狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄は「全体主義の島」だ

2008-11-22 07:29:42 | ★集団自決

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全国各都道府県の教育行政の最高責任者は、

その自治体の教育長である。

その教育長が、県下の全校長を集めて政治集会への参加を命じる県があるいえば驚くひとが多いだろう。

それが沖縄県である。

沖縄以外にこんな県があるとは寡聞にして知らない。

小林よしのり氏いわく。

「沖縄は『全体主義の島』」。

言い得て妙である。

仲村守和氏が沖縄県教育長だが、このお方二年連続で学力ワースト1県の不名誉な称号を受けるや、

急遽東京に飛んだ。

そして「学力向上の為金をくれ」と文部省に泣きついた。

学力向上の自助努力をする前に先ず、「金をくれ!」には驚くが、

その次に打った手が、今度は学力全国一の秋田県に飛んで、優秀な先生を派遣してくれという。

その見返りに沖縄のダメ先生を秋田に送って実地研修してもらうというから虫のいいはなしだ。

とにかくこの「教員交流計画」は合意に至ったようだ。

秋田県に学び学力最下位返上へ 教員人事交流に調印(2008.11.18)

「悪貨は良貨を駆逐する」

「朱に交わればくなる

秋田の優秀な先生がくなって帰任する羽目に陥らないように祈りたいものだ。

学力向上には他人任せの仲村教育長も「政治活動」には積極的だ。

昨年の「歴史教科書検定撤回要請」を叫んだ「11万人」集会では、

県下の学校長に「大会への動員」を呼びかけていた。

琉球新報 社説
教科書県民大会 断固譲れない検定意見撤回  (9/8 10:35)
< 「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(同実行委員会主催)参加へのうねりが日に日に大きくなっている。
 7日開かれた
県立学校長研修会で仲村守和県教育長は、学校長の全員参加を呼び掛けた。>(9/8 10:35)

 
                                               ◇

上記は昨年の「11万人」集会(県民大会)直前の琉球新報社説だが、

主旨は、教科書検定意見は県民大会への大量動因で可能と説く。

そして同大会への参加状況を嬉々として羅列している。

①県立学校長研修会で仲村守和県教育長は、学校長の全員参加を呼び掛けた。

②全市町村で撤回を求める意見書を可決した。

③県議会では同一定例会中で初めて2度も可決された。

④琉球新報社の調査では全41市町村のうち39市町村の首長が参加意向を表明した。

どこの自治体に教育長自ら政治運動の集会に校長に対して参加指令をする県があろうか。

教育長だけではない。

県下の各議会が、新聞に煽られて一斉に同じような言動をするとは、まさにこれは全体主義の島ではないか。

 

小林よしのり氏が佐藤氏に問題提起した四つの論点のうち、

「沖縄は全体主義の島か?」に関しては、

県教育長が学校長を集めて「全体主義的指令」をする例を見れば、佐藤氏がこれに反論するのは苦しい。

それどころか、佐藤氏は沖縄は「政治闘争が足りない」と沖縄紙に媚びるような発言をして、

佐藤氏自身も「全体主義」を煽っているではないか。

佐藤優氏も沖縄タイムスの特集記事でこう述べている。

≪ 沖縄のメディアには「政治闘争」が足りない正義闘争だけでは勝てない。民主主義は、結局、多数決だから正面突破だけでは、少数派は勝てない。(3)佐藤優さん・起訴休職外務事務官(8月3日朝刊総合1面)

教科書は学術的検証・議論の結果記述されるべきだが、

これを「政治闘争」で勝ち取るべきとは、

愈々佐藤氏は「言論封殺魔」の正体を現し始めたのか。

数を頼んでの怒りで教科書を書き換えられてはたまったものじゃない。

教科書記述の問題と、民主主義の多数決は全く別の次元の問題だ。

それを故意に混同したのか、それとも本気でそう思っているのか、

政治闘争で教科書の記述に介入せよと扇動するとは県民愚弄もはなはだしいのではないか。

それにしても≪沖縄のメディアには「政治闘争」が足りないのくだりには驚くというより笑ってしまう。

このお方、政治プロパンガンダ化した沖縄のメディアの実態を本当にご存知ないのだろうか。

新聞が煽った昨年の「11万人」集会には、

元教員の知人も、各方面からの人脈をたどって参加を要請され、気は進まなかったがしぶしぶ参加したという。

 

                     *

事実の検証ではなく、政治闘争で歴史教科書を書き換えろと説く佐藤氏の主張は沖縄紙の主張に迎合する恥知らずの論だ。

琉球新報の社説と佐藤優氏の論旨はまさに「人民裁判」で教科書記述をせよと言うに等しい。

「人民裁判」は群集が多ければ多いほど熱狂しやすい。

そのために「県民大会」への大動員を地元マスコミが必死になるという構図だ。 

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小林よしのりが語る沖縄の「同調圧力」↓

【動画】小林よしのりは過去に、沖縄の同調圧力について、こう語っている。

 

