」はあるという。

昨日のエントリーで「真実相当性」が裁判のポイントだと書いたが、裁判長は「真実相当性」の解釈を誤った。

控訴から結審まで6ヶ月足らずの異例のスピードで判決を下したのは、高裁が始めから一審判決を鵜呑みにする予断があったのではないか。

裁判長が「(自決命令の)真実性の証明があるとはいえない」としながらも、

その「証明のない真実」を断定的に記述した『沖縄ノート』の著者大江健三郎と故家永三郎著『太平洋戦争』を出版した岩波書店を免責にしたのだ。

大阪高裁は「歴史事実の認定」では、自決命令を事実上否定しながらも、

「真実相当性」の解釈を捻じ曲げて、

「表現の自由」という錦の御旗を盾にして、

ノーベル賞作家と岩波の権威の前に平伏したのだ。

原告側は当然上告するだろうが、最高裁では「歴史認定」はさておいて「真実相当性」という法律論で勝負すべきであろう。

60数年前の出来事を証言のみで争う「歴史認定」で、

「(自決命令の)真実性の証明があるとはいえない」という結論を高裁から引き出したが、

歴史事実の確認を法廷に求めるのは、この程度が限界なのかも知れない。

「証明があるとはいえない」とは「証明がない」と言うことで、普通の言葉で言えば、

自決命令は真実とはいえない」ということ。

判決は敗訴だが「歴史認定」、つまり元隊長の命令の有無に関しては、一応の勝訴といえる。

 

■「真実相当性」■

高裁判決は、歴史認定では元隊長の命令を事実上否定しながらも、「真実相当性」に逃げ込んで、控訴を棄却した。

元軍人らの直接的な自決命令の真実性は揺らいだが、命令を真実と信じる相当な理由があった」と。

産経新聞の津田大資記者が、高裁判決の「真実相当性」判断に関して、次のような疑問を投げかけているが、もっともな疑問である。

「沖縄ノート」差し止め訴訟 上告審では真正面から判断を

控訴審で原告側が問うたのは、出版時の大江氏の認識ではなく、元隊長による“直接命令説”が揺らぐ現在も、当時の記述のまま増刷を続けることが許されるのかどうかだ。その争点について、「表現の自由」という別次元の論理を楯に、原告側請求を退けた高裁の判断には違和感を覚えざるを得ない。≫

高裁判決は、歴史認定では元隊長の命令を事実上否定しながらも、「真実相当性」に逃げ込んで、控訴を棄却した。

「元軍人らの直接的な自決命令の真実性は揺らいだが、命令を真実と信じる相当な理由があった」と。

以下の引用は30日タイムス記事による「被告側最終陳述要旨」の抜粋である。

≪「太平洋戦争」は歴史的研究書で、「沖縄ノート」は歴史的事実に関する出来事への評論である。 記載されている事実の真実性・真実相当性については、過去の歴史的事実の確認の困難さを考慮し、歴史的探求の自由や歴史的事実に関する表現の自由に十分配慮した判断がなされるべきである。

 

>過去の歴史的事実の確認の困難さ

歴史の専門家でも困難を伴う歴史的事実の確認を、法律が専門だと言うだけの裁判官が、

6ヶ月足らずという短期間で結審し結論付ける態度に、裁判長の驕りを感じざるを得ない。

一審判決をそのまま鵜呑みにする予断が当初からあったのではないか。

過去の歴史的事実の確認の困難さを考慮し、歴史的探求の自由や歴史的事実に関する表現の自由に十分配慮した判断がなされるべきである

結局、被告側の言い分に対し、裁判長は次のように配慮した。

≪被告は、「太平洋戦争」や「沖縄ノート」を発刊した頃は、歴史的事実の確認は困難で、地元新聞社が発刊した「鉄の暴風」に準拠せざるを得なかった。 したがって「鉄の暴風」のずさんな記述に間違いがあってもやむを得ない。≫

そして、裁判長は被告の主張を鵜呑みにしただけでなく、「真実相当性」の解釈を誤った。

 

30日のタイムス記事を再度引用する。

原告(元隊長側)
隊長命令があったという「真実性」の証明がなければ、各書籍は名誉毀損を免れない。 一審判決は「真実性」を認めず、書籍の頒布は違法と認定している。 「沖縄ノート」一審判決後も増刷・販売を続けており、到底許されない。 一審の「真実相当性」の解釈も誤っている。

 

何度も書くが、この裁判は一審、二審の結果に関わらず、最高裁にもつれ込むと繰り返してきた。

最終的に、当日記は最高裁での勝訴が真の勝訴であると考えている。

最高裁の争点は「歴史認定」ではなく、「真実相当性」の解釈をめぐる純粋な法律論争となるであろう。

【おまけ】

地裁、高裁とも最大の争点である「自決命令の」有無」に関しては揃って歯切れが悪く、分かり難い表現になっているのは自信のなさの表れと見る。

法律バカに歴史の認定を求めるのは、八百屋に松坂牛を求めるようなもの、といったら言い過ぎか。

判決における自決命令に関する表現

高裁判決⇒「自決命令の真実性の証明があるとはいえない」

地裁判決⇒「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」

司法改革は「裁判が身近で分かりやすいものとなる」ということが目的のひとつにある。

判決文はもっと平易・明確に表現すべきではないのか。

高裁も地裁も、何故このような分かりにくい表現を使うのだろうか.。(そうでした、自信がなかったんでした)

こうすればわかり易いではないか。

「真実性の証明があるとはいえない」⇒「真実ではない」

「(認定に)躊躇を禁じえない」⇒「認定できない」

特に地裁判決文は「躊躇」「禁じ」「得ない」と三つの否定の言葉が連なる三重否定文。

否定の否定は肯定。

更に、それを否定で、結局は否定。

だったら、最初から否定しろ!

 

「沖縄ノート」一審判決後も増刷・販売を続けており、到底許されない。 

一審、二審の「真実相当性」の解釈も誤っている、と思う方、

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