以下に沖縄県民が扇動に乗り熱狂し易いという例を書いたエントリを再掲します。

「勝ち組、負け組」と「集団自決」の類似性

「勝ち組、負け組」というと、「格差社会」を連想する人が多いだろう。

六本木の高層ビルに居を構え、一夜にして巨万の金を動かす若者集団がいる一方、その日のねぐらを求めてネットカフェを渡り歩く若者集団が存在するのは事実だ。

だが、ここで言う「勝ち組、負け組」は日本の格差社会の問題ではなく、遠く離れたブラジルでの60数年前の「事件」のことである。

ブラジルというと日本人は何を連想するか。

サッカー、サンバ、最近では格闘技でブラジル柔術があるが、日本人が明治期に初めて本格的移民をした国がブラジルだということを知る人は少ない。

そして終戦後ブラジルの日系社会で起きた忌まわしい「勝ち組、負け組」のことを知る日本人が果たして何人いるか。

1945年8月15日。

天皇陛下の玉音放送はブラジルにも短波放送で伝わったが、その放送をほとんどの日系人が聞くことは出来なかった。

また、例え聞いた人の中でも、玉音放送が敗戦を告げる放送だと信じるものも少なく,日本のように「解説」してくれる人もいなかった。

それどころか逆に不確実な風評が飛び交い「日本が勝った」というデマは一夜のうちに日系人社会を駆け巡っていった。

英語のわかる一部日本人の中で、アメリカの放送も聞き、日本の戦況を良く理解する人もいたが、大多数の日系移民は「不都合な真実」を聴く耳は持たなかったようだ。

日本ではマッカーサーが日本占領開始した頃、ブラジルの各地の開拓地では、「日本が勝った、日本が勝った、」と戦勝記念日の祝賀会を開催するところまで現れた。

一方、状況判断の出切る良識派は「日本は負けたんだ」と主張し、日系社会は「勝ち組、負け組」に別れて不毛な争いを続けついには殺人事件にまで至ったという。
 
■「集団自決」と「勝ち組、負け組」の共通性■

9月9日に沖縄の宜野湾市で行われた講演会「沖縄戦『集団自決』の真実を探る」で、講演に先立って亀川正東琉球大学名誉教授の挨拶があったがその冒頭でブラジル日系人社会の「勝ち組、負け組」の話をされた。

「集団自決」と「勝ち組、負け組」とは何の関係が有るのかと思ったが、さすが日本エッセイスト協会員でもある亀川教授、現在の沖縄社会のマスコミによる「情報閉塞状態」が、当時のブラジル日系社会の「情報閉塞状態」と酷似しているとを見事に指摘してくれた。

しかも、驚くことに「勝ち組」の中でもっとも熱狂的で「不都合な情報」に耳を塞いで、勝ち組にあらずば「非国民」と騒ぎ立て、殺人まで犯したのは日系人の中でも沖縄出身者社会だったという。

現在の沖縄の新聞を見ているとブラジルの「勝ち組、負け組」を例に出して現在の沖縄の情報閉塞状態を批判した亀川教授の慧眼に改めて感心した。

亀川教授は、沖縄県民の民度の低さを嘆き「沖縄県民として恥ずかしい」とも述べた。
 
■情報閉塞が起きる理由■

勝ち組の中でも沖縄出身者は特に熱狂度が激しく、敗戦を認める「負け組」幹部らに非国民としてテロ行為を働き、数十人を暗殺し、百人余りの負傷者を出したという。

この事件はブラジルの日本移民社会においては現在でもタブーであり、半世紀以上もの間、日系社会では封印されてきた。

今では二世、三世の間でさえ知るものは少ないという。

では何故このような情報の閉塞状態が起きたのか。

その原因は主に日本語による情報入手の困難性にあった。

60数年前の、しかも日本から遠く離れたブラジルの地で、ポルトガル語が分からず日本語しか話せない日本人移民は、新聞にも雑誌にも見放された状態で戦時中をすごした。

つまり当時の日本人移民は日本語は読み書きができても移民先では一種の文盲状態にあった。

それだけではない。

自分で判断することを避け、自分の主張(日本が勝った)にそぐわない意見(日本は負けた)には耳を閉ざした。

つまりブラジルの「勝ち組」は自ら情報の門戸を閉ざしていたのだ。
 
■自ら情報の門戸を閉ざす沖縄メディア■

連日沖縄の新聞を賑わす「証言」は全て一方のグループの主張に偏った証言で、反対意見の「証言」はまるでデマの如く扱い、まともに紙面に載ることは無い。

ブラジルでは戦後かなり経過しても「戦勝○年記念祝勝日」と称して戦勝を祝っていたというから、現在のブラジル日系社会がこの話を封印したくなる気も理解できる。

現在の沖縄の狂乱振りが「県民大会」の狂乱に留まらず、教科書の書き換えにまでエスカレートしたとしたらら、沖縄県民の子孫は後の世に、これを「県民の恥」として歴史から抹消、封印せざるを得なくなるだろう。 ブラジル日系社会の忌まわしい「歴史」のように。

沖縄移民が60数年前にブラジルで犯した大愚を、情報社会と言われる21世紀で再び犯してはいけない。

【追記】

狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては常態である

一人は個、二人は対、三人以上になると集団性を帯びる

集団は時に人を変えてしまう

